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15世紀ロシアの土地裁判と証人=古参住民

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

15世紀ロシアの土地裁判と証人=古参住民

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 22

号 1

ページ 57‑73

発行年 1973‑11‑15

その他のタイトル Суд о землях и знахори‑ст арожильцы в России ХV век а

URL http://hdl.handle.net/10105/2757

(2)

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民

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「古参住民」 (cTapo〉KHJieU, 「古くからの住民」の意)という術語は、 15位紀を中心にロシアで 広く使われたものであるが、二様の意味をもっている。一つは、ある土地に新たに住みつく者に 対して以前から住んでいる者を指さし、いわばすでに独立経営をもっている農民‑貢阻民をい う。この意味での「古参住民」は、とくに15世紀のインムニテ‑ト許与状、いわゆる「恵与状」

(>KajiOBaHHaH rpaMOTa,ただし狭義の)に頻出してくる。農民一般を指さすこの語については、

われわれは別稿を用意しているo本稿がその課題の一つとしているのは、 「古参住民」のもう一つ の意味、つまり農民一般ではなくて、そのなかの特定の者、文字通り「古くから」

(H3crapHHbi)

ある土地のことを「記憶している」者についてである。この意味での「古参住民」は、土地裁 判関係の史料、具体的には「判決書」(npaBa丹rpaMOTa)、「裁判記録」(且ot(JlaA汀biftcyAHHH criHCOfrE,CyAHblHCIIHCOK)、「境界設定状」(pa3・be3>Ka只rpaMOTa,otboAHa兄rpaMOTa)などに しきりに現われてくるCD

。それは、もはや農民としての性格よりは、故老としての性格に重きを

おかれていて、しばしば「証人一古参住民」(3HaXODH‑CTapO)KHJIbHH)と呼ばれ、またたんに

「証人」(3HaxopH)といわれていてもこれと同義である。

このような史料的事情の故に、「証人‑古参住民」の問題を追究しようとすれば、自ら土地裁K 判関係の史料に眼を通さざるを得ない.幸いに戦後のソビエトで刊行された史料集AC3日(全3 港)、Ae3Ⅹ(全3巻)などには、ソビエト史学が利用しているこの種史料の大部分が含まれて いる。しかしながら、わが国ロシア史学の現状を恩うとき、土地裁判の実態についても史料に即 して検討してみなければならない。かくて、本稿は、「証人‑古参住民」とは何か、という問い よりは、土地裁判の実態を究明するなかで、「証人‑古参住民」の役割を確認することを直接の 目的としている。

イワン3世1497年法典はその第63条(ただし、現行区分)に「土地についての裁判」(03eM.7I只Ⅹ eyA)と題する1か条をもっているC2)

。しかし、これはきわめて簡略なもので、土地訴訟は土地侵

害から3年‑6年以内でなければ受理されないことを規定しているにすぎないOこの条項を中心 に、他の裁判一般の関係条項をいかに分析してみても、15世紀ロシアの土地裁判の実態が把握さ れるわけがない。われわれとしては、例えばホロープ裁判の史料に比べても、はるかに多く保存 されている土地裁判の具体的な経過と結果を示す史料の個々に当るよりほかに手段はない。かっ てわれわれは、17世紀についてであるが、唯一つのホロープ裁判事件を、とくに1649年法典との 関係において分析を試みたことがあるC3)

。そ.れは原本にして144葉というほう大な裁判記録がのこ

されているからでもあった。本稿は、このような意味での事例研究ではない。また、ソビエトで 最近公にされたイヴィナの研究(4)のような、総合研究でもない。いくつかの事例をえらびし、そ

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15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

れを手がかりに、 15世紀ロシアにおける土地裁判の実態を明らかし、あわせてそこに登場してく る「証人‑古参住民」の役割に論及しようとするものである。基礎史料に即しての検討という点 でわが国ロシア史学にいささかなりとも寄与するところがあれば、筆者望外の幸いであるO

1土地裁判における決闘の適用と古参住民

「決闘」(ncwe)についての規定は、イワン3位1497年法典全68か条のうち、8か条がこれに 当てられており、(b)イワン4世1550年法典でも姿を消すことなく継け受がれている(6)この前近代 的な裁定の方法は、1497年法典では、負債・殴打・略奪についての裁判で主に用いられたような 印象を受けるが(第6条と第48条)、しかしけっしてこれらに限られたのではない。事実、土地 裁判の史料はしばしば「決闘」に訴えてきめようとしたことを示しているmそれは、証拠書類 によるきめ手がなかったり、それが不充分とされ、または相手方の不信を招き、証人の陳述に依 拠しようとするとき、証人同志の対立がきわだてば、はじめて採られる手段であった。したがっ て、1497年法典に条文化されているものとの結びつきを求めれば、第48条の「証人(nocflyx) が、.・・誰かに反対の陳述をするとき、‑・その者は証人と決闘に行くか(Hanojiejie3eT)、もし くは・・・」がこれに当るのであるO決闘は証人と訴訟当事者との問にも起り得るが(同法典第49 秦)、土地裁判では、つねに証人同志の間においてのみである。まず、具体的な事例について見 よう。

事例(1)、スワトコウォ村をめぐる司祭グリゴーリーと農民ロドゥカらとの争い(1495‑1499 年の判決書)ォ

この裁判で司祭は、19年来その土地を耕やしているといい、他方の農民らは「証文」(ここで はたんに「ダラーモク」と呼ばれている)はあるが裁判官にでなく大侯に出すといってこれを提 示しなかった。そこで双方から「証人」を出したが、証人同志の陳述が対立したのである(9)

。こ

のとき司祭の側の証人(4名)は、裁判官に農民側証人(6名)との決闘を申し出て、次のよう にいっている。

「ロドゥカとネストリク(ともに農民の名、引用者)の証人たちは、虚偽の証言をした(nocjiyiiie‑

CTBOBaJIHJI>KHBO)。われわれにそれらの証人たちとの神の裁きを与えよ(na員・・・00>KbK>

npaBay)。十字架に接吻してかれらと決闘に行こう(uejioBaBKpecT,月aJie3eMct川MHHa nojieOHTHCb)。」

これに対して裁判官が農民側の証人に決闘の意志ありゃとたずねたところ、かれらも判決書の 記する限りでは同じように「十字架に接吻してかれらと決闘に行こう」と答えている。これで決 闘の条件が成立し、あとは1497年法典第68条に見られるように、決闘者のみが(審判人や保証人 でなく)具足をつけ「梶棒」(Ay6jraa)と「長い棒」(ocncvi)をもって決闘が行なわれる筈であ った。しかし、ここが重要な点で、実際には決闘は実施されず、それまでの裁判の経過が大侯の もとに「記録」(ciihcok)として送られ、司祭と農民の1人も大侯の前に出頭している。判決は 司祭を「勝訴」(onpaBHTH)とし、農民らを「敗訴」(06hh以TH)としているOその理由として は、農民らが大侯の前に「自分の証文を提示しなかった」(rpaMOTUCBOeflHenojio)khjih)こと が明示されているだけである。

この場合、決闘について双方の合意が成立しながら、それが実行されず、他の理由で判決が下

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されていることに注目すべきであって、他にも同様な事例がある。では、このような事例をもっ て、土地裁判に決闘が全く意味をもたなかった上判断してよいのか、というと、そうではない。

次の例に注目されたい。

事例(2),ある「草刈地」(no>KH只)をめぐるフェラボント修道院と農民クリヤンとの争い (1499‑1500年ごろの判決書yiw

修道院側は2人の証人を用意しているほか、侯ミハイル‑アンドレーヴィッチの寄進状の写し まで提出している(ll)

。これに対して農民側は「良き人々、古参住民」(jnoAHAODpbieCTapOJKH‑

JIt>U.t>l)すなわち証人を4人立てている。両者の意見・陳述のくいちがいから、農民側の4人の 証人は事例(1)とほとんど同じことばで(正確には判決書作成者が同じ慣用句を用いている、と いうべきであろう、以下すべてこの意味である)、決闘を申し出ている。ところが修道院側は、

裁判官に向って、

「われわれは、自分の証人に決闘に行けとは命じない(Hanojiejiecra6hthchHeb&7ihm)」(12) と答えている。つまり、決闘を拒否したのである。判決は農民を勝訴としているが、その理由と して、「修道院の証人たちはクリヤンの証人たちと決闘に行こうとしなかった(3arlOJiechHe r70汀Mam)」ことだけをあげているO提出された寄進状の写しに信愚性の問題があるようにも思 われるが、判決書(最終結論だけでなく裁判の経過も詳しく記されるのが普通である(13))ではこ れに何ら言及されていない.修道院側の敗訴という珍しい判決(寛存史料に関する限り)が、決 闘の拒否によってもたらされたことは疑いを容れないと思う。このことは、上の事例(1)からの み判断して、土地裁判における決闘の意味を否定し去ることを蹟踏させるのである。

以上によって、双方の証人の問で決闘‑の決意が固められても実際にはそれが行なわれなかっ たこと、一方の証人が決闘を申し出ているとき他方がこれに応じなければこれによって敗訴とな ることをいい得るであろう。しかし、これは原則であって、ときにはそのまま当てはめられない 場合も見られる。

セリ‑シチエミトロポリ‑ト

事例(3)、開拓小村ゴルルイショフスコ工をめぐる府主教側とストルニン家3兄弟との争い (1498年3月の判決書MH)

*‑e‑‑リスキ‑

ここでは証拠書類が提出されることなく、府主教の村管理人は5人の証人を立て、ストルニン 家は3人の証人を出し、その証言のくいちがいから結局は決闘にもち込まれることになり、裁判 の経過は大侯に報告された。普通にはこの段階で決闘を回避しての大侯の裁決が下されるのであ るが、いまの場合大侯は次のように命じている。

「裁判官は古参住民と古参住民とに決闘を宣告すべし」(cy^becTapcoKCHJibuoMcCTapimn jibu,HnpiicyAhthncwie)

裁判官は命令にもとずいて決闘の「期日を定め」(VHHHHJICpOIく)、当E]所定の場所に双方の訴 訟当事者全員と証人たちが集合した。ここで、稀に見る決闘が行なわれる筈であったが、ストル ニン家側証人(3名)の1人が来なかったのである。裁判官がこれについてストルニン家兄弟に ただしたところ、本人がニ‑ジノヴゴロドに「商いに」(ToproBaT打)行き、「期日に問にあう ように」帰ることを希望しておいたが到着していない、と答え、さらに期日の延期と改めての期 日の指定を願い出た。これに反対して府主教側の村管理人・農民・保証人たちは、事実を大侯に 報告せよ、と迫ったのである。かくて大侯のもとに裁判報告記録と「決闘書」(nojieBan3anncb) が送られ、(15)双方の当事者と証人たちも出頭した。予想されたように、ストルニン家兄弟が敗訴

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となったが、その理由として、

「かれらの第三の証人なるクリムコニシドロフが期日に決闘に立たなかった(HacpoKynan兄 HecTaj])c」

があげられているOなお、敗訴者から「決闘手数料」(ncwieBbienouuiHHu)を取るように大侯 は裁判官に命じているが、これは1497年法典にも規定されている。(16)

この事例では、上のような事情で厳密には決闘が行なわれたとはいえないであろうが、「決闘 書」が作成・報告され、「決闘手数料」が徴収されていることを考えれば、法的・形式的には汰 闘が実現されたと見るべきであろう。

最後に、決闘と証拠書類と何れが重視されたかの問題O既述のように、決闘を拒否した側が敗 訴になるのが原則であったが、次のような複雑な場合もある。

事例(4)、開拓小村クゼムキノおよび同ジェルンコヴォをめぐるシーモノフ修道院と農民コル 二ルらとの争い(1463年ごろの判決書,(17)

修道院側は、二つの開拓小村がそれぞれチモフェイ‑ドゥイビンおよびワシ‑')‑‑モロゾフ の寄進によったことをいい、大侯妃ソフィヤ‑ヴィトフグナ(ワシーリー1世の妃)がチモフェ イに修道院への寄進を許した文書(きわめて簡略なもの)を提出した(18)

。しかし、農民側はあく

まで大侯の「亘租地」(3eMJi兄T兄rjia只)なることを主張し、修道院側4人、農民側5人の証人に 対する訊問がつづけられ、農民側の証人たちは裁判官に、「決闘を宣告せよ、われわれは修道院 の証人たちとの決闘に行く」と申し出た。これに対して、修道院側は証人を決闘に行かせること を拒否したのである。事例(2)の原則に従えば、ここで修道院側の敗訴になる筈であるが、この 段階で修道院側は、1448年1月4日の日付をもつ書類を提出した。それは、1445年の火災によっ て三代にわたるモスクワ大侯(ドミートリ‑、ワシ‑リー1世、ワシ‑リ‑2世)から得た恵与 状をはじめ、寄進状・購入状など一切の文書が焼失したことを認め、この焼失にかかわらず修道 院のすべての権利が確保されることを確認したワシ‑リ‑2世の恵与状である(19)

。焼失した文書

のなかにいま問題の二つの開拓小村に対する修道院の権利を託するものがあったかどうかは、こ れを確めるすべもないが、裁判はここで急転直下、修道院の勝訴におわっている。なお、判決の 理由は記されていない。当時の裁判官および最終審判者としての大侯の眼から見て重要と思われ る書類の提示があれば、決闘も不必要であり、決闘拒否も敗訴につながらなかった‑つの例であ る。修道院側が上記の恵与状を決闘の段階にいたって提示した理由については、史料からは推測 の手がかりを得られない。

以上によって、1497年法典に規定されている「決闘」が法典制定の前にも後にも土地裁判に通 用されていたこと、実際には決闘が証人同志によって合意に達しても実現されることがきわめて 稀であったことが知られるであろう。

2土地裁判における証文の提出と古参住民の証言

土地裁判関係の史料には、次のような裁判官の訊問とこれに対する答弁が記録されていること

がある。 セリ‑シチヤ

(T)訊問、 「誰がお前にそれらの開拓小村を与えたか、それとも誰からそれらを買ったか、何 故お前の農民は開拓小村を耕作しているのか。お前にはそれらの開拓小村に対する寄進状ま

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タレ‑ポスチ

たは購入状、または他の何かの証文(HHbieiくai<neKpenocTH)があるか」。答弁、「われわ れにはそれらの土地に対するいかなる証文もありません、誰がそれらの開拓小村を修道院に 寄進したかを知りません。しかし、われわれにはそれらの土地に対する証人(3HaxopH)が あります、(5名列挙)、それらの証人はあなたの前にいます」(1492‑94年ごろの裁判記 録V20)

(イ)訊問、「何故お前は、その土地、開拓小村ゼレネヴォを自分の土地というのか」。答弁、

「‑・わたしの父の世襲地(oTVHHa)です。わたしの父がその土地、開拓小村ゼレネヴォを わたしに与えました(rKmajiOBajim只)」。訊問、「お前にはその土地、開拓小村ゼレネヴォ に対するお前の父の遺言状、あるいは贈与状(AaHaarpaMOTa)、もしくは兄弟との分配状 があるか」。答弁、「‑わたしにはありません」(1496‑98年Lの判決書蝣)(21)

タレーポスチ

(ウ)訊問、「お前にはそれらの土地に対するどんな証文があるのかOそれらの開拓小村がスパ

‑ス修道院のものであることを、誰が知っているのか(KOMyBe月OMO)‑」O答弁、「修遺院 ts^.^a.M.j

が焼けました、そのとき文書が焼失しました。われわれにはそれらの開拓小村に対する証人

‑古参住民(3HaxopH‑crapoXhjiiih)があります、(4名列挙)、それらの者は、それらの開 拓小村がスパ‑ス修道院のものであることを知っています、・・・それらの者に証言させます (HaTexchhiiuieM)」(1484‑90年の裁判記録i(M)

(i)訊問、「何故お前はそれらの土地を自分のものとしているのか」。答弁、「‑それらの土 地に対する寄進状と購入状が、あなたの前にあります」(1488‑90年の裁判記録)(23)

裁判官からの訊問とこれに対する訴訟当事者の答弁が、このように克明に記録にとどめられて いることはむしろ稀であって、多くの場合訊問の内容が省略されて、証文が提出されたり、証文 の有無にふれずに証人があげられたりしている。その意味もあって、上にはテクス・トを邦訳して かかげたのであるが、土地裁判の進め方の原則が読みとられるであろう。

すなわち、(ア)では修道院を代表して裁判に出た者に、開拓小村が修道院の所有であることを示 す「証文」の有無が問われている。土地裁判がまず証文の提出によって裁定されるという原則が ここに見られる。他の例にも見られるように、実際にはこの種の証文がない場合が多く、このと きは「証人」への訊問が重視される。これが原則の第2で、例ではその証人がすでに用意されて いるが、これが普通であった。川の場合も証文の提示が求められてしかもこれを示し得ていな いO上には省略したが、この領主も何人かの証人を用意してきている(24)t

。¥ウ)について注意すべき

は、裁判官が証文の有無を訊問するとともに、同時に「誰が知っているのか」、つまり証人があ るかときいていることである。土地裁判における二つの原則が合わせ示されている。回では、ま さに証文が提出されている。しかし、(ェ)に限らないが、当事者の一方に証文があっても、他方に それがなければ、後者は証人を立てざるを得ないであろう。さらにまた、証文を提出した側は、

それだけで充分とされ、証人を立てる必要がなかったか、これも問題になる。15位紀前後のロシ アの土地裁判では「証人」あるいは「証人一古参住民」(上掲(ウ)に見られる)が顕著な役割を果 たしているからである。土地裁判の進め方における二つの原則を確認した上で、本節では証文が 提出されている場合を、いくつかの事例をあげて検討してみたい。

事例(5)、二つの土地(3eiwj川)ギレヴォとドゥボヴィツァをめぐるトロイツェ‑セルギエフ 修道鏡と黒土農民との争い(1488‑90年の裁判記録¥(25)

これは、さきの(ェ)の裁判であって、修道院側の提出した証文というのは、ユーリ‑クズミンの

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62 15 U;紀ロ

シアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

寄逸状(1438‑40年ごろ¥(26)と、イワン‑クズミンがプロタス‑チェルノベスから土地を買った ときの購入状(1438‑40年以前I(27)とである。償通院側は証文のはかに、4人の「古参住民」す なわち証人を用意してきていて、かれらは、裁判官の「昔から(H3CTapHHH)誰の土地であった か、どのくらい長い間修道院のものか(CKOJIbAaBHO3aMOHaCTHpeM)」という訊問に対して、

次のように証言している。

「われわれはその土地が昔から誰のものであったかを知りません(HeBeAaeM)。しかし、修道 院債としての(3aMOHacTHpeM)そのギレヴォをおよそ60年前から記憶しています(nOMHHM)。

イワシコ(急土農民の代表として出廷した農民一引用者)は、一大侯に属する自由部落民(cjio6oa‑

hhk)オヴェルケイが家を建て、そこがドゥボヴィツァと呼ばれている、といっていますが、

ギレヴォの[修道院領]農民がその森を切り開いたのです(pO3ceKajiH)」

これに対してイワシコ自身は、ギレヴォとドゥボヴィツァが「大侯の黒土」(3eMJinBejiHKoro KHH3兄MepHbie)であることを「50年前から記憶している」と陳述した。ここで裁判官は「他の 古参住民がお前にはないのか」(「他に証人はいないのか」の意)と問い,イワシコは「古参住 民はいたが、死亡した(6bIJIH‑,jiancmepJiH)」と答え、ここで訊問はおわっている(28)裁判 の報告にもとずいて、大侯は「ネレホト郷の全農民の代表としての」(boBcexxpecT即HMeCTO HepexOTCtくHebojiocth)イワシコを敗訴とするよう命じている。判決の理由は示されていない0 見られるように、この裁判では修道院側が証文提出のほかに証人‑古参住民を用意してかれら に証言させており、記録の示す限り、証文よりは証言(陳述)に重きがおかれているような印象 を受ける。裁判官がイワシコに対し「他の」証人‑古参住民はいないか、と訊問していることか らすれば、訴訟当事者が「証人」と見なされているきわめて稀な例であるが(後述の事例8と比 較されたい)、当事者以外に証人‑古参住民を用意してなかったことが、かれらの敗訴を簡単に 決定させた理由のように推察される。

ネレホト郷の黒土農民は、上の事例(5)のほかに、同じ代表者イワシコを法廷におくって(た だし土地裁判は現地で開かれるのが普通であった)、同じトロイツェ‑セルギエフ修道院の同じ 代表者「修道僧」(cTapeu)ダニールに放れていくつかの土地を失なっている、あるいは取り 返えされているoここには詳細を省くが、ダニールは、つねに寄進状(ともに1438年以前のも の109)を提出しているはか、数名の古参住民を、つまり証人を立てている.これに対して黒土農 民側代表イワシコには提示すべき証文がないのみならず、イワシコ自らが弁明と陳述につとめ、

「スタン」(ctaH,郡ye3且の下の行政単位)の役人「スタノーフシテク」(cTa王10BIU,班K)の証言 を得ようとしているにすぎない。しかも、その「スタノ‑フシチク」がときにはすでに死亡して いたり、(3。)生存していて出廷しても、「誰の土地であったか[昔のことは]知らないし、覚えて いない(HeBe月aro‑'‑HerTOMHK>)」と証言して、イワシコが「その土地のすべてをスタノーフシ チクが覚えている」と述べたことが、逆にくつがえされているのである(31

。このような状況のも

とでは、証文の提出さえできなかった黒土農民側が敗訴におわったのは、むしろ当然であろう。

では、逆に農民側が証文を提出し、修道院側に提示すべき証文がないときはどうか。また、双 方がともに証文を提示して争うときは裁判はどのように進められ、いかなる結果におわっている だろうか。このような問に答え得る事例として、ミシュ‑チナ郷の農民とトロイツェ‑セルギエ フ修道院との二つの土地裁判を取り上げ、やや詳しく検討してみたい。次の事例(6)(7)がこれで ある。二つは相互に関係をもっているが、数年ないし十余年の間隔をもって(史料には年代記さ

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15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

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れず)開かれているので、まず最初の裁判を独立して考察しよう。

事例(6)、開拓小村コジェヴニコヴォおよび同フェドルコヴォをめぐるオントン以下ミシュー チナ郷の農民とトロイツェ‑セルギエフ修道院との争い(1492‑94年ごろの裁判記録ym

さきに土地裁判の原則を知るためにあげた(7)の場合は、この裁判記録からの引用であるが、修 道院側は証文を提出していないOこれに対して、農民側のオントン‑グラ‑トキーは、裁判の 冒頭でイワン3位の恵与状(西暦に換算して1491年11月の日付をもつymを提示している。こ の恵与状の要旨はー3位が「自分のイスト‑プニク〔34)」なるオントンに上記二つの「荒廃地」

(nycTOiu)を恵与した.これらの土地は「トロエツキ‑[修道院]の農民たち」が「出かけて」

(Hae3AOM)「耕作こ.草刈りしている」が「家もなく、棒くいもない」(HeTABOpa,HHKOJ【a)、

よってかれオントンに恵与した、「それらの荒廃地に自分の家を建てよ」(nocTaBHTceoeHa TexnycTOuiaxABOp)、というものである。イワン3位は、修道院領とは明言していないが(次 の事例(7)の寄進状参照)、修道院農民が利用している土地を自分の用人に与えたのであって、こ こにすでに紛争の種がまかれているといえよう。

裁判官は、オントンからの証文提出に対して修道院側のいい分をきいたところ、上述のように 証文はないといい,修道院のベビヤコフスコエ村の農民が「昔から、‑修道院長ニコン(院長と しては1392‑1427年、引用者¥(35)のときから今にいたるまで」耕やしている、と述べて、5人の 証人を出している(38)

。ここで裁判官は、提出された証文,すなわち1491年の恵与状をとくに重視

することなく、オントンに対して、それらの土地を「何故大侯の開拓小村と呼ぶのか」(UOHeMy 7KTbI‑Ha3biBaeiiibcejii王mukh月3HBe;i*王Korojと訊問し、オントンもまたこの恵与状をたてに とることなく、「70年前からミシューチナ郷のことを記憶している」という6人の「証人‑古参 住民」を用意してきていて、cm裁判官に対してこれらの証人は、問題の土地が「昔から」大侯の 土地であったと証言したのである。オントンと農民側のこれらの証人は、さらに同じく1491年11 月ごろのものと考えられる1通の文書を提出している。この文書には次の事例(7)に出てくる他 の地名も言及されており、いまの裁判当時に修道院の農民がミシューチナ郷に丁出かけて」耕作 していた状況も示されているので、あえて全文をかかげておこう。

「全ロシアの大侯イワン‑ワシーリエヴィッチより、ペレヤスラヴリ郡ミシューチナ郷の役人 (ABOpCK舶)およびすべての農民にOイストプニクなるオントンコ‑ダラートコイは余に懇 願して陳情せり、トロエツコエ[修道院]のベビヤコヴォ村より農民らが出かけて(Hae3AOM) 余の大侯の土地‑荒廃地コジェフニコヴォ、フェドルコヴォ、ルチシチェヴォ、ワシシノ、

シュクリノ、ダリディノ、および開墾地サルイチキノ‑を耕作していると。なんじらはダラ ートコイとともにそれらの余の土地のために立つべし(3aTemo打3eMJIBCTOSUIH)。」(38) 同じイワン3位のさきの恵与状と合わせ考えると、列挙されているうちの最初の二つの土地が オントンに与えられる前から、そしてその後にも、修道院債農民がそのベビャコヴォ村から出か けて耕作していることが知られる。上掲文書のおわりの「立つべし」は、現地調査の意味であろ うか。というのは、裁判の過程でオントン‑農民側の「証人‑古参住民」たちが裁判官に現地調 査を煩い出て裁判官がこれに同意しなかった段階で、この文書が出されているからである。(39) さて、現地調査には、裁判官とオントン‑農民側の証人のみが赴き、修道院側は誰も立会しな かった。調査の模様は裁判記録に詳しく記されていて、例えば、ある道に立ちどまって右側がオ ントンに与えられた土地、「大きな石」のそばで説明して右側が大侯の土地ルチシチェヴォであ

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15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

るのに修道院農民が耕している、川岸に立って向う側が修道院領ベビャコヴォ村でこちら側が大 侯の土地シュクリノ、などという具体的な説明を証人は裁判官に対して行なっている。そして最 後にオントン‑農民側の証人たちは、 3人が70年前から,のこり3人が50年前からこれらの土地 を「記憶している」 (nOMHHM)とくり返えして「証人=古参住民」たるの資格あるを強調した上 で(修道院側証人たちも現地調査の前の訊問で、かれらの父が修道院長ニコンのときからこれら の土地を耕やし、 「父のあと40年耕作している」と述べている)、修道院領農民が耕作するにい

たった事情を次のように証言している。

「それらの開拓小村には大侯に属する農民たちが住んでいた(>KH,7IH XpeCTb珊e 3a BejiHKHM KHH3eM)c しかし、それらの部落は戦士のため、また略奪のために荒廃した(3anycrejiH or patHbix mo^e員打ot pa3ooeB)。その時からそれらの開拓小村にはリュ‑ジーが住まなかっ

たo しかし、その後修道院の[リュ〜ジー]が、荒廃につけこんで出かけて耕作しはじめた (ynajiH naxaTH Hae3月0m 3a nycTO)、何故かは知らないO」

つまり、本来大侯の農民(黒土農民)が耕作していたのに、荒廃して人がいなくなり、そこへ 修道院農民が耕作Lに来て現在にいたっている、というのである。これに対して裁判官はオント ン‑農民側の証人(「トロフイムコとその仲間たち(TOBapHhim)」と呼ばれている)に、何故い ままで「沈黙していたのか」 (UOJIHSIJIU)と訊問している。本稿「まえがき」で言及した土地訴 訟受理の年限についての1497年法典の規定を想起すれば、この訊問には農民側の主張を拒否しか ねない裁判官の態度さえうかがわれるのである。証人トロフィムコたちは、大侯にいく度も願い 出たが、大侯は

「余の書記(nHceu,土地台帳の作成者‑引用者)がペレヤスラヴリを登録しに(rracaTH)行 くとき、かれに余の土地[なること]、を示せ(yKa〉KHTe)」

というのみで、 「書記は長い間ペレヤスラグリに来なかった」と答えている。

この裁判記録はこのあとに、以上の裁判の経過が大侯に報告されたこと、および裁判の出席者 の名を列記するのみで、判決は記されていない。オントン‑農民側がこの裁判で勝ったことを知 り得るのは、 7‑8年後の同じ土地を含む裁判の記録によってである。 7‑8年後にはいまの裁 判の結果がくつがえされているのである。

事例(7)、部落コジェヴニコヴォなどをめぐるオントン以下ミシューチナ郷の島民とトロイツ ェ‑セルギエフ修道院との争い(1499‑1502年ごろの裁判記録iCォ)

上述のように、この裁判は事例(6)の裁判のある意味での継続である。事例(6)と比べてどの ようなちがいがあるかをみれば、まず修道院側の代表が変っている;そしてさきの場合とちが

ってここではオントンのほか農民6人の名が明記されて修道院がかれらと「訴訟をおこした」

(T只rajicn)と記されている;双方の証人には若干の交番がある(老令で死亡者があったためか)

;オントン‑農民側はさきの二つの文書を再提出している;そして最も重要なことであるが、こ のたびは修道院は寄進状を提出しているのである。

裁判記録によれば、裁判の冒頭で修道院側代表の修道僧ガブリロは、問題の土地が修道院仔沌:

ることを主張する陳述を行なっているが、その内容には次のことも入っている:1.オントンは 8年前にコジェヴニコヴォに「部落を開き」 (nocTaBHJi aepeBH拍)、ワシシノをも耕やしてい る; 2.われわれの訴えに対して7年前には「われわれに正義を与えなかった」 (ynpaB'j HaM He vhhhhjih) ; 3.その後、他の土地にも農民らが家を建て、大侯の土地と称している。裁判官が修

(10)

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

65

通院領たることの証拠を求めたとき、ガヴリロは1428‑32年ごろの寄進状(後述)の写しを提出 し、ここで双方からの証人の証言となり、その証言のくいちがいから双方の証人同志の間で決闘 の取りきめが成立した。裁判官は、寄進状を写し取った者にそのことを確認した上で、委細を大

侯に報告したが、大侯によって下された判決は、修道院側を勝訴とし、さきの事例(6)の土地を ふくむ一切の土地をオントンらミシューチナ郷の農民のものでなく、修道院債として、その理由 を次のようにあげているのである。

ジヤーク

「ワシーリー‑ポリソ‑ヴィッチの寄進状よりの写し(cnHCOK)ならびに書記コビヤーク(寄 進状の書写人一引用者)の署名により、またミシューチナの農民らが60年の間それらの土地につ いて修道院に沈黙していたことによって、トロイツェ‑セルギエフ修道院の修道僧ガブリロ‑

ナポールスキーを勝訴とするO」

第2の理由については、さきにふれておいた懸念どおりであるが、第1の寄進状については, その真偽のほどは確認できない。(ォ)むしろ疑わしい点がいくつかある。すなわち、寄進状が 最初の裁判のときには提出されていないこと、書写人が「一語一語」 (CJIOBO 】】 CJIOBO)写し、

自分もそれに責任をとって署名をしているが、現物については自分のところで「紛失した」 (Cfl yTepHJia)と答えていること(修道院は土地関係の文書の保管に慎重であったことを想起された い)、および寄進状に示されている六つの荒廃地が、二度めの裁判で争われた部落または開拓小 村とその数および地名において一致しすぎることなどである。

以上、オントンらミシューチナ郷の農民とトロイツェセルギエフ修道院との土地争いの経過を 見てきたが、裁定はけっして証文のみによっていないo 提出された証文の優位を否定できない が、しかもなお双方の「証人‑古参住民」の出廷を求めてかれらの証言を徹していることが注目

されるのである。

3古参住民の証言のみによる土地裁判

事例(8)、開拓小村チェヴィレフスコ工と同ケルミャディノフスコ工をめぐる黒土農民7名と シモノフ修道院との争い(1497‑98年の判決書)C42)

農民は「黒土部落」 (nepHan AepeBHH)に居住する「大侯の農民」で、かれらの訴えるところ によれば、これら二つの土地は「昔から大侯の黒土スタン」に含まれていたが、 「大きな伝染 病のために荒廃し」 (3anycTejiH ot BejiHKoro nOBeTpe兄)、シモノフ修道院の「修道僧たち」

(nepHHUH)が自分のものにしてしまい、裁判当時には修道院の二つの村から農民たちが「出か けて耕作している」 (nameT i氾e3AOM)、というO これに対して、修道院側を代表して出廷した 村管理人は、問題の開拓小村は、 「音から」修道院の二つの村に属しそこから「われわれの農民 が耕やしに行っている」と述べている。

このような主張の対立に処して裁判官は、まず農民側に「何故それが大侯の黒土であり、スタ ンであるのか。お前たちにはその土地に対する古参住民(まさに「証人」の意である一引用者)があ るのか、誰がそれを知っているのか(KOMy TO Be月OMO)C」と訊問しているO 部落の農民は7人 の名がはじめに列記されていて、判決書は裁判の経過を記するにあたっては「ナザリークとかれトワ・‑リシチ の仲間たち」143)と呼んでいるが、農民側は自分たちとは別に証人‑古参住民を用意すべきであっ

° °

たのである。訴訟当事者自らが証人になっているためしは当時の史料に兄いだされないからであ

(11)

aa

irri.V・'̲ ‥/・/ド.'.‑11こ し一、 ‑'蝣!i二∴IJ I.*‑)

る。ところが、農民側は上のような裁判官の訊問に対して、次のように答え、かつ提案したので あるO

「どうしてその土地に対する古参住民がわれわれにあるでしょうか。われわれがその土地に対 する古参住民です。‑*われわれのあとについて来て下さい(nocajHTe3aHaMH)、あなたに大 侯の黒土である開拓小村ヴィレフスコ工とケルミャディノフスコエ、および境界(Me>KH)を 示しましょう。」

こうして裁判官は農民たちの案内で現地を廻った。農民たちの現地での説明はまことに詳細に 判決書に記録されている。注目すべきは、この現地調査に際して、裁判官が農民たちに、訴訟当 事者が証人たるの資格を欠くことを一言もいっていないことであるO

さて、現地調査がおわってから裁判官は、修道院側に証人の有無を訊問している。修道院側は

「艮き人々、古参住民」(JUO,AHAo6pbieCTapOKHJiubi)としてクリム以下計5名の名をあげ、

「あなたの前にいます」と答えている(44)

。かれらの証言の特色は、この土地の歴史を「大きな伝

染病」の前から、そこの住民を世代ごとに名をあげて説明していることで、そのなかにはこの土 地をシモノフ修道院に寄進した人も含まれている。

この証言がかなりの説得力をもっていたためであろうか、裁判官はその内容に深入りせず、再 び黒土農民への訊問に移っている。その結果、明らかにされたことは、これらの土地をめぐる裁 判は今回がはじめてでなく、以前に大侯の命によって裁判官フョードル某が修道院側を勝訴とし ていたのである。修道院側にこのときの「判決書」がないか、との訊問に対しては、修道院側は

「交付されなかった」と答えている。また、黒土農民側は、前回の裁判で修道院側が勝ったの

°°は、そのときの裁判官が「賄路によって」(nonocyjiOM)裁定したからで、修道院からてんの毛 皮外套1着と15ループリを「賄路として受け取った」と訴えている(4B)

。今回の裁判官から、何故

いままで黙っていたのか、ときかれて、農民たちは、大侯の耳に達するすべもなく、コロムナの 代官は修道院となれ合っている、と答えている。

以上でこの裁判の経過についての記述ほおわっていて、最後に判決が記されている。予想され る通り、農民側の敗訴になっているが、その理由としては次のように二つあげられている。何と なれば、かれらには古参住民がなかったからであり、また決闘しようとしなかった(3anojieHe noHMaJiiイCb)からである。かれらは、自ら原告であり古参住民であった(caMH‑OHHHmeHH CTapO>KH,7mbl)c」

ここでいう「古参住民」とは、またもや「証人」の意味であることはいうまでもない。ただ、

「決闘」については裁判の経過のなかでは全く記されていない。双方に証人‑古参住民があれ ば、いちおう決闘にまでもち込まれた筈と裁判官が考えたためか、それとも記録にはのこされて いなくても、裁判のある段階で修道院側の証人があえて決闘を申し込んだのか、恐らくは前者で あろう。この裁判で最も重要なことは、しかし、訴訟当事者が自ら証人たり得ないこと(いかに その土地について詳しく知っていても)、および証人を立て得ないときはそのまま敗訴につなが るということであろう。証文が提出されても証人への訊問が行なわれていること、決闘は証人同 志の間で行なわるべきことを、改めて想起してもらいたい。

さて、証人‑古参住民が土地裁判に果した役割の大きさは、これまでの考察からほぼ明らかに なったと思うが、かれらはまた土地境界の設定にも重要視されたのである。ある土地紛争に際し てイワン3健はかれらの証言によってこれを解決させようとし、結局は裁判になった事件があ

(12)

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸軍1

67

る。次の事例(9)(10)は‑つながりのものであるが、前者が史料としては貴重なもの故、いちお う分けて考察する。

事例(9)、ポチャープ村などについてのトt=イツェ‑セルギエフ修道院とオポレンスキー侯ら との争い(1496年7月のイワン3世の訓令V47)

「裁判記録」、「判決書」、「境界設定状」などは、何れもその冒頭に「大侯のダラーモタによ り」裁判をした、境界を設定した、などと記しているが、その「グラーモタ」にして今日に伝わ るものは稀である。ポチャープ村などについての土地紛争に当たってイワン3世がウォロジー メル‑ズベレワを現地に派遣したときの「グラーモタ」(AC:)Hの刊行者は「誹怜」vKH3Hafl rpaMOTaと名づけている)は、その稀なる一つに属する。

「全ロシアの大侯よりウォロドニズベレフに」にはじまるこの訓令は、トロイツェ‑セルギエ フ修道院を代表して「執事」(icejlapb)ワシャンがオボレンスキー侯、ドルゴルーキー侯らが修 道院領を侵害していると訴えてきたことをまず述べている。その土地侵害については次のように 記している。

「[執事は]いう、[オボレンスキー侯らほ]修道院のペレドールの、およびポチャープの土地 を、余大侯の恵与状に違反して(iepe3mok),BejiHKorokh兄3兄,rpaMOTywajiOBajmyio)耕作 している、と」

これら二つの土地は、1458‑59年にキエフ侯妃アナスタシャが自分の子らとともに同修道院に 寄進したもので、(47)イワン3世は1482年1月8日の日付をもつ「恵与状」で、ポチャープの諸部 落から軍令や貴族らが「扶持」(KOpM)などを取り立てないように命じている(48)

。上にいう恵与

状が直接にこの1482年の恵与状を指さすかどうかは別としても、イワン3健がポチャープをトロ イツェ‑セルギエフ修道院領と認めていたことは明らかである。

訓令はその末尾で最も本質的な、指示そのものを与えている。すなわち、

「なんじは、かれらのその土地に赴き、長老とより艮き農民を伴い(B3只BC・BCO6OK)CTaOOCT,ち hKpecrb只htjJiyxHHx)、そしてその地のより艮き人々、古参住民によって、その土地が昔か ら何びとのものなるかを問いただすべし(4aTOro6biecHo6bicKajiTaMOuiHHMH皿0AMH

JIVTTOMHCTapO〉KbIJI叩,HbHTO3CMJIHH3CTafI王Hbl)、そしてその土地の境界をかれらに設定 すべし(pO3'bexaji)。しかるに、何ごとかにつき争い起こるときは(C刃conpyr)、なんじはか れらを裁判し(TbI6blHXCy^HJl)、おのれの裁判を余、大侯にこの余の訓令(rpaMOTa)に

より報告せよ(cKa〉kh)。7004年7月oJMW

直接に指示しているのは、紛争の土地に「境界を設定する」(pO3'bexaTb)すること、場合に よって「裁判する」(cy/mTb)ことであるが、その方法まで具体的に示している。見られる通 り、「長老とより艮き農民」および「その地のより良き人々、古参住民」なる語があげられてい るが、現存の裁判史料や境界設定状にしばしば使われている語「証人」、「証人一古参住民」、「良 き人々、古参住民」と同義である。境界設定は、とくに問題がなければ古参住民の立会・証言な しに行なわれるが、(so;土地所有者相互の問に意見の対立あるときは、双方から古参住民(証人) を出しあい、その証言によって行なわれる。ときには、境界設定の際の古参住民の証言の対立が

「決闘」にまで持ち込まれそうになったこともある(51)

さて、イワン3世がズベレワを派遣して解決させようとしたこの土地紛争は、円満な境界設定 にいたることなく、少なくとも二つの裁判がズベレワによって行なわれていて、ともに修道院側

(13)

68

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

の勝訴におわっている.その一つは、上の訓令の2か月後ごろに行なわれたもの、C62)もう一つは 年代を精密にきめられないが遠からぬ時点で行なわれ、その記録が当時作成された判決書のまま で今日にのこされているものである。ここでは後者のみについて、裁判進行の状況と判決理由を 中心に考察したいと思う。

事例(10)、ボチャープの開拓小村ゼレネヴォをめぐるトロイツェ‑セルギエフ修道院とイワ ン‑オポレンスキー侯との争い(1496‑98年の判決書蝣1(53)

修道院側のいい分は、オボレンスキー侯が越境耕作しているゼレネヴォは侯妃アナスタシャに よって寄進された土地であり(既述)、その寄進状は大侯の「カズナ‑」(Ka3Ha)CM)にある、とい う。代表者の修道僧イサヤは、「証人‑艮き人々‑古参住民」として7名を出廷させているが、

なかにはかつて修道院長のもとに勤めたことのある大侯の「下級士族」(CHH60HpCKHft)や、

「大侯の農民」「百人長」(cothhk)も含まれている(55)

。修道院が土地裁判に当たって「大侯の

農民」つまり黒土農民を証人として立てている例は、他にも見られるところである。他方のオボ レンスキー侯は、ゼレネヴォを自分の父の「世襲地」(OTHHHa)と主張しているが、これを示す 証文はなく(既述)、「証人‑良き人々‑古参住民」を4人用意してきている。

双方の証人の証言を比較してみると、修道院側の証人の方がはるかに具体的でかつ詳しい陳述 をしている。かれらはゼレネヴォに修道院領ボチャープ村の農民が耕作にきていた事実を農民と その父祖の名をあげたりして説明し、また一致してオボレンスキー侯所債との境界がイチェヤ川 であるといっているOこれに対して、オポレンスキ‑侯側の証人は、30年前からその土地を侯が 耕作していることを述べているにすぎない。裁判官ズベレワが修道院の代表イサヤに対して、何 故長い間相手のオボレンスキー侯に抗議せずに「黙っていたか」と訊問したのには、イサヤは、

「黙っていたのではない、毎年警告した(H3Be Ba,7IH)」、しかし侯は強引に耕作をつづけ、大侯 にも一再ならず憩願したが、大侯は「待て」(no>K^HTe)というのみであった、と答えている.

裁判は現地調査に発展した。この段階で、侯側の証人たちは現地をよく知らないことが暴露さ れ、修道院側の証人も裁判官に、「(かれらは)よく案内できない、道に迷った(3a6jiy4HJiHC兄)」

と申し立てているO立会した侯自身も、自分の立てた証人が「かしの木」(ay<5)から向うは知 らないことを認めているCM)

以上の経過は大侯の代理としてのイワン‑ハトリケ‑エフ侯に報告され、ハトリケーエフ侯に よる直接の訊問が行なわれた。これまでの事例には報告記録にもとづいての大侯(またはその代 理者)による直接訊問について一切省略してきたが、一般にはこの訊問の結果大侯が判決の内容 を命令の形で出し、裁判官がそれを受けて正式に判決する、というのが普通である。この段階で 紛糾することはまずないのであるが、この事例(10)の裁判ではオボレンスキー侯が、いわば異 議申し立てを行なったりして、複雑であった。分り易くいえば、オボレンスキー侯は、一般の 場合と異なって、大侯代理者に報告された「記録が実際の裁判と異なる」(CVAHeTaKOB6biji, KaKBceMcnHCKyn*すcaHO)と抗議したが、翌日にはこれを撤回して記録通りであったことを認 めている。かつ自ら、「悪かった」(BHHOBaT)といっているO大侯代理者の命令および裁判官 の判決がオボレンスキ‑侯を敗訴とする理由の一つに、「報告に立って、有罪と名乗った」(y AOKJiaAaCTaB,cKa3ajiCHBHHOBaT)とあるのはこのことを指さす(58)

。他方、修道院側について

は、これを勝訴とするとともに、開拓小村ゼレネヴォを「トロイツェ‑セルギエフ修道院のポチ ヤ‑プ村に属するものと裁定し(npHcyAHJl)」、「かれらの証人がイチェヤ川によって境界づけ

(14)

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

69

た通りに、境界を設定した」 (no TOMy >k, KaK hm hx 3HaxopH orBejiH no penKy no Hnero, h MOK HM yHHHHJl)のである。    、

以上、証文が全く提出されず、もっぱら証人‑古参住民の証言によって土地裁判が進められて いる事例を二つ検討してみた。一つでは、一方が証人を出していないという理由でその敗訴がき められ、もう一つでは、証人‑より艮き人々‑古参住民を重視せよというイワン3世の指示がそ のまま実行され、現地調査の結果、一方の証人が拒否されることになり、境界設定も勝訴者証人 の明示した通りに行なわれているのである。

むすびにかえて

われわれは15世紀ロシアの土地裁判を、決闘、証文提出、証文のない場合の三つに分けて、そ れぞれに事例をあげて検討してきた。結論としては「証人‑古参住民」が何れの場合にも重要な 役割を果たしていることが見られた。勿論、以上の考察には省略したが、証文だけで判決が下さ れていることもあり(1478‑82年の判決書、修道院同志の争いであるが、判決理由には証文のこ とがあげられていない)、(58)双方からの「証人‑古参住民」に対する訊問のあとで土地台帳の記 載によって判決が下されたこともある(59)/一般に土地裁判に土地台帳が利用されることきわめて 稀である)。しかし、全体からみるとこれらはむしろ例外である。土地裁判における「証人‑古参 住民」の重視は、16世紀にも見られ、とくに北方地帯にのみ通用されたと見なされている1589年 法典第151条にはこれについての条文化されたものがのこされている[60]

「証人‑古参住民」が本稿まえがきに述べた「農民‑古参住民」と同一概念でないことは、も はや疑をのこさないであろう。「証人‑古参住民」は、50年、60年、70年、という「昔から」そ の土地を「記憶している」ことを、証言に当たってまず裁判官に述べており、最高では「生れて 120年」という例さえある(61)コーチンは「証人‑古参住民」のなかに共同体の代表者を見よう としている。し62)注目すべき見解であるが、修道院側が自分の証人として黒土農民などを連れてき ていることなどを考慮するとき、また「昔から住んでいる」でなく、「昔から知っている」と述 べている点からも、慎重な検討が必要であろう(63)

。ただ、物的証拠よりは、人々の証言を重視す

るという考え方は、17世紀1649年法典にも引きつがれていることを附記しておきたい(64)

(1)これらの史料については、 Jl. B. Weperlhhh. PyccKne eeoノnajibHbie apxHBbl XIV‑XV BeKOB.

H. 2. mリ1951. CTp. 226‑252 Cra. 2. 《npaBbie rpaMOTbi KaK naMHTHHKH AeHTCffbHOCTH

<j)eoAaJibHoro cyAa》); AC:9H. t. I. crp. 649‑650.

(2)拙稿「イワン3世の1497年法典‑本文試訳ならびに註解‑」 (奈良学芸大学紀要、第8巻第1 号1959年)およびそこにあげられている諸文献参胤 とくに、 Cy月e6HHKH XV‑XVI BeKOB. no#

06me員pe月. B. R. TpeKOB. M.‑JI., 1952. Caaaee‑CyAeSHHKH XV‑XVI BB.).

(3)拙稿「17世紀ロシアのホロープ裁判」 (奈良教育大学紀要、人文・社会科学、第18巻第1号、 1969

;too

(4) ,71.M. MBHHa. Cy月eOHue AoKyMeHTbi h oopbOa 3a 3eMJito b pyccKOM rocy/iapCTBe bo

BTOpoft nojiOBHHe XV‑Hanajia XVI b. 《Hct. 3an.》. t. 86. 1970. dp. 326‑356.

(15)

70

15世紀ロシアの土地裁判と (石戸谷)

(5)前掲拙稿「イワン3世の1497年法典」、とくにその注(14)参照。

(6) 1497年法典と1550年法典との関係については、 CyaeSHHKH XV‑XVI bb. CTp. 610‑615; UPU.

Bbin. 4. CTp. 345‑347.の《TaSflHUbl COOTHOIHeHH兄CTaTe員CyAeOHHKOB》参照。

(7) AC3H. T. I. NsNs 257, 340, 582, 628, 651; AC:)H. t.II. NaNs 296, 319, 334, 336, 375, 407, 409, 411, 414; AC∋H. t. III. NsNs 22, 25, 27, 50, 223, 364, 375, 377, 390.

(8) AC:5H. t. I. Nt 582. (Cmィcck cep. XVI b.)

(9)この史料では「証人」は、 《3Haxopn》, 《JIK)AH且06pbie》 などと呼ばれているD かれらのなかに は、 「下級士族」 (Aera 6oapchくHe)、 「郷民」 (BOJIOCTHbie AK>AH)、 「用人」 (ABOpCIくH蕗)などが入

っている(AC3H. T. I. Ns 582, CTp. 463).

(10) AC3H. t. II. Ns 343. (Crlhcok 1502 r.)‑ この判決書は1502年の判決書に引用されている:

AC∋H. T. II. }喰336. (noaji. 145.0×15.0.原本の大きさをcnで示す、以下同じ)

(ll)この寄進状は、 1450‑54年のものと推定されて、 AC三)H. t. II. No 325に独立して収録されている。

(12)テクストは当時の用法からすれば「決闘に行くなと命ずる」と訳出すべきであろうかo

(13) 《叩aBa兄rpaMOTa》ほ、わが国では「権利の証書」と訳されていることもある。例えば、田中陽児

・米川哲夫訳編「ロシア史の時代区分(下)」 1959年、 389ペ‑ジ。それは、たしかに土地あるいは 人身に対する所有権の証文の一つであるが、内容的にはつねに裁判の結果得られた権利を保証する ため勝訴者に裁判の詳しい経過をそえて交附されたものである。なお、拙稿「16世紀末のホロープ 登録帳簿」 (史学雑誌、第71編第6号、 1961年)、とくにその(8)判決書の項参照。また上の(10)に 述べたように、勝訴者‑修道院側は前回の裁判で交附された判決書を次の裁判で提出し利用してい

るのである。要する、その内容からいえば、判決書は「裁判記録」と同じ史料的意義をもっている のである。なお、 「判決書」が交附されなかった場合もあることについては、事例(8)参照。

(14) Ae3X. i.I. I嶋117.

(15) 《ncweBa兄rpaMOTa》なる術語は、 「ノヴゴロド裁判法規」 (HoSropOACKaH rpaMOTa)第33条にも 兄いだされる。 nPIl. Bbirl. 2. CTp. 216 (TeKCT), cto. 224 (口epeBOA), CTD. 240 (KOMM.)‑

(16) 1497年法典、第4‑6条、第38条、第48条、第68条。

(17) AC3H. t. II. J砲375. (CnHCOK XVII b.)

(18)この文書は、 1434‑35年ごろのものと見なされて、 AC3H. t. II. JSfe341に独立して収録されてい

o

(19)同じく、 AC3H. t.II. Mb350.

(20) AC三W. t. I. N‑571.後述の事例(6)参周。

(21) TaMサe. Wa 607a.後述の事例(10)参照。

(22) AC:Wi. t. II. Wo481.

(23) AC3H. t. I. M537.後述の事例(5)参照o (24)事例(6)参照。

(25) AC3H t. I. Jl喰537.

(26) TaM xe. J¥Ta 138.

(27) Tain we. 137.

(28)この訊問と答弁のなかに「農民‑古参住民」と「証人一古参住民」との区別がよく示されている。

多数の農民を代表して裁判に立ちながら、他に「古参住民がいない」というイワシコの答弁のなか には、その土地の歴史を「古くから」知っている、 「証人」としての「古参住民」のみが意識され ている。

(29) AC:)H. T. I.沌129, No130.

(30) TaM ae. Ns538.

(16)

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

71

(31) TaM 〉kc.Nb 539.

(32) TaM Xe・沌571. (CnwcoK cep. XVI b.)

(33) Tain 〉Ke. M>563.この「恵与状」は、もっと簡略な形で、次の事例(7)にも見られる。

(34) 「イスト‑プニク」 (HCTOf5nHK,HCTOnHHK)は、普通はペ‑チカ焚きの用人(身分はホロープ)と 考えられているが、コ‑テンは織物に関係した用人という新説を提唱している r.E. Koqmt. Ce‑

JIbCFとoe x03月如tbo Ha Pvch b nepHOノ% oopa3OBaHH兄PyccKoro ueHTpaJiH30BaHHoro rocya‑

apcTBa. KoHeu XIII‑HaMajio XVI bりM.‑JI., 1965. CTp. 459‑460.

(35)修道院長ニコン(Hhkoh)については、 AC∋h. t. i. yiくa3aTejib. cto. 686の史料および CTp.

764参照。

(36)このなかには「かじや」 (KV3HeiOが1人はいっている。

(37)これらの者は「証人、大侯のリュージー、古参住民」 (3HaxopH, moAK BeJiHt(OrO KHH3H CTapO 米HJIUbl)と呼ばれていて、なかに1人「古い用人」 (CTapo員ABOpCKO員)が入っている。 《ABOpC‑

zro員》ほ、身分はホロープで、現地で土地の管理など㌢こ当たった者であろう。

(38) AC3H. t. I. Ni> 564. AC:=>H. T. Iの刊行者は、この文書を《nocbMHa兄(yKa3Haa) rpainota》

と名づけている。

(39)ただし、次回の裁判で(事例7)、オントン‑農民側は、今回の裁判後に耕作をつづけたのはこの 文書によってであると訴えている。すなわち、 《A MMHVTHHCKHe, ronoAHHe, xpecTbHHe Ha Tex 3eMJiax cexガXHTH no TO蕗no nocbMHOH rpainore. A to, rocnome, 3eMJiu Be淵KOTO KH刃351 MHmyTHHCKOro CTaHy.》 とオントンは主張している(AC3H. t. I. Ns 628. CTp. 539)

これをもって考えれば、 ≪余の土地のために立つへし≫は、 「余の土地に味方せよ」の意にもとり 得る.しばらく問題としてのこしておくo

(40) AC三3H. t. I. Ns628. (CnncoK. cep. XVI b.)

(41)この寄進状は、 AC∋H. t. I. Nb61に独立しても収録されている。

(42) AC三3H. t. II. Ms 414. (noノVi. 42.5×28.2)

(43)現代ソビェトで「同志」の意味で使われている《TOBapHIU》なる語は、 15世紀前後のロシアの土地 関係の史料にしばしばあらわれ、ときに共同体を予想させることもある。この場合はその一つであ る。

(44)修道院側の証人が修道院嶺農民からでなく選ばれていることは他にも例があるが(AC∋H. t. I..No 340)、この場合も修道院側証人は5人全部にかかるかどうかほ断定できないにしても、列挙のはじ めに《JHOAeM AOOPUM CTapOKHJIUOM BejIHKOrO KHH3兄xpecTb兄HOM》といわれている。

(45) 「賄賂」については、 1497年法典第67に.も規定されているO

(46) AC3H. t. I. J嶋603. (Floノyi. 19.5×15.7)

(47) Tain xe. Ns 279. (Ciihcok nan. XVI B. 18.3×16.5). Cm. npHMenaHHH k stoh rp. : AC∋HI T. I. CTp. 613.

(48) TaM xe. Ns497. (ncwi. 12.8×14.3)

(49)テクストでは、 《Jleta ceM(b) twc刑MeTBepTar(o) Hioia》、西暦に換算すれば「1496年7月」

になる。

(50)あるいは、かれらの立会・証言が省略されているのかも知れない。いずれにせよ、 「証人一古参住 民」に言及していない境界設定状もある。例えば、 AC三?H. t. I. J¥6J¥6 413, 425, 446, 504, 549 ;

AC:?H. t. II. NeNa 260 (《Me>K C06010 noroBop只H A0.710 >K兄BJI. KH3月6eji03epcKHx otbo‑

TMHKOB》といわれている)、 284, 290 (原本30葉を趣える長文かつ各地にわたるもの)O (51) AC:SH. t. I.沌257 (‑nPn. Bbin. 3. ctd. 58‑59, KOMM. CTp. 76‑77).

(52) TaM 〉kc JMs604. (CnHcoK cep. XVI b.)

(17)

72

15世紀ロシアの土地裁判と証人‑古参住民(石戸谷)

(53) Tainサe. M> 607a. (noJin. 59.5×33.0‑Ha 2m.)一 以下の考察はこれによるがほとんど同じ内 容のものが同時代の写本で「裁判記録」として伝わっている:AC∋H. t. I. No 607. (CnncoK coBpeM. 77‑6×25.0‑Ha 2湖.).なお、これら二つの史料については、 npHMCTaHHH K &ltTaM.

AC:)H. T. I. Ctd. 632‑633.

(54) 「カズナー」とは、文書保管を司った役所で、また経理も担当した。

(55)テクストの要点を示せば: 《A 3HaXOOH, JIHDJ.H Ao6pbie crapoxHjiufi, y Hac ec(b) jKe‑‑Ha 3e‑

jieHeBO cejinmo‑Bori>,aaH的HKyjIHH, BeJIHKOr(o) KH(a)3H C(fal)汀t fiOHpbCIくOH; ‑A JIK>AH Aoopbie Be^HKor(o) kh刃3(只) xp(e)cTb只He Hhkoh, Aa Kapnもcothhk nepcziOjicKo員,=・》

(56) 《H KHH3(ら) HBaH Taxo peK : Moh, r(o)c(n0月jOhc 3Haxopガ月aHJMOB舶∬xajieB c TOBapiイ・

mu no cecb jsy6 3HaioT, a jxane He 3HaioT.》

(57)もう‑つの理由として、 《no tomv, hto Ha cyAHbie m)okh c刃He nocna.n》があげられている.

《cyAHue MyォH》とは裁判の列席者を指さすが(AC3H. t. I. yKa3aTejib. CTp. 759)、この判決 理由の解釈については、断定を控えておく。

(58) AC3H. t. I. M467.修道院と修道院が争っている、現存史料に関する限り、貴重な事例である。

(59) TaM we.沌585.

(60) Cy月efiHHKH XV‑XVI bb. crp. 400, 517.

(61) AC∋H. t. II. Ns481.

(62) r. E. Kom卿. yica3. coh. CTp. 400.

(63)本稿の注(44)(55)参照。また1589年法典第151条に「桝やしていた、そして住んでいた古参住民」

とあることにソビェト史学も特別な注目を向けているo Cyノie6HHKH XV‑XVI BB. CTp. 517.

(64)前掲拙稿「17世紀ロシアのホロ‑プ裁判」、とくにその「5.ポワールヌイニオブイスクの実施とそ の結果」参照。

(ユ973年4月7日脱稿) (1973年4月16日受理) 補注

「農民‑古参住民」については、これを中心テーマとしたものではないが、拙稿「15世紀ロシアにおけ る農民移転をめぐる諸問題」 (史学雑誌、第82編第12号に掲載を予定されている)を参照されたい。

(18)

73

Ñóä î çåìëÿõ è çíàõîðè-ñòàðîæèëüöû â Ðîññèè ÕÓ âåêà

Æþðî Èñèäîÿ

Èñòîðè÷åñêèé ôàêóëüòåò, Íàðà ïåáàãîãè÷åñêèé èíñòèòóò, Íàðà, ßïîíèÿ

Òåðìèí «ñòàðîæèëüöû» èìååò äâà çíà÷åíèÿ â èñòî÷íèêàõ Ðîññèè Õö âåêà.  æàëîâàííûõ ãðàìîòàõ ýòîò òåðìèí îçíà÷àåò «êðåñòüÿí» â ïðîòèâîïîëîæíîñòü ëþäÿì

«ïðèøëûìè». Íî â ñóäåáíûõ äîêóìåíòàõ ïîä òåðìèíîì «ñòàðîæèëüöû» ïîäðàçóìåâàþòñÿ çíàõîðè-ïîñëóõè. Íàøà ñòàòüÿ ñòàâèò ñâîåé çàäà÷åé ïðîñìîòðåòü, êàêèå ðîëè èãðàëè â çåìåëüíûõ òÿæáàõ çíàõîðè-ñòàðîæèëüöû.  òî æå âðåìÿ íóæíî ó÷èòûâàòü òàêîå îáñòîÿòåëüâî, ÷òî íåò â íàøåé ñòðîíå íè îäíîãî èññëåäîâàíèÿ î çåìåëüìûõ ñóäàõ.

Èòàê ýòà ñòàòüÿ áûëà äîëæíà ïîñòàâèòü ñåáå öåëüþ ðàññìîòðåíèå ñóäíûõ ïðîöåäóëàõ î çåìëÿõ.

 ñèó÷àÿõ ñîãëàñèÿ íà «ïîëå» ñî îáîèõ ñòîðîí çíàõîðåé-ñòàðîæèëüöåâ, òÿæáû, êàê ïðàâèëî, ðåøàëèñü íå ïîñòðåäñòâîì ïîåäèíêà, à íà îñíîâàíèè ïîêàçàíèé ñâèäåòåëåé

(çíàõîðåé-ñòàðîæèëüöåâ). Äàæå â ðÿäå ñëó÷àåâ, êîãäà «êðåïîñòè» (ïèñüìåííûå äîêó- ìåíòû, íàïðèìåð, ãðàìîòû äàííûå, êóï÷èå, æàëîâàííûå) ïðåäñòàâëÿþòñÿ ïåðåä ñóäüÿì, ñóäüÿ âñåãäà ñïðàøèâàþò, «Ó âàñ ëè çíàõîðè-ñòàðîæèëüöû íà òå çåìè?». Ñòàðàæèëüöû, íå êàê îáùèìè êðåñòüÿíàìì, à â êà÷åñòâå çíàõîðåé, òðåáóþòñÿ òîãî, ÷òî îíè «ïîìíÿò»

òå çåìëè «èçñòàðèíû», íå òîãî, ÷òî îíè èçäàâíà æèâóò íà òåõ çåìëÿõ.

(Received Apri1 16, 1973)

参照

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