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建国大学における武道・課外活動

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Academic year: 2022

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(1)原. 著. 建国大学における武道・課外活動 志々田 Extracl1rri6血ar. −Budo. Education. Budo. at. 文. Activities. KENKOKU. Kenkoku. members. and. about. what. the. TABLE. common should. Budo. studγwas. OF. KENKOKU. of. five. club. to. Budo. to. clubs. University. Manchuria(PART. II). clarify. there. were. was. of. the. nature. of. su岬eyed:the. the. dra㎜from比ese. at. foundation. of. results. competi−. clubs),the. c1ubs−In. Budo6ducation. of. each. addition,suggestions. offerd.. reviewing. UNIVERSITY. in. tradition(atmosphere. are. by. KENKOKU. Shishida非. undertaken. impression be. done. listening. and. students,and. reference. KANKIREI. especia1ly. books,especially. HARUKA(a. by. gathering. THE. miscellany. i1■formation. CHRONOLOGICAL. from. from. various. their1etters. to. the. author.. BriefIy,凸e. 1.JUDO. details. research. leaders,the. the1ike−A. students一.〕by. present. and. second. modern. This. resu1ts. CLUB−This. c1assmates grade. is. university−The. club,its. tions. study. at. University. Fumiaki. This. 明*. to. are. started. practise. students. gathered. as. follows1. when. Y.Nakagaki,one. judo,about in. the. the. of. the. opening. first. of. the. dojo.Then,gradual1y,it. time. of. the. univer壷y,in. became. a. strong. students,appealed. to. May1938.Soon,many and. famous. judo. dan. club. in. Manchuria. 2.KENDO dan. CLUB.It. grade. practise. kendo. 3.AIKIBUDO To甲iki,a whose. staff. showed. an. CLUB.Aikibudo. leader. was. educational. of. Suisei. aikido. system. of. CLUB.It. university,said. Kagawa,who. was. a. practlsed. shootmg. 5・SUMO. CLUB・It. professiona1sumo. exce11pnt. one. Ri,liked. world called. aikibudo. he. to. started. time. attitude. of. the. aikibudo. while. be. old. the. as. the. was. triedto. teaching. tec㎞iques. with. Russian. who. was. promoted. about. straw. the. wrestler,Tenryu)was. a. aikido.This as. the. about. the」first. that of. end. to. of. Jme. pa廿一time. a. a. in. leadership was. was. 一105一. of. many. keen. to. experience. started. by. was. the. second those. and. Tomiki. trying. there.The. K.. a to. was. an. competi− make. an. kata. training. system.. year. stndent. of. the. leader. was. M.. days.The. kyudo. were▽ery. in1939戸ecause. by. c1ubs.Taiwanese,. teacher.Students energetlc. about. S・Wakuta(previous1y student. leaders. #D物ガ㈱〃げ助0病S652肌2∫. ‡スポーツ科学科. very. aikido,andcreated. full−time. week,but. teacher. club. time,he. aikido. classmates. twlce. the. abovementioned. about1939.T.Tubaki,a. kyudo. under. teacher,who. modemize. KYOGI.However,at. formed. bound. of. time. it. club. kendo. students−. names. same. because. thejudo. full−time. to. II,Tomiki. AIKIDO. member mto. same. a1most. war. practised. staff. arrows. the. members.J.Asako,a. is. seemed. that. almost. teacher,at. person.After. system. 4.KYUDO. and. at. and. fu11−time. impressive tion. started. teachers. were. lt. a S..

(2) 建国大学における武道・課外活動 Ho;hino,Koukou club. in. were. thinking. An(Korean〕and. ccmpetitions. 6.THE. that. and. played. they. TRADITION. ope㎞earted,so. were. IN. students. students.Students. Keisho a. conspicuous. members. COMMON generally. were. I(Chinese).Members. usually. of. the. AMONG felt. very. part Sumo. in. to. tired. Judo. c1ub. thとm.Therefore. often. some. of. assisted. the. this. judo. members. dub−. THESE. free. of比e. FIVE. join. CLUBS.Each. other. because出eir. clubs,in. four. clubs. was. comparison. training. with. subjects. basica1ly the. present. and1ives. in. the. educationaldomitorywereveryhard.1naddition,theywerealwayswo耐iedaboutthecontradici− tion. between. tbe. MinzokuKyowa out. of. ricular w与y. the. spirit. ,andthe. liberalism. was. 7.SUGGESTIONS them. sports. onto. the. people. Asian,it. Budo,This. couId. when. we. try. to. be. an. in. ABOUT. which. especia1ly. to. such. born. ofhard. those. those. have. a. like. misconstrued Budo. in. life was. clubs,and. in. different. sense. them. as. act. an. foreign. to. of. not. as the. BUDO. educational. university1Harmony. Manchuria. cou1d. became. MORDERN. forcing. the. taken. whichthey. concentrate. a皿atter common. SHOULD. of. values,or. undertake. cultural. the. Peop工e,ca]led. oftenfoundwhentheywent. their. course. efforts. by. on. extracur−. teachers.That. was. tradition.. BE.Budo. fmctions・However,if of. Among. those. form. we in. of. try. are too. wonderful hard. develop三ng. Japanese. invasion,Therefore,we. to. push. countries,. culture. must. called. take. care. countries一. の学生の自発的意志に基づくものであること,第. はじめに 1). of. reasons,they. atmosphere. excelIent. may1ook. deveIop. estab]jshment. WHAT. have who. the. reality. university.Owing. activities,and. Japanese. within. 二に,課外の指導者も多くは授業の指導者がその. 目的. まま当たっており,ここでの活動を通して,建大. 筆者は既に「『満州国』建国大学における武道教. の武道教育の実態をよりよく把握出来ると考えた. 育1〕」を著した.そこでは建国犬学教育の特色を時. からである.. 代相の中でとちえて,建大の武道教育について, その設置の考え方と武遣教育の特色を,塾教育,. 建犬では正課の3武遣に加えて弓道,角カ,銃 剣術などがあったが,本稿では角力まであ五つの. 訓練教育,教貝,武道顧問,人事,道場,大学の. 武道部を扱った.各部とも時間的には開学から5. 研究班,武道講義科目などにっいて明らかにして. 年くらいの間,つまり一誰1〕期生から五期生くらい. きた.本論では,さらに進んで武道教育の実態を. の旧学生を中心に取材した.その訳は,1943(昭. 解明するために,教育された側即ち旧学生に取材. 和18)年9月から学生の徴兵延期が廃止され,12. して,課外活動の概況を記述することにした.. 月には特に,全学生数の約半数を占める日系註2〕(当. 2)研究の対象. 時の朝鮮,台湾出身者を含む)の学生で,20歳を. 課外活動にみられる武道教育はどうであったか.. 超えた者がいわゆる学徒出陣のために入隊してい. 建大では武道教育は正課必確として重視されてい た.従ってまずこの実態を明らかにすることが筋. くため,大学は閑散としたものとなる.そのため,. 大学や課外活動が比較的安定して行われていた時. であろうが,重視されていたにもかかわらず,正. 期を中心に見ることにしたのである.. 課としての武道(柔道,剣道,合気武遣)は,週. なお,本研究の調査取材の過程で,何人かの方. に一回程度,午後の時間を使って行われたに過ぎ. から「部」あるいは「同好会」という呼称は使わ. ず,特に多くの時間が配当されていた訳ではない.. なかったという教示も受けたが,他方に「都」と. また授業の内容にっいても,日本本土のそれと基. 本的に異なっていた訳ではなかった.従って研究. いう意識の方もいたこと,またこれに替わる適切 な言葉が見あたらないため,本論では便宜上「部」. 対象を課外活動に絞ってみた.それは,課外活動. の言葉を使用した.. 一106一.

(3) 早稲田大学人間科学研究. 第5巻第1号1992年 4)建犬生の在学時期について. 3)史料,方法及び個別課題 建大関係の史料で武道教育に触れたものは乏し. 建犬は1938年開学後,わずかに8年でその幕を. い.そこで本研究では,史料の宝庫である『建国. 閉じている.建大の存在を巡る是非はともかく,. 大学年表2〕』及び建大関係史料を縦糸にし,建大関. 多民族の青年を一堂に集めて行った教育の試みは,. 係者への電話取材,面接取材および手紙による取. 今日,それを行うことの不可能な一つの壮大な実. 材を縦糸に配して表1のように行った註3〕.ところ. 験でもあった.それを知ろうとする場合,毎年入. が,91年夏に旧建大生による文集『歓喜嶺. 学してくる学生の在学期間を押さえておく必要が. 遥か昌〕』. (上下二巻.以下『遥か』と略す)を建大同窓会. ある.同じ学生でも一期生は5年余の教育を受け. より寄贈されたため,これによって補足を行った.. たが,八期生は一年にも充たない在学期問であり,. これら全てによって得られた内容を総合して,武. その特殊な事情を予め理解しておく必要があるか. 道各部の活動状況について,①創部の経緯,②部. らである.表2はそれを明らかにするために作成. 員と指導者,③部風(雰囲気,性格),④活動(試. した.. 合等)などを中心に個別に記述した.次いで,建 大各部に共通する性格を抽出した.最後に,現代. (1)柔道部の概況. ①創部の頃.これについては,一気の中垣芳治. 武道への参考点を考えた.. なお,関係者からの提供を受けた書簡や,発言. 氏の書簡4)に詳しいので紹介する1「一期生入学の. の引用に当たっては,主旨を損なわぬように慎重. 頃は,専門の柔道場がなく,教室を剣道場として. を期したが,不備な点の文責は一切筆者に帰す.. 使い,柔道をする時は,一々畳を敷き,終わると. 表1. 取材協力者名簿. カッコ内は,姓の後の場合は旧姓,氏名の後のカッコは主に取材した武道名,取材の手段を記している.外 国人建大生は日本人の後に一括し,他にその所在地をいれた.日本人はあいうえお順とした.敬称は略した.. 教. 官. 関. 係. 中島(伊東)三郎(柔道,電話) 大野哲次(柔道,電話) 加川多恵(満喜夫人,弓道,電 富木房江(謙治夫人、対面) 万田八重子(勝夫人,柔道、電話). 話). 尾崎照夫(柔道,手紙) 小倉久弥(柔遺,電話) 斎藤精一(総合,対面,書簡) 田中昇 (合気,手紙) 高山信義(角力,電話) 百々和(合気,手紙,対面) 中垣芳治(合気, 一. 期. 生. 手紙). 中川敬一郎(合気,対面). 崎(村上)和夫(剣遣,電話). 西山龍雄(合気,手紙). 深尾芳秀(剣遺,手紙). 安光鋳(ソウル市在,角力,手紙). 松. 李水清(台北市在,合. 気,手紙). 井坂直史(剣道,電話) 伊東義郎(合気,電話) 岩井利夫(合気,電話)岩村春海(弓遺 電話) 尾野定司(氏三郎)(柔道,弓道,角力,手紙,電話) 近藤多一朗(柔道,電話, 二. 期. 生. 手紙). 察傑川(宋傑)(合気,手紙). 舟木亘(剣道,電話). 椿武(弓道,電話,手紙). 船勢太直(弓道,電話). 永島清(合気,電話). 藤森孝一(角力,電話). 水野潔(柔道,. 手紙). 三. 期. 生. 新制三期生 四. 期. 生. 五. 期. 生. 建大生以外. 奥村繁信(合気,手紙). 上村畔梧(柔道,電話). 平田久雄(柔道,手紙). 楓元夫(剣遺. 他,電話). 阿部康男(相撲,電話). 井上(居石)国男(角カ,電話). 塚田恒徳(柔道,電話). 江口弘(剣道,電話〕. 福谷(高橋)宏郎(柔道,手紙). 藤原敬司(柔道,手紙,電話). 北原邦夫(柔道,電話). 桑原亮人(柔遺,手紙). 電話). 小野田宗之(剣道,電話). 植弘親民(柔道,手紙). 甲斐卓(大同学院6期,合気,電話). 一ユ07一. 錯木博(柔道,.

(4) 建国大学における武道・課外活動. 畳を立てかけて,教室か剣道場の様になおして帰. 時問に『今から稽古をする』といって,呼びかけ. るという有様でした.高橋も尾崎も最初は余り熱. たものでした.何しろ専任の教官もまだ来いなか. 心でなく,私が一々全部の塾を廻って,夜の自習. ったので,藤田塾頭の助手の北原勝雄四段(七高,. 表2. 期生. 各期建犬生の入学及ぴ離学時期. 入学年次. 離. 学. 時. 期. そ. の. 他. 1938(昭和13・. 一期. 141名,5月2日入学式.1943年6月11日卒業式.7月9日卒業生は大同学院入学, 康徳5)年 10月卒業.徴兵検査は卒業後各人各様に入営.早いもので12月遅くは翌年の8月で あった.*前年には日中戦争始まる.. 39(昭和14・. 二期. 康徳6)年. 146名,4月11日入学式.44年6月19日卒業式.しかし43年12月1日の学徒出陣で 日系学生の大部分は入営するため,短縮卒業した(当時満19歳,数えで20歳で入営 義務あり).従って卒業式参加者はほとんど満系.. 三期. 40(昭和15・. 康徳7)年 41(日召禾[I16・. 新制. 康徳8)年. 149名,4月12日入学式.45年6月21日卒業式.これが最後の卒業式.この学年も 43年12月の学徒出陣で大半の学生が短縮卒業していた. 4月10日,日本の新学制による卒業者(五年生)より編成された91名(新制三期)と,. 第四期生となる満系77名に対し入学式挙行新制三期は日本人のみの期で,前期二 年(三期生)に編入された(四期からは日系は毎年,前期2年に編入).この期の井馬燈. 三期. 一氏によると,43年12月に約1/3が学徒出陣で入営.*この年12月太平洋戦争始まる.. 四期. 42(昭和17・. 康徳9)年 43(昭和18・. 康徳10)年. 4月10日,入学式(4月7日日系新人生90名入校.五期生の満系は一足早く2月に 入校.この学年も43年12月の学徒出陣で約1/3が入営.). 3月2日,入学式(2月28日に日系98名新京着,六期の満系学生は既に入校済みと思 われる).『建大年表』に8月8日「第六期日(第五期生一筆者)満系合塾」とある.. それまでは分離かP*43年9月22日,日系学生の徴集延期の廃止発表.10月25,26. 五期. 日臨時徴兵検査.入営学生に対し仮卒業証書及び仮修了証書授与.12月1日入営(所 謂「学徒出陣」の始まり). 44(昭和19・. 六期. 康徳11)年. 19年2月から徴兵年齢を1年短縮.3月2日日系新入生入校.3月6日入学式.日 系学生の大半が入営し,学内閑散.5月27,28日在学生徴兵検査.『建大年表』9 月18日の頃に,「日本,17歳以上を兵役編入」とある.. 45(昭和20・. 七期. 康徳12)年. 第七期生,第八期生,3月1日入学式.3月1日学制改革のためである.六期の瓜生 敏雄氏は記している.「二十年からは前期二年,後期三年と,前期の修学年限が一年. 短縮になっている.入学資格も中学五年を卒業して前期二年に入っていたのが中学 四年修了で前期一年入学となって,この面では他の民族学生と同様になった.この ため経過措置として二十年には,中学卒業の八期生と四年修了の九期生が同時に入・ 学してきた.この経過措置の恩典を七期生も受けることになった.建大の学生は, 45(昭和20・. 八期. 康徳12)年. 日本の学校と異なって一月から始まリ十二月で終わることになっている.従って七. 期生のわれわれは一月に三年生になったが,四月には前期三年という学年がなくな ったおかげで,くりあげて後期に進学することになった」(『建大年表』517頁.文 中の七・八・九期生は本表では六・七・八期生をさす.). 一108一.

(5) 早稲田大学人間科学研究 .第5巻第1号1992年. 註A1本表は『建国大学年表』に基づき,李水清氏(一期),錯木博氏(四期)をはじめ建大関係者のご教示を 参考に作成した、また,『近代日本総合年表』第三版(岩波書店)も参考にした.. 註B1特に,新制三期を巡る学生の入学の繁雑な動きについて,一期の李水清氏より書簡(89年9月20日付) で教示を受けたので紹介する.「教育課程は前期三年後期三年,一学年二学期制(今のアメリカの制度に 似ています),一月から夏休みまでが第一学期,夏休み後十二月冬休みまでが第二学期.第一,二,三期 生までは同じで,第四期生(昭和十六年一月入学)から学制改革,日,韓,台系学生は前期二年に入学, 満系(漢系)学生は前期一年に入学.その理由は満州建国後学制改革があった為です.元来は小学六年,. 初中三年,高中三年,大学入学前十二年の所,国民学校六年,国民高等学校四年と,大学入学前十年に 改革しました.日本側の学制は小学六年,中学五年で,建大入学前十一年でした.こんなわけで日系学 生は前期二年に入学し,そろえたわけです.建大第一期には満系学生は皆高中卒で年齢も割合に多かっ たが,第三期頃になりますと,高中卒と国高卒のが両方あります.第四期生からは皆国高卒になりまし た」.文中にみられる第四期生は新制三期生のことである.註1)参照.. 京大)が相手になって下さる位でした.私も初段. で入部,昭和15年から一年毎に一段昇段し,卒業. で,尾崎初段とよく乱取はしましたが,外に寝技. 時4段で,マネージャーをし」(筆者宛回答文7)). の強い小林軍治二段(信州,上田中学),広瀬信喜. たといわれる.次いで中垣芳治氏.近藤氏による. 初段(熊本中学),近藤秋太郎初段辞4〕,佐野光蔵. と,広瀬信喜,柿田一俊,金三守の三氏も前期の. 初段,金三守初段(伊丹中学)らがいました.越. 三年問はよくでていたという.作田良夫氏の「六. 智道世初段(私と神戸一中柔道部で同期でした). 塾亡友録8〕」によると,清田友一(改姓し高木.故. も」と.. 人)氏も神武殿での対外試合で活躍したという註5〕.. また,中垣氏は二年目の39年3月に体をこわし,. 当初活躍のメンバーにっいては中垣氏が上述した. 江頭恒次塾頭宅で二か月の静養を余儀なくされる. とおりである.また,始めの一年間は小倉久弥氏. まで,「毎日のように夜,けいこしました」という.. ②各期の部貝.二期の近藤多一朗氏は,筆者宛. も参加したという.なお,植弘氏談によると劉異 潭(現在は劉之謙)氏も活動していたという.. 回答文5〕の中で,柔道部が「自由主義的」であって. 二期は水野潔(主将格),近藤多一朗(府立市岡. と記している.仮にそのような部を考えると,部. 中),嵐田満寿夫,水島利喜男の各氏がいる.近藤. 貝を特定することには無理な面もある.途中で止. 氏によると満系(中国人)では高世俊氏が二段位. めたもの等の扱いが決められないからである.そ. になったといわれる.準常連組は尾野氏三郎(定. こで,ここでは概ね大学時代を通して課外で活躍. 司)氏,伊中卓郎,鮮系の呉寛用,金泳禄,洪鉄. した中垣氏(一期),二期の近藤氏,水野潔氏,三. 喜(椿植),蒙古系ではジャルガラ,トガルジャブ. 期の平田久雄氏,四期の桑原亮人氏,五期の植弘 親民氏の言礁を総合して記してみたい.. (いずれも有段者になったと思われる),ゴルロタ. イ,露系(ロシア人)ではペトロフの各氏がいた.. 一期生の所謂主将は高橋武雄氏(故人)という. 蒙系,露系の学生の強さについては,吉田泰三氏. のが大方の一致した見方といえる.高橋氏は山形. (五期)が,「一般的に,温容そのものの蒙系学生. 県出身の大柄な体躯の豪傑で,入学時に三段であ. が,柔道で抑え込みに入っても,直ぐ引っくり返. ったといわれる.水野氏によれば跳腰が得意であ. す馬力の物凄さにも恐れ入ったし,丸太棒のよう. った.またこの高橋氏も満州国の将来と理想に悩. な腕を突張って,技をかけさせなかった露系学生. める青年であり,五期の植弘氏をして,「高橋主将. の力の強さは,鋼鉄のように感じられた」(『遥か』. の『日本民族は満州国の指導民族と自惚れている. 下巻,201−202頁)と記している.. が,むしろ責任民族たるの自覚を持って欲しい』. 三期の主将格は上村畔梧氏といわれる.身長は. といわれた言葉は,今でも忘れることができない6〕」. 180cmを超え,体重90kg以上,入学時に三段であ. と記させている.次いで尾崎照夫氏.氏は「初段. った.四期の桑原氏談によれば,一期の高橋氏を. 一109一.

(6) 建国大学における武道・課外活動. 中心に尾崎,近藤,水野の各氏と組んだ団体チー. 中垣芳治氏の書籍4〕によると,万田が赴任して来. ムのメンバーには上村氏も入っており強豪であっ. るのは,1939年の1月頃であった.建大で実際上. た.また平田久雄氏も卒業まで統けて三段を取得. の指導の責任を負っていた万田と福島の関係につ. している.他に,松村邦雄,益崎信重,大谷富一,. いては,・尾崎氏が「万田先生は福島先生に私淑さ. 益村審蔵,相沢博の各氏(全て故人),白系露人で. れ」,福島は万田を「高弟として扱っていたように. 長身のモナステルネイ氏(露系,故人)も仲問で. 思います」と記しておリ7〕,師弟関係が良好であっ. あった.桑原氏によると中国人は記慮にないが,. たことがわかる.. 蒙古系ではダシニマ氏が強かったという.近藤氏. また万田の人柄について尾崎氏は,漢籍に造詣. によると他には,常連組で相沢博氏(故人),崔日. が深く,福島,万田共,謹直で温和ながら,国士 的な風格があったと記し,近藤氏ぽ「万田先生は. 滝氏,準常連組で「力の強い」エリデンビリカ氏 (蒙系)がいたという.. 熊襲の子孫,全身が北海道の毛ガニ.(中略)豪放. 新制三期は,平田久雄氏及びこの期の福谷(当. 明解,一点の曇る所のない書生ツポ風」(『遥か』. 時高橋)宏郎氏の談によると,主将格は藤原敬司. 上巻,363頁)と面白く記している.柔道部以外の. 氏(卒業時四段)で,福谷宏郎氏と高橋格司氏(故. 学生に与えたものも多く,『遥か』に次のような,. 人)が最後まで行ったという.福谷氏によると,. 思い出を寄せている.. この期は三人が中心で,他に阿部康男氏(角力部. 「規律を乱したため,生をうけて以来,親か. ら. にも顔を出す),閨機植氏(鮮系)が時々参加した. も叩かれたことのない天下の建大生が柔道六段の. という.. 塾頭助教授の鉄拳を喰った、・(中略)この経験が犬. 四期は,柔道部同期の鈴木博氏の談によると,. いに生かされ,その後学徒動員で入隊し,最強精. 「鋼のように強かった」という山田俊一氏が主将. 鋭を誇った鬼の関東軍の中で,いかなるシゴキに. 格で,桑原亮人,鶴身静雄,長谷部新一郎,高橋. もリンチにも耐えて微動だもしなかった」(上巻,. 淳夫,朴三鐘の各氏がいる.. 54頁.四期,井馬僅一氏).. 五期では植弘親民氏(主将格),清水徹氏が入学. 「とも角,正立方体が歩いて来られるといった. 当時三段の強豪であった.他に浅田甲子郎,石井. 感じで,胸板の厚さは犬変なものだった.(中略). 玄,田中浩一郎(当時二段),阿部正の各氏がいる.. 柔道部の連中はどうであったか知らないが,僕ら. ③指導者.顧問及び教官の氏名と略歴について. には犬きな声ひとつ立てられず,物やさしい先生. は既に別稿1〕で記したので,以下,本論文の各部の. であった」(下巻,24頁.二期,岩井利夫氏).. 指導者については,それと重複しないように各氏 を紹介したい(以下,指導者は敬称略).. ④部風.尾崎照夫氏(一期)は次のように記し ている7〕.「部員は自由に練習に参加し,出席を取. 近藤多一朗氏の回答文5〕によると,建大の柔道顧. るようなこともなく,出欠は自由で,続けて出席. 問・福島清三郎(故人)は,京都百万遍を来へ上. 参加しているものが,部貝ということになってい. リ,叡山電鉄に浴った所の義方会という道場を経. たようです.終わると,皆で雑巾がけをしたり,. 営していた.大日本武徳会武道専門学校柔道教授. 先生と一緒に風呂に入り,家族的雰囲気をもって. でもあった.建犬助教授で唯一の専任教官であっ. いました」.同様の指摘は,二期の近藤多一朗氏,. た万田勝(故人)始め,助教であった門野與巧(礼. 三期の上村伴梧氏,四期の錯木博氏からもあった.. 吾.赴任してすぐ新京工業大学に転任),八木正弘,. 鈴木氏の談によれば,「柔道部にはいわゆる主将の. 中島(伊東)三郎,大野哲次の各教官はみな武専. ような序列はなかったが,対外試合の時などには. 出身で,福島の教え子であった.一期の尾崎氏や. 大将などが決められた.部では全学を通じて一番. 近藤氏によると,いずれも教官らに連れられて福. 強い人が指導をした.部員でなくても参加者は拒. 島顧問の義方会道場に泊りこんで稽古をしたり,. まなかった」という.. 武専の寒稽古に参加した思い出を語っており,武 専と福島の影響が強かったと思われる.. 近藤氏の回答文5〕には次のようにある.「大方の. 傾向として有段者は中学で五年間柔道部員生活を. 一n0一.

(7) 早稲田大学人間科学研究. 第5巻第1号1992年. 送って来ているので,自然と柔道部に籍を置くの. られ,試合のあと,神武殿註7〕裏で厳しく注意を受. ですが,途中で他の部へ行ったり,勉学の念黙し. けたことが思い出される」(『歓喜嶺. 難く柔道部から足が遠のく者も珍らしい事ではあ. 350頁)と記し,同じく五期の田中浩一郎氏も,「五. りませんでした.物に讐えれば彗星の如き存在で. 月ごろの新京市内の神武殿での大会では,足がふ. しょうか.(中賂)柔道部という彗星の本体は確か. らついていて,私たち下級組は市内の中学組に負. 遥か』上巻,. にありました.そうかと言って,尾の方は部貝で. け,振武殿の地下室で水野さん(?)ほかの先輩. はないとは言えません.立派に彗星の一部です.. から気合いを入れられた.今ではこれも懐しい恩. 当人が部員であったという隈り立派な部員です.. い出である」(『遥か』下巻,129頁)と記している. 勿論,規約会員の類は無かったし,出席簿も無か. からである.. ったように言己1意しています.二期生卒業アルバム. を見ても,部員であったと思う学友が顔を見せて. 以上を総括すれば,建大柔道部は初期の「家族 的雰囲気」や,それを支えるものとしての自由主. いませんし,これが部員だったかなあと首を傾げ. 義的雰囲気を持ちながらも,伝統を受け継いだ五. たくなる学友が,柔道衣を着てすました顔をして. 期生くらいになると,いわゆる「運動部」のよう. 写っています.」. な勝利追及への結束力の強さを衿持として持つ面. さらに,上村氏は電話取材での話で,「建大には. もあったと判断される.. 柔道部といったものはなかった.従ってキャプテ. ⑤試合.『建国大学年表』をみると,1941年2月. ンといったものはいなかった.武道は必修であっ. 9日の項に「全満柔道団体試合.於神武殿.建大. たので,好きな者が集まって課外でやったのであ. 第二位.(藤森)」とあり,続いて4月13日の頃に. る」という主旨のことを述べられたが,これは,. 「神武殿にて柔道試合大会において建大組優勝」,. 所言胃拘束性の強い大学柔道部とは性質の異なる柔. さらに5月18日の項には「神武殿における武道試. 道部であったという主旨であると思われ.る.. 合にて本学柔道部優勝」とある.五期の植弘氏(42. ところが一方,四期の桑原氏は,「毎日稽古に来. 年3月入学)がいうところの「柔道部黄金時代」. ていた訳ではない」と緩やかな結合のニュアンス. であった.. を出しつつも,「自分としては柔道部員の意識はあ. 入学後早速柔道部に入り,「早朝,午後と休む暇. った」と述懐している.また,五期め植弘氏の書. もないほど,毎日毎日,練習に明け暮れ」したと. 簡釧には,「私共五期が入学した当時,柔道部は厳. いう植弘氏は,当時の柔道部の強豪ぷりを,「当初. 然として存在しており,少なくとも私は同期で中. は,初段の先輩にもいい加減にあしらわれ,『それ. 学時代三段の允許を受けた清水徹君と共に確かに. でも三段か』と冷やかされていたが,数か月後に. 入部申込みをした覚えが」あると記している.さ. は概ね対等になった」(『遥か』上巻,349頁)と記. らに,一期の高橋主将を中心に水野,近藤,上村,. している.. 藤原の四選手が正選手として出場したころの柔道. なお,柔道部の試合については『建大年表』に. 部は「満州国内で殆ど敵なしの強豪チーム{I三百〕であ. り,.私共後輩は之れを大変誇りにして」いたと記. 上記のような記述があるものでさえも,関係した 人物への取材調査にもかかわらず正式な試合名や. し,その練習における厳しさの点でも充実してい. 参加校を特定できなかった註宮〕.. 43年秋になると学徒徴集猶予の廃止,臨時徴兵. た点を強調し,同好会的柔道部に否定的な見解を. 検査が行われ,12月1日には4期生以上が入営(一. 示している.. このような見解の違いは,植弘氏の部活動への. 部残留)していく.植弘氏はその後の様子を『遥. 取り組み姿勢の真撃さによるものとも思われるが,. か』上巻で,「四期生以上の主力も殆んど学徒出陣. OB,先輩らの後輩への叱畦激励の強さもその思い. することとなり,残された柔道部の責任はわれわ. をかきたてたのかもしれない.植弘氏は「オール. れ五期生が担うことになったが,基本的な力量不. 新京大学大会では有勝することができなかった.. 足に加え,医大や工大等の理科系学生は,依然と. すでに南嶺の部隊に入隊中の近藤先輩が応援にこ. して徴兵延期されており,オール新京大学大会で. 一111一.

(8) 建国大学における武道・課外活動. やると叱られた」という.. は優勝することができなかった」(350頁)と記す.. しかし,その後の「オール新京大会では苦戦の末. 村上氏は「一年余程して浅子治郎先生が熊本か. に優勝した」(同).植弘氏はこの間の事情を書簡6〕. ら見えられ専任とな」り,石中塾頭と共に稽古を. で,「三期のモナステルヌイ(白系露人),四期の. つけられたと期している9〕.しかし『建国大学年表』. 朴三鐘両先輩達の大奮闘により何とか建大柔道部. 287頁によると浅子は41年3月20日に嘱託として着. の名声を僅か乍ら保った」と謙遜して記している.. 任しており,専任になったのはこれ以後と思われ. 同氏は44年8月入営しており,これらの大会は同. る.大同学院六期生の甲斐卓氏の話しによると,. 年春頃と思われる.. 浅子は紀元2600年を記念して宮城県で行われた全 国大会において,専門の部で個人優勝をした実力. 者であった1村上氏はその剣風を「先生の剣道は. (2)剣道部の概況 この部については,一期の村上(旧姓松崎)和. 豪放そのもので,こせこせした試合剣道を問題に. 夫氏より頂いた書簡「建国大学剣道部について9〕」. せられなかった」と評し,また,深尾氏は「浅子. と,一期主将格の深尾芳秀氏の「建大での剣道を. 先生があの年齢で,あの実力をお持ちの上に毎年. 偲ぷ」(『遥か』上巻)及び書簡10〕を中心に記してみ. の京都での大会に備えて『極め技』をしぽって,. る.. 学生との稽古の時も,また独りでの『練武』の時. ①部のはじまり.創部の儀式めいたものはなか った.村上氏によると,「剣遭が早くから練習を始. も繰り返し練習をされていたが,勝負に臨む平素 の努力を身をもっそ教えられたものと恩っている」 (391頁)と述懐している.. めたのは,なんといっても石中廣次塾頭がおられ たから」という.「それに岩井事務官という剣道好. 深尾氏によると,仮道場時代に稽古に参加した. きの人」がいて,更に日系学生に剣道の有段者が. 人として,石中塾頭,岩井隆三郎事務官(後の剣. 十余名と多くおり,道場があり,防具が全て大学. 道助教)の外,田川博明,古川武徳,小野壽人ら. で用意されているなど全ての条件が整っていたた. 学生剣道界出身者,更に,陸軍戸山学校出身の山. め,忽ち正課後に剣道を行うことになり,「やって. 口大尉,後藤周助,また教授でもあった辻権作少. いる中に数名の者が剣道部を形成した」という.. 将の名をあげている.. 道場は,柔道部ほかと同様,一期生の前期期問中. 二期の近藤多一朗氏(柔道部)は書簡11〕で,剣道. は教室を一時流用した仮道場であった.道場が狭. 部の様子を,「柔道が武専出身の先生方で固まって. いことは,学生の剣道に影響を与えたようで,深. いたのと対照に,剣道の先生方は色とりどりの出. 尾氏によると,「自然と『気合』と『力』に重点が. 身で,教務の合間に,道場で剣をとられる先生方. 移ったものである.休暇に内地に帰り,母校での. も相当数」あったとして,氏名をあげて寸評を加. 稽古でも『剣が変わった』と批判されたが,当時. えているが,このうち深尾氏があげなかった人物. はかえって,これに慢心していたきらいがある.. としては,松平紹光大尉(少佐),寺田剛証10)(教. 『養正堂韮9〕』が出来て,浅子先生の指導を受ける. 官)の名がみえる.. ③部員と民族性.村上氏及び深尾氏によると,. ようになってからも,なかなか抜け切れ」(391頁). 一期部貝は,深尾(主将),村上氏の外,長野直臣. なかったという.. (故人),北直幸,杉田憲治,米田正敏(故人),. ②指導者.村上氏が「正式の先生は島谷八十八 先生であった9〕」というように,開学当初は専任の. 西山文二郎(故人)の各氏がいた.村上氏による. 剣道教師はいなかったようである.島谷は剣道の. と,二期の井坂直史,石黒正二,篠塚昌治,舟木. 顧問として,「渡満される機会に集中的に教え」た.. 旦,稲垣謙次(故人),瀬尾博一(故人)の各氏は. 島谷は体躯的に決して大きい方ではなかったが,. 各中学を代表する強豪であったという.三期には. 「その剣は神がかり的な鋭さがあった」という.. 佐野幸一郎,竹村八郎,塚本稔,楓元夫,今井宏. また二期の井坂直史氏の談によると島谷の剣道は. 明,佐々木寿太郎,新制三期には相川公二,小林. まっとうで,正当的な剣道であつ,「小手先の技を. 金三,沢秋利,白壁登,中塚静夫の各氏がいる.. 一112一.

(9) 早稲田大学人間科学研究第5巻第1号1992年 四期では江口弘,岩崎宏,山本吉太郎の各氏がい. 指導の姿勢を賛嘆している.そのような指導者と,. た.五期は,小野田宗之氏談によると,同氏の外,. それを正面から受け取る部員のいる部が,どのよ うな部風をつくるかは想像に難くないであろう.. 「抜群に強い」広田進(故人),東海勤(故人),. 太田哲郎,松村正一,山野栄の各氏をあげている.. ただ,・五期の小野田宗之氏の談によると,「剣道. さて,剣道部は他武道部と比較して広義の日系. 部活動は全く自発性に基づいており,自らの選択. (鮮系,台湾系を含む)以外の民族がいないのが. において,やりたい者が進んでやるのであり,サ. 注目される.これについて村上氏は次のように記. ボったとしても,先輩からどうこうされるもので. している酬.「中学から剣道をやった韓国人の崔煕. はなか.ったし,勿論,出席簿などはなかった」と. 範(消一膏、不明)は初段の腕前でなかったかと恩う. いう.また,前記あ江口弘氏(42年入学,43年12. が部活動に入らなかった.柔道に相当の他民族が. 月1日入営)は筆者に,「学内の行事が多く,皆が. 入ったのに剣道に釆なかったのは精神面が強調さ. 一緒にやることは難しかった.皆が自発的にやら. れ,スポーツ性が理解せられなかったのではない. ないと活動にならなかった.今の部活よりは,自. かと思われる.現在柔道はオリンピックの重要種. 主性を重んじられたが,部としてのまとまりはよ. 目となり,各国が参加しているが,フェンシング. い方ではなかった」と語り,上に引用した,浅子. が入っていても剣道が入れないのは剣道の独自性. の「指導」の背景にあった事情を説明している. 試合成績について江口氏は,「剣道部はあまり強. が受け入れ難いのであろう.蛇足になるが防具を. くなく,唯一の優勝は,43年9月の一般人も入っ. っけたスポーツは意外に世人に持てない」.. ④部風及び試合.深尾氏は,建大の剣道には「軍. た五段以下大会で,舟木,広田,竹村ら諸先輩と. 刀術」の流れが強く影響しているという.「当時の. 一緒に出場し勝ったことである」と語っている.. 学生剣道は,『京都武専』や『東京高師』の出身の. これに関連して,李水清氏(合気武道都)は,「建. 先生方から学んだ武徳会の正統派剣遣が主流であ. 大の武遣教育について申上げたいことは,『試合に. った.建大剣道も稽古で勝負を競うものであるが,. 勝つ』ことがその目標ではなく,『已に克つ』こと. 一方,勝負のみを目指す『学生剣道』に飽き足ら. が訓練(訓練科目一筆者註)の目的であったやう. ない気風もあった.その中で山口大尉や後藤教官. に思われます.例えば剣道では必ず,『面を打って. との稽古が学生に与えた影響は大きい.特に山口. 体当たりせよ』と訓練されました.・技よりも臨戦. 教官の『試し切り』には,深い感銘を受けた」(391. の心構えと気醜を養成するのが目的であったやう. 頁)という.明日は戦場へという厳しい時代に生. であります」と,異味深い意見を開陳している12〕.. きた建大学生の,真面目さが感得される記述であ. 建大指導者の剣遣観にはスポーツとしての勝負は. る.次いで同氏は,「歓喜嶺での冬は,積雪は少な. 二の次という面もあったのかも知れない.. いが大地は凍りついている.養正堂は広大な道場 に立てられただけに,暖房の効果は,極めて悪か. (3)合気武道部の概況. った.道場の床板が凍っていたこともある.浅子. ①創部の頃.一期の李水清氏及び百々和氏書 簡1舳によると合気武道の稽古は早朝及ひ放課後で. 先生や万田先生が,広い道場の師範室で炭火で暖. あった.6時に太鼓音で起床すると,外の広場に. を採リながら,学生の来場を待っておられた姿が 巨に浮かぷ.学生もその姿に道場に参集せざるを. 集合し体操並11〕をする.続いて掃除,塾舎での坐禅.. 得なかったものである」(392頁)と,稽古場の様. その後朝食までの自習時間に毎朝,専任教官の富. 子と師弟の気持ちを見事に記している.また,四. 木謙治の指導を受けたという.部でも同好会とい. 期の主将格の江口弘氏は,「忘れられない思い出と. う名義でもなかったが,こうした有志の集まりが. して,何かの都合で稽古の時間に遅れて道場へ行. 入学の年1938年の夏頃から始まったという.. っても必ず先生お一人で防具をつけて待っていて. ②指導者.李氏書簡15〕によると,「前記一,二,. 下さリ,私は休むことができなくなった」(『遥か』. 三年の間は,的場先生という方が居られて,大へ. 下巻,40頁)と,浅子の「体をもって」(同)する. ん親切によく教へてくれ」たという.しかし現在. 一113一.

(10) 建国大学における武道・課外活動. までの所,この人物を覚えている者は他にいない.. 人柄と植芝との関係について,西山氏は次のよう. 41年からは富木の郷里・秋田県角館から,角館中. に記してレ・る18し. の柔道助教の大庭英雄(戦後富木の後継者)が助. 「いっも,植芝先生に従い,その心を体に動く.. 教として着任し,指導に当たった16〕.これらの指導. その姿は立派でした.植芝先生の閃きを,学問と. 者の上に,顧間の植芝盛平がいた.. しての体系にまとめ,解釈して行くことを念頭に. 富木は41年4月に柔道六段であり,前年2月に. されていたのではないか.今でもそう思っていま. は合気武道八段を許されていた実力者註工2〕であっ. す.それは,日本の古レ・武の道を,昭和の新しい. た17〕.だが,学生の印象は次のようであった.一期. 形で合気道として創成・された植芝先生に,従釆の. の中川敬一郎氏は,「温かくて,柔らかい大きな手」. 柔道をこえる『道』の心を見い出されたものでし. と感じ,怖いと思ったことは一度もないと筆者に. ょう.『バッと斬ってしまう」を口癖にしておられ. 述べ,同期の西山龍雄氏は書簡18〕で,「温厚な先生. た植芝先生の閃きを,何が,どうして,そうなる. でした.自分が目立つということを全くされない. のか,と丹念に説明し,基本練習に結びつけて指. 先生でした」と記している.また二期の橘満雄氏. 導されていた富木先生のお姿が,目にうつってお. は書簡19〕で,「体格がごついのに非常に柔和な方で,. リます」.. 常に笑みをたたえ」ていたと記している.いつも. ③部員と部風.合気武道は全く知られていない. 穏やかな口調で,決して声を荒げることなく,合. 新興の武道であったため,当初は指導者の富木抜. 気武道の独自性と武道の本質を. 説いていく富木の・. 姿は,晩年その馨咳に親しく接することの出来た. きには稽古は成り立たず,そのため部の雰囲気も. 富木の影響を受けたようである.百々氏は43年6. 筆者自身がよく知るところでもあり,何時誰にた. 月に卒業するまで合気武道を修業し,卒業時に四. いしても変わることがなかったことが窺われる.. 段を許されている.同氏は書簡14〕の中で,「練習時. 富木の」師・植芝盛平顧問も,年に一回程度武道 週問が催された時などに来学し;指導に当たった. 植芝の技法については,多 くの学生に感銘を与え. 閻は,朝食前の自由時間と放課後があてられまし たが,朝食前は, 富木先生も出てこられ,全員で 『型』を主として練習しました.放課後は午前中. た.合気武道はあくまでも約束稽古なのであるか. に参加した者の中でも特に熱心な連中が,より高. 」ら,素人を関心させることが出来たとしても,武. 度な『型』の練習,それの後には『乱取」をやっ. 術によく熟達した者がみれば,それが,受身をと る役目の者が協力することによって成り立ってい. の上下関係…こついて,「講義の時間が違うので下級. ていたと思います」と回想している.また学生問. ることがわかるものである.しかし植芝の施す技. 生と一緒に練習することも少なく,上下の関係は. は圧倒的であったようである.百々氏は,「合気武. 余り」ないと記している.. 道と私,そして建大20)」で次のように記している.. また,百々氏は,建大武遣部全体の性格につい. 「植芝先生についての伝説的逸話は多い.昔の講. て記した文脈の中で,「部組織をとっていないため,. 談のように面白いその話の数々を,始めは教祖的. 特別に練習した人が,ながいので六年,短いので. 存在にはつきものの伝説としてきき流してきた私. 一年とまちまちで誰を部員ということはできませ. も,学生時代約一ヵ月東京の植芝道場で,内弟子. ん.比較的長くやった人また演武に出た人が主将. と同様の生活をしたときに体験した先生の強さに. 格であったと思います」と記している.. よって,その逸話は生き生きとした真実性をもち. 合気武道を熱心にやったものは一期では近藤秋. はじめ,伝説としてきき流せないものになってい. 太郎(故人),百々和,西山龍雄,中川敬一郎,台. た」と.. 湾系の李水清(在台北),黄山水(在台北),中国. さて,植芝と富木との関係は,富木が戦後に合. 系の楊慶樹(在天津),朝鮮系の韓義旭の各氏がい. 気道の近代化を目指したことによって疎遠なもの. た.二期では伊藤義郎,橘満雄,増岡康糺(故人),. となったが,当時は合気武道を教育的に改編しよ. 永島清,台湾系の漉海清(故人),察傑川(宋傑). うと努力している時であった.当時の富木の態度,. (在神戸市),三期では奥村繁信(戦後に合気会師. 一114一.

(11) 早稲田大学人間科学研究. 第5巻第1号1992年. 範),柳沢繁邦(故人),台湾系の呂芳魁(故人),. ④活動.百々氏によると14〕,練習は当初は型の稽. 漉禎徳,中国系の万興治(在長春),朝鮮系の愈英. 古が主だが,進むにつれ型の導係練習,乱取的な. 溶(在米国)の各氏がいる.新制三期では台湾系. 自由練習へと前進する方法で行われていた.この. の紀慶昇氏(故人)などが稽古仲間であった.新. 「乱取的な自由練習」については,二期の橘満雄. 制三期以降の人物については,現在までのところ. 氏19〕も,「課外の稽古は形はもちろんですが,乱取. わからない.この事について,五期生までは知っ. りを中心に励み,力を競いました」と,かなり厳. ている可育ま性のある伊藤義郎氏(43年12月学徒出. しい稽古が行われていたことを示唆している.. しかし,試合(競技)がないため,学生にとっ. 陣)は,「先輩は怒られ;教育されるので,覚えて いるのだが,後輩にっいては,覚えていなレ・」と. ての晴れ舞台は,学内外での武道大会などでの演. 筆者に語った.その後五十年という歳月の長さを. 武会や日本の皇族方などが見学に来た時の演武会 であった.特に42年8月8日の「建国十周年慶祝. 感じさせる言葉であった.. ここに見られるように日系以外の学生が多かっ. 日満交歓武道大会」(於神武殿)における御前演武. た.その原因を簡単にいうことは難しいが,.橘満. は;競技の場のなレ・部員にとって最大のハイライ. 雄氏の書簡. トであった.橘氏書簡によると,「先輩,後輩の合. 9〕に,「満系の学生は柔道,剣道と違っ. て,日系学生も初めて始める武道であり,彼我同. 気武道部八人と出場,このとき顧聞の植芝盛平先. 時スタートということもあってか,柔. 生の神技誼13〕を見た」(『遥か』上巻,166頁)とい. .剣道より. も興味を示していたようで,各民族混合で相い対. う.書簡によれば,一期の近藤,百々,西山,二. し和気あいあいのうちに稽古が続」いたとある.. 期の伊藤,増岡;橘,三期の奥村,四期の井馬氏. 柔・剣道は日系学生の多くが経験者であり,投げ. ほかであったという;主. 4〕.. られ,打たれるが,合気武遣の場合,日系学生と. 対等に出来ることはおおきな魅力であったに違い. (4)弓道部の概況. ①指導者.この部を指導した人物は加川満喜で. ない.また合気武道は,当初は型の練習に終始す るために,比較的体力に自信のない者には取り組. ある.加川の賂歴にっいては別稿1)に記したが,真. み易かったこと,さらに,上述したような指導者. 面目でもの静かな人物であったようである1. 富木の人柄等が,他民族学生にとってこの部に入. ②部員.柔道部であった二期の水野潔氏によっ. り易い雰囲気を形成していたのかもしれない.一. て二期では船勢太直氏(在東京),椿武氏(在熊本). 期の百々氏も,台湾系の人が多く合気武道をやっ. を紹介された21〕.椿氏は前期修了後後期に入って弓. ていたことについて,同期の李水清氏を中心に「郷. 道を選択し,43年12月の学徒動員まで活動した学. 党的にまとまっていたので,彼が富木先生をした. 生である.椿氏の書簡刎によると,弓遭部には一期. って合気道を始めたのが,台湾系の人々が多く始. 生は一人もいなく,愛好者は十名弱程であった.. めた結果になったと思います」と記している14).. 同期のロシア人・コルニロフ,アボルマソフの両. なお教員の愛好者としては,松平紹光教授(軍. 氏と一緒にやったが,他の仲間については記憶が. 事訓練担当),根本龍太郎助教授(開学の年の秋に. 蘇らないという.一方,柔道部の近藤多]朗氏に. は転勤した.春の間稽古),和久田三郎(角力の非. よって紹介されたのが二期の岩村春海氏である.. 常勤講師.神武殿で稽古したものと思われる),二. 岩村氏談によれば,同期の寺島利鏡,石黒宏治氏. 代目副総長の尾高亀蔵,フランス語の森下辰雄が. と新制三期の松本明氏も仲間だろうが,他は思い. いる.尾高は合気武道が好きであったようで,五. 出せないという1. ③部風.椿氏の書簡22〕によれば,練習は捲藁に向. 期生・鈴木博氏の塾生日誌によると,43年1月30 日(日)朝五時半過ぎ,柔道の稽古に神武殿に行. かっての稽古が中心で,稽古は週二回程度,夕方. き,終了式に参列すると,「尾高副総長が合気道で. に行った.養正堂が出来てからは,畳を前方の壁. 寒稽古精勤賞を受けられる」(『遥か』上巻,265頁). に立て,それに的を置いて練習したという.また. とある.. 時には屋外で大的を設置して遠矢をしたこともあ 一115一.

(12) 建国大学における武道・課外活動. った.またこの部は,大学の中では「口借しい感. 角力を柔道・剣道・合気道に並列させたことは(中. じ」の意味で「存在価値」のなレ・部であった.皇. 路)誠に一つの立派な見識であったと今でも思っ. 族の竹田宮や高松宮が来校した際,氏やコロニコ. ております」(『遥か』下巻,29−31頁)と示唆し. フ氏等五族を組み合わせ,6,7人が弓を引いた. ている.. 和久田の指導による授業の模様等については,. ことが晴れの場所であったという.. 岩村氏も,「弓遣都の場合は全くの同好会で,柔. 道部などとは比較にならない.精神修養としてや. 柔道都草創期の有カメンバーの尾崎照夫氏が書簡7〕. で次のように記している.. 「中国人は角力も好きで,一期の晴永禄という. った.43年12月までは活動していたか43年ユ2月. の学徒動員以後に学生の多<が入営したから,自. のが一度五人抜きをしました.最初の五人抜きは. 然消滅したのではないか」と語っている.. 私でした.今のプロレスのタッグマッチのように,. 精神性や実戦性が価値の尺度とされていた時代. どこからかかってもよいという,一種の遊びのよ. において,弓道が実戦的武術という観点でも,ま. う幸もので,和久田先生がつくり出されたもので,. た体力を増強し,精神的忍耐力を練るという観点. 各民族とも喜んでやりました.つまり,弱い相手. でも他の武道に劣ると思われていたことは問違い. (に)連続して土俵に上がって貰えた(者)が手. ない.また学内に有カな専任指導者や支持者がい. にするラッキー賞で,ワイワイ盛り上がったもの. なかったことも不幸であった.実際に活動した学. です.和久田先生は殆んど琴古に巡業されていて,. 生OBをして語らしめる. 年一度ひょっこり現れて指導されました.廻しは. 「口惜しい」回顧には、. 当時のそのような状況が,深く彼らの意識に反映. 学生先生の頭数だけ(200本位)あったと思います.」. (最後を除きカッコ内の語は,筆者が文意を明確. してレ・たように思われる.. ④活動.椿氏の内容を記述した拙文に対する二. にするため修正,加筆したもの) 一期の安光鋳氏(在韓国)書簡眺〕によると,指導. 期の尾野定司氏の書簡2引によると,『柔遣部に籍を. おいていた私は右脚を悪くして一時期柔道の出来. 者としては和久田の他に,角カ好きの米沢四郎教. ない時があり,弓道部に世話になったことがある.. 官が角力部と一緒に汗を流し,善意と愛情を学生. この頃建国忠霊廟で行われた新京の弓道大会無段. に注いでくれたという.. の部で優勝したことがあり,その時の賞状は今も. ②創部の経緯.角カ部の性格をどのように見る. 手元にある」とあり,対外的な活動も多少は行わ. かの点では,関係者の間で見解に若干のずれがみ. れていたことが窺われる.. られる.上記の尾崎照夫氏によれば7),「角力部は,. 季節的臨時編成の部で,柔道部が主体で編成され,. キャプテンは星野正一で,私もその一人でした」. (5)角カ部の概況. ①授業としての特別活動.建大では非常勤講師. と,柔道部が実際上角ヵ部を支える有力な存在で. に元関脇天龍・和久田三郎(故人)を迎えて,角. あったことを示唆している.また二期で柔道部に. カによる教育的な特別活動がよく行われた.それ は柔道,剣道,合気武道のように正課刎彦ではな. 籍のあった尾野定司氏は,校内の5人抜き大会で. かったが,.特別活動のような形で授業が行われ牟. いる.その時の写真が『写真集建国大学25〕』(89,. ようである.土俵も開学聞もない1938年6月には. 100頁)に掲載されているが,尾野氏の筆者への発. っくられた.その時のいきさつを一期のヂ敬章氏. 言とその後の書簡23}によれば,練習をしていたのか. r期生の最長身の趨嘉禾との決勝で勝ち優勝して. は次のように記している.「先生が建大に請われて,. もしれないが,特別に角力の稽古をしていたこと. 山羊髭をはやした専門の職人を連れてこられ,二. はあまり思い出せないという. ところが安光鏑氏の書簡24〕によると,事情は若干. 塾の前,つまり前期塾のほぼ中間に四本柱だけの. 土俵を造って下さったのは前期一年の夏休み前で. 異なる.建大開学式の約2ヵ月後の6月28日,大. あったと記1意しております」.また,角力が一種の. 学は土俵開き挙行後に6塾対抗の角カ大会を行っ. 授業であったことを,「先生を建大に招き,そして. た.ここで「星野正一,尾崎照夫,安光鋳,(中垣. 一116一.

(13) 早稲田大学人問科学研究. 第5巻第1号1992年. 芳治,斎藤精一)の属する五塾が優勝」した.そ. 建大校内大会初期の状態はともかく,角力部とし. の夜,星野氏の父・星野総務庁長官官舎で祝賀会. て発足以来は他部の軒下をかりたような部では」. が開かれ,角力好きの長官が,「どうだい.角力の. なかったと「いいきることが出来たと思います」. 強いのは日系ばかりでなく満系もいれば鮮系もい. と述べているが,ここには,いわゆる同好会でイ. るし露系のセレデキンも強レ・じゃないか.それに. メージされる,活動のいレ・加減な部ではなかった. 蒙古のアリゴンチナトラも強いし建犬にしか出来. という主張がこめられていると思われる.. ない角力部をつくってはどうだ」といった具合に. ④活動状況.同期の高山信義氏は中学では剣道. 話が進められて,星野氏が自然にリーダーとなっ. をやっていたが,親しかった星野氏に誘われ,始. て角力部が編成されていったようだという. 一方,ヂ敬章氏の「和久田三郎先生を弔う」(『遥. めの二年問位(38,39年)角力都で活動した人物 である(氏は後期は剣道を選択).高山氏の談によ. か』下巻,29−31頁)によると,次のようになる.. れば,和久田が指導したのは約一年位で,始めは. 「土俵開きの日,(中略)私も良くやりましたが,. 週に2日ぐらいであったが,その後月に2回とな. 最も良く勝ち抜いたのは随永禄と星野で,随永禄. った.その後は春秋に各一回及び校内大会が催さ. は中学の時は,バスケットのキャプテンを三年も. れる時であったという.活動は一日置きぐらいで,. 務めただけに腕の力が滅法強く,専ら腰を据えて. 拓大角力部出身の社会人が指導に来てくれていた. 手でさばきましたが,星野は皆の知らない蹴た繰 りで相手の力を上手く利用して勝ち進みました.. という.部貝数は二年目の時で,一期生が5,6. 人,二期が3,4人で,杜会人との対抗戦がある. 土俵開きの合問に,私が二塾の寝室で一人だけ一. と柔道部の高橋武雄,尾崎照夫(各一期),尾野定. 息入れていたら,星野が入って来て『おい,.ヂ敬. 司・(二期)が応援出場したという.. 章,今日相撲らしい相撲を取ったのはお前と俺だ. 安光錆氏によると,「練習場所は校庭の土俵が主. けだ』といいました.それまでは彼をあまり知ら. であったから五月から十月までの限られた時期で,. なかっためですが,それ以来意気投合するように. 学習訓練の余暇に校内大会の前後の時期に好きな. なりました」.「土俵開き後間もなく星野と二人で. 者同志が集まってやっていた.後年新京市内の神. 相撲部を作ろうと謀り,方々駆けずり廻ったが,. 武殿内に土俵が設けられた時は,冬でも部貝達が. 特に印象に残っているのは,大同公園の北側にあ. 出かけて行って和久田先生の指導の下に稽古をし. った(和久田)先生のお宅に押し掛けたことです.. ている.多い時は二十人位はいた」という24〕.. 当時先生は結婚された許りですが,何の前触れも. しかし,新制三期の阿部康男氏談によると,満. なく真夜中にいきなり駆け込んだ我々を,いやな. 州では角力は全くの新興武道であり,決して盛ん. 顔一つされずに摺じ入れて相談に乗って下さいま. ではなかったという.大会も少なかった.郷里の. した」(カッコ内筆者).. 先輩であった阿部康男氏の勧めで角力部に入部し. これらから,創部の頃は,星野氏,安光鏑氏,. たという五期の本庄幸人氏は,次のように記して. ヂ敬章氏,そして柔道部の尾崎氏らが一緒になっ. いる.「体の大きいのは,先生の天竜さんぐらいで,. て部を創っていったということが出来よう.. 大将の星野さん始め,ヂ敬章さん,安光鏑さん,. ③部風.安光錆氏は,「ともすれば『季節的臨時. 阿部康男さん,みな小兵であった.しばしば体外. 編成の部のようなもので柔道部が主体で編成され. 試合と称して,新京工業大学,法政大学とリーグ. た』部のようにみられがちなのをきらって,満系. 戦をやったが,優勝したことは一度もなかった」. のヂ敬章,超嘉禾,蒙系のオルトニバト,露系の. (『遥か』下巻,164頁).. セレデキン,日系の高山信義,清田友一など同好 の士にスカウトをはじめている」と記し,部とし. 16)武道系各部の活動と一般的特色. てのまとまりを求めて,「敬愛する同期の柔・剣道. 犬学の課外活動というと,今日もなお,大学が. や合気武道の猛者運中と眉をならべる意気込みで」. 施設使用の特権とともに認知し,短髪頭,タテ社. 熱心な活動をしていたと記す24〕.また,「結論は,. 会などやや暗いイメージを想像させられるが,上. 一117一.

(14) 建国大学における武遣・課外活動. にみてきたように,建大では多少異なった形であ. す」.. ったようである.その実際について,二期生の近. 近藤氏や百々氏のこのような認識については,. 藤多一朗氏(柔道部)は生き生きと次のように記. 既に1章でその他の多くの引用からも見てきたと. している5〕.. ころである.剣道部の江口弘氏が,浅子師範の待. 「柔道,剣遺,合気(武)道,銃剣術の格闘技,. つ道場へ急レ・だのも,止むを得ずに遅れていくこ. 農業,軍事教練,乗馬,射撃,グライダー等の課. とが建大の剣道部では認められていたことを表し. 目は総て正規の必須課目であり,前期三年間の午. ていると見ることができよう.. 後は殆どこれに充当されていたということです.. 「自由主義的」という言葉は,決して練習強度. 勿論,専任の教官,助教,助手が指導しました.. の調整が各人にまかされていたという意味のもの. 正課でなかったのは角力,弓道ぐらいなものでし. ではない.それは,各部が学生の参加を自由に認. た1(中略)学生も課外の運動部生活を正課の延長. め,学生が学生生活の合問に自由に多くのことを. として受け取っていました.誰もが正課でいろん. 学ぷことができるという点を特徴づけた言葉とい. な事を体認していますから,後は各人の好みに応. えよう.それは,建大武道各部に共通する一般的. じて追加体認をしていた事になります.自然違っ. 特色(雰囲気)を示すものと考えられよう.. た運動部の間では排他性はありませんし,一夫多 妻僅が極くスムーズに実現されていたように思レ・. ω. 現代武道への提言. では,何故このような雰囲気が建大にはあった. ます.私のように柔道部一本槍で通して来た者で も,稽古を早く済ませて柔道衣の上に防具をつけ,. のか.それは,建学の精神である「五族協和」が,. 隣の剣遣場で二,三本稽古をつけて貰ったり,非. 新興国としての「満州国」の将来を約束させるた. 常勤の和久田先生が来校された時には土俵に狩り. めに必須のことと考えられた「五族協和」(各民族. 出されて,潭身の力で押せども突けども…俵の上. の融和)と同じものであったことによると考える.. の先生の踵がビクとも動かぬのに感歎していまし. 「大学(建大)は,祖国(満州国)あっての大. た.何に発心したのか一ヶ月柔道部の稽古に参加. 学(建大)であリ,大学(建大)の運命は祖国(満. し,翌月からは夜間開かれていた講孟割記のゼミ. 州国)の運命と同じである」.このような普通の社. に席をつらねたリ,合気武道部に出席したりする 具合です.今でいうフレック支タイム出勤制度で. 会では問題にもならないあたり前の意識が,1932 年に生まれたばかりの満州国に居住する人問にと. したし,先生方もそれを当然視され,何の苦情も. っては,極めて緊要な問題であったことは容易に. ありませんでした.建大に対して第三者が1裳くで. 想像される.従って,多感な年頃の優秀な学生た. あろうイメージと正反対に,自由主義的であり,. ちが,建大の指導者がこの犬きな課題に悩みつつ. 学生の個性の伸張が尊重された面もありました.」. 教育しようとしている中にあって,今日の運動部. また,一期の百々和氏(合気武道部)は記して. 学生に見られるように,特定の運動部活動のみに 専念出来なかったのは当然といえよう.. いるエ4〕.. 「近藤君が言っているように,柔道,剣道(中. 満州国の指導者として立つことが期待され,約. 略)等は,午后からの時間練習し,その中から自. 束されていた建大生が,既に建大開学前年の37年. 分に遭合する武道があれば,適時(朝食前の自由. に日中戦争が始まリ,41年末には太平洋戦争が始. 時間と午后講義が終わってからの自由時間)同好. まるという現実の中で,自らの置かれた立場を考. 会的に練習したのであって,戦後の各大学のよう. えた時,課外活動はどういう意味を持ったであろ. に,部組織あるいは同好会組織が出来ていて,そ. うか.それは,現実をどのように認識していたか. れに入ればなかなか抜けることができず,また,. によって様々なものとなっていたことは問違いな. 主将,副主将,マネージャーが決められていると. い.(1)から15)で見たように,一般に武道部活動に. いった形式はとっておらず,前期と後期. 専念した満系(特に漢民族系)の学生は少ない.. 般に六. 年間同好会的に自由に武道にはげんだのが実情で. 民族のおかれた立場に目覚めていく彼らに,日本. 一118一.

(15) 早稲田大学人間科学研究. 第5巻第1号1992年. の文化である武道に親近感がなかったことや,そ. 考えについては十分な調査がなされておらず,そ. れへの民族的反発があったとしても不思議ではあ. の必要も痛感する.そして五期生以降の様子につ. るまい.. いても明らかにしなくてはならない.これらのと. 日本人の中でも,剣道部四期主将格の江口弘氏. とは独り武道教育の問題たけてなく,建大全体の. は,五族協和の旗印と満州における現地農民の「理. 教育についても研究されるべきであろうが,当面. 解を超えた」扱いなどの矛盾の中で,「日本人とし. は武道教育を中心に今後も研究を進めていきたい.. てどう生きるのか,何をしなければならないのか」. (付記:本論文は1990年度早稲田大学特定課題. (『遥か』下巻,40頁)と悩む青年であった.そう. 研究として補助金の交付を受けてなした第二報で. いう文脈の中で,氏は,「私は歓喜嶺の生活の中で. ある.研究にあたっては,何度にも渡って手紙で. 剣道に熱中した.それは一種の逃避であったこと. ご指導頂いた李水清氏,近藤多一朗氏はじめ多く. を今にして強く感じている」(同)と,学生時代の. の建大関係者諸氏から資料,情報の提供を受けた.. 内心の苦汁を吐露している.「逃避」という言葉に. 記して深謝する次第である.). は,今日,武道の持つ機能と考えられている「人 引用・参考文献. 間形成」の面が,現実の社会の諸問題の解決にあ. たっては直接的な力となりえないという点で,直. 接的な力となりうるもの(例えば社会科学的な勉 強)からの逃避という意味が含意されているとい. 1)志々田文明:『満州国』建国大学における武道 教育,武道学研究,24(1)19−23.1991. 2)湯治万蔵編:『建国大学年表』,建大同窓会,. える.同氏は,「もちろん剣道にはげむことによっ. 1981. 3)『歓喜嶺. て得たものの多いことは間違いない」とも記して. 4)中垣芳治書簡(91年6月12日付). いるが,この時代においては,それ全体が「逃避」. 5)近藤多一朗書簡「志々田先生に対する回答」(89. 年12月頃.89年11月28日付の筆者依頼に対する. と言わざるをえない面もあったのであろう.. もの). 筆者は武道の文化としての優秀性について確信 を持つものである.今日の. 日本のような平和で豊. かな社会にあっても,武道は,学生が学業のスト レスから自己を解放し,心身の強化,日本人. 遥か』上・下巻,建大同窓会,199ユ.. とし. ての粋持を植え付けるなどの点で優れたものを持 っている.だが,上のように考えて来ると,武道. の教育的機能を過大に評価し,そこにある哲学性 に自己満足するような傾向に対しては深い自省が 必要である.特にそれが価値観の異なる他民族,. とりわけ発展途上のアジアの国々に対して強く主 張される時には,日本文化的価値を押し売りする. 6)植弘親民書簡(91年2月エ日付) 7)尾崎照夫書簡(90年12月1日付) 8)作田良夫:六塾亡友録,『歓喜嶺』・(建国大学一 期生文集),pp.41−48,建大第一期生会,1989. 9)村上和夫書簡「建国大学剣道部にっいて」(91年 3月25日イ寸). 10)深尾芳秀書簡(90年12月9日付) ユ1)近藤多一朗書簡(91年1月28日付) 12)李水清書簡(91年2月15日付) 13)李水清書簡(89年9月20日付). 14)百々和書簡(91年2月16日消印) !5)李水清書簡(91年4月21日付) 16)志々田文明:『大庭英雄師範略イ云』,日本合気道 協会,1991. 17)富木謙治自筆「履歴書(写)」(コピー筆者蔵). 一人よがりなものとなりかねない.国際化時代の. 18)西山龍雄書簡(89年10月9日付). 武道のあり方を考える時,本研究をとおして第一. 19)橘満雄書簡(91年10月17日付) 20)百々和1合気道と私,そして建大,『歓喜嶺』, pp.195−204,建大第一期生会,1989. 21)水野潔書簡(90年12月2日付). に学ぷべきものにこの点があるように思われる. (8〕今後の課題. 本論で,武道各部の課外活動の実態については ある程度明らかにされたが,それが,建大のおか. 22)椿武書簡(91年2月1日付) 23)尾野定司書簡(91年2月4日付) 24)安光鏑書簡(91年5月頃か.消印不明) 25)坂東勇太郎編『写真集. れた社会的状況の中で,そして建大生にとってど ういう意味を持っていたかについては組織的な考. 察がなされなかった.また,日本人以外の学生の 一1ユ9一. 1986.. 建国大学』,建大同窓会,.

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