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唐末五代小史(III) : 特に秦・成・階・鳳4州の争奪を中心として

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(1)Title. 唐末五代小史(III) : 特に秦・成・階・鳳4州の争奪を中心として. Author(s). 田中, 整治. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 16(1): 16-30. Issue Date. 1965-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3848. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 16 巻 第 1 号. 北海道学芸大学紀要 (第一部B). 唐. 末. 五. 昭和40年8月. ・ 史 (m). 代. -- 特に秦・成・ 階・鳳4州の争奪を中心として -- 田. 中. 整. 治. 北海道学芸大学旭川分校史学教室. Se i i TANAKA : A Short History ofthe Late j. T‘ang Dynasty. and the Five Dynasties -- wi th special reference to struggle forfour provinces: Ch‘ in, ‘ Ch eng, Chi d F h e ng -- e ,an. 目 1 , はしがき 2 , 李茂貞の1台頭 3 . 李茂貞の鴎横. 次 4 , 李茂貞の失墜 (以下本号) 6 , 五代諸国の4州領有 6 , あとがき. 4 , 李茂貞の失墜 初め雀胤が朱 全忠の兵力を借り, 富官を諒した次第 は既述の如くであるが, 全忠は既に李茂貞 を破り, 関中を併呑すると, その威力が天下に振 った. かくてかれは遂 に幕奪の志を抱くに至っ た. 雀胤はこれ を恐れ全忠と表面上は親厚な態度を装ったが, 内心は異っ ていた. かれは全忠に チつきん せ 対して, 長安は李茂貞に密通しているために, 守禦の備をおさめないわけにはゆかぬ. 今の六軍 十二衛はただ空名あるのみで, 実がないので召募してこれを充実させ, 公のために西顧の憂をな まげしたとう. く しようと, 六軍十二術の増強を要望 したので, 全忠はその意を知っ て, かれの要望に曲従し , 密に塵下の壮士に応募させ, その変を偵察させた. 一方胤の方では, 全忠のかふる謀を露知らず ぷき. 鄭元規らと日夜兵伏を繕治していたが, 宿衛都指揮便朱友倫が撃穂中1 ) , 落馬のため急死すると, 全忠は益々後胤を疑い, かつ昭宗を遷して洛 陽に都せんとし, 雀胤が反 対して洛陽遷都の計画を ) 阻止せんとするのを恐れた2 . 天復4年 ( 904 ) 正月, 朱全忠は兵を引いて河中に屯したが, これはさきに全忠が緋州 に勝ち, その際人質にした静難 軍節度使楊崇本の 妻のことから, 茂貞とその養子崇本とが互に兵を連ねて 京畿を侵さんとしたためにとられた行動である. 間もなく全忠は錆 ・岐の兵が京畿に迫るので, ) 昭宗に洛陽への遷都を請うた3 . かね. しうり. 4月朱全忠が予て東都留守・佑国軍節度 使張全 義に繕修させていた 洛陽宮が完工を見たので , ) 閏月昭宗は欧州 (河南省険県) から洛陽宮に入り4 , 天下に大赦して天祐と改元し, 恢州を興唐 一 16 一.

(3) . 唐 末 五 代 小. 史 (m). 府に格上げし, 李茂貞・楊崇本を討つ詔が下った. 間もなく内諾司中ただ宣徽等九便が存 置され ) て他は廃止を見た5 . これは昭宗の洛陽遷都 に多額の経費を要し, 国用が未だ豊かでなく, 庶事 むだな 草創のため冗司局を減らすためであった. このとき蒋玄嘩は宣徽南院便と なり枢密使を兼ね, 王 股は宣徽北院便となり皇城使を兼ね, 張廷範は金吾将軍となり街便に充てられ, 章震は河南事と なり, 六軍諸衛副・ 便を兼ね, また武寧留後朱友恭を左竜武統軍となし, 保大節度使氏叔珠を右竜 武統軍 に任じ, それぞれ宿衛を掌らせた. これらは皆全忠の腹 心であった. かれが側近を信頼す べ き腹心で固めたことが わかる. なお張全義を天平節 度使に任命したが これはかれが積年にわ , たって洛陽宮を葺理した功績に報いたものであろう. また全忠は護国・宣武,宣 義 ・忠武・四鎮 ) 節度使に任ぜられた6 . これは鄭州を張全義に授けたためにとられた措置であ る.・ 6月 李茂貞・ 王建・李継徽らは激を伝え, 連合して薙・華地方を攻めたが, このため関西地方の人民は大いに 恐れた. 全忠は長子の鎮国節度使朱友格に行営都統を兼ねさせ, 歩騎数万を率いて餌 ・岐を経略 りゆうじん ふ きせた. このとき保大節度使劉 郡に鄭州を放棄して同州に 屯せしめたが, これは朱友格の軍に合 流するため であった. 間もなく全忠 は兵を引いて大栗から西の茂貞軍 を討った7 ) . このころ西川の諸将は王建に勧めて, 李茂貞の勢力の衰退に乗じ, その根拠地たる鳳靭を攻取 ふクけん. せんとしたが, この策を採用するか否かにつき, 節度判官鴇渦の意見を問うたところ 「鳳報 は濁 きようえき の藩蔽, これと和親し, 結んで婚姻をなし, 事なければ農に務め兵を訓え, 彊場 (国境) を保固 うかが. するにしかず. 事あればすなわちその機事を脱い, 嬰を観て動けば以て万全なるべ し 」 とあっ . た. 李茂貞と の通婚による和親策を述べたものであるが, 王建はそれに従い茂貞と修好を結ぶに ちようこう. おい. ) 至った8 , かくて茂貞は判官超鐘を成都に赴かせ, その姪で秦州にいた天雄節度使李継勲のため むすめ に王建の女に求婚させたので, 王建はこれを許した. また茂貞は屡々貨および甲兵 を王建に求め ) o ) た が9 , 建 は これ に 対 し て 悉 く そ の 要 求 に 応 じ たl .. このころ 李茂貞・楊崇本・李 克用・劉仁恭・王建・楊行密 ・超匡凝らは椴を飛ばして互に往来 し, 唐朝の興復を図 ったので, 朱全忠は兵を引いて西方の郡 ・岐地方を討とうとした. これは英 気のある昭宗を偉かって, 幼君を立てようとしたために取 った行動である。 8月 全忠は判官李振 を河中から洛陽に赴かせ, 朱友恭らと昭宗の殺害を図 ったが, 夜蒋玄陣は竜武術官史太ら百 人を 選抜して内門に入り, 淑殿にいる昭宗を試した. 何皇后も殺されそうになったが, 玄陣に助命を しゆく 哀願したため許された=) . 昭宗が殺された翌日蒋玄嘩は詔を矯め, 輝王昨を皇太子と なし, 祝と 改名して軍国の事を監せしめ, 次いで皇后令を矯め, 13才の太子を枢前で即位させた. これが昭 ・ 9月 朱全忠 は兵を引いて北, 永寿 (侠西省永寿県) に屯した が, これは都兵に挑戦 宣帝である. ちゆうちつ. するためであり, また南の賂谷 (狭西省講座県西南120里) にも至ったが, これは岐兵に戦を挑 むためであった. しかし鳳潮 ・斜寧の兵 が遂に積極的に挑戦しなかったので, 全忠は洛陽に帰還 とど 2 ) した1 . 10月朱全忠は朱友恭・氏叔珠らが土卒を蛾めず, 市舞を侵擾した罪を以て, 友恭を李彦 威の本姓に復して崖州司 戸に駁し, また叔 珠を白州司戸に賑せんことを帝に請うた. かれらは次 いで死を賜わった. や がて全忠 はまた宣武・護国・宣義・天平節度使に任ぜられ, 天平節度使張 全義は河南労となり忠武節度使を兼ね, 判六軍諸衛事となったが, これは朱友恭・氏叔珠に代 っ て宿衛 を領するものであった. 天祐2年 ( 90 5 ) 11月 朱全忠は 相国となり, 百拶 さを総 べ, 宣武・宣義・天平・護国・天雄・武 順・佑国・河陽・義武 ・昭義・保義・ 戎昭・武定・泰寧o平鹿・忠武・匡国・鎮国 ・武寧,忠 義 ・荊南等二十道からなる地域を醜国と なし, 醜王に進封せられ, 九錫を加えられたが, 全忠はそ 」1 7一.

(4) . 田. 中. 整. 治. の椿緩を怒り辞退して受けなか った. 思うにこれは全忠に唐室を纂奪せんとする意図 があったた ) 3 め で あ ろ う1 .. ) 8月李茂貞はその子す 906 天祐3年 ( 凡を成都に送 っ て人質と したが, 王建はこれを知彰州に任 4 ) じた1 . 10月都州の楊崇本は鳳朔・斜・寧・樫・脚・秦・瞳の兵5~6万を率いて来越し, 美原 5案を列しその勢 が甚だ盛んであったため朱全忠は同州節度使劉知俊・ (故夏州城南) に屯し, 1 都将康懐貞に命じて軍を率いこれを防禦させた. このとき知俊らは都軍を破って2万余の兵を殺 し, 馬3千余匹を奪い, その列校百余人を捕虜とした が, 楊崇本・胡章らは身を以 て逃れた. 11 ) 5 月には懐貞の軍は勝に乗じて進軍し, 遂に鄭州をその手中に収めた1 . これから錆・岐軍はその 勢が振わなくなった. 初め朱全忠は河北の諸鎮が皆服したのに, 劉仁恭の拠る幽州 (河北省北京市外城西部より城外 0里) の2州のみがまだ降伏しないので, 大 に至る), その子劉守女の拠る槍州 (河北省槍県東南4 挙してこれを討ち諸鎮の結束を固めようとした. 既に滋州 (山西省長治県) 内に叛乱 が起り, 全 忠は叛徒の陣営を焼いて帰還したが, この事件の後かれの威望が大に組まれ たので, 中外の灘心 7) 2 90 を恐れ, 速に昭宣帝から禅りを受けて帝位に即 き, ノvDを鎮めようと図った. 天祐4年 ( 月 唐の大臣 らは共に昭宣帝に上奏して譲位を請い, 翌3月 昭宣帝は御札を降して位を全忠に禅っ ) 6 たので, 4月 朱全忠は皇帝の位に即き, 開平と改元し, 国号を大梁と 称えた1 . かれは制を下し て李克用 の官爵を剥奪した. このとき河東・鳳撫・准南は昭宣帝の年号天祐を 称し, 西川の主 建 は唐と地理的に隔絶しているため, 天復の年号を用 い, 何れも唐の年号を 称したが, 他の諸鎮に おいては皆梁の正朔を奉じ, 臣と称して全忠に奉貢の誠を尽くした. 憂王王建は准南の弘農王楊 渥と共に激を諸道に飛ばし, 岐王・晋王と 兵を会し, 唐室を興復しようとした が, 遂にこれに呼 応する者 がなかった. 思うにこれは梁の兵力の強大なるた め, これに匁向うことの無 益なのを知 が っている一般 の人民 が, 唐末の乱世をいとい, 休息を 願う余り, 唐室を復興しようと する世論 盛 り 上 ら な か っ た こ と に 基 づ く も の で あ ろ う.. 唐室の復興覚束なしと知 った王建は今の四川省の成都を中心とする濁地方に おいて, 帝位に即 こうと図り, 命令を下し, 領内の吏民にその旨を諭すと共に, また晋王に書を送って 「各自銘々 その一 方の地区において帝 となり, 朱全忠の平定されるのを待ち, 唐の宗室を訪ねて, これを帝 」 とその意志を表明したのに対 して, 晋王また書を送り に立て, しかるのち退いて藩服に帰せん. 1 ) とあっ た. 李克用は異民族の 7 し. 「 」 この生に誓い敢えて節を失する摩 これに答えた. 返書には 出身にも拘らず, 終身唐臣たらんとする意志を 示している. その天性の忠純なるさ まを察すべき で あ る.. ところで岐王李茂貞は王 建・李克用 と異なり, 唐滅亡後帝位に即くだけの実力を もちえなかっ た. 次に少しくその事情を考察して見よう. 資治通鑑巻二六六後梁紀 開平元年四月の条に 「岐王 (李茂貞) 軍を治むること甚だ寛にして, 士卒を待つこと簡易なり.」 と見えているのでも判るように, 頗る部下に対して寛大 ・ 寛容であ り, 嘗て部将の荷昭 が反したと 告げる者 があったとき, 直ちにかれがその家に赴き, 左右の者を 遠ざけて宿泊して帰 ったことがあっ てからというものは, 衆心が悦服したといわれているけれ ど も, 惜しむらくは軍を統御する際, 厳格な紀律を制定しなかっ たために, その軍隊は戦斗力 が衰 えてきた. 李茂貞は唐滅亡の報せを聞いても, その兵力 が弱く かつ領土が縮小したために, 帝位 に即くことができず, ただ岐王府を開設し, 王府の事務を処理する百官を配置したにす ぎなかっ た. しかし居所を宮殿と称し, 妻を皇后と呼び, 将吏の上書は 瞳表と称し, 鞭扇号令な ど悉く皇 - 18 -.

(5) . 唐 末 五. 代 小. 史 (m). 8 ) 帝の制度に擬した のであるが1 , その威力たるや朱全忠のそれに及びもつかなかった. 9月 王建は成都を国都として皇帝の位に即き, 国号を大濁と称したが, これは天産物の豊富な 燭地方に拠り, 強力な軍隊をもち, その ブ レイ ンとして採用 した人々に宜しきを得た賜 ものであ る.. 開平2年 ( 908)正月 晋王李克用は首に痘を発して重態に陥り, 晋州刺史李存易を嗣として53才 で死んだ. かれは朱全忠と勢力を争い, その兵力寡少のため力及ばずと見るや, その時期の至る のを待っていたが, 梁国の成立を眼のあたりに見て, やがて宿敵を打倒せんものと念じながら, 遂に倒れ, その遺志は子の李存扉につ かれることになった. 4月 になり克用の死後, 晋王李存扉 は, 上党は河東の藩蔽 であり, 上党なければ河東なし, 朱全忠は先王李克用を禅っていたが, 余 が新たに立 っ て後, 騎怠の念を 抱いていると察せられるので, 今その不意に乗じてこれを襲えば 必ず破れると, 朱全忠を奇 襲する策を述べたので, 監軍張承業もまたこの作戦を勧めた. かくて おうかん 晋王は張承業・判官王繍を遣わして, 朱全忠攻撃の援軍を鳳湖の李茂貞に請い, 他方使を遼の太 祖阿保機の許に遣 わし, 賄賂を贈 ってそ の漂惇なる騎兵を求めた. 岐王李茂貞の場合は, かれが 9 ) 既に老衰 し1 , 加うるにその塵下の軍隊は弱くなっており, 財また乏しきために, 遂に李存扉の 0 ) 要 請 に 応 ず る こ と は で き な か っ た2 .. 註 1 ) 撃盤は… 打櫨のことであり, 打遂については守屋美都友 E氏著 「校注荊楚歳時記」 --中国民俗の歴史的研究 I -- (帝国書院, 昭25 )89~94頁参照. 2 ) 資治通鑑巻二六四昭宗紀天復三年十二月の条, 3 ) 同上天祐元年正月の条, 4 ) 十国春秋巻-呉大祖世家天復四年三月丁巳の条に, 唐の昭宗が間使に絹詔をもたして, 呉・前編・河東に 難を告げしめ, 唐室の匡復を図らしめたが, 実現をみなかった記事がある. ) 資治通鑑巻二六四昭宗紀天祐元年四月 の条の注によると, 九便は宣徽南北院・小馬坊・豊徳庫・御厨・客 5 省・閤門・飛竜・荘宅をさす. 6 ) 同上四月の条. ) 同上六月の条. 旧五代史巻十二棚王友裕伝. 同巻十三楊崇本伝, 7 8 ) 資治通鑑巻二六四昭宗紀天祐元年七月の条. 五代史記注巻六十三上前編世家引くところ の園鑑天祐元年の 条, 9 ) 李茂貞の拠った岐地方は 「地狭く隙導き」 (新五代史巻四十李茂貞伝) ありさまであったから, その軍需 物資を他地方に求めるのは避けることができなかった, 10 ) 資治通鑑巻二六四昭宗紀天祐元年七月 の条. 11 ) 旧唐書巻二十上昭宗本紀天祐元年八月 の条. 資治通鑑巻二六四昭宗紀天祐元年八月の条, 12 ) 資治通鑑巻二六四昭宗紀天祐元年九月の条, 13 ) 資治通鑑巻二六五昭宣帝紀天祐二年十一月 の条. 14 ) 同上天祐三年八月の条, 1 5 ) 旧五代史巻二栗太祖紀天祐三年十月・十一月の条, 資治通鑑巻二六五昭宣帝紀天祐三年十月・十一月の条. 16 ) 朱全忠が建国に成功した一因として, 資治通鑑巻二六二昭宗紀天復元年十一月の条に 「車駕之在華州也, 商質幅湊. 韓建重征之. 二年. 得銭九百万緑, 至是全忠尽取之. 」と見えている韓建の蓄財を利用しえたこ とが挙げられよう, 1 7) 資治通鑑巻二六六後梁紀開平元年四月 の条. 1 8) 旧五代史巻一三二李茂貞伝. 新五代史巻四十李茂貞伝. 資治通鑑巻二六六後栗紀開平元年四月の条, 19 ) 旧五代史巻一三二李茂貞伝によると, 岐王は同光2年 ( 4 )6 92 9才で死んだとあるから, 開平2年 ( 90 8 ) には53才であったことになる, 20 ) 資治通鑑巻二六六後架紀開平二年四月の条,. 5 . 五代諸国の4州領有 かくて晋王は, 周徳威らを率いて5月 爽案を取り, 沢州 (山西省晋城県) を攻めて晋陽に帰っ ー 19 一.

(6) . 田. 中. 整. 治. た. これよりさき梁の太祖が国を開くや, 遼の大祖はその臣泡 後の梅老を遣わし, 名馬・女楽・ こう き ) 紹皮等を献じて封冊を求めた. このとき梁では大府少卿高頑を遣わしてこれに報いしめたが1 , そこで梁の大 翌年5月 遼の大祖は高頑の帰任するとき使 を遣わし, 入貢させかつ冊命を求めた. 祖はまた司農卿揮特を遣わし, 遼の大祖に手詔を賜い, 共同戦線を張り沙陀族の李存扉を滅ぼさ ) ん こ と を 約 し, 封 冊 を 行 な っ た2 .. このころ前編の高祖主建は部将をやり, 兵を率いて岐兵5方と相会 し梁の薙州を攻め たが, こ のとき晋軍の張承業 もまた兵を率いてこれに応じた. 翌月 梁では灘州行営招討使劉知俊を西路行 営都招討使に任 じて王建らの連合軍 の防禦に当らせた. 戦局は梁軍側に有利に展開し, 劉知俊・ 佑国節度使 王重師らは岐兵を幕谷に大破した. このとき李茂貞は僅に身を以 て免れ, 晋・濁の兵 ) は悉く退却した3 . 晋の周徳 威・李嗣昭は3万の兵を率いて陰地関 (山西 省霊石県西南120里) を 出て晋州を攻めた が, 晋州刺史徐懐玉は敢然 と拒守し, 梁の太祖は親 らこれを救わんとして大梁 より狭州に至っ た. 間もなく岐王の任命した延州節度使胡 敬蜂は, 上平関 (山西省石楼県北西90 里) に来題した が, 却っ て劉知俊に撃破された. 周徳威らは梁の大祖の至らんとするのを聞き, 退いて蝿州を保つことにな った. このころ李茂貞側の保塞節度使劉方子は暴虐のため民心を失っ ており, 乗 りえ梁に内通しようと図 ったので, 李継徽は延州牙将李延実に命 じて殺させようとした が, 方子が胡敬蜂を葬 ったのを理由に, 延実が攻めてこれを殺し遂に延州に拠った. このとき馬 軍都指揮使高方興は弟方金と共に兵を率いて境上に戎していた が, 方子の死を聞いて数千人の部 ) 909) 2月 であった. またこのころ 下を率いて, 劉知俊の許に至 っ て降伏した4 . 時に開平3年 ( 岐王李茂貞は種州を郷城に置いた が, その守城も亦梁に降った. 3月 山南東道節度使 楊師厚に路 州四面行営招討便を兼ねさせたが, 梁の太祖は河中に至り, 歩騎の軍を発して投降した高方興の 兵に合流し, 協力して丹・延両州を取 った. 形勢不利と見た丹州刺史樵公実は梁軍に降伏を請う ). 4月劉知俊は軍を移し延州を攻略したが, このとき李延実は龍城して目守した. また 知俊 た5 は白 水鎮使劉儒を遣わし, 兵を分っ て坊州を包囲させた. 延州が陥落して李延実は降伏し, 李茂 刊史李彦星らは皆その守城を放棄 して鳳湖に奔った. また 貞の任命した 保大節度使李彦博・坊州“ 鄭州都将厳弘偽は李茂貞軍の形勢不利なのを見 て, 城を挙げて梁軍に降伏した. かくてこの月 李 ) 茂貞の勢力下にあった延・郷・坊3州が梁軍の掌中に帰することになった6 . 劉知俊は戦功により梁の太祖より検 校大尉兼侍中を加えられ, 大彰郡王に封ぜられた. 時に5 月 であった. 知俊は戦功を立てその名声は 益々高くなったが, 梁の太祖は精忌心が強く屡々功 績 のある諸将を殺しており, たまたま佑国軍節度使王 重師が何ら罪なく して訣せられたことより内 心不安であった. 梁の大祖は勝ちに乗じ, 劉知俊に都州攻略を命じたが, かれは都州に拠る李継 徽には背後に鳳湖の援助があ るため, 成功は困難であると察し, 車糧の不給を理由に行くのを拒 んだ. 梁の太祖 が 河中に幸した際, 宣徽使王股に命じて知 俊を召させた. そのとき知俊の弟知院 は親軍指揮使であったが, 兄に帝の命を拒むよう告げた. かくて知俊は遂に梁の太祖に叛して李 茂貞に臣事 し, 兵を率いて薙・華を攻め薙州節度使劉禅を執え, 岐に送りこれを殺した. 劉知俊 の投降を受け入れた李茂貞はかれを厚遇し, 検校大尉を加え 兼中書令 に任じたが, 李茂貞の拠る ) 岐地方は土地狭く, 藩鎮の拠るべき適当な地域でなく, 俸禄のみが厚給せられた7 . 8月李茂貞 は知俊に霊武の攻囲を命じ, かっこの地を牧馬地となさんと した. このとき茂貞は, 晋王に晋・ 経2州の攻略を 約させたので, 晋王はこれに応 じ兵を引いて南下し, 部下の周徳威らが陰地 関を 出て晋州を攻めた が, 刺史辺継威が固守して陥らず, 楊師厚が救援に駆けつけると晋兵は遁走し た. 霊武地方が急を告げ, 霊武節度使韓遜が梁の太祖に救援を求めたので, 梁では廉懐貞に命 じ - 20 一.

(7) . 唐 末 五. 代 小. 史 (m). 兵を率いてこれを救わせたが, 都州の長城嶺に宿営中, 知俊の遮撃を受けて懐貞は敗退した. そ ) こで茂貞0土悦んで知俊を挫州節度使に任命した8 開平4年 ( 910)5月, 岐王李茂貞はその所領内に物産が少いため, 前編の王建に対して 屡々貨 を求めたが, 王建はこれに対してその要望に応えた. 味をしめた李茂貞はまた前 濁の巴・剣2州 を要求したが, 王建は 「余は茂貞を奉じてよく心を尽した. 若しかれに土地を与えれば, これは 余の民を放棄することになる. 寧ろこれに貨を与えよう. 」 と述べ煽地方の産なる競・茶・布・串 ). 7月岐王李茂貞が鎚 州の李継微 7万 をこ れ に 贈 っ た に す ぎ な か っ た9 , 挫州の劉知俊と共に使. o ) を攻めんことを請 うたので 晋王は部下の振武 を普王に遣わし, 兵を会して定難節度使李仁福l , 節度使周徳威をやり, 軍を率いて李茂貞の軍に合流し, 5万の連合軍を以て夏州を攻略した. 李 仁福は 寵城して防戦したが, 翌月急を梁に 告げたので, 太祖は河南労兼中書令張全義を西京留守 に任じ, かれに晋兵の西京襲撃に備えさせ, 宣化留後李思安を束北面行営都指揮使に任じて, 万 人の軍を率い河陽に屯せしめて洛陽の 守備に当らせ, 大祖は洛陽より秋 に至り, 楊師厚を西路行 営招討使に任じ, 康懐貞の将兵3万と合流して三原に屯せしめた. こ の際大祖は 晋兵が沢州 (山 西省晋城県) を出て懐州 (河南省恥腸県) に迫 らんことを恐れたが, 既に敵軍が綾・銀猿中にい るのを知り, 愁弓 をひらいた. 間もなく爽馬指揮便李逼・劉瓶をやって郷・延2州より銀・夏州 に赴かせ敵の帰路を遜撃 せ しめた. 越えて9月李過 らは夏州に到着したが, この時岐・晋の兵は ) 1 皆遁走した後であった1 むすめ. 王建の女普慈公主は岐王李茂貞の従子秦州節度使李細崇に嫁していたが, 開平5年 ( 911)正月 鴬官宋光嗣を父の許にやり絹書を届けさせた. その内容は継崇は性質が騎誇でその上酒 を噌んで いるので, 成都の実 家に帰らんことを要請 するものであった, 王建は女の帰国を許したが 公主 , が成都 に帰るや留めて李継崇の許に帰さず, 宋光嗣を濁の閤門南院便に任命した この事件の後 , 岐王李茂貞は王建の執った態度に対して大いに怒り, これまで維持していた前濁との友好関係を 2 ) 初めて断絶す るに至った1 3月李茂貞は兵を集結して前 編の東都に臨んだが, これは隙あらば前 編の領内に侵入せんとす る体制を整えたものであった. かかる李茂貞の動静を察して王建もそのままにしてはおけず 群 , にぎ 臣に 「茂貞が朱温に苦しめられてから, 余は常 にその乏絶に対して振わしてや った それにも拘 . わらず, 恩を忘れて題をなさんとしている. 誰が余のためにこれを撃つか 」と尋ねたのに対 して . 兼中書令王宗侃が 撃たんことを請うたので, かれは北路行営都統 に任ぜられた このとき李茂貞 . を撃つことは前濁側に利益をもたらさぬと諌める者も あったが, 結局兼侍中王宗祐・太子少師王 宗賀・山南節度使唐道襲を三招討使と なし, 三路より兵を進めて李茂貞を撃つことになった こ . のとき左金吾大将軍王宗紹は宗祐の副とな り, 歩騎12万の兵を率いた. このころ岐王李茂貞は華 原の賊帥 温轄を召募して仮子と なし, 華原 (映西省耀県) を耀州と改め 美原を鼎州と なし 義 , , . 勝軍を置き, 難をその節 度使となし, かれに分 B・岐の兵を率いて長安に題せしめた. 後梁では感 化節度使廉′ 庚貞・忠武節度使朱存節に命じ 同・華・河中の兵を率いてこれを車度に撃ち敗走させ 3 ) た1 . 4月に入り岐兵が前 濁の興元に来越したが, 唐道襲がこれを撃退したとい ・うから, 戦局は 初めから岐軍側に不利 であった. 翌月王建は太子に監国を命じ, 利州に至ったが, これは親ら兵 を率いて岐軍を討つためであった. 前編の諸将は岐兵を撃ち屡々これを破り優勢であった. 7月 そうかい 王建は成都に帰ったが, このとき御営使昌王 宗室談を利州に屯せしめ, 岐軍に備えさせた. 時に李 茂貞の命を受けた劉知俊・李継崇らは大軍を率いて分路, 階成路より来攻し, 固鎮 (舷 西省鳳県 西120里)を奪取したが, これに対し前 編の王宗侃・王宗賀・唐道襲・王宗紹らは岐軍を防禦し, 一 21 -.

(8) . 田. 中. 整. 治. 青 泥 嶺 (狭西省略陽県西北1 50里)に至 った. これは輿州長挙県西北50里に あり懸崖方似の難所で ある. 結局前編軍は劉知俊の軍 に 大敗し, 馬歩使王宗浩は興州に奔り, 嘉陵江にて溺死し, 道襲 は興元に走った. また宗侃・宗賀らは散兵を収容し退い て西県を保っ た. これを追跡して包囲し たのは岐軍の劉知俊・李継業である. このとき興元の前濁軍 は興元の放棄を主張したが, 道襲は 興元こそ要衝の地であり, この地を失え ば, 利州が敵 の掌中に陥るため, この地の死 守を主張し た. 前濁の主建は昌王宗鏡を応援招討便とし, 定戎団練使王宗播を四招討馬歩都指揮使とし, 兵 を率いて王宗純の安遠軍を救援させ, 唐道襲と連合して岐兵を 撃ち, 明珠曲 (狭西省汚県西) に り‘ ずんちん ふこう 4 ) 司史李彦深を斬った1 被り, 翌日また烏口に戦って成州克 . 10月 王建は王宗侃が岐軍に破れたのを おうそう. 聞き利州に赴いた. 決雲軍 虞候王珠・捉生将彰君集 らは岐軍を破り戦果をあげた が, 主宗侃は趣 将林周 、謡をやり泥渓(剣州の北利州の境界にあり)にて王建に見え 急を告げさせたので, 王建は開 道都指揮便王宗弼に命じ兵を率いて安遠を救い, 劉知俊と斜谷に戦いこれを破った. 11月 王宗弼 は岐兵を金斗に破り, その16案を抜き, 損害を与えた が, 王宗金歳・王宗播も岐兵を黄牛川に破っ てその将を指にした. かくて王建は利州より興 元に赴いた. 前 濁の援軍 が既に集結を見たので, 安遠軍は玉建の旗を望見し, 主宗衡 Lらは鼓課して出動し, 援軍と共に岐兵を爽攻してこれを大破 し, 21案を抜きその将李廷志らを斬った. かくて岐兵は安遠の 包囲を解いて逃走した. 唐道襲は 予め斜谷に伏兵を配置していたが, 岐軍を濫撃してまたこれを破っ た. 王建は岐兵が既に敗走し せきかんぎよう. たため遂に成都に帰還した. このころ李茂貞の左右石間瀬らは劉 知俊と不和となり, かれを茂貞 に議言したので, 知俊はその軍政を免ぜられて岐下の掩関に寓居した. 茂貞の猶子李継崇は秦州 に鎮していた が, 「知俊は窮してわ が方に投降した が, 譲言を以て 免職すべきではない.」 と茂貞 に諌めたので, 茂貞は簡願らを課し知俊を安心させた. また継崇は知俊の 一 家を挙げて秦州に居 5 ) 住 さ せ た1 .. とらを前編に遣わし, 王建に書 乾化2年 ( 912) 2月梁の大祖は岐・前編の交戦を聞 き光 禄卿慮珍 を送ら しめたが, そのとき王建を兄と呼び敬意を表した. これは前編の兵強く地険要に位するた )12月に至るま め, 自らこれを 制しかねて敵国の礼を用いたもので あろう. その後乾化4年 (914 で, 前編と岐との交戦は史料に記載がない. これは李茂貞側が次の侵遥の準 備をしていたためと 思われる. 4年2月 感化節度使康懐貞が永平節度使に任ぜられて長安に鎮したが, これは岐軍が 6 ) 屡々後梁の秦・薙に侵冠したためにと られた防備体制であっ たi . 12月 に至って前編の興州刺史 兼北路制置指揮便王宗鐸が 興州の西南510里に ある岐の階州と青泥嶺の東北に ある固鎮を攻略し 000級の損害を与えた. また前編の指揮使王宗徽は岐の長 域関等4案を 細砂等11案を破り, 斬首4 、は留後と 破り2 000人を殺した. このころ岐の静難節度使李継徽はその子李彦魯に毒殺され, 彦魯 称し 保衡もまた静難留後を自 称したが, 軍事を50余日領 した後に継徽の養子李保衡に殺された. たが, 李茂貞に叛き, 都・寧2州を挙げて後梁に投降した. 後梁では保衡を感化節度使に任 じ, ) 7 河陽留後覆彦威を静難節度便に任命した1 . 岐王李茂貞は後梁に陥った斜州を奪 回せんものと, 彰義節度使劉知俊に命じて斜州を包囲させた が, 静難節度便露彦威よく固守して防戦に務めた. 劉知俊は城を半年 包囲しても攻略できないため, 鎚州の包囲を解いて岐陽に帰り, 後 一家を挙げ 8 ) て 煽 に 投 降 す る こ と に な る1 . 5年8月 王建は兼中書令王宗瓶を北路行営都制置使に任じ, 兼中 書令王宗播を招 討使に任命して, 李茂貞の秦州を攻略し, また兼中書令王宗端を束北面招討使, 9 ) 1月乾化5年が貞明元年と改元されたが,間 同平章事王宗翰を副使となし,鳳州を攻略させた1 . 1 もなく前編の東北面招討副使 王宗翰は兵を引いて青泥嶺に出 て, 鳳州の固鎮に克 ち, 秦州の将 郭 守謙と成州の泥腸川(甘粛省成県付近)に戦った. このとき前編軍が敗れて後退し, 鹿台山を保っ ー2 2一.

(9) . 唐 末 五 代. 小. 史 (m). た. 一方北路行営都制置使王宗縞らは, 秦州の兵を金沙谷に敗り, 敵将李彦巣らを捕虜と し, 勝 ちに乗じて秦州に向った. また前編の興州刺史王宗 鐸は階州を攻陥して, その刺史李彦安を降し た. 次に王宗絹の軍は成州の岐軍に克 ち, 李彦徳を捕虜とした. 岐王李茂貞の勢力圏 内に あった 階州・成州が前編軍の攻略を受けて振わないとき, 前編軍が上染坊に至るや, 抵抗を続けても最 早益なしと見た秦州節度使李継崇はその子彦秀を王宗絹の許に遣わし牌印を奉じて降伏 した. か くて王宗純の軍は秦州に入った. ここにおいて前編では排陳使王宗祷を留後としてそ の地を治め しめた. 秦州節度使李継崇の前編軍に投降した影響はかなり大きく, 劉知俊が斜州の包囲を解い 0 ) て親兵70人と共に前編軍に降伏するに至った2 , 事ここに至っては李茂貞の頼 むに足りないこと が切 実に感じられたからである , . 主宗箱は河池・両当より兵を進め, 東北面招討使王宗揺の軍と 合流し, 鳳州を攻略してこれを陥れた. かくて前編は李茂貞の勢力下にあった秦・鳳.成.階4 州を領有するに至った. 秦・鳳・成・階4州が前編に陥ったので, 岐の義勝節度使・同平章事李彦轄は李茂貞の勢力の 衰退を如実に感じ, 12月 治下の輝・鼎 ”を挙げて後梁に来降した. 李茂貞が義勝軍を置いたの が乾化元年 (911)であるから, この2州は4年に して後梁の支配下に置かれることになっ た. 後 梁では耀・鼎2州をそれぞれ崇州・裕州に改め 義勝軍を静勝軍に改めた, 前碕では明年を通正と改元し, 武興軍を鳳州に置き, 女・興2州をこれに隷せしめ, 前利州団 棟便王宗魯を武興軍節度使に任命してこの地を統治せしめた. 貞明2年 (9 16)正月前編の高祖王建は投降した李細崇を武泰節度使・兼中書令に任じ, 鹿西王 1 ) に 封 じ た2 . 8月 王建は主宗純・集王宗翰・嘉王宗寿をそれぞれ東北面都招討使・第一・第二招. 討便に任命し, 10万の兵を率いて鳳州を出て宝難に向わせ, また王宗播を西北面都招討使, 武信 軍節度使劉知俊・天雄節度使主宗祷・匡国軍便唐女蕎を それぞれ第一・第二・第三招討使に任命 し, 12万の兵を率いて秦州を出て瞳州に向わせた. 何れも李茂貞の軍を討つためである. 10月前 編の王宗絹らの軍 が大散開を出て岐兵を大 いに破り, 伴斬あわせ万をもって計る大損害を敵に与 え, 遂に敵の拠点宝難を占領し, また王宗播らの軍は大震故関を出て瞳州に向った. その地にあ って前編軍の攻略 に備えていた保勝節度使兼侍中李継笈は李茂貞の精忌を畏れ, 2万 の兵を率い 離州を棄てて前編軍に奔り投降した. かくて前編軍は進んで離州を攻め, 李細笈を西北面行営第 り前編に降った劉知俊は王宗縮らの軍と合流 して鳳靭を包囲 し 四招討便に任じた. さきに岐軍よ・ たが, 岐兵が城を出て戦わなかったり, たまたま風潮地方に大雪が降り, 戦斗を続けることが不 可能となったので王建は派遣軍を召還させた. この年後梁の慶州が叛して李茂貞側に付いたので あるが, 慶州はもと岐領に属していた. 去年李保衡が郡・寧を挙げて後梁に付いてから, 後梁の ;かし 力 、 治下に入っていた。 ここに岐将の李細勝が拠ったが, 後梁では左竜虎統軍賀チ実を西面行営馬歩軍 いん. 都指揮使兼諸軍都虞候に任命し, 張篤と共に浬・風の兵3万を破り, 寧・街2州を下さした.,慶 2 ) 州が漸く平定を見るのは貞明3年秋 のことである2 . 貞明3年 (9 1 7) 7月前編の玉建は桑弘志(李継笈)・王宗宏・兼中書令王宗侃・武信節度使劉ラ ミ ロ 俊を それぞれ西北面第一招討使・東北面第二招討便 ・東北面都招討便・西北面都招討使に任命し ) 3 たが, これは何れも李茂貞を討つための人事であった2 9 18) 2月前編の王建は東面招 . 同4年 ( 討使王宗侃を東・西両路諸軍都統に任命し, かれに李茂貞を討つために東西雨路の兵の指揮を掌 らせたが, 東路は宝難より出, 西路は秦瀧より出るものであった. 4月に至っ て李茂貞と前編と の関係に変化が見られるようになっ た. 李茂貞が前編との間に友好関係を結ぶための使節を派遣 したのがそれで, 両者の間の修交が断絶してより既に7年を経過している. 李茂貞の修交を求め - 23 -.

(10) . 田. 中. 整. 治. 1 5) たのに対して, 前濁が応じたかどうかは史料がないため判明しないが, このころ永平(911~9 、 とうぶんし 末より発病した王 建の容態が悪化しており, 内飛 竜使唐文京の失脚 あり, 続いて王建の死後, 幼 主王宿が即位したけれども, 荒蛭にしてその政を富者宋光嗣に委ねて顧みず, また兼中書令玉宗 弼, 権力を専らにして収賄によりて私腹を肥やして上下の怨を招いていた. そのために前編はこ 4 ) れよ,り漸く衰退に向うのであるが2 , このような前編内部の事情より考えて, 前凝では恐らく李 茂貞の要請に応 じられなかったであろう. 貞明5年 (919)3月前凝では北 路行営都招討使・武徳節度使王宗播らをして散関より岐を撃つ ために, 潜水を渡り岐将孟鉄山を破り優勢であったが, 大雨に遭い帰還した. この際兵を分って 興元・鳳州およ び鳳州の北にある前舜の築城した威武城に成した. このころ天雄節度使・同平章 5 ) 事王宗豆は瞳州を攻略した が, 勝利を得られなか った2 . 貞明6年(920)11月前凝の王桁は兼侍中 更に任命し, 天雄節 度使・同平章事王宗豆・永 王宗簾を山南節度使・西北面都招討便・行営安撫ず 寧軍使王宗髪・左神勇軍使王宗信をそれぞれ三招討使とな し, 王宗麟の副たらしめ, 兵を率いて 岐を討たせることになったが, かれらは故関を出て威宜に壁塁を構築して軍を屯せ しめ, 樫州の - 良原に入 った. 間もなく王宗麟は睦州を攻めたが, 岐王李茂貞は競ら1方5千の兵を率いて園州 せんかつれい. けん. の済陽に 屯した. また前編の将陳彦威は散開を出て岐兵を箭筈嶺に敗 ったが, このとき前濁軍は 兵糧が欠乏して引き返えした. 宗暑 .は秦州に屯し, 宗篤は上都に屯し, 宗曇・宗信らは威武 城に ) 6 屯した2 . かくて李茂貞は後梁およ び前濁の攻略を受けてその勢力振わず, 唐末かれの勢力の最 も盛んなる時期には20州を領有していたにもかかわ らず, 後梁末僅に岐・簾・浬・原・欄・武・ ) 7 乾の7州を保有するに過ぎなくな った. 著しい領土の縮小といわねばならない2 . 喜宗 さて後梁と後唐との抗争で あるが, 朱全忠と李克用 との出会いは, 克用 が黄巣を追跡した↑ の中和4年 (884) に, 全忠が克用を上源駅に饗したと きを初めとする. その後両者の間に争いが 続き, 光化元年 (898)朱全忠が葛従周を遣わし刑・焔・磁3州 を攻め下したとき, 克用 は周徳威 をやっ て, 従周と張公橋に戦 っ て大敗を蒙ったこともあり, どちらかといえば朱全忠軍の方が優 08)正月 克用が死んで, 長子 勢で, 克用 が朱全忠 の打倒を一時断念したこともあり, 天祐5年 (9 の李存扇が太原において王位につき, 父の遺志を継承した. 2自存扉は全忠軍の虚に乗じてこれ を攻め破り, 9月 かれは王建・李茂貞の連合軍と相呼応して後梁軍を大 破するなど, 戦局が漸く 存扉側に有利に展開し, 遂に李存扉が後梁を滅ぼして923年4月 醜州にて帝位に即き同光と改元 した. これが後唐の荘宗である. かれは鋭意国 づくりに専念し, やがて張全義の献策に従い, 12 月 大栗から洛陽に入った. 岐王李茂貞はこれを聞き, 内心不安の念を禁じえなかった. 荘宗が兵 を移して西伐を行なうのを懸念したからである. そこで茂貞は子の行軍 司馬・彰義節度使兼侍中 李継n厳を遣わして入貢させ, 初めて上表し臣を称せしめた. 時に同光2年 (924)正月 のことであ る. 荘宗はかれが唐の偉宗・昭宗朝の誓旧であり, 父の克用 と比肩していたため特に優礼を加え さなかった. 後唐では継E磁に中書令を加え帰国させ 詔を賜わる毎に, かれを岐王と称して名を記- た. かれは滞 在中後唐の甲兵の盛んなるさまを見, その実情を李茂貞に語っ たので, 岐王は更に 8 ) 上表して藩臣の礼を正さんことを請うたが, これは許されなかった2 . 2月 後唐では岐王の爵を 9 ) ま節 至 秦王に進 め, 4月 秦忠敬王李茂貞の死後, 継唖に鳳捌軍府事を椎知せしめ2 , 次いで5月鳳美 度使に任命した. 925) 9月前編を征討することにな った. 当時今の四川 後唐では後梁を滅ぼした 後, 同光3年 ( 省の成都に拠って国を建てていた前編では後主の王街が位にあり, 国内太平を誰歌し, 宗弼が兵 多遊楽に耽 っていたので, 国力が頗る衰退し 権を総 べて, 国事を何 ら顧みず, 君臣ともに専 ら著イ 一 24 -.

(11) . 唐 末 五. 代 小 史 (皿). ていた. 前編の国内事情がこのようなとき, たまたま後唐 の客省使が成都 に赴いて 濁の名産の錦 締を購求できなかったことに端を発して, 成都 に後唐の征討軍が派遣されることにな た 荘宗 っ , の長子醜王継笈を西川四面 行営都統とする征討軍である3 0 ) . 10月前編の王街が 数万の兵を率いて 成都を発し漢州 に至ったとき, 鳳州に置かれた武興節度使王承捷より後唐軍が西進 したとの報 告 を受けても意に介せず東行したが, 後唐軍の先 鋒 となった康延孝 軍は前編の威武城を攻め 指揮 , しゆうげんいん 使唐景思・城使周彦煙を降伏させ, 城中の食糧20万解を入手 し 鳳州に急速向 た このとき李 , っ . 継=厳は鳳潮に貯蔵 の食糧を以て兵糧に充てたが, それでも充分でなか た 郭崇輯が 散開より入 っ . り, 決戦を行ない鳳州を先取して, その地の兵糧に依存しようと述べるーこまもあり 結局主承 , 捷が鳳・興・女・扶の4州を以て降伏し, 後唐軍は8千 の捕虜と糧4 0万料を得た. 次いで都統 の 命により王承捷は武興節度使の職務を 掌った. 間もなく王街は利州 に至り 威武城よ り逃げ帰 , っ た敗卒より後唐軍の来攻を知ったが, このとき王宗弼・宋光 嗣は王街に対して 前編には梓 ,遂 , ・興元諸州の兵力がなお完きため, 大軍を以て利州を抗せよと進言した ので 主街はこれに従 , っ ていぽうれん た. 康延孝 らが長挙を通過したとき, 興州都指揮使程奉穂が部下の兵50 0を率いて来降し, 橋桟 を修理して後唐軍の通過に便宜を与えた. 次いで興州刺史王承駿は守城を放棄して遁走したので , 康延孝らは興州を接収した. 郭崇轄は唐景思に興州刺史 の職務を掌らせた 興州の西 21 5里にあ . 叫史王承朴は守城を放棄して遁走した, 康延孝らは興州の東南14 る成州の= 5里にある三泉 におい 前編の主宗勲・王宗 て, 懐・王宗昼の率 いる3万の軍と戦い大打撃を加え, 5千人を殺し 残り , 5万解を得たが, この後, 後唐軍の糧食は豊富になった 王桁は王宗 の兵を潰走させ, 敵の食糧1 . 勲らの敗績を聞き, 利州より急遮西走 し, 中書令・判六軍諸衛事王宗弼に命じて利州を守らせ , 王宗勲らを三泉の敗北の責 任者として斬った. 康延孝は昼夜兼行にて三泉の西189里の利州 に赴 いたが, 前編 の武徳留後宋光藻は郭崇顔に書を送り, 後唐軍の入境を請うたのに対し 崇綴は 返 , 書を以てこれを撫納した. 翻王継笈が興州に入 ったとき, 宋光棟は 梓・綿・剣,竜・普の5州を 以て, 武定節度使王承肇は洋 ・蓬・壁の3州を以て, 山南節度使王宗威は栗・開,通,集・麟の 5州を以て, 階州刺史王承岳は 階州を以 、て悉く後唐軍に降伏した. 続いて他の城鎮 も皆これに倣 ふい こうつ F. った. ただ天雄軍節度使王承休は副使安重覇と共に, 秦州より後唐軍を掩撃せんと図ったが, 成 1 功せず, 安重覇は秦・瞳2州 を以て来降した3 ) 15) . かくて後梁の均王 の貞明元年 (9 , 前濁の王 建が李茂貞より奪取した秦・成 ・階 ,・鳳の4州は, 10年間前編の治下にあった後, 後唐軍の掌中 に帰した. 次いで 後唐軍は成都 に入り, 王桁は降伏した. ここに前憂は 滅び 後唐はその旧領1 0 , 節度使・6朝刊・24 9県を併合するに至った. r 後唐では荘宗の次に英主明宗が位を嗣ぎ, 更に 閲帝を経て廃 帝の清泰3年 ( 93 6) 5月, かねて 洛陽な らびに諸道に ある貨物を晋陽に集荷して軍事費の助けとすると称し 後唐に叛旗を 議すも , のと疑惑の眼で見られていた河東節 度使石敬 磨が兵を挙げた ので, 廃帝はかれの官爵を剥奪し , 晋州節度使張敬達を太原四面都招討便, 定州節度使楊光遠を同副使となし 征討軍を率いてこれ , を討たせた. このとき夫 雄節度使劉延給は廃帝の皇后の弟で 外戚の勢力を一 時み賦縦であったた , め, 民心を失っ ていたが, 捧聖都虞候張令昭が醜博を以て河東に応ぜんとし 延賠を逐 たので , っ 延賠は遁走し, 乱兵が大に掠奪をほしい・ ままにした. しかし宣武節度使苑延光が天 雄四面行営招 討便となり, 7月 訓州を 抜いて張令昭を斬り, 乱を鎮定した . 9月 遼の太宗は河東の石敬 聡を救援するため南下して 張敬達と太原城下に戦い 敬達の軍を , , 敗って 晋安に退却させた,. 遼軍は 晋安を包囲したが このとき廃帝は 遼軍を親征することになり , た, 帝が懐州に次したとき, 治績がなく民心を失った彰武節度使楊漢章が劉景厳に殺される事件 一 25 -.

(12) . 田. 中. 整. 治. が発生した. 11月 石敬塘は遼の太宗の支 援を受け て皇帝 の位に即 き, 晋国を創めたが, このとき 6州を遼に割 き, 歳幣30万匹を贈ることを約した. 遼軍に数か月にわた っ 遼に報いるために燕雲1 て包囲された晋安では, 糧食尽き援兵もなく, 楊光遠らは拡散達に遼への降伏を勧告したが, 聞 き入れられな かったため, 遂に敬達を殺して叛し, 石敬鴨に降伏 した. 廃帝は洛陽に帰還後, 石 敬塘の迫るの を恐れ, 劉皇后らと共に伝国 の宝器を携帯して玄武楼に登り目焚した. かくて後唐 は4代14年足らずにて滅亡した. ここにおいて後唐の旧領土は後晋に接収され, 鳳・秦・成・階 の 4州は後唐の支 配下にあること 9年に して後音の治下に入ることにな っ た.. 後晋では高祖石敬 勝のとき遼の援助を受けて建国したため, 高祖は終始遼に対して恭 順な態度 をとり頭があがらなかったが, 次の出帝のとき, 遼に対して臣礼をと らなかっ たので, 天福9年 946)10月杜威を北面行営 944 ) の初より 屡々遼の侵入を蒙 って苦しんだ. 後晋では開運3年 ( ( 都指揮使となし, 李 守貞を兵馬都監となし, 皇甫過を馬軍右 廟都指揮便となし, 大軍を率いて北 征せしめる ことにした. 11月 遼の太宗が大軍 を率いて南下するの を越え討たんと, 杜威の軍が中 波橋に至ったとき, 奉国都指揮使王清に援兵を送 らなかったことから, 杜威に異志あることが判 明し, 遂に杜威は遼に降伏した. 間もなく杜威の部下張彦沢が, 大梁に入り, 開封美桑維翰を殺 7) 遼の太宗が国都に入り張彦沢を謙し, 出帝を北方に 連行した. かくて高祖石 した. 翌4年 (94 敬塘のとき, 遼の援 助を蒙って国を建てた後晋は2代10年にして奇しくも遼に 滅ぼされた. このとき太原に起っ たのが後漢の高祖劉知 遠である. かれは後晋の高 祖と共に後唐の明宗に仕 7) 2月 牙将王峻を遼 え, 後唐末の石 級塘の挙兵に も密に尽力して後晋に仕えた が, 天福12年 (94 に遣わして, 遼の太宗に 奉表せしめて後, 膝が太原に帰るに及び, 遼の政治が乱れて, 到底中国 を領有で きないのを知り, この機会に乗 じて建国せんことを議し, 遂に皇帝の位に即 き, 晋を改 2 ) めるに忍 びないでこの年を天福12年とした3 . この月 即ち高祖即位の直前, 秦州節度使何重建が 7)正月, 94 ) 3 その地 を以て後編に降伏した3 . この経緯は次の如くである. 遼の太宗は天福12年 ( 後晋の遺臣李松・潟道を重用し, 松を太子大師・枢密使に任 じ, 道を守太簿・枢密院砥候に任じ た. これは漢人を北 族朝廷の政治顧問としたものであるが, かれらの意見に 基いたものであろう か. 遼の太宗が使者に詔書をもたせて, 後晋の藩鎮に分遣し, 帰順をすすめたので, 旧藩鎖では 争っ て上表し遼に対して臣を称した. かくの如き恭順なる態度をとるのが, 後晋滅びて後におけ 也して至らざる るその藩 鎮の最も相応せる保身策と考え られたためであろう. 「召さるる者, 奔馬 3 4 ) と資治通鑑巻二八六に あるのは, 当時の遼の勢力より考えて 寧 ろ当然の動向であったと なし. 」 思われる. ここに遼に帰順するを潔よ しとしない者が2人あっ た. 即ち淫州に拠 った彰義節度使 -に拠った雄武節度使の何 重建である. 前者は李克用 ・後唐の荘宗に仕えて戦功のあ 史 匡威と秦外 ばん った史建嘘の子で あり, その地が遼の兵威の届かぬところ に位置を占めているために命を拒 だのが一因と考えられ, 後者の場合にはその 鎮が後編と境界を接 するために, 遼を捨てて後凝に 5 ) 投降したのが一因であろう3 . 五代史記注巻六四下後編世家引くところの 九回志によると, 何重 建はその先祖が回舵の別部出身で, 雲湖の間に居住していたが, 祖父 ・父の代には李克用 に従 っ て勲閥として著われ, 太原に家を構えた. 重建は初め後晋の石 敬塘に仕えて奉徳馬軍都指揮便と なり, 耀・瞳, 曹3州刺史検校司徒を歴任し, 残暴貧冒なる 延州節度使を遁去させた功により, 権節度兵馬留後・彰武軍節度使となり, 累ねて淫・郡・貝・檀 ・孟5鎮節度使に遷り, 間もなく 6) に転じた. 翌年遼の使者が至ると, かれは憤って部下の将吏に 秦州節度使 (開運3年 1月)(93 「われ石氏の二主に事え, 八たび旋節を 擁す. 人臣の栄すでに極まる. 豊に能く轡を支え以て戎 秋に事えんや.」 と述べそ の使者を斬り, 秦・成・階3州を以て款を後編に帰したので, 後凝では - 26 一.

(13) . 唐 末 五. 代 小. 史 (m). 千牛衛上将軍李継勲を秦州宣慰使となし急ぎ秦州に赴かせてかれを慰諭したと見えている. これよりさき天福9年 ( 944 )2月 後晋の階・成義軍指揮便主君懐は部下の兵千余人を率いて叛 し後濁に降伏し, 自ら棚導となり, 後編軍 が階・成 ”を取らんことを請 うたので, 後濁では階 州を攻略したが, 翌月 後晋の秦州兵が階州の救援に赴き, かれらは黄階嶺を出て後濁軍を西平に 敗った事件が あった39 このときは後編の階州占領は成功しなかった が, 後晋が遼に滅ぼされて 後, 秦州節度使何重建が遼の太宗の使者を殺して秦・階・成3州を以て後濁に来降してやがて鳳 州も降伏することになる. 後濁では李継勲を秦州宣慰使となし, 何重建らを慰諭させる配慮を行 なったが, 翌2月李細勲は興州刺史劉景と共に固鎮を攻略してこれを抜いた. このとき重建は鳳 州を占領するために, 部下の階・成の兵と協力して散開を掘すべき後編軍の出動を請うたので, さいえんちん 700を出してこれに赴かせた. かくて重建は宮苑使催延探を派遣して鳳州 後編の孟瀬は山南の兵3 そうかんしよう. 攻略をさせたが, 陥れることはできなかった. そこで3月孟誕は山南西道節度使孫漢部を鳳州行 りこう 営に赴かせたのである. これは翰林承旨李臭が王 処回に 「敵軍がまた固鎮に拠ると, 興州道が杜 絶して後弼軍は秦州を救援できない. そのため興元の兵を移してこれを救援させょ.」 と進言した 結果に 基づくものである. かくて漢部は2万の兵を率いて鳳州を攻め固鎮に駐屯し, 兵を分っ て せきほうきん. 散開を抗し, 敵の援路を絶った. 4月 になり後晋の鳳州防禦使石奉頭は, 遂に風州を以て来降し た, かくて後凝は秦・鳳・階・成4州の地を悉く領有するに至り, 前濁時代の旧領は残らず後編 ) 7 の 治 下 に 入 る こ と に な っ た3 .. 後晋が滅んで後, 国を建てた後漢は五代の王朝中最も短命で, 僅か4年足らず存続したにすぎ 8 ) ず, 秦・成・階・鳳4州を領有することなく3 , 後周に滅ぼされた. 後周の2代目の世宗は後唐の明宗と並称される五代の名君で, 内治・軍制を整備して中国の統 9 ) 一を図っていた. 世宗の顕徳2年 ( 9 55)正月, 後編では威武軍を鳳州に置いたが3 , これは後周 の来攻に備えてとった後編の防衛体制であろう. 世宗は平素から唐の簾宗の広明元年 ( 880) 黄巣 が長安に侵入し, 帝が成都に蒙塵してより雄藩が割拠のため, 唐の領土が日毎に縮小してゆくの 954 )世宗が河東を征するため高平に駐鐸していたとき, 太原の劉 を憤慨していたが, 顕徳 元年 ( 崇が遼兵と連合してこれを遊撃した. これがいわゆる高平の役である. 世宗の軍は初め不利で, 親軍の指揮官葵愛らが退却したため, 世宗が親ら崇の牙帳に入り不意を襲ってこれを敗った. こ 0 ) 5 5)3月 の勝利により世宗は中国を平定せんとする念願を抱くに至ったのである4 . 顕徳2 年 (9 秦・鳳州の人戸が後編の苛政を怨んで, 相次いで閥に至り, 兵を挙げて唐の旧領たる後編の地を 1 ) 収復せんことを請うた4 , 次いで鳳潮節度使王景は5月 秦・鳳 2州の攻略を行な い, これを接収 せよと上言した. かくて世宗は王景・宣徽南院使向訓に詔し, 兵を率いて秦・ ・鳳等 4州の攻略に 赴 か せ る こ と に な っ た.. しらベ. これよりさき後編の孟剰は後周の動きを早くも察して, 客省使超李札を遣わし辺備を按視させ たが, 李札は自ら文武の才略があると自負し, 任務を果たして成都に帰還し, 雄武節度使韓継勲 ・鳳州刺史王万辿は後周 の大軍を防禦しうるほどの将帥でないと復命し, 孟瀦が防禦の適任者を 問うたのに対し, 李札が自ら赴いて任に当らんことを請うたので, 李札を雄武監軍使に任じ, 宿 しらべ 衛の精兵千人をその部曲とした. また孟誕は知枢密院王昭遠に北辺の城案・甲兵を按行させたが これも後周 の侵入 に備えるためであった. 一方後周の世宗は秦・鳳2州を取ろうと図り, 将とし . て赴く者を求めたところ, 宰相王薄は宣徴南院使・鎮安節度向訓を適任者として推薦“ した. そこ ざんきよじゆん 2 ) で世宗は訓に命じて鳳期節度使王景 ・客省使普居潤と共に行かせた4 5月 王景は兵を率いて散 . 開より秦州に赴き, 秦州の境界にある黄牛等8案を抜き後周軍の優勢を示した. 後周の侵攻を知 」 27 一.

(14) . 田. 中. 馨. 治. った後編では捧聖控鶴都指揮使・保寧節度使李廷珪を北路行営都統とし, 左衛 聖歩軍都指揮使高 彦健を招討便とし, 武寧節度使呂彦珂を副とし, 客省使趨崇轄を都監に任じて後周軍の来 襲に備 えた. 後編の越李札は徳陽 (四川省徳陽県) に至り, 後周軍の入境を聞き, 恐れて前進せず, 上 書して辺境守備の任を解かれたく, その事情は成都に帰っ て上奏せんと請い, 先ず軸重・妓妾を 成都に送 った後, 単騎成都に馳せ入った, 国都の人々はかれが敗北したと見1 放し大に驚いたが, 孟誕から軍機について尋ねられて, 答え られなかった超李札は責任を問われて崇札門 に 斬 ら れ 3 ) た4 . 6月 後周軍は後編の李廷珪らと風州の東北の威武城東において交戦した が, 利あらず, 排. 陳便湊州刺史胡立らは捕虜とな った. このころ後編の孟科は後周軍の侮るべからざるを察し, 独 すぽい 力ではこれを撃退することの不可能なのを知り, 間使を北漢および南唐に派遣 して, これと共同 戦線を張っ て後周の侵遥を防禦しようと図 った, 後編の要求に対して北漢主劉承鉾・南唐主李景が 4 ) 出 兵して後周軍の制圧に応ぜんとした4 . 思うに北漢主劉承鈎は前年高平の役において,遼の援兵 を得ているにもかかわらず, 世宗に敗れたため, 復讐せんとしていたか ら, これに応じて後周を 制せんとしたものであろう. また南唐主李景がこれに応じたのは, このころ漸く後周の世宗の中 国を統一せんとする意図を知り, 後編のこの提案に応じて, 後周軍を制圧せんとしたものであろ う. しかし北漢・南唐ともに後編に援軍を送 った史料が見当らないので, これは実現しなかった のではないか. ふ. 7月 王景は西南行営都招討便を兼ね, 向訓は行営兵馬都監を兼ねたが, 宰相王薄は王景らに後 編軍を 破る功なく, その上鱗運が続かないため, 撤兵を世宗に切に請うた. そこで世宗は超匡胤 に命 じ現地 に赴いて実情調査をさせ, 後編の秦・鳳2州を奪取できる 事情を知 った. 8月王景 ら は後編軍を敗り, その将兵3百人を捕虜とした. 戦局が後編軍に不利となると, 孟液は通奏使・ 知枢密院・武泰節度使伊審徴を後編軍の前線にある行営に赴かせ, 将兵を慰撫させ督戦に当らし め た. 9月 後編の李廷 珪は,先鋒都指 揮便李進を派遣して馬嶺案に拠らしめ また奇兵を派遣 して , 斜谷(険西省卿県西南3 0里)に出て白欄に屯せしめ, また兵を分っ て, 鳳州の北, 唐倉鎮 (映西省 鳳県北30里) および黄花谷に出させ, 後周の糧道を絶った. 閏月,王景は樽将張 建雄を遣わし, 2. 千の兵を率いて黄花 に至らしめ, また千人をやっ て唐倉に赴かせ, 後編軍の帰路を短させた. こ おうらん れに対して後編の染院使王密は兵を率い唐倉を出て, 張 建雄と黄花に戦 ったが, 敗れて唐倉に奔 り. また後周の兵に過って敗れ, 王轡およびそ の将 士3千人は捕虜となり, 馬嶺・白園の兵は皆 脆くも潰えた. かくて李廷珪・高彦祷らは退 いて青2 尼嶺を保ち, 後編の雄武節度使兼侍中韓継勲. , もろ. は秦州を放棄して成都に奔り還っ た. 観察判官の超批は城を挙げて降伏し, 後編の斜谷の援兵も また潰えた. 成・階2州は皆降り, 後編の人々は後闇軍の威力に震え上った. かくて世宗は王薄 に対 して, 辺功の成就は脚の帥を選ぶ力価に負う所大であると, その才能を賞讃した. 一方敗れ た後編では李廷珪が上表し, 敗戦の責任を負うて罪を待ち, 10月 伊審徴も, また敗戦の罪を請う ) 5 た4 ,. 成・階2州が後周に降伏したので, 後煽の孟科は書を世宗に送り 和を請うたが, その書辞が礼 を失していたため返答が得られなかった. これを知った孟網は大いに怒り, 兵糧を剣門・白帝に 集積し, 守備を固めた. 剣門は岐・薙より迫る敵に備えるものであり,白帝は峡より遡ってくる敵 を防ぐ拠点であ った. 後編では募兵が既に多く, 用度不足のため鉄銭を鋳造したが, 国内の鉄器 ) 6 も専売した. このため人民が甚だこれに苦しんだという4 . 11月 王景 らは風州を包囲し, 韓通は 兵を分っ て, 固鎮に城を築き, 後編の援兵を遮断した, かくて後周軍は鳳州を陥れ, 後編の威武 節度使王環・都監趨崇薄ら将士5千 人を捕虜とした. 後周では制して秦・鳳・階・成4州内に曲 - 28 -.

(15) . 唐. 末 五 代 小. 史 (m). 赦 し, 後周軍に捕えられた後編の将士のうち, その地に留ま って後周に仕えようと志願する者に ききょうのひよう は厚い 俸賜を与え, 飽くまでもその地を去り後編の郷里に帰ろうと切望する者には, 資 装 を 支給して, これを後編領内に送 還させた. 次いで詔を下して秦・鳳・成・階4州の減税を実施し 7 ) た4 . かくて秦・成・階 ・鳳4州は後編の治下にあること8年にして, 後周の統治を受けること になり, この状態は後周の滅亡まで 継続するのである, 6.. あ. と. が. き. 30里にあった成 唐代長安より甘粛 を経て西域 に赴く 交通路の要衝に位していた秦州, その南4 00里にあり甘粛方面や濁地方に通ずる交通上の要衝にあ った階州, および成州の東 州, その西3 70里にあり長安より 漢中・四川方面に通ずる交通上の要衝に位していた鳳州, これらの4州は 2 また軍事 上の拠 点でもあった. 唐末鳳期節度使李茂貞がこれら4州を併有した が, 当時は李茂貞 の勢力が最高潮に達 した時期であっ た. しかしその後かれの勢力が衰えて, 後梁の貞明 元年秦・ 風,階・ 成4州は前編の王建の掌中に帰した. これは王建の兵力が茂貞のそれより強 かっ たこと を示すと共に, 後梁の勢力 がこれらの地方を領有するほ ど西方に伸びなかったことを示すものに 外ならない. これらの諸州はやがて前編を滅ぼした後唐の支配下に置かれることになる. 次いで 後唐の滅亡と同時にこれらの4州は後晋に接収された. 後晋はこれを後編に伝えることになった が, これは後晋の節度使の後編への投降に基 づいている. 後晋に次いで興った後漢はこれを領有 しなか った. その国運が短命であったからである. 後周の世宗のとき, 中国統 一政策の一環とし てこれらの4州を奪取したが, これは衰退に瀕した後編にと っては重大事件といわね ばならぬ. 5 ) 1 9 6 0 4州の失陥によ っ て四川地方 が脅やか され滅亡を早 めたからである. 〔完〕( ,4 .3 十伝. 1 ) 資治通鑑巻二六六後梁紀開平元年五月の条. 旧五代史巻一三七契ヂ 2 ) 資治通鑑巻二六六後粟紀開平二年五月の条, 3 ) 資治通鑑巻二六六後架紀開平二年五月・フ 月の条. 旧五代史巻一三劉知俊伝, 4 ) 新五代史巻四十高方興伝, 資治通鑑巻二六七後架紀開平三年二月の条. 5 ) 資治通鑑巻二六七後粟紀開平三年三月の条. 6 ) 資治通鑑巻二六七後梁紀開平三年四月の条. ) 旧五代史巻一三劉知俊伝. 新五代史巻四四劉知俊伝, 資治通鑑巻二六七後架紀開平三年五月の条. 7 日五代史巻一三劉知俊伝.新五代史巻四四劉知俊伝.資治通鑑巻二六七後梁紀開平三年八月・十一月の条, 8 )- 9 ) 資治通鑑巻 二六七後架紀開平四年五月の条. ) 4月 のことであ 909 じ節度使に任命されたのは 新五代史巻四十李仁福伝によると 開平3年 ( 1 0 ) 李仁福が定数 る.. ) 資治通鑑巻二六七後梁紀開平四年七月~九月の条. 11 12 ) 同上乾化元年 (実は開平五年) 正月の条. 13 ) 資治通鑑巻二六八後架紀乾化元年 (実は開平五年) 三月の条, 14 ) 五代史記注巻六三上前編世家所引の濁鑑・九国志, 資治通鑑巻二六八後梨紀乾化元年八月 の条. 15) 旧五代史巻一三劉知俊伝. 資治通鑑巻二六八後梁紀乾化元年十一月の条. 16 ) 資治通鑑巻二六九後架紀乾化四年二月 の条. 旧五代史巻二三康懐英(貞)伝. 17) 資治通鑑巻二六九後架紀乾化四年十二月の条, 同貞明元年 (実は乾化五年) 四月の条, 旧五代史巻一三楊 崇本伝. 18 ) 旧五代史巻一三劉知俊伝. 資治通鑑巻二六九後梁紀貞明元年 (実は乾化五年) 四月・五月 の条, 19 ) 資治通鑑巻二六九後架紀貞明元年 (実は乾化五年) 八月の条, 20 ) 同上十一月の条. 2 1 ) 同上十一月・十二月の条. 貞明二年正月の条. 2 2) 同上貞明二年八月・十月・十二月の条. 旧五代史巻二三質贋伝, 23 ) 資治通鑑巻二七〇後梁紀貞明三年七月の条. 彦巻二七〇後粟紀貞明四年二月・四月・六月・七月の条. 2 4) 資治通鑑. 一 29 一.

(16) . 田. 中. 整. 治. 25 ) 同上貞明五年三月 の条. 26) 資治通鑑巻二七一後梁紀貞明六年十一月 の条. 2 7) 新五代史巻四十李茂貞伝によると粟末, 李茂貞の所領は7州であり, その7州は同書巻六十職方考による と岐・雛・浬・原・清・武・乾となっているが, 乾州は新五代史李茂貞伝の中に見えるかれの最盛期の所 領20州の中に含まれていない.. 8 2 ) 旧五代史巻一三二李茂貞伝, 新五代史巻四十李茂貞伝. 資治通鑑巻二七三後唐紀同光二年正月の条 .. 29) 旧五代史巻三一荘宗本紀同光二年二月・四月の条 同書巻三二同光二年五月の条 資治通鑑巻二七三後唐 . , 紀同光二年二月・四月 ・五月の条. 3 0) 後唐の前編征討については拙稿 「五代における後編国の成立過程について」3 後唐の前編征討 (北学大紀 , 要第一部B第14巻2号所収) 参照,. 3 1 ) 資治通鑑巻二七三後唐紀同光三年十月の条, 旧五代史巻五一醜王継笈伝 新五代史巻一四継笈伝 , , 32 ) 資治通鑑巻工八六後漢紀天福十二年二月の条, 旧五代史巻九九僕高祖本紀天福十二年二月の条 .. 3 3 ) 資治通鑑巻二八六後漢紀天幅十二年正月の条, 旧五代史巻九九漢高祖本紀天福十二年二月の条 旧五代史 . 巻九四何建伝. 五代史記注巻六四下後編世家所引の九国志, 通鑑・九回志には何重建とある 旧五代史の , 何建は後晋の出帝の謙重貴の重を避けたものである. 34 ) 資治通鑑巻二八六後漢紀天編十二年正月の条. 35 ) 同上. 36 ) 資治通鑑巻二八四後晋紀開運元年二月・三月の条. 3 7) 五代史記注巻六四下後編世家引く所の煽鑑・九国志, 十国春秋巻四九後濁後主本紀広政十年正月・二月, 四月の条. 38) 拙稿 「唐末五代小史」(1)の第1頁の表および第2頁に秦・成・階・鳳4州が後漢領となったとあるのは 誤りで, ここで訂正したい. 百納本五代史記巻六十の表にあるように後漢の時代には4州は後編の治下に あった.. 3 9 ) 資治通鑑巻二九二後周世宗紀顕徳二年正月の条. 4 0 ) 五代史記注巻十二上周世宗本紀顕徳元年三月の条に引く五代史補. 資治通鑑巻二九二後周紀顕徳二年三月 の条.. ) 資治通鑑巻二九二後周紀顕徳二年三月の条. 旧五代史巻一一五俵周世宗紀顕徳二年五月の条 4 1 .. 後編の苛政については具体的には指摘しえないが, 五代史記注巻六四下後編世家所引の濁鑑に顕徳二年に 後周の世宗の命を受けた鳳靭節度使王景が後編を討って4州を取り 「制曲赦秦・鳳・階・成境内 其四州 . 之民二税徴料之外. 凡煽人所立請色料箇悉罷之. 」とある記事によってその大体か察せられる. 42 ) 向訓・王景については,・五代史記注巻一二上周世宗本紀顕徳二年五月 の条の注に引く東都事略に見えてい る,. 43 ) 資治通鑑巻二九二後周世宗紀顕徳二年五月の条. 44 ) 同上六月 の条. ) 向上七月・八月・九月・十月 の条. 45 46 ) 同上十月の条. 4 7) 資治通鑑巻二九二俵周世宗紀顕徳二年十一月 の条に 「制曲赦秦・鳳・階・成境内. 所獲煽将士 願留者優 . 其俸賜. 願去者給資装而遣之, 」 詔日. 「用慰衆情. 免逮物性, 共四州之民, 二税徴科之外, 凡偏人所立諸 色料簡. 悉罷之. 」. 一 30 一.

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