17世紀初頭のロシアのホロープ対策
著者 石戸谷 重郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 28
号 1
ページ 67‑87
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル Холопские мероприятия в России начала XVII веак
URL http://hdl.handle.net/10105/2469
17世紀初頭ロシアのホロープ対策
石戸谷 重 郎
(歴史学教室) (昭和54年4月23日受理)
ま え が き
停年退官を1年後にひかえる筆者にとって、本稿は本学紀要への投稿としては,最後の第23番 めのものとなる。このことを意識して、いかなるテーマを取り上げるかについて考えさせられた。
昨年度本学紀要の拙稿の冒頭にも述べたように,ここ数年来筆者の関心は,主に15‑17世紀ロシ アにおける農民史の諸問題に向けられている̀1)。他方、昨年秋以来,歴史学研究会依頼の「中世 ロシア都市論」は、筆者の眼を農村から都市に向けさせ、関連する諸問題のせめて一つなりとも、
この機会に深く追究してみたいとも考えた(2)。しかし、筆者が比較的長年にわたって主に扱って きたのがロシア史におけるホロープ(奴隷、非自由人)についての諸問題であり、その追究の過程 で学界誌に負うところ大であった反面(9編¥(3)、本学紀要にもしばしば発表の機会を許されて
きた(lo稲(4) これに対する感謝の意も含めて、また筆者のホロープ史研究の補遺の必要もあ って、許されたこの最後の機会をあえてホロープ史に関するテーマに当てることにした次第であ る(S)。
ロシアのホロープ制度(社会構成としての奴隷制ではない)は、ロシア最初の法典「ルースカヤニ ブラーヴダ」にすでに条文化されているが、 16世紀末には、従来の「完全ホロープ」に対して
(これが廃止されたのではない),新たに「債務ホロープ」 (「カバーリヌイ‑ホロープ」)という不完 全隷属(たてまえとして「主人の死」とともに解放)のホロープがつくり出され、農奴制立法化を完 成した1649年法典では、ホロープとしてはこの債務ホロープが主な規定の対象になっているO こ のような過程のなかで、 17世紀初頭の「動乱期」は、農民史にとってと同様に、ホロープ史にと っても特別な意味をもつものである。およそ10年の問に、ホロープに関する法令が矢継ぎ早に発 布されているのである。それが動乱に由来しているであろうことは、十分に想像できる。動乱の 具体的様相としては、凶作と飢鍾(1601‑1603年)、フロブコの乱(1603年)、偽ドミトリー1世 の帝位賃奪(1605年)、イヴァン‑ボロトニコフの農民戦争(1606‑1607年)、偽ドミト蝣J‑2世 のモスクワ進軍(1609年)、外国軍隊の侵入と干渉(1609‑1612年)などがあり、その際帝位に ついた者も、偽ドミトリー1世のほか、ボリスエゴドゥノフ(1598‑1605年)、ワシーリー‑シュイ スキー(1606‑1610年)、ポーランド国王の兼任(1610‑1612年)と相ついだのである。これら の諸事件は、その都度、政府のホロープ対策に影響を与えたとはいえ、本稿ではそれを逐一追究 するいとまもないし、また課題とするものでもない̀6'。本稿の主たる目的は、動乱期に発布さ れた個々のホロープ法令を的確に把握し、その上で動乱期のホロープ対策を全体として性格づけ ることにある。ために、特定の法令について深く追究することをやめざるを得ないであろう。考 察の対象とする諸法令とそのテクストを、法令発布の年代順に示せば、次の通りである(以下、
67
これら諸法令に関する限り、注でテクストをあげることを省略する)0
(1) 1603年8月16日法令nPn, IV<7), c. 375 ; BoccTaHHel8), c. 76.
(2) 1606年1月7日法令npn, iv, c. 376‑377; BoccTaHHe, c. 77‑78.
(3) 1606年2月1日法令npn, iv, c. 540‑541 ; BoccTaHHe, c. 78‑79 ; XpecroMaTHH191,
c. 250‑252.
(4) 1607年3月7日法令nPn, IV, c. 376‑377; BoccraHHe, c. 210‑211.
(5) 1607年3月9日法令nPn, IV, c. 586‑589 ; BoccTaHHe, c. 211‑214 ; XpecTOMaTHH,
c. 293‑296.
1608年2月25日法令npn, iv, c. 377‑379 ; BoccTaHHe, 228‑229.
(7) 1608年3月9日法令nPn, IV, c. 380‑381.
(8) 1608年3月19日法令nPH, IV, c. 379.
(9) 1609年5月21日法令nPn, IV, c. 379‑380.
1609年9月12日法令npn, iv, c. 377.
1611年6月30日決議XpecTOMaTHH, c. 328‑334.
われわれは、ホロープ史上の諸問題を考察するに当たり、つとめて原史料主義をとってきた。
例えば、 14‑15世紀の諸侯問条約、 15‑16世紀の遺言状、 16世紀末の古い証文の「登録帳簿」な どである。しかし、ホロープ制度の考察には、まず制度そのものを法典・法令の類から明確にす ることが要求されるわけで、 1649年法典第20章に特別な関心を寄せたのも、この故である。いま 本稿も1597年ホロープ法令から、この法令が発展・拡大せしめられて1649年法典に定着するにい たるプロセスのなかで、 17世紀初頭こそまさに試練の秋であった、との見通しの上に立っている。
当時の諸法令の実施如何に関しては、 1912年に発見されたノヴロドの「カバラー登録帳簿」が利 用さるべきであるが、われわれはその刊行された部分(1938年刊、以下H3KPくと略記)しか直接に は利用できない(10)。未刊の部分については,ヤコブレフ(ll)および現代ソビェト学界におけるホ ロープ史研究の第一人者バネヤフ(12)の集計(あるいは引用)に依りたいと思う。
1飢鯉とフロブコの乱に対するゴドウノフ政権の対策
1601‑1603年の凶作・飢鐘については、そのころモスクワに滞在していたドイツ人コンラド‑
ブソフも、 「多くの子どもたちがかれらの両親によって、また両親が子らによって、客が主人に よって、主人が客によって、殺され、切りさいなまれ、そして煮られた(1)」と述べている。ボリ スエゴドウノフの政府は、早くも1601年11月3日に穀物の買占めや隠匿を禁ずる勅令を出し(覗 在に伝えられるのはソーリ‑ヴィチェゴロドスカヤ地方に対する勅令のみ<2>)、同年11月28日にはかの「ユ ーリの日」の農民移転を条件を付してではあるが、復活させている(3)。これが緊急の対策であっ たことは、 「ユーリの目」すなわち11月26日を過ぎてから発布されたことからも推察できるが、
翌1602年の11月24日には、凶作・飢鍵が依然たる情勢によって、再び同じ趣旨の勅令を出してい るのである̀4'。そして、明けて1603年の夏、ホロープについても勅令を出すにいたった。これが すなわち、 1603年8月16日法令である。
法令は、その第1条において慨存写本には条項区分なし npn. ivの区分に従う。他の諸法令につ いても同じ)、ホロープの主人なる貴族・士族・官庁人・商人らが自分のホロープを「やしきから 追放した」 (CCblJiajIH 3 ABOpa)ことを指摘し、それをやめてホロープに「解放状を与え、証文
を返すように」 (;iaBa.nH OTnycKHbie h KpenocTH bhAaBajiH)指示し、第2条では、これが主人 側によって実行されないときは、主人の手によらずに当局が「ホロープ庁で解放状を与える」こ とを宣言し、最後の第3条では、そのホロープ庁における解放状交付の手続をもっと具体的に示 すとともに、この法令の趣旨を全国に徹底させることを命じている。以上が, 1603年8月16日法 令の骨子であるが、その意味をもう少し詳しく考察しよう。
「追放する」とは、二つの意味をもっている。一つは、上述のように、正規に解放の手続をと らず、 「自ら糊口をしのげと命ずる」 (BeJIHT KOpMHTUa COOOK))ことであり(第1条)、もう一 つは解放による主人側の権利放棄を回避して、 「後にかれらを〔自分の〕ホロープとして所有す ることを欲して」 (XOTHT 3a HHX Brlepe/i b xojioilcTBe HMaTua)である(第2条)0 「追放」が 当時ホロープ主人側の好策であったことについては、同時代人アブラミー‑パリ‑1ツインも指摘し ていて、 「大飢鯉のときに当たって、すべての人々(主人をいう‑引用者)が、多くのチェリャジ (ホロープ‑引用者)を食べさせることができないと見て、奴隷を解放しはじめた」 「ある者は真実 に解放し、ある者は見せかけだけ(,7IHUeMepCTBOM)解放した。兵実に解放する者は〔ホロープ に〕自分の手による文書と確認をもたせ(c HanncaHHeM h 3a yTBep^KAernieM pyKH CBoe兄・解放状交付 をいう‑引用者)、見せかけだけ解放する者はそうでなく、家から追放するだけであった(tokmo H3 AOMy H3rOHHT(5')」と述べているのである。政府が「追放」を排して「解放」を選んだ理由 は、条文のなかにも読みとれるのであって、追放されたホロープは「餓えのため死に瀕している (noM叫jaioT tojioaom)、 ・・・解放状をもっていないことによって、何びともかれらを採らない」
(第1条)という実情を指摘した上で、法令は、 「それらのホロープが餓えのため死なないよう に」 (mto6 Te xojionn rojioAom He noviepJiH,第3条)、ホロープ庁での当局による解放状交付 を指示しているのである。問題の一つは、その解放状の交付の手続である。諸都市のホロープは、
モスクワのホロープ庁に出向いて、 「主人」 (rocyAapH)がかれらを、解放状も与えずに追放した と「陳述」 (cKa>KyT)するだけで条件は充たされるのであり(第3条)、主人がモスクワにいる ホロープについて「逃亡」かどうかを「執行官」 (HeAfiJIbLUHK)が取調べる(第1条)のと異って、
ホロ‑プにきわめて有利な規定であり、ホロープ法の伝統的原則にも背き、政府がホロープに大 きな譲歩をしている、といわなければならない。しかも、法令はその末尾において、一般の法令 には例をみない法令の趣旨徹底をとくに指示して、 「それらのホロープが、解放状のために、ホ ロープ裁判庁に来るように、諸都市で1日だけでなく叫び知らせること(KJiHKaTH He no oArlH AeHb)」を命じているのである(第3条)。ホロ‑プに政府自身が逃亡をすすめているのではない か、とさえ思わせる規定である。政府が凶作・飢経のためにとった人道主義的なホロープ対策、
とばかりいえない面もあるように思われるのである。すなわち、この法令発布のころに勃発した、
ホロープを中心としたフロブコの乱への対応策、とする見方がこれである。勿論、この反乱のみ に1603年8月16a法令の基因を求めるのは、行き過ぎでもあるので、凶作・飢鯉とフロブコの乱 と(この乱自体が凶作・飢塵によってひき起こされたといえる)、両側面から見ることにしよう。
1602‑1603年のカバラー登録帳簿、すなわちH3KK (既述)を他の年の帳簿と比較すると、例 えば、次のことが知られる。
㈲ ベジェツカヤ州のベロゼルスカヤ半州では、ホロープ1人当り平均債務額(不完全ホロー プ‑の身売り金と考えてよい)が、 1593‑1594年が2. 67ルーブリ、 1594‑1595年が3.63ルー
ブリであるに対して、 1602‑1603年は、 0.95ルーブリ、その翌年1603‑1604年も1.11ルーブ リと低く、 1607‑1608年でも1.75ルーブリにすぎない(6)。すなわち、動乱期に低下している
が、とくに凶作・飢鐘のときにホロープ価格が低下している。
(Lう この傾向は、同州のトゲェルスカヤ半州、ジェレフスカヤ州でも全く同じである(7)。
つまり、ホロープ労働力が買いたたかれている情況が明白に示されている。
1603年の登録帳簿は、 8月16日法令以後の登録を伝えていないので、法令がどのように実施さ れたかを確認できない̀8'。ここでは、 1601‑1603年の帳簿のなかから、凶作・飢鯉の反映の事例 を2・ 3あげておこう。
(う 1601年12月18日。トレチャクエナジモフは、 「自分の債務ホロープ」 4人を「自由に解放し た」が、同じその日にかれら4人は商人ピョートル=イサコフの債務ホロ‑プになった。そ の理由として「年きて行く手段がない、自活できない」 (npOKOpMHTbC刃HeHHM, a COOOIO npOJKHTb He MOHHO)ことがあげられている(9)。
CO 1602年(月日不詳)Oオフォナシ‑‑マクシモフは、「こく物価格高騰のため」 (A刀刃x,/ie6Hbie 4OpOrOBH3Hbl)自分の債務ホロープを」養っていくことができず」、自由に解放した(10)。
㈲ 1603年3月13日O オフイムカとその妻は、パーヴェル=ザゴスキンの債務ホロープになっ たが、旧主コンドラートーーネシポフは、 「飢鐘のため」 (AJin rojiojiy)かれらを解放した(ll)。
さて、フロブコの乱についての詳細は伝えられていない。 「新年代記」は、凶作・飢鯉のため 各地に略奪・強盗が横行し、モスクワ近くでも同様の事態が起こったことを述べ、その「首儀」
(cTape崩uHHa)を「フロブコ」 (X^oriKO)と呼んだり、 「フロープ」 (Xjion)と呼んだりして、
実名を伝えていない(lz)O この名がホロープに由来することは疑をいれず、ホロープを主力とす る反乱であったことが考えられる。ホロープが主人の側近で奉仕もしたこと、武具をも貸与され て従軍したことも想起すべきであろう。 「新年代記」によれば、皇帝ボリス=ゴドウノフは、貴 族たちの進言によって「多くの軍勢」をイヴァンエフヨードロヴィチ‑バスマノフの指揮の下に 派遣したが、 9月にバスマノフ戦死の犠牲を払って、乱は鎮定されたのである 1603年8月 16日法令発布のころ、政府はフロブコの乱の脅威にさらされていたと考えることができよう(14)。
この法令が、上述のように、従来のホロープ立法に見られないようなホロープ優遇、原則にもと る有利なホロープの扱いを指示していることは、たんに凶作・飢鮭のためとのみは思われないの であって、クシェワ,スミルノフ、ジミン、コレツキー、バネヤフらが異口同音に述べているよ うに(15)、ホロープに「自由のきざし」を約束して反乱陣営を分裂させようとしたものである。
従って、長い眼で見れば、非常に処するための一時的対策であった、といわなければならない。
その意味では、 17世紀初頭動乱期ホロープ対策を先駆的な姿で示したもの、と評価できるであろ う。
2 偽ドミトリー1世の二つの法令
1604年8月にポーランドの援助のもとにロシアとの国境を越えた偽ドミトリー1世は、翌1605 年6月29Elにはモスクワで正式に帝位につくことに成功し、 1606年5月17日に暗殺されるまでの およそ1年間ロシアに君臨し、その間ホロープについての1606年1月7日法令を公布し、また農 民に関する1606年2月1日法令でホロープにもふれるところがあった。
1606年1月7日法令は、第1条でスルジーラヤ‑カバラーの書式について、複数の主人を禁止 して、 「父を息子とともに」「息子を父とともに」「兄弟を兄弟とともに」「おじを甥とともに」主 人‑債権者として記載することをやめて、 「別々にカバラーを書く」 (nHcaTH KaSajiu nopo3Hb)
ように指示し、第2条では、複数の主人を記載しているカバラーによって主人側がホロープに対 する権利を主張しても、主人側‑原告を「拒否し」、ホロープを「自由に解放すべし」と指示し ている。債務ホロープが完全ホロープと区別されるのは、主人側がかれらを相続できない点にあ り、 1597年法令第4条にいう通り、主人の「死まで」にその隷属は限定されるのである。しかし、
カバラーに複数主人が記載されているときは、主人‑父が死亡しても主人‑子は依然としてホロ ープに対する権利をもちつづげ、ホロープは自由に解放されることはない1597年法令以前でも 複数主人の記載はかなりの数に達し(厳密にいえば、その段階では債務者はなお返済によって自由を得る 可能性をもっていた、ただしカバラーの基本的書式は法令以後にも変化なし)、バネヤフの算出によれば、
963通のうち99通、つまり10%を越えるカバラーが複数の主人を記載している̀1)。この点につい て1597年法令は特別な規定をしなかったので、同法令以後も法令を迂回して(違反ではない)複数 の主人を記載するカバラーがあとを絶たず、バネヤフが未刊の登録帳簿をも含めて集計した結果 によれば、 1598‑1604年の期間で、ノヴゴロド市でこそ低くなっているが、ベロゼルスカヤ半州 やジェレフスカヤ州ではつねに10%を軽く越え、ときには24%に達している年もある̀2)。このよ うな実情に対して債務ホロープが不満をもち、紛争が起こりやすかったわけである。ここに1606 年1月7日法令公布の因由があると思われるが、実は法令の条文には明確さを欠いている部分が
あって、ために論争になったこともあるのである。第1条は、上述のように、父子などが「別々 にカバラ‑を書く」と示していても、その意味については「父には別のカバラーが、しかるに息 子には別のカバラーが」 (OTuy onponeHHa兄Kaoa^a, a cbmy onpHiueHHan Ka6a.na)と示すに
とどまっている。問題は「別々に」あるいは「別の」という意味が、 (1)別々に、しかし「同時 に」作成することを許しているのか、それとも、 (2)別々にとは、主人‑父の死後に時を異にして のみ作成が認められるという意味なのか、である(「書く」 「作成する」といっても、ここには詳述しな いが、特定範囲での代書人が作成するのみならず、提出されたカバラーを承認して帳簿に記載するかどうかの 権限は、当局に振られている)。つまり、たしかに1通のカバラーに、例えば主人‑父子の名を記載 することは禁止されたが、 2通を同時にか、あるいは2通のうち1通は主人‑父の死後にはじめ てかで(この場合には債務ホロープの意志が尊重され、かれらは拒否もできる)、法令は全くち がった意味をもってくるのである。 (1)の場合は、かえって主人側に有利となり(世襲・相続の合法 化)、 (2)の場合はホロープに有利となる。ウラジミルスキー=ブダノフ以来、法令の趣旨を(2)に見 る立場が有力であったが、ジミンやスミルノフによって(1)が強調されたこともある。しかし、後 に両者とも見解を訂正し、バネヤフも「同時に」 2通のカバラーが作成されている事例は、帳簿 にも発見されていないなどの理由をあげて、 (2)の立場、つまり1601年1月7日法令はホロープの ため、という立場を表明している(3)。債務ホロープの隷属は主人の「死まで」、という1597年法 令の精神をさらに徹底させようとしたもの、と理解するのが妥当であろう。
偽ドミトリー1世政府のもう一つの法令、 1606年2月1日法令は、逃亡農民に対する追求期限 と逃亡時の情況判断に関するもので、それとの関連で逃亡先きでのホロープ身分に言及している。
法令は、 「7110年から7112年までの間に」、つまり西暦1601年から同1604年8月末までの問に、別 言すれば、既述の凶作・飢鑑の時に逃亡した農民が旧主のもとに連れ戻さるべきことを指示し、
末尾で「しかるに、 5年を越えるとき、逃亡農民に対する訴えには、古い決定によって(1597年 の農民法令をいう一引用者)、裁判を与えない」ことを再確認するとともに、 5年末満の場合でも、
当時「貧困のため」 (OT 6eAHOCTH)逃亡した者については、 「飢鉦のときに食べさせた者」 (XTO
rojioAHoe BpeM只nepeKopiumi)、つまり逃亡先きの主人のもとから連れ戻さない、と指示して いる。逃亡先きでは農民またはホロープたるかを問わないことにしている。ただし、逃亡先きの 主人のホロープと認めるかどうかの条件には、上のほかに、 「モスクワまたは諸都市で帳簿に登 録されてある」こと、という17世紀ホロープ制度の原則が加えられている。ともあれ、この法令
は、凶作・飢醇の後始末の一つとして、農奴制国家の体制を一時的に緩和しようとしたもので、
偽ドミトリー1世のモスクワ進軍を支持した南方地主(逃亡先き地主)の利益をも考慮に入れた、
と見てよいであろう。
3 シュイスキー政権の動乱対応策
皇帝ワシーリー‑シュイスキー(1606年5月‑1610年7月)の名で公布されたホロープ法令は 計七つに達し、その最初のもの、 1607年3月7日法令が、最後の1609年9月12日法令によって徹 回されたことは、動乱期ホロープ対策の朝令暮改的性格の好例である。シュイスキ‑政権に脅威
となったのは、ボロトニコフの反乱(1606年夏‑1607年10月)および偽ドミトリー2世の出現と そのモスクワ進軍(1607年夏‑1609年冬)であるが、政府はボロトニコフ反乱のさ中に1607年3 月7日法令と1607年3月9日法令を出し、さらに反乱鎮圧後に事後措置と偽ドミトリー2世への 対策の意味も含めて1608年2月25日法令を公布している。その意味で、本節では七つの法令のう ち、まずこの三を中心に考察する。
1607年3月7日法令は、その冒頭にも述べているように、 「自由意志のホロ‑プ」 (AOSpOBOJIHbl員
Ⅹo刀on,正規の証文なしに、つまりスルジーラヤ‑カバラーなしに奉公しているホロープ)についての規定 で、情況設定は、
「ホロープとして自由意志で半年または1年、もしくはそれ以上奉公し(lIOC.fly>KHT B XOJIO‑
nex ^oopoBOJibHO, nojiroAa, hjih ro/i, hjih oojiluh)、しかるにホロープ身分において出生し たのでなく、かれらの(主人の一引用者)スタリンヌイ=リュージーでなく、しかるに、それら のホロープが自分に対するカバラーを自分の主人に与えることを欲しないとき(a Iくaoaji Ha
ce6fl Te xojionH rocyAapeM cbohm ^aTil He IIOXOTCJIH)」
と示されている。二つの点が注目される。第1は、 1597年法令第10条と異なって、認められる カバラーなしの奉公期間が「半年以内」ではなくて、 「1年またはそれ以上」にも及んでいるこ と、極端にいえばいかに長年月の問奉公していようとも、 「自由意志で」であれば、カバラーを 出さなくてもすむ可能性が与えられていることである。周知のように、 1597年法令では、 6か月 以上カバラーなしに奉公している者に対して、主人側は強制的にでもカバラーを取り得る、と定 められている1649年法典になると、この期問はさらに短縮されて「3か月」になっている。こ れらを考え合わせると、 1607年3月7日法令は一時的とはいえ、自由意志のホロープに大きな譲 与を示している、といわねばならない。第2点は、本来のホロープ(完全ホロープと債務ホロープ) を除外していることで、たとえカバラーなしに奉公しているにしても、その主人のもとで、ホロ ープの子として生れている者、および「スタリンヌイ‑ホロープ」は、自分の意志・希望にかか わらず、カバラーを取られるのである。 「スタリンヌイーーホロープ」とは、 「古いホロープ」の意 であるが、いわゆる「スクリナー」 (「古さ」)によって主人に隷属し、主人から解放されないホロ ープである 1597年法令がすべてのホロープ隷属・ホロ‑プ所有を正規の証文(完全ホロープに ついては身売り状、分配状等々、債務ホロープについてはスルジ‑ラヤ‑カバラー)によって管理・統制
しようとしたにかかわらず、このえたいの知れない「スタリンヌイ=ホロープ」がすでに法令の なかに公然と登場していることに注目しておきたい(1649年法典では債務ホロープに対立するものとし て頻出する)0
さて、上のような情況設定は、主人側が、自分のもとに奉公している(あるいは奉公していたが 他の主人のもとに立ち去った)自由意志のホロ‑プからカバラーを取ろうとするとき(もしくは他の主 人のもとから連れ戻そうとするとき)のことであるが、官憲の尋問に対して(主人とホロープの合意の ときでも尋問は行われる)本人が「今後カバラーによって奉公することを欲し、自分に対するカバ ラーを与える」というときは、問題もなく、法令は「以前の君主の法令による」 (no npe>KHeMy CBoeMy rocyノjapeBy yKa3y)と指示するにとどまる。問題は、本人が拒否するときであって、
この場合の措置こそ1607年3月7日法令の眼目なのである。すなわち、
「ある自由意志のホロープが尋問において‑・カバラーを与えることを欲しないと述べるとき、
自由意志のホロープに対し、非自由に渡さないように命ぜり。しかるに、それらのリユージ‑
にカバラーを拒否するように命ぜりO カバラーなしには、一日といえどもホロープを抑留すべ からず。しかるに、カバラーなしに抑留し扶養したとき、それは自らの損失である。」 (6yAeT
KOTopue 」06poBOJiHbie xojioiih b pocnpoc cKa〉Kyr, 4TO‑ Kaoaji aaTU He xot只T, H Ha
^oSpOBOJiHbix xojioneft b hcbo^ioノIaBaTH He Bejieji, a Bejien hm tcm jiio^eM b iくaoa^ax OTKa3bIBaTH : He Aep>KH xcnona 6e3 Kaoajibi hh OAHOBO JHH, a Aepサaji 6e3iくaoajiHO h
kopmhji, h to y ce0月caM ilOTepHJl.)
と指示している。ここには省略したが、ここでもう一度「半年、 1年、またはそれ以上」奉公 していることを本人が認めても、カバラーを出すことを本人が望まないときは、 1597年法令と異 なって、主人側の要求は拒否されるのである。上の条文は、かの1551年10月11日法令を想起させ る。そこでは、証文なしに奉公した者が立ち去り、旧主人が立ち去りを不当とし、また「持逃 げ」 (CHOC)の弁償をも請求して裁判に訴えるときについて、 「自由意志のチェロベーク(隷属 民一引用者)を信用し、証文(KpenocTb)なしにかれを自分のもとに抑留したことにより」旧主 側の訴えを退けるとともに、 「持逃げ」を旧主側の損失としている。この点に関する限り、 1607 年3月7日法令は、 1597年法令を廃止したものであり(3㌧ 1551年法令への復帰を企てたものであ る141.
1597年法令は、 17世紀ホロープ制度の基本的出発点として大きな意味をもっている。いま、自 由意志のホロープに限るとはいえ、その一角が重大な変更を受けたのである。バネヤフは1607年 3月7 E]法令が実施されたかどうかについて疑問をもっている。かれは、 1607年10月14日‑1608 年8月1 ljのカバラ‑登録帳簿(未刊)(5)を検討して、自由意志のホロープが改めて主人にカバラ ーを出した場合19通を検出し、全体の24%に当るとし、 1599‑1600年(18通、 14.2%)、 1600‑
1601年26通、 20.8%)、 1601‑1602年(52通、 16.A%)、 1603‑1604年(27通、 14.3^)と比較し ても、むしろ多い、かれらは従前通りカバラーを強制された、と見ている(6)。たしかにこの数字 を無視できないであろう。しかし、自由意志のホロープがカバラーを拒否したケ‑スがいかに多 くあったにしても、それは史料に、つまり登録帳簿には全く痕跡をのこさないのであるから、一 概にバネヤフのようにはいいきれないと思う。ホロープに対するこの重大な譲歩は、なお勢力を 保っていたボロトニコフ反乱によってであり、 「反封建闘争に参加していた農民・ホロープの陣 営を分裂させるため」 (ジミン)、 「ボロトニコフ陣営へのホロープ参加をくいとめるため」 (スミル ノフ)などと評価されている 1607年3月7日法令は、真実にホロープのためを考えたのでな
く、またホロープ制度の一部を変革しようとしたのでもなく、ホロープが重要な、あるいは中心 的な役割を果たしていたポロトニコフ反乱への対策であった、とする一般的見解を支持すべきで あろう。
自由意志のホロープについての法令の後わずか2日めに出されたのが農民移転禁止を中心にし た1607年3月9日法令で、これはしばしば「会議法典」 (CO60pHoe yjioweHHe,ただし1649年 法典もこの名で呼ばれている)と呼ばれるほどに、大主教や聖職者会議にはかって「決定し制定 した」もので、その後半部にホロープについての規定ももっている。この法令は、かなり長い前 文で農民移転禁止の立法史にふれていること、および逃亡農民に対する追求権の根拠を土地台帳 におき、かつ追求権の期限を15年にしていることなどによって、動乱期諸立法のなかでは最も注 目されているものであるが、いまは農民の問題に深入りしない。
この法令のホロープに関する部分は、一口にいえば結婚についてであって、
「ある人々が、ラーバ(女奴隷‑引用者)なる娘を18年間、若い寡婦を夫の死後2年間、しかる に独身の相手を(napH兄xojiocTaro) 20年間抑留し(隷属させての恵一引用者)、しかるに結婚 させず、かれらに自由を与えず(He >KeH月T H BOJIH HM HeノIaioT)、その娘、寡婦または相 手が役所に赴き(訴えること一引用者) ‑・その年限が経過していること、主人がかれらを結婚さ せないことが〔取調べの上〕明らかになるとき」
という情況が設定されている。 「18年間」 「20年間」というのは、これらの者がその主人のもと でホロープとして出生しているからである。法令は、このような場合について、モスクワおよび 各都市で当局が「解放状を与うべし」と指示している。つまり、ホロープ同志の結婚の自由、た
だし同じ「主人」 (rocyAapt.,条文はつねに単数形を用いている)の隷属下のホロープ同志の問でのそ れを認めさせようとしている。法令は、かれらが逃亡している、とい情況を考えているようであ る。というのは、第1に「結婚を認めよ」ではなくて、いきなり「解放状を与えよ」と指示して いるからであり、第2には、逃亡者についての紛争あるいは裁判につきものの「持逃げ」のこと がいわれているからである。主人側の訴えは「拒否し、裁判を与えず」と指示されていて、その 理由も示されている。すなわち、 「神の錠と聖なる父の定めのもとに」結婚していないものを抑 留すべきでない(He ^ep>KH He weHaTbix)、人々の間に淫乱と不道徳(ojiyノI H CKBepHO ^e只HHe) が増加しないように」と述べている。ホロープの結婚の自由をこのような理由をつけて強調して
いるのは、法令制定に参加した聖職者たちの意見が取り入れられた結果、と見るべきであろうが、
この条項は、漠然と結婚一般について規定した、というよりは、結婚のためにホロープが逃亡し た場合について、 「解放状を与えよ」と定めている、と解すべきであろう。上述のように、この 1607年3月9日法令は、農民移転禁止と追求権期限15年を主目的にしているが、それとの関連で 逃亡についても指示すること少なくない。とくに、結婚のため逃亡したホロープについての条項
につづいて「農民、またはホロープ、またはラーバ」というように、農民とホロープを列記して、
その逃亡、逃亡者受け入れの禁止などについて規定している。詳細を省くが、一つだけ指摘して おきたいのは、追求権期限について、農民のみならず(農民については法令のはじめの部分ですでに 定めている)、ホロープにも15年を通用していることである。すなわち、
「しかるに、この法典(yjio>KeHHe)以後、農民またはホロ‑プ、またはラーバが、自分の主 人から逃亡して他の〔主人の〕もとに到るとき、主人は〔逃亡後〕 15年以内に自分のホロープ、
ラーバおよび農民を〔当局に〕訴えるものとする(HCKaTH),しかるに、 15年を越えるときは、
訴えない、また裁判を与えない。」
と定めている1597年農民法令の追求権5年が15年延長された、という意味で注目されている この1607年3月9日法令は、見らるる通り、それをホロープにも適用している。本来、ホロープ の逃亡にとっては、追求権期限なるものはなく、かれらは無期限に追求されるのである。それが このような形で「15年」とされたのは、農民についての新規定にひきこまれたとも見得るが、こ の法令が農民については従前よりは緊縛を強化しているのに(5年‑15年)、ホロープに関しては 逆に隷属を緩和していること(無期限‑15年;結婚のための逃亡の公認)は注目に価しよう。ホロー プに対するこの配慮をボロトニコフ反乱にのみ結びつけてはなるまいが、反乱鎮圧後もなお社会 不安に対する施策としてホロープへの譲歩を示す法令を公布していることを考えると、 1607年3 月9日法令のホロープ条項の背後にボロトニコフ反乱におけるホロープの活発な動きを見ないわ けにはいかないと思う。
1607年10月にポロトニコフ反乱は鎮圧されおわった。しかし、その夏からすでに偽ドミトリー 2世の南方ロシアにおける出現が伝えられ、その軍勢は年を越えて次第に勢を増しつつあった。
こういう情勢のもとでシュイスキー政府が、 「責族の決議」という形で出したのが、 1608年2月 25日法令である。かなり長文のもので、ジミンによって4か条に区分されており、最も重要なの
は第1条なので、第2‑4条をさきにペっ見しておこう。
第2条は、偽ドミトリー1世時代(1605年6月‑1606年5月)に端を発するホロープ所属の問 題で、 1世は「破戒僧」 (PocTpHra)の名で呼ばれている。当時、 1世によって「追放された」
(b onajie)士族たちのホロープは、ホロープ制度の原則によって自由を取得し、 「ホロープ裁判 庁より解放状が交付された」のである。偽ドミトリー1世への反動として成立したシュイスキー
政権に対し、追放から解除された士族たちは、 「古い証文によって、解放されたそれらの自分の リュ‑ジーに対する」 (Ha Tex OTnymeHHbix cbohx jnozex‑ no cTapbiM iくpenocTHM)権利 の復活を願い出ているのである。第2条の結論は、解放状が交付されていない場合は別として、
「破戒僧のもとに交付された解放状を信頼すべし」と指示して、士族らの要求を拒否している。
士族の追放が不当であったにしても、解放状の有無はホロープの自由・非自由にかかわる重要な 原則であり、ましてホロープに有利をいちおうの立て前としていた当時にあって、この原則が貫
かれたのは、当然であろう。政府は、主人側よりも、ホロープの側に立ったのである。
第3条は、逃亡ホロープについて、旧主が現在の(逃亡先きの)主人との問に裁判をおこし、法 廷出頭E]までにそのホロープが現在の主人のもとからさらに逃l=したときについての規定で、現 在の主人が逃亡の事実を宣誓によって主張するときは、これに従うことを定めている。
第4条は、さきの1607年3月7日法令にも言及されている「スタリンヌイ‑ホロープ」を主題 とするもので、旧主のもとでカバラーなしに奉公していたホロープが、立去り先きの新主人の もとでは正規にカバラーを出して奉公しているときの問題である。旧主が「自分のホロープをホ ロープ裁判庁に訴え」、 「かれらをスタリンヌイ‑ホロープと呼び、しかもかれらに対する証文を
〔法廷に〕提出しない(KpenocTe員Ha hhx He KjiaAyT)」とき、第4条は、旧主を敗訴とし、
カバラーを法廷に提示する「新主人」 (HOBbie rocyAapH)を勝訴とし、 「ホロープはカバラーに よって隷属する」 (xojioriH no Ka6ajiaM BHHHTua)と指示している。これは1597年法令以来の 原則にはちがいないが、軍実には17世紀に入ってからは、主人側に有利なスタンリヌイ‑ホロー プ(証文・カバラーなしでもホロープを拘束できる故)が次第に裁判で勝ちを占めるようになっている。
それが、いま1608年2月25日法令第4条では、ホロープ側に有利な規定となっているのである。
第4条の意味は、この条項が同じ年1608年3月19日法令では、皇帝ワシーリー=イワノヴィッチ (シ3.イスキー)の名で再確認されたにかかわらず、 1609年5月21日には廃止・徹回されたこと との関連で把えらるべきである。すなわち、 「スクリナ‑」を認めない、という方針は、一時的 な方策にすぎなかったのである。
さて, 1608年2月25日法令第1条は、 「各地の多くの都市」の士族が皇帝とホロープ裁判庁に 請願を出し、それに答える形で貴族の決定がなされたものである。請願は、ボロトニコフ反乱に 加ったホロープや士族を問題にしているので、全文を示そう。
「かれら(士族を指さす一引用者)は、モスクワ、セルプホ7、トゥーラ、およびその他の諸 都市で、謀反の])ユージーを牢獄から手許に保釈に引き取り、分配した(HMajIH HC TK)peM ce6e Ha nopyKH H3MeHHHbHx JiKD^e蕗‑, h HaAejiHJin)。しかるに、牢獄から保釈に引き取っ た後、かれら(謀反のホロープー引用者)に対して自分の名に対する(士族を主人としての意‑引用 者)スルジーラヤ‑カバラーを取った。しかるに〔かつて〕謀反にあったかれらの旧主(era‑
pwe hx 60月pe, KOTopue 6biJM b bi3MeHe)は、いま君主の追放が赦されて、それらのホロー プを捕え(HMefOT)、古い証文によってかれらに対しホロブストウォを主張している(HLUyT Ha hhx, no CTapbiM KpenocTaM, xcwonctBa), 」
いうところの「謀反」とは、スミルノフの指摘を待つまでもなく(8㌧ ポロトニコフ反乱を指さ し,乱鎮圧後に参加ホロープは投獄され、参加士族は追放に処せられたのである。ところが、ホ ロープ労働力を必要とした一般士族は各地の牢獄から謀反のホロープを引き取り、あまつさえカ バラーさえかれらから取っていた。これに対して、やがて追放を恩赦によって免除された旧主た ちは、以前かれらが取っていた古いカバラーによって、自分たちのホロープ所有権を主張してい る。請願した士族たちは、旧主のホロープ所有権が拒否されることを期待していたのである。こ れに対する貴族の決定は、直接の回答をしていない(9)。偽ドミトリー2世のモスクワ進軍が伝え られる情勢のなかで、むしろ偽ドミトリー2世の側にホロープが走ることを恐れ、それへの対応 を中心にしているのである。これは、まさに的外れの回答であるが、それだけ偽ドミトリー2世 の出寛とモスクワ進軍に周章狼狽している姿が写し出されている、ともいえよう。上の士族の請 願には記されていない「解放状」のことが、この回答には取り上げられている。どのようにして 謀反に加わったホロープに解放状が与えられたかは、回答からは推察できない。何れにせよ、解 放されたホロープが、偽ドミトリー側に走るのを予妨し、自ら降伏を申出ることをすすめて、回 答‑決議は、次のように指示している。
「‑しかるに、その後において再び謀反(ここでは〈BOpOBCTBO〉の語を用いている一引用者)に走 るとき、現場で捕虜として(HaノIejie, b月3bimex)かれらを捕えるとき、かれらを処刑するか (Ka3HHTH)、または、証文によってかれらの旧主に引き渡し、以前の解放状を信用しない.し かるに、ある者が今の謀反から(c HbiHeuiHero BopoBCTBa)自ら君主のもとに来るときは、
(npHDe>KaT)、それらの者を旧主に引き渡さない(Tex cTapbiM hx SojipoM He OTAaBa‑rn)、
かれらが自ら罪を着たからである(caMH npHHeCJIH BHHy CBOK)),」
この条文から読みとれるのは、ホロープを旧主に渡すか渡さないかを、賞罰のきめ手にしてい ることである。ホロープがいかに主人への隷属を束縛と感じていたかが推察されるのである。か
くて、 1608年2月25日法令第1条は、一面においてボロトニコフ反乱の影響、余波を如実に示し ているとともに、他面において、迫りつつある偽ドミトリー2世の脅威への対策の一つを具体的
に示しているのである。皇帝側に帰投すれば解放(ロシアのホロープ制度では、主人なきはすなわち自 由人を意味した)、という点に、ホロープへの譲与が、非常対策としてとられていることが見られ るのである。
1608年3月9日法令̀10)も、偽ドミトリー2世のモスクワ進軍への対策と見られてい(10)。ただ し、この法令は、ホロープ制度そのものにふれて隷属を緩和する、というようなものではなくて、
自由人のホロープ化妨止を目的にしたものであるO簡単にいえば、自由人を生涯隷属させる「ザ
‑ピシ」 (証文)を認めない、というのがこの法令の趣旨である。
この「ザ‑ピシ」は、法令の表現に従えば、 「自分の生涯中奉公すべき、自由人に対するザ‑
ピシ」 (3anHCH Ha bojihmx jik)Ae員 hto cjiy>KHTH no thm 3anHc只Mノio CBoero >KHBOTa)であ
って、これをホロープ庁に持参して登録を願い出ても、 「登録すべからず」と指示するとともに、
この種の証文によって奉公人を隷属させようとして裁判になった場合について、 「自由人を原告 に引き渡さない」 (BO^HblX JIFO月e員HCTUOM He BbUiaBaTH)とし、さらに自由人から「ザ‑ど シ」を取るときは、 「一定年限に限って取る」 (HMa Ha ypOHHbie jieTa)と定め、終身奉公の 証文を禁止している。この法令によって禁止された「ザ‑ピシ」の登録された事例は、これより 前の登録帳簿にも容易に兄いだされない。われわれの知る限りでは、 1597年法令によって実施さ れた一斉の登録のとき、 1598年1月3日に「ザ‑ピシ」 1通が登録されているull。スルジーラ ヤ‑カバラーとは全く形式を異にし、負債のことはいわれておらず、オシープなる者が「かれの /1涯中」主人ボリスに奉公することを的し、主人側も「ボ))スの死まで」と約し、主人の死後は
「自由に解放する」としている。スルジーラヤ‑カバラーによる公認の隷属者、すなわち債務ホ ロープとは別に、非合法な「ザーピシ」による隷属が現実に行われていたのに対して、 1608年3 月9日法令は、はじめてその非合法性を姐上にのせた、といえよう。なお、 1649年法典第20章に も「ザ‑ピシ」に関する簡略な規定があるが(第104・105粂)、終身でなく、 「一定年限」としてい る。
4 1597年法令への復帰
これまで見てきたように、ボリス‑ゴドウノフ、偽ドミトリー1世、ワシーリー‑シュイスキー は、それぞれ帝位につきながら、凶作・飢醇、フロブコの乱、ボロトニコフ反乱、偽ドミトリー 2世のモスクワ進軍など、相つぐ非常の事態に対し、何らかの形でホロープ隷属を緩和する対策 をとった。しかし、どの政権もホロープ制度を根底から改め、あるいは廃止しようと企てたとは 思われないO ホロープ制度は当時の農奴制国家の体制の一翼を荷なっており、これをゆるがすこ とは国家の体制をゆるがすことを意味したからである。臨時のホロープ対策は1609年5月から次 第に撤回されはじめる,そのころ、情勢は政府側に有利になりつつあったのである̀1)。
ホロープ対策における旧秩序への復帰は、バネヤフも認めるように(2'、 1609年5月21日法令に その第一歩を見ることができる。さきに少しく言及したように、 1608年2月25日法令第4条は、
カバラーなしの「スタリンヌイ‑ホロープ」を否定する立場を明示しており、それは1608年3月 19日法令でくりかえされて、
「皇帝は命じた・・・、ホロープが逃亡中にカバラーを出した者に(逃亡先きの主人に‑引用者)、ホ ロープをカバラーによって引き渡すべし。しかるに、かれらを証文なしに抑留したスタリンノ
エ‑ホロープストウォを拒否するように指示せり。何をもってホロープを証文なしに自分のも とに抑留したのか?」
と示しているOカバラーのない場合、逃亡をさえ合法と認める態度であるOところが、 1609年 5月21日には、再確認されさえした「スタリンヌイ‑ホロ‑プの否定」が、くつがえされたので ある。この法令は、皇帝シュイスキーがグリゴリ‑‑ガガーリン侯に命ずる形式をとっていて、
1608年2月25日法令およびその第4条再確認の1608年3月19日法令をかかげた後に、
「この決定を廃止するよう命ぜり」 (Beneji ce員npHroBop OTCTaB王1TH)
と述べ、さらに, 「このホロープ条項について」 (npo Toe xojionbio CTatbK))が皇帝が指示 したように、 「今後もあるべし」 (e員Bnpe^b 6biTH)とし、それが「本法典に登記されたり」と 記している。ここに「本法典」とは、イヴァン4世の1550年法典を指さし、同法典第98条は自ら、
今後新規定はこれに追記せよ、と記している(3)。これは、スタリンヌイ‑ホロープの復活にシュ イスキー政権が踏切ったことを何よりも雄弁に物語っている、といえようO
ところで、 1609年5月21日には、上のような形の法令とは別に、独立した法令も出されている。
普通に1609年5月21日法令というときは、これを拒さす。ジミンの区分では、全4ヵ条に分けら れているが、全体として1597年法令への復帰の色彩が強いものである。第1条は、 1597年法令に
よって創出された債務ホロープの最大の特性である「主人の死後は自由」を、主人の子を主体に して、いっそう分り易い形で条文化している。情況設定は、次のような場合を考えている。
「あらゆる人々(主人側をいう‑引用者)が、自分の父の証文によって〔すなわち〕カバラーま たは報告状(AOKjiaAHa只)Uサによってリュージーを自分のもとに抑留し、しかもかれらの父は 死亡している(He CTa.no). 」
このような場合、つまり債務ホロープを世襲的に所有しようとしている場合について、第1条 は、
「余の以前の勅令により(no npe>KHeMy CBoeMy rocyAapeBy yKa3y)自由に解放すべし」
と指示している。主人‑父の死後に債務ホロープが解放さるべきは当然であるが、 「余の以前 の勅令」については問題があって、ウラジミルスキー‑ブダノフは、そのような法令はないと し(5)、グレコフは、精神において、終身隷属の「ザ‑ピシ」を禁止した1608年3月9日法令に結 びつく、と解した(6)。このグレコフの考え方を発展させて、バネヤフは、この種の「ザ‑ピシ」
の禁止を再確認したもの、と受取り、債務ホロープの隷属は「主人の死まで」であって、 「ホロ ープの死まで」ではない、後者の場合にはホロープの生存中に主人死去という事態になれば、
ホロープが世襲相続される、として「余の以前の勅令」とは1608年3月9日法令を指さす、と見 た(7)。いまのところ、これ以外には解釈の途かないように思う。 1609年5月21日法令第1条は、
上につづいて、解放された債務ホロープが新しい主人に隷属することを確認して、
「かれらが何びとかに自分に対するスルジーラヤ‑カバラーを与えるとき、かれらはその者 (新主人一引用者)のホロープである(TOMy OHH H XO/IOnH)。」
と明示している。第1条が主人側よりもホロープ側に有利であることは、いうまでもない。し かし、これをホロープ‑の譲与・妥協とする必要はなく、 1597年法令に復帰したまでのことであ る。完全ホロープに抑圧を加え(自由人の完全ホロープへの転落の妨止)、債務ホロープをホロープ の中心に捉えようとした1597年法令が、完全ホローブと区別して、債務ホロープの隷属を「主人 の死まで」に限定したことを想起すべきであろう。
1609年5月21日法令第2条もまた、 1597年法令‑の復帰であるO ここでは、債務ホロープの子
の問題が扱われていて、債務ホロープのもとに「子らが債務ホロープ身分において(b Ka6ajiHOM XOJIOIICTBe)出生し」、しかも、
「自分の旧主から逃亡して、他の者に自分のカバラーを与えた」
場合が想定されている。夫婦あるいは子を含む家族全体が債務ホロープになるときは、普通か れらの名をいちいちカバラーに記載する。しかし、その後に生れた子については、その都度カバ ラーを取らない。 1597年法令第5条は、債務ホロープに「息子または娘が生れるとき、それらの 子らは、かれらの父と同様に、主人の死まで主人のホロープ」と明示している。従って、いま、
1609年5月21日法令第2条が、上のような情況について、次のように指示してのは、まさに1597 年法令の趣旨を受け継ぎ、それを最も明瞭な形で示しているもの、といえよう。
「それらの人々に(新主人をいう一引用者)新しいカバラ‑による〔ホロープ所有〕を拒否し、
取調べの上、スクリナーによって(no cTapHHe)、かれらがホロープ身分において生れたかれ らの旧主に引き渡す。」
ここでも「スクリナー」という語が使われているが、それは法に裏づけられている主人側の権 利であって、例えば自由意志の奉公人に濫用された、えたいの知れない「スクリナ‑」とは別物 であり、故意にホロープに不利にしているのではない。この第2条が主人‑父の生存中について 規定しているのに対して、つづく第3条は主人‑父が死亡している場合を、再度1597年法令に従 って確認している。 「かれらの(主人‑子をいう一引用者)父のもとで債務ホロープ身分で生れた」
者については、改めて「自分の名でカバラーを取ったのでなければ」 (Kaoaji Ha CBoe hmh He B3MH)、 「自由に解放せよ」と指示している。
さて、 1609年5月21日法令第1‑3条は、このように1597年法令を、より明瞭な形で条文化し ているのであるが、第4条になると、 1597年法令‑の復帰がなおためらわれているところも見ら れる。同条は、自由意志のホロープに関するもので
「カバラ‑なしに5年、 6年、またはそれ以上、あるホロープが自分の主人のもとに奉公し、
いま、自分に対するカバラーを自分の主人に与えないとき」
という場合について、 「君主は命令せり」として、次のように指示している。
「かれらが住んでいるかれらの旧主にかれらを引き渡すべし。」(hx OT^aBaTH hx rocy^apeM,
y Iくoro ohjイ>KHByT.)
これを、さきの1607年3月7日法令に比較してみると、何よりもその結論が異なっている。つ まり、 1607年3月7日法令では、本人が希望していないときは、旧主に引き渡さない、旧主がカ バラーを取っておかなかったのが悪い、という論法である。これに対して1609年5月21日法令で は、無条件に旧主のもとに連れもどされるのである。ただし、 1597年法令と比べると、その年限 がちがっている。 1597年法令では、半年を過ぎれば、強制的にカバラーを取られるのに、 1609年 5月21日法令では、 5年以内であれば、カバラーも取られず、旧主からの立去りも自由である。
いいかえれば、なお1597年法令‑の完全な復帰ではない。しかし、 1607年3月7日法令よりは、
一歩旧体制に近づいている。そこでは、 「半年または1年、もしくはそれ以上」という。これは、
その際にも指摘したように、無制限の年月を意味する。あえて「半年」からはじめているのは、
1597年法令の「半年」を念頭においたまでで、結論的には、何年カバラーなしで奉公していても、
本人がカバラーを出すことを希望しなければ、それが認められ、従っていつでも立去り自由であ る。これが1607年3月7日法令の骨子である。
このように見てくると、 1609年5月21日法令第4条は、 1597年法令の復活ではないが、また
1607年3月7日法令よりはこれに近づいている、といえよう。この問題について、 5月の段階で は政府がなお迷っていたことは、第4条の末尾に、次のように付記されていることからも知られ る。すなわち、 「旧主に引き渡すべし」につづいて、
「余の勅令あるまで。しかるに、これについて君主は貴族らと協議中である」 (ao cBoero
rocyAapeBa yKa3y, a o tom peKc只rocyノjapb roBopHT 3 ooapbi)
と記している。この遅疑・遠巡は、 4か月後に解決された。それが、 1609年9月12日法令であ る。
1609年9月12日法令は、具体的なホロープ条項をもっていない。しかし、 1607年3月7日法令 の廃止および1597年法令のうちの自由意志ホロープ条項の復活を、きわめて明確に決定している 点で、注目に価するものである。この法令は、独特な形で伝えられている。はじめに1607年3月 7日法令の全文をかかげ(同法令はこのような形でしかのこされていない)、ついで「118年(西暦1609 年一引用者) 9月12日」に取られた措置が記され、さらに指示と決議が記されているO 取られた 措置とは、ガガーリン侯(8)他2名が「本ホロープ条項について」 (o ce員xojionbe CTaTbe) 「貴 族上層」 (Bepxy60月P)に「報告」したことであるが、ホロープ条項とは、テクストで上に写 されている1607年3月7日法令のことで、また「去る115年(西暦1607年一引用者)に自由意志の ホロープについて法典(1550年法典をいう‑引用者)に追記されたるもの」といい直している。
この報告は、 1607年3月7日法令を廃止するかどうかの審議のためであるが、審議の結果は、次 のように記されている(1・2は引用者による挿入)0
「(1ルこうして、すべての貴族は、 115年の以前の決定を廃止するよう(OTCTaBHTb)指示せ り。
(2ルかるに、決議せり:自由意志ホロープ身分については、 105年に(西暦1597年一引用者) 故皇帝にして全ロシアの大侯フョードルーーイヴァノヴィチのとき、制定され(yjio)ォeHO) 法典に追加されたる以前の勅令の条項によるべし(6bITH TO員 cTaTbe no rocy^apeBy
npe>KHeMy yKa3y) , 」
すなわち、ここに(1)1607年3月法令が廃止され、 (2)皇帝フョードルの1597年法令第10条が復活 されたのである。
5 動乱末期のホロープ問題
動乱末期を特徴づけるのは、外国干渉、すなわちポーランド(王国、 I)トワ大侯国と合同していた) およびスエーデンの軍事介入である。ロシアの貴族・士族は、それまでそのときどきの政府を完 全に支持していなかったと同様に、外国軍の公然たる侵入に対して、けっして一致して反抗した のではなく、むしろこれと結んで自分の利益を守ろうとしたのである。その複雑な政治過程につ いての考察は、ここには省略せざるを得ない(1)。
1609年12月に偽ドミトリー2世が根拠地トゥシノから逃亡したあと、トゥシノの貴族とモスク ワ官庁人上層は、スモレンスクでポーランド国王シギスムンドと和約を結んだ。すなわち、 1610 年2月4日集約がこれであるが(2㌧ ポーランド王子ウラジスラフをモスクワに迎えることを約し、
代りに貴族会議、全国会議の尊重やギリシア正教の公認を約させている。その第16条では農民が、
リトワからポーランドへ、ポーランドからリトワへのみならず、国内でも移転権がないことを再
確認しているが、第17条は、 「ホロープ‑非自由人」 (xOJIOn HeBOJIHHK)が従前通りロシアおよ びポーランドの貴族(60月p, naH)に奉公すべきこと、君主すなわちポーランド国王がかれらに
「自由」 (BOJIbHOCTb)を与えないことを特に規定している。ポーランド勢力のロシア進出に当 たって、ロシアの貴族たちが、農民についても、ホロープについても、従来の体制の崩壊を深く 懸念したことがうかがわれる。ポーランド軍のモスクワ進攻に備えてスウェーデンと結んだシュ イスキー政府の軍隊は、 1610年7月に、クルシノの戦いでジョルケフスキー将軍指揮下のポーラ ンド軍に敗れ,シュイスキーを支持していた貴族たちは、かれを退位に追いやるとともに、いわ ゆる「7人貴族」(3)はポーランドと1610年8月17日条約を結んだ̀4)。この条約でも、同年2月の 上記条約と同様に、農民とホロープを主人に隷属させる条項をもっていて、ホロープについては、
「貴族、士族およびあらゆる階位の人は、以前からの慣習により、証文によって証文のリュ‑
ジーを保有する(^ep*aTH KpenocTHbix moaen no npe>KHeMy oSbinajo, no Kpeilocthm)」
と明示している。同じことは、スエーデンの進出に際しても認められるのであって、シュイス キー失脚後に,ノヴゴロドがスエーデンと1611年4月に結んだ条約にも、次の1項が入れられて いる。
「以前貴族に奉公せる下僕(c.7iyrH)、 〔すなわち〕証文の、ならびにあらゆる種類のチェリャ ジは、自由を受くべきでないとする。およそロシア同家では、すべてが旧習により、法の書に 従って歩むべきものとする Oojiwho htth no cTapHHe, corjiacHO tくHHre 3aKOHOB). 」̀5) ここにも、外国干渉の事態に対して、ホロープ制度を維持しようとする意図があらわに示され ている。しかし、それは支配階層の態度にすぎず、ホロープ白身は、自由を求める要求をもちつ づけたのであって、 1610年9月首都モスクワが完全にポーランド軍の支配下におかれた後、ロシ
ア各地に組織された解放義勇軍の宣言のなかにも、この要求は反映している。例えば、コサック の頭目ザルツキーも起草者の1人になっている1611年4月の義勇軍宣言は、ホロープについても 取り上げ、
「貴族の、証文の:、またスタリンヌイエリュ‑ジーは(60兄pCKHe JIK)ノin KpenocTHbie h CTapHHHbie)、疑いも恐れもなく行くように:かれらのすべてに、他のコサックと同じように、
自由と恩恵があるであろうQかれには、貴族より、軍令より、全国土より、 〔解放〕状が決議に 基づいて与えられるであろう(rpaMOTbi hm ot ooap h BoeBOA h oto Bcee 3eMJiH npnroBOpy
CBoero #aノiyT) 。」(6)
という条項をも入れている。 「他のコサックと同じように」といっているところから判断する と、グレコフやプラトノフが指摘するように̀7㌧全ホロープの即時解放を求める「社会変革」を めざしているというよりは、コサックのなかに入りこんでいる逃亡ホロープを自由人と認めさせ
ることを主張している、と見るべきであろう。フロブコの乱、ボロトニコフの乱以来、逃亡ホロ ープが動乱のなかで活発に動いた姿をここにも見得るであろう。しかし、この宣言をまさに否定 する決議が、組織化された義勇軍中央部から同じ年の夏に出されている、,それが、 1611年6月30 日決議と呼ばれているものである。この中央部は、モスクワ解放を実現する目的で、全土の義勇 軍の統帥のためつくられたもので、上記ザルツキーのほか、トゥシノの貴族トゥルベツキー侯お よびリャザンの士族・軍令のリャプノフを加えた3人が主導権を握り、上層階級、とくに士族の 利益を重視する傾向が強く(解放義勇軍の指揮もかれらに委ねられることが多かった)、長文の決議の第 23条は、端的に逃亡した農民・ホロープを旧主のもとに連れ戻すことを的している。すなわち、
「ある士族と下級士族は、現下の動乱の時(CMyTHoe BpeM月)、混乱の時に乗じて、農民とリ