唐末監軍使制について
矢
野
主
税
首鼠て西日蛮異事︶誌走於いて︑唐画に於ける監軍使制の
確立について述べたが︑いまここに︑中唐以降に於けるその護展につい
て述べ︑前払の結末をつけたいと思う︒
第一項 中央集権政治と監軍使
ここでば︑憲宗朝より文底心までの監軍使について述べたい︒
徳宗より電導を経て憲宗に至るや︑帝の中央集構政治の一環として︑
漸く本格的な藩鎭討伐が行われた︒帝ぱ元和元年に於ける西川の劉開征
伐︑元和二年の漸西の李鋳討伐を始めとして︑元和四年から五年にかけ
ての河北三本官策︑元和九年より十二年九月に及ぶ宇戸窯元濟の訣数︑
元和十三年七月より翌年二月に及ぶ卒盧征服等︑思い切った強藩鎭弾璽
を行い︑その影響をうけてその他の強藩も概ね唐朝の命を奉ずるに至っ
た︒その在位年間殆ど征職に寧日なき有様であり︑所謂唐朝中興の實を
あげたのであった︒①
このような憲宗の態度によってみるに︑徳宗の時に強化された監護網がそのまま活用されたに相違なく︑寧ろ徳宗時代に於いてあまりその効
用を獲揮し得なかったこの制度が︑この時に至って大いに効果を墾・げた
ことであろうQそのことは︑次に述べる如く︑このころ漸く監軍使制に
内在する矛盾が指摘され始めたことに封.する︑憲宗の態度によっても伺
うことができる︒
元來この制に於いては︑直接藩帥を統制し得るという長所はあるもの の︑監軍使の模限が強化されて軍政面への干渉が陣しくなり︑用兵のことにまで容啄するようになると︑進退主將に由らざる朕態を生じ︑軍略の實灌が軍事の素人の手に移れば︑そこに軍隊の弱体化が生するのは必至であるが︑それが正距のみに於ける問題であって︑朝廷の直接關與するところでなければ︑反って朝廷にとっては好都合であるとしても︑併し朝廷は又︑その藩鎭の軍隊を動員して強藩鎭を征討せねばならす︑強堅調に於いてぱ朝命に服する藩鎭ほどにぱ監軍使の権限も強くなかったであろうから︑弱体化された軍隊を以て強藩主を討たねばならす︑結局實効は纂らないという欠点が︑このころになって漸く目立って來たのであった︒即ち︑監軍使誰そのものに内在する矛盾が著しくなって來たのである︒ 元和元年正月︑三百の反するや一般公卿が蜀は攻め難しとして反聡したのに封し︑時の宰相杜黄裳は猫り堅く討伐を主張し︑その將として神重藤鎭長武城使たりし高崇丈を推薦した︒けれどもその時︑黄裳は︑
﹁願陛下專以軍事委之︒勿置監軍︒關官銭檎︒﹂と奏上し︑高崇文をして
專ら軍事を掌らしめ︑監軍を置かないならば成功心なしと主張した︒こ
れは恐らく從來の監軍使が主食を牽制し︑軍略に面部する等のことがあ
ったので︑そのような場合に封.する反省の結果であると考えられる︒②
然るに︑このような意見が補弼の臣によってなされたことは︑この制度
自身の矛盾が爲政者によって痛感されたことを物語るものであり︑この
D
q
唐末監軍︑使制について︵矢野︶
唐末監軍使制について︵矢野︶
制度利用の限界が指摘されたものであるに拘らす︑憲宗は依然として宙官慎重珍を監軍使として崇文に從わせているので︑必ずしも杜黄裳の希
望通りにいかなかった︒③
更に︑准西の臭元亨討伐に當っても︑斐度の奏請によって中使監事者
が罷められたという事件がありた︒その間の事情ぱ︑
時諸道兵皆有中使監陣︒進退不由主將︒職勝則先使献捷︒偶準則凌挫
薄端︒ ︵北表︶度至行螢並奏去之︒兵柄專制之於將 ︒衆長喜挽︒軍法嚴
粛︒号令画一︒以是出職皆捷Q
といわれていて︑中使監.陣者の排除によって漸く最勝をあぐるととが
できたという︒④この度の奏請によって罷められたのは︑恐らく所謂監
陣であって監軍使ではなかったであろう︒併し乍ら︑この場合は監陣は
慶止されたとしても︑それはこの征討に於いてのみ︑或は又一時的のヒ
とに過ぎす︑その後︑長慶︑會昌の頃に於いても意地の活躍が見えるこ
とは︑前掲小論に於いてもふれたが︑又後述する如くである︒
さて︑監軍使の專横ぱ前代以來攣りなく︑或は藩帥を謎奏したり︑.玖
は軍政を恣にして將士の電極を一.手に握り︑節度使は騎手傍観するに過
ぎぬといわれることすらあった︒⑤杜黄裳の反封にも拘らす監軍使を邉した憲宗の態度からすれば︑それらの專恣によって軍事力そのものの弱
体化すること.ぱ承知の上で︑樹監軍使を用いることの︑より有利である
ことを老身したのであろうQ唯准西の場合に於いては︑四年にかけての
職闘で諸道の兵を集むるも一節度を討ろ能わす︑弾兵の聲やかましき中
で︑最後の切札として斐度自身の出陣となったのであるから︑その斐度
の意見は賠かざるを得なかったという特殊事情はあったであろう︒⑥け
れどもその場合にも︑弊害多き末端機構たる監陣のみに封ずる処置で︑
監軍使ば伺存置されたものと老えられる︒このように︑憲宗の果断︑且
つ杜黄裳︑斐度に封ずる絶封的な信頼にも拘らす︑監軍使制の徹底的な
反省が行われ得なかったところに︑この制度が憲宗によって︑中央集灌 確立への重要な手段として認められて﹁いたことを示すものであろうQ 上述の如く︑補弼の臣からの反醤にも拘らす︑依然として監軍使制を維持してゆかうとする朝廷の態度と相鷹じて︑他方監軍使の熊度ぱ從前と何等異るところはなかった︒天子の出先機鋒として藩鎭の行動に監覗を怠らす︑軍政の適否を監督する立場にあった︒元和十五年冬十且︑成徳節度使王難宗が死んだ時︑將士はその弟承元を擁立せんとしたが︑承元は︑﹁天子遣中使導波d有事當與之議︑﹂という重度をとっている︒⑦承元は極めて勤王の志の厚い人であったから︑自ら藩帥たらんとする野心は発くなく︑藩帥が死んだ以上ぱ︑呈すべて監軍使によって決定さるべぎであると主張したものであろう︒從って︑その後監軍使の意見も亦諸將と同様に承元擁立を適當と認めた時︑承元は一匹軍務をみたものの︑正式決定までは留後と呼ぶを許さす︑事は大小となくすべて監軍使の決定に委ねているのである︒⑧ 或は又︑長慶元年幽州節度使劉総が編朝した時︑兵士等が遮って留まらしめようとしたので︑彼は首謀者十帆影を斬って兵庫を監軍に委ねて去ったといわれる︒これらの例は︑監軍使の任務︑地位が︑天子の出先機關としてどのようなものであったかを伺わせるもので孕る︒從って又︑それらの地位を背景として横暴專恣を極めるものがあったことも前代と同様であった︒⑨ 前述した如く︑犀角征討に當って一時罷められた監陣は︑間もなく再びその弊害が指摘されているQ穆宗長戸の初︑憲宗によって抑厘されていた強藩の中には︑早くも動乱の繭が現われた︒即ち︑濠州の朱克融︑鎭州の王廷湊の乱である︒此等の叛乱は諸藩鎭の兵十五︑六萬を動かして征討したに拘らす︑僅か幽鎭萬飴の兵を以て支えられる始末であった︒この不成功の原因については︑白居易が︑ ﹁今既砥部東西二帥︒請暇置都監一人︒諸道兵馬監軍︒伏請一時停罷︒如此則衆濟令一︒必有
成功︒﹂と述べていることで翻せられる︒⑲即ち︑諸道監軍を停めて号令
q鋤
を一にしたならば成功疑なしというのである︒併し︑白居易の意貸する
ところは︑ただに所謂監軍使のみではなかったことは︑この亭号に於け
る實歌が︑﹁叉諸節度既有監軍︑其領主軍慮︒亦置中使監陣︒主將不得
專号令︒職小勝則飛騨奏捷︒自以爲功︒不勝則迫脅主將︒以罪離之︒悉
揮軍中驕翁島自衛︒邊繍儒者就職︒故毎職多事︒﹂という有様であったこ
とによって明かである︒⑪白居易のいうところは監軍使並に監陣め停罷
を進言し︑臨時的な格式の高い都監を以てこれに代えようとするもので
あった︒⑫即ち︑画像朝の監陣停罷は︑‡表度の︐要請による臨時的︑部分
的なものにすぎす︑監陣によって︑ ﹁虚幻進退不由主將︒﹂といわれる如き有様ぱ︑徳宗︑憲宗朝を経て穆宛時代にも及んでいたのである︒かく
て十五萬の大軍を以てしても︑僅か萬余の幽鎭の兵を討伐できないのは
當然であったであろう︒⑬
而︑も此職闘に於いては注目すべきは︑その方略が殆ど朝廷より出で
て︑それが地方出征軍團の行動を束縛して適切.なる行動がとれなかった
ことである︒即ち︑ ﹁又凡用兵皮質︒皆紅禁中︒授以方略︒朝野阜改︒
不知所從︒不度可否︒惟謡曲三園︒申使道路定心︒羅馬不足Q掠行人馬
以継︒不人戸由電路行︒﹂と傳えられている︒⑭このように︑現地の⁝状況
に不案内な朝廷から方略が示される如き場合︑恐らくは監軍使︑進軍等
の上奏意見が重覗されたことは間違なく︑又彼等がそのような立場を背
景としてその專恣をつのらせたことも考えられる︒これば勿論穆宗初年
に於6ることであるが︑恐らくは憲宗親より引継がれ.た朝廷の態度では
なかったであろうか︒何故なら︑このよろな態度は朝廷の中央集灌強化
の熊度から畿生するものであろうし︑例えば斐度征墨髭於いてのみ旧時
的に蜜語が屡止されたという特殊事情を考慮すれば︑他の場合に於いて
は軍の行動一切に監覗の眼を放ち︑すべてを己が手に掌握し︑指揮する
ことが憲宗の態度であったと思われるからである︒
さて︑敬宗についで文面が即位したが︑帝は穆︑敬爾帝の聞にゆるみ
唐末監軍使制について︵矢野︶ かけた中央集樺政治を︑宙官抑厭 という面から引締めようと心掛けた︒けれどもその計算は見事に失敗して︑その爲反って宙官の專穫を致し︑前縁には王守澄︑黒虫には仇士良の政治容量を招くに至った︒從って︑
一面天子の出先機關であり乍ら︑他面自訴という特殊の世界に与する監
軍使についても︑從來と何等異るところはなかったようである︒⑮
最後にふれて置をたいのは︑強力碧潭に於ける監軍使についてであ
る︒監軍使設置ぱ︑知事立的な勢力をもつ強藩鎭としては︑出塁る限り
避けたいものであったであろう︒けれども結局は如何なる藩鎭にも設置
されていたようである︒ここでは︑朝廷に忙して最も遠心的傾向をもつ
ていた黒表節度をとり上げてみよう︒幽州節度に何時頃から監軍使が置
かれたかは明かでない︒けれども既に二手三年には置かれていたと老え
られる︒⑯ついで長慶元年二月︑節度使劉蹄朝後は設6.られていたこと
明かであるQ⑰丈宗太和五年春正月には︑悟了節度使李載義が︑後院副兵馬使楊予測によって逐われたことを盧龍監軍が奏上している︒⑱この
楊志誠にも監軍使がつけられていたことは︑客亭八年九月彼が監軍使李
懐件と共に主屋によって逐われたことで明かである︒⑲これらの監軍使
は︑恐らく前代以來絶えることなく︑幽幽に陰口されていたと考えてよ
いであろう︒この砂州が朝廷の支配外の地であったことば︑文宗の宰臣
牛藩儒が︑﹁苑陽動安皮密話︒非國所有Q劉血紅献露地︒朝廷費銭八十
萬婚︒而無綜毫所獲︒今日志誠得之◎猫前日載義得之也︒因而撫之︒使
桿北秋︒不劇震其逆順︒﹂と指摘している如くであり︑⑳楊魚島の如き
は︑褻衣その他︑−諸の廃物を造ρていたとさえいわれ︑⑳幽遠節度は事
實上牛猫立の姿をなしていたわけである︒
このようにあらゆる節度に監軍使が置かれたのは︑恐らく監軍使網の
横充された徳宗朝以來のことであろうが︑でば︑亜種の如き牛而立の藩
鎭にもすつと監軍使が設置されたことは︑一体何を意味するものであろうか︒それは形式的にもせよ︑中央政権が尚云為を支配していたことを
qの
唐末監軍使制について︵矢野︶
物語るものであろう︒即ち︑藩鎭にとっては中央集樺によって正式に承
認されることが望まれ︑その限りに於いて中央政樺の出先機關たる監軍
使を置かぬわけにはいかす︑又中央としては︑監軍使を置くことば︑た
とえその任務を他藩の場合と同様に完調せしむることば望めないにして
も︑少くともその地方の政治情報を得るの道として殆ど唯一の方法であ
ったといえるから︑その設置が望まれたという事情によるものであろ
う︒註① ② ③
④ ⑤
⑥
⑧ ⑦
⑲ ⑨
⑪
⑫
日野教授﹁支那二世の軍閥﹂
資治通言巻二三七︑元和元年春正月の条
冊府元亀巻六四︑帝王部発号令の条
旧唐書巻一七〇︑斐度伝︑通鑑巻二四〇︑元和十二年八月の条
例えば通鑑巻二三七︑元和四年二月︑冊府元亀巻三一七︑宰輔部正直二︑
金石葦編巻一〇六︑李輔光碑等参照︒李輔光は貞元和四年迄河東監軍使で
あり︑河東の軍政は全く彼の左右するところであったという︒
旧静臥斐度伝
冊府元亀巻二七四︑二重巻二四一︑元和十五年冬十月︑豊野書二四二︑王
承元伝⑦に同じ
冊府元亀豊津七四︑将帥部忠五︑同書巻一三六帝王部慰労の条
白氏長慶集巻四三︑請抽凍魏博沢習業定濾州四道兵馬分付光恨事︑叉︑通
鑑巻二四二長慶二年春正月︑冊府元亀一七七︑帝王部姑息︑旧唐書巻一四
二︑記憶湊伝等参照Q
通鑑巻二四二︑長慶二年二月の条︑冊府元亀愚子六七︑内蓋部監軍︑旧唐
書王廷湊伝Q
都監は唐末には常置的な職となったらしいが︑この頃は臨時的な官職であ
った︒冊府元亀巻六六五︑内臣部総序によれば︑長慶申のこととして︑
﹁時深州︑宣武相次用兵︒以中人為諸道兵馬都監︒四面行営都監而罷省︒﹂と
いっている︒然るにこの都監は長慶に至って始めて設けられたものではな
⑭ ⑪
⑮
⑰ ⑯
⑱
⑳ ⑲
⑳
く︑既に憲宗時代にも設けられたことのあるものであったQ例えば元和二
年十月︑甲州の李鏑を討つた王選.がが諸道行営貯金使に任ぜられた時︑その
軍を監した内官蒔備術は旧唐書巻一四︑孟宗本紀上では紅軍︑冊府元亀巻
二一二︑帝王部征討二では都監招討宣慰使と呼ばれているQ筒︑同書巻六
四︑帝王部発号令の条には︑元和元年十月︑西川が平定せられた時の制に
︑高崇交を上した倶文珍を都監軍使︑或は単に監軍とも呼んでいるQ以上によって見るに︑都監は正しくは︑都監軍使︑或は都監使と呼ばれたもので
臨時的な官職で︑一般監軍よりも格式高いものと考えてよいようである︒
けれども叉それが単に監軍とも呼ばれていることからみて︑略称的に監軍
と呼ばれたこともあったので︑従って監軍と呼ぶ場合にも広狭二⁝様のもの
があったことを注意ぜねばならぬO
勿論︑官軍の戦闘力がなかったのは︑監軍使︑監陣等の専恣のみによるも
のでなく︑例えば諸藩鎮が食出戸冠を求めて︑前進戦闘することを好まな
かったこと等にもよる︒旧唐書王廷凝望︑通鑑巻二四二︑長場二年正月︑
白居易上奏参照︒
通鑑巻二四二︑長慶二年二月の条︑唐会要巻六一︑御史台申館駅の条︒
旧唐書巻一六四︑李縫伝︑鄭四二︑同書巻一七七三三伝︑同書巻一六三盧
簡能伝︑同書巻一七二瀟傑伝︑通鑑二四四︑太和四年正月︑二月︑同書巻
二四五︑太和九年十一月の条参照Q
通蒼黒二二七︑建申三年夏四月の条に︑﹁墨入早使院肇尋常之︒﹂とあるも
のは︑監軍使の存在を示すものと思う︒これについては後述する︒
冊府元亀巻一七七︑帝王部姑息の条︒
通鑑巻ご四四︑太和五年春正月︑旧唐書巻一七二牛鴬遷⁝伝︒
通鑑斗升四五︑太和入寺冬十月︑旧唐書巻一入○楊志誠伝︒
⑱に同じ︒
⑲に同じ︒
Qの
第二項監軍使責任規定と権限強化
武宗︑宣宗となるや︑割合に引締うた政治が行われた︑即ち︑武宗は
宰相李徳裕に全政治を委任し︑宣宗は親ら政治をみる有様であった︒從
って監軍使による專恣ぱ種汝行われたけれども︑漸次これに封ずる統制
が加えられるに至った︒前揚小論にも述べた如く︑この頃の監陣の軍事
容啄による弊害を指摘した李徳裕は︑途に宙官の政治的最高灌力者たる
椹密使楊欽義︑劉行深と相議して︑監軍の軍事地細を禁じ︑監陣の護衛
兵を制限し︑漸く澤淵征討の功を墨げたといわれる︒① このように︑政治的措置によって監軍︑監陣の耐食が計られたことは
注目すべぎであって︑それは︑從來の如く天子の猛然機關としての立場
に於いて振われつつあった監軍の知命が︑それに加うるに官︻官自体の政
治勢力の増大を以てするに至ったことを思わしめる︒そのような專恣ぱ︑文宗時代︑王守澄︑仇士良と相ついで政治的灌勢を握り︑全く朝政
を牛耳って感官の政治的嚢言意が大きくなってからのことであろう︒②
從って武宗︑ついで至幸と庸官抑墜並に朝樺確立の政治を志した天子に
とっては︑そのような專恣は七宝さるべきであり︑從來その天子直轄の
立場上︑何等責任規定の行われていなかった監軍使に樹して︑その責任
を規定し︑朝樺に完全に服癒すべきものとしての性格が確認せられねば
ならなかった︒
李徳裕の心元抑墜についでなされた宣宗時代の監軍使の責任規定は︑
以上のような背景の下になされたものと考えられるが︑宣宗の頃の監軍
使の横暴はその本意の任務を逸脱したものがあったらしい︒例えば大中
二年二月︑御皮台の述ぶるところによれば︑會昌二年五月十四日揚州都
虞侯盧行立︑劉群なる二人が︑阿顔なる女の家にて飲酒し︑群ぱ爆睡を
自らの妻になさんと欲して︑妄りに監軍使の処分であると慨して︑阿顔
の進奉を求め︑他人に嫁せしめることはならないとし︑且つ人をしてこ
唐末監軍使制について︵矢野︶ れを監守せしめたという事件があったと傳えているのである︒③これば監軍使自らがなした行当でぱないけれども︑そのようなことが監軍使によっても行われていたが故になされたことであろうし︑それが軍に於6︒る事件でぱなく︑民間に封ずるものであったことによって︑監軍使ぱ恐らくこの頃に於いては︑本年の任務を逸脱して民聞にもその專横の行爲をのばしていたものと思われ.る︒このような情勢に毒して︑大中九年途に嚴重な責務曲行が命ぜられるに至った︒九年秋九月のこと︑漸東に軍乱あり︑観察使李納が將士に逐われるに至った︒この事件に顎.して︑宣宗は李納を朗州刺史に疑し︑監軍養蚕景を杖四十に処し︑且つ恭陵に配した︒このような処罰を行った後︑ 自今戎臣失律︒井坐素立︒との詔を圧したのである︒④この詔は︑從來全く見逃されていた監軍使の責任を規定したものとして注目すべきである︒前にも一言した如く︑宣宗は憲宗以後の天子としては最も政治に摩して熱心であり︑朝権の確立に努力した君主であった︒⑤從って軍政に封.する責任を︑心妻に封.してのみならす︑稽もすれば宙官の勢力を背景として︑本來の任務より逸脱する監軍使に価しても要求することによって︑朝樺確立の秩序の中に位置づけようとしたものであろうQ 貯砂藩鎭等に封ずる軍政︑職略意に干渉し乍ら︑全く責任外に置かれていたのば︑その天子直厨の立場︑又その任務の上から當然とぱいえ︑事實に於いては軍政の素乱︑職圖の敗北等に無責任というのば︑余りにも監軍使の專恣を放任し︑募らせる結果を致したわけであるので︑ここに責任の一牛が負わされたことは當然と考えねばならぬ︒けれどもこれは︑他の面から言えば︑かかる責任が監軍使に課せられたことは︑徳宗時代に認められたその樺限が︑更に一歩進められて︑積極的に軍政参劃の責任と灌利とが與えられたことにならないであろうか︒ここに監軍使定限の再強化が行われたと見ることは︑次の欝宗時代の勲状をみること
QD
唐末監軍使制について︵矢野︶
によって了解できるところである︒
この詔が實行されたことは︑灘宗の時代になって︑例えば踵動の乱の
時︑その故郷徐州節度使崔彦曾︑監軍使張道導が共に疑せられているこ
とでも明かである︒⑥それと共に監軍使の樺限も強化されたことば︑例
えば︑成通三年八月︑島式が武甲節度使となった時︑式が監軍使楊玄質
と共に將兵を配分して諸道に赴かしめたという如きこと︑或ぱ又︑高駐
が准南に陣した時︑彼は軍乱を起した人汝に忙して︑ ﹁軍事之事◎有監
軍使及大野軍在︒汝輩出無医︒﹂といった如きことは︑監軍使が食事と同
様に軍政に封.して責任をもつことを示すものではあるまいかQ⑦その
他︑そのような事例は︑他にも多く見受けるととろである︒⑧
註① 金庫巻二四入︑会昌三年入月の条︒
② この二人が文民時代権勢を振って政権を聾記したことは︑新旧両唐書のそ
の伝に明かである︒
③
④
⑥ ⑤
⑧ ⑦
旧唐書巻一八下︑宣宗本紀︒
通鑑巻二四九︑大申九年秋七月及九月の条︒
③に同じ︒
通論巻二五一︑成通九年十一月の条︒
通鑑巻二五〇︑成通三年題下︑冊府元亀巻九四二︑総録随順敗の条︒
薬缶書巻一九上︑艶宗本紀︑同書巻一七二︑令孤誤伝︑冊府元亀巻四三〇
将帥部同筆の条参照︒
第三項些末の監軍使
僖宗時代となるや︑周知の如く時勢は漸く騒がしくなった︒その初頭
から黄集︑王仙芝を始めとして︑いたるところに草賊の置生を見︑而も
地方有力歯骨も猫立的傾向をあらわにし來つたが故に︑監軍使の活動も
活澱となった如くである︒①これに加うるに︑孟宗の時監軍使の灌限が
強化される結果となったことは︑一・毅とその動きを活動ならしめた如く
で︑この頃に於いては︑監軍使は最早主帥と完全に樹等の動きを見せ︑ 少くとも朝廷勢力下の軍鎭節度に於いてぱ︑この爾者による二頭政治が行われていたものの如くである︒② 併し乍ら︑このような傾向は︑繋宗朝にも現われつつあったことは︑前述したところで明かである︒かかる監軍使活動の積極化ぱ︑朝湿確立の故でぱなく︑逆に中央集樺藻潮による︑尊王勢力を背景とした監軍使の︑中央統制からの朝妻の結果であろう︒③勿論監軍使がその紅茸の性格のものとして︑朝廷に於いても地方墨黒に於いても一鷹は見られていたとしても︑最早宣宗時代の如ぎ朝事秩序の中にはなく︑全く藩帥と異ることなき軍事活動をなした者すらあった︒④ さて︑この時代は騒乱相次いだが故・に︑地方征討の軍も屡無派造され︑從って所謂監軍使の外に︑前述した都監︑更には都監押等が設けられ︑それらには︑都筆意−都監−監軍使の段階があり︑それは任命される人物の格式によって匠別されたものと考えられる︒⑤ 昭宗時代に及んでは︑唐朝は最早崩壌の一途を辿るのみで︑帝の英明を以てしても︑如何ともする能わぎる有様であった︒地方に於いては藩鎭の猫立化とその抗孚があり︑内に於いては南司北衙の政樺宰奪があり︑結局北衙を抑堅する爲に地方藩鎭の問鼎の形勢を助長し︑途に藩鎭によって唐朝が倒されたこと周知の如くである︒かかる時代に於いては︑監軍使の存在は如何なる意味に於いても無意味であったが︑形式的には唐末まで存績した︒天復三年正月の内官三訂が行われた時︑ ﹁其諸道監軍及小使︒仰本道節度使処断︒﹂と傳えられ︑此時生きのびたのは幽州︑河東等玉壷の監軍使に過ぎなかった︒⑥このことは牛並立的な藩鎭にも引綾き監軍使が存したことを示すと共に︑唐末にも尚各地に監軍使があったことを示すものである︒けれども所詮は朝憲を背景とする官︐官勢力も︑監軍使も︑帝室と還命を共にしつつあったのである︒⑦註①億宗時代の政情︑特に藩鎮の地方割拠︑朝権よりの逸脱については︑例え
ば童男書巻=ハ四︑王鐸伝︑同書巻一七九︑瀟選伝参照︒
Oの
②
.④ ③
⑥ ⑤
⑦
例えば乾符二年十一月︑濫南︑忠武︑宣武︑義成︑天平の五藩鎮に詔して
峯盗の討捕招懐が命ぜられた時は︑節度使監軍使両者に対してなされ︵通
鑑巻斗五二︑乾符二年十一月︶︑或は直面五年五月︑河東に於いて団練兵
千人の反乱が起つたとき︑節度使蜜欝は二軍と共にこれを慰撫し︵早蒔巻
二五三︶広明元年二月寡兵が河東節度使康伝圭を叙した時︑下之属従寓が
自ら出でてこれを慰諭して︑監軍使の責任で以て乱軍の将を都町侯とした
︵同前書右巻︶こと等は︑皆監軍使が主帥と対等のものとして朝廷に於い
ても考えられ︑彼等自身も亦考えていたことを示すものではあるまいか︒
僖宗時代の三一勢力は︑田三図︑楊復恭を頂点とする大勢力で︑天子をと
り巻く南衙勢力を圧していたことは︑新︑旧両唐の官官列伝に明かであ
る︒爾︑拙稿﹁唐戸に於ける仮子制度について﹂︵広島交理科大学史学教
室編﹁史学研究記念論叢﹂所牧︶参照︒
通鑑二五二︑乾符二年四月︑同三年十二月︑同書巻二五五︑中和二年六月
同書巻二五六︑光啓元年春正月︑同書巻二五三︑乾符六年閏十月︑新唐書
巻二二四上︑高岳伝︑同書巻一六五︑旧唐書巻一五入︑鄭二重伝︑旧唐書
巻十九下︑僖宗本紀等に見える監軍使の活動を見よ︒
都監に任命せられた例は︑二号時代に郭厚本︵通鑑巻胴五一︑成通九年十
一月考異所引旧劇︶︑灘宗時代には楊紅紙︵通鑑巻二五三乾符四年十一月︶
田従興︵通鑑巻二五五︑中和四年五月︶楊復恭︵旧唐書巻一九下︑偉宗本紀︶
等があり︑都監押は西門思恭︵三碧書巻十九下僖宗本紀︶が中和元年七月
に任ぜられているが︑思恭は叉︑中和二年春正月頃道行営都都監になって
いる︵通志巻二五四︶︒都三一と都都監とは同格のものではなかったかと
思われる︒
旧唐書巻二〇上︑昭宗本紀︑通鑑巻二六四︑天復三年二月Q
通鑑巻二六五︑天嘉元年余月の条によれば︑﹁李克用復盆立官業長坐軍︒﹂
とあるが︑これは血管用が勝手に復したものであって︑勿論唐朝の任命で
はない︒爾甲府元亀巻六六五内臣下恩寵︑旧五代史巻七二︑紅谷業伝参照︒
唐末監軍使制について︵矢野︶
第四項監軍院の構成
さて︑これら監軍使ぱ地方藩鎭に赴いたとき︑どのような組織を以て
その任務を途幽したものであろうか︒
先づ︑彼等はその配属軍備に於いて監軍院なるものをもっていた︒例
えば︑成通七年廃動が桂州に於いて反乱を起した時︑監軍院に突入して
兵甲を奪ったといい︒①又︑申和二年十一月︑成徳軍節度使王景崇が卒
した時︑その子錯をして節度を継襲せしめるために︑監軍院に至って要
請したとも傳えられている︒②けれども︑監軍記はこのように三一忙の
み存したとは考えられない◎それは︑亀鑑春ニニ七︑建中三年夏四月の
條によれば︑次の如く述べているからであるQ
薬雄⁝日︒⁝又朝廷以汝曹有功︒賜詫人十匹︒至魏州西境︒審爲馬僕
興言奪︒司徒但処萢陽︒富貴足 ︒今薙南行︒乃玉虫曹非自爲也︒⁝
衆聞言︒不知所爲︒乃日︒勅使何得蛍藺軍士守護端物︒途入救使院︒
壁裂殺之︒
これば︑幽州節度使朱洛が幽州の軍士を傘いて朝廷に反して南下出職
せんとした時︑安史の乱に懲りた軍士達がその出職をぎらったので︑洛
の部下票雄が論弁を弄して軍士達を激しようとしたことを述べているの
であるが︑ここにいう敷使は兵士の爲に賞物を守護する義務があり︑救
使院に常駐するものと考えられるから︑これは監軍使のことを意味する
ものと考えてよいのではないか︒胡三省はこれに註して︑﹁軍中別置館
含︒以居救使︒謂之救使院︒﹂と述べているが︑且一体的にはそのような救
使の居所が救使院と呼ばれていたのであろうが︑前述の如く監軍院には
兵甲を醒していたというから︑そこは又︑軍なる居所ではなく︑監軍事
務がとられるところでもあったと考えられる︒以上のように考えること
が許されるとすれば︑監軍院は既に建中三年︑徳宗の初期に於いて既に
存していたと見てよく︑そこは監軍使の居所であると共に執務場所でも
Q3)
唐末監軍使制について︵矢野︶
あったであろう︒
では︑この監軍戸に於いて監軍使を助けて︑その事務に當っていたも
のには如何なるものがあったかというに︑監軍判官︑監軍小使なるもの
があった︒③監軍判官の最も早い例は監軍使邊令誠が高直芝と共に︑天
寳血塗吐蕃の勢力範囲に侵入した時︑九月末中使判官王廷芳をして捷報
を上奏せしめたというものであろう︒④次いで︑星暦十四年三月︑李忠
臣の部下李希烈が︑監軍判官蒋知璋等と忠臣の愛身離恵光父子を斬った
ということが見える︒更に貞元十六年には裁定面諭判官劉尊重︑⑥開成
三年三月湖州進茶使に充てられた古西監軍制官王士政なるものがあった︒⑦これらの判官が宙官であったことは︑王廷芳の例とか︑中和三年
宙官張居翰が容管監軍﹂判官であったこ・と等によって推察され.る︒⑧
次に監軍小使については︑貞元十六年鄭滑節度の監軍使蘇.盈が監軍小
使程等量を京師に遣したといわれ︑⑨敬宗の頃蜀に尽した杜元頴の失政
を監軍小使張士謙が奏上したといい︑⑩黒和四年剣南節度に官軍小使臭
仲方がいたことが見える︒⑪これらの小使も亦宙官であったことは︑天
復三年春正月︑宙官の大殺獄が行われたとき︑諸道にある監軍小使も監
軍使と共に斬に処せられたことによって明かである︒⑫
ここで今一度監軍院設置時期について振返ってみるに︑監軍制官が天
寳六載から既にあらわれていることは︑監軍使の設置と殆ど時を同じうしているわけであり︑これから推せば︑監軍院も建中三年から遡って早
くから存在し︑1恐らくは監軍使の設置と共に一そこに判官︑小使等の職員が置かれていたのではあるまいか︒
では︑これら判官並に小使の任務は如何︒先づ判官についてみるに︑
詳細は不明であるが︑職時には監軍使に從って三品に誓事したものらし
く︑時には自ら兵を率いて敵を討つこともあり︑或は監軍使の命をうけ
て敵陣に使し︑敵を諭した如きこともあった︒⑬或は前記王三芳の如く
軍情上奏の使となって京師に赴く如ぎこともあった︒その行動は殆ど監 軍使と異るところはなかったようである︒とすれば︑六時に於いては恐らく監軍使の命をうけて︑藩鎭内の軍政を監督していたものであろうか︒その故にこそ︑制官を副監と呼ぶことがあったのではあるまいか︒⑭ 次に︑監軍小使は監軍使から朝廷への奏上の使に用いられている︒それば既に述べたところでも明かであるが︑更に太郎四年荊南監軍立使丁仲方は︑荊南より西川に赴いた行螢兵馬の罰金の事情を上奏し︑⑮威通七年冬十月︑高聴が交趾を囲んだ時︑小使油魚賛が職勝を奏上する爲に京師に向つた等︑⑯何れも皆監軍によって軍情を朝廷に上奏する爲に京師に造されている︒小使とは︑監軍使の命をうけて朝廷との問を連絡することを主たる任務としたものであろう︒⑰註① ② ③
④
⑤
⑥
⑦
⑨ ⑧
⑪ ⑩
⑬ ⑫
⑭
旧唐書巻一七七︑彦詳伝
冊府元亀巻四三六︑将帥墨継馬鞭麓髄羅照隠蒜鴬豆騨隷農鰻霜鋤
が︑これは他には全くきかないところであるから︑判官のことを指すもの
として誤あるまい︒
旧唐書巻一〇四︑高絶学伝︒
旧記書巻一四五︑李忠臣伝︑李希烈伝︒
冊府元亀巻四四三︑将帥部敗二三︒
一山元亀巻四九四︑邦計部山沢一一︒
旧五代史巻七二︑張居翰伝︒
旧一書巻一五三︑銚南仲伝︑唐国史補巻酒中︒
旧唐書巻一山ハ三︑三元穎伝︒
珊府元亀巻四〇一︑将帥部行軍法︒
旧冷遇昭宗本紀︒
冊府元亀四四三︑将帥部隊甥三︑通鑑巻ご五二︑乾剤三年九月︑旧唐書巻
二〇〇下︑黄承伝︒
③に同じ︒
⑮
⑯
⑰
冊府元亀巻心〇一︑将帥壮行軍法︒
通鑑巻二五〇︑成通七年冬十月Q
これら判官︑小使がどのくらい配属されていたかは全く不明である︒
結
語
徳宗時代に整備せられた監軍使制は︑憲宗朝の中央集灌確立に相當重要な役割を演じていたことは明かである︒併し乍ら︑吉際爲
政者等の中には︑その効用の限度をはっきり認識している人蓬もあっ
た︒ 而も論宗の豪語現今失敗後は︑朝憲と︑政治的に強大となった 臣勢
力との爾者を背景とする監軍使の専恣を來し︑これに封.して武宗︑宣宗
爾代に互って制抑が加えられ︑宣宗朝には戎臣の失敗に饗する監軍使の
共同責任が規定されるに至ったQけれども︑それは逆に︑監軍使の軍政
に封ずる参與を公的に認むる結果となり︑繋宗頃より二頭政治の形勢を
馴致するに至り︑僖宗朝以降に於いては釜汝その形勢が強まり︑朝権統
制を逸脱する如き行動が積極化されていった︒①のれども結局は︑唐朝
の滅亡は宙官勢力の最後であり︑監軍使制の終焉でもあった︒
最後に附加えておきたいことは︑監軍使の横暴は輩に軍中に於いての
みならす︑民聞にも及んだことである︒その一︑二については既に述べ
たところであるが︑爾唐國皮補巻之中によれば︑貞元十四年山南東道節
度使干頃の下に酵尚宿なる監軍使があった︒頗︑は敷慢な人物であったの・
で︑監軍使を厚待しなかったが︑ある日伺循は出游して駐るや︑牛車五
十乗の財物を持騰って頗をして驚歎せしめたといわれる︒これは︑樹衡
が民間から強奪したか︑牧賄したかは明かでないにしても︑民聞に封ずる強力な影響力をもつていたことを物語るものであろう︒恐らくはこの
ようにして財を蓄うることが行われた結果であろうか︑長慶四年正月並
に三月の詔によれば︑諸道監軍は本道にあって︑或は入奏して進献ずる
唐末監軍使制について︵矢野︶ を得ないといわれている︒②こればそれ以前に於いて監軍使による進献が相當にあったことを示すものであろうが︑監軍使の如ぎ者がそれだけの短慮的余裕がある筈はないのであるから︑進献は恐らく尚街の如き行爲によって集められた財が充てられたのではなかろうか︒③ かくて監軍使制は︑一面朝灌の統制下に於いて中央集灌化に寄與しつつ︑他面その属する富官階級の本幣串寄生性格の故に︑唐朝崩壊の歩みを早めつつあったといえないえないであろうか︒註① 唐末に於いては︑監軍使のあるものは白雨を以て任命せられた者もあった らしく︑胡三省が︑﹁史言唐末富官恣横Q監軍与枢密使恩数将於将相︒﹂と 評しているが如く︑恩寵を蒙ること甚だしいものがあった︒けれどもこの 際注目すべきは︑監軍への恩寵は宙官であるが故の恩寵であって︑天子直 派機関として監軍使σ立場は於いてではなかったことである︒
②
③
冊府元亀巻九〇︑帝王部赦宥九︑同書巻一六入︑帝王部貢献︒
監軍使の正式の俸緑は割合に高いものであり︑三叉︑節度使が制旨によら の
ず濫りに俸を増す如きこともあったらしいが︵冊府元亀巻五〇入︑邦計部 G
俸豫四︑旧唐書巻一六五設誤伝︶︑それらによって進献が行われる筈はな
いから︑矢張り倫宿の如き方法によって集められた財によったものであろ
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