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唐代樞密使制の發展 目  次

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(1)

唐代樞密使制の發展

 目  次

一︑序︑枢密使の職務︒

ご︑政治権力確立時代︒

三︑政治的不振時代︒

四︑結  語︒

    ︵一︶ 序︒福密使の職務︒

 筆者は嘗て唐代枢密使の設置時期について論じたが︑①その椹密

使の職務はどのようなものであったろうか︒それについて︑最初の

福密使は劉光碕であったが︑董秀の掌った政事堂椹密房の仕事が制

度化され︑心立せしめられて︑椹密使制の成立をみたであろうと推

定しておいた︒②とすれば︑枢密使の職務内容も董秀などと殆ど同

様なものであったと考えて差支えあるまい︒

 では︑代宗時代椹密用事を掌ったという董秀は︑どのような仕事

に任じたかというに︑恐らくは前論の如く︑③詔旨を中書門下に宣

傳することであり︑仕事そのものは簡輩なものに過ぎなかったであ

ろう︒文献通考︵巻五十八︶椹密院の條によれば︑

 其職掌惟承受表奏︒於直中進口三︒若入主有所処分︒黒黒中書門下

 施行而巳︒とあって︑その仕事が先に推定した董秀最密用事の任の内容と全く

同様であったことを知る︒  併し︑仕事そのものはこのように簡軍であったとしても︑元來それは宰相の仕事であったというところに問題が存するであろう︒④代宗に寵せられた董秀が櫃密用事を掌らしめられ︑そこに擦って椹勢を恣にしたことは前論に述べたが︑このような樺勢は一体どのようにして握られるに至ったものであろうか︒ 元來その仕事が宰相の手に握られていたということは︑仕事が機密に属するものであり︑時には政治的重大事項に關るものがあったからであろうが︑それが代宗の宙官寵愛によって宙官の手に委ねられることになったのであろう︒勿論それには玄宗︑粛宗︑代宗初年にかけての安史の乱の影響を考うべきであって︑ζの大乱の聞に官制の混乱があり︑一鷹漸く落付いでその整備をなすべき時期に當って︑混乱期に回りに行われていた事務的な分掌が︑そのまま認められて宣官の手に移ったのかも知れない︒ともあれ︑從來宰柑の仕事の一部が切身の手に委ねられるに至ったことは注目すべぎ事柄であり︑ここに富官の政治的即言の機會が與えられたことになった︒その故に︑文献通考︵巻五十八︶に︑ 按福密使之名筆於唐︒代宗運任富者︒故身内椹密使◎使壁厚機密 文書︒⁝⁝若暑中処分︒則令内規密使宣付中書門下施行︒則全権 任巳伜宰相︒ と評しているわけである︒このような︑仕事そのものは簡輩なが ら︑重大な意味を含む仕事を制度化し︑猫立せしめたるものとし て椹密使制度の設置が考えられる︒ では︑この福密房を掌る仕事が蝦蟹の職制として制度化されたのは︑如何なる意味をもつものであろうか︒仕事そのものは軍に詔旨宣傳であったとしても︑それが猫立の︑而も天子直屡の機關として制度化されたことは︑福密使の任務を軍に表面的にのみ見るに止ま

ることを許さないものがある︒

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 湯煙の時設置されて以來︑橿密使の活動は漸次政治性を帯びるに

至り︑輩なる詔巳心乱傳の域を脱したことは著しい事實である︒以下

枢密使の且ハ体的活動を跡づけることによってその政治的性格⁝を明か

にしたいと思う︒註①・②・③・④・耕﹁枢密使の馨時期について﹂︵鑛重落誰

々竜脳ご号︶参照︒

    ︵二︶ 政治迂回確立時代︒

 ζの時期は憲宗︑穆宗︑敬宗︑文︷示の時代にあたる︒      第一項︑皇宗時代

 帆掛時代の椹密使は︑墨黒鋳.︑梁守謙及び劉弘規であった︒①劉

光碕については次の如を話が傳えられている︒彼が元和元年枢密使

であったとき︑中書小吏滑渓なる者と一緒になって頗る朝野を絹ん

だ爲に李吉甫の揮該するところとなったが︑この中書主書たりし野

釣と彼とのこのような歌態は︑随分朝政を乱すものがあったらし

い︒冊府元亀︵巷百五十三帝王部明罰二︶によれば︑

 ︵元和︶四年九月堂後薬書︑宣州司馬滑渓慶爲雷州発呼︒漢久爲

 曝書Q通於内住密劉光埼︑宰相杜肪︑郷綱等︒皆厚意善覗之Q談

 者至適瀦等私呼爲暑寒︒宰相毎議爲光鼻聾異同者︒扇落三二︒未嘗

 不得所欲︒四方通貨無虚日︒皇弟泳官命刺史︒及鄭余慶爲相︒淡

 毎指陳是非︒余慶怒其旗人而参於政事︒遠乗︒後心事︒余慶罷爲

 太子賓客︒及罪磯︒帝命宰臣︒閣中書四門︒捜簡文典妊欺︒籍波

 家産︒凡藪千竃︒

 と述べているが︑この記事によって劉光碕の政治的権力を知るこ

とができる︒この一下級吏僚が宰相をして叩頭せしめ︑大政の是非

を指陳したのは︑專ら彼が枢密使劉光碕の樺力を背景としたからで

あること明かである︒而もこの一吏僚を叱責した宰相が籔日の後に その職を退ぞかざるを得なかったのは︑これまた滑漢のなし得るところではなく︑劉光碕の動きを考えざるを得ない︒劉光騎の表面の任務臓勿論詔旨を宣傳ずるということに過ぎす︑又その故に堂塾主書たる滑渓との聞に特別の親密關係が成立したのであろうが︑而も裏面に於てはこのような灌勢をもつていたわけである︒ 勿論憲宗は劉光碕のこのような政治容啄をそのまま認めたわけではなく︑滑渓に死を賜った後︑郷余慶が彼を叱責したことをきいてその人柄を尊重し︑國子祭酒に回したのであり︑②・或は又︑元和三年春正月大赦を行った時︑劉光碕は旧例によって中使を諸道に派遣して赦を傳えることを主張したが︑帝は富津が地方に至って賄賂を求め︑地方を騒がすことを悪み︑かかる悪習は改むべきであるとして許可しなかった事件がある︒當時政治の刷新︑朝樺の確立に懸命であった憲宗は︑劉光碕のいうところと錐も︑非は非として拒否したのであった︒⑧︑とはいえ︑これらによって劉光電.が軍に與えられた表面的任務のみならす︑政治的面にも容算する風のあったことを知りうる︒かくて櫃密使は︑最初の劉三十からその本返の任務を逸脆して政治的暴言灌を得つつあったと考えられるQ 次の幽霊謙は元和初年翰林院使となり︑元和五年枢密使に任ぜられた︒その後︑黒人の反するに及んで諸軍を督して職列に加わり︑警察の功大なるものがあったという︒④その後元和十三年迄櫃密使の任にあった︒彼の取置の任務が詔旨宣傳にあったことは︑彼が帝の内意をうけて密詔を傳えていることなどから察せられるが︑⑤必ずしもそれに止まっていなかった例も多い︒⑥例えば旧密書︵巻百五十六子額傳︶によれば︑ 元和申︒富官倉守謙掌椹密︒頗招灌利︒有梁正言者︒曾於射利︒ 申言與倉皇再見情厚︒七子黒熱之遊処◎正言取頗財賄︒言賂守謙

 以求出鎭︒      ・

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ρ

 と述べられている如ぎは︑彼の政治的稜言権が一般に認められていたことを示すものであろう︒更に彼が直接政治上の事柄に容啄し

たことは︑元和七年冬十月魏博に政⁝攣が起つた時︑彼は李首里に円

して︑さきに翰林にあって憲宗の腹心として活躍し︑その寵任をう

くること宰相に過ぐるものがあり︑且つ今や宰相となりた李経を抑

えようとしたこと等によって明かである︒⑦

 さて最後の劉繋駕であるが︑劉公選道碑によよれば︑彼も亦憲宗

初年翰林院使となってより諸職を歴て椹密使となり︑ついで涯南監

軍使となり︑憲宗晩年に再び枢密掌ったという︒⑧この椹密使とな

った時期については明かでないが︑劉公演道碑に轟

 翌日命知椹密︒⁝⁝俄而瀦青墨紀︒兵集潅海以公定護戎事︒尤遽

 武経︒出爲潅南監軍︒・ゴ⁝元三三戯︒復掌福密︒

 とあるところがらみて︑元和十三年秋七月一個青節度使李師道討伐が決定せられる以前から枢密使であり︑十四年二月九日その不定後

に再び椹密使となったものらしく︑その間討伐を命ぜられた潅南節

度使李夷簡の監軍使であったのであろう︒⑨とすれば元和五年より

十三年迄椹密使であった順守謙と相並んで橿密使たりしことがあっ

たかも知れない︒然らば既に早く憲宗の時に於て椹密使の二員制は

實施していたのかも知れないが︑それらを断定すべき資料は不足し

ている︒兎に耳垂宗初年までは椹密使であった如くである︒

 彼の任務について言えば︑神道碑には﹁一日萬機︒減磁三接Q忠猷隠於至嘱︒嘉受講薄書閾︒略而不言︒蓋浬樹不言之義也︒﹂とあ

って︑裏面的には兎も角表面的には何等政治的活動をなしたとは思

われない︒

 以上︑憲宗時代三人の福密使について︑一懸その任務は詔旨宣傳

という事務的なものであり乍ら︑それがやがて帝の密旨をうけ︑機

密に關ることから︑政治的に容啄する機會を得たらしく︑漸次政治 的に有力となりつつあったことは明かである︒ とはいえ︑ここで注意すべきは︑かかる枢密使の政治への容啄は憲宗自身が招いたものであることである︒帝が福密使制度を確立したのは寧ろ君主中心の朝灌確立の爲に︑秘密保持の目的からなされたものであろう︒かくて椹密使は機密の詔旨を掌ると共に︑機密の政治にも自ら與る結果を招いたものと見られる︒註① 筆者は前掲論丈に於ては憲宗時代の枢密使は劉光碕と梁守謙の二人と  考えていたが︑その後悔丈饒交野巻六﹁唐故左神策軍制軍中尉細工街功  徳使知内待省思劉公営断碑﹂によって劉弘規のいることが明かとなった  その在職時期については本交に述.︑へる︒②冊莞鼠崖﹂轟部正直二︑旧專藷旛︶新專嘉六︶鄭余慶

  伝︒

③資治通鑑へ韓姻︶元和三無月の条︒④書論韓︶鶴公功驚︒

⑤資治通鑑妻焉︶元和五年三月︒

⑥例えば冊府元奥蜷蛤︶内臣部整︑通鑑韓嬉︶元和豊年+百︑

  同叢五百︶元芋奉重石の桑参照︒

⑦通輿韓栢︶元和葦冬+月の餐︑

  乙未︒.魏博監寸土状聞︒上応召宰相︒謂李降日︒卿端魏博若符契︒李吉

  甫請遣中使宣慰︒以観其変︒李糠日︒不可︒今田興奉其土地兵衆坐待詔

  命︒⁝⁝吉甫素与枢密使梁守謙相結︒守謙亦為之曽於上日︒故事皆野申

  使宣労︒今此鎮皆無︒恐更不諭︒上寛遣中使張忠順︒如魏博野臥︒欲侯

  其還而議之︒癸卯︒李経復上言︒朝廷恩威得失在此一挙︒時機可惜︒奈

  何奪之︒⁝⁝乞明旦即三白麻︒除興節度使︒猶可及也︒

  というQ

 ⑧①にいう李交饒交一回公神道碑︒

⑨旧薯︵倦五薫宗本紀下︒

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      第二野営宗敬宗時代

 憲宗の末年は︑藩鎭の抑厘鳥羽の確立という一代の偉業にも拘ら

す︑物情騒然たるものがあった︒即ち帝の寵愛した左軍中尉吐突承理

は澄王輝を押立てて帝位をねらい︑帝自らは窟官陳弘志等によって

冷せられたのであった︒かかる状勢の中に︑太子穆宗は右軍中尉梁

守謙以下の宙官によって擁立され︑凝念承理は諌⁝毅をうけるに至った︒穆宗の即位は先ずかかる愚妻による墨譜と擁立︑宮官同志の勢

力抗宰による流血を以て始まったのであった︒① さて穆宗時代の椹密使は憲宗時代より穆宗初年までいたと思はれ

る隠避規と︑魏弘簡︑王守澄であった︒②劉弘規は薄紫即位につき

定策の功ありしものの如くであるが︑即位やがて罷められたようで

ある︒⑧魏弘簡は何時から福密使となったか明かではない︒併し長

慶元年十月には既に福密使であったのであって︑この十月に朝政を

傾乱する罪によって椹密使より兆せられて弓箭軍使となったのであ

るから④︑憲宗末年からの橿密使と考うべきであろう︒とすれば劉

弘規と同時に橿密使であった筈で︑遅くとも憲章末年には橿密使二手制が普通であったと見てもよいようである︒⑤

︒丁度長慶の初には朱克融︑王廷湊の乱あり︑河朔の地が再び乱れ而も朝政は﹁驕主宰僻︒蔵相庸才︒﹂の証悟で振わす︑十藪萬の大

軍を以てしても賊を討って﹁無尺寸之功︒﹂といわれる如き殊態で

あり︑途に憲宗以來の重臣斐度をして出陣せしめざるを得ない有様

であった︒時に翰林學士元積あり︑畳畳.使魏弘簡と刎頸の交をなし

て宰相たらんことを求め︑簑度の職功をたてんζとを黒んで︑その

奏上する軍事計劃を事毎に弘簡と共に阻んだという︒爲にこの爾者

は簑度の痛烈なる批判をうけるところとなり︑河朔の賊はただ山東

を乱すのみであるが︑ ﹁禁聞姦臣︒必乱天下︒﹂とて弾劾せられた

のであった︒穆宗は襲度が大臣であり︑且つその論ずる所が正しい ので止むを得すして爾者を既したといわれる︒⑥ 一方王守澄は薪唐書の傳によれば︑ ﹁黒髭所掌︒﹂といわれる如く微賎の出身であったらしいが︑元和中欧州監軍となり︑後入朝して憲宗の崩御にあい︑馬進葺︑梁守謙と共に穆宗擁立に功があった︒そのためであろうか︑穆宗の初に枢密使に任ぜられ︑後二七元年梁︷示謙に代って右軍中尉となる迄の長い聞その職に留まった︒ その聞穆守敬宗時代の政治は多く彼の握るところであって︑ ﹁及守澄入知福密︒當長身︑寳暦之際︒國政多智於守澄︒﹂とか︑或は高野專制二言︒勢傾中外︒﹂とか傳えられている◎從って當時の宰相李逢吉の如ぎも彼と結んでその後援をたのみとして勢力を振ったらしく︑又敬宗の時には政敵李紳を抑えるために守澄をして帝に内奏せしめているのである︒その他例えば︑工部尚書鄭灌が潮回によって跳馬を求めて嶺南節度を得︑又王播が一度罷興せられた塩鐵筆勢使を︑彼に銭十萬紹を渡ることによって再び塩鐵韓蓮使に任ぜられた如ぎことは︑屡汝であったQ或は敬宗の時︑昭義節度使劉悟の死するや︑李絡を始め多くの廷臣は︑野党は内地にして河朔と異る故にその子をして留連せしむべからすとしたのに︑聖帝澄は李逢吉と共にその賄賂を得て雲叢を認た如きこともあった︒⑦ 次に敬宗時代となるが︑二二自身は宣官によって立てられたわけではないが︑暗愚ともいうべき天子で︑政治に封ずる熱意なく宰相を引見することも稀であったといわれるから︑その政治が寵臣︑内臣等によって握られるのは當然の結果であった︒寳暦二年十二月途に奮官需克明等に慣せらるるに至ったQ敬宗の斌せらるるや︑帝位をめぐって劉克明等一派と︑橿密使︑護軍中尉等の執灌者との雫・が起つたが︑克明等は武力を有する執権者側によって抑えられ︑その擁立する文宗が即位した︒この時枢密使王守澄並に楊承和が︑中

尉梁守特等と共に擁立の功を荷つたのである︒⑧

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 さて穆宗初年劉弘規︑魏弘簡が相ついで椹密使を罷めた後は王守澄一人であったろうか︒恐らくは他にも一人あったかと思われるがそれは或は楊承和でありたかも知れない︒けれども楊承和が穆宗時

代から椹密使がありた明証はない︒併し乍ら孟宗末年から二員制は略確立したと推定されるから︑黒鍵から敬宗にかけても官員であり敬宗末年に王宗澄と楊承和であったと考えても無理ではあるまい︒ さてこの時代に於ける枢密使の政治に封.する熊度を見るに︑尚容

啄的立場を出で漁いようである︒矢張り本來の任務が表面に立てられ乍ら夏面的に四魔するということが多かったのであろう︒とはいえ︑その政治的悪言が極めて有力且つ露骨になって來たことは注目すべきであり︑それは穆宗隔敬宗のしまりのない政治二度によって助長されたものであろうが︑併し憲宗時代から帝の側近としてそのような態度を獣認されていた傳統によるものであろうか︒例えば天

子擁立という如き重大事件に於て︑彼等の動きが極めて重ぎをなす

に至ったことは︑椹密使の地位が漸く表面的にも政治的なものとな

りつつあったことを物語るものではあるまいか︒冊府元亀︵巻十一︶

帝王部継統の條によれば︑

 文宗敬宗弟︒初藤江王︒寳暦二年十二月辛煮︒敬宗夜猿還宮︒遇

 中華劉克明之逆︒壬寅︒椹密使王守勢勘兵衛迎江王入宮︒

 とあって︑雑筆澄が兵を率いて文宗を擁立したことを傳えてい

る︒ここでは最早軍なる詔旨宣傳の域を越えた政治性が見られる︒

これは一面王守澄個人の政治力も考うべきであろうが︑これまで椹

密使が浮び上って來たことは︑元和以來のその在り方を見る時決し

て冷然とはいえないのである◎

註①廿二簿記︵誰t︑新梅毒甦︶︑農古里酷︶王守譲︑通鑑

  ︵韓哨︶元和+葦春正月桑︒

 ② ③前掲劉公神道碑

④景雲︵捲六︶臓器本妃  ⑤ 憲宗時代の項で述︑へた如く設置朝のみの資料では憲宗末期枢軍使二員  制説を主張するのは倫早であるが︑この印判簡のことを考えあわせると  原則画餅員制説を主張してもよい乏思う︒⑥この葎については︑旧專︵韓む護伝︑通鑑︵酷藷︶長憲元年

  季月︑冊貸元奥酷姻︶将師部諌静︑同書︵難+九︶内臣部朋党︑同書

  ︵鞍珀︶総録部巧箸条参照︒

⑦旧雲︵巻十七上︶文宗本紀︑同書︵韓栢︶饗伝︑同書︵韓謂︶李紳伝︑

  

ッ書︵巻一百六十四︶王乳伝︑冊府元亀︵韓栢︶轟旧臣㍊︑一曲韓翁︶長慶

  三年夏四月置同九月︑同四年正月︑十一月︑宝前元年正月︑十一月の各

  条・参照︒      ︒

⑧新寄書︵巻八︶棄本紀︑通漸騰墓︶宝暦二年+二月︒

      第三項丈宗時代

 前述の如く︑文.宗の即位は枢密使王守澄︑護軍中尉喜々謙の力に

よった︒早く元和末より冨官の專横は甚しく︑ ﹁威再出人主之上︒

人山童言︒﹂・といわれる如き有様であり︑從って劉黄の如く︑其の

暴に封して痛烈なる論難をあびせる者も出たわけであって︑彼は制

學の封策に撃て︑天下の擢は天子側近の實宮に掌握され︑而も篁臣中それを指摘する者なきを歎じ︑﹁今忠賢無腹心蟻壁︒閣寺專軍立

之権︒陥先帝不得塗上絡︒挙党下馬得正事始Q﹂と述べて︑遅筆が

朝鳶確立に思いを致さんことを要請したのであった︒①文宗は割合

に賢君であって必ずしも 官に制せられたわけではなかったが︑こ

れを抑える爲の第一次︑第二次の策謀に失敗した結果︑途に晩年に

及ぶまで俺官の乗ずるところとなって︑失意のうちに終らざるを得

なかった︒この丈宗の下に於ける椹密使はどのように活動したであ

ろうか︒ 楊承和は太和九年李訓︑鄭注によって西川監軍に出されるまでそ

の職にあった︒王守澄は太和元年三月梁守謙に代って護軍中尉にな

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(6)

つたが︑その後任は明かでない︒後に王謹言が太和六年末椹密使と

なるまで楊承和一入であったかも知れない︒彼は帝擁立の場合に一

役買ったけれども︑申尉王守澄に押されて特別に活動したとは思わ

れない◎丈宗の宙官抑厘政策は︑先づ右軍中尉王制澄と勢力を宰っ

ていた左軍.中尉卓元素︑福密使楊承和︑王二言を皆監軍使として地

方に出使せしめ肖同時に仇士良を左軍中尉に任じ︑大にしては解官

自体の勢力﹂分裂を︑小にしては王守澄の灌勢創減を策することにあ

った︒鞭って.椹密使の政治的嚢言灌は微汝たるものであったであろ

う︒りれども︑李宗閲が相たるについては︑承和のカが與っていた

と逼うから︑帝の.信任を得て政治上にも容啄することもあったと考

えられる︒②

 王践言は太和六年十一︐月︑西川監軍より福密使となった︒彼が朝

に趣いて枢密使となるや︑節度使李徳裕は三十萬貫絡を贈って︑そ

の推墨によって宰相となったという︒⑧彼も楊承和と倶に太和九年

五月河東監製として出湿せしめられたQ

 さて︑この二人は大和六年末から︑九年五月迄同時に櫃密使であっ

たわけであるが︑とこが更に崔潭峻も亦この頃福密使にあったとい

う︒資治通宝︵巻二百四十四︶太和七年六月の條には︑

 後旬日宣出︒除︵鄭︶輩御典大夫︒︵李︶宗閨謂椹密使崔潭朝日︒

 事日︐切宣出︒安用中書︒学士日︒八年天子︒鶏其自行事亦可套︒

 宗関然而巳︒

 と見えている︒耳当の名は既に紅茸時代に見え︑荊南監以たりし彼が長慶の初蹄朝した時︑元種の丈才を帝に奏した爲に元種は翰林

學士院に召されたが︑その時﹁中人以算筆之故︒雫・與種畜︒﹂と傳

えられているから︑その頃相當に宙官の闘に重きをなしていたもの

であろう︒④その後このとは不明であるが︑善和七年枢密使として

現われてくるわけである︒若しこれが事實とすれば︑太和七年の頃 に嘗ては同時に三人の椹密使が存在したこ・とになる︒他に潭峻の椹密使を述べるものはないが︑通鑑の記事を否定するわけにもいかぬとすれば既に憲宗匠朝帰來福密使二員制が普通であったけれども︑未だはっきりと制度化したわけではなかったのであろうか◎時には

一員︑二賢愚は三管と︑時に鷹じて任用されたものであり︑それが

やがて二五制に固定化してゆくものと老うべきであろうか︒

 文宗の末年に於ては︑薄季陵︑劉生野の二人があった︒この二人は

丈宗がその末年に寵するところであったらしく︑帝はその崩ぜんと

するに當って︑この二人に命じて︑宰相楊嗣復︑李鉦と共に皇太子

を命じて帥位せしめんとした︒然るに太和九年十一月甘露の攣押倒

政椹は全く中尉仇士良の塵断ずるところであり︑仇士良は左軍中尉

魚弘志と倶に天子擁立の功を奪うために︑恣に頴王を迎えて帝位に

印かしめた︒これ武士である︒季陵︑弘逸二人は爾中尉の勢を倒さ

んとしたが︑成らすして反って辞せられた︒⑤

 實はこの武宗印位の事情は頗る曖昧なものがある︒旧唐書︵巻一

首七十六︶楊嗣復讐によれば︑武宗の言葉として︑

 朕楊嗣三際︒宰相何曾比数︒李班︑季陵志在扶冊陳王︒嗣復︑弘

 逸志在樹立安王︒立陳子猫下文宗遺旨︒照復官立二王︒全壁画楊

 妃意馬︒

 と記しているが︑通宝︵巻二百四十六︶雪空元年三月の條には︑

武宗のこの意見に封して李徳裕が︑ ﹁蔽事曖味.︒虚心難知︒﹂と評

したという︒或は又︑通藩老異には︑仇士良が兵を以て安寧を迎え

んとして誤って聖王を迎えたとの唐闘史の詮を紹介している︒而も

安王︑陳情共に開成五年春正月に殺されているのを見れば︑或は楊

嗣復傳のいうところに似たことがあったかも知れない︒としても彼

等福密使二人が文判子に於ける宙官勢力の代表であり︑且つ宰相と

相表裏する政治勢力でありたことを見るに難くはないQ⑥

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 更に筆者は憲宗以來徐汝に表面化しつつあった橿密使の政治進出

が︑こめころに確固たる政治力として確立したものであろうと推定

する︒そのことを裏書きするものは︑通鑑︵巻二百四十七︶會昌三

年五月の左の記事であるQ 壬寅℃以翰林吉士最早当量爲中書侍郎︑同質章事︒鍼︑元略之子

 也︒楽髪學士章珠︒以鉱名授之︒令草制︒宰相︑福密皆不之知︒

 時櫃密使愚行深︑楊欽義皆野懇︒不敢預事︒老官一者尤之日︒由此

 劉︑揚儒怯︒堕敗旧風故也︒ これは武運が溶鉱を宰相に抜擢するのに︑宰相にも︑椹密使にも

相談なしに行った時︑老富官が劉︑揚二人の福密使の政治に敢て預ろうとしない態度を非難した記事である︒この二人の熊度が椹密使としての旧風を堕敗するというのであれば︑椹密使は既に丈宗時代

に於て政治的獲言置を確立していたと見ねばならす︑而も﹁宰相︑

椹密︑皆不之知﹂といわれるところがらみで︑宰相と相並ぶ政治的

憶断樺をもつていたと考えてもよ︑いであろうが︑一歩譲って若しこ

の非難が宙官としての旧風をおとすものだと解されるとしても︑當

時椹密使が宙官の政治的代表であったことは間違ない︒そのような

福密使の政治的地歩が確固たるものであったとして︑始めて武宗邸

位當時の事情も了解できるであろう︒

註①

 ②

通鑑︵愈々︶太和二老妻月︑新嚢︵巻一百七十八︶響伝︑

旧唐傘韓栢︶李喬伝︑適糞落懸︶太始九番月︑七月︑八月

の各条︒旧唐詩︵巻一百七十四︶李徳裕伝︑通鑑︵韓踊︶太和六年±月︑黒元亀

衡平内覧部暮︒

釜元奥馨嫡︶内臣部朋党

旧唐異捲茜︶王起伝︑同書︵巻十入端︶一宗本紀︑尊墨亀︵讐帝王

部継統︑通災韓栢︶麗五歪月︒   ⑥新唐書︵巻﹇百七十四︶楊嗣篠参照︒    ︵三︶政治的不振時代 この時期は潤筆︑湖面の時代にあたる︒      第一項武宗時代 丈宗の末年に於ては聯策軍中尉仇士良が雨曇勢力の申心であった︒甘露の攣に於ける文墨の失敗後は︑禁軍掌握のみならす政治の實灌すら彼の掌握するところであった︒途に彼は同僚魚弘志と共に武宗を擁立し︑後にはその射立勢力たる福密使二人を殺して完全に宙官の全勢力を握り︑武佐擁立の功を一身に負うていた︒発って初は仇士良に表面的尊寵がえられたけれど︑剛毅な帝は李徳裕を用いて政治を委ね︑内には宙者︑外には藩鎭に封.して苦しい態度を持し︑士良の傲慢な態度を抑え︑途に彼をして致仕せしむるに至った︒① 武宗のこのような政治態度は︑宙官︑從って椹密使にも政治上の活耀の余地を余り與えなかったようである︒けれども時の文宗時代迄に打樹てられた政治灌力︑政治的地位が一朝にして省みられない乏いうことはあり得ないことで︑三嘆密使の意見は政治的に相可重職せられた明証がある︒ さて武宗即位當初の慢心陵︑劉隊旗二人が訣せられた後︑福密使となったのは誰であったか︒開成五年九月李徳裕が宰相に任ぜられた時︑彼を推無したのは椹密使楊欽義であったというから︑楊欽義は前任者達が五年八月忙諒せられた直後に任命されたものであろう︒この欽義によって徳裕によって推墨されたのは︑徳裕が潅南に蔑していた時の監軍使が欽義であり︑而も徳裕が欽義を遇することは極めて厚く︑物質的贈與が行われたこと等によるものである︒② 然るに會昌二年五月には楊欽義の外に劉行深の名が見え︑同四年八月にも電導の名が見え︑而も他の椹密使は窪く見當らないから︑恐らく此二人が武宗朝の椹密使であったのであろう︒⑧

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 さて︑會昌元年三月︑武庫はその即位後の処置として仇士良の勘

むるところによって劉弘逸︑薄季陵に死を賑つた後︑又楊嗣復︑李       の葺をも詠せんとした︒そこで李徳裕は鴬遷︑崔.郷︑陳夷行等と共に

その死を赦されんことを奏上すると共に︑又椹密使をして共に此意

見を入奏せしめたといわれる︒④その結果︑武宗は特にその死を

賊すことを徳裕に約束したが︑武宗に信任されること厚かった徳裕

にして︑尚且福密使をして自らめ上奏の援助をなさしめたところに

此事件の難しさがあると共て︑又椹密使の政治的地位を知りうるの

である︒武宗の時代ぱ冒官自体に封ずる抑厘︑從って又︑福密使へ

の抑厘︑例えば文宗時代に覧て述べた如ぎ旧風を堕乱する暗号であ

った如きことがあったにしても︑伺且つその政治的嚢言灌が認めら

れていたといえるであろう︒

 併し乍ら︑事少くとも宙官に織する限り︑椹密使はその最高指導

者としての地位を保っていたよう.である︒李徳裕の主張するところ

によれば︑當時の官軍の不振には三つの原因があり︑そのうち二つ

は︑宙官の監軍使並に監陣が將帥を索制し.︑或は期中醗鋭を自衛陣

の横暴を制するために︑楊欽義︑劉行動と相議してその許諾を得︑

然る後に上奏してその意見を實行に移したといはれる︒⑤李徳裕

が転官出使者の横暴を抑える爲に︑椹密使と相談してその許諾を得

たということは︑その地位の如何なるものであったかを推察せしむ

るものがある︒

註①新專︵二百︶李馨伝︑同異肇︶仇宣伝︒旧馨︵必至︶武製本

  紀︒通鑑︵巻二百四十七︶舎呈年四月の条には︑エ讐嘉仇養︒内実忌

  悪之︒士良頗覚之︒遽以老病轟氷散一軍.oしという︒

②通鑑︵巻二百四十六︶開成葦九月の条には︑﹁君王在碧南︒薯監軍門欽

  義b人皆言必知枢密︒徳裕待之無加礼︒欽義心衛之︒一旦独延欽義︒置

  酒中堂︒情電極厚︒陳珍玩愚妹︒罷酒田以贈之︒欽義大喜過望︒行至汁

義寛知枢密︒徳裕心用︒欽義頗有力焉︒しといえり︒ 州︒軟復還弘南︒欽義座所餉帰馬︒徳裕日︒宿望直︒卒以与之︒其後欽

通値︵巻二百四十七︶会昌三年五月︒同車酷焉︶会重事八月の条

新塞李馨伝︑同書︵巻一百七十四︶楊嗣戸隠︑通鑑︵韓栢︶通口元年三月

新唐書芸徳裕伝︒   第二項宣宗時代

 宣宗は唐墨諸帝の中で最も傑出した人物であった︒彼の政治は貞観の風ありといわれた位であって︑よく政治に隠謀した︒その政治

態度は︑公正を旨としたとはいうものの︑何れかというと猫断專行

の風があり︑叉窪官選歴につ逼ても意を用いたところであり︑その

專恣を許さなかったようである︒從ってこの時代に於ては福密使の

活躍も亦余り見られない︒

 武宗︑疾篤きに及ぶや︑左軍中尉馬元賛が中心となりて宣宗を擁

立した︒この頃の橿密使は恐らく武宗時代の内灘深︑楊欽義が引つ

づいて在職していたと思われるが︑それは明かでない︒恐らくは

宣宗即位後間もなく罷めたものではないかと推測されるのは︑大中

初年に著て椹密使崔互源なるものが存するからである︒又嚴唯美の

父嚴季實も三遷宗初期の椹密使であったのでわないかと思われる︒

併し乍ら︑二人がどめような活躍をなしたかにりいては全く知られ

ていない︒ただ帝の側近に仕えていたことは明かである︒①

 さて︑此等の人汝についで椹密使となったのは︑王露長と馬公儒

であったらしい︒通鑑︵巻二頁四十九︶大中十年十一月の條によれ

ば︑ 壬辰︒以戸部侍即判戸部崔.愼由爲工部爾書同型暴騰︒上葉命相︒

 左右無知者︒前帯一日︒令椹密宣旨甘辛士院︒以兵部侍判度麦轟榔⁝

 同報血早事︒﹂福密使王艦堺長︑馬公儒脂復奏︒郭所判・度麦︒青緑能否︒上以

 爲三密等佑之︒即手書愼由名︒及新野付學士院︒循落判戸部事︒

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 と見えている︒②この記事によると當時の椹密使が輩なる詔旨宣

傳の本來の仕事に從うことしか認められす︑政治的意見を持つことは宣宗の好まないところであったことを知ることができる︒このよ

うに野里抑墜方針の天子の下に於ては︑椹密使も亦軍なる事務的な

面にその仕事を限られていたわけであろう︒けれどもこのような枢

密使こそは︑賢最も帝の信頼していた宙官であった︒それは大中十

三年八月︑宣宗の提重ぎに及ぶや︑帝は密に王蹄長︑馬脚儒及び宣

徴南院使王居方︑右軍中尉擬製測量に愛子嚢王を托して天子たらし

めんとしたことで明かである︒③不幸にして王蹄長の計劃は左軍中

尉王宗實によって覆えされ︑郷王が迎えられて帝位につき︑蹄長︑

公儒等は皆謙せらるるに至った︒このような枢密使の不振は︑宣宗

の窟官の政治容啄拒否の方針が一恋成功したものと考えねばなら粗

④而も彼にして樹愛子の將來を宙官の手に委ねざるを得なかったの

であった︒註①冊府元奥捲踏︶灘塗札の条︒農書︵捲華禦穫によれ

  ば︑大中の初に枢橿崔巨源のいたことが墨︑新馨︵巻二百七︶肇美伝

  によれば︑﹁父季実⁝大中時有宮人謀試宣宗︒是夜季実直成寧門下︒聞

  変入射殺之︒明日帝労日︒非爾吾危不免︒擢北院副使︒終内枢密使︒﹂

  とある︒この宣宗謀殺未遂事件はいつのことか不明であり︑従って彼の

  枢密使の時期推定も不可能であるが︑併し︑大申十年後の枢密使でない

  ことは明かであるから︑初期に属するものと考えねばなるまい︒②農異韓︶宣宗本紀によれば︑大中主年七月呈帰長を内枢穫

  となしたという︒

③通鑑︵巻二百四十九︶大申+三年入月︒

④新馨︵巻一百六十九︶護伝︒

      結   語

 以上述べたところによって明かな如く︑椹密使は輩に詔旨宣傳の 任務を與えられていたに過ぎなかったものであるが︑漸次その政治的畿言灌を増大し︑丈宗の頃までには宰相と異ならぬ政治構力を.確立したものの如くである︒けれども武宗︑宣宗の頃となるや︑天子の宙官皆皆の態度と共に︑福密使の理非力も抑えられたかの如くであるが︑而も尚その政治力言言樺は相野のものがあったと考えられるQ 追記 灘宗以後となるや再び植密使は活澱な政治活動を始めるの   であるが︑これについては別の機甲に譲りたい︒      ーー東洋卑一

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