曹操と青州黄巾の関係について
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(2) える。一つ目は、192年置初平3)に、青州黄巾軍を打ち破り、その降卒三十万人を青 州兵として自己の軍団に組み込んだことである。二つ目は196年(建安元)、皇帝を自 分の都に迎え、皇帝の権威を利用し、天下に号令が下せるという大義名分を得たことであ る。青州黄巾を手にいれたことに付いては、「魏武の強、これより始まる」3)とも言われ ているように、曹操の力が一気に高まったと考えられる。. ここで筆者が問題としたいのが曹操と野州黄巾との関係である。この問題については研 究課題として後述するのででここでは詳細は割愛させていただくが、筆者は曹操と甲州黄 巾との間になんらかの関係があったのではないかと思うのである。この両者の関係を詳し く論じられている論文は今までほとんどない。しかし、黄巾、曹操それぞれについての研 究は今まで数多くなされてきているので、これらの先行研究を踏まえながら、手操と青苧 黄巾の関係について探ってゆきたい。そして、青州兵を手に入れた後の曹操の政策、行動 が黄巾農民運動とどのような関係があったのか、また皆野の果たした歴史的役割について も論じてゆきたいと思っている。. 皿.研究課題 これまでの先行研究を踏まえながら、筆者が抱いている研究課題について述べてゆきた い。. ①曹操が青州黄巾を降伏させたことについて. 西暦192年(初平3)、等等は予州黄巾軍を降伏させたと『三国志』にある。4)しか し、このとき青州黄巾は、曹操に降伏を勧告する手紙を送っている。この手紙の内容は、. 「あなたは昔、済南にあったとき、神壇を壊したことがあった。それは我々の奉ずる中黄 太一道と同じである。思ってみるに漢王朝の命運は已に尽きており、黄家が立つ順になっ た。こうした必然性は誰しも妨げることはできない」というものである。普通、降伏を勧 める側は、降伏を勧められる側よりも優勢にあるだろう。とすると、青州黄巾軍は、曹操 の軍勢よりも戦局を有利に展開していたのではないかと思われる。実際、青州黄巾軍はそ の数三十万といわれ、当時東郡太守であった曹操にしてみれば、かなり厳しい戦いとなっ ていたはずである。しかし、結果として曹操は予州黄巾軍を降伏させているのである。曹 操が見事な用兵によって青州黄巾軍三十万を破ったかも知れないが、相州黄巾軍が曹操に 宛てた手紙には、評壇を壊したことが、中黄太一道と同じであるという曹操との共通点を 挙げている。曹操は、この共通点をうまく利用して、その際、なんらかの取り引きを行なて て平門黄巾軍を自己の軍団に組み込んだのではないだろうか。言うなれば、曹操が野州黄 巾軍を降伏させたのではなく、両者の和睦であったのではないかと筆者は推測する。この ことに関する先行研究はなく、これは筆者の仮説なのであるが、史料をもとにしながらこ の点を解明したいと考える。. ②影野と肥州黄巾の関係について ①において、筆者は曹操と青州黄巾軍との間には、なんらかの取り引きがあったのでは ないかと述べたが、それは具体的にはどのようなものであったのか。このことに関しても 一88一.
(3) 先行研究はない。しかしながら、青州黄巾軍の特徴について述べられているものはある。 福井重雅氏「黄巾の乱と伝統の問題」(『三門究134−1、1975年)で氏は、黄巾の中心地であっ. た青・肥州は、古来遊侠的精神が強かったと述べられている。また、川勝義雄氏(「曹操 軍団の構i成について」r創立胚解記舖蝶』京都大学人文科学耽所,1954年)は、曹操軍団の人的結合の重要. な点は、任侠的結合であると述べられており、両者の関係を探ってゆく上で参考となる。 それでは、いったいどのような取り引きが行なわれたのか、筆者なりに考えを述べてみた い。曹操の要求は、青州黄巾軍を自分の軍団に組み込みたいということであったろう。反 骨卓連合の挙兵以来、二時は絶対的な兵力不足に悩んでおり、これからの世の中を乗り切っ ていくためには、強力な軍団が必要であったはずである。それでは一方青州黄巾軍の要求 はいかなるものであったのだろうか。まず、青州黄巾軍が青州兵と名前が変わっただけで、 軍団そのものは解体、再編成されていないことから、.曹操軍団内においても青州兵のみの. 軍団として存続することを要求したのではないだろうか。しかも、青州兵が仕えるのは、 曹操一個人のみと限定したのではないだろうか。このことに関しては、「曹操の死後、青 州兵は勝手に太鼓を打ち鳴らして出ていった」5)という史料に注目したい。曹操一代との 契約が終わったため、青州兵はそれぞれの郷里に帰ろうとしたのではないだろうか。ここ に、曹操と青州兵との個人的な関係がうかがえる。要するに、曹操は強大な武力を持って 青州黄巾を降伏せしめたわけではなく、青州黄巾の要求を飲む形で彼らを協力させたので はないかと思われる。そして、青州黄巾軍も、曹操との間に共通点を見いだしていること から、自分たちの理想を叶えてくれる人物であろうと判断し、等等に協力するに至ったの ではないだろうか。. ③興野軍団内に於ける青州兵について 曹操軍団についての先行研究には、川勝氏の論文「曹操軍団の構成について」(湖)があ る。已に述べたように、氏はこの論文において、任侠的結合関係について述べられている。 青州兵も、曹操との任侠的な人的結合をなしていたかも知れないが、その点については述 べられていない。また、青州兵が曹操軍団内において、どの位置におかれていたのかにつ いても、どのような役割を担っていたのかも述べられていない。「魏武の強、これより始 まる」といわれ、曹操軍団内で最強を誇ったと言われる青州兵であるから、青州兵の曹操 軍団内に於ける役割というものは、極めて高かったのではないだろうか。手操と青州兵の 関係を探っていく上で、曹操軍団加入後の青州兵の働きや地位を明らかにしてゆくことは、 必要なことであると考える。 ④黄巾軍と曹操、両者の政治目的について 黄巾軍と曹操、この両者の政治目的にはいくつかの共通点があったのではないかという のが筆者の考えである。同じ黄巾軍に所属する青州兵も、同様な政治目的を持っていたと 推測する。このことに関する先行研究は、両者を関連づけたものはあまり無いのだが、黄 巾、曹操それぞれについて述べられている論文は存在している。川勝氏(「野末のレジス タンス運動」醐)は、 「黄巾が、r蒼天已に死す』と標榜したのは、賢者、有徳者を首長 にいただいた共同体生活に基礎をおいていた漢帝国が、共同体に対する破壊者としての豪 一89一.
(4) 族の権力機構に変質し終わったことに他ならない」と述べられている。つまり、黄巾軍内 の農民達は、共同体社会の再建を志し、再建の能力をすでに持たない後漢王朝を見限り、 新しい国家を樹立しようとしたのであろう。黄巾軍が、後漢王朝を打倒して新しい王朝を 樹立しようとする政治的目的を持っていたとすることについては、そのスローガンをみて も明らかであろうが、時期的にいっごろから政治目的を持つようになったのかについては、 秋月観暎氏(「黄巾の乱の宗教性一太二道教法との関連を中心として一」『東洋史研究』15−1,19. 56年)は、初めから持っていたとし、多田猜二二(「黄巾の乱前史」湖)は、そうではな いとされている。政治目的を持った時期に関しては考察を要するが、目的の内容に関して は、やはり、川勝氏の言われたことに筆者は賛同する。黄巾軍内め貧窮農民一人一人が、 このような政治目的を持っていたとは言えないにしても、相次ぐ自然災害と豪族の力の伸 長によって没落していった貧窮農民が、自分たちの生活の安定を願って新しい国家を希求 したということは考えられることであると思われる。一方、曹操はどのような理想を掲げ ていたのであろうか。好並隆司氏「曹操政権論」(r岩凝灘糎史一5』、1970年)によると、董卓が. 霊帝を廃位する前までの二二は、君側の好を除くことを目的としていて後漢王朝の否定ま でには到達していないとある。しかしながら、皇帝本来の支配理念の実現を、二二批判の 中で実現しようとした曹操の行動は、黄巾が求めていたものと同一線上にあるのではない だろうか。その後の二二は、自らが後漢王朝にとって変わろうとして、その準備を進めて いる。6)その政策をみてみると、農民から収奪ばかりを行なうのではなく、屯田制を始め、 殖産に心を砕いている。この屯田制は、貧窮農民達の生活を、少しは安定させたという点 において、農民達の要求に沿って為された政策であるという側面は否定できないと考える。 ⑤二二の人物評価について 二二と黄巾農民運動との関連についての評価を、好並氏は前掲の論文において紹介されて いる。氏は、従来の二二評価を、以下の六点にまとめられている。 (1)客観的に曹操の政策は黄巾の目的に反していない. ②曹操は部分的に農民の目的とするところを果たした ㈲黄巾は空想的社会主義の理想を持っていたが、二二はこれを実現できなかった (4)二二は黄巾農民運動の力によって改良主義的に社会変革を達成した (51黄巾運動の失敗後、その継承者としての役割を果たした. ㈲二二が黄巾反乱の力を背景として、王朝の変革を試みた 筆者個人の意見としては、二二は、黄巾農民運動の目的とするところを一定実現したの ではないかと思う。つまり、上の六点の中の(1)の説である。曹操は、後漢末期の状態を改. 善し、農民達の生活を多少なりとも向上させたことは④において考えを述べた通りである。 黄巾軍の目的と、曹操の政策との関連を究明することによって、彼の歴史的役割を再評価 したいと考える。. 一90一.
(5) 皿1.終わりに. 以上、曹操と青州黄巾との関係について、筆者が抱いている課題について先行研究にも 少し触れながら述べてきた。従来の研究においては、黄巾の乱について、あるいは曹操政 権についての個別研究はなされており、両者の特徴や政治目的については明らかにされて し)る点が多い。しかし、曹操軍団内で最強と言われている青州兵について、また青州兵以 前の青州黄巾軍と曹操の関係については研究がなされていない。筆者は、この両者の関係 とその後の青州兵、曹操の政策などをみてゆきながら、曹操と黄巾農民運動の関連につい て研究を進めてゆきたいと思っている。なお、今回の研究ノートにおいては中国側の論文 について触れることができなかったが、これから研究を進めていく上で、考察してゆきた いと思っている。筆者の学習不足のため、誤った理解等が多々あるのではないかと危惧す る。諸先生方の御指導・御助言を仰ぐとともに、今後の研究に励みたい。. (註). 1). 吉川英治著、講談社、1975年. 2). ㈱光栄が出している歴史シュミレーションゲーム。『三国演義』をモチ. ーフにしている。現在rI」∼「V」まで発売中。 3). 4). 5) 6). 好並氏「野馬政権論」には、 「何悼の注釈」とだけ載せられている。. 「追黄巾至済北。乞降。冬、受降卒三十余万、男女百余万口、収其精鋭者 、号為青州兵。」と『三国志』巻一、武帝紀にある。 『資治通鑑』魏紀一、文帝黄初元年の記事. 213年(建安18)、魏公、218年(建安23)魏王となっている。 〈r三国志』巻一、武帝紀). 一91一.
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