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講演 結婚 離婚 みんなのための結婚 世紀のフランスにおける婚姻形態の変化 フィリップ ブトリパリ第 1 大学 ( パンテオン - ソルボンヌ ) EHESS IUF ( 訳 : 長井伸仁 前田更子 ) 18 世紀末から 21 世紀初頭までのフランスにおける婚姻形態の変化の歴史は 長く

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 18 世紀末から 21 世紀初頭までのフランスにおける婚姻形態の変化の歴史は、長く、複雑 で難解である。  フランスの場合、婚姻の歴史・人類学にはキリスト教の痕跡が深く刻まれている。12 世 紀において結婚は、司祭が祝福し夫婦の合意にもとづく一つの秘跡として、封建社会全体 で重きをなしていた1 。16 世紀後半になると、ルターとカルヴァンの宗教改革に直面するが、 人口の大多数がカトリックにとどまったフランスで、結婚は、中世の伝統に倣い教会の七 つの秘跡の一つとして、その神聖な性質を強調したトレント公会議(1545 〜 1563 年)の条 項に従った。すなわち結婚は、結婚式を告知し、婚姻への反対・障害の事前表明を可能と する「公示」につづく、公的で公式な一つの行為である。結婚は、夫婦一方の所属教会の 主任司祭か、公認司祭によって信徒共同体の前で、2、3名の証人の立ち会いのもとで祝 福される。秘密婚は禁じられる。司祭は、夫婦から婚姻の約束・合意を得る。親の合意は 必要ない。結婚は司祭が管理し、夫婦と証人が署名した簿冊に登録される。性交による結 婚の完遂が夫婦一方の死のときまで、結婚を破棄できないものにする。寡婦の再婚は許可 される、とされたのである。しかしながら、フランス君主政つまり国家は、国王アンリ3世 が発布したブロワ勅令(1579 年 5 月)において、宗教法を家族・家父長制秩序に合致する ように実体的に修正した。結婚の合法性を保障するには親の合意が必要となり、秘密婚は誘 拐と同一視され死罪となり、寡婦の再婚は家族の要求で保留された。以上からわかるとおり、 国家はフランス革命以前から、婚姻に関して秘跡を越える概念を教会に押しつけていたので ある。アンシャン・レジーム末期のもっとも偉大なフランス人法学者たち(ドマやポチエ) も同じく、結婚の秘跡に、法の下に家族間で交わされる民事契約という側面を与えていた2  この「結婚の旧体制(アンシャン・レジーム)」は、フランス革命の前夜までフランス王 国全体で有効で、関係が破綻した夫婦に対して結婚の解消をともなわない別居と財産分与 1 Georges Duby, Le Chevalier, la femme et le prêtre. Le mariage dans la France féodale, Paris, Hachette, 1981(ジョルジュ・デュビー『中世の結婚 : 騎士・女性・司祭』篠田勝英訳、新評論、 1984 年 ) ; Jean-Pierre Poly, Le Chemin des amours barbares. Genèse médiévale de la sexualité européenne, Paris, Perrin, 2003.

2 Jean Gaudemet, Le Mariage en Occident. Les mœurs et le droit, Paris, Le Cerf, 1989 ; Anne Lefebvre-Teillard, Introduction historique au droit des personnes et de la famille, Paris, Presses universitaires de France, 1996 ; Jean Bart, Histoire du droit privé de la chute de l’Empire romain au XIXe

siècle, Paris, Montchrestien, 1998 ; Brigitte Basdevant-Gaudemet, Histoire du droit canonique et des institutions de l’Église latine, Paris, Economica, 2013.

結婚、離婚、「みんなのための結婚」

18 〜 21 世紀のフランスにおける婚姻形態の変化

フ ィ リ ッ プ ・ ブ ト リ パリ第 1 大学(パンテオン - ソルボンヌ)、EHESS、IUF  ( 訳 : 長 井 伸 仁 、 前 田 更 子 ) 講 演

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しか認めなかったが、その後のわずか2世紀のあいだに驚くほどの変化を遂げていった。 法学、歴史学、人類学にかかわるこの短い講演が扱うのは、この変容についてである。生 じた変化の意味を理解するためには、次の、異なる三つの次元を捉えることが重要であろう。  第一に、結婚は、カトリック信者にとっては一貫して秘跡でありつづけたが、まずは 1787 年にプロテスタントという少数派を対象に、次に 1792 年にフランス人全体を対象に、純粋 に民事的な契約に変更された。その結果、ときに調和的であったりときに対立したりもす るが、明確に異なる二つの婚姻形態が併存することになった。すなわち一方に義務である 民事上の契約があり、他方に法律上は任意の、しかし信仰上、信徒にとっては必要な宗教 上の祭礼の挙式が存在することになった3  第二に、婚姻の契約的定義は 1787 年から 1792 年までのあいだに確立するが、それは契約 を破棄する可能性を提示し正当化した。契約破棄は、婚姻の法的効力を失効させない別居・ 財産分与の域を超え、離婚の創設に根拠を与えた。ところで、2世紀にわたるフランスでの 離婚に関する特殊な歴史は、一つの歴史寓話をたどるようなものである。1792 年 9 月 20 日 法により離婚が制度化され、それは夫婦間の性格の不一致から多様な「特定事由」さらには 協議離婚まで、夫婦の別離の可能性を著しく広げたが、協議離婚が再び認められるには2世 紀近くを要することになる。その間をみれば、革命期に成立した離婚は 10 年ほど施行され た後、共和暦 11 年ヴァントーズ 30 日(1803 年 3 月 21 日)の法―この法自体は 1804 年の ナポレオン法典に組み入れられる―により大幅に制限され、そしてついに 1816 年 5 月 8 日 のボナルド法でその後ほぼ一世紀にわたって廃止された。フランスはこうして 19 世紀の大 半の時期において、他のカトリック国(スペイン、ポルトガル、イタリア)と同じく、別居 と財産分与のみを認める、結婚の解消不能性によって特徴づけられる国になった。特定事由 にもとづく限定的離婚(「懲罰としての離婚」)が再度登場するには、共和政下の 1884 年 7 月 27 日のナケ法を待たねばならず、1792 年に制度化されていた協議離婚が再建されるのは さらに遅く、1975 年 7 月 11 日の法とその後の拡大解釈、すなわち約2世紀後のことなので ある4

3 L’Enfant, la Famille et la Révolution. Actes du colloque (30 janvier – 1er février 1989)

publiés sous la direction de Marie-Françoise Lévy, Paris, Orban, 1989 ; La Famille, la loi, l’État, de la Révolution au Code civil. Actes du séminaire (Paris, 1989) organisé par le Centre interdisciplinaire de Vaucresson et la Cellule Histoire et Société du Centre Georges Pompidou, textes réunis par Irène Théry et Christian Biet, introduction du doyen Jean Carbonnier, Paris, Imprimerie nationale et Centre Georges Pompidou, 1990.

4 Pierre Damas, Les Origines du divorce en France. Étude historique sur la loi du 20 septembre 1792, Bordeaux, Gounouilhou, 1897 ; Marcel Cruppi, Le Divorce pendant la Révolution (1792-1804), Paris, Rousseau, 1909 ; Suzanne Desan, The Family on Trial in Revolutionary France, Berkeley, University of California Press, 2004 ; Francis Ronsin, Le Contrat sentimental. Débats sur le mariage, l’amour, le divorce, de l’Ancien Régime à la Restauration, Paris, Aubier, 1990 ; Francis Ronsin, Les Divorciaires. Affrontements politiques et conceptions du mariage dans la France du XIXe siècle, Paris, Aubier, 1992 ; Irène Théry, Le Démariage. Justice et vie privée,

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 第三に、20・21 世紀転換期に、それまでにない婚姻形態が登場する。1792 年、1884 年、 1975 年の離婚支持者たちが当時の議論では考えもしなかったこと、つまり同性間の婚姻で ある。1999 年 11 月 15 日の法による連帯市民契約(PACS)の創設―異性カップルにも等し く民事婚に代わるものを用意した―、そして 2013 年 5 月 17 日のトビラ法による結婚枠の 同性カップルへの拡大、言い換えれば「みんなのための結婚」は、婚姻形態の歴史におけ る新たな変容であり、フランスにおいて極めて激しい論争を巻き起こした(「みんなのため のデモ Manif pour tous」)。この変容は、それ自体大きく変化した人類学的文脈のなかに位 置づけられる。その文脈とは、民事・宗教いずれの婚姻にも至らない同棲が結婚に勝るよ うになり、また 20 世紀の最後の 3 分の 1 の時期において急増していた離婚数が、いわゆる 「自由」な結びつきと「拡大」家族が婚姻体制のなかで優勢となった結果、いまや減少に 転じたというものである5  この講演において私が検討し議論したいのは、これら三つの主要な変化(契約と秘跡の 結びつき、カップルの別離の進化の様式としての離婚、結婚を同性カップルに開くこと) における人類学的、人口学的、法学的、文化的、宗教的な争点についてである。 1.契約と秘跡の結びつき  結婚の契約的性質はフランスでは、革命の黎明期に憲法で定められた事項の一つだった。 憲法制定議会が、1791 年 9 月 3 日に可決したフランス初の憲法の第2編(「王国の区分につ いて、および市民の身分について」)第 7 条には、「法律は婚姻を民事契約としてのみ認める」 とある。条項は次のようにつづく。「立法権はすべての住民に対し、差別することなく、出 生・婚姻・死亡の証明様式を定める。そして立法権は、それらの証書を受理し保存する公 署官 officiers publics を指名する」。この詳細は重要である。「民事籍 état-civil」の原則が提 示されたからである(憲法制定議会がまだその方式を定めていなかったとしても)。この原 則は、市民間の「差別」の不在、すなわち各人の宗教上の所属に関係なく法の前での平等 の原則にもとづいており(宗教は市民権の基礎ではない)、そして登録を実行し登録簿を管 理する行政官は「公署官」とされたのである。  先に述べたように、「民事契約」としての結婚の定義は、アンシャン・レジーム末期のフ ランス人法学者たちのなかにすでに存在していた。オルレアンの著名な民法学者、ロベー 5 Daniel Garcia, La Folle histoire du mariage gay, Paris, Flammarion, 2004 ; Thibaud Collin, Le Mariage gay. Les enjeux d’une revendication, Paris, Eyrolles, 2005 ; Homosexualité, mariage et filiation. Pour en finir avec les discriminations, Paris, Fondation Copernic, Syllepse, 2005 ; Thibaud Collin, Les Lendemains du mariage gay. Vers la fin du mariage ? Quelle place pour les enfants ? Paris, Salvator, 2012 ; Mariage de même sexe et filiation, sous la direction d’Irène Théry, Paris, Éditions de l’EHESS, 2013 ; Irène Théry, Mariage et filiation pour tous. Une métamorphose inachevée, Paris, Le Seuil et La République des idées, 2016(イレーヌ・テリー『フランスの同性婚と親子関係 : ジェンダー 平等と結婚・家族の変容』石田久仁子、井上たか子訳、明石書店、2019 年) ; Les Églises face aux évolutions contemporaines de la conjugalité, sous la direction d’Isabelle Grellier, Alain Roy et Anne-Laure Zwilling, Strasbourg, Faculté de théologie protestante, 2018.

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ル = フランソワ・ポチエは著書『結婚契約概論』の冒頭で、「契約のなかでもっともすぐれ、 もっとも古い」ものとして結婚契約を提示した。「結婚契約は市民秩序の範囲でのみ捉えた としてももっともすぐれた契約である。なぜならばそれは市民社会がもっとも関心を寄せ る契約なのだから。結婚契約はもっとも古い。なぜならばそれは人間同士で交わされた最 初の契約なのだから。神がアダムのあばら骨からイヴを創造し、アダムにイヴを示すとた だちに、私たちの最初の二人の祖先は結婚契約を交わした。アダムは『これこそ、わたし の骨からの骨、わたしの肉からの肉、それらはただ一つの肉のなかで二つとなろう』と言 いながら、イヴを妻にした。イヴは同じようにアダムを夫とした」(前文第 1 節)。  秘跡の、このように純粋に民事的な概念は、断固たるジャンセニストだったポチエにと っては婚姻の宗教的な概念とまったく矛盾しないものであり、それ自体、17 〜 18 世紀の自 然法主義に由来する。しかしながら、この概念は啓蒙哲学のなかで反キリスト教的論争の 広がりを持ち得た。『哲学辞典』(1764)の「結婚」の項目において、ヴォルテールは次の ようにそれを定式化した。「結婚は、ローマ・カトリックが秘跡にした、人びとの一つの権 利契約である。しかし秘跡と契約は明白に異なる二つのものである。一方には民事効力が、 他方には教会の恩寵が与えられる。したがって、契約が人びとの権利に合致するとき、契約 は持てる民事効力を十全に発揮する。秘跡の欠如は、精神的恩寵の剥奪を意味するだけであ る。これがあらゆる世紀の、あらゆる国民の法解釈であった。唯一フランス人を除いては」。  争点は単に理論的な問題ではなかった。国王ルイ 15 世、ルイ 16 世の臣民がみな、「国王 と王国の宗教」、すなわち「カトリックで、使徒伝来で、ローマ的な」宗教を原則として共 有しているフランスにおいて、各小教区で出生・結婚・埋葬の簿冊を、洗礼・結婚・葬儀 といったカトリック儀礼の登録形式にのっとり管理していたのは主任司祭であった。言い 換えれば、結婚は教会の秘跡であり、そうでなければ何物でもなかったのである。さて現 実には、「いともキリスト教的な王国」の内側に、二つの宗教的マイノリティが存在して いた。1789 年当時のフランスの人口 2,800 万人に対して、およそ 60 万人のプロテスタントと 4 万人のユダヤ教徒がいたのである。他にも無信仰のカトリック、宗教実践をほぼおこなわ ないカトリックも相当数いたことを忘れてはならない。20 万人のアルザス地方のルター派 (離婚を否定しない)には、1680 年にこの地が併合された際、宗教的自由が認められてい た。セファルディムやアシュケナジムのユダヤ人共同体の成員は「無関係とみなされ」、彼 らの固有の法(離縁の可能性を拒絶しない)に従っていた。一方、王国内に居住するカル ヴァン派由来の改革派 40 万人については事情が異なり、ルイ 14 世により 1685 年にナント 勅令が廃止されると、彼らは改宗か亡命を余儀なくされ、1760 年代まで信仰と礼拝の迫害 を受けた。その後「容認」されるが、それでも出生・結婚・埋葬の承認にはカトリックの 主任司祭が必要であり、さもなければ彼らは法的存在を諦めるしかなかった。19 世紀に大 臣を務めるフランソワ・ギゾーがその例にあたる。  フランス革命前夜、初めて結婚が純粋な民事契約として承認されたが、それも改革派を 考慮してであった。1787 年 11 月 7 日のヴェルサイユ勅令すなわち寛容令は、改革派に対

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して、司法官 officier de justice が登録する婚姻の特別形態を認めた。その理由は、マル ゼルブの影響下で起草されたこの勅令の前文で述べられたが、宗教的でありかつ実用的な ものだった。「我々の司法と王国の利害は、カトリック教を信仰しない、臣民ないし帝国内 に居住する外国人に対し、民事籍を持つ権利をこれ以上長く剥奪することを容認しない。 […]プロテスタントは、法的地位を持たないためにやむを得ない解決策をとり、みせか けの改宗をおこなうことで秘跡を冒涜し、王国の立法によって事前に無効と証された結婚 をしながら彼らの子の身分を危うくしていると、我々は考えた」。かくして、結婚に関する 諸条項は、「非カトリック」をカトリックと同じ命令―事前公示(第 8 〜 10 条)、反対・支障・ 特別許可(第 11 〜 16 条)、4名の証人の前での結婚宣言(第 12 〜 19 条)、登録(第 20 条) ―に従わせたのだが、これらの行為がなされるのは司法官やその文書係の面前においてで あり、もはやカトリックの小教区の主任司祭や助任司祭の前でではなくなり、またそれら の民事効力は、司祭の前で結ばれた秘跡の効力と等しくなったのである6  先に述べたように憲法制定議会は、1791 年 9 月に正式に「法律は婚姻を民事契約として のみ認める」という原理を宣言したが、契約登録の厳密な方式は決定されず、次の立法議 会に持ち越された。実際、フランス革命の初期には、聖職者市民化基本法(1790 年 7 月 12 日)によって創設された新たな立憲教会に対するためらいがみられた。同法はフランス革 命の諸原則に従って「再生された」教会、つまり教皇庁から事実上独立し、市民が聖職者 のなかから選挙によって選び、国家が給与を支払う司教と司祭で構成される教会を設置し たのであるが、この司教と司祭たちが宗教と道徳に関する一つの公務員団を形成し、彼ら に民事籍の登録を任せる可能性もあったのである7 。しかしながらこの考えは立法府からた だちに消え失せていった。そして、純粋に国家的で民事的で「世俗的」論理が勝ることに なる。それには、微妙な違いはあるものの、教会法学者デュラン・ド・メラヌ Durand de Maillane や議員ジャン = ドニ・ランジュイネ Jean-Denis Lanjuinais が支持していた、民事 上の結婚と宗教上の結婚とのあいだの完全な分離という計画がともなった。前者は『国民 議会の聖職者委員会に関する弁明の歴史』(1791)の著者であり、後者は 1791 年6月に決 め手になった報告書、『結婚許可証 dispenses de mariage を廃止し、結婚の延期・中止を 定める障害を廃止ないし修正し、さらには身元確認のための純粋に民事的様式を設ける必 要性に関する報告書』を出版した。  1791 年 9 月の「法律は婚姻を民事契約としてのみ認める」という宣言から 1792 年 9 月 6 Autour de l’Édit de 1787. Journée d’études organisées à Paris les 9 et 10 octobre 1987 par la Société de l’Histoire du Protestantisme français à l’occasion du bicentenaire de « l’Édit de Tolérance » accordé par Louis XVI, sous la direction d’André Encrevé et Claude Lauriol, dans Bulletin de la Société de l’histoire du protestantisme français, CXXXIV, 1988 ; « Les protestants et la Révolution française », dans Bulletin de la Société de l’histoire du protestantisme français, CXXXV, 1989/4, p.465-827. 7 Albert Mathiez, Rome et le clergé français sous la Constituante. La Constitution civile du clergé. L'affaire d'Avignon, Paris, Armand Colin, 1911 ; Gérard Pelletier, Rome et la Révolution française. La théologie et la politique du Saint-Siège devant la Révolution française (1789-1799), Rome, Collection de l’École française de Rome n°319, 2004.

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20 日の民事籍と離婚に関する法律に至るまでの比較的速い展開の過程においては、様々な

要因が作用した8 。長期的にみておそらくもっとも重要なのは、人類学的性質を持つ要因で

ある。つまり人の誓約の時間の次元に関することである。実際、憲法制定議会は啓蒙哲学 の論理にのっとり「終身誓願」の観念に反対した。憲法制定議会は「宗教誓願」を 1789 年 10 月 28 日に停止し、1790 年 2 月 2 日に撤廃した。その結果、フランスに存在する大修道 院 monastères、修道院 couvents、修道者共同体 communautés religieuses régulières は全 滅し、それらの所有財産は「国有財産」として売却された。憲法制定議会は死者のための 永代ミサの執行に対しても同じことをなし、これを消滅させる。つづく恐怖政治は、聖職 放棄司祭たちに「叙階状」を世俗権力へ引き渡すよう要請するが、これは「永遠なる司祭 sacerdos in aeternum」という教会法原則に反する行為である。永遠性は、革命期の契約の 概念と実践から排除されたのである。  「自分の自由の放棄、それは人間たる資格を放棄することである」、とジャン = ジャック・ ルソーは 1762 年に『社会契約論』で書いていた(第 1 編第4章「奴隷制について」)。そし てこうも付け加えていた。「こうした放棄は人間の本性と相容れない。そして意志から自由 をまったく奪い去ることは、おこないから道徳性をまったく奪い去ることである」。革命期 に展開した結婚と離婚に関する議論のなかで、結婚の解消不能性というカトリックの原則 は司祭・修道士・修道女の終身誓願になぞらえられ、奴隷制度の更新された一形態だとみ なされた。「不幸の判決を自分に言い渡すような契約に署名することなど、絶対にない。そ の判決には上訴できないようだし」と、エネは 1789 年の小冊子『離婚について』のなかで 彼の代弁者の一人に語らせている。「一生涯を犠牲にする選択をするかもしれないという不 安が多くの人を結婚から遠ざけている。彼らは、今後もうこの結び目を恐れずにすむだろう。 婚姻 hymen に関して、誤りが不可逆的なものでなくなるのならば」、とも断言した。立法 議会における報告者のレオナール・ロバンは 1792 年 9 月 13 日に次のように述べた。「もし私 たちが離婚[制度の成立]を拒むならば、陪審団はその際、奴隷制判決を下すことになる だろう。それは私たちの風俗には合致しない」。のちの共和暦 3 年の憲法も同様に、「法は、 宗教誓願も、人間の自然権に反するいかなる誓約をも承認しない」(第 352 条)と規定する。 離婚を制度化した 1792 年 9 月 20 日法も、同じ趣旨に沿って、この原則を明示し可決された。 「離婚の権利は[…]個人の自由に由来する。解消不能な誓約は個人の自由の喪失であろう」。 解消不能性は、「個人の自由」がつづく時間のなかでの人間性喪失の方法とみなされ、自然 8 Pratiques religieuses, mentalités et spiritualités dans l’Europe révolutionnaire (1770-1820). Actes du colloque, Chantilly, 27-29 novembre 1986, réunis par Paule Lerou et Raymond Dartevelle sous la direction de Bernard Plongeron, Turnhout, Brepols, 1988 ; Histoire de la France religieuse, sous la direction de Jacques Le Goff et René Rémond. Tome III. Du Roi Très Chrétien à la laïcité républicaine (XVIIIe-XIXe siècles), Paris, Le Seuil, 1991, 558p., sous la direction de Philippe Joutard, avec des

contributions de Philippe Boutry, Philippe Joutard, Dominique Julia, Claude Langlois, Freddy Raphaël et Michel Vovelle ; Les défis de la modernité (1750-1740), sous la direction de Bernard Plongeron, Paris, Desclée, Histoire du Christianisme tome 10, 1997.

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権に反するものと定義された。否定されたのは、解約に関する条項が存在せず時間的限定 がないものに対して義務を負う、人間の能力である。人類学的には、結婚を民事契約の一 つとみなすことは永遠性の否定であり、時間に関する新しい体制の出現を意味するのであ る。  [離婚法を成立させた]二つ目の論拠は法律上のもので、1789 年 8 月 26 日の人権宣言の 主要な二つの原則をその論理の極限まで推し進めた。第1条(「人間は自由かつ権利におい て平等なものとして生まれ、そうありつづける」)と第 10 条(「いかなる人も、その意見の ゆえに、たとえそれが宗教上のものであっても、その意見の表明が法によって定められた 公的秩序を乱すことさえないなら、脅かされてはならない」)である。市民間の法的平等の 原則により、宗教にもとづくあらゆる区別、信仰に関するあらゆる差別が否定された。こ うして憲法制定議会は、法の前での、また税の前でのすべての人の平等を確立し、すべて の市民の公職へのアクセスを認め(1789 年 12 月 24 日)、カトリックから国家宗教の地位を 奪い(1790 年 4 月 13 日)、そして2年のあいだ(1789 〜 1791 年)に宗教的マイノリティへ の民事的・政治的平等を保障した。まずはプロテスタントに対して、次いで王国内の「ポ ルトガルとアヴィニョンのユダヤ人」に対して(1790 年 1 月 28 日)、さらに、フランスへ 併合された「アヴィニョンとコンタ(ヴナスク伯爵領)」の「教皇のユダヤ人」に対して(1790 年 1 月 28 日)、そして最後に、困難をともないつつもアルザスとロレーヌ地方の「ドイツ のユダヤ人」に対して(1791 年 9 月 27 日)、である。様々な宗派の市民に対する法的平等 が確立すると、それが圧倒的多数派とはいえ一つの宗派の聖職者のみに、存在に関する本 質的な行為の登録を委ねておくことはもはやできなくなった。結局のところ、民事籍の「世 俗化」は、ネイションへの帰属のみによって市民権を定義した結果であり、宗教の多元性 の承認の結果なのである。  1792 年 9 月 20 日法を成立させた三つ目の論理は、もっと直接的に政治に関係している。 常にさらに急進的で、さらなる暴力がともなう革命の動きのなかにおいて―1792 年 9 月 20 日の法が採択されたのは、チュイルリー宮が占拠され、国王ルイ 16 世とその家族が幽閉さ れた 40 日後、パリの監獄での大虐殺が発生した 2 週間後、国民公会による共和政宣言(1792 年 9 月 21 日)の前日であった―、革命の国家は、宗教制度に手心を加えようとはしなか った。国家は、教皇および教義や規律に関する彼の教えを支柱とするカトリック教会の一 体性に忠実な聖職者を、革命の敵とみなした。「宣誓拒否」司祭は、処刑の脅威をうけてフ ランス出国を余儀なくされ(1792 年 8 月 26 日)、230 名が 1792 年 9 月 2 日から 5 日までに パリの監獄で虐殺された。しかし、革命の国家はフランス革命に賛同した聖職者、すなわ ち「立憲」教会の聖職者に対しても嫌疑をかけ、聖職者の結婚を許可し推奨し、1 年後の 1793 年の秋には、「非キリスト教化」の広範な攻撃を開始する用意を整えた。その攻撃には、 カトリックの聖堂、プロテスタント教会堂およびユダヤ教シナゴーグの閉鎖、キリスト教 の時間性には無縁の「革命暦」の使用義務、旧来の礼拝の禁止、革命礼拝と市民道徳の促 進、ついにはおよそ 3,000 人の犠牲者を出すカトリック聖職者の迫害が含まれていた。出生・

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結婚・埋葬の登録簿を市町村に委ねること、それは、教会に対する国家の、教会組織に対 する公的行政の、小教区に対するコミューン(市町村)の、宗教法に対する民事法の決定 的支配を承認することだった。  宗教的平和への回帰は 1795 年春にはじまり、次いで 1801 年から 1808 年までのあいだに ナポレオン・ボナパルトが3つの「公認宗教」体制(カトリック、プロテスタント、ユダ ヤ教)を制定したことによって、確立し確認された。それ以降、国家のライシテと国家の 宗教領域からの完全なる離脱を定めた 1905 年 12 月 9 日の政教分離法に至るまで、結婚に 関する民事契約と宗教的祝福のあいだでの新たな均衡が再び問題となることはなかった9 国家の論理が優先され、ボナパルトは、カトリックの組織に関する適用諸令(すなわち「附 属条項」)―これらは共和暦 10 年ジェルミナル 18 日の法(1802 年 4 月 8 日)に組み込まれ、 いかなる交渉もなく教皇庁に押し付けられたもの―のなかに、以下の2ヶ条を加えさせた。 この2ヶ条は、その後他の宗派にも広げられ、フランスにおいて今日まで宗教婚に対する 民事婚の優越性と先行性を規定している。すなわち「民事官 officier civil の前で正しく 申し分のないかたちで結婚の届け出をしたことを証明できる人に対してのみ、司祭は結婚 の祝福を与えることができる」(第 54 条)。「聖職者が管理する簿冊は、秘跡の授与にしか 関係しないし、関係することができず、いずれの場合においてもフランス人の民事籍を確 認する際に、法が命じる登録簿に代わることはない」(第 55 条)。  どのようにして法律は、バルザック風に言って「風俗の一部になる」のか。どのように してカトリック、プロテスタント、ユダヤ、さらにはイスラーム、仏教、正教など今日の フランスにおける宗教的モザイクの信者であるフランス人たちは、この法的義務に適応し 同化しそれを生きたのか。どのようにして彼らは自らの信仰・行動・心性を法的義務と関 連づけたのか。これらの問題を2世紀にわたって体系的に研究することは、フランス人の 文化・宗教に関する歴史および人類学の、重要かつ興味深い一幕になるだろう10 。19世紀には、 さらに長く 20 世紀においてもなお、民事上の結婚は宗教上の結婚と比べて盛大さに欠けて いた。華やかな結婚式、衣装のための出費、婚礼行列、祝宴、お祭り騒ぎは、共同体によ って「盛大に」祝われる宗教上の結婚のためのものであった。世俗の儀礼が盛大さや威厳 を獲得するには、新築の庁舎に美しい「婚礼の間」が造られる第三共和政を待たねばなら ない。宗教上の結婚が次第に消滅し、離婚が増加し、伝統的慣習への無関心が広がったこ とはいずれも、1960 年代以降、同じ流れのなかで起こったことである。そして 2013 年のト ビラ法制定以降、同性カップルの結婚式が庁舎における結婚に補足的な意味を与えた。反 対に、とりわけカトリックのあいだでは、宗教婚の意味に重きを置く人びとの増加がみら れる。

9 Le Concordat et le retour à la paix religieuse. Actes du colloque organisé par l’Institut Napoléon et la Bibliothèque Marmottan le 13 octobre 2001, sous la direction de Jacques-Olivier Boudon, Paris, Éditions SPM, 2008.

10 Jean-Louis Halpérin, L’impossible Code civil, Paris, PUF, 1992 ; et Histoire du droit privé français depuis 1804, Paris, PUF, 1996.

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2.カップルの別離の進化の様式としての離婚  フランスにおいて、離婚を最初に制定した法が、民事籍の設置に関する法と同日の 1792 年 9 月 20 日に同じ勢いで可決されたのは、決して偶然の結果ではない。同じ契約の論理 が共和国の新法の二つの面を結びつけている。この点をもっとも明確に表明したのは、離 婚だけでなく離縁をも熱心に支持していた無名の議員マチュラン・セディレ Mathurin Sédillez だった。彼は、法の採択前の 9 月 13 日、立法議会での短時間の討論の際に、次の ように述べた。「結婚は民事契約です。結婚は、形成されたのと同じ方法で解消される契約 という性質を備えています。結婚は二人の人間の意志によって形成されたのですから、当 然のこととして、逆の意志によって解消可能であります。これこそ、まさしく人が離婚と 呼ぶものです。離婚とは、契約を交わした当事者の相互合意(協議)によって結婚を解消 するということに他なりません」。ここに、婚姻の契約的定義には解約の可能性が含まれる、 ということが十分に述べられている。  しかしながら、フランスで革命期の離婚法制定に費やされた議論時間は、主題の重大さ のわりには奇妙なまでに短いようにみえる。その期間は、検閲が廃止された 1789 年春から、 最初の恐怖政治が論争を終わらせた 1792 年夏までに限られた。市井の反応は、量も質も様々 な十冊あまりの書籍が出版された程度で、1792 年夏の議会議論も十分ではなかった。委員 会が提出した法案はほとんど審議されずに、立法議会の会期最終日に「性急に」可決され た。離婚賛成派としては、財務官吏エネの小冊子『離婚について』が注目に値するだろう。 1789 年刊行のこの冊子は、1792 年には第三版が出され、法の制定を見事に予想していた11 これに対して、離婚反対派で、あえて意見を表明した人は稀であった。そのなかにはのち に理論家になり、「ジャコバン主義」の敵対者になる、オーギュスタン・バリュエル師がい た。彼はエネの小冊子に明らかに反論するかたちで、「国民議会のある代議士に宛てた、離 婚に関する書簡」を 1789 年に発表した12 。しかし、バリュエル師は 1792 年にロンドンに亡 命を余儀なくされ、ロンドンでは反革命のイギリス人理論家エドマンド・バークによって 歓待された。1792 年夏、時はもはや議論を許さなかった。  革命期の議論がいかに限られたものであったとしても、それが様々な理由で興味深いも のであることに変わりはない。革命期の議論は、その後約2世紀にわたってフランスで繰 り広げられる離婚をめぐる議論の主要な特徴を備えていた。実は面白いことに、対立する 二つの陣営は、同一の場の上で立論した。歴史と法の場、宗教と道徳の場、有用性と正義 の場、自然と社会の場においてである。現在離婚を正当化するために利用される主な二つ の論拠は個人の自由と、とくに女性の解放であるが、それらは議論のなかでは副次的な位 置を占めていた。両陣営の見解の違いは主に、離婚反対派が聖書の権威に依拠し、個人の 自由の概念を狭くとらえていたのに対して、賛成派は婚姻の契約上の性質に依拠し、個人 11 Albert Joseph Ulpien Hennet, Du Divorce, Paris, Desenne, 1789 (disponible sur le site Gallica). 12 Augustin Barruel, Lettres sur le divorce, à un député de l'Assemblée nationale, par l'abbé de Barruel, ou bien, Réfutation d'un ouvrage ayant pour titre : Du Divorce, Paris, Crapart, 1789.

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の自由の概念を広くとらえていたことに由来する。20 世紀後半のベビーブームに関係する 人口動態の激変および文化的・精神的変容が起こるまで、離婚の問題はフランスにおいて、 本質的に宗教・哲学・道徳上の信念の問題であり、社会的有用性のために夫婦・家族の争 いを法的に解決する仕組みにとどまっていた。  エネが著書で展開した離婚のための弁明は、極めて多様な領域、つまり 18 世紀の広い意 味での歴史、法律、神学、注釈学、道徳、人口学、政治の領域に及んだ。エネは、当時そ ういう術語はなかったが先駆的な比較民俗学・比較法学と呼ぶべき観点から、まずは歴史 に依拠して論を展開し、古代エジプト、ギリシャ、ローマの諸法における離婚の存在、モ ーセの律法における離縁の存在を想起した。次いで、彼は結婚と別離の非常に柔軟な見方 を擁護する目的で、注釈学的議論をはじめた。創世記のテクスト(2 章 23 〜 24 節)―「そ れゆえ男は父母を離れて、妻に結ばれ、二人は一体となる」―にもとづいて、次のような 解釈を述べた。「妻とは何か。神が私たちにそれを教える。それは男にとっての助けである。 結婚とは何か。それは夫婦が幸福で子どもを持つはずの状態である。これらの条件の一つ が欠けた時、もはや妻はなく、もはや結婚はない。無駄な資格、効果のない絆を保持して はならない」。福音書におけるイエス・キリストの言葉―「それゆえ、神が結び合わせたも のを、人間が引き離してはならない。[…]妻を離縁して他の女をめとる者は、妻に対して 姦通の罪を犯すことになる。また、妻が夫を離縁して他の男に嫁ぐなら、姦通の罪を犯す ことになる」(マルコの福音書 10 章 9 〜 12 節)―を、「優しさと厚意によってそれを解釈 しながら」、そして「その作者のもっとも理性的で、もっとも威厳のある一つの表現、一つ の翻訳、一つの解釈」を大事にしながら記憶に留めねばならない。イエス・キリストが「禁 止したのは、離婚の無制限の行使のみである」と主張して、エネは論を結んだ。エネは最後に、 キリスト教の古代および中世を批判的に検証し、結婚を解消不能の秘跡とみなす教義は遅 れて登場したと結論づけ、歴代教皇の過干渉とトレント公会議の権威の欠けた諸教令から 離婚の禁止を説明した。この説明のねらいは一貫して、カトリックが展開する論証を掘り 崩し、カトリックの教えを相対化し、カトリックの地位を孤立させ、時間においても空間 においてもそれが特殊であることを提示することだった。  エネによる『離婚』の論証の後半部は、19 世紀を通じて繰り返し取り上げられることに なる。後半部は離婚の合理性と有用性の正当化にページが割かれている。エネにとって離 婚は「自然に合致」する。「人間の幸福と再生という二大原則に好都合な」唯一の手段でさ えあった。また離婚は、「正義に[も]合致」しており、長期間「穏やかさを暴力に、美徳 を悪徳に、羞恥を放蕩に、理性を錯乱に、潔白を犯罪に、名誉を卑しさに」結びつけた状 態を解消する。離婚はさらに、宗教にとっても好都合である。すなわち「離婚だけが、不 幸な結合から生まれ得るあらゆる[法律上の]罪、あらゆる[宗教上の]罪を予防する。 離婚は、天から呪われた結び目を破壊する。そして他の結び目を作ることを可能にする。 その新たな結び目は、[罪深い]人間からは離れた目的で組み合わされ、天によって承認さ れる」。離婚は風紀にとってはさらにずっと好都合である。「離婚を取り戻しなさい。そう

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すれば、結婚は不和、不幸、犯罪、悪徳に開かれた闘技場であることをやめ、子どもにと っての悪徳の学校であることをやめ、社会にとっての醜聞の舞台であることをやめるだろ う。こうした不平等の拘留や不道徳な別離を目にすることはなくなり、結婚とやもめ暮ら しが混在した状態もなくなるだろう。不貞、売春、放蕩は一気に減少するだろう」。最後に、 離婚はすぐれて政治的である。すなわち、「夫婦関係の解消不能性は、結婚を減少させ出生 力を低めることで人びとに害悪をもたらすか、あるいは、結婚に対する恐怖心を与えるが」、 「離婚の回復は人びとを大いに励ますであろうし、それがもたらす政治的利益は明白であ る」。以上のように自然の、正義の、宗教の、道徳の、政治の見地から、支持者たちの目に 離婚は、1789 年以来展開してきたフランスの再生にとって必要なものと映っていた。  敵対する陣営の立論は、離婚支持派の立論の関心事を共有していた。バリュエル師にと って、カトリックの教義と国民の伝統に合致する解消不能の結婚は同じく、より自然で、 より義にかない、より宗教的で、より道徳的で、より政治的なものであった。しかしこの 革命家の敵は、次のように主張しながら、個人の自由を社会の利益のために犠牲にすると いったところまで論を押し進めた。「自然はあなたを、あなた自身のためよりも、あなたの 子どもたちのために、公共善のために、さらには社会のために結婚へ導くのだ」、そして「自 然と社会の一般利益および一般願望は、個人の利益と願望に勝るものでなければならない」、 と。バリュエル師にとって、「離婚は自然の願望に反する。離婚は自然が承認する物事の秩 序のなかにはない。自然が男を女に結合させるとき、それは永久に、両者を結合させるの である」。離婚は社団の調和にも反する。それは「社会における分裂、憎悪、訴訟のとどま ることを知らない源泉」だからである。離婚は、分解要素である。「結婚は利害を一つにし、 財産を強固なものにしていたが、離婚は利害を分裂させ、財産を破壊し、議論を提起し、 訴訟を引き起こし、遺言書をなくすだろう」。結局のところ、バリュエル師の目に離婚は、 無益で、不道徳で、反宗教的と映っていたのである。つまり「離婚を認める法、それは無 益であり、品行のよい「国民」にとっては余計なものであると、私は少なくとも言おう。[…] あなた方は、彼らにとって不幸かもしれない別離の可能性を一つの恩恵として差し出し、 彼らが最初の誓いに対する冒涜とみなす新しい愛、新しい絆を一つの誘惑として差し出す」。 離婚は、教会と国家のどちらかを切り捨てることになろう。「私たちは国民議会に対して最 大限の敬意と最大限の従順を示さねばならない。しかし、信仰に関するあらゆることにつ いては、イエス・キリストとその教会にすべてを捧げねばならない。[…]あなた方は私た ちに黙るよう命令するだろうが、神は私たちに話すよう命令するだろう。私たちは身を守 ることはできないが、死ぬことはできる。というのも最終的には期日があり、そのときに うまくやらねばならない。議会は何を得たのだろうか。殉教者を出したという汚名である。 では私たちは? 人としての栄光である」。19 世紀に非妥協的カトリシズムが展開すること になるあらゆる主張の萌芽が、彼の言葉のなかにある。  1792 年 9 月 20 日の法は、パリ選出の議員レオナール・ロバンの報告を受けてほとんど議 論されず性急に可決された。冒頭の 3 ヶ条は、革命期のテクストが持つ断定的な調子を備

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えており、離婚を非常に広範なものとして直ちに制度化した。「第1条:結婚は離婚によっ て解消される。第2条:離婚は夫婦の合意によりおこなわれる。第3条:夫婦の一方が気 質や性格の不一致という単純な申し立てにより離婚を宣告させることができる」。第4条 は、非常に幅のある、離婚の七つの事由を提示する。「夫婦のどちらも次の特定事由にもと づいて離婚を宣告させ得る。1, 夫婦の一方の心神喪失、精神錯乱、激高。2, 夫婦の一方 が体刑ないし加辱形に処された場合。3, 夫婦の一方の他方に対する深刻な罪、暴力、侮辱。 4, 札付きの風紀の乱れ。5, 少なくとも2年間、夫が妻を放置、ないし妻が夫を放置した 場合。6, 知らせのないまま少なくとも5年間、夫婦のどちらかが不在である場合。7, 亡 命」。別居と財産分与の手続きは廃止された。協議離婚の場合、手続きによって「家庭裁判 所 tribunal de famille」が仲裁する。「家庭裁判所」とは両親や友人で構成される会議体 で(実際には法律相談人 conseils juridiques や法曹で構成されるようになる)、そこでの 決定は自治体が登記する。夫婦間で合意が得られない場合、家庭裁判所と同時に身分吏 of ficier d’état-civil が最終審理として離婚の判決を言い渡し、夫婦と子どもに関する 諸条件を定める。離婚の登記は義務である。このようにしてフランスは、5年間(1787 〜 1792 年)に、多数派カトリックの秘跡にもとづく解消不可能な婚姻の体制から、契約者双 方もしくは一方の意志にもとづく撤回可能な契約の体制への移行を経験した。さらにモン ターニュ派による国民公会の独裁期に、二つの立法措置が離婚へのアクセスをより容易に した。すなわち共和暦 2 年ニヴォーズ 8 日(1793 年 12 月 28 日)の法は 1792 年に制定され た離婚手続きの期日を早め、共和暦 2 年フロレアル 4 日の法は夫婦の一方の不在理由を5 年から6ヶ月に短縮した。婚姻をめぐる時間の体制はこうして再び加速されたのである。  文字通り革命的なこれらの法を可決したフランスは、正教徒やプロテスタントを含む他 のどのようなキリスト教国とも差異化された。他の国では、離婚は可能だったとしても非 常に狭き門であり、社会的エリートのみに許されていた。たとえばイギリスでは、結婚 解消はイギリス国教会の宗教裁判所が管轄する事案であり、また離婚に関しては、国会 の証書を要求するもので、貴族の関心しか惹かなかった。イギリスでそれ特有の司法機 関として離婚婚姻訴訟裁判所 Court for Divorce and Matrimonial Causes が設置され、虐 待、放棄、不貞を理由とする離婚が大多数の人びとに可能となるには、1857 年の婚姻訴

訟法 Matrimonial Causes Act の発布を待たねばならない13 。帝政ロシアにおいては、1833

年にスペランスキー伯爵によってサンクト・ペテルブルクで布告された帝国の法律(Svod Sakonov)が、特例として、不貞、性的不能、市民権剥奪もしくは放棄を理由にする離婚を 認めたが、これを管轄したのは宗教裁判所のみであり、費用がたいへん高額だったために 最富裕層だけが手続きをおこなうことができた。民事籍が世俗化し、離婚が一般化するの 13 Lawrence Stone, Road to Divorce. England, 1530-1987, Oxford, Oxford University Press, 1987; Allen Horstman, Victorian Divorce, London, Croom Helm, 1985; Sybil Wolfram, “Divorce in England, 1700-1857”, dans Oxford Journal of Legal Studies, V, 1985/2, p.155-186; Ann Summer Holmes, “The Double Standard in the English Divorce Laws, 1857-1923”, dans Law and Social Inquiry, XX, 1995/2, p.601-620.

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は 1917 年のボリシェヴィキ革命とともに、でしかない。このような制限的措置はドイツ連 邦のプロテスタント諸州においてもみられた。カトリック諸国では、結婚解消の理由をロ ーマ教皇庁控訴院まで届け出ねばならず、19 世紀にこれをおこなったのは貴族階級だけだ った。したがって、フランスは例外的に早く、驚くほど広範な理由で離婚に訴えることが できた特殊な国である。おそらくそれゆえにその歴史は、制限と開放のあいだでの幅のあ る寓話によって特徴づけられることになるのだろう。  1792 年 9 月 20 日法の推進者たちは離婚を、カップル・家族・人類全体の再生の希望を生 み出すものとみていた。再び、1789 年のエネの言葉を聞いてみよう。「回復された離婚が最 初にもたらす直接的な結果は、多くの別れた夫や妻に、ポリスの命令あるいは法的判決に よって幸せと美徳を返すことであろう。[…]離婚が回復すると、すべてが変わる。すべ ての悪人、不幸な人は幸せな善人になる。各人が自分の場所に戻り、見事な秩序がこの上 なく陰気なカオスに取って代わる。いたるところで運命に満足し、義務に誠実な夫婦を目 にするようになる」。エネはその措置のあらゆる利点を、熱を込めて列挙する。「推奨され る結婚」。「未然に防がれる夫婦不和」。「源で阻止される無秩序」。「撤廃される別居」。「全 廃される性的不能告発」。「無益な結婚破棄」。「ごく稀になる不貞」なぜならば「不幸な女 性が減るので、不誠実な女性が減る」から。「減少する独身者」。「抑制される売春」。しま いに離婚自体も減少する。「離婚法が離婚そのものに対する最大の予防策になるから。離婚 は可能になれば、ほとんど無用になり、許されれば、ごく稀になる」。したがって、「まさに、 この制度は[…]不幸な結婚を破壊する技法というより、あらゆる結婚を幸せにする技法 なのである」。  1792 年 9 月 20 日法の、実際の適用は限られていた14 。1792 年から 1816 年まで、すなわ ちフランスで離婚が許可されていた全期間に、離婚の現象はごく少数にとどまった。人口 2,800 万人に対して離婚件数は 3 万件で、この半数は 1792 年から 1795 年までに発生した。 これらは主に、1792 年より以前にすでに生じていた事実上の別離が離婚へかたちを変えた ものである。共和暦 3 年以降、離婚は稀になり(リヨン、マルセイユ、ルアンでは年に数 十件)、1803 年の制限以降はさらに少なくなった。農村部は離婚を知らずにいた。離婚は主 に都市の現象であり、とりわけパリ、リヨン、マルセイユ、ルアン、ボルドー、トゥルー ズといった大都市の住民の関心を惹いた。パリでは 1792 〜 1800 年に 12,000 件の離婚があ り、そのうちの 6,500 件は 1792 〜 95 年に生じた。離婚を申し立てた人の多くは都市中産階 級、たとえば職人、小売店主、商人、自由業[従事者]、公務員であった。離婚申請の3分 の2は妻によるもので、もっとも多い理由は「罪、暴力、深刻な侮辱」、放置、気質の不一 致だった。不貞は「家族の名誉」を傷つけないように沈黙された。共和暦 2 年フロレアル 4 日の政令が許可した、6ヶ月以上の不在を理由に挙げるほうが好まれた。富裕層による「亡 14 Roderick G. Philips, Family Breakdown in Late Eighteenth-Century France. Divorces in Rouen, 1792-1803, Oxford, Clarendon Press, 1980 ; Dominique Dessertine, Divorcer à Lyon sous la Révolution et l’Empire, Lyon, Presses universitaires de Lyon, 1981.

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命」を理由とする離婚は、家族の財産を保持する目的で指図されたようにみえる。協議離 婚は社会の上層階層をより惹きつけた。革命期の離婚は、社会的な大混乱を招くようなこと はまるでなく、むしろ宗教上の、法の、文化の断絶を生んだ。したがって離婚の再検討は、 とりわけイデオロギー的な側面から起こってくる。  [離婚制度の]廃止に向けての道のりは、総裁政府期から第二次王政復古にかけて(1795 〜 1816 年)、大きく三段階を経て進んだ15 。恐怖政治期の後、離婚は「恥ずべき法」で、革 命の無秩序の一因でもあるとして糾弾する声があがり、それは議会にまで及んだ。共和暦 2 年ニヴォーズ 8 日とフロレアル 4 日の政令は、共和暦 3 年テルミドール 15 日(1795 年 8 月 2 日)に停止され、のちに廃止された。家庭裁判所は共和暦 4 年ヴァントーズ 9 日(1796 年 2 月 28 日)に廃止された。性格の不一致を[離婚の]理由にできるための期間は、共和 暦 5 年の余日第一日に、半年から1年へと延長された。離婚を制限ないし廃止すべく、小 冊子、誓願、法案がいくつも発された。ルイ = セバスチアン・メルシエのような啓蒙思想 の申し子さえも、『新・パリ情景』(1798)のなかで次のように書いている。「これらの忌ま わしい政令」が原因になって「社会の紐帯が引き裂かれた。情熱に駆られ、放埒で、野心的で、 節操も道徳心もないような男たちが、そのふしだらな嗜好、憎悪、吝嗇のままに振る舞っ ているのだ」。しかし、共和暦 5 年フリュクチドール 18 日(1797 年 9 月 4 日)のジャコバ ン的なクーデタによって、法制度上の変化はすべて停止することになる。  離婚に対する攻撃の第二波は、共和暦 8 年ブリュメール 18 日(1799 年 11 月 9 日)のボ ナパルト将軍によるクーデタと、1789 年の諸原則の枠内で秩序を回復しようとする彼の試 みとに、追随するかたちで生じた。新たな国家元首[ボナパルト]は述べた、「市民諸君、 革命は、それを生み出した諸原則に固定される。革命は終わったのだ」、と。起草中の新た な民法典に離婚は盛り込まれるのだろうか。1801 年に刊行された『離婚について:19 世紀 における社会の内的状況および公共的状況との関連において』なる書籍が、この時たいへ んな反響を呼んだ。著者ルイ・ド・ボナルドは、亡命貴族であったが、1797 年に帰国した 後は、伝統主義と反革命の中心的理論家の一人になっていた。彼は、結婚解消不能論を支 持していた16 。ボナルドは、家父長制的な秩序にもとづいて家族を定義し、それが社会の基 礎的な細胞であると考えていた。家族とは社会秩序の基礎、基盤で、弱めたり脅かしたり してはならないものであった。「今日、国家を救うには、家庭の骨格を離婚から守らねばな らない。離婚は残酷な権利であって、父からは権威を、母からは尊厳を、子どもからは保 護を残らず奪い去ってしまう。離婚があることで、家族は一時的な契約のごときものになり、 人心の弱さから生まれる熱情や利害がまかり通ってしまい、それを押しとどめるには別の 15 Nicole Arnaud-Duc, « L’esprit d’un code et ses variations apparentes : la législation sur le divorce en France au XIXe siècle », dans Mémoires de la Société pour l’histoire du droit et des

institutions des anciens pays bourguignons, comtois et romands (Dijon), XLVIII, 1991, p.217-234. 16 Louis de Bonald, Du Divorce considéré au XIXe siècle relativement à l’état domestique et à l’état

public de la société, Paris, Le Clère, 1801 ; Résumé sur la question du divorce, par l’auteur du « Divorce considéré au XIXe siècle », Paris, Le Clère, 1801.

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利害や熱情が必要になってしまう」。  新たな民法典の起草を担っていた国務院評定官たちは、社会有機体論に冷淡だったわけ では決してなく、むしろ意見が分かれていたように思える。ポルタリスは[民法典の原案 になった]『緒言』のなかで、次のように強調していた。「私的な徳だけが、公共の徳を保 証できる。小さな祖国すなわち家族を通してこそ、大きな祖国に結びつきうる。良き父、 良き夫、良き息子だけが、良き市民になりうる」。かつて国民公会でルイ 16 世の弁護に立 ったトロンシェもまた、結婚の社会的役割を称揚した。「結婚は重要な行為であり、社会の 基礎をなす。したがって、結婚を尊重させ慈しむよう手を尽くして、結婚を守らねばなら ない。こう考えたからこそ、あらゆる民族は曖昧な理由での離婚を拒んできたのである」。 さらには、こうも述べる。「結婚はあらゆる誓約のなかでもっとも聖なるものだが、それは 結婚が社会の調和につながっているからである。結婚によって個々の家族が形成され、そ れが組み合わされることで、国家という大きな家族が形成される」。だがボナパルトは、協 議離婚も含め、迅速な離婚が可能になることに賛成であった(彼自身、子孫を確保するた めに 1809 年に離婚することになる) 17 。最終的にポルタリスは、二つの主要な議論を維持 する方向で判断を下した。第一の議論は、宗教の多元性に関連し、結婚の解消不能性とい うカトリシズムの教義を他の宗教に強制してはならないとするものであった。「フランスで はカトリックという宗教は支配的であり、宗教制度と非宗教制度とは分かちがたく結びつ いてきた。そうである限り、宗教が解消不能であると宣言した誓約を民法もまた解消不能 であると宣言しないわけにはいかなかった。宗教もまた国家の法のひとつなのだから。人 びとを統治する諸原則のあいだには、何かしら調和が必要なものである。今日、礼拝の自 由は根本的な法の一つになっている。また、宗教の教義のほとんどは離婚を認めてもいる。 かくして、離婚の権利はわれわれにとっては良心の自由と結びつくことになる」。ポルタリ スの第二の議論は離婚の規制に関するもので、たとえ双方が同意した場合でも[離婚の] 申請者を思いとどまらせるべく、長く複雑な法的手続き設けることで、その規制を実現す るというものであった。「離婚が、理由もなく認められるようなことがあってはならない。 離婚の理由になりえるのは、契約に対する明白な違反に限られる。[…]離婚の問題は親 族会 conseil de famille の権限とされていたが、われわれはそれを裁判所に付与した。こ れほど重要な事柄であれば、司法による介入は不可欠である」。そして次のように結んだ。 「全体として、離婚に関わる法案でわれわれが狙っているのは、その濫用を予防し、結婚を 守ることである」。  共和暦 11 年ヴァントーズ 30 日(1803 年 3 月 21 日)の法は、離婚と別居を扱っており、 ボナパルトが共和暦 12 年ヴァントーズ 30 日(1804 年 3 月 21 日)に公布した「フランス人 の民法典」では第1巻第 6 章に取り入れられている。この法は、離婚の可能性を大幅に制 限し、離婚を困難かつ費用がかかるものにすべく一群の法的手続きを定めた。それによれ ば、離婚手続きには民事裁判所 tribunal civil への出頭が必須になった。また、離婚にお 17 Henri Welschinger, Le Divorce de Napoléon, Paris, Plon, 1889.

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ける「特定事由」として認められたのは、以下の三つの理由、すなわち不貞、「深刻な不摂 生、暴力もしくは侮辱」、「夫婦のいずれかが名誉刑を科されること」のみであった。妻の 不貞はいかなる場合でも離婚の理由になりえたが、夫の場合は「夫が内縁の妻を夫婦の住 居に住まわせたとき」にのみ不貞が成立するとし、その結果、内縁関係や買春行為では離 婚手続きに至らないことになった。協議離婚は維持されたが、以下の条件が付された。す なわち夫が 25 歳以上、妻が 21 歳以上であること、生存中の尊属の許可を受けていること、 結婚後 2 年が経過していること、である。一方、結婚後 20 年が経過しているか、妻の年齢 が 45 歳以上である場合は、離婚は禁じられた。また、離婚の手続きも著しく複雑になった。 それでも、別居や財産分与はついに法制化された。民法にもとづく離婚制度は、13 年(1803 〜 1816 年)しか存続しなかったが、そのあいだ、離婚はまれにしかおこなわれず、それも 富裕な階層にほぼ限られていた。  [離婚廃止に向けた]第三の段階は、ワーテルロー敗北の後、ボナルド法(1816 年 5 月 8 日) により離婚が無条件で廃止されたことであった18 。伝統主義を奉じる思想家で、代議士に 選出されたボナルドが、王政の絶対的な信奉者が牛耳る議会において[離婚廃止に向けて] 展開した論は、人類学、政治、宗教のすべてに及ぶものであった。1815 年 11 月 26 日にお こなった法案の趣旨説明のなかで、ルイ・ド・ボナルドは、社会は家族の上に築かれてい ると主張した。「家族という社会は、一夫一婦制と、婚姻の解消不能性からはじまる。[…] 社会の原初的かつ正しいあり方においては、家族が国家になり、風俗が法になる」。そこか ら彼は、離婚と決別する必要を導き出す。離婚とは、革命によってもたらされた、無秩序 の素なのである。「フランス革命は、誘惑や無秩序をもたらすありとあらゆる手段をわが物 とした。[…]離婚が制定された。[…]その離婚は、今日に至るまでわが国の法体系のな かに、恥辱と放埒の記念碑のごとくに残り、風紀の弱さ、精神の乱れがこの時代において いかほどであったのかを、未来の世紀に向けて証明するであろう。[…]今日、強固な法を 定めることで家族の安定性を確保せねばならない」。ついには、[復古王政の]憲章の第 5 条がカトリシズムを「国家の宗教」の地位に戻したことで(宗教の多元性は承認されたの ではあるが)、結婚の解消不能性を法律において復活させた。「諸君、宗教の復活は人民の 要求のなかでもっとも喫緊のものであり、その代表者たる議員の、第一の要望である。私 たちの義務、それは宗教が惹き起こしていた敬意、持っていた影響を取り戻すこと。人び との習慣や感情のなかに宗教を再び据えること。端的に言えば、宗教を行政にとってもっ とも強力な補助者とすること。それはあたかも、宗教があらゆる政体にとって根本的な教 義であり、不可欠な裁きであるのと同様である」。そしてこう結論づける。「諸君。わが国 の法体系の名誉を損なう、この弱き偽りの法、世界を転覆させフランスを破滅に導いた哲 学 philosophie の長女たるこの法、これをただちに消し去ろうではないか」。かくしてフラ ンスでは、1816 年から 1884 年までのあいだ、夫婦関係が破綻した場合、別居や財産分与 18 Flavien Bertran de Balanda, « Louis de Bonald et la question du divorce, de la rédaction du Code civil à la loi du 8 mai 1816 », dans Histoire, Économie et Société, 2017/3, p.72-86.

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が認められることはあっても、それで結婚が無効とされることはなかったのである19  離婚の禁止がかくも長く存続したことは、歴史家に次のような問いを投げかける。1830 年 7 月の自由主義的な革命が起こり、カトリシズムが「国家の宗教」であることを完全に やめたにもかかわらず、離婚が復活しなかったのはなぜなのか。第二共和政も第二帝政も、 [離婚が禁止されるよりも]前の法体系に戻ることをしなかったのは、どのように説明さ れるのか。ルイ = フィリップ王による自由主義的な王政のもと、1831 年、1832 年、1833 年、1834 年の四度にわたり、離婚の復活が代議院[下院]で承認された。しかし四度とも、 上院である貴族院が改革を葬り去った。1848 年 5 月 26 日、共和主義者で、ユダヤ教徒であ りながら自由主義を信条としていたアドルフ・クレミュー法務大臣は、離婚の復活をあら ためて提案した。しかし、彼はまもなく政府を去らざるを得なくなり、法案も放置された。 皇帝ナポレオンの甥で、みずからナポレオン 3 世になるルイ = ナポレオン・ボナパルトは、 ナポレオンの制度に対して強い思いを抱いていたものの、民法典第1巻第 6 章[離婚規程] の復活を提案することは一度としてなかった。結婚を解消不能とする制度により、フラン スは、スペイン、ポルトガル、イタリアなど他の南欧カトリック諸国に連なることになっ たが、この制度は再び[フランス人の]風俗に入り込み、フランス革命によりはじまった 挿話は終わったように思えた。ジョルジュ・サンドは、夫カジミールのもとを離れるに際し、 別居と財産分与の手続きをおこない、子どもの親権とノアンにあった住居の処分権を獲得 した。ヴィクトル・ユゴーは、配偶者アデルを妻とみなすのをやめて、女優ジュリエット・ ドルエと家庭を築いたが、それ以外にも何人もと関係を持ち、後には買春行為にも頼った。 共和派代議士にしてフリーメイソンでもあったアンリ・ブリソンは、1881 年 2 月 8 日、代 議院において離婚の法制化に抗しつつ、いみじくも次のように述べた。「諸君。社会の観点 からみれば、結婚はわが国の制度の中枢、まさしく社会の分子である。他の諸制度をまと めうる堅固な要素は、結婚をおいてほかに存在しない」。  しかしながら、それから 3 年後の 1884 年 7 月 27 日、第二次ジュール・フェリー内閣のもと、 いわゆるナケ法によって、第三共和政は離婚を復活させる20 。このときの決定も、やはり イデオロギーと政治の観点からなされたものであった。その具体的な文脈は、国家、社会、 学校から宗教色を取り除く流れと、カトリック教会の社会的権威に対する闘争とであり、 論拠とされたのは、このときも、結婚が持つ契約としての性質であった。1881 年、アルフ レッド・ナケは次のように説明していた。「離婚という制度は、わが国の公法の基礎を成す 19 Bernard Schnapper, « La séparation de corps de 1837 à 1914. Essai de sociologie juridique », dans Revue historique, CCLIX, 1978, p.453-466, repris dans Voies nouvelles en histoire du droit. La justice, la famille, la répression pénale (XVIe - XIXe siècles), Paris - Poitiers, 1991, p.493-507.

20 Alfred Naquet, Le Divorce, Paris, Dentu, 1877, et La Loi du divorce, Paris, Fasquelle, 1903. Jean-François Tanguy, « La loi Naquet et le divorce : un moment majeur de la laïcisation de la société française », dans Laïcité et modernité, ou L’actualité d’un enjeu, études réunies par Jacques Bernet, Alexandre Bonduelle et Emmanuel Cherrier, Valenciennes, Presses universitaires de Valenciennes, 2006, p.131-159.

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全体的原則に適合的である。結婚の解消不能性は、それを否定することになる。1789 年以 降、結婚は、それを結ぶ者の自発的な意思に起因する契約としかみなされていない。他方で、 あらゆる契約は、それが解消される可能性を本質的に有する。その解消は、契約者双方が 同意した共通の合意によることもあれば、一方の当事者が契約の条件を満たさない場合に もう一方のみの意思によることもある」。ところが、議会で多数派を成していた共和派は離 婚の広がりをできるだけ抑えようとした。模範とされたのは、革命期の 1792 年 9 月 20 日 の法ではなく、ナポレオン期の民法であった。逆説的にも、第三共和政の「建国者」の誰 一人として、離婚法案を表立っては支持しなかった。共和国大統領であったジュール・グ レヴィーしかり、内閣首班を務めたジュール・フェリーしかり、早世したレオン・ガンベ ッタしかり。なかには、ジュール・シモンやアンリ・ブリソンのように共和派でありなが ら離婚法案に敵対的だったものもいた。法案を推進する役割を委ねられたのは、政界では 周縁的な存在であったアルフレッド・ナケである。ナケは、アヴィニョンにほど近いカル パントラのユダヤ人家系の出身であり、みずから医師にして化学者で、第二帝政には一貫 して反対し、バクーニンに近い立場にあった。まだ若かった頃に著した『宗教・所有・家族』 (1869)では、社会や結婚やカトリシズムに対して激烈な批判を展開し、その廉で有罪判決 を受けて亡命した。フリーメイソンであり、ヴォクリューズ県から急進派の代議士ついで 上院議員として当選、のちのブーランジスムにおいては将軍を支持し、晩年は社会主義と アナーキズムのあいだを揺れ動いた。そのような彼が、1876 年から 1884 年までの 8 年と、 三度にわたる法案提出を経て、離婚についての極めて限定的な法の成立にこぎ着けたので ある。  ナケは、多数派を占める共和派の支持を得るため、1792 年 9 月 20 日法を模範にした広範 かつ容易な離婚は徐々にあきらめ、ついで協議離婚についても断念せざるを得なかった。 1876 年 6 月 6 日に提出された、ナケの最初の法案は、結婚関係を断つ自由への賛歌のごと きであった。その第1条は、「法は離婚の権利に対していかなる制限を設けることもしない」 と、法の調子を定めていた。ナケは協議離婚を想定し、結婚関係を断つことを望む夫ない し妻(両者は平等とみなされた)に 14 もの「特定事由」を定めていた。第 21 条はそれを 次のように規定する。「離婚を申請する配偶者は、以下に挙げるものを特定事由とすること ができる。1,男性が申請する場合の、女性の不貞。もしくは、女性が申請する場合の、 男性の不貞。2,夫婦の一方の他方に対する、深刻な罪、暴力もしくは侮辱。3,夫婦 の一方の心神喪失、精神錯乱、激高。4,品行の明らかな乱れ。5,夫が妻を、もしく は妻が夫を、1 年以上放置していること。6,夫が、そうするための財力があるにもかか わらず、妻の扶養を拒否すること。7,夫婦のいずれかが、知らせのないままに2年以上 不在であること。8,結婚以前に発生したか以後に発生したかを問わず、性的不能である こと。9,夫婦のいずれかが、嫌悪感を抱かせるほどの、かつ治療ができないほどの身体 障害を抱えること。それが結婚の後に発生したか、もしくは結婚以前に発生していたが、 婚姻に際してもう一方がそれを知らなかった場合。10,夫婦の一方が他方に対し、虚偽の告

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