『国富論』における宗教的教化施設経費論の基本構 造
著者 舛谷 謙二
雑誌名 東北学院大学論集. 経済学
号 125
ページ 375‑401
発行年 1994‑03‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024493/
「国富論」における宗教的 教化施設経費論の基本構造
舛谷謙
一一日 次 I 序論
Ⅱ宗教的教化の経済的効果 1 分業の否定的側面の矯正 2 装務感の強化と個人的名声の付与
Ⅲ宗派間自由競争制度と国教制度
1 「職務と報酬の均等化」と「自発的寄進」
2 商工業発達の帰結としての宗派の多数性 3 国教制度に対するスミスの評価
(1) 国教制度否定論
(2) 国教制度肯定論 4 聖職禄の決定要因
Ⅳ結語
I 序論
アダム・スミス (AdamSmith, 1723‑90)がスネル奨学金(Snell ex‑
hibitionsatOxford) 23人目の給費生としてオックスフォード大学・ベリ オルカレッジへ向かったのは, 1740年のことであった。 この奨学金ばスコ ッ トラント.における聖職者養成を目的として, 1679年にグラスゴー大学の 卒業生ジョン・スネルによって創設されたものであり,帰郷後は聖職に就 くことが条件付けられていた。しかしながら, スミスの当時この条件は有
東北学院大学論集経済学第125号
名無実と化していたという。なぜなら, スコッ トラント監督教会(Epi‑
scopalChurchinScotland)の牧師を養成しようとするスネル本来の目 的は, スコッ トランド国教会(EstablishedChurChofSCotland)を長老 派(Presbyterianism) とし,監督教会派牧師を残さなL,という名誉離命 の際の取決めにより,挫折していたからである 1.その後になされた同奨 学金の受給条件改訂もあって, オックスフォート'から帰郷後, スミスば聖 職に就くことばなかったのである。
このスネル奨学金受給条件の変化は, 当時のスコットラント.をめく‑る宗 教的状況を象徴しているように思われる。事実, 名誉革命によって長老派 の支配が確立した後も,特に聖職推薦権(therightsofpatronage)の在 り方をめぐって論争が絶えず, 1733年には第1次分離(FirstSecession) が, 1761年には第2次分離が起きている。 まさに, スミス当時のスコ.ソ ト ラント.の宗教界は「きわめて複雑」な状況を呈していたのである2)。
l ) JohnRea. ,LifeofAdamSmith' , Kelly, 1965"pp. 167.大内兵衛・
大内節子訳『アダム・スミス伝』,岩波書店, 1972年, 1920ページ。水田洋
「アダ・ム・スミス研究』, 未来社, 1968年, 53ページ。
2) 法的にば,聖職推薦権の復活を内容とするアン食王治世第10年法律第7号 (AnAct toprevent thedisturbingthoseof theEpiscopalCommu‑
nion inthatPartofGreatBntaincalledScotland)が「前世紀に非常な る影響を与えた宗教上の紛争が終結したことを明かす証拠」と見らオIるもの の(TheStairSociety, $AnlntroductiontoScottishLegalHistory' , Vol.20,Partl,1958,P51.戒能通}単・平松紘・角田猛之縞訳「スコッ トラ ンド法史』, 名古屋大学出版会. 1990年, 109・<‑ジ) ,現実の宗教界はまさ にその聖職推薦権をめ<‑ ‑ て大きく動L、て、 、る。浜林氏は「18世紀から19世 紀にかけてのスコットランド教会の分裂,統合は極めて複雑」と述べて, 18 世紀スコットランドの宗教的状況を次のように考察Lておらオ[る。その概要 ば以下の通'ノである。第1次分離(1733年)の中心人物であるエビニーザ・
アースキン (1680 1754)は,聖職推聴権の盈ならず長老派牧師叙任に対し ても反対して, 会衆による聖職者推聴の立場を主張して独立L,分離派教会 (SecessionChurch)を設立した。同教会も1747年には自治都市の市民が行 なう誓約をめ<‑って, それを容認する市民派(BUrghers) と拒否する反市 民派(Anti‑bUrghers)に再分裂する。第2次分離(1761年)の中心人物ば トー、"ス・ギレスピ (170874)である。教会の主導権を握・三,ていた穏健派 (Moderates)は貴族による聖職者推聴権と会衆の推薦による牧師叙任の両 方ともに反対していたが, ギレスピば後者には賛成する民衆派(popular //"
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「国富論』における宗教的教化施設経費論の基本描造
このよう唯時代状況を背景としながら, スミスは『国富論』第5篇「主 権者または国家の収入につ↓ 、て」第1草「主権者または国家の経費につい て」第3節「公共事業と公共施設の経費につL,て」第3項「あらゆる年齢 の人々を教化するため施設の経費について」と題する箇所において,公共 施設経費論という専ら経済的観点から, 「人々を現世でよき市民にするこ とよりも,来世という, もう 1つのより善い世界のたぬに,今から用意さ せることを目的とする:' '」宗教的教化(religious instruction)を主要内 容とする,公共施設論を展開している。
この宗教的教化のたぬの施設経醤が如何なる方法で醸出されるべきかに ついてのスミスの結論は, オ〕れわれが見るところ,必ずしも明快なもので はなL,。すなわち, (1)宗教的教化施設は「社会全体の利益になることは 疑いない」ことから,その経醤は「社会全体の一般的鰊出でまかなっても,
不当とL 、うことにはなるまL,」とされたのち, (2)教化から「直接の利益 を受ける人々」の「任意の鱸出ですべてまかなっても, おそらく同じよう に穏当であり, いくらかのホl1点さえともなうかもしれない」とされてL,る のである4もこのようにスミスは,宗教的教化施設経費に対する公共的負 担と樫、的負担の2つの方法を併記したのである。
この一見して暖昧な結論はスミスが,宗教的教化の経済効果がもつ社会 的および個人的機能とその相互性を認識したことと,宗派間の自由競争制 度を志向しつつも現存する国教制度を有効ならしめようとする意図の所産 であったように思われる。
以上のような観点から,本稿はスミスが如何にして『国富論』第5篇第 1草結論部分‑E叙述される上記2つの結論に至ったのかという点を明らか
、、"party)の代表として処分を受け,救済教会(ReliefChurch)を創設するに 至る。浜林正夫『イギリス宗教史』,大月書店, 1987年, 21520ページ。
3) R、 H.Campbell,A.S.SkinnerandW.BTodd (eds.), 'Anln‑
quiryintotheNatureandCausesof theWealthofNations' , Oxford, 1776, p.788.大河内一男監訳『国富論』,中央公論社, 1976年,第Ⅲ巻, 154ペー ジ。本稿では以下,WN, p788.邦訳Ⅲ, 154ページのよ フに略記する。
4) WN, p、815. 邦訳Ⅲ, 2()67ページ。
東北学院大学論集経済学第125号
にするために,同章第3節第3項で展開される宗教的教化施設経費論の基 本構造を, スミスに即して考察する。
その順序は以下の通りである。 Ⅱ章は宗教的教化がいわば「需要」され る要因の考察であって,宗教的教化がもたらす社会と個人に対する経済的 効果を概観する。それに続くⅢ章ば宗教的教化のいわば「供給」に関わる 問題の考察であって,宗派間自由競争制度と国教制度とがもたらす聖職者 (clergy,clergyman,clergymen)の《質》と《蛍》との問題に関して,
経済的観点から若干の検討を加える。
Ⅱ宗教的教化の経済的効果
本章においてわれわれは,社会的および個人的に宗教的教化が必要とさ れる際経済に直接関連する局面を2つの場合において概観する。すなわ ち,第1に, 「商業社会」の基本原理としての分業がもたらす否定的側面 に対する矯正効果であり,第2に,宗派に属することが個人に信用と名声 とを付与する効果である。
1 分業の否定的側面の端正
スミスは『国富論』冒頭に社会的富裕(socialopulence)を増進させ る原理として分業論を配置し, その効果を次のように指摘した。 「よく統 治された社会では, 人民の最下層にまで広く富裕がゆきわたるが,そうし た當裕をひきおこすのは,分業の結果として生じる, さまざまな技術によ る生産物の巨大な増加にほかならないのである5)」と。
このような普遍的富裕を可能にするのは,分業が次の3つの経路におL,
て生産力を増進させる結果である, とされる。すなわち,第1は技能の増 進で.あって,分業の結果として「仕事は単純な作業に還元され」, その作 業は「その人の生涯のただひとつの仕事」になることによる。第2は仕事 と仕事の間を移動する際に要する時間の節約であり,そして第3は,労働
5) WN, p‑22.邦訳1 , 20・‑‑:‑ジ。
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『国富論』における宗教的教化施設繰費論の雄本櫛造
を容易にしかつ短縮する機械の発明である6も
分業の生産ノ]増進の原因と帰結とをこのように見たスミスが,その否定 的側面をも同時に認識していることば,われわれの注目に値する事柄であ る。すなわち, 人々は全生涯を少数の単純作業に費やすために,理解力や 工夫を発揮する機会をもちえず,その結果として, 「神の創り給うた人間 としてなり下れる限り愚かになり,無知になる」という指摘である。 この ことは私生活での日常業務の雄ならず自国の重大な利害に正しい判断を下 すことを妨げるのであり,加えて, 「勇敢な精神」も喪失させてしまう,
とスミスは懸念を表明している7) 。このようにスミスは,分業の効果が「知 的な,社会的な,軍事的な美徳の犠牲において獲られる」ものと認識し,
政府が教育によってその防止にあたるべき必要性を強調したのであっ た8も
『国富論』におL、てこの指摘が,宗教的教化を主要内容とする第5篇第 1章第3節第3項の直前に配置されていることは示唆的である。 さらに,
同様の指摘が展開されている『法学講義』の場合には, ヨリ明示的に宗教 的教化との関係が指摘されている。すなわち, 『講義』第2部「治政につ L,て」第17節「風習に対する商業の影響について」においてスミスは,分 業のもたらす「若干の不都合」として,①「人々の視野を制限すること」,
②「教育が大いに閑却されること」, そして③「尚武の精神を消滅させる 傾きがあること」を挙げ9 1,分業体制に組込まオLる下層民の子供たち (lowpeople'schildren)に対する教育の重要性を次のように述べて,識 字教育が宗教的教化を遇して利益をもたらすことを指摘してL,る。 「教育 によって彼等は読むことを学び,そしてそれは彼等に宗教の恩択を与える。
WN, pp. 178‑邦訳1 , 156ページ。
WN, pp、781 2.邦訳Ⅲ, 143ページ。
WN, p‑745.邦訳Ⅲ, 88ページ。
R. L.Meek, D‑D・RaphaelandP,G.Stein(eds.), "Lectureson Jurisprudence',Oxford,1978,pp.539‑4(). 禺島善哉・水田洋訳『グラスゴ ウ大学講義』ザ 日本評論社, 1947年, 4548ページ。本稿では以下, LJ(B) . pp、53940.邦訳4548ページのように略記する。
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このことは,敬神の意味から見た場合だけでなく , それが彼等に思想や思 索の主題を与えることから見ても,一大利益である'0)」と。
このように, スミスにあって社会的富裕を可能ならしめる分業の否定的 側面ば,教育と宗教的教化を通して矯正されるものと位置付けられている。
その場合,その矯正の恩恵は第一義には個人に帰するべきものであるが,
社会成員の判断力向上とL、う意味からすれば,社会の不安定要因を除去す ることによって分業体制を更に確実なものとする社会的効果をもつものと 見ることができよう。
2義務感の強化と個人的名声の付与
スミスは宗教的教化が個人に及ぼす効果として, 人々が小宗派に属する ことによって信用と名声(reputation) とを得るとL,う点を指摘してL,る・
すなわちスミスによれば, 「身分の低L,人」は大都会ではその行動に注目 する者なと・いないことから, 「世に埋もれ,不善のうちに身をひそめる」
ことになるが, 「宗教上の小宗派の一員となる」ことによって彼は「ある 程度の重盈を備えた人物となる」のであって,それは, 「すべてかれと同 門の信徒たちは, その宗派の名誉のために,かれの行動を観察しようと注 意を払」 う結果とされる] 'h このように,信徒間の相互規制作用が宗派の 規律を保持する結果として,その宗派に属する個人に名声を付与すること
1O) LJ(B), p.540.邦訳456‑7‑<‑ジ。
1 1) WN,pp.7956.邦訳Ⅲ, 16970ページ。Andersonは個人の行動に対す る外部モニタリング(externalmonitoring)賀用の観点を強調している。
彼によれば,宗教的信念は自らの行動に関する内部モニタリングを可能にし,
莫大に要する外部モニタリング費用を節約する。この意味からすれば,個人 が「小」宗派に属することは,外部モニタリング賢用を最小化するという社 会的有利性をもつことになる (GrayM・Anderson, gMr.Smithandthe Preachers:TheEconomicsofReligion intheWealthofNations奇,
ノリz"・71JzIQ/PD"" ノ壁。鈍cmm)',V01.96No‑5, 1988,p、 1069)。
Andersonはまた, 「スミスが名声という資本価値(capitalvalueof reputation)を理解してL、たことは明らかだ」と述べて, スミスが教育とと もに名声を人的資本(humancapital) と捉えているとする。 この観点かノ,
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『国富論』にオヴける宗教的教化施設経賀論の基本櫛造
になるのである。
宗教が個人的信用を高める作用は, 『道徳情操論』においては個人の義 務感強化の結果として次のように説明される。 「宗教ば自然の義務感を強 化する。 したがって世間の人々は一般に深い宗教的楕操を抱L,ているよう にみ、える人為の正直を非常に信用する傾向がある。このような人右は,他 の人々の行為を規制する紐帯のほかにな拓別個の附随的な紐帯の制約を受 けて行動しているように考えられるからである12)」と。すなオつち, 『国富 論』においては信徒相互による規制の存在を強調したスミスは,同時に『道 徳情操論』において,宗教が個人の義務感を強化する結果として世間の信 用を獲得することを可能ならしめる経路をも認識していたといえる。
スミスが『国富論』で述べたように,個人的名声が付与される対象とな るのは下層階級に属する「身分の低b、人」であることは注目に値するので あって, スミスが「富への道」と「徳への道」とが一致する階層として描 いているのは, まさにこの人々である'3も
さらに,後述する宗派間の自由競争との関係でここで指摘すべきは, ス ミスが「小宗派」のもつ肯定的・否定的両側面を叙述していることである。
、4らすれば,名声を求めて小宗派に属する個人の行動は,名声という人的賓本 獲得への需要行動と見ることができる(Anderson,op,Cit.,p,1070)。なお,
Rosenbergは人的資本概念を道徳性の領域まで鉱張して, スミスの商業社 会が「物的」資本のみならず「道徳的」資本によって安定的に維持されうる ことを指摘している (NathanRosenberg, "AdamSmithandthestock ofmoralcapital",HiSm"qfPり腕f"ノEc""IJ',V01.22No. 1, 1990,p.
17)。
12) D.D.Raphael andA.L.Macfie(eds.)# :TheTheoryofMoralSen‑
timents',Oxford,1976,p.170.米林富男訳『道徳情操論』(上),未来社, 1969 年, 366ページ。本稿では以下,TMS, p. 170.邦訳(上), 366ページのよ
うに略記する。
13) スミスによれば,慎慮(prudenCe)なる徳はきわめて現実性をもった徳 性とされる。 「個人の健康・財産・身分ないし名声に対する配慮・… は,一 般に慎慮と呼ばれる美徳の行なうべき適正なる仕事であると考えられる」
(TMS, p.213.邦訳(下), 454ページ)。この慎照の徳をもつ中・下層階級 の「すべての人がたえず自分の悪らしをよくしようとする自然の努力」
(WN, p.674.邦訳Ⅱ, 491ページ)のうちに, スミスは経済社会の安定性 を認識したのである。
弓J4
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すなわち,肯定的側面は既述のように, 「小」宗派なるが故に相互に規制 可能であることから,世間の評価が定まっている宗派であれば,そこに属 する個人が名声を獲得することを可能にするということである。一方でス ミスは,小宗派の道徳が「むしろ不快なくらい厳しく,非社交的」である ことを指摘し, 「小」宗派なるが故の狭量の存在に懸念を表明した上で,
この弊害を除去する2つの方策を示唆している'4' ・第1は主権者による「科 学と哲学の研究」すなわち学問の振興であって, 「科学は熱狂や迷信とい う毒にたいする偉大な解毒剤」と位置付け,その振興策として官職を得る 際の検定試験制度を提唱する。第2の方策は「民衆娯楽」の奨励であって,
それは迷信や熱狂の温床をなす「斑鯵で陰気な気分」を排除するに資する とされ為ことから,何らの制限を設けず完全に自由な形態で奨励すること を推奨するのである。
これら2つの方策を約言すれば, スミスは宗教的教化の私的効用を述べ る際にも,それを支える社会的制度の存在を顧慮していたのである。
Ⅲ宗派間自由競争制度と国教制度
本章にお↓、てわれわれば,宗教的教化を目的とする制度の2類型,すな わち宗派間自由競争制度と国教制度について, スミスに即して検討する。
1節では,聖職者の《質》と《量》とを安定化させる条件としての「職務 と報酬の均等化」について述べ, 2節では商工業発達の必然的結果とされ る巨大宗派の小宗派への分裂の意味を取り上げる。さらに3節では,国教 制度に対するスミスの相異なる2つの評価について考察し, 4節では,望 ましい聖職禄の条件が如何なる方法で可能に唯るのかを『国富論』第1篇 の賃金格差論との関連に拓いて検討する。
1 「職務と報酬の均等化」と「自発的寄進」
スミスば宗教的教化施設経費論の最終部分において, 「ある職務が立派 14) WN, pp.7967.邦訳Ⅲ, 170‑1‑<‑ジ。
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に果されるためには,それにたいする給料なり報酬なりが,できるだけ正 確に,その職務の性質と釣り合っていなくてはいけないように思われる」
と述べて,職務とそれに対する報酬とが均等すべきことを指摘して, その 項を締めくくっている15k職務に比して報酬が低過ぎる場合には, それに 従事する者が卑劣で無能になる結果として,職務そのものが駄目になるの であり,逆に報酬が高過ぎる場合には,無責任になり怠惰になる結果, 「低 い時よりも,おそらく, もっとひと.L,ことになりがちである」とされる。
したがってスミスによれば,職務が適切に維持遂行されるためには, それ と釣合のとれた報酬が必要なのである。
職務に相応しい報酬が与えられることによって可能になる「職務が立派 に果される」 (properpe㎡ormanceofeveryservice) とスミスがいう場 合,それは何を意味しているのであろうか。それは「卑劣さ」 │ 無能さ」「無 責任さ」「怠惰」といったことを抑制するという意味で職業従事者の《質》
を保ち,かつ, 「職業そのものが駄目になる」ことを抑止する結果として 職業の数を維持し, また,継続的に職業従事者を誘引するという, いわば
《量》を確保することの両面を示唆したものと見ることができるように思 われる。われわれは上の意味での《量》の問題を次節以下で取扱うことと し,以下では職務としての聖職における《質》の問題につい‑〔若干検討す ることとする。
スミスは経済的観点からする聖職者の《質》の確保を, 2つの方面から 叙述している。第1は上記の職務と報酬との均等性の観点であり,第2は 報酬が如何なる財源から支出されるべきかという観点である。
第1の観点からすると,他の職業と比較した場合に聖職者という職業の もつ特性が明らかになる。すなわち, どのような職業であろうとも「大き な収入のある人」は「自分の時間の大部分ば,歓楽と虚栄と, さてば放蕩 に費やして」しまう。 ところが聖職者の場合には「その職務上の義務にあ てるべき時間を食ってしまうの詮か, それあればこそ僧侶にふさわい、重
15) WN, p‑813.邦訳Ⅲ, 203ページ。
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象と権威とをもってその職務を果たしてゆける,かれの人格の尊厳を,庶 民の眼からすれば, まず完全に台なしにしてしまうのである]61」。 このよ うにスミスによれば,聖職者において職務に比しての高い報酬は,他の職 業において同様であるように,本来職務に割くべき時間を歓楽や虚栄に費 やさせるの鍬ならず,加えて,そのことが聖職者の権威を失わせることに なるという意味で,二重の効果をもつものとされている。 ここにおいて,
後に見るように,聖職者の報酬が小さいことを望ましいとしたスミスの論 拠のひとつが提示されているといえる。
聖職者の《質》の確保に関するスミスの第2の論点は,その報酬を賄う 方法であって,それにば①聴講者の自発的な寄進(voluntarycontribu‑
tions)による場合と,②「その国の法律にもとづいてもらえることにな っている」聖職禄(stipend,benefice)による場合とが存在する。
このうち前者ば聖職者の《質》を維持する観点からするスミスの基本的 立場であって,その採用によって聖職者の「努力,その熱意と勤勉の程度」
は後者に比して「はるかに大きくなる」と,スミスはゑる'71 .この結論は,
「どんな職業でも, . . . . . .努力せざるをえない必要に比例して努力す為のか つねであ」 り, 「対抗と競争は, . . . . .他に抜きん出ることを野心の目標な らしめ, しばしば,最大限の努力を引き起す18)」という言葉に端的に表現 されている,他者との対抗的競争関係が個人の努力を最大化するという,
スミスの基本的認識がそのまま適用されているものといえる。一方,定額 の聖職禄に依拠する場合,聖職者たちは「人気を集める手管(artsof pOpularity),改宗者をつかむ,ありとあらゆる手管」をなおざりにする として,人々の忠誠と献身を維持するための努力を怠る傾向のあることを,
スミスは指摘している。
同時にまたわれわれは,基本的にば自発的寄進によるべきことを確信し
WN, p、813、邦訳Ⅲ, 203ページ。
WN, p,788.邦訳Ⅲ, 154・<‑ジ。
WNpp‑73960.邦訳Ⅲ, 111ページ。
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ながらもスミスが, それが過度になった場合の「略奪なくんば給与なし (noplunder, nopay)」的な托鉢修道会(amendicantorder)の「手管」
が出現することを懸念したことに注意せねばならない。すなわち,その報 酬がすべて自らの勤勉にかかっていることから,托鉢修道僧は「一般庶民 の献身を湧き立たせらオLるのなら, どんな手管でも駆使」するのであ る19)D
次にわれわオ【は,先に挙げた聖職者の報酬を賄う2つの方法をぬく る.
スミスとヒューム(DavidHume,171176)の間の見解の相違を検討する。
ヒュームの懸念は自発的寄進に依存する場合に現われる聖職者の打算的精 励(interesteddiligence)であって,聖職者は「自分に帰依する人々の 眼に,詮ずからがより高貴で神聖なものと映るように」,他宗派に対する 嫌悪の情を吹込<Z製、,真理や道徳や品位を閑却し, 「俗衆の感情と軽信につ けこむ新しい手管に精を出」すようになると見る。ゆえにヒュームは,聖 職者に定額の収入を与えることによって, 「L,わば,かれらの怠惰を買収
してしまうこと」を提案し、聖職禄による方式を推奨するのである20も このヒュームの立論に対するスミスの反論は次の通りであって, それは 後述する国教制度否定論の1つの論拠を示している。スミスによれば,宗 教論争が激烈政時代は概して政争も多く,各政党は特定宗派と同盟関係を 結ぶことを有利とすることから,政争に勝利した政党と同盟していた宗派 は, 「為政者がかれらの見解や意向を尊重せざるをえなくなるまでに強力」
となり,敵対する宗派を屈伏させることと十分な聖職禄を要求し, 為政者 ばこれらの要求を受容せざるをえなかったのである21 )。 このようにスミス は,宗派と政党とが共に抗争の中で相互的に利用しあう結果として,特定 政治勢力と結合した独占的宗派の出現を憂慮したのであうた。
これまでわれわれは,職務と報酬との均等猫よび自発的寄進の2つを聖
19) 20)
21)
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pp.789‑90.邦訳Ⅲ, 1568ページ。
p.791 .邦訳Ⅲ, 15960‑<‑ジ。
pp.791 2.邦訳Ⅲ, 161−3ページ。
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職者の《質》を向上させる要因として考察してきたのであるが, スミスは その《量》的把握として 「宗派の数」と「聖職者の数」とを明別してい たように思われる。 よって,われわれば節を改めて, 《量》に関するスミ スの議論を検討する。
2商工業発達の帰結としての宗派の多数性
前節において見たように,宗派間論争が政争と結びつくことによぁ独占 的宗派出現の可能性を認識したスミスは,①「政府が諸宗派を櫛わずにお くこと」才dよび②「各宗派が猫互いに構い合わないよう義務付けること」
の結果として, 「諸宗派ばひとりでに速やかに分裂していって, まもなく 十分な数になってしまう」と述べて22),政府による諸宗教放任政策および 宗派間干渉排除政策の実行が,競争を有効ならしめるほど十分な数にまで
多数の宗派を生み出すことを確信したのである。
さらにわれわれが注目すべきは, スミスにおいて,多数の小宗派出現は 商工業発達の必然的結果として認識されていることである。すなわち,ローー マ教会は経済的要因によって変質を余駿なくされたと見るのであって, こ の観点からスミスば,宗教改革を引き起こした事情に関する経済分析を試 象ている。
スミスは中世末期のローマ教会を「これまでにつくり上げられた, もっ とも恐るべき結社23)」と位置付けた上で,その組織が強固で私的な利害関 係によって支えられたものであって,その関係の絆を解きほく.したのがま
さに「技術と製造業と商業の漸進的な発達」,すなわち経済的要因であっ たと見る24ももしそうだとすれば,商工業の発達と中世末期のローマ教会 の衰退とは,如何なる因果関係にあるのであろうか。
スミスは消費論の観点から分析を行なっており,その説明は以下の通り
22)
23)
24)
WN, pp.7934.邦訳Ⅲ, 166"‑<‑ジ。
WN, p‑802.邦訳Ⅲ, 182ページ。
WN, p.803.邦訳Ⅲ, 182ページ。
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である。商工業の発達により聖職者は大領主と同様に, 「自分の収入を,
その大きな分け前を他ノ、にやることもせずに,全部自分ひとりで使ってし まう方法z5}」を発見した結果,従者に対する慈善と接待(charityand hospitality) とが手薄になり両者の利害関係ば弱体化して行く261.聖職者 の場合には大領主に比して聖職禄が小さかったことから,既に14, 5世紀 におL ,て聖職者の絶対的支配権は衰退したのであった。このようにスミス は,消費財が絶対的に不足してL ,る封建制下で, その富を従者に使う以外 にはなかった聖職者が,経済の発達に伴って増加する生産物への支出を増 大させる結果,聖職者の世俗的権力が消滅したとして,経済的発展が宗教 組織を変質させてL 、くことを認識したのであった。商工業発達によっても たらされた聖職者の絶対的支配権の弱体化の結果,国家の影響力が増大し,
「僧侶が国家を撹乱する力も意図も, ともに弱まっていった271jと, スミ スは見るのである。
以上のような商工業発達による独占的宗教組織の変質と, 国家の相対的 影響力の増大を背景にした宗教放任政策によってもたらされる多数の'j、宗 派に関して, スミ入ばそれらが並存することの効果をと.のように認識した のであろうか。 この点に関して, スミスは次のように述べている。
「各'1,宗派の教師は 自分がほとんど孤立無援だとわかっているから,
ほとんどすべての他の宗派の教師たちをいやでも尊敬せざるをえない し, お互いさまに譲り合えば都合もいいし気持もいいものだと双方が 思うような互譲を重ねていると.時とともに,妬そら<、かれらの大 部分の者の教理は,脊理,欺踊あるいは狂信の混ぜものとはいっさL ,
25) WN, p.803 邦訳Ⅲ, 183ページ。
26) スミスは第3縄第4章におL ,て,商工業が未発達の状況では「田舎ふうな 客人のもてなL (mstichospitality)」が必然的であることを指摘LてL ,る。
「外国貿易も比較的精巧な製造業もなL ,ような国では,大地主は,土地の生 産物のうち, 耕作者の生活維持に必要なもの以上の余剰の大部分と交換でき るようf唾ものが. 虻に一つなL 、ので,余剰のすべてを自分の家で田舎ふうな 客人のもてなしに浪費Lてしまう」 (WN, pp.412‑3.邦訳Ⅱ, 53=・、t‑ジ)。
27) WN, p.803邦訳Ⅲ, 186ページ。
東北学院大学論築経済学第125号
無縁な純粋合理的宗教(pureandrational religion)になってしま うであろう28リ。
このように小宗派教師間に寛容と互譲の精神が成立する場合には,究極的 には純粋で合理的な宗教が出現するのであり,そのような寛容が存在しな いとしても,各宗派は「公共の平安をかき乱すには小さすぎる」ことから,
「それぞれが自分の特定の教義に行き過ぎた熱意をもったところで,ひど く有害な結果はとても生れてこない」のである29%このようにスミスにお いて, 多数の小宗派の存在は巨大宗派がもつ有害性を抑止するものとして 位置付けられてし、るのである。
3 国教制度に対するスミスの評価
スミスにおける国教制度論は二重の性格を有している。すなわち,前節 に述べた宗教的自由放任に依拠する小宗派肯定論を補強する「国教制度否 定論」と, スコットランド国教会猫よびスイス国教会に言及する際に展開 される,いわばスミスの現状認識論としての「国教制度肯定論」である。
われわれはこの2つの論点を順次考察することとする。
(1) 国教制度否定論
われわれは国教制度に対するスミスの否定的論拠を,次の3点において 指摘することができよう。
第1に, 「国教会ならどれでも, その僧侶は巨大な一個の結社をなして いる30)」のであり, 「宗教上の教師たちの打算的で積極的な熱心さが,危 険で厄介なものになりうるのは,その社会にただ一つの宗派しか許されて いないか,あるいは,一大社会の全体が2つか3つの大宗派に分れてL、る 場合だけである3')」, というスミスの認識。 このようにスミスは,国教会
28)
29)
30) 31)
p.793.邦訳Ⅲ, 1645ページ。
pp.793‑4.邦訳Ⅲ, 166‑、g‑ジ。
p.797‑邦訳Ⅲ, 172"‑R‑ジ。
pp.792‑3.邦訳Ⅲ, 163‑4ページ。
388−
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14
『国富論』における宗教的教化施設経費論の基本構造
を巨大な独占的組織と認識し,その危険性を指摘したのである32も 第2に, 「宗教の権威ば,他のいっさいの權威に勝る」ことから, 「この 権威がぼのめかす恐怖は,他のいっさいの恐怖にうち勝つ33)」のであって,
「自国の国教になってL,る支配的な宗教の僧侶に影響力を振う適切な手だ てをもたぬ主権者の地位」は「頼りなく不安定たらざるをえない34)」, と いうスミスの認識。国教会がもつ権威によって主権者が脅かされることを,
スミスは懸念したのである。
第3に, 「主権者の安全は,公共の平安とともに,主権者がかれら (聖 職者のこと−引用者)を操縦してゆく手段に依拠するところきわめて大 であ」って,その手段は「主権者が,かれらに授ける昇進の権限を握ろこ
と35)」であるが,それによって聖職者は,主権者に対して「自分を売り込 もうと努め」「時としては,下劣をきわめた諸いと迎合36)」さえ示す, と いうスミスの認識。 このように述べてスミスは,主権者が昇進権を利用し て聖職者を操縦するのと同様に,聖職者も特定の政治勢力と結合すること によって独占的地位を獲得しようとすることから,二重の意味で社会に損 害を与えることを危倶したのである。
(2) 国教制度肯定論
以上われわれは,小宗派間の自由競争が究極的には「純粋合理的宗教」
32) Andersonは「ローマ教会の複雑な財政組織に関するスミスの記述は,現 代の巨大法人組織を連想させる」と述べた上で, スミス当時規模と構造に おL,てローマ教会に比すべき組織は東イント.会社(EnglishEast lndia Company)程度であったとして両者を類比的に捉え, ローーマ教会に対して スミスが反対する論拠を宗教市場における独占性が重大な社会的損失を与え ている点に求めている (Anderson, op. cit. , pp. 1078‑80)。なお,東イン ド会社を含む合本会社(Joint‑stockCompany)に関するスミスの認識につ いては,拙稿「『国富論』における合本会社論の構造」 (『東北学院大学論集 繩済学』第121号, 1992年)を参照されたい。
WN, p‑79Z邦訳Ⅲ, 173ページ。
WN, p‑798邦訳Ⅲ. 174ページ。
WN,p799.邦訳Ⅲ, 177ページ。
WN,p808‑邦訳Ⅲ, 191ページ。
33)
34)
33)
36)
東北学院大学論集経済学第125号
をもたらすと見るスミスが,その論拠の補強として国教制度の否定的側面 を叙述した概要を示したが, スミスは長老制(presbyterianism)を採用 するオランダ・ジュネーブ・スイス・スコットランドの各長老派教会に属 する聖職者の大部分が「学識があり,上品で,独立心が強く,尊敬すべき 人々」であると言及するに至り,その論禰を国教制度肯定論へと変化させ ている。そこでわれわれは,その場合スミスが論拠としている,聖職推薦 権制度論と聖職禄論の2論点に関して,以下順次若干の検討を加える。
長老制的教会管理形態が確立された国として最も広い国土をもつ, スコ ットランド国教会について, スミスは次のように述べて称賛している。
「キリスト教世界で, もっとも富裕な教会でさえも, このひどく貧し い寄付財産しかないスコットランド教会以上立派に,国民大衆のあい だで,信仰の統一性,帰依の熱心さ,秩序の精神,規律正しさ, きび しい道徳をたもってはいない。スコットランド教会は,およそ国教が 生み出すと考えられる聖俗両面の,ありとあらゆるよい効果を,他の
どの教会にも劣らず,完全に生魏出している37U・
このような「聖俗両面の,ありとあらゆるよい効果」の結果として,人為 は「迫害を受けたわけでもないのに,完全に,ほとんど一人残らず,国教 に改宗した38) 」,とスミスはいう。ではその場合,聖職推薦権の存在は, 「だ れもが,象ずから適当だと思うとおりに, 自分自身の僧侶を選ぶこと39>」
を内実とする宗派間自由競争とは,如何なる関係にあるのであろうか。
スミスによれば, カルヴィンの支持者は教区住民に自らの教会の聖職者 に対する選挙権を与えたが, 「僧侶と人民双方の道徳を,同じくらいずつ 腐敗させる」ことになった 10もすなわち,住民は最も党派的かつ狂信的な 聖職者の影響下で行動し,聖職者は影響保持のために自らが狂信者になり,
37)
38)
39)
40)
邦訳Ⅲ,
邦訳Ⅲ,
邦訳Ⅲ,
邦訳Ⅲ,
WN, p.813 WN, p.810 WN, p792 WN, p,808
202ページ。
197ページ。
163ページ。
192ページ。
−390−
16
『国富論』における宗教的教化施設経費論の基本構造
最も狂信的候補者を優先させ,その混乱は周辺教区へと波及したからであ る。 しかし, この混乱の近隣への波及効果についてスミスは, 「スコッ ト ランドのような広大な国では, どこか僻遠の教区で騒動が起っても, も.つ と小さな国でのようには統治に混乱を生ずる恐れは少なかった4'」として,
スコッ トランドの地理的有利性を強調している。 さらに, スコッ トランド では聖職推薦権が回復された後,教会ば「その被推薦者に, . ・ ・ ・−その教区 における宗教的管轄権を授ける前に,住民のある種の同意」を求めること とした '2)。この場合にも, 同意獲得のための. またその妨害のための「人 気とりの手管」は存在するものの, スミスは,教区住民の事前的同意に支 えられた聖職推薦権が「しっかり定着43)」している (therightsof patronagearethoroughlyestablished) ことをもって.聖職推薦権制度 は僧侶選択権を内実とする宗派間自由競争原理に代替しうるものと認識し た上で, そのような組織管理方式を採用している長老派国教制度を肯定的 に評価したといえよう。
41) WN, p.809.邦訳Ⅲ, 194ページ。
42) WN, p.809.邦訳Ⅲ, 194ページ。 18世紀スコットラント国教会に描ける 分裂が,聖職推駕権をめ<・‑うて発生してL,ることば先の脚雛で触れたが, ト ーでス・ブラウンは「穏健主義の伸長と牧師推聴権制度の高飛車な押しつけが,
教会に致命的な影響を及ぼした」 (ThomasBrown, ChurchandStatein‑
Scotland,anarrativeof thestruggleforindependencefroml560to 1843',MacNiven&Wallace,l891̲松谷好明訳『スコットラント.におけ る教会と国家』,すぐ書房, 1985年, 194ページ) として, モの混乱した状況 を教会内部のひとつの視点から述べてL,る。それによれば,聖職推薦権復活 (1712年)後,穏健主義が台頭するまでの20年間は, 「会衆からの招聰をま ず得るという条件で,推薦を受諾する」 とL、うことが定着しており, 「招聰 のない牧師決定の例は皆無」という状況にあ‑〕た(前掲邦訳, 17980ページ)。
その恵味からすれば, スミスが描く 「教区使民の合意に基づく聖職推薦梅の 定着」は,ある時期に実現していたと考えられる。その後その状況は崩れ,
『国富論」執筆当時が第2次分離(1761年)による混乱の時期であったこと からすれば, スミスにおいて聖職推薦権の問題は, まさに時論的重要性を持 つものといえよう。な猫,Mullerはスミスの交遊範囲に穏健派の聖職者が 多数存在し, スミスの宗教観がそれによって影審されていることを指摘して L 、る・ Jerryz・Muller! #AdamSmithinhisTimeandOurs' , Free Press, 1993,p. 162.
43) WN, p.809.邦訳Ⅲ, 195'・、t‑ジ。
東北学院大学論集経済学第125号
次にわれわれは,聖職禄に関するスミスの論点を考察する。スミスは「長 老派教会は, どこであれ, 権威の平等は完壁である。が,聖職禄 (benefice)のほうは, そこまで行ってばいない44Uと述べて,論点を聖 職禄に移行させてL,る・
「教会の聖職禄が, と.れもこれもほとんど同じところでは,そのうち のどれか1つが非常に大きいなどということは,あるばずがない。 こ のように,聖職禄がとくに良くもなければ悪くもない, ということは,
もちろん行き過ぎになることもありうるが, それにしても,いくつか のたいへん好ましい効果をもつ45)」。
この引用から,われわれは長老派国教会の聖職禄に対するスミスの論点の 特徴を.次の2つにおいて指摘しうる。既述のように, スミスが「このひ どく貧しL、寄付財産しかないスコッ トランド教会」と形容したことと考え 合わせれば,特徴の第1は, スミスが長老派国教会の聖職禄が小さく ,相 対的に等しいと見たことであ為。そして第2ば,そのことが好まい、効果 を招来するものと見たことである。われわれは第1の特徴については次節 にて考察することとして,以下では第2の特徴すなわち聖職禄の小ささ と相対的平等性のもたらす効果に関して検討しようと思う。
スミスによって認識されている, ′j、さくかつ平等な聖職禄の効果は,以 下の3点に集約される。 まず最初に,聖職推薦権者に対する買収を抑止す る効果である。すなわち,聖職禄間格差が小さいことから, ヨリ高い聖職 禄を目指して聖職推薦権者に「諸ったり迎合したりの下劣な手段」を弄し て取り入ろうとする動機が働かないのである。
2つ目の効果について, スミスは次のよ >に述べる。 「大学の教授職は,
一般に教会の聖職禄以上に定収入の多い地位て.ある46}」ことから, 「教会 の聖職禄が多すぎも少なすぎもしないと↓ 、うことは, それが行なわれる国
邦択Ⅲ,
邦訳Ⅲ,
邦訳Ⅲ,
44)
451 46)
NNNWWW
p.809 p.81 1) p811)
1945ページ。
196ページ。
197ページ。
18 392−
『国富論』における宗教的教化施設経費論の基本構造
で, 自然に,学者の大部分を, もっとも社会公共のためになりうる仕事に 引き寄せると同時に,かれらが受けることのできる,おそらく最善の教育 を与える, ということに蹴る'7)」と。 このようにスミスは,大学教授職の 報酬に対する聖職禄の相対的低さが,学究的人間を大学へ方向付ける効果 を認識したのである43%
その効果の3つ目は国防に関するものである。 スミスばいう。 「あらゆ る国教会の収入は ・ ・ ・ ・国家の一般収入のうちの一部門だ, ということば注 意すべきことであって, ・ ・ ・ ・土地所有者が, さもなければ国家の防衛に大 きく貢献できたはずの担税力を, その分だけ減らしてしまうことにな る49'」と。すなわち.国家収入を一定とすれば聖職禄として教会に与え られる部分が小さいほと. ,主権者の重要な義務としての国防に充てられる 部分は大きくなるのである。
以上のように,小さく相対的に平等な聖職禄が社会的経済的に望ましL,
効果を及ぼすとすれば,そのような聖職禄を保証する要因は何であろうか。
われわれは節を改めて検討する。
4 聖職禄の決定要因
われわれはスコットラソト.長老派教会の聖職禄ば小さく , また相対的に 平等であるとスミスが認識していたことを,既に前節で指摘しておいた。
47) WN, p.812.邦訳Ⅲ, 21)0ページ。
48) この議論iこおいてスミスはイングランドの大学に言及して次のように述べ てL,る。 「ローマ教会についでは, イングランド国教会が, キリスト教世界 でもとび抜けて豊かだし寄付財産も多L,教会である。このゆえに, イングラ ント・では,教会が絶えず大学から, そのもっとも優秀蔵, もっとも有能な成 員を魂んな引き披L,てゆくから, ヨーロッ′:じゅうに優れた学者として知ら れ,抜きん出てL,る老練な学寮指導教師を見ることは稀であって, この点は,
どのローマ・カト リック教国でも同様である」 (WN, p.811 .邦訳Ⅲ, 198 9ページ)。 このスミ スの認識は, 「オックスフォードの大学では, 正教授の 大半は, ここ多年にj]たl) ,教えるふりをすることさえ,すっかりやめてし まっている」 (WN, p.761邦訳Ⅲ, 1 14・"、:‑ジ) と最大の皮肉を込めて叙 述した際のものと共通しているものと見える。
49) WN, p.812.邦訳Ⅱ1 , 201ページ。
東北学院大学論集経済学第125号
これが事実認識であるとすれば, スミスがそのように見ることの理論的根 拠は何であろうか。そしてまた十分な聖職者数という 《量》の観点からす
る時,如何にしてその低い聖職禄で確保できるのであろうか50も
聖職禄を賃金と見る場合, 『国富論』第1篇に展開されているスミスの 質金論が手がかりを与えるように思われる。スミスは, 「およそ1つの社 会, 1つの地域には,労働と資本の異なる用途ごとに,賃金ならびに利潤 についての通常率または平均率(ordinaryoraveragerate) というもの がある51>」と述べて,如何なる社会にも長期的な労働供給を可能ならしめ る「賃金の自然率」が成立することを指摘した上で,完全な自由 (perfect liberty)が存在している社会では』人々が有利な職業を求めて 不利なそれを回避しようとする結果として,賃金率は「同一地方では完全 に均等であるか, またはたえず均等化される傾向がある52)」ことを確信し た。しかしそれと同時に,現実には賃金率が「いたるところで極端に違っ ている」ことを認識し,その不均等の原因を,職業自体の性質と政策とに 求めている。
スミスは職業自体が持つ賃金の不均等を引き起こす事情として,次の5 つを挙げている。すなわち,①「職業自体が快適であるかないか」 (快適 性),②「習得するのが簡単で安上がりかそれとも困難で費用がかかるか」
50) LeathersandRainesは「宗教的教化が市場で生産されかつ売却される ひとつの私的財枇(privategoods)の性質をもつものとすれば,聖職者の 所得水準と不平等の程度はスミスの賃金理論の観点から一般的に分析されよ う」と述べて,聖職者を宗教的教化供給者と見なした上で, その所得水準と 不平等の程度をもたらす要因を教育費に求めている(CharlesG.Leathers andJ. PatrickRaines, "AdamSmithonCompetitiveReligious MarketS",HZsIuD' Qfa"if"IE""my,Vol.24N0.2, 1992,p.511)。 しか しながら,われわれが見るように,全聖職求人者数に占める公的費用による 被教育者数の「割合」が重要と考える観点ば,必ずしも明確ではないように 思われる。
51) WN, p 72.邦訳1 , 94ページ。 苗にお, スミスの価格論に関しては,拙稿
「アダム・スミスの均衡概念について−『国富論』第1踊第7章を中心とし て一」 (『東北学院大学論集経済学』第107号, 1988年)を参照されたい。
52) WN, p. 116 邦訳1, 165ページ。
20 −394−
『国富論』に鏡ける宗教的教化施設経醤論の基本構造
(習得賛用),③「雇用が安定しているかいないか」 (安定性),④「従事 する人たちによせられる信頼度が大きいか小さL、か」 (社会的信頼度),そ して⑤「そうした職業において成功する可能性があるかないか」 (成功可 能性) という, 5つの事情である。
聖職のもつ特性からすれば,①快適性および③安定性の基準からして,
聖職禄が額として小さいことは正当化しうる。ガッサンディ (Pierre Gassendi, 1592‑1655)が「教会の聖職禄以上に定収入の多い地位」であ った大学教授職から聖職へ転職することを勧誘された際に, 「教会に入れ ば……はるかに平穏で快適な暮しも送れる」ということを言われたという 話をスミスが伝えていることからすれば53),少なくともスミス当時に至る まで世間の聖職に対する評価はそうであったと考えられ,聖職は他の職業 に比して低い賃金であることは,それが快適で平穏であることによって正 当化されたのである。
⑤成功可能性の基準はどうであろうか。スミスは聖職者と同様の「自由 で名誉ある職業」としての法律家に言及して, 「法律という富くじは,完 全に公平な富くじからはほど遠いもの54i」としてその職業で財をなすこと が,高度に「運」にかかっていることを認識している。すなわち,運良く
53) WN, p.811.邦訳Ⅲ, 198ページ。また,聖職の安定性に関してヨリ直接 的に次のように述べている。 「すべてのキリメト教会において,僧侶の聖職 禄は,一種の自由保有樋であって,僧侶は任意の期間でなしに,終身,つま り特段の不都合な行ないのないかぎり, これを享受することができる」
(WN, p.798.邦訳Ⅲ, 175ページ)。
54) WN, p. 123.邦訳1, 176=、R‑ジ。ホランダー蠅, スミスに拓ける貨幣賃 金格差が第一義的には「不効用単位当り等額の貨幣報酬」,すなわち,不効 用補償の結果であることを強調し, 「成功の可能性」に関するスミスの議論 が妥当するのは「危険を冒すことが不効用であるときだけ」と指摘してL,る (S.Hollander, &TheEconomicsofAdamSmith' #UniversityofTron‑
toPress, 1973,pp, 131‑2.小林昇監修・大野忠男・岡田純一・加藤一夫・
斎藤謹造・杉山忠平訳『アダム・スミスの経済学』,東洋経済新報社, 1976 年, 183‑4ページ)。 この観点からすれば, ホランダーカ詣摘するように,儲 けのチャンス朧過大評価される傾向があり,特に背年は成功の可能性が低い にも拘らずその職業を選択しようとする場合には状況力:異なるのであって,
成功の可能性が低い職業が高い賃金率を得ることにはならない。
東北学院大学論築経済学第125号
成功した法律家の高収入は,その背後にL,る多数の低収入の法律家の存在 によって説明されている。 しかしながらわれわれは, この基準が明らかに 聖職者に対してば適用しえないものと考える。なぜなら, このスミスの
「運」による説明方法は, 同一職業内における報酬の不平等性の存在を仮 定していると見ることができるからである。聖職禄が絶対額において小さ いということのみならず,相対的に平等とスミスが見ることの論拠を確認 しようとするわれわれの論点からすれば,この基準は妥当しないといえる。
すなわち,聖職禄の議論においては, 「連」の作用する余地は排除されて いるといえよう。
④社会的信頼度の基準について。スミスが長老派の聖職者を「学識があ り,上品で,独立心が強く,尊敬すべき人を」と称賛したことは先に述べ た。 また, 「信頼」の内実が「財産,誠実,慎慮についての他人の評判55)」
であることからすれば,聖職者は法律家に類似した職業とみることができ る。社会的信頼の大きな職業には高い報酬が支払われるべきことを, スミ スば次のように述べる。 「われわれは, 自分たちの健康を医師にあずけ,
また自分たちの財産, ときには生命や名声までも法律家や弁護士にあずけ る。 ・ ・ (中略) ・ それゆえ,医師,法律家弁護士の報酬は,その重大な 信圧にふさわしい社会的地位をかれらに与えるようなものでなければなる まい51;)」と。 この基準に依拠すれば,聖職者の報酬ば高いものでなければ ならない。 しかしながら,聖職者の高い収入ば逆に人々の信頼を損う行動 に導くことは,本草1節冒頭に既述の通りである。
もしそうだとすれば, この場合,聖職者の絶対額に猫いて小さなそして 相対的に平等な所得はどのように説明しうるのであろうか。 この点に関し
WN, P. 122.邦訳1 , 175ページ。
WN, p. 122.邦訳1 , 1745"‑、:‑ジ。この基準に関しても,ホランターば,
「寅係をになうことが心的負担をもたらすという程度においてしか,補償的 支払いとしての賃金格差とL、う考え方と両立しなL、」と述べて, スミスの説 明の媛昧さを指摘している(Hollander, Op. Cit. ,p131 .前掲邦訳, 183 ページ )。
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ー= 396−
「国富論』における宗教的教化施設経醤論の蕊本構造
て, スミスは先の引用部分に続けて興味深い記述を行なっている。
「かれらの教育にかけられるにちがいない長い時間と多大な費用とが むすびつくと, これは必然的に,かれらの労働の価格をなおいちだん
と高めることになるのである57)」。
この信頼と教育費とが相俟って高L報酬を正当化するというスミスの論理 からすれば.聖職者の報酬が高くなるのを抑制しているのは,教育費が及 ぼす効果と考えることができる。そこで次にわれわれは,②教育費の基準 を検討しよう。
「職業自体の性質」における基準からすれば結論は明らかであって,職 業習得の費用,すなわち教育賀が大きければ,その職業に対する報酬は大 きくなる。 スミスが画家や彫刻家とL、った芸術家, また法律家や医者とい った自由職業を例として示している通りである。教育費が逆に小さけれ ば, その職業に対す)る報酬ば小さい。 もしそうだとすれば,聖職者を養成 する教育饗は小さいことになる。でば,何ゆえに聖職者養成費用は低いの であろうか。それば別種の要因,すなわち経済政策によって歪曲されてい るというのがスミスの認識である。
スミスは次のように説明する。青年を一定の職業のために教育しておく ことを目的として公的あるいは私的に助成金・奨学金・奨励金などが設け られ, 「聖職者たちの大部分の教育はこのようにしてまかなわれている」
とした上で58),そのことがもたらす結果を,次のように述べる。
「かれらのうち自費だけで教育を受けているのはごく少数の者でしか ない。 したがって, 自費で教育を受けた人たちの長期にわたる退屈で 高価な教育は,かならずしもそれにふさわしい報酬をかれらに与えな いであろう。 というのば, こうした教育によってとうぜん受け取れる
57)
58)
WN, p. 122.邦訳1 , 175ページ。
大学の発祥自体が聖職者の蕊成をロ的としたものであったことを, スミス は指摘している。 「ヨーロッパのいまの大学は, その大半がもともとはキリ スト教会の団体であって,聖職者(churchmen)教育のために設けられたも のであった」 (WN, p 765.邦訳Ⅲ, 121ページ)。
東北学院大学論集経済学第125号
はずのものよりもはるかに少ない報酬で満足する人たちが,職を求め て教会に寄り集まるからである。このようにして,貧民の競争が富裕 な人たちの報酬を奪いさるのである59リ。
ここから明らかなように,聖職禄の相対的平等性は,公的または私的に教 育鵠援助を受けた聖職求職者の存在によって根拠付けられている。この場 合スミスは,扶助を受けた聖職求人者の「数」そのものではなく,聖職求 人者全体に占める「割合」で考えていることは明らかである60も
この説明ば同時に,聖職禄の絶対額が小さいにも拘らず何ゆえに聖職者 の《鎧》は確保できるのか, という先のわれわれの疑問に対する答えでも ある。スミスはいう。
「スコッ l、ランドやジュネーブの教会,その他いくつかの新教教会の 実例をみ、れぱ納得できることであるが, こんなにも容易に教育が受け られ, しかもこんなにも名誉ある職業では,旧教の教会にくらべてず っと軽少な聖職禄を得られる望みしかないにもかかわらず,十分な数 の学識あり礼儀正しく尊敬すべき人々を聖職にひきいれるに足りるの である61U・
59) WN, p. 146.邦訳1, 217ページ。 レーによれば, スミスが受給したスネ ル奨学金は年に40ポンドであったが,当時のオックスフォードでの教育に催 媛低年32ポンドかかり,生活蟹や個人指導の月謝を入れると, 自費生の場合 では60ポンドの支出を下らなかったという (Rae,op.cit.,p、 19.前掲邦 訳, 24ページ)。
60) 「法律や医術のように聖職禄のない職業においても, もしも聖職の場合と 同じ割合の人々が,公共の賢用で教育を受けるならば,競争がやがて激しく なって, これらの人々の金銭的報酬を大きく引き下げるばどになるだろう」
(WN, p. 148.邦訳1, 219ページ)。このように述べてスミスは,報酬を引 き下げるほどの競争激化が「絶対数」ではなく,特定職業の全求職者数#こ占 める公共的扶助を受給して教育を受けた求職者の「割合」に依存しているこ
とを認識している。
61) WN, p、 148.邦訳1, 219ページ。スコットラント'聖職者の比較的小さく て平等な(あるいばそれを志向している)所得櫛造に反して,現実の18世紀 イングランドのそれは状況が異なっている。浜林氏の指摘するところによれ ば,下級聖職者の年俸は20〜60ポンド程度であって,労働者の年収約30ポン ドに及ぱなL、者も少なくなく,一方では, カンタベリ主教の年収ば7千ポ/
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『国富論』における宗教的教化施設経撰論の基本椴造
スミスは,聖職自体がもつ「名誉である」という特性(先に述べた①快適 性の基準に含まれる)と,政策の結果としての聖職者教育費の低廉性とが,
十分な数の聖職者を誘引する原因であることを認識してL,たと考えられ る。
Ⅳ結語
本稿の志したところは, 「国富論』第5篇に展開されている宗教的教化 施設経費(expenceof institutionsforreligious instruction)論の構造 を, スミスに即して検討することであった。
われわれはⅡ章において,宗教的教化が「需要」される際それが社会 と個人とにもたらす経済的効果を概観した。その内容を約言すれば次のよ うになろう。分業を社会的富裕増進の基本原理と見たスミスは, 同時にそ れが招来する個人・社会・軍事の各方面への否定的効果を認識していた。
宗教的教化は青少年教育とともに,その弊害除去に役立ち,社会的分業体 制の安定化に資するという意味で,個人的のみならず社会的機能をもつ。
一方,宗教は個人の義務感を強化し,加えて,信徒間には相互規制が発生 する結果として,宗派に属する個人に対する社会的名声は高まる。過度の 相互規制がもたらす宗教的狭量を懸念したスミスは,学問と大衆娯楽の社 会的振興を奨励する。この意味でスミスは.宗教的教化の私的機能を述べ る際にも,それを支える社会制度の存在を顧慮して、 、たといえる。
それに続くⅢ章の内容ば, 「職務と報酬との均等性」が職務の《質》と
《藍》との安定化に寄与するという観点から,宗教的教化の「供給」側面 に関する若干の考察であった。われわれはまず1節において,聖職者の
《質》に関するスミスの議論を見た。その《質》を高める要因ば,①職務 と報酬との均等性であり,②その報酬も自発的寄進から醸出されるべきも のであった。聖職者が職務に相応しい以上の報酬が与えられる場合には,
、 ンド, グラム主教は6千ポンド (1762年時点)など,顕著な所得不平等が存 在していた(浜林,前掲書, 187ページ)。
東北学院大学論集経済学第125号
彼等をして聖職者としての評価を落としめる行動を誘引することの危険性 を認識したスミスは,両者の均等性を志向しつつも,むしろ低L報酬の長 所を強調した。 また,報酬の財源について言えば,経済的競争原理の援用 であって,後述の宗派間自由競争を正当化する論拠をなしている。
次に2節においてわれわれは,宗派間自由競争制度に関するスミスの論 点を検討した。同制度を有効ならしめる多数の宗派の出現を誘引する施策 として,宗教放任政策と宗派間干渉排除政策を勧告したスミスはまた, そ の出現が商工業の発達によ為必然的結果であることを確信した。自らの従 者を養う以外に聖職禄の使途を持たなかった中世末期の聖職者たちは,商 工業の発達に伴って多量の消費財を購入するために従者を養う余裕を無く
した結果, 巨大な教会組織は基盤を危うくし多数の小宗派の参入を可能に した。スミスが志向したのは. まさにこの多数の小宗派間における競争が もたらす「純粋合理的宗教」であった。
さらにわれわれは3節で,国教制度に関するスミスの相異なる2つの評 価を見た。国教制度に対する否定的評価は,小宗派間競争制度論の補強を 成すものである。国教制度に対するスミスの危倶は,①教会は巨大組織と なり,②宗教に対する畏怖の観念と相俟ってその勢力は主権者を脅かし,
③主権者は昇進権を掌握することで聖職者を懐柔しようとする結果聖職 者と主権者との間に相互的関係が発生し,社会的損害を与えることであっ た。一方,長老制を採用するスコットランド国教会を, スミスば極めて肯 定的に評価する。それはスミスの現状認識であり漸進的改革の方向性を示 唆したものと思われる。肯定的評価の論拠は,聖職推薦権と聖職禄に関す るものである。教区住民の事前的同意に支えられた聖職推薦権の定着は,
実質的には競争的選任に代わりうるものと認識された。一方,相対的平等 性をもった'1,さな聖職禄は,①聖職推薦権者に対する買収行為を抑止し,
②学究的人材を大学に方向付け,③国防のための財源を確保する, という 望ましい効果をもつ。
最終の4節におし、てわれわれは, スゴットラント.の聖職禄が相対的に平
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