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14-15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての 協定条項

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての 協定条項

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 17

号 1

ページ 79‑100

発行年 1969‑02‑28

その他のタイトル ДОГОВОРНЫЕ СТАТЫИ О ХОЛО ПАХ, БЕГАВШИХ В МОСКВУ В XIV‑XVBB.

URL http://hdl.handle.net/10105/3179

(2)

79

14‑15世紀モスクワ市‑の逃亡ホローブについての協定条項

石 戸 谷  重  郎 (歴史学教室)

ま え が き

ロシアのホロ‑プ立法史が不断に関心を寄せているものの1つに「逃亡」 (6ercTBO)について の対策がある。ほぼ11‑12世紀を中心に制定されたいくつかの条項群からなるかの「ルースカヤ

‑プラ‑ヴダ」から、 17世紀中葉のいわゆる「ソボ‑ルノエ‑ウロジェ‑ニエ」つまり1649年法 典にいたる法典・法令の類は、ホロープ逃亡の防止にさまざまの形での条項を設けている。かれ

らホロープが逃亡した場合、 「自由人」 (CBoSoAHue moAH)と詐称することは最も普通の現象 であった。しかし、このことはホロ‑プ主のホロ‑プ所有権に対する侵害、あるいはそれぞれの 世紀の社会秩序の撹乱として警戒されたのである11‑12世紀のルースカヤ‑プラーゲダが、逃

(1)

亡ホロ‑プをかくまったり、途を教えたりすることを厳して禁じているのに対し、 1649年法典に なると逃亡ホロープに対する体罰などを規定するのみならず、自由人と詐称してホロープまたは 農民として住みつこうとする者に対する前歴調査を厳重にすべきことを、主人側および「ホロー

(2)

プ庁」に指示している。この前歴調査が16健紀末から行なわれ、しかもその調査の結果が克明に 記録されていたことについては、かの「登録帳簿」 (3anHCHamくH即a)が雄弁にこれを物語ってい

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る。しかもなお、ホロープの逃亡が絶えなかったこと、これまた16世紀末の登録帳簿から充分に

(4)

推察され、 17世紀に逃亡ホロ‑プについての「届出」 (月BKa)や「裁判」 (cya)が多かったこと

(5)

についてはソビエト史学にも具体的な考察がある。

本稿は、逃亡ホロ‑プについての諸問題のうち、 14‑15世紀において「条約」 (AOrOBODbl)、

とくに諸侯間のそれがかれらの送還についてどのように協定したかを考察しようとするものであ る。その際、とくにモスクワ市‑の逃亡ホロープに関する協定を、モスクワ市共同管理の問題に 関達させて検討したい。というのは、それがソビエト史学でもいわば論争の形で取上げられてき ているからである。この論争の過程についてわれわれが不満に恩うのは、 14‑15世紀のすべての 条約におけるホロープ関係の条項を検討していないこと、問題の出発点がモスクワ市の「空気」

(B03^yx)が逃亡者を自由にしたかどうかにのみおかれていること、ロシアの「中世」 (cpe^Hbie BごKa)の都市を不充分な史料のままで西欧の中世都市と比較して結論を出そうとしていること、

などである。モスクワ市への逃亡ホロープを論じながら、諸侯間の条約において最も普通に兄い だされる逃亡ホロ‑プについての協定を全体的に検討しようとする態度に欠けていることは、ソ

ビエト史学のホロープ研究の欠陥に無関係とは思われないのである。この問題について相対立し ている2つの見解の何れについても、このことが指摘されねばなるまい。

われわれが史料として用い得る主要なものは、ソビエト史学におけると同様に、まず第1に諸

:o

侯問の「条約」であり、ついで諸侯の「遺言状」 (且yxoBHaa rpaMOTa)である。条約の条文は簡 潔にすぎて難解な場合が少なくない。モスクワ市への逃亡ホロープについての条項はその1つに すぎないO ソビエト史学はたまたまこの条項のみを取上げて論争しているが、逃亡ホロープに関

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14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項 (石戸谷)

するその他の条項にして、ソビエト史学によって解明されていないもの、問題のありかさえ把摘 されていないもの少なしとしないのである。本稿はそのすべてを完全に解決できると考えている のではない。ときには大胆に、ときには慎重にわれわれの見解を披歴して読者諸賢のご叱正を待 ちたいと恩う。

1 「オチスティーチ」の解釈をめぐって

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モスクワ大侯ワシ‑リー2世とセルプホーフ侯ワシ‑リ‑‑ヤロスラーヴィッチとの1433年の 条約には、次のような逃亡者についての協定条項が含まれている:

「しかるに、われわれはモスクワ市に自分の代官を派遣し、かれらがわれらのホロープと村民 をオチスティ‑チする」 (A b ropoa Ha mockbv nocjiarn HaM cbohx HaMecranKOB, h ohh

〔8) ol王HCT只t HaiiiHX xojiorlox h cejiH兄H.)

モスクワ大侯とセルプホ‑フ侯との関係、およびかれらがそれぞれ「自分の代官を派遣」する という意味については後に考えるとして、まず注目さるべきは「オチスティーチ」 (OHHCTHTb) なる術語である。この語の解釈いかんによって上の条文の意味が大きく変わるからであり、これ をめぐってソビエト史学にも相対立する解釈が出されているのである。

すでに19位紀末にスレズネ‑フスキーは、その「古代ロシア語資料」において、 「オチスティ ーチ」の諸義を列挙し、その1つ「▼状態を明らかにする」 (bh只CHHTb nOJIO>KeHHe)の用例とし

(10)

て上掲条文とほぼ同じ内容をもつ1389年の条約の1条項をあげている。この1389年の条約は、上 のワシーリー2世の祖父なる大侯ドミート'J‑‑ドンスコイと、同じく上記のワシ‑リー‑ヤロ スラヴィッチの祖父に当るセルプホ‑フ侯ウラジーミル‑アンドレ‑ヴィッチとの間に結ばれた

(ll)

もので、モスクワ大侯とセルプポーフ侯との間に代々この種の協定がとりかわされていたことを 推察させる(後述)。ともあれ、スレズネ‑フスキ‑によれば、 「ホロ‑プと村民をオチスティー チする」とは、かれらを調査することを意味したのである.ホロープは解放されていない限り旧 主に隷属したのであり、また村民‑農民は当時法的には移転権をもっていたとはいえ旧主に負債

〔12)

を負い、あるいは負債による義務を約しているときは自由に移転できなかった。それ故、ホロー プと農民を「調査する」というスレズネ‑フスキーの解釈は、調査の目的が逃亡者の送還におか れていたという見解につながるのであるO 革命後のソビエトで、スレズネ‑フスキーの「古代ロシ ア語資料」のいわば縮刷版として編集されたコーチンの「古代ロシア術語資料」は、 「オチステ ィ‑チ」の諸義を列挙し、 「ホロープと村民をオチ‑スティーチする」という用例を「所属を明

(13)

らかにし確定する」の義の項にあげている。これは上掲条文の意味をいっそう具体的に解釈して いるものであるが、これを逃亡者送還の協定と見なし、さらにいわゆる「都市の空気」(Stadtluft をソビエトでは直訳してropoノICKO員BO3AyX といっている)の問題にまで結びつけたのがスイ

ロエチコ‑フスキ‑である.かれは上掲の1433年条約のなかの条文を引用して、

「西方の都市と異なって、侯のモスクワの≪都市の空気≫は、ホロープの運命を変えなかった。

侯たちはかれらの送還を要求した。」 (圏点、引用者)

(14)

と結んだのである。スイロエチコ‑フスキーのこの見解はその後20年余にわたってとくに批判 されることもなく過ぎた。ところが、 1957年に公刊されたチホミロフの「14‑15健紀における中

C15

健モスクワ」は、 14‑15世紀ロシアの「都市の空気」についても、 「オチスティ〜チ」の意味、

したがって問題の条文の解釈についても、スイロエチコーフスキーとは全く逆の立場をとり、か

(4)

14‑15世紀草子クワ市への逃亡ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

81

れの所説にはげしい論難を加えるにいたったのである。そしてこの時から問題の条文がようやく ソビエト歴史学の一般的関心を惹くようになったのである。

チホミロフの結論は次のように要約されている:

「モスクワにおける都市の空気は、そして恐らく他のロシアの大きな都市においても、少なく

° t  t ° ° ° ° ▼

とも14‑15世紀の封建的分裂の時代には、事実上人間を自由にした」 (圏点、引用者)

スイロエチコ‑フスキーと正反対なこの主張が成立つためには、少なくとも都市への逃亡者に ついての「オチスティーチ」の解釈が上述とは別なものとして成立しなければならない。事実チ ホミロフの批判はまずこの点からはじまっているのである。チホミロフはひとしくコーチンの既 掲「資料」に依りながらも、コ‑チンの「オチスティーチ」の諸義分類とその用例に異論を唱え て、 「オチスティーチ」は「負債から解放する」の意味で最も多く使われたのであり、 「ホロー プと村民をオチスティーチする」という場合もまさにこれである、と主張するのである。つまり 問題の協定条文は、スイロエチコ‑フスキーの解釈のように都市への逃亡者を「旧所有者に送還 すること」を目的にしているのではなく、 「ある第三の主人に隷属させて都市に残留させる」た めのものと見ているのである。 (この場合、 「第三の主人に隷属させる」ことが、上の「人間を 自由にした」ことと矛盾すると考える必要はない。チホミロフは逃亡者と旧主との関係を中心に 考えているからである。)勿論、チホミロフは、わずか一語「オチスティーチ」の解釈から14‑15 世紀ロシア都市における「空気」の自由を主張しているのではない。スイロエチコ‑フスキ‑が 1433年の条約のみに注目していることを非難して問題の協定条文が他の条約にも含まれ、しかも モスクワ大侯とセルプホ‑フ侯との問の条約にのみ含まれていることを述べ(この点ではチホミ ロフにも不充分さがある‑後述)、またモスクワ千田こついての「トレーチ的所有」 (TpeTHoe

CW)

BJiaAemie,ジ‑ミンのいう「共同管理」 coBMecTHoe ynpaBJieHHe)とその歴史に注目して条約締 結者なる侯たちがモスクワ市の発展のために旧主からの逃亡を認めあったことを指摘しようとし ているG また、モスクワのような大きな都市では住民の前歴を「確認することが困難であった」

ことにも言及している。チホミロフによって、 14‑15世紀ロシア都市、とくにモスクワ市につい ての考察が広い視野からなさるべきことが反省されるにいたったことは確かである。しかしそれ

にもかかわらず、かれの結論とその根拠のすべてが無条件に認められてよいかどうかは問題であ る。都市への逃亡者が「自由人」と詐称してついに発覚されずにおわったケースは充分あり得る。

しかし、いま問題は、チホミロフが、ホロープなどの逃亡者を「オチスティーチ」することをかれ らを旧主から「解放する」の意にとっていることにある。つまり、既指の条文の趣旨を、モスク ワ市に逃亡してきているホロープや農民をモスクワ湘こ支配権をもつ侯たちがかれらの旧主に対 する負債・義務から解放する目的をもつものと、チホミロフが解している点が問題なのである。

かれの主張は、相互に代官を派遣して、それらの代官が共同して「オチスティ‑チ」するのほ、

° ° ° ° 4 ° ° ° ° ° ° ° ° °

逃亡者の旧主への送還のためではなくて、逃亡者を旧主から解放するためであった、というので ある。このことは、たんにスイロエチコ‑フスキーと全く逆の立場というにとどまらず、モスク ワ市への(あるいは、チホミロフの推察に従えば、一般に大きな都市への)逃亡ならば、逃亡そ

° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °

のものが公認されたという結論に導くものであって、当時の社全体制、とくにホロープ制度の理 解にとって重大な問題を含んでいるのである。かりに、モスクワ市が大侯とセルプホーフ侯との 共同管理下にあったこと、侯たちがモスクワ「都市民の成長」を願っていたことを考慮に入れて

も、主人のホロ‑プに対する所有・支配の権利を基本とするホロープ制度そのものを根底からく

(5)

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14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

つがえすような協定を両者が結んだと考えることは、行きすぎのように思われる。

果せるかな、チホミロフの主張は2年後にサ‑ロフによって反対された。サ‑ロフはその労作

(17)

「14‑15世紀における東北ロシアの諸都市」において、スイロエチコ‑フスキ‑とチホミロフと の対立的見解にふれ、次のように述べて明白にチホミロフに反対する立場を表明したのである:

・ ・ * a

「協定の趣旨は全く明瞭である。侯たちは、都市に逃亡した自分のホロープと村民の送還につ

* ・ ・ ・      ・ 蝣 蝣 ・ ・ ・ ・

いて協定したのである。それによってかれらは自分の旧所有者に送還されたのであり、およそ 必ずしも都市にとどまることを許されたのではない。」 (圏点、引用者)

ここに明らかなように、サ‑ロフは無条件にすべてのポロ‑プや農民が旧主に送還された、と 考えているのではない。しかし、逃亡者送還の協定は一般にこのような趣旨で結ばれているので あって、後に述べるように「取調べの後」 (no HcnpaBe)送還すると約していることに注目すべ

きである。

° ° ° ° ° ° ° °

「ホロ‑プをオチスティ‑チする」についての解釈が、一方では送還のための調査、他方では 旧主に対する負債・義務からの解放、と極端に対立するにいたり、ソビエト学界の注目がここに 向けられたとき、姿勢としては両者の中間の立場をとろうして加わってきたのが、諸侯間「条約」

(18)

の古文学的・政治史的考察でも著名なチェレープニソである。かれはその労作「14‑15世紀にお

(19)

けるロシア中央集権国家の形成」において、上記両説の何れにも欠陥ありとしている。すなわち、

協定の条文そのものは、逃亡者を「都市の空気」が自由にしたと判断するを許さないとしてチホ ミロフ所説を批判するとともに、 「ホロープをオチスティーチする」が逃亡者の送還を目的にし ていたのであれば一般の条約におけると同様に「ポロ‑プをひき渡す(bhAaBaTb)」と端的に述 べている筈としてスイロエチコ‑フスキ‑やサ‑ロフの所説にも与していない。この「ひき渡す」

については後に改めて論ずるが、チェレ‑プニンほ問題の術語「オチスティ‑チ」について独自

(20)

の見解を出そうとしている。かれは、 「ブスコフ裁判法」とくにその第51条に使われている「チ

‑スト」 (mhcto)なる語に結びつけて「オチスティーチ」を解釈しているのである.

ブスコフ裁判法第51条に規定されているのは、ブスコフ地方特有の名称で呼ばれた負債‑契約

(21)

農民なる「イゾ‑ルニク」 (HSOpHHK)に対して主人が「援助金」 (noKpyTa)の返済を要求して争 うときの裁判の進め方についてである。 「イゾールニクが村にチ‑ストに住んでいたか」がこの 裁判では問題にされているのであるが、この「チ‑スト)の意味を援助金の有無に結びつけて考 えるのほうがち過ぎであって、ブスコフ裁判法の他の諸条項からしても「チ‑スト」は、ジーミ

(22;

ンが指摘しているように、 「実際に」 (B Ae員CTBHTejIbHOCTH)以外の意味をもつものではない。

チェレ‑プニンは、 「オチスティーチ」を「チ‑スト」に結びつけながらも、 「オチスティーチ」

の意味を明瞭直裁に説明せず、いま問題のモスクワ大侯とセルプホ‑フ侯との条約にいう「ホロ

‑プと村民をオチスティーチする」については、結局のところ、 「かれらの義務を明らかにする」

ことであると解釈している。したがって、この点ではスレズネ‑フスキ‑、およびかれの所説を 受けついでいるスイロエチコ‑フスキーやサハロフの立場と共通のものをもっている。というの は、およそ逃亡者を調査するとは、逃亡者の名に価する者かどうか、旧主に対して負債・義務を 負っているかどうかを調査し明らかにすることである。ホロープなどの逃亡者を「オチスティー チ」する代官の行為について、チュレ‑プニンはしばしば「調査」 (paccjie/iOBaHHe)なる語を 用いていて、ときには「都市で見つけられたホロープや農民について」代官による「裁判審問」

(6)

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

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(cy^Hoe pa36npaTejibCTBo)が行なわれた」とさえいっている。しかもなお、 「ホロープをオチ スティ‑チする」その目的についてスイロエチコーフスキ‑らと枚を別って、送還を目的にして の調査ではない、とチェレ‑プニンが主張しているのは何によってであろうかO

大まかに分けるとその論拠とされているのは2つある。 1つば、調査の結果逃亡者でないこと が判明すれば都市にとどまり得たことで、この点を強調して「オチスティーチ」は必ずしも送還 のためでないとするのは、当時における逃亡者送還の実態を考慮に入れていないからである。旧 主に送還されず都市に残留できる者もあった、と理解している点でチェレープニンがチホミロフ の所説と対立していることに注目すべきであろうO チホミロフは、既述のように、 「ホロープを オチスティ‑チする」を旧主に対する負債・義務から解放するの意にとって、協定は送還を目的

としているのでない、と見ているからである。これに対してチェレ‑プニンは、義務の有無を調 査の結果、送還される者も残留できる者もあったというのである。この場合、モスクワ市に残留 できた者は特別の処置によってでなく当然の権利としてそれが許されたとチェレープニンも見て いるので、この点でスイロエチコ‑フスキー所説とは、かれがいうほどに大きな隔たりはないこ とになる。次に、送還を目的にした協定でないという第2の根拠としてチェレープニンがあげる のは、さきに一言ふれたように、 「ひき渡す」 (Bbl且aBara)という語を協定が用いていないこと である。つまり、チェレープニンにあっては「ホロープをオチスティ‑チする」協定と、 「ホロ

‑プをひき渡す」協定とが対立的にとらえられているのである。かれの表現をかりていえば、前 者は「ホロープの旧主に対する義務を明らかにする」協定であるが、その結果において義務ある ことが判明すれば旧主に送還されたのであり、他方「ホロ‑プをひき渡す」といっても調査を経 てのことである。従って、この両者を対立的に考えること自体が反省さるべきなのである。そし て、ソビエト史学では、 「ホロープをひき渡す」という一般の協定についての考察がおろそかに されている。そこからして「ホロ‑プをオチスティーチする」協定が妥当に解釈されていないよ うに思われる。節を改めて「オチスティーチ」なる語を用いないで逃亡ホロープについて協定し ている一般の条約を検討したいと思う。

2 逃亡ホロープについての一般的協定

モスクワ大侯とセルプホ‑フ侯との条約が逃亡ホロープについて「オチスティ‑チ」(調査、ま たは義務の究明)なる語を用い、 「ひき渡す」と端的にいっていないことを重視するチェレープ

(23)

ニンは、 「ホロープをひき渡す」協定の事例として次の条文をあげている:

「しかるに、ホロープまたはポロ‑ヴニクがトヴェT)の郷に逃亡するとき、それらの者をひき 渡す。」 (A xojion hjih nojiOBHHK 3a6eサCHT b TBepbCKyio BOJiocTb, a Tex Bbi^aBaTH.) これは、ノヴゴロド(共和国)がトゲェリ侯ミ‑イル‑ヤロスラーゲィッチに認めさせた1304

(24)

午(または1305年)の条約の1条項である。ここではたしかに逃亡ホロープを「ひき渡す」とし ている。しかし、重要な点でこれはこの種の協定の典型的なものとはいい難い。すなわち、この 種の協定の圧倒的大部分はたんに「ひき渡す」といわず、 「取調べの後ひき潰す」といっている のである。そして「取調べの後」とはいかなる意味であるかもまた、条約のテクストによって知 られる場合もある。ノヴゴロドと同じトゲユリ侯ミ‑イル‑ヤロスラヴィッチが1304年よりも前 に(1296年‑1301年の問であるが正確な年代は確定できない)結んだ条約は、相対応する2つの テクストが今日に伝えられていて、逃亡ホロープなどに関してはそれぞれ次のように約定してい

(7)

84

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項(石戸谷)

C25)

る:

(ア)トヴユリ侯がノヴゴロドに認めさせたもの

「しかるに、ホロープ、負債者および保証人を、取調べの後ひき渡すO」 (圏点、引用者) (イ)ノヴゴロドがトゲェリ侯に認めさせたもの

「しかるに、ホロープ、負債者および保証人を、裁判がない者については裁判なしにひき渡す。

しかるに、裁判を要求する者には裁判を。」 (圏点、引用者)

同時に交換されたこれら2つのテクストを比較してみると、 「取調の後」 (no HcnpaBe)の意味 が用において具体的に示されているのである。 「取調べ」は、旧主に対する負債・義務などの有 無に関してであり、逃亡者(厳密にいえば逃亡の嫌疑をかけられている者)が自己の自由を主張 するときは、裁判にまで発展することもあり得たのである。逃亡者送還協定といっても、無雑作

・無条件にひき渡されたのではない1つの事例をここに見るのであるが、条約によっては逃亡者 の逮捕・裁判・ひき渡しの手続をかなり具体的に協定していることもある。

その最も典型的なのが、 1375年から1484年(または1485年)にわたって歴代のモスクワ大侯と トヴェリ大侯との問に結ばれた5つの条約である。これら5条約の逃亡ホロープについての条項

(26;

は些細なちがいもあるが、ほぼ共通して次のような内容をもっている。

(1)逃亡者の追求

逃亡者が自ら届出ることがないのは当然であり、旧主側がかれらを他侯国の領内にまで追い 求めることが予想される。これについて協定は、「わが方より何びとかがホロープまたは負債者 を通い求めて汝の領内に入る(npHPOHHTCH B TBO:王O BOTHHHy 3a XOJIOnOM HJIH 3a月ojmchhkom) 場合を想定している。

(2)逃亡者の逮捕

旧主側は、自分のホロープを発見しても無断でこれを捕え、または無断で連れ去ることは許 されない。すなわち、条文はいう: 「毒婦子宮なしに(6e3 np打craBa)自ら捕えても、 〔その後 に〕汝、または代官、または郷司の前に連行するときは、 〔自ら捕えたことによって〕かれは 罪とされないDJ 「しかるに,連れ去って郷司の前に連行しないとき、かれは罪とされるO」

(3)逃亡者が旧主からの自由を主張するとき

逃亡者として捕えられた者が旧主からの自由を主張するときは当然裁判によって争うことに なるわけで、協定は「しかるに、誰かホロープまたはローバが主人と争って裁判に送られ、か れらに保証がないとき、かれらを敗訴とする」と定めている。条約によっては「ホロープを敗 訴とし主人にひき渡す」と明記している。

(4)逃亡者が旧主への隷属を認めるとき

この場合には問題はなく、 「ポロ‑プとローバが訴訟を起さないとき(ne yHHOyT ch THrara) その者より税を取らない」と協定している。

以上によって明らかなように、逃亡者を「ひき渡す」といってもしかく無雑作に旧主に送還さ れたのではない。モスクワ大侯とトゲェリ大侯との諸条約における上描(3)(4)は、ノヴゴロドと トゲェリ侯との場合には、 「裁判がない者については裁判なしにひき渡す。裁判を要求する者に は裁判を」という簡略化された形をとり、さらに最も簡略に「取調べの後ひき渡す」という条文 になっているのであるO それ故、逃亡者送還協定における「取調べの後」なる語は見のがしでき ない意味をもっていたといわねばならないのである。

(8)

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項(石戸谷)

85

逃亡者送還の協定を含む条約にして今日に伝えられるものは計45通に達するが、ノヴゴロド・

トヴェリ問の3つの条約(さきの1304年条約を含めて)を除いては、何れもたんに「ひき渡す」

といわず、 「取調べの後ひき渡す」とするか、もしくはモスクワ・トヴユリ問条約のようにより 詳しく「ひき渡し」に当っての「取調べ」の手続を定めている。最も一般的な「取調べの後ひき 渡す」という協定の若干の事例をあげておこう。ホロープとローバのほかにいかなる者が逃亡者 と見なされたかにも注目されたい。

(あ) 1323年、

「しかるに、

亡する者を、

(い) 1382年、

「ホロープ、

(う) 1428年、

「しかるに、

27)

ノヴゴロドとスェ‑デン国王マグヌスとの条約

負債者、保証人、ホロープ、もしくは悪事をなして汝またはわれらのもとに逃 取調べの後ひき渡す。」

(28)

モスクワ大侯ドミ‑トリーとリャザン大俣オレ‑グとの条約

ロ‑バ、負債者、保証人、盗人、掠奪者、殺人犯を、取調べの後ひき渡す。」

(29)

モスクワ大侯ワシーリー2世とその叔父ガリーチ侯ユリ‑との条約

ホロープ、ローバ、負債者、保証人、逃亡者、盗人、掠奪者を取調べの後ひき渡 す。」

(30)

(え) 1440年、ブスコフとりトワ大侯カジミールとの条約

「しかるに、相互に友好を保つ限り、われも汝も、ホロープ、ローバ、負債者、保証人、ス メルド、盗人、掠奪者に与せず、取調べの後ひき渡す。」

〔31)

(お) 1449年、モスクワ大侯ワシーリー2世とリトワ大侯カジミールとの条約

「しかるに、ホロ‑プ、ローバ、負債者、保証人、盗人、掠奪者、逃亡者、越境者を取調べ の後ひき渡す。」

32)

(か) 1472年、モスクワ大侯イワン3世とその従弟ベロゼール侯ミ‑イルとの条約

「しかるに、贈られたもの、盗まれたもの、ホロープ、およびローバについて、永久に裁判 をO しかるに、盗人および逃亡者を取調べの後ひき渡す。」

これら一般の条約における逃亡者送還の協定と異なって、前節冒頭にかかげたモスクワ大侯と セルプホ‑フ侯との条約では、 「ホロープと村民をオチスティーチする」つまり逃亡者を「調査」

(スレズネ‑フスキ‑、スイロエチコ‑フスキ‑ら)、あるいはかれらの「義務の究明」 (チェレ ープニン)とのみいっているO 次に再びこの種の協定を含む条約に注目しょう。

3 セルプホーフ侯家とモスクワ市共同管理

モスクワ市に逃亡してきているホロープと農民について「オチスティ‑チ」なる語を用いてい る協定がモスクワ大侯と一般の諸侯との間に普通に兄いだされるのでなく、モスクワ大侯と「特 定の侯家の代表者との条紬このみ」含まれていることに、はじめて注目したのはチホミロフであ る。特定の侯家とは、既述のように、セルフポ‑フ侯家であるが、チホミロフはスイロエチコ‑

フスキーが1433年の条約1つだけをあげていることの不充分さをついて、このほか1389年、 1380

(33)

年、 1447年、 1450年、 1451‑1456年の諸条約、合計6つのモスクワ大侯とセルプホ‑フ侯との条 約に「ホロープと村民をオチスティーチする」という協定が含まれていることを指摘したのであ る。そして、この特殊な術語「オチスティーチ」を負債から解放するの意にとり、モスクワ市

‑の逃亡者に対するこのような処置をモスクワ大侯がセルプホ‑フ侯とモスクワ市を共同に管理 していたことに由ると説いたのである。しかし、スイロエチコ‑フスキ‑の不充分さを指摘した

(9)

86

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項(石戸谷)

チホミロフ自らも、実は上の6つの条約のほかに、モスクワ大侯イワン3世とその弟ウグリーツ

C34)

侯アンドレイとの問の1472年条約にも全く同じ協定が入っていること、およびモスクワ市共同管 理といってもその程度によって大侯とともにモスクワ市に管理権をもっていたすべての侯がこの 種の協定を大侯との条約のなかに含ませていたのではないこと、この2点を見落していたのであ る。これらはチェレ‑プニンをも含めてソビエト史学が寡聞の限りでは看過している点である故、

以下に検討を加えてみよう。

14‑15世紀、あるいはその前後の時代についても「条約」は、一方ではそれぞれの成立時点にお ける特殊な政治情勢を反映させているとともに、他方では締結当事者の関係によってある種の型 をもっていることがある。いま、逃亡ホロープについての協定条項についみれば、既述のモスク

(35)

ワ大侯とトヴェリ大侯との5つの条約(1375年‑1485年)がきわめて詳細かつ具体的な条文をも っていること、モスクワ大侯とリャザン大侯との5つの条約(1382年 ‑1483年)がホロープその 他の逃亡者の種類を最も多く列挙した上で「取調べの後ひき渡す」と協定している点で共通して いることなどは、その著しいものである。それは、条約の起草に当ってつねに父祖の代の条約の テクストが参頒されたからである。いま、モスクワ大侯とセルプポーフ侯との6つの条約が逃亡 ホロープについて「代官がオチスティーチする」と協定して一般の条約と異なる術語を用いてい

ることの理由の1つとして、このような事情がまず考えられるであろう。しかし、これで問題が 解決したのではない。 6つの条約のそもそものはじめにおいて、何故、両者が代官を相互に派遣

して逃亡者を「オチスティ‑チする」という協定を結んだかが究明されねばなるまい。

この点で、われわれが注目したいのは、チホミロフやチェレ‑プニンのように「オチスティ‑

チ」なる術語ではなくて、相互に代官を派遣しあっている事実である。チホミロフは、モスクワ 市の共同管理に注目しながらも、モスクワ市の発展のために逃亡を公認し逃亡者を旧主から解放

してやる協定を結んだ理由としてこれを強調した。われわれは、ひとしく逃亡ホロープについて 協定しながらも、一般の条約が他侯国に逃亡したホロープのひき渡しを要求し、あるいは日額内

° ° ° ° ▼ ° ° ヽ ° ° ° ° ° °

に逃亡してきたホロープの送り返しを約束するのとは異なって、相互に代官を派遣しその共同誼 査によって処理する点にこそ、モスクワ市が共同管理下におかれた現実が反映されていると考え るものである。このことは、相互に派遣された複数の代官が「ホロ‑プをオチスティーチする」

という協定が、条約から姿を消し去るプロセスの検討によっていっそう明白にとらえられるが、

まずモスクワ大侯とセルプホーフ侯家との関係に注目しょう。

セルプホ‑フ侯家の始祖アンドレイは、かのモスクワ大侯イワン‑カリクー(1世)の第3子 であって、イワン‑カリクーはその造言状(1339年ごろ)において、かれアンドレイにセルプホ

‑フなどを分与するとともに、モスクワ市については長子セメン、次子イワン(2世)とアンド レイとの共有とし、 「おのれの息子らにおのれのウォチナなるモスクワを委託す」と遺言したの

136)

である。ここにセルプホーフ侯家のモスクワ市に対する権利の起源を兄いだすが、大侯イワン‑

カリクーの遺言状からは、共同管理の実態を推測すること困難である。大侯セメンが上記2人の 弟と結んだ1350年の条約によれば、セメンが「年長者」としてモスクワ市における「税の半分」

(37)

(no/卜TaMra)を取得し、あとの半分を2人の弟が取ることを協定している。大侯セメンが子な くして病放したため、弟イワン2世が大侯位を継いだが、その退言状(1358年ごろ)はモスクワ 市の共同管理について注目すべき指示を与えている.すなわち、自分の2人の子にモスクワ市に 対する自分の権利を譲与しているのみならず、当時すでに世を去っていたセルプホーフ侯家始祖

(10)

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項(石戸谷)

87

アンドレイの子、つまりかれにとっては甥に当るウラジーミルが父(アンドレイ)から受けつい た権利を確認しているのである。イワン2世の遺言状は、この権利を「モスクワにおける代官職

(381

のトレーチ、市に帰する諸税のトレーチ」といいあらわしているO 「トレーチ」 (TpeTb)とは

「3分の1」の意味であるが、この場合その数量にこだわる必要はあるまい。セルプホ‑フ侯ウ ラジ‑ミルがモスクワ市について裁判および税収入の権利を再確認されたことが知られるのであ る。そして、イワン2世の子、大侯ドミ‑トリ‑とこのセルプホ‑フ侯ウラジーミルとの間の13 89年の条約は、一方において既述のように代官を派遣しあって「ホロープをオチスティーチする」

ことを協定するとともに、またモスクワ市の共同管理について相互に確認しあっているのである (セルプホーフ侯始祖アンドレイが単独でモスクワ大侯と結んだ条約は伝えられていない)Oすな わち、大侯ドミートT)‑は「余の父なる大侯イワンが余に恵与せるモスクワ市および周辺地域 (cTan)における2つのジェレベイ(サcepe6efl)およびすべての税の2つのジェレベイ」を尊重 することをウラジーミルに約せしめ、また自らは「汝の父、侯アンドレイが汝に恵与せるモスク

ワ市および周辺地域におけるトレーチ、およびすべての税のトレーチ」を侵害しないことをウラ

C39

ジ‑ミルに約束しているのである。モスクワ大侯がセルプホ‑フ侯のモスクワ市に対する権利を 認めることは、すでに伝統的なものになり、大侯ドミ‑トリーの遺言状(1389年)、大侯ワシ‑

リ‑1世とセルプホ‑フ侯ウラジーミルとの条約(1390年)、大俣ワシ‑・J‑1世の遺言状(142 3年)、大侯ワシ‑'J‑2世とセルプホ‑フ侯ワシ‑リー‑ヤロスラ‑ヴィッチ(ウラジーミルの 疏)との4つの条約(1433年、 1447年、 1450年、 1451‑1456年)に、表現上の若干の相違はある

(40)

が、共通して確認されるのである。

以上の事実を念頭において、同じモスクワ大侯とセルプホ‑フ侯とが代官をモスクワ市に派遣 しあって「ホロープをオチスティーチする」という協定を考えてみると、現実には代官はすでに モスクワ市に常駐しているのであって、侯がかれらをして共同して逃亡ホロープの調査に当らせ

(41)

ることを「派遣する」 (nocjian王)といっているに過ぎないことが明らかであろう。代官の相互 派遣とホロ‑プの「オチスティーチ」とを含む条約がつねにモスクワ市の共同管理についての確 認条項を必ずもっていることを見落してはなるまい。

ところで、セルプホ‑フ侯家は、 1457年にモスクワ大侯を中心としての中央集権化を企てたワ シ‑リー2世によって廃絶せしめられた。セルプホ‑フ侯ワシ‑リ‑は幽閉されその所領は没収

C421

されたのである。それまでセルプホ‑フ侯家がモスクワ市に対してもっていた権利はどうなった かO ワシ‑リ‑2世の遺言状(1461年)は、これを「侯ウラジーミル(セルプホ‑フ侯ワシ‑リ

‑の祖父‑引用者)のモスクワにおけるトレ‑チ」と呼んで、自分の次子ユリ‑と第3子アンド

(43;

レイとに「半分ずつ」 (no nojiOBHHaM)を与えている。すなわち、イワン3世の弟2人はかって のセルプホ‑フ侯家のモスクワ市に対する権利を継承することになったのであるO このような情 況においてこの2人の弟が兄イワン3世とどのような条約を結んだかが注目されるが、ユリーと

3位との条約は今日に伝えられていない。これに対してウグリーチ侯アンドレイとその兄イワン

(44)

3位との条紬ま1472年、 1473年、 1481年および1482年の計4つがそのテクストをのこしている0 そしてこれら4つのうち最初の1472年の条約のみが、かの「代官をモスクワ市に派遣し、 ‑ホロ ープと村民をオチスティーチする」という条項を含み、他の3つの条約は逃亡ホロ‑プなどにつ いて「永久に裁判を」という一般的な協定におわっているのである。チホミロフやチェレ‑プニ ンがこの1472年条約に注目しなかったのは、問題の条項の意味を解明するためにも大きな手落ち

(11)

88

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

であったといわざるを得ない。

モスクワ大侯イワン3世とその弟ウグリーチ侯アンドレイとの4つの条約のうち、 1472年条約 と他の3つの条約とは、モスクワ市の管理について明白なちがいをもっている。まず、 1472年条 約についてみれば、これはドミ‑トロフ侯ユ'J‑ (イワン3世の弟、アンドレイの兄、 1472年9 月12日放)在性中に結ばれたものであって、相互に「モスクワにおけるトレ‑チ」を尊重しあう

ことを約しているのみならず、アンドレイは兄イワン3世に父ワシ‑リー2世から与えられたそ

(45)

のトレーチを「余は余の兄なる侯ユリ‑とともに保持する」ことを認めさせている。ところが、

ユリ一致後の1473年の条約になると、イワン3世は弟アンドレイに故ユリ‑の所領(ドミートロ フ、モジャイスク、セルプホーフなど)が大侯の所有に帰したことを認めさせるとともに、以前 にアンドレイがユリ‑と共有していた「モスクワにおけるトレ‑チ」をアンドレイがイワン3世

(46)

と共有すべきことを認めさせているのである。つまり、モスクワ大侯にとって不可侵であったモ スクワ市の共同管理についてのセルプホーフ侯家の権利は、イワン3世の時代にいまや大侯が半 ばの権利をもち得ることになったのである。 1473年の条約におけるこの条項は、イワン3世がそ の弟や宿敵トヴェリ大侯に対するモスク,ワ大侯権力強化のたたかいの成功を示している1481年お よび1486年の条約にもくりかえされている。

モスクワ市に対するかってのセルプホ‑フ侯家の権利をウグリーチ侯アンドレイは1473年以後 に完全に失ったのではない。その意味では、大侯とワグリーチ侯とが相互に代官を派遣して「ホ ロープをオチスティーチする」という協定が1473年以後の条約から姿を消していることを,簡単 にモスクワ市の共同管理と結びつけることを許さない。また、モスクワ市に権利をもつすべての 分領侯がモスクワ市への逃亡者についての処置で、大侯と対等の権利を保証されていたのではな い。その実態を明らかにし得ないが、イワン3世の時代以前でもまたイワン3世の時代でも、モ スクワ市について若干の権利をもちながら、そこへの逃亡者については、自領から他領への逃亡 者として大侯に送還ないし裁判を要求しているにすぎない分領侯が少なからず確認されるのであ

る。例えば次のような分領侯がそれである。

(1)ガリーツ侯ユリ‑‑ドミトリエヴィッチ

モスクワ大侯ドミートリーは、その諸子、ワシ‑リー(1世、大侯)、ユリ‑、アンドレイ、

ピョ‑トルに「おのれのウォチナなるモスクワを委託す」と遺言し、さらにそのうち「2つの

(47)

ジュレベイは〔長子〕ワシーD‑に」 「トレーチは息子らに」と指示している。つまり、次子 ユワリーはモスク市の共同管理から排除されているのでないO (ドミートリーがセルプホ‑フ 侯のモスクワ市に対する権利を再確認していることについては既に述べた。)ところがこのユリ

‑がワシ‑リ‑2世と結んだ1428年の条約では(ユリ‑とワシ‑>)‑1世との条約はのこっ ていない)、相互に大侯ドミ‑トT)‑の遺言状にもとずいて「モスクワで生活する」 (>KHTb B

(48)

MoaCBe)することを約しながら、モスクワ市への逃亡者についての特別な協定をもたず、たん

(49)

に相互に逃亡者を「取諏べの後ひき渡す」と協定しているにとどまるO同じ大侯ワシ‑))‑2 世がセルプホ‑フ侯ワシ‑リーと結んだ条約とこの点で異なっているO

(2)ガリ‑ツ侯ワシーリ‑‑ユリエヴィッチ(前記エリーの子)

かれの父ユリーは、その遺言状(1433年)において大旗ドミー下り‑から与えられた「モス

C5o)

クワにおけるジェレベイ」をかれに譲っている。このガリーツ侯ユリーは従兄に当る大侯ワシ ーリ‑2世との条約(1439年ごろ)において「モスクワでわれらの祖父なる大侯ドミ‑トリーの

(12)

14‑15世紀モスクワ市への逃亡7L聖二プについての協定条項(石戸谷)

89

遺言状によって生活する」と相互に約しなから、ホロープについては「裁判と取調べを」 (cya H

C51)

HcnpaBa)と協定しているにすぎないO

(3)ウォロック侯ボリス‑ワシーリエヴィッチ

このボリスは、ワシ‑リー2世の子でイワン3世の弟のひとりである。さきには省略したが、

ワシ‑リ‑2世の遺言状(1461年)は、ボリスに対して「モスクワにおけるモジャイスク侯イ

(52;

ワンの年」を与えている。つまり、モスクワ市に対する若干の権利をかれもまたもったのであ り、このことは、ボリスと兄イワン3世との1473年の条約でも確認されている。しかし、この 条約で大侯イワン3健はボリスに対し「その年の税のジェレベイ」を認めているのみで、モス

クワ市に逃亡してきたホロープを相互に代官を派遣しあって処置するというような条項はこの

(53)

条約には認められない。 「ホロ‑プについて裁判を」と協定しているにすぎない。

以上3人の分領侯のほか、条約が現在に伝えられていて確認できる範囲内でも、ドミートリ‑

‑シェミャ‑カ(大侯ワシーリー2性の従弟)、モジャイスク俣イワン‑アンドレ‑ヴィッチ (同)、ベロゼ‑ル侯ミパイル‑アンドレ〜ヴィッチ(同)などは、何れもモスクワ市について 若干の権利をもちながら、そこ‑の逃亡ホロ‑プに関しては、他侯国への逃亡者として大侯が処

(54)

理する形式での協定で一括されているにすぎない。

モスクワ大侯とその一族分領諸侯とがモスクワ市を共同管理の下におくという形態は、大侯イ ワン1位の遺言状(1339年ごろ)に起源をもち(既述)、このようにしてイワン3世の時代まで なお続いている。それは、イワン3世の遺言状(1504年)にもなお残淳として認められる。すな わち、 3倍の遺言状は、長子ワシーy‑ (3世、大侯)を含む5人の子らに「1年交替でモスク ワに自己の代官を保持すべし」と指示している。イワン3仕の諸子は、かくしてモスクワ市に対 する若干の権利をもったのであるが、長子ワシーリーに与えられた権利はこれまでになく強大な

(55)

ものであって、次のように指示されている。

「息子ワシ‑リ‑にモスクワを税とともに恵与する。 〔ワシ‑リ‑は〕旧習により、余の在世中 のごとく、自分の大代官(Sojibuioi互HaMeCTi王HK)をモスクワに保持すべし。自分の別の代官 を、余の兄弟エリーとアンドレイに与えられたる侯ウラジーミル‑アンドレ〜ヴィッチ(セル プホーフ侯、引用者)のトレーチに、保持すべLo」

いまや、かってのセルプポーフ侯家のモスクワ市に対する権利、そしてこれを継承したユリ‑

・アンドレイ兄弟の権利は完全にモスクワ大侯の手に掌握されたのである。'大侯ワシ‑リ‑3世 がその弟ドミートロフ侯エリーと結んだ1531年の条約によれば、大侯は弟に対し父イワン3世が 認めたものを再確認しているが、モスクワ市‑の逃亡者についての特別な協定はここに含まれて おらず、 「ホロ‑プについて裁判を.逃亡者を取調べの後ひき渡す」という一般的な送還と裁判

(56;

についての条項が兄いだされるにすぎないO モスクワ市の共同管理についてのセルプホ‑フ侯家 の権利が伝統的なものとして歴代のモスクワ大侯に意識されていたことは、これまでの論述から、

そしてとくに上のイワン31丑の遺言状から明らかであるが、イワン4世の遺言状(1572年)でさ えも、長子イワンにモスクワ市を譲与する指示を下すに当って、イワン3糖におけると全く同様 にセルプホ‑フ侯「ウラジ‑ミル‑アンドレ‑ヴィッチのモスクワにおけるトレーチに自分の代

(57)

官を保持すべし」と示してことに注目すべきである。

以上によって、次のことをいい得るであろう。チホミロフの指摘したように、モスクワ市への 逃亡ホロープを「オチスティ‑チ」するという協定は、モスクワ大侯と特定の分領侯家なるセル

(13)

90

14‑151ft紀モスクワ市への逃亡ホロープについての協定条項(石戸谷)

ホープ侯家との間の条約に認められ、それはモスクワ市の共同管理と結びつきをもっている。し かし、セルプホーフ侯家廃絶のあとでも、この侯家のモスクワ市に対する権利を受けついだイワ ン3世の弟エリーとの条約にもこの種の特別な協定条項が含まれているのであるo また、モスク ワ市に対して権利をもっていたすべての分領侯が代々のセルプホ‑フ侯と同様に、モスクワ市へ の逃亡者について大侯と共同して処理するいわば大侯と平等の権利をもっていたのではない。つ まり、モスクワ市の共同管理権といってもその程度と内容はさまざまであって、 「代官を派遣し、

〔大侯の代官とともに〕ホロ‑プと村民をオチスティ‑チする」権利をもっていたのは、セルプホ ーフ侯家と1473年以前のウグリーツ侯ユリ‑とに限られていたのであるO そしてこれらの事実は、

この協定の重点がどこにおかれていたかについてもチホミロフの主張を拒否せしめる。すなわち、

チホミロフは、モスクワ大侯とセルプホ‑フ侯とがモスクワ市を共同に管理していたが故に、両 者がそこ‑の逃亡ホロ‑プを旧主から「解放する」処置をとることを相互に協定したと考えたが、

共同管理は、モスクワ市の人口増加、その市民の成長のために逃亡ホロープを「オチスティーチ」

する結果をもたらしたのではなく、またその「オチスティーチ」は旧主から「解放する」ことを 意味するのでなくて「調査する」ことを意味したにすぎず、協定の重点は、両者がそれぞれ「代 官を派遣」して共同で逃亡ホロ‑プを「オチスティ‑チ」することにおかれていたのである。こ れこそがモスクワ市が共同管理におかれていたことの直接的結果である。そして、ひとしくモス クワ市に権利をもっていたといっても、一般の分領諸侯のそれは、セルプホ‑フ侯のそれに比べ ればはるかに小さなものであり、とくに裁判権について大侯と共同でモスクワ市の裁判に当るこ とはなかったのである。逃亡ホロープを「調査する」ことが、ホロープについての裁判に発展す ることあるは、既に見たところである。モスクワ市については、そこでの裁判が大侯とセルプホ

‑フ侯との共同裁判の形で行なわれていたとすれば、逃亡ホロ‑プについての調査もまた両者の 代官によって共同になされたのは当然であろうO モスクワ大侯が他の大侯や一般の一族分領侯と の間に「取調べの後ひき渡す」とか「(永久に)裁判を」などという条約を結んでいるにすぎない のは、いまモスクワ市への逃亡ホロープだけについていえば、これらの大侯(トヴユリの、ある いはリャザンの)や分領侯は逃亡ホロープについて裁判が必要になったときでも自分の代官をこ れに参加させ得ないことを熟知していたからであろう。 (セルプホ‑フ侯がモスクワ大侯以外の 侯と結んだ条約は1つものこされていないので、例えば一般の分領侯のもとからモスクワ市に逃 亡してきたホロ‑プについての裁判も、大侯とセルプホ‑フ侯との共同裁判の形で行なわれたか どうかを確認できない。)

このように考えてくると、モスクワ市の共同管理の内容のなかで、セルプホ‑フ侯が大侯に対 して一般の分缶侯に比して優越的にもっていたのは、裁判についての権利ではないかと予想され るのである。法史学の分野ではソビエト学界はわれわれに必ずしも多くのことを解明してくれな いが、次にこの問題について考察を試みよう。

4 モスクワ市の裁判権

相互に代官を派遣して逃亡ホロ‑プを「オチスティ‑チする」という協定をふくむモスクワ大 侯とセルプホーフ侯との条約の最初のもの、すなわち1389年の条約にはモスクワ市の裁判につい

(58)

ての次のような内容の協定が含まれている。

「しかるに、汝は(大侯がセルプホ‑フ侯を措きしていっている、引用者)モスクワの裁判を、余の

(14)

14‑15世紀モスクワ市への逃l=ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

91

代官なしに行なわない。しかるに、余がモスクワの裁判を行ない、余はそれを汝と共にする。

‑しかるに、われらの父のとき(大侯の父イワン2世とウラジーミルの父アンドレイとをさす、引指 用者)モスクワ市に付属せる裁判については、それらの裁判は、今後も市に付属するものとす。」

この条文では大侯がモスクワ市の裁判についてイニシアティブをとっているようにも見えるが、

次の条約、すなわち大侯ワシーリー1世とセルプホ‑フ侯ウラジーミルとの1390年条約では、こ の誤解が一掃されるように

「しかるに、市および市に付属するスタンの裁判を、われは汝の代官なしに裁判しない。汝も

(59)

われの代官なしに裁判しない。」

と明記していて、モスクワ市の裁判に対し両者がいわば対等の権利をもつことを認めあってい る。大侯ワシーリ‑2性とセルプホ‑フ侯ワシー'J‑‑ヤロスラヴィッチとの4つの条約(1433 年、 1447年、 1450年、 1451年‑1456年)は、 1390年条約とは表現をやや変えているが、何れも

(6o)

「都市に属する裁判は、以前のどとく、われらの代官が裁判する」ことを相互に認めあっている のである。

ところで、セルプホ‑フ侯家のモスクワ市に対する権利を継承したウグリーチ侯アンドレイの 場合はどうであったか。大侯イワン3世と結んだ4つの条約のうち、はじめの1472年の条約のみ が上掲の大侯とセルプホ‑フ侯との1389年条約におけるモスクワ市の共同裁判についての協定を もち、他の3つの条約はこれについての条項を全く欠いているのである。 1472年の条約は、ウグ リーチ侯が大侯に認めさせたテクストを伝えているが、侯は大侯に「余はモスクワの裁判を行な

(61)

い、余はそれを汝と共にする」ことを認めさせていて、さきの1389年の条約によって大侯がモス クワ市裁判のイニシアティヴをとったと考えるのが誤解なることは、この1472年条約によっても 確かめられる。より重要なことは、ウグ1)‑チ侯アンドレイとその兄大侯イワンとの4つの条約 のうち、最初の1472年条約のみが、相互に代官を派遣して逃亡ホロープを「オチスティーチする」

という協定およびこのモスクワ市共同裁判についての協定とをあわせ含んでいて、他の3つはこ の2つの協定を何れも欠いているということである。つまり、スクワク市への逃亡ホロープにつ

いて両者が共同して処置するという協定はモスクワ市における共同裁判と密接に結びついている ことが知られるのである。

14‑15世紀の史料は、 「共同裁判」 (cya CMecTHo員, cyjx BoniHft)について多くを語っている.

しかしひとしく共同裁判といっても、モスクワ市におけるそれは一般のそれと性格を異にしてい

・'^¥ ^

まず、当時のインムニテート許与状は、裁判権をも認めていて、例えばその地域内の住民につ いて、 「代官はかれらを裁判しない、修道院長またはかれの命ずる者がかれらを裁判する」と明 記しているが、 「修道院住民と余の住民との間の共同裁判が行なわれるとき、余の都市の代官が 裁判する。しかるに、修道院の執事はかれらとともに裁判する」と示して、特定の条件のもとで

(62)

のみ共同裁判が実施されるのである。勿論、インムニテート許与状は殺人罪などの重罪について はその裁判権を修道院長などに与えていない。

諸侯間の条約は、もっと明白に裁判権の独立を相互に認めてあっていて、それは「しかるに、

裁判と貢租は、土地と水による」 (A cyA h ^aHb no 3eMjie i川° Bo且e.)なる慣用句で示され、

相手領内の裁判権と徴税権を侵害しないことを約している。そしてその上でなお共同裁判を必要 とするのは、両者の住民の問に裁判が行なわれることがあるからで、この場合に両者から出され

(15)

92

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロープについて

た裁判官の意見が対立するときは第三者の調停によることとし、条約によってはその調停者をき めておくこともある。例えば、モスクワ大侯とワシ‑リ‑2世とス‑ズダリ侯イワン‑ワシ‑リ

(63)

エヴィッチとの1448年条約には、次のような条項が含まれている。

「余、大侯の全大侯領の住民と、汝の住民と〔の間に〕何か事件が起こるとき、われらの裁判官 が赴き、かれら両当事者に裁きを与えるO しかるに、裁判官が争うとき、かれらは、調停者な る全ロシアの大司教イオンのもとに赴く。」

モスクワ大侯ドミートリ‑とトヴエリ大侯ミパイルとの…1375年の条約は、 「すべての不法な事 件についてわれらの問に共同裁判を」と協定し、さらに「われらの共同裁判官が争うとき、かれ

C64)

らは調停者なる大侯オレーグ(リャザン大侯、引用者)のもとに赴く」と約している。また、モ スクワ大侯イワン3世とリャザン大侯イワンとの1483年の条約では、相互に3人の侯を出して調

(65:

停者とすることをきめている。

モスクワ大侯とその一旗分領侯との問では、共同裁判について何らの協定条項をもたないこと もあるが、普通には、 「すべての不法なる事件について遅滞なく裁判を」 「われらの裁判官に自由

(66)

な詣停者を」という簡略化された形での協定を結んでいるO

しかし、これらの場合、大侯問にせよ、大侯と分領侯との問にせよ、相互に相手領内の裁判権 の独立を認め合った上で、特定のケ‑スに限っての共同裁判について協定しているのであって、

この点でモスクワ大侯とセルプホ‑フ侯とが同一地域なるモスクワ市について共同裁判を行なう と約しているのとは性格を異にするのである。それは、モスクワ大侯とセルプホーフ侯とがモス クワ市を共同管理下においたからであり、しかもその共同管理たるや、共同裁判を伴うがごとき ものであって、モスクワ大侯と一般の分領侯との間にはこのような形での共同管理は存在してい なかったのである。

モスクワ市の裁判権がモスクワ大侯によって独占されず、 1473年にそれがようやく実現された こと、共同裁判を伴う共同管理がこの年まで行なわれたことは、一見奇異の感をいだかせるが、

同様のことは、リャザンについても認められるのである。リャザン大侯とその一族分領侯との条 約にして今日に伝わるものは、 1496年の条約1つのみであるが、ここには都ペレヤスラヴリが、

大侯と分領侯との共同管理下におかれていたその名残りが見られる。大侯の代理者としては「大 代宮」、弟なる分領侯の代理者としては「トレーチク」 (TpeTHK)があげられているが、この大

(67)

代官の権力が強化されているo これは、リャザン侯国内部、とくにその都ペレヤスラグリにおけ る大侯権力が強化された段階を示すものであって、 「トレーチク」なる語からして、ペレヤスラ ヴ市にもモスクワ市のような共同管理がかって行なわれていたとするジーミンの推定は支持さる

(68)

べきであろう。

む  す  ぴ

14‑15世紀ロシアの諸侯問条約の若干のものは、 「代官を派遣して」かれらにモスクワ市に逃 亡してきている「ホロープと村民をオチスティ‑チ」させるという協定条項をもっている。 「オ チスティーチ」を定説に従って「調査する」と解してこの協定の趣旨を、逃亡ホロ‑プなどを旧 主に送還すると理解したスイロエチコ‑フスキーの所説が、当時のロシア都市の「空気」が西欧 都市とちがって人を自由にしないことに言及したことから、チホミロフの反論を呼びおこした。

スイロエチコーフスキーや、かれを支持したサ‑ロフが14‑15世紀ロシアの条約一般の総合的な 考察の上に立って問題の協定条項を解釈しなかったために,かれらの結論が正しかったにかかわ

(16)

14‑15世紀モスクワ市への逃亡ホロ‑プについての協定条項(石戸谷)

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らず、説得力をもたず、チホミロフに反論の余地を与えた。チホミロフが、 「オチスティーチ」を 端的にいえば、調査(旧主に送還のための)ではなくて解放(都市に残留させるための)の意で

ある、としたのは、 「都市の空気の自由」について当時のロシア都市を無理に西欧中健都市と同 列におこうとしたもので、歴史的事実に反する。チェレープニンは独自の見解を出してこの問題 を処理しようとしたが、論理不明確で失敗におわっている。

逃亡ホロ‑プを、逃亡者と認めつつ都市に(あるいは逃亡先きに)残留するを許したような立 法も協定もロシアの史料には認められない14‑15世紀ロシアの諸侯問条約は、ほとんどつねに 逃亡ホロープを相互に送還することを協定している。その際、この送還は無雑作.無条件に行な

われたのではない。それは逃亡者が旧主から自由になっていることを主張したり、あるい旧主に かって隷属したることなしなどと主張する場合があることを考慮しているからで、条約はそれ故 に「取調べの後ひき渡す」と協定したり、 「ホロープについて裁判を」と協定したりするのが普 通であった。

問題の協定条項は、たしかに一般の条項における逃亡ホロープについての協定と異なって、 「オ チスティーチ」なる語を用いているO しかし、この術語に眼をうばわれて、もっと重要な要素を 見落すべきではない。それは、条約締結者なる侯らが相互に自分の「代官を派遣」しあって逃亡

ホロープの調査に当らせていることであって、他侯国または他侯領に逃亡した自国または自領の ホロープの送還を要求するのと異なる姿勢がここに兄いだされるのである。逃亡ポロ‑プの送還 協定が、何故このような形で結ばれたか。それは、この種の協定を含む条約が特別なグループの 諸侯問に限られていたことと関係がある。逃亡ホロープといっても、それはモスクワ市に逃亡し てきているホロ‑プに関してのことであり、このモスクワ市に共同管理権をもつ諸侯の問にのみ この特異な形の送還協定がかわされたのである。ただし、共同管理権というだけでは、範囲が広 くなりすぎるのであって、モスクワ大侯とその一族分諸侯は、世代とともにモスクワ市に何らか の形で権利をもつ者の数を増加させていったからである。しかも、事実は、モスクワ市に逃亡し てきているホロープの処理について自分の代官を「派遣」してこれに当らせ得たのは、モスクワ 大侯とセルプホ‑フ侯家、および後者の権利を受けついだガリーチ侯エリー(それも1473年以前 のみ)に限られていたことを示す。この点をさらに追究していくと、セルプホ‑フ侯家とガリ‑

チ侯ユリーが、一般の分領諸侯と異なって、モスクワ市における裁判権を大侯と共にしていたこ とが明るみに出されたのであるO しかも、ガリ‑チ俣ユリーは、イワン3世の中央集権化政策の 前に1473年以後はこのモスクワにおける裁判権を失ない、逃亡ホロープ送還についての特異な協 定条項は、この年以後一切の諸侯間条約から姿を消してしまうのである。

「モスクワ市に代官を派遣し、かれらがホロープと村民をオチスティーチする」という協定に っいての、われわれの見解は以上のどときものである。われわれの見るところ、当時のロシア都 市に「空気の自由」を考えることはできない。逃亡者は、ただ非合法に自由人を詐称したにすぎ ない。なお、本稿で論じた諸問題のうち、裁判権については問題をのこさざるを得なかった。と

C69)

くにモスクワ大侯ワシ‑リー2脚寺代のいわゆる「殺人罪条令」は、モスクワ市の裁判権、大侯 と分領侯とのこの点についての関係などについて多くの暗示を与えるが、ソビエト学界でも解明 しつくされていない点が多く、他日を期したいと思う。

(1)ル‑スカヤ‑プラーゲダ簡素編纂第11条、第16条、同拡大編纂第32条、第38条、第112条、第113条、第

参照

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