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関西学院新制中学部誕生物語 : 資料に基づく回顧

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(1)

関西学院新制中学部誕生物語 : 資料に基づく回顧

著者

今田 寛

雑誌名

関西学院史紀要

21

ページ

7-33

発行年

2015-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/13026

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  関西学院は一八八九︵明治二十二︶年、旧制中学部の前身の普通学部と神学部の二学部で神戸 の地に誕生した。従って旧制中学の発足の経緯は学院史の中には必ず登場する。それに引き換え 太 平 洋 戦 争 終 結 の 翌 々 年、 新 学 制 に 基 づ い て 関 西 学 院 が ま っ た く 新 し い 思 い で、 ﹁ 学 院 の 運 命 を 背負って﹂発足した新制中学部については、これまで詳しく取り上げられたことはない。本論文 は資料に基づいて、出来る限り忠実に関西学院新制中学部の誕生の経緯を明らかにしようとする ものである。 一  時代背景   一九四五︵昭和二十︶年八月一五日、太平洋戦争は日本の敗戦によって終結した。その後、日 本 は ア メ リ カ を 中 心 と す る 連 合 国 軍 の 占 領 下 に 置 か れ、 サ ン フ ラ ン シ ス コ 講 話 条 約 が 発 効 す る ま で の 六 年 八 ヶ 月 の 間、 国 と し て の 主 権 は な く、 多 く 自 由 が 制 限 さ れ た。 連 合 国 総 司 令 部︵ G

関西学院新制中学部誕生物語

  

∼資料に基づく回顧∼

今田

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H Q ︶が戦後いち早く行なおうとしたのは学 制改革であった。不幸な戦争に日本を導いた ことの一つに、戦前戦中を通しての軍国主義 教育があったと判断したためであろう。そこ で G H Q はアメリカに教育使節団の派遣を要 請し、二十七名からなる使節団は昭和二一年 三月に報告書をまとめ、その中に今日に至る 六 ・ 三 ・ 三 ・ 四 の ア メ リ カ 型 学 制 の 提 案 が あ っ た。それを受けて同年八月、教育刷新委員会 ︵ 委 員 長 安 倍 能 成、 副 委 員 長 南 原 茂 ︶ が 発足し、学制改革等の審議が開始された。   図 1 は教育使節団によって提案され実行に 移され、今日にも続いている新学制と、それ までの旧学制を対比したものである。図の上 は 今 日 に 続 く 六 ・ 三 ・ 三 ・ 四 の 単 一 路 線 の 学 制 であるが、戦前・戦中は図の下に見られるよ うに、教育には複数路線があった。義務教育 は小学校の六年間だけで、それで学業を終え る者、二年の高等科に進む者がいるかと思え 6 3 3 新 制 小 中 高 大 6 5 3 旧 制 小 中 高 大 6 5 関学旧制 6 5 3 昭和21年 現在 商経学部 4 小 中 予 科 大 → 短大   理工専門部 2 3 <単一路線> <複数路線> 小 中 4 専 門 学校  文学専門部  高等商業学部 法文学部 図 1 新旧学制の比較

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ば 、他方には旧制中学五年、旧制高校三年、大学四年のエリートコースがあった。そのような中、 関西学院はどのような路線をもっていたかと言え ば 、一つは中学五年の後、二年間の大学予科と、 それに続く三年間の大学のコースがあった。 大学は当時、 法文学部と商経学部の二学部のみであっ たが、現在は十一学部へと発展している。関西学院には今一つ、旧制中学五年に引き続き三年間 の専門学校があり、それには文学専門部、高等商業学部、理工専門部の三つがあった。それらは 後に短期大学となり、程なくその役目を終え一九五八年三月には廃止となった。 二  関西学院新制中学部発足までの百四十三日     新学制についての教育刷新会議の審議過程が関西学院で記録に残る形で初めて報告されたのは 昭和二一年一一月二一日の定例協議会においてであった。翌年に新制中学部が入学式を挙げた日 から逆算してわずか百四十三日前のことである。この百四十三日間に起こったことを、理事会記 録、常務理事会記録、協議会︵スクールカウンシル︶記録、及び、初代新制中学部長・矢内正一 先生の日記に基づいてたどることにする。各種記録を骨とし、矢内日記を肉としての展開となる。   昭 和 二 一 年 一 一 月 二 一 日︵ 百 四 十 三 日 前 ︶ 定 例 協 議 会 神 崎 院 長 報 告  ﹁ 内 閣 直 属 の 教 育 刷 新 委 員 会 は ア メ リ カ 側 よ り の 提 案 に も と づ く 所 謂 6 、 3 、 3 教 育 体 制 に つ き て は 目 下 研 究 中 に て、 6 、 3 、 につきて大体委員会の決定をみたるも、 6 、 3 、 3 の後の 3 につきては未決定である。 6 、 3 、 3 、 4 と 云 う ア メ リ カ 型 も 考 慮 さ れ つ つ あ り、 6 、 3 、 3 の 後 の 3 を、 上 級 学 校 に つ け る か、 中 学に属せしめるかについて目下検討中なり。これが実施を来春に期待するは困難なりとの印象を

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受く。 ﹂   補 足 ︵ 一 ︶ 協 議 会 は 全 学 の 各 部 署 の 代 表 者 に よ る 連 絡 調 整 の 場 で あ り、 こ こ に は 矢 内 先 生 は 旧 中 学 部 の 教 頭 と し て 畑 部 長 と と も に 出 席 し て い た。 ︵ 二 ︶ こ の 記 録 の 後 半 の 意 味 は、 新 制 中 学の発足は次年度から可能であろうが、新制高校の発足は困難であろうということであり、事実、 新制高校の発足は一年遅れの昭和二三年度からになった。   昭 和 二 一 年 一 二 月 一 二 日︵ 百 二 十 二 日 前 ︶ 常 務 理 事 会  報 告﹁ 日 本 の 教 育 制 度 が 6 、 3 、 3 、 4 と な る か  そ れ に 更 に 変 更 が 加 は る か 今 後 の 趨 勢 に よ り て 定 ま る も の と し  当 学 院 も こ れ に 従って研究・変更の必要あることを注意し   各理事意見の交換をなす。 ﹂   昭和二一年一二月一四日 ︵百二十日 前 ︶ 緊急協議会   院長報告 ﹁ 6 、 3 、 3 、 4 学制改革の件 来年度に於て実施をはじむる可能性あり。 ﹂   昭 和 二 二 年 一 月 二 三 日︵ 八 十 日 前 ︶ 定 例 協 議 会  院 長 報 告﹁ 6 、 3 、 3 、 4 の 新 制 度 に つ き て は目下、部科長会議にて審議中にて、適当なる時期に於て報告し得るものと思惟せらる。 ﹂    同 日  矢 内 日 記  ﹁ 放 課 後 本 部 で 協 議 会 が あ り、 夜 は、 相 談 し た い こ と が あ る か ら 来 い と の こ と で 神 崎 院 長 の 宅 を 訪 問 し た。 院 長 は 6 、 3 、 3 の 新 学 制 に 伴 う 学 院 の 計 画 と 理 想 を 話 し、 今 年 四月からはじまる三年制中学は学院の最初の礎石として大切なものであるが、これを私にやって もらいたいとの話があった。然しこの年齢層の少年の教育には私は全然自信がない旨を話し、再 考してもらひたいと話して帰った。 ﹂   補足どうやら新学制の検討は年末から年始にかけて部科長会で始まったようであるが、その 記録は現存しない。なお矢内先生宅と神崎院長宅は共に甲東園にあり、徒歩数分の距離にあった。

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  昭和二二年二月二八日︵四十四日前︶常務理事会   報告初等中学部委員会の件﹁四月より男 子のみの三年制中学を開始   原則として大学に直結すること   事務担当は増川主事   之に当たる 受験料三〇円   授業料未定   人数一六〇名   現校舎以外の場所物色中﹂   協議﹁来る四月より中学三年制︵男子のみ︶の﹁関西学院中学部﹂を開設することの提案あ り  決定す。 ﹂   補 足 ︵ 一 ︶ 初 等 中 学 部 委 員 会 の 報 告 も 現 存 し な い。 ︵ 二 ︶ 発 足 の 僅 か 一 月 半 前 に、 新 制 中 学 部 の 設 置 が 学 院 で 機 関 決 定 さ れ た こ と に な る。 今 で は 考 え ら れ な い。 ︵ 三 ︶ 授 業 料 は 間 も な く 月 額 百 円 に 決 定 さ れ る。 な お 次 年 次 に は 百 五 十 円 に 値 上 っ て い る。 ︵ 四 ︶ こ の 段 階 で 校 舎 す ら ま だ 決まっていない。   昭 和 二 十 二 年 三 月 五 日︵ 三 十 九 日 前 ︶  矢 内 日 記  ﹁ 院 長 か ら 又 新 中 学 部 長 に な れ と 云 わ れ て 困った。この間帰郷の汽車の中で﹃幸福論﹄をよんでゐるとエピクテータスの言葉で﹃もしおん みが己に適しない役割を引受けるなら、そのためにおんみは實に恥辱を蒙るのみならず、なほお ん み が 果 た し 得 た で あ ろ う 他 の 役 目 を 閑 却 す る こ と に な る の で あ る。 ﹄ と い ふ 言 葉 が あ っ た。 平 凡なこの言葉が強く私の心に訴へるのは、私が今右か左かの岐路に立つからである。 ﹂        補足︵一︶三月七日にも院長に呼 ば れ、新部長は﹁関西学院精神を十分体得した人でなくて はならぬ﹂と院長は強調される。 ︵二︶矢内先生の逡巡は続いている。   昭和二二年三月一三日︵三十一日 前 ︶常務理事会   協議事項﹁中学部長銓衡の結果   矢内正一 氏を推薦したしとの推薦あり   慎重協議の上   之を承認す。 ﹂   補足矢内先生の意に反し、矢内新部長を常務理事会は決定してしまう。

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  昭 和 二 十 二 年 三 月 一 五 日︵ 二 十 九 日 前 ︶  矢 内 日 記  ﹁ 夜、 来 い と の こ と で 院 長 の 宅 へ よ ば れ、 中学部長のことを頼まれた。この間から何回も頼まれたが口頭で手紙でという風に度々断り ・ ・ ・ 第一私は部長といふやうな地位に適せず興味も全然ない。第二に私は下級中学といふ年齢層の取 扱に自信がない。この年齢層に対しては私は 素 質的 に不適格ではないかといふことが私の最大の 懸念である。第三は私の家庭の事情である。私は老い先の短い母の為にと暫くは余裕のある地位 にゐたいと思う心が切実なのである。然しこれは私事かも知れない。学院のために、学院の今の 要請に應えて是非にと院長はいふ。そしてこの前に會ったときにはせめて一年だけでもやってく れ、一年たて ば 高校の方へまはしてもよいとまで云った。これまで折れての頼みを私は断りかね たが、それでも私はなお望みを持ってゐた。十三日の常務理事會で他の理事の意見も出て他の解 決が與えられることを期待した。然し常務理事會は私の事情と私の心境に同情を持ちつゝ、矢張 り私に決定してしまったといふ。私の希望は二十歳前後の学生を対象として教師として純粋の教 育に打ち込んでみたいといふことである。然しこの希望は許されないで、望まない地位につかな け れ ば な ら な い 羽 目 に 陥 っ て し ま っ た。 ・・・ 自 分 の 都 合 の よ い や う に の み 事 は は こ ば な い。 不 測の運命にも従はね ば ならず、義理もある。最善の道を求めて努力したが、それが叶えられない ときは、うらまず、かこたず、第二の道に最善の努力をかたむけてみるより他に道はない。私の 場合も、第二の道であると人の智慧で考えたものが、あとになってみれ ば 神の目からは最善の道 であったといふことになるのかもしれない。私は今新しい運命の下に新しい地位に就て、最善を つくす外に道を知らない。 ﹂   補 足 ︵ 一 ︶ 学 院 の た め に 不 本 意 な が ら 苦 渋 の 決 断 を さ れ た 姿 が 日 記 か ら 強 く 伝 わ っ て く る。

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下級中学という年齢層の教育には不適格であるという思い込みが強い。 ︵二︶ 断る理由の三番目に、 老い先短い母親のために時間を割きたいとあるが、実は、矢内先生は二月一六日に兵庫県佐用郡 の地主であられた父上を亡くしておられるので、一人残された母上のことを気にかけておられる。 実はこの年の秋にはこの母上も亡くなられたので、矢内先生はこの年、新制中学の誕生と引き換 えに、ご両親を失ったことになる。   昭 和 二 二 年 三 月 二 六、 二 七、 二 八 日︵ 十 七 ∼ 十 九 日 前 ︶  最 初 の 入 学 試 験  ﹁ 新 制 中 学 部 一 回 生 の入学試験は、入試本部を大学図書館の地下室に 設けて行われた。監督者は各学部から集められ ︵ た ︶・・・。 こ の よ う に 新 制 中 学 部 の 入 学 試 験 は、 中 学・ 高 商・ 大 学 予 科・ 大 学 各 学 部 す べ て の心からなる協力を得て行われたことをみても、学院が新学制に よって生まれ出る新制中学部に 、 如 何 に 大 き な 期 待 を か け て い た か を 伺 う こ と が で き る。 ﹂︵ ﹃ 関 西 学 院 高 中 部 百 年 史 ﹄︵ 一 九 八 九 ︶ の上田静雄先生の思い出より︶      同日︵三月二六日︶矢内日記   ﹁ ・ ・ ・ これから、私の少年を相手の教師生活がはじまるのだが、 十三四才の少年は流石に小さい。夕方おとづれてきた○○君が﹃人生にめざめる時期の高商の学 生に英語の授業をして眞理に対する思慕と熱情とを與へることを最も得意とした先生が、そんな 小さな生徒を対象とすることは苦痛でせうし、第一そんなめち ゃ なことはない﹄と云って同情し てくれた。 ﹂   補 足 ︵ 一 ︶ ま だ 気 持 ち の 整 理 が つ き か ね て い る 姿 が 見 て 取 れ る。 こ の 九 日 前 の 前 掲 の 日 記 に あ っ た、 ﹁・・ 私 に 決 定 し て し ま っ た ﹂、 ﹁ 望 ま な い 地 位 に つ か な け れ ば な ら な い 羽 目 に 陥 っ て し ま っ た ﹂、 ﹁ 義 理 も あ る ﹂、 ﹁ 第 二 の 道・・ 他 に 道 は な い ﹂ な ど と 考 え 合 わ せ る と、 何 も 知 ら な い

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で 希 望 を も っ て 入 学 し よ う と し て い る わ れ わ れ 一 期 生 が や や 可 哀 想 に な っ て く る。 ︵ 二 ︶ し か し 一 九 五 九 年 の﹃ 関 西 学 院 七 十 年 史 ﹄ の 矢 内 先 生 の 次 の 言 葉 に よ っ て 救 わ れ る。 ﹁・・ 教 師 の 生 活 も苦しく、生徒の生活も苦しく、新設の中学部は何の設備もなかったけれど、生徒に も教師に も 夢 が あ っ た。 教 育 と し て あ ん な 楽 し い 時 代 は な か っ た。 ﹃ 何 故 世 間 の 人 は 中 学 の 教 師 に な ら な い のだろう﹄ と私はよく人に語った﹂ 。悩み抜かれている先生の姿を日記で知った後にこれを読むと、 何か拍子抜けの感がしなくもない。しかしこの喜 ば しい結末は、矢内先生の教育への全力投球と、 それにわれわれ一期生がよく応えたことによるものであろう。   昭和二二年三月二七日︵十五日 前 ︶常務理事会   報告﹁二.入学試験 ・・ ・ 新制中学部廿六、 廿七、 廿八日執行、三.新制中学部長に関する件   矢内正一氏推薦を受諾さる、四.新制中学部教室   研究の結果   現中学部校舎特別教室を充当することに決す。 ﹂   昭和二二年四月一〇日︵四日 前 ︶常務理事会   報告事項﹁ ・ ・ ・ 新制中学部入学式に関する件。 四月一四日︵月︶午後九時より中学部講堂にて挙行   新部長矢内正一氏訓話   神崎院長の挨拶   進駐軍神戸情報教育課長フィリップス氏の講演あり   学院教育に適應 ︵ふさ︶ はしい式を挙行す。 ﹂   昭 和 二 二 年 四 月 一 二 日︵ 二 日 前 ︶ 臨 時 理 事 会  報 告 事 項﹁ 神 崎 院 長 は 左 の 事 項 に つ き 報 告 を なし承認さる。新制中学に関する件。   委員会を屡々開催熟議の上、男子のみの中学を四月より 開 設 さ る こ と を 決 す。 應 募 者 七 百 六 十、 百 六 十 採 用。 成 績 優 秀 者 多 く、 将 来 の 学 院 生 徒 学 生 の 中 核 体 と し て、 多 望 で あ る。 中 学 部 校 舎 中 特 別 教 室 使 用。 教 師 は 厳 選 中。 四 月 一 四 日 入 学 式 挙 行。 二五日より授業開始。新部長、矢内正一氏を推薦。宗教教育と英語学修に特色の要点をおく。 ﹂

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図2 旧中学部校舎(1929(昭和 4)年当時の写真と思われる)

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  補足︵一︶図 2 の写真は、いまは取り壊された旧中学部の建物であるが、新制中学部の校舎 にきまった﹁特別教室﹂は、中央の本館の左、渡り廊下を渡った南︵左端︶の棟である。新制中 学 部 は こ の 部 分 を 専 用 し、 右 端 に あ る 講 堂 を 共 用 し て い た。 ︵ 二 ︶ 図 3 は、 兵 庫 県 知 事 に 提 出 さ れ た 新 制 中 学 の 設 置 認 可 申 請 書 に 添 付 さ れ て い る 特 別 教 室 一、 二 階 部 の 平 面 図 で あ る が、 傍 線 の 六室が教室として用いられた。職員室は二階の屋上庭園に通ずる部屋である。この申請書で注目 すべきは、提出日が四月一九日になっている点である。つまり入学式はすでにこの四日前に済ん で い る。 い か に 混 乱 の 中 の ス タ ー ト で あ っ た か が 伺 え る。 な お 新 学 制 を 含 む﹁ 教 育 基 本 法 ﹂﹁ 学 校教育法﹂が公布されたのは昭和二二年三月三〇日のことであった。   昭 和 二 二 年 四 月 一 四 日︵ 〇 日 ︶ 矢 内 日 記  ﹁ 新 制 中 学 入 学 式。 満 開 の 桜 花 の 下 を お 父 さ ん や お 母さんが子供をつれて登校されるのを見て﹃日はうら∼   花もうら∼   今日この日   新学舎︵に ひまなびや︶に   吾子を伴ふ﹄といふ高田保馬さんの歌を思ひ出した。とう∼私も入学式に訓示 を述べる身分になってしまった。キリスト教による人権教育の理想、學問に對する熱情、体育の 大 切 さ な ど を 述 べ た。 前 に な ら ん で ゐ る 少 年 た ち、 可 憐 に し て 賢 さ う な 彼 等 の 姿 を 見 て ゐ る と、 私のうちに強い熱情がかき起って来る。 ﹂   補足︵一︶このように新制中学は混乱の中でかなりの無理を伴って発足したが、そこには日 本の教育の民主化に向けて、新制中学だけは何が何でも昭和二二年度から発足させるようにとの 占領軍からの至上命令があった。占領下にあった日本はそれに逆らうことができない状況にあっ た。事実、この﹁無理﹂は、次に掲載の文章に生々しく見て取ることができる。これを見るとわ れわれなどは余程恵まれていたことになる。   

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  ﹁ 発 足 当 初 の 新 制 中 学 校 ﹂︵ 文 部 科 学 省 ホ ー ム ペ ー ジ よ り ︶﹁ 発 足 当 初 の 新 制 中 学 校 は、 予 算 や 資 材 の 不 足 か ら、 校 舎、 設 備、 教 材、 教 具 の す べ て に わ た り、 ま た 教 員 組 織 に つ い て も き わ め て不満足な状態であった。ことに、中学校はなんらの母体や下地をもたずに発足したため、特に 校舎や教室の不足は深刻をきわめた。戦災をまぬがれた旧高等小学校などを転用して独立校舎を も ち え た も の は、 当 初、 中 学 校 の 十 五 % に す ぎ ず、 二 四 年 四 月 当 時、 二 部・ 三 部 授 業 を 実 施 す るもの二千三百六十八教室、講堂や屋内体育館を間仕切りしているもの三千三百四十二教室、廊 下・昇降口・物置きなどを代用しているもの三千九十教室というありさまで、いわゆる青空教室 や不正常授業はいたるところでみられた。教員の約半数は国民学校からの転任により、その他は 青 年 学 校 や 中 等 学 校 か ら の 充 足 に よ っ て ま か な わ れ た が、 そ れ で も 発 足 当 初 の 教 員 充 足 率 は 約 八十一 % であり、必要な免許状を持たないものの比率はきわめて高い状況であった。 ﹂ 三  初年度の教師陣   わ れ わ れ の 新 制 中 学 一 期 生 百 六 十 二 名 は 四 ク ラ ス で 始 ま っ た が、 入 学 式 当 日 の 写 真 を 見 る と、 もともと白亜の校舎もまだ黒く迷彩が施されたままだし、教師は矢内、高橋、庄ノの三人しかい ない。また時代を反映して、新入生は全員丸坊主である。しかし貧しい中ではあったが兎に角わ れわれの中学生活は始まった。ただ矢内部長の悩みは、良い教師陣をそろえることであった。矢 内日記から、その苦労をたどることにするが、その前にまず表 1 を見てほしい。

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第2(1948)年度 就任専任教員 第3(1949)年度 就任専任教員 浜田 庄四郎 上田 静雄 甲斐 淳吉 坂東 邦夫 山川 学三郎 米田  要 広瀬  保 社会 理科 美術 数学 英語 英語 国語 北川  清 佐藤 和愛 馬  永康 寺脇 秀子 辻村 恵治 森下 和郎 山崎 治夫 理科体育 音楽 理科 国語 社会 理科 聖書 第4(1950)年度 就任専任教員 牧   馴 諸田  実 藤田 金伍 国語 社会体育 国語 クラス担任 ● 専任 ○ 非常勤 氏名 矢内 正一 高橋 信彦 庄ノ 昌士 眞田 淑子 井上 久治 カッブ 夫人 木村 知石 喜多 福治 三浦 大蔵 佐藤 和愛 日高 重市 蒲生 守義 浜田 庄四郎 役職 部長 教務 事務 教科 英語 理科 社会 国語 社会 英会話 書道 数学 数学 音楽 体育 数学 社会 4月 ● ● ● ○ ○ 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 入学式 ● ● ● 社会科及事務を担当 4・25 矢内日記 院内講師 9・1 矢内日記 11・21 ○ 院内講師 ○ ○ ○ ● 病気退職 7・1 矢内日記 戦後復帰宣教師第1号J.B. Cobb氏夫人 4・14 矢内日記、S24/3 嘱託から専任へ 月360円 4・25 矢内日記 院内講師 ○ 初(1947)年度教員 表1 昭和 22 年度に就任した新制中学部教員(上段)(下線は専任)と、    昭和 23、24 年度に就任の教員(下段・専任のみ) われわれが入学当時の時計台 黒く迷彩が施されていた。(筆者撮影)

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  表 1 の上段には、常勤、非常勤いずれかで初年度に就任した十三名の教師を、就任月がわかる 形でまとめたものである。すでに述べたように入学式には三人の先生しかいなかったが、四月中 に四人増えている。庄ノ先生は四月の理事会で初めて承認されているので●が入学式の時と二カ 所についている。眞田先生の月給が三百六十円とある点も注目してほしい。新制中学の受験料が 三十円、授業料月額百円であったから、これだけで三百六十円の三分の一以 上が飛んでしまう額 であ る。以下矢内日記の中から教師の選考過程を見てみよう、 矢内先生が理想とする教員を、 わ ずかな給料で求めなけれ ば ならなかった苦労がよくわかる。   昭 和 二 二 年 四 月 五 日  矢 内 日 記  ﹁・・・ と も か く よ き 教 師 と よ き 生 徒 を 集 め て 砂 漠 の 中 の オ アシスの如き真理に對する思慕と熱情に燃える學園を作り上げたいといふ理想が、どの程度に 実 現出来るか、私の責任は誠に重い。 ﹂   四 月 一 一 日  矢 内 日 記  ﹁・・・ 国 語 に も 実 に い ゝ 先 生 が 別 に あ る の だ が 待 遇 の 問 題 な ど で 自 らの制約があり、理想の中学をつくり上げることは必ずしも容易ではない。 ﹂   四 月 二 五 日  矢 内 日 記  ﹁ 木 村 さ ん と い ふ 書 道 の 先 生 か ら き て や ら う と い ふ 返 事 を 貰 っ た。 こ れは素晴しい字をかく先生である。眞田さんといふ女の先生の方は給料の問題もあり未決定であ るが、事を急ぐので夜純吉に手紙を持って行かす。待遇の十分に出来ない関西学院では中々いゝ 人を得ることが困難である。然し既成の大家を集めることが出来なくとも、學院の教育を愛する 人や熱のある若い人を集めてそこに一種の力のある雰囲気を出す道もあらう。高橋君や井上君の ゐてくれることは實に心強い。このやうな人を中心として必ず何とかしてみたいと思ってゐる。 ﹂   四月二六日   矢内日記   ﹁・・・夜眞田さんが来訪。結局承諾して来てくれることになったが、

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女の人には一種の長所がある反面、又一種の面倒な心理の動き方のあることが感ぜられる。大変 いゝ働きをしてくれる期待があるが、然し又長つゞきしないのではないかといふ心配もする。今 日學校へ甲陽の辰馬吉男君が来て甲陽のことをはなしてゐたが、甲陽はす ば らしい教師を集めた らしい。我々の三倍もの金を生徒からとり、あらゆる有利な条件を以ってよい教師をそろへた甲 陽は一応よい學校を實現するだろう。我々は甲陽のやうに住宅を提供することも出来ず今の住宅 難 に 遠 く か ら 人 を 頼 ん で 来 る こ と は 不 可 能 で あ る し、 給 料 を 以 っ て 誘 ふ 方 法 も な い。 然 し 私 は、 精神の上に立つ學院がこのキリスト教精神を中心に生命のあふれた甲陽以上の教育を実現し得る 道があるといふ望みはすててない。 ﹂   補足︵一︶眞田先生の就任承諾によって専任が四人になり、何とか四クラスの担任が次のよ うに決まった。一組高橋、二組眞田、三組庄ノ、四組井上。 ︵二︶眞田先生については、 当初は一抹の不安があったようである。   五 月 一 四 日  矢 内 日 記  ﹁ 音 楽 の 先 生 は・・・・ 今 日 に な っ て や っ と 北 口 に 住 ま わ れ る 佐 藤 和 愛さんといふ女の方に決定した。午後訪問して色々話をしたが大変よい人のやうである。人間的 感化といふことを私は考える。先生がすきだからその學科がすきになりその人のつまらぬ癖まで がそのまゝ入ってしまふといふやうな感化を考えると、たゞ教授法だけうまいといふやうな人を とらうとは思はない。二三日前も珍しく男の音楽の先生をつれて来てくれた人があり會ってみた けれど、卑しい感じの人だった。佐藤さんは會ってゐて人としてのよさがはっきり感じられる人 である。人間の美といふことを考えずにはゐられない。 ﹂    補 足 ︵ 一 ︶ 上 に 見 る よ う に 、 佐 藤 先 生 は 絶 賛 で あ る。 た だ 佐 藤 先 生 が 専 任 に な る の は 昭 和

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二 四 年 に な っ て か ら で あ る。 ︵ 二 ︶ 上 に〝 卑 し い 〟 と い う 言 葉 が 出 て く る が、 矢 内 先 生 は そ の 日 記の中で人のことを悪く言うことはこれ以外にはない。極めて珍しいことである。   五 月 三 〇 日  矢 内 日 記 ﹁ 新 制 中 学 の 修 学 旅 行 で 奈 良 に 行 っ た。 ・・・ 一 ヶ 月 前 に は 学 院 と も 何 の関係もなく何の感興もなさゝうだった眞田さんも、子供に愛着を抱いて来て、子供を心から愛 撫し、子供たちもお母さんに對するやうに周囲によりたかってゐる。 ﹂   補足当初一抹の不安があった眞田先生についても、これでホット一安心ということか。   七 月 一 日  矢 内 日 記  ﹁ 放 課 後、 職 員 会。 五 時 ま で 色 々 話 を し た。 職 員 会 と 云 っ て も 今 日 は 井 上さんが休みで、高橋さん、眞田さん、庄ノさんの三人と私とで合計僅かに四人だけれど、この 四人は實に気持ちよく話し会える。井上さんが最近のレントゲンと咳痰︵喀痰?︶の検査で、結 局やめなけれ ば ならぬことになり、この人を失ふのは惜しいけれど、これはどうも仕方がない。 ﹂ 足 ︵ 一 ︶ 井 上 先 生 が 辞 め ら れ、 そ の 結 果 四 組 の ク ラ ス 担 任 は 蒲 生 先 生 と な る。 ︵ 二 ︶ 井 上 先生の退職に伴い、社会科の教員の補充が必要となる。   一 〇 月 二 一 日  矢 内 日 記  ﹁ 昨 日 訪 問 し た 北 口 の 浜 田 庄 四 郎 氏 を 再 び 訪 問。 新 制 中 学 の 教 師 に な っ て も ら ひ た い と 長 い こ と 話 し こ ん だ。 中 学 部 を や め て 実 業 界 に 入 っ た が、 ・・・ 中 学 部 を や め る と き も 自 ら の 組 か ら 多 数 の 学 生 が 厳 罰 を う け た 責 任 を 負 ふ と い っ て 無 理 に や め て し ま っ た が、この人が実業界などで生きて行ける筈はない。欠点はあるが純情を買って、この人をもう一 度新制中学で働かせて見たいと思う。 ・・ ・ 浜田君は実業界に教育家的精神を生かしてみやうなどゝ いふドンキホーテ的な夢を持っている。この人はいつまでも悲劇の主人公たらんとするのであら うか。 ﹂

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図4 昭和 23 年度現在の教員 木村知石、K.W. ジョンソン、広瀬保、 米田要、蒲生守義、眞田淑子、 庄ノ昌士、甲斐淳吉、山川学三郎、浜田庄四郎、 高橋信彦、矢内正一、坂東邦夫   補足︵一︶われわれが親しみを 込めてシェイルンと読んでいた浜田 先 生 の 人 と な り が よ く 表 れ て い る。 ︵ 二 ︶ 浜 田 先 生 は 一 一 月 二 一 日 に 教 員に戻ることを決意されるが、学院 の財政的事情によるのであろう、専 任への就任は次年度からとなり、そ れ ま で は 講 師 と し て 教 壇 に 立 た れ た。   昭和二二年五月二二日   矢内日 記 ﹁ 私 の 教 育 の 大 綱 の や う な も の を 、 理 事 會 へ の 報 告 書 の 中 に 書 い て み た 。﹃ 我 が 愛 す る 一 年 生 に 、︵ 一 ︶ 少 年 た ち よ  若 き 日 に 神 を 知 り  常 に 信 仰 に 生 き  望 み に 生 き  愛 に 生 き る 少 年 と な れ 。︵ 二 ︶ 少 年 た ち よ  若 き 日 に 真 実 に 学 問 を 愛 す る 精 神 を 体 得 せ よ 。 朝 に 夕 に 刻 苦  精 進  学 術  奉 公 の 精 神 に 生 き る 少 年 と な れ 。 ︵ 三 ︶少 年 た ち よ  青 白 き 生 気 なき少年となるなかれ。 強き身体なくしては大成は期し難い。 日々 身 体 を 鍛 へ 強 健 溌 溂 た る 少 年 と な れ。 ︵ 四 ︶ 関 西 学 院 の 運 命 は 君 た ち 若 き 少 年 の 双 肩 に か ゝ っ て ゐる。常にわが関西学院を愛し日々夜々至誠と努力とを以てよき学院建設のために協力せよ。 ﹄﹂

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四  新制中学と旧制中学     関西学院に新制中学部が発足した時に取り得た形態とし ては、図 5 のように二つのオプションがあった。一つは図 の 左 端 の よ う に、 旧 制 中 学 の 最 初 の 三 年 を 新 制 中 学 と し、 上級の二年を旧制中学四、 五年度生に位置づける道だった。 事実お隣の神戸女学院はこの方式をとったため、われわれ の同学年の人たちは、すでに上級生がいる新制中学に入学 したことになる。それに対して関西学院の場合には、図の 右半分のように新制中学を旧制中学と截然と分離し、これ までとは異なるまったく新しい中学校としてスタートさせ た。事実校舎の中に壁をつくり旧制中学二∼五学年とは物 理的に切り離された。続く昭和二三年度からは新制高校が スタートしたので、新制中学と旧制中学の関係は図のよう になり、更に翌二四年度には新制中学、新制高校ともに完 成 し た 形 と な る。 ︵ 注 記 一 九 九 八 年 発 行 の 関 学 同 窓 会 名 簿の﹁中学部昭和二三年︵一九四八︶∼﹂のセクションに は、あたかもわれわれ新制中学一期生が新制中学三期生の ような記述になっている。 ︶ 昭和22年度 オプションとし てあり得た形 昭和22年度 昭和23年度 昭和24年度 旧制中学5年   〃  4年 新制中学3年   〃  2年   〃  1年 旧制中学5年   〃  4年   〃  3年   〃  2年 新制中学1年 新制高校3年   〃  2年   〃  1年 旧制中学3年 新制中学2年   〃  1年 新制高校3年   〃  2年   〃  1年 新制中学3年   〃  2年   〃  1年 → → → → → → → → → → 図5 新制中学としてあり得た2つのタイプ

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  ここで注目すべき点が三点ある。第一は、旧制中学の時代に比べて中等教育の就学年限が一年 伸びたことである。したがって図から見て取れるように、旧制中学の卒業証書と、新制高校の卒 業 証 書 を 二 年 続 き で 受 け 取 っ た 学 年 が あ っ た は ず で あ る。 第 二 は、 わ れ わ れ の 一 年 上 の 学 年 は、 昭和二三年度には非常に中途半端な状態にあったことである。つまり新制中学でも新制高校でも ない、一学年だけの旧制中学三年生という年があったことになる。この旧制中学三年は新制高校 の管理下に置かれたため、この学年は時として 〇 学年と称せられた。第三は、昭和二三年度の旧 制中学の先生方は、将来新制高校がどうなるかまだ分からない中、非常に行く先に不安を抱えて おられたであろう。事実そうであったことが、次の矢内日記に見られる。   昭 和 二 二 年 四 月 一 八 日  矢 内 日 記  ﹁・・・ 夜 十 一 時 ま で 来 客 が つ ゞ い た が 其 一 人 は 上 田 君 で 旧中学部教員たちが前途の多分の不安を感じてゐるといふ話があった。 ﹂   昭 和 二 二 年 五 月 一 三 日  矢 内 日 記  ﹁・・・ 旧 中 学 部 の 四 五 年 生 の 為 に 補 習 を す る。 こ れ は 私 の旧中学に對するせめてもの心盡しであり、これから毎週一回づゝつゞけるつもりである。 ﹂   補足新制中学に移った矢内先生は、旧制中学に対する一種の罪の意識があったようで、この ような無償のボランティア補習を行っている。秋には父兄会が見かねて謝金を用意するが、矢内 先生は頑として受け取らず、最後には受け取られたものの、新制中学の教材購入にそれを当てて いる。いかにも清廉潔白な矢内先生らしい。   昭 和 二 二 年 六 月 二 〇 日  矢 内 日 記  ﹁ 午 後、 畑 さ ん の 送 別 会 が あ っ た。 畑 さ ん は と う と う 中 学 部をやめて松山外語専門学校へ行くといふ。新制中学がもえるやうな希望の中に仕事をつゞけて ゐるのにくらべて旧中学のすがたは誠にさびしい。 ﹂

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  補足畑先生は当時旧中学部の部長であった。したがって旧中学部は二年続きで教頭と部長を 失ったことになる。   昭 和 二 二 年 七 月 八 日  矢 内 日 記  ﹁ 午 後 二 時 頃、 旧 中 学 の 岡 島 君 が 新 制 中 学 へ 話 に 来 て、 旧 中 学と新制中学との関係について学院の今春以来のやり方がよかたかどうかといふやうなことにつ いて話しかけられ、随分議論もして八時頃まで話し合ふ﹂ 。   補足︵一︶岡島先生が延々 6 時間にわたって矢内先生に食い下がられているところに、問題 の 深 刻 さ が 伺 え る。 矢 内 先 生 も 大 変 で あ っ た ろ う。 ︵ 二 ︶ こ の よ う な 旧 制 中 学 部 の 当 時 の 状 態 と は対照的に、 新制中学には活気溢れていたことが、 次の矢内先生の ﹁新制中学部開設当時の思い出﹂ ︵﹃ 関 西 学 院 七 十 年 史 ﹄ 一 九 五 九 年 ︶ か ら 伺 え る。 ﹁ 教 師 数 人 と 生 徒 百 六 十 人 の 中 学 部 は 実 に 家 庭 的な集団だった。 職員室は同時に事務室であり、 生徒の読書室であり、 父兄の応接室でもあった。 生 徒 の お 母 さ ん が 来 ら れ る と、 職 員 室 の 火 鉢 の ま わ り に 教 師 の 総 て が 集 り、 お 母 さ ん と 一 し ょ に 話をした。私も全部の生徒をよく知っていた。教師の全部が全校の生徒の個性特徴をよく知って いた。だから教師の皆が集まってお母さんの相談にのった。今思い出しても実に気持よい私塾的 雰囲気であった。 ﹂   確かに新制中学発足時の雰囲気は懐かしい。しかし三年経て ば 、われわれもこのような私塾的 雰囲気の楽園を卒業して高等部に進み、新しい経験をすることになる。外部の中学校からの入学 者との出会い、新しい先生方との出会い、上級生との出会いなどがあったが、これらの新しい経 験 は 人 間 の 成 長 の 過 程 で 必 要 な こ と で あ っ た ろ う。 し か し い さ さ か 強 烈 過 ぎ る 出 会 い も あ っ た。 例え ば 一年上の学年の者で進級できなかったかなりの数の者が、われわれのクラスメートとなっ

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たが、その中には休み時間に教室の外の廊下で、ドス︵大型ナイフ︶をもって上級生相手に立ち 回りをするような者もいて度肝を抜かれたことがある。また学制の変化によってかなりの数の大 学予科の先生が新制高校の先生になられた。レベルの高い立派な先生方であったが、高等部で教 諭と呼 ば れることを良しとせず、予科時代の教授・助教授といった職階制を要求し、それが高等 部に持ち込まれた。生徒はそのようなことを知る由もないが、職位にこだわる先生方と、生徒と 一 緒 に ど ろ ん こ に な っ て 教 育 に 当 た る 新 制 中 学 の 先 生 方 と の 間 で は、 そ の 醸 し 出 す 雰 囲 気 に は、 肌で感じられる違いがあった。このようなことに多少の失望感を抱いた者は私だけでなかったの ではないだろうか。 五  矢内先生と キ リスト教   入学時から礼拝でお話をされ、祈祷もなさる矢内先生の姿を見て、誰しも先生は最初から敬虔 なクリスチャンだと信じていた。ところが先生が洗礼を受けて正式のクリスチャンになられたの は、われわれが一年生のクリスマス、つまり昭和二二年一二月二一日のことである。基督心宗大 阪教会で川合信水師より受洗されている。基督心宗というのは、キリスト教の中では正統派とは 言えない。それでは矢内先生の信仰とはどのようなものであったのか。先生の日記をたどってみ る。   昭和二二年九月一一日   矢内日記   ﹁釘宮先生が午前〇時六分になくなられた。 ・・・この二三 年、先生は私にも深い関心を持って下さって、病苦をおして私の宅へ来て下さり、病床から長い

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手紙を下さったりした。とうとう私は先生の手によって洗礼をうけるといふことはしないですん でしまったけれど、結局先生の勝利であったと思ふ。私は新制中学の礼拝でキリスト教に従って お祈りをするやうになってゐる。洗礼などはルナンも云ってゐる通り、本質的な問題ではないと 思ひ、そういふことを無視して私は祈ってゐる。人はそれを云々するかも知れない。然し神はそ れをそのまゝ受入れて下さると思ってゐる。超越神だとか汎神論だとか云ふのは、議論であって 宗教ではない。絶對の神はさういふ小さなものではない。総てを包摂して海の如く深く広いであ らうし、富獄の如く高く雲の中に姿を没して、千変万化神秘の姿を見せるのが神である。超越神 の概念を入れ、 汎神論の観念を包摂して私の神は存在する。私はその前に時には仏教の如く祈り、 時にはキリスト教の如く祈る。そして私は矛盾を感じない。 ﹂   昭和二二年一二月一六日   矢内日記   ﹁鮫島さんから受洗をすゝめられた。 ﹃釘宮先生が矢内さ ん と 石 本 さ ん と の こ と を よ ろ し く 頼 む と 云 い 残 さ れ て、 た え ず 心 に か ゝ っ て ゐ ま し た・・・﹄ 。   今更のやうに釘宮さんの私に對する御好意に對し感謝の思ひがわく。釘宮さんが私の為に祈っ て下さったその祈りは私に對して決して無駄ではなかった。情的には釘宮先生、思想的には私は 奈良の原田先生に導かれた。神はあらゆる国土、あらゆる時代に様々の形をとって示顕する。そ の総てを研究して大きな神をつかまなけれ ば 小さなけちな神になってしまふと原田さんは云はれ る。 仏 教 を も 十 分 に 抱 擁 し﹃ 贖 罪 ﹄ の 問 題 に も 必 ず と ら は れ る 必 要 な く、 ﹃ 洗 礼 ﹄ に も と ら は れ な い で よ い と 説 く 原 田 さ ん の キ リ ス ト 教 は、 私 に は 真 實 共 鳴 の 出 来 る キ リ ス ト 教 で あ る。 私 は まだ洗礼はうけてゐないが生徒に向かって熱情をこめて話したりした後で、祈りたくなるとその まゝキリスト教的な祈祷をするやうになってゐる。夜など寝床に座って祈ることもある。洗礼な

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ど本質的なものでないから無視してもよいけれど、然しうけることをたつて拒むべき理由もない といふ気持になってゐることを鮫島さんにも話した。 ﹂   昭 和 二 二 年 一 二 月 二 一 日  矢 内 日 記  ﹁ 川 合 先 生 が・・・ 服 部 の 教 会 で・・・ 説 教 を さ れ る の で・・・聞きに行った。奈良の原田先生が来てゐられて、川合先生も八十一才、いつなくなられ るか分からないのだし、これが最後の機會かもしれないから、この際に受洗入門をしておいては との話があったので、突然だったけれど川合先生の手によって他の十人 ば かりの人々と共に洗礼 をうけた。仏教とキリスト教は二者選一的なものではないと原田さんは云はれる。川合先生の師 であった押川先生もキリスト教徒が神社の礼拝を拒むべき理由はなく、先祖の位牌をすてるべき 理由もないと云ってゐられる。私が長い間受洗を躊躇したのは、こんな浅い信仰でクリスチャン であると云ふのはおもはゆいといふ心であり、又私のキリスト教が純粋な所謂正統的なキリスト 教 と ち が っ て ゐ る か ら で あ っ た が、 前 の 理 由 に 對 し て は 世 間 の 人 の お も は く な ど ど う で も よ く、 小さな潔癖がおひおひうすれて﹃間違ひの多い信仰のうすいクリスチャン﹄と云はれても、それ を甘受してお祈りをしやうといふ気持になったこと、そしてそこから新しい出発をしてみやうと いふ心になった為であり、後の理由に對しては、川合信水氏のキリスト心宗が私のやうな宗教的 立場を認めてくれることを原田先生を通じて知ったことの為である。 ﹂   補足︵一︶鮫島さんとは、当時の礼拝主事の鮫島盛隆氏のことで、釘宮先生とは関西学院教 会の牧師であると同時に学院の理事、日本メソジスト教会第五代監督も勤められた釘宮辰生氏の こ と で あ る。 ︵ 二 ︶ 奈 良 の 原 田 先 生 の も と へ は、 近 く に お 住 い の 職 員 の 前 島 氏 と 共 に よ く 通 っ て お ら れ た よ う で あ る。 ︵ 三 ︶ 矢 内 先 生 の 古 い 日 記 を 見 る と、 先 生 の こ の よ う な キ リ ス ト 教 に 対 す

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る考えは、既に昭和一四年頃からのものであることがわかる。しかし先生のこのような特殊なお 考えが生徒の指導に表れることはなかったと思う。 六  結語と余話   結語   関西学院新制中学部は、以上に述べたように戦後の混乱の中、優れた指導者・矢内正一 先生の教育に対す る 熱い思いのもとで発足した。今年創立一二五周年を迎えている関西学院の歴 史の半分以上になる六十七年も前のことになり、その一期生は八十歳を迎えている。当時のこと がそのまま今日に当てはまるとは思わないが、矢内先生と初期の先生方が抱いておられた教育者 としての愛情・誠意・熱情は今日の関西学院中学部においても引き継がれていると信じたい。そ の再確認のためにも新制中学の出発の原点に 関心をもってほしい。   わ れ わ れ の 時 代 は 社 会 全 体 が 誠 に 貧 し く、 学 校 が 砂 漠 の 中 の オ ア シ ス の よ う な 存 在 で あ っ た。 つまり子供の生活全体に占める中学部生活の重みが大きかったように思う。シンプルライフだっ たからこそスポンジのように 先生方の教育愛を受け入れた。今日は世の中が豊かに なり、価値が 多様化し、情報過多になり、目移りするものだらけである。昔と同じことをしても生徒に届かな い時代かもしれない。しかし豊かで複雑化した時代であるからこそ若者に は指針が必要ではない だ ろ う か。 矢 内 先 生 が 昭 和 二 二 年 五 月 二 二 日 の 理 事 会 へ の 報 告 書 に 書 か れ た﹁ 少 年 た ち よ・・﹂ の四ケ条は、今日でも人生の基礎として立派な指針として役立つのではないだろうか。そして今 も昔も教育には欠かすことのできない愛情・誠意・熱情をもって、関西学院中学部ならではの人

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生の基礎をつくる教育に当たっていただきたいと願っている。   余 話  最 後 に 矢 内 先 生 の 知 ら れ ざ る 一 面 に 触 れ て 稿 を 置 き た い。 本 稿 で も 大 幅 に 引 用 し た が、 矢内先生は一九一四年九月一日︵姫路中学二年生二学期︶から一九八〇年一一月三〇日まで丹念 に日記をつけておられる。それが図 6 のように学院史編纂室に大切に 保管されている。 図6 矢内正一先生の日記(1914 ∼ 1980) 図7 矢内日記の最初の1頁 図8 矢内日記の扉の絵

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  図 7 は一九一四年の日記の最初の一頁である。毛筆で丹念に書かれている。図 8 は第一頁に先 立つ扉に描かれた鉛筆画である。とても優しい、後の教育者矢内先生を彷彿とさせる手抜きのな い筆致である。   実は矢内先生は一九三九 ︵昭和一四︶ 年七月三日から八月三〇日の間、 関西学院から国策に従っ て派遣された興亜学生勤労報国隊の一隊の隊長として五名の学生を引率して満州にわたっておら れるが、その間は小ぶりの日記帳を持参され絵日記をつけておられる。それを見ると先生の絵心 に驚かされる。新発見であった。ここにユーモラスなものも含め、情景描写を中心に数枚を選ん で紹介し稿を閉じる。優しい水彩色が伝わらないのが残念である。 水汲む少女 昂々渓の教会堂

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「野天につくられた我等の大便所(すんで立上がった人、あいてゐるかど うかを上からのぞいて見る人)」       8月8日、9日の絵日記

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「我等の野天風呂  (上半身だけ日にやけた学生)」 「ひげを土産に」 ︻参考文献︼ 中学部年史編纂委員会︵編︶ 一九九七 ﹃関西学院新制中学部の五〇年﹄関西学院中学部     関西学院高等部百年史編纂委員会   一九八九 ﹃関西学院高中部百年史﹄関西学院高中部 上 田 静 雄  一 九 八 九 ﹁ 終 戦 前 後 の 旧 制 中 学 部 か ら、 夢 多 き 新 制 中 学 部 へ ﹂﹃ 関 西 学 院 高 中 部 百 年 史 ﹄ 一三八∼一四三頁 矢内正一   一九五九 ﹁新制中学部開設当時の思い出﹂ ﹃関西学院七十年史﹄ 五三〇∼五三五 頁 矢内正一   一九三九∼一九八〇   ﹁矢内日記﹂ 学院史編纂室所蔵の﹁関西学院理事会記録﹂ 、﹁常務理事会記録﹂ 、﹁協議会記録﹂

参照

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