【学位論文審査の要旨】
1. 研究の背景
2008 年に生じたリーマンショックの原因の一部として,サブプライムローンを証券化し た仕組み債と呼ばれる金融商品の換金性の困難さと各種証券の流動性の枯渇が挙げられる.
これらの市場性は直接金融の特徴であると同時に脆弱性とも考えられる.また,多くの投資 家が現金確保を迫られ,証券ポートフォリオを換金する過程においては,株価変動リスクと 信用リスクの相互作用の重要性が認識されている.こうした様々なリスクの顕在化に対応し て,金融証券市場の構造・規制に関して各国の金融当局による各種改革が進んでいる.
本学位論文は,このように金融証券市場の情勢が常に変化する環境の下,金融証券市場に おける様々な最近の重要な課題について数理的に考察するものである.その対象としては,
流動性成約下における売買取引のための意思決定,金融商品の価格付け,そしてゼロ金利の 環境における債券利回りの実証分析の3項目が含まれる.流動性に関しては,証券売買の流 動性のみならず,証券貸借市場の流動性の確保が売買市場を円滑に機能させるために必要不 可欠である.証券貸借市場の流動性が乏しい場合の証券売買の最適執行問題は既存研究には なく,本論文により初めて考察される.金融商品の価格付けでは,株価変動リスクと信用リ スクの相互作用を明示的に取り入れることが着眼点である.また,イールドカーブのモデル 化では,その基礎となる関数に1次関数を用いるのか2次関数を用いるのか,という点は,
近年のグローバルな低金利状況の下での実証分析では重要な論点である.このように金融証 券市場に参加する実務家が抱える課題に対して,数理ファイナンスやマクロ・ファイナンス の分野における相応しい数理モデルを用いて応えようとすることが本学位論文のテーマで ある.
2. 本論文の構成
本論文は,3部8章立て(本文 210 頁,15 個の表および 43 個の図を含む)で構成されて いる.構成は以下の通りである(小節は省略する).
Chapter 1 Introduction I Decision Making
Chapter 2 Optimal Timing for Short-Covering of an Illiquid Security 2.1 Introduction
2.2 Model Setup 2.3 Active Condition 2.4 Numerical Examples 2.5 Summary
2.6 Appendix
Chapter 3 Optimal Short-Covering with Regime Switching 3.1 Introduction
3.2 Regime Switching Stock Price Model 3.3 Solution
3.4 Numerical Examples 3.5 Summary
3.6 Appendix II Pricing
Chapter 4 Equity-Credit Hybrid Modeling and its Application 4.1 Introduction
4.2 Affine Equity-Credit Modeling
4.3 Pricing of Defaultable European Options 4.4 Pricing of Capped Variance Swaps
4.5 Numerical Illustration 4.6 Summary
4.7 Appendix
Chapter 5 Pricing Models of Contingent Convertibles 5.1 Introduction
5.2 Pricing of a CoCo Bond 5.3 An Enhanced Hybrid Modeling 5.4 Examples
5.5 Numerical Illustration 5.6 Summary
5.7 Appendix
Chapter 6 Asymptotic Expansion for Multifactor Heston Model 6.1 Introduction
6.2 Multifactor Heston Model
6.3 Asymptotic Expansion for Multifactor Heston Model 6.4 Numerical Illustration
6.5 Calibration 6.6 Summary 6.7 Appendix III Empirical Analysis
Chapter 7 Non-linear Term Structure Modeling near Zero Lower Bound 7.1 Introduction
7.2 Term Structure Models
7.3 Estimation Results: Term Structure Models 7.4 Methods of Prediction Pooling
7.5 Estimation Results: Prediction Pooling 7.6 Summary
7.7 Appendix Chapter 8 Conclusion
3. 本論文の概要
第1章において,金融証券市場に参加する実務家(機関投資家,銀行,証券会社等)の様々 な課題や着目点を挙げ,それぞれの問題毎に関連する学術的な既存研究を説明している.そ して,第2章以降で展開される研究の動機を延べ,本研究の当該分野における位置づけを明 確にしている.
第 I 部(Ch.2.3)では,証券の空売り戦略について論じている.空売りには,証券の売買の 他に,証券の借り受けと返済,および金銭の預託が伴うので,空売り戦略の損益はこれら3 種類の取引の損益の合計となる.既存研究では証券売買の損益のみに着目されていたが,第 2章の論文により3種類の取引の損益の合算,および,証券貸借期限に不確実性が伴う場合 を考察したことは新しい視点である. 第2章においては,そのような状況下で空売り証券 の最適な買戻タイミングを,Dayanik and Karatzas (2003)の手法を援用して,最適停止問 題として明解に求めている.その結果,投資家の証券買戻のタイミングは証券価格の変化を 表す期待収益率やボラティリティ以外にも,金利収入という便益と貸借料という費用のバラ ンスに依存することを示した.具体的には,パラメーターの値により,投資家の当初の狙い 通り証券価格が低下した後に利益を伴って買戻す場合以外にも,証券価格が高騰して損切り のための買戻が起こり得ることが主な結論である.第3章では,各種パラメーターがレジー ムスイッチングする状況における最適買戻タイミングを別の手法で求めている.なお,
Chapter 2 の内容は査読付き論文(Tanaka と共著)として Journal of the Operations Research Society of Japan 58 巻 2 号(2015 年)に掲載されたものである.また,Chapter 3 の内容は査読付き論文(単著)として Recent Advances in Financial Engineering 2014 (2015 年)に掲載予定である.
第 II 部(Ch.4-6)では,バリアンス・スワップ,CoCo 債券,マルチ・ファクターHeston モデルでのオプション価格の展開式の導出の3項目について各種金融商品の価格付けを行 っている.前2者においては equity-credit hybrid model と呼ばれる株価変動リスクと信 用リスクの相互作用を明示的に導入し,アフィン・ジャンプモデルと価格の特性関数の性質 を上手く用いて価格を導出している.その分析の結果,CoCo 債券価格が株価リスクと信用 リスク間の相関係数の減少関数になることを示したのは意義深い.なお, Chapter 4 の内 容の一部は査読付き論文(Kwok と共著)として Journal of Financial Engineering 1 巻 2 号 (2014 年)に掲載されたものであり,また,Chapter 6 の内容は査読付き論文(Nagashima, Tanaka と共著)として Asia-Pacific Financial Markets 21 巻 4 号(2014 年)に掲載されたも のである.
第 III 部は,ゼロ金利制約下におけるイールドカーブの実証分析である.アフィン型期間 構 造 モ デ ル (Affine Term Structure Model) と 2 次 型 期 間 構 造 モ デ ル (Quadratic Term Structure Model)の一次結合の重みをベイズ推定により推定したところ,日本銀行が短期金 利の低め誘導を始めた 98 年頃以降は2次型期間構造モデルの重みが 1 に近い,という興味 深い結果を得た.
【論文審査結果の要旨】
1. 審査結果
本論文の主な内容は,流動性成約下における売買取引のための意思決定の考察,最近の 特徴的な金融商品の価格付け,そしてゼロ金利の環境における債券利回りの実証分析の3 項目である.これらの分析に必要とされる基本的な理論としては,最適停止問題の解法,
連続時間または離散時間におけるレジームスイッチングモデルの分析,金利の期間構造モ デル,特性関数の逆フーリエ変換としてのオプション価格等が挙げられる.これらの議論 において,随所に新たな着目点および手法を導入し,数理的な分析を行い,多くの一定の 成果を挙げたことが本論文の重要な貢献である.具体的には,証券貸借の顕著な実態であ る不確実な期日は新たな視点の一つであり,equity-credit hybrid model における特性関 数の巧妙な利用は斬新的な活用方法である.また,アプローチに加えて,結果においても,
前述のとおり,証券貸借の損益と証券買戻しタイミングの関係の分析や CoCo 債券価格と株 価リスク・信用リスク間の相関計数との関係で意義深い結論を示したことなどは高く評価 できる.特に,流動性成約下における売買取引のための意思決定の問題において,証券の 買戻しタイミングをパラメータ間の関係により完全に特徴づけていることは今後の研究に おいても重要な結果である.
また,本論文を通して,前述の結果を正しく読者に伝えるために的確な数値計算の例な どを多く提示している.このように,最適停止問題や金利の期間構造モデルなど多くの理 論を用いた理論展開のみならず,数値計算や実証分析まで行い,幅広く様々な観点から研 究を行うファイナンス分野の研究遂行に相応しい能力を総合的に有していることを示して いる.
以上のように,本論文は金融証券市場に参加する実務家が抱える複数の課題に対して,
数理モデルを用いて一定の解決を与えている.
しかしながら,同時にいくつかの課題を指摘せざるを得ない.第一に,バリアンス・ス ワップおよび CoCo 債券の価格導出のモデル設定において改善の余地がある.議論を容易に するために強い仮定を設けていることはやむを得ない面はあるが,今後,その仮定の緩和 を図ることが望まれる.第二に,第 III 部のマクロ・ファイナンスにおけるレジーム・ス イッチングの取り扱いにおいて,計量経済学によるアプローチと数理ファイナンスによる アプローチでは相違点があり,その整合的な取り扱いが求められるが,その整理が十分成 されていない.しかし,これらは本論文の貢献度に比べれば些細なものであり,その価値
を損なうものではない.
2. 合否判定
本審査委員会は,学位申請者である鍾子健に対して,平成 27 年 5 月 29 日に本論文について 公開審査を実施した.その結果,申請者が博士学位を取得するにふさわしい学識を有してい ることが確認できた.よって,本審査委員会は申請者鍾子健に対して,首都大学東京博士(経 営学)の学位を授与することが適当であると判定する.
以上