はじめに
本稿は、2012年10月10日(水)から10月21日(日)までアートラ ボあいち4FGakugei Lab.にて行ってきた個展『横山達也写真展 “肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』においての 研究活動報告書である。今回の展覧会は以前から著者が行なっ てきている研究「肖像写真を通しての人間研究」の新たな発展と 展開の試みを実験的に行ったものである。1章では著者の研究 における考え、2章では制作のプロセス、3章では展示にあたって の解説を行なっていく。1 肖像写真を介して人を知る
1.1 人との関わり
兼ねてからの研究「人間とは何か?」そのことについて肖像写 真を通して人間研究を行なっている。そして人間とは何かというこ とにおいて言葉で表現したり、言葉で伝えるよりも肖像写真という 形で表現し伝える方が理解しやすく、説得しやすいと考えた。 肖像写真はそこに写し出されている被写体が存在したことや本 人であるための確認として扱われる。そのため人々は肖像写真 からは被写体があたかも今ここに存在しているかのようにその被 写体の存在を感じることがある。しかしそれだけでなく、写し出さ れている被写体の体系や服装や髪型、写された場所との関係性 などから被写体の日常生活や風貌や性格などもうかがうことがで きるが、人間性などの言葉にすることのできないことや目には見 えないことまでうかがうこともできる。さらに肖像写真は鏡で見る姿 (虚像)とは違い、他者からの視点(実像)で見ることができる。そ して人間とは何か?ということにおいては一言では語ることができ ないほど謎めいているため、肖像写真を介すことによって普段見 ることのできない部分や言葉だけでは伝えきれない部分を垣間 見ることができる。しかし、ただただ肖像写真を撮るだけでは単な る記録や記念写真にしかならず、それではその肖像写真からは 何も伝わらず考察することもできない。それを解決するにあたり撮 影者と被写体との関係性が密接でなければならない。 普段は無意識のうちに行っていることを意識的に行わせ、確認さ せることによって考えるということができる。それによって肖像写真 から他者のことを考えるということにつながり、人々に他人のことを 考えたり思ったりすることを養わせる。1.2 見ると見られるの関係
肖像写真はカメラという道具を用いて撮影する人(カメラマン)と 撮影される人(被写体)との関係によって成り立っている。撮影者 はカメラのファインダーを通して撮ることを意識的に行い、被写体人間とは何か?
言語化できないことの可視化
11
横山 達也
Tatsuya YOKOYAMA 映像メディア学科・助手Department of Visual Media・Research Associate
073
人間とは何か? 言語化できないことの可視化 WHAT IS MAN? VISUALIZATION OF WHAT CANNOT BECOME A VERBALIZING
横山 達也 TATSUYA YOKOYAMA
What is man?
Visualization of what cannot become a verbalizing
において写し出されている二人の考察で留まってしまい、他との 比較ということについては難しかった。
2.3 家族での肖像写真果
二人での肖像写真に加えて、家族という集団での撮影も試み た。家族での肖像写真は、その家族としての固まりで見ることが でき、そこから家族構成や家庭生活が垣間見ることができ、その 家族独特の存在感を感じることができた。人間を個としてみるだ けではなく家族という集団で捉えるとその分「人間とはなにか」と いうことをさらに強く訴えかけてくるように感じられるのではないか と思い試みた。しかし今回は人間とは何かということよりも家族とし ての構成や関係性の方が強く感じられた。2.4 全身での肖像写真
全身の肖像写真となるとその被写体の立ち振る舞いを伺うこと ができ、顔の表情に焦点がいくよりか、体全体として被写体を捉 えるようになる。そのことにより被写体の動作であったり、体系で あったり、服装であったりと人の表面的な部分の情報を気にする ようになる。そのため全身の肖像写真は普段日常生活の中で見 る他者のイメージと近い。そして場(背景)との関係性においても 強調される。しかしこれらのことは被写体の表面的な部分であり、 内面的な部分、例えば性格であったり、感情であったりという面 においてはここから考察するとなると、写真1のような一人の肖像 に比べると難しい。3 個展“肖像写真たち”について
3.1 展覧会情報
『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』 日時:10月10日(水)− 21日(日) ※月・火は休館 11:00 − 19:00(最終日は15:00まで) 会場:アートラボあいち4F Gakugei Lab. 今回の展示は肖像写真と鑑賞者が同じ時間、同じ空間を共に 共有し、この場で対話をおこなってもらうことを目的として行なっ た。現代社会で他者との関わりが希薄化されていると感じた。そし て日常生活において我々は他者と向き合うことが少ない。そんな 時代の中で今回の展示会場は他者について考える場となった。 はカメラのレンズによって撮られることを意識的にさせられる。そ してカメラを介してお互いの存在について意識し、認識し合いな がら撮影という行為を行い、その瞬間お互いの時間と空間が共 有され、シャッターが押された一瞬、撮影者と被写体が一つに結 ばれる。それによって、そこで言葉のない対話がなされ、その肖 像写真には被写体の意思が存在する。 被写体は撮影の際に写し出される自己像について想像しなが ら自己の存在について考える。そういった肖像写真には被写体 の意思が存在しており、誰かに見られることを想定している。それ は肖像写真として出来上がったときにそれが被写体の意思とは 関係なく誰かに見られることを想定しているからである。そしてそ こにも写真を見る人と写真に写し出されている人が見られるという 「見る」と「見られる」の関係性も生まれる。そのことから肖像写真 には「撮る側」と「撮られる側」の関係にありながら、「見る側」と「見 られる側」の関係にもあることがわかる。 肖像写真は人と人との関わりの中で撮影が行われることによっ て人々の意識に変革を与えることができる。そのためそこには言 葉にすることのできないことや目には見えないことまで写し出され てくる。1.3 カメラによって与えられるもの
人々の意識に変革を与え、言葉では伝えることのできないこと を表現していくには、人間の記憶はあまりにも主観的な曖昧さが あり、人間の目もまた主観的な曖昧さがある。カメラは真実を客観 的に記録して、客観的な視点で見せてくれる。そのため肖像写 真には視覚による差異もなく全てを平等に写し出すため、普段 意識して見ていなかった無意識的な部分まで写し出されるので あり、気づかないで見ていなかった部分を見る事ができる。それ は我々が普段鏡で見ている自分の顔とは明らかな違いが存在し ている。また、我々はカメラの前に立つとどうしても何者かを演じ ようとしてしまい、偽ろうとしてしまう。それは、カメラという物に対し ての人々の認識であり、写真に撮られるということはその後誰か に見られたり見せたりする物であるという認識があるからである。 その認識があるため被写体になった人は誰かに見られるというこ とを意識してしまい、無意識のうちに自分を偽ろうとしてしまう。そ れを排除するにあたり撮影において被写体の表情を無表情にす ることによって偽りの部分は排除することができる。そうすることに よって、我々は被写体すら知らないその人の現実の顔を写し出 すことができ、自らの知らなかった部分について知ることができる のである。このことについては日常生活の上では自らを客観的な 視点で見ることができないため確認することはできない。それを 言葉で表すよりも肖像写真によって表現さえることのほうがより説 得力があり、理解しやすいのである。2 肖像写真の制作
2.1 群衆として構成された肖像写真
写真1のように肖像写真をたくさんまとめて群衆のように見せる ことによって、それらを全て平等化した中で肖像写真を比べて考 えさせる作品形式で行ってきた。それは見るだけでなく考えると いう行為を鑑賞者に行わせることを目的としていた。そして群衆 で見せることによって同時に多数の視線を感じることができ、常 に見られている状態を意識的にさせることはできた。 しかし今回の展示で行っていたスタイルがパターン化してきて いることがわかり、フォーマット化してきていることに気がついた。 パターン化してしまうとその被写体の人とのコミュニケーションや その被写体との距離感が伝わりにくくなり、それにより記録という 面が強くなり、その時そこにその人が存在したという記録をしただ けにすぎないように感じだした。そして撮影を重ねて行くにつれ て被写体を捉える構図が無意識のうちに自らの中でフォーマット 化されてきた。さらに群衆で見せてしまうと一枚の写真を見るので はなく、全体を眺めるように見てしまうがために全てが平等化され てしまう。全てを平等化してしまうと一枚一枚の個としての個性と いう面を考察するということが難しくなることがわかった。そのため 研究の「人間とは何か?」ということを知る上での情報が薄れてい るように見えてしまい、読み取りにくくなることがわかった。2.2 二人での肖像写真
新たな試みとして写真2の何らかの関係をもった二人を一つの フレームに納め、そこから二人だけの二人から感じる人間とは何 か?を考察した。被写体として選んだ二人は何らかのつながりや 関係性をもった人を選んだ。それによって鑑賞者は写し出されて いる二人の関係性について考察を行い、そこに共通点を見つけ ようとする。例えば夫婦であったり、兄弟であったり、友達同士で あったりと身近な関係にある人を一緒に撮影した。そこから夫婦 なら夫婦の、友達なら友達の言葉では表現することのできない二 人だけの環境や空気感が現れてきた。しかしながら考察という面3.2 作品情報
作品数:合計45点 ・額装作品/40点 サイズ:508×610mm ブックマット形式 [1]一人での肖像写真/銀塩写真/26点 [2]二人での肖像写真/銀塩写真/8点 [3]家族での肖像写真/銀塩写真/2点 [4]全身での肖像写真/銀塩写真/4点 ・パネル加工のアルミフレーム作品/5点 サイズ:1030×1456mm [1]全身での肖像写真/インクジェットプリント/4点 [2]人の皮膚のクローズアップ写真/インクジェットプリント/1点3.3 展示構成
今回の展示は大きく分けて3つの構成にわかれており、人々が 他者との関わりの中で自身と向き合うきっかけを与えてくれるため の空間として構成。第1が前回と同じように一人の肖像写真を群 衆としてみせる展示レイアウト、第2は新たに写真2と写真3と写真 4のフォーマットで撮影された肖像写真、第3にB0サイズの全身の 肖像写真によって構成されている。第1の構成は新たに今回構 成された第2と第3の構成とを比較する対象として展示。第2の構 成は新たな試みで撮影された肖像写真を前回までの第1の構成 と比較するために同じ仕上げにした。第3の構成は展示作品のサ イズを大きくして鑑賞者が対話を行いやすいように写真7のように それぞれの作品の前に観賞用のイスを設置した。この大きくプリ ントされた肖像写真は、被写体の存在を強く感じられ、あたかも 目の前に被写体が存在しているかのように感じられ、強い視線も 感じられた。4 最後に
今回行った個展『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは 何か?』は肖像写真を介して被写体の視線を強く感じさせること ができ、被写体の存在感を感じさせることができた。そして鑑賞 者はこの空間で被写体からの視線を感じながら言葉のない対話 が行なえる場となり、考えさせるという行為が生まれた。 肖像写真は一枚のフレームの中に複数の被写体をおさめると 記念写真という要素が非常に強くなるため、そことの差異を重視 しながら制作を行なうことが重要となることがわかった。 今後の展開としては被写体の存在感を強めていくために個とし ての存在を強められる展開で撮影、展示を行なっていきたい。そ して「人間とは何か?」を知るにあたり言語化できないことを可視 化していく作業はまだまだ探求する余地がある。謝辞
最後になってしまいましたが、制作にあたり、ご協力いただいた 皆様に、お礼申し上げます。はじめに
本稿は、2012年10月10日(水)から10月21日(日)までアートラ ボあいち4FGakugei Lab.にて行ってきた個展『横山達也写真展 “肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』においての 研究活動報告書である。今回の展覧会は以前から著者が行なっ てきている研究「肖像写真を通しての人間研究」の新たな発展と 展開の試みを実験的に行ったものである。1章では著者の研究 における考え、2章では制作のプロセス、3章では展示にあたって の解説を行なっていく。1 肖像写真を介して人を知る
1.1 人との関わり
兼ねてからの研究「人間とは何か?」そのことについて肖像写 真を通して人間研究を行なっている。そして人間とは何かというこ とにおいて言葉で表現したり、言葉で伝えるよりも肖像写真という 形で表現し伝える方が理解しやすく、説得しやすいと考えた。 肖像写真はそこに写し出されている被写体が存在したことや本 人であるための確認として扱われる。そのため人々は肖像写真 からは被写体があたかも今ここに存在しているかのようにその被 写体の存在を感じることがある。しかしそれだけでなく、写し出さ れている被写体の体系や服装や髪型、写された場所との関係性 などから被写体の日常生活や風貌や性格などもうかがうことがで きるが、人間性などの言葉にすることのできないことや目には見 えないことまでうかがうこともできる。さらに肖像写真は鏡で見る姿 (虚像)とは違い、他者からの視点(実像)で見ることができる。そ して人間とは何か?ということにおいては一言では語ることができ ないほど謎めいているため、肖像写真を介すことによって普段見 ることのできない部分や言葉だけでは伝えきれない部分を垣間 見ることができる。しかし、ただただ肖像写真を撮るだけでは単な る記録や記念写真にしかならず、それではその肖像写真からは 何も伝わらず考察することもできない。それを解決するにあたり撮 影者と被写体との関係性が密接でなければならない。 普段は無意識のうちに行っていることを意識的に行わせ、確認さ せることによって考えるということができる。それによって肖像写真 から他者のことを考えるということにつながり、人々に他人のことを 考えたり思ったりすることを養わせる。1.2 見ると見られるの関係
肖像写真はカメラという道具を用いて撮影する人(カメラマン)と 撮影される人(被写体)との関係によって成り立っている。撮影者 はカメラのファインダーを通して撮ることを意識的に行い、被写体 において写し出されている二人の考察で留まってしまい、他との 比較ということについては難しかった。2.3 家族での肖像写真果
二人での肖像写真に加えて、家族という集団での撮影も試み た。家族での肖像写真は、その家族としての固まりで見ることが でき、そこから家族構成や家庭生活が垣間見ることができ、その 家族独特の存在感を感じることができた。人間を個としてみるだ けではなく家族という集団で捉えるとその分「人間とはなにか」と いうことをさらに強く訴えかけてくるように感じられるのではないか と思い試みた。しかし今回は人間とは何かということよりも家族とし ての構成や関係性の方が強く感じられた。2.4 全身での肖像写真
全身の肖像写真となるとその被写体の立ち振る舞いを伺うこと ができ、顔の表情に焦点がいくよりか、体全体として被写体を捉 えるようになる。そのことにより被写体の動作であったり、体系で あったり、服装であったりと人の表面的な部分の情報を気にする ようになる。そのため全身の肖像写真は普段日常生活の中で見 る他者のイメージと近い。そして場(背景)との関係性においても 強調される。しかしこれらのことは被写体の表面的な部分であり、 内面的な部分、例えば性格であったり、感情であったりという面 においてはここから考察するとなると、写真1のような一人の肖像 に比べると難しい。3 個展“肖像写真たち”について
3.1 展覧会情報
『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』 日時:10月10日(水)− 21日(日) ※月・火は休館 11:00 − 19:00(最終日は15:00まで) 会場:アートラボあいち4F Gakugei Lab. 今回の展示は肖像写真と鑑賞者が同じ時間、同じ空間を共に 共有し、この場で対話をおこなってもらうことを目的として行なっ た。現代社会で他者との関わりが希薄化されていると感じた。そし て日常生活において我々は他者と向き合うことが少ない。そんな 時代の中で今回の展示会場は他者について考える場となった。 はカメラのレンズによって撮られることを意識的にさせられる。そ してカメラを介してお互いの存在について意識し、認識し合いな がら撮影という行為を行い、その瞬間お互いの時間と空間が共 有され、シャッターが押された一瞬、撮影者と被写体が一つに結 ばれる。それによって、そこで言葉のない対話がなされ、その肖 像写真には被写体の意思が存在する。 被写体は撮影の際に写し出される自己像について想像しなが ら自己の存在について考える。そういった肖像写真には被写体 の意思が存在しており、誰かに見られることを想定している。それ は肖像写真として出来上がったときにそれが被写体の意思とは 関係なく誰かに見られることを想定しているからである。そしてそ こにも写真を見る人と写真に写し出されている人が見られるという 「見る」と「見られる」の関係性も生まれる。そのことから肖像写真 には「撮る側」と「撮られる側」の関係にありながら、「見る側」と「見 られる側」の関係にもあることがわかる。 肖像写真は人と人との関わりの中で撮影が行われることによっ て人々の意識に変革を与えることができる。そのためそこには言 葉にすることのできないことや目には見えないことまで写し出され てくる。1.3 カメラによって与えられるもの
人々の意識に変革を与え、言葉では伝えることのできないこと を表現していくには、人間の記憶はあまりにも主観的な曖昧さが あり、人間の目もまた主観的な曖昧さがある。カメラは真実を客観 的に記録して、客観的な視点で見せてくれる。そのため肖像写 真には視覚による差異もなく全てを平等に写し出すため、普段 意識して見ていなかった無意識的な部分まで写し出されるので あり、気づかないで見ていなかった部分を見る事ができる。それ は我々が普段鏡で見ている自分の顔とは明らかな違いが存在し ている。また、我々はカメラの前に立つとどうしても何者かを演じ ようとしてしまい、偽ろうとしてしまう。それは、カメラという物に対し ての人々の認識であり、写真に撮られるということはその後誰か に見られたり見せたりする物であるという認識があるからである。 その認識があるため被写体になった人は誰かに見られるというこ とを意識してしまい、無意識のうちに自分を偽ろうとしてしまう。そ れを排除するにあたり撮影において被写体の表情を無表情にす ることによって偽りの部分は排除することができる。そうすることに よって、我々は被写体すら知らないその人の現実の顔を写し出 すことができ、自らの知らなかった部分について知ることができる のである。このことについては日常生活の上では自らを客観的な 視点で見ることができないため確認することはできない。それを 言葉で表すよりも肖像写真によって表現さえることのほうがより説 得力があり、理解しやすいのである。2 肖像写真の制作
2.1 群衆として構成された肖像写真
写真1のように肖像写真をたくさんまとめて群衆のように見せる ことによって、それらを全て平等化した中で肖像写真を比べて考 えさせる作品形式で行ってきた。それは見るだけでなく考えると いう行為を鑑賞者に行わせることを目的としていた。そして群衆 で見せることによって同時に多数の視線を感じることができ、常 に見られている状態を意識的にさせることはできた。 しかし今回の展示で行っていたスタイルがパターン化してきて いることがわかり、フォーマット化してきていることに気がついた。 パターン化してしまうとその被写体の人とのコミュニケーションや その被写体との距離感が伝わりにくくなり、それにより記録という 面が強くなり、その時そこにその人が存在したという記録をしただ けにすぎないように感じだした。そして撮影を重ねて行くにつれ て被写体を捉える構図が無意識のうちに自らの中でフォーマット 化されてきた。さらに群衆で見せてしまうと一枚の写真を見るので はなく、全体を眺めるように見てしまうがために全てが平等化され てしまう。全てを平等化してしまうと一枚一枚の個としての個性と いう面を考察するということが難しくなることがわかった。そのため 研究の「人間とは何か?」ということを知る上での情報が薄れてい るように見えてしまい、読み取りにくくなることがわかった。2.2 二人での肖像写真
新たな試みとして写真2の何らかの関係をもった二人を一つの フレームに納め、そこから二人だけの二人から感じる人間とは何 か?を考察した。被写体として選んだ二人は何らかのつながりや 関係性をもった人を選んだ。それによって鑑賞者は写し出されて いる二人の関係性について考察を行い、そこに共通点を見つけ ようとする。例えば夫婦であったり、兄弟であったり、友達同士で あったりと身近な関係にある人を一緒に撮影した。そこから夫婦 なら夫婦の、友達なら友達の言葉では表現することのできない二 人だけの環境や空気感が現れてきた。しかしながら考察という面 074 名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要2013 VOL.6NAGOYA UNIVERSITY OF ARTS AND SCIENCES, SCHOOL OF MEDIA AND DESIGN / RESEARCH BULLETIN 2013 VOL.6
3.2 作品情報
作品数:合計45点 ・額装作品/40点 サイズ:508×610mm ブックマット形式 [1]一人での肖像写真/銀塩写真/26点 [2]二人での肖像写真/銀塩写真/8点 [3]家族での肖像写真/銀塩写真/2点 [4]全身での肖像写真/銀塩写真/4点 ・パネル加工のアルミフレーム作品/5点 サイズ:1030×1456mm [1]全身での肖像写真/インクジェットプリント/4点 [2]人の皮膚のクローズアップ写真/インクジェットプリント/1点3.3 展示構成
今回の展示は大きく分けて3つの構成にわかれており、人々が 他者との関わりの中で自身と向き合うきっかけを与えてくれるため の空間として構成。第1が前回と同じように一人の肖像写真を群 衆としてみせる展示レイアウト、第2は新たに写真2と写真3と写真 4のフォーマットで撮影された肖像写真、第3にB0サイズの全身の 肖像写真によって構成されている。第1の構成は新たに今回構 成された第2と第3の構成とを比較する対象として展示。第2の構 成は新たな試みで撮影された肖像写真を前回までの第1の構成 と比較するために同じ仕上げにした。第3の構成は展示作品のサ イズを大きくして鑑賞者が対話を行いやすいように写真7のように それぞれの作品の前に観賞用のイスを設置した。この大きくプリ ントされた肖像写真は、被写体の存在を強く感じられ、あたかも 目の前に被写体が存在しているかのように感じられ、強い視線も 感じられた。4 最後に
今回行った個展『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは 何か?』は肖像写真を介して被写体の視線を強く感じさせること ができ、被写体の存在感を感じさせることができた。そして鑑賞 者はこの空間で被写体からの視線を感じながら言葉のない対話 が行なえる場となり、考えさせるという行為が生まれた。 肖像写真は一枚のフレームの中に複数の被写体をおさめると 記念写真という要素が非常に強くなるため、そことの差異を重視 しながら制作を行なうことが重要となることがわかった。 今後の展開としては被写体の存在感を強めていくために個とし ての存在を強められる展開で撮影、展示を行なっていきたい。そ して「人間とは何か?」を知るにあたり言語化できないことを可視 化していく作業はまだまだ探求する余地がある。謝辞
最後になってしまいましたが、制作にあたり、ご協力いただいた 皆様に、お礼申し上げます。 写真1:『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』展示風景/2012はじめに
本稿は、2012年10月10日(水)から10月21日(日)までアートラ ボあいち4FGakugei Lab.にて行ってきた個展『横山達也写真展 “肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』においての 研究活動報告書である。今回の展覧会は以前から著者が行なっ てきている研究「肖像写真を通しての人間研究」の新たな発展と 展開の試みを実験的に行ったものである。1章では著者の研究 における考え、2章では制作のプロセス、3章では展示にあたって の解説を行なっていく。1 肖像写真を介して人を知る
1.1 人との関わり
兼ねてからの研究「人間とは何か?」そのことについて肖像写 真を通して人間研究を行なっている。そして人間とは何かというこ とにおいて言葉で表現したり、言葉で伝えるよりも肖像写真という 形で表現し伝える方が理解しやすく、説得しやすいと考えた。 肖像写真はそこに写し出されている被写体が存在したことや本 人であるための確認として扱われる。そのため人々は肖像写真 からは被写体があたかも今ここに存在しているかのようにその被 写体の存在を感じることがある。しかしそれだけでなく、写し出さ れている被写体の体系や服装や髪型、写された場所との関係性 などから被写体の日常生活や風貌や性格などもうかがうことがで きるが、人間性などの言葉にすることのできないことや目には見 えないことまでうかがうこともできる。さらに肖像写真は鏡で見る姿 (虚像)とは違い、他者からの視点(実像)で見ることができる。そ して人間とは何か?ということにおいては一言では語ることができ ないほど謎めいているため、肖像写真を介すことによって普段見 ることのできない部分や言葉だけでは伝えきれない部分を垣間 見ることができる。しかし、ただただ肖像写真を撮るだけでは単な る記録や記念写真にしかならず、それではその肖像写真からは 何も伝わらず考察することもできない。それを解決するにあたり撮 影者と被写体との関係性が密接でなければならない。 普段は無意識のうちに行っていることを意識的に行わせ、確認さ せることによって考えるということができる。それによって肖像写真 から他者のことを考えるということにつながり、人々に他人のことを 考えたり思ったりすることを養わせる。1.2 見ると見られるの関係
肖像写真はカメラという道具を用いて撮影する人(カメラマン)と 撮影される人(被写体)との関係によって成り立っている。撮影者 はカメラのファインダーを通して撮ることを意識的に行い、被写体 において写し出されている二人の考察で留まってしまい、他との 比較ということについては難しかった。2.3 家族での肖像写真果
二人での肖像写真に加えて、家族という集団での撮影も試み た。家族での肖像写真は、その家族としての固まりで見ることが でき、そこから家族構成や家庭生活が垣間見ることができ、その 家族独特の存在感を感じることができた。人間を個としてみるだ けではなく家族という集団で捉えるとその分「人間とはなにか」と いうことをさらに強く訴えかけてくるように感じられるのではないか と思い試みた。しかし今回は人間とは何かということよりも家族とし ての構成や関係性の方が強く感じられた。2.4 全身での肖像写真
全身の肖像写真となるとその被写体の立ち振る舞いを伺うこと ができ、顔の表情に焦点がいくよりか、体全体として被写体を捉 えるようになる。そのことにより被写体の動作であったり、体系で あったり、服装であったりと人の表面的な部分の情報を気にする ようになる。そのため全身の肖像写真は普段日常生活の中で見 る他者のイメージと近い。そして場(背景)との関係性においても 強調される。しかしこれらのことは被写体の表面的な部分であり、 内面的な部分、例えば性格であったり、感情であったりという面 においてはここから考察するとなると、写真1のような一人の肖像 に比べると難しい。3 個展“肖像写真たち”について
3.1 展覧会情報
『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』 日時:10月10日(水)− 21日(日) ※月・火は休館 11:00 − 19:00(最終日は15:00まで) 会場:アートラボあいち4F Gakugei Lab. 今回の展示は肖像写真と鑑賞者が同じ時間、同じ空間を共に 共有し、この場で対話をおこなってもらうことを目的として行なっ た。現代社会で他者との関わりが希薄化されていると感じた。そし て日常生活において我々は他者と向き合うことが少ない。そんな 時代の中で今回の展示会場は他者について考える場となった。 075 はカメラのレンズによって撮られることを意識的にさせられる。そ してカメラを介してお互いの存在について意識し、認識し合いな がら撮影という行為を行い、その瞬間お互いの時間と空間が共 有され、シャッターが押された一瞬、撮影者と被写体が一つに結 ばれる。それによって、そこで言葉のない対話がなされ、その肖 像写真には被写体の意思が存在する。 被写体は撮影の際に写し出される自己像について想像しなが ら自己の存在について考える。そういった肖像写真には被写体 の意思が存在しており、誰かに見られることを想定している。それ は肖像写真として出来上がったときにそれが被写体の意思とは 関係なく誰かに見られることを想定しているからである。そしてそ こにも写真を見る人と写真に写し出されている人が見られるという 「見る」と「見られる」の関係性も生まれる。そのことから肖像写真 には「撮る側」と「撮られる側」の関係にありながら、「見る側」と「見 られる側」の関係にもあることがわかる。 肖像写真は人と人との関わりの中で撮影が行われることによっ て人々の意識に変革を与えることができる。そのためそこには言 葉にすることのできないことや目には見えないことまで写し出され てくる。1.3 カメラによって与えられるもの
人々の意識に変革を与え、言葉では伝えることのできないこと を表現していくには、人間の記憶はあまりにも主観的な曖昧さが あり、人間の目もまた主観的な曖昧さがある。カメラは真実を客観 的に記録して、客観的な視点で見せてくれる。そのため肖像写 真には視覚による差異もなく全てを平等に写し出すため、普段 意識して見ていなかった無意識的な部分まで写し出されるので あり、気づかないで見ていなかった部分を見る事ができる。それ は我々が普段鏡で見ている自分の顔とは明らかな違いが存在し ている。また、我々はカメラの前に立つとどうしても何者かを演じ ようとしてしまい、偽ろうとしてしまう。それは、カメラという物に対し ての人々の認識であり、写真に撮られるということはその後誰か に見られたり見せたりする物であるという認識があるからである。 その認識があるため被写体になった人は誰かに見られるというこ とを意識してしまい、無意識のうちに自分を偽ろうとしてしまう。そ れを排除するにあたり撮影において被写体の表情を無表情にす ることによって偽りの部分は排除することができる。そうすることに よって、我々は被写体すら知らないその人の現実の顔を写し出 すことができ、自らの知らなかった部分について知ることができる のである。このことについては日常生活の上では自らを客観的な 視点で見ることができないため確認することはできない。それを 言葉で表すよりも肖像写真によって表現さえることのほうがより説 得力があり、理解しやすいのである。2 肖像写真の制作
2.1 群衆として構成された肖像写真
写真1のように肖像写真をたくさんまとめて群衆のように見せる ことによって、それらを全て平等化した中で肖像写真を比べて考 えさせる作品形式で行ってきた。それは見るだけでなく考えると いう行為を鑑賞者に行わせることを目的としていた。そして群衆 で見せることによって同時に多数の視線を感じることができ、常 に見られている状態を意識的にさせることはできた。 しかし今回の展示で行っていたスタイルがパターン化してきて いることがわかり、フォーマット化してきていることに気がついた。 パターン化してしまうとその被写体の人とのコミュニケーションや その被写体との距離感が伝わりにくくなり、それにより記録という 面が強くなり、その時そこにその人が存在したという記録をしただ けにすぎないように感じだした。そして撮影を重ねて行くにつれ て被写体を捉える構図が無意識のうちに自らの中でフォーマット 化されてきた。さらに群衆で見せてしまうと一枚の写真を見るので はなく、全体を眺めるように見てしまうがために全てが平等化され てしまう。全てを平等化してしまうと一枚一枚の個としての個性と いう面を考察するということが難しくなることがわかった。そのため 研究の「人間とは何か?」ということを知る上での情報が薄れてい るように見えてしまい、読み取りにくくなることがわかった。2.2 二人での肖像写真
新たな試みとして写真2の何らかの関係をもった二人を一つの フレームに納め、そこから二人だけの二人から感じる人間とは何 か?を考察した。被写体として選んだ二人は何らかのつながりや 関係性をもった人を選んだ。それによって鑑賞者は写し出されて いる二人の関係性について考察を行い、そこに共通点を見つけ ようとする。例えば夫婦であったり、兄弟であったり、友達同士で あったりと身近な関係にある人を一緒に撮影した。そこから夫婦 なら夫婦の、友達なら友達の言葉では表現することのできない二 人だけの環境や空気感が現れてきた。しかしながら考察という面3.2 作品情報
作品数:合計45点 ・額装作品/40点 サイズ:508×610mm ブックマット形式 [1]一人での肖像写真/銀塩写真/26点 [2]二人での肖像写真/銀塩写真/8点 [3]家族での肖像写真/銀塩写真/2点 [4]全身での肖像写真/銀塩写真/4点 ・パネル加工のアルミフレーム作品/5点 サイズ:1030×1456mm [1]全身での肖像写真/インクジェットプリント/4点 [2]人の皮膚のクローズアップ写真/インクジェットプリント/1点3.3 展示構成
今回の展示は大きく分けて3つの構成にわかれており、人々が 他者との関わりの中で自身と向き合うきっかけを与えてくれるため の空間として構成。第1が前回と同じように一人の肖像写真を群 衆としてみせる展示レイアウト、第2は新たに写真2と写真3と写真 4のフォーマットで撮影された肖像写真、第3にB0サイズの全身の 肖像写真によって構成されている。第1の構成は新たに今回構 成された第2と第3の構成とを比較する対象として展示。第2の構 成は新たな試みで撮影された肖像写真を前回までの第1の構成 と比較するために同じ仕上げにした。第3の構成は展示作品のサ イズを大きくして鑑賞者が対話を行いやすいように写真7のように それぞれの作品の前に観賞用のイスを設置した。この大きくプリ ントされた肖像写真は、被写体の存在を強く感じられ、あたかも 目の前に被写体が存在しているかのように感じられ、強い視線も 感じられた。4 最後に
今回行った個展『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは 何か?』は肖像写真を介して被写体の視線を強く感じさせること ができ、被写体の存在感を感じさせることができた。そして鑑賞 者はこの空間で被写体からの視線を感じながら言葉のない対話 が行なえる場となり、考えさせるという行為が生まれた。 肖像写真は一枚のフレームの中に複数の被写体をおさめると 記念写真という要素が非常に強くなるため、そことの差異を重視 しながら制作を行なうことが重要となることがわかった。 今後の展開としては被写体の存在感を強めていくために個とし ての存在を強められる展開で撮影、展示を行なっていきたい。そ して「人間とは何か?」を知るにあたり言語化できないことを可視 化していく作業はまだまだ探求する余地がある。謝辞
最後になってしまいましたが、制作にあたり、ご協力いただいた 皆様に、お礼申し上げます。 写真2:二人での肖像写真/2012 写真4:全身での肖像写真/2012 写真3:家族での肖像写真/2012 人間とは何か? 言語化できないことの可視化 WHAT IS MAN? VISUALIZATION OF WHAT CANNOT BECOME A VERBALIZING横山 達也 TATSUYA YOKOYAMA
はじめに
本稿は、2012年10月10日(水)から10月21日(日)までアートラ ボあいち4FGakugei Lab.にて行ってきた個展『横山達也写真展 “肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』においての 研究活動報告書である。今回の展覧会は以前から著者が行なっ てきている研究「肖像写真を通しての人間研究」の新たな発展と 展開の試みを実験的に行ったものである。1章では著者の研究 における考え、2章では制作のプロセス、3章では展示にあたって の解説を行なっていく。1 肖像写真を介して人を知る
1.1 人との関わり
兼ねてからの研究「人間とは何か?」そのことについて肖像写 真を通して人間研究を行なっている。そして人間とは何かというこ とにおいて言葉で表現したり、言葉で伝えるよりも肖像写真という 形で表現し伝える方が理解しやすく、説得しやすいと考えた。 肖像写真はそこに写し出されている被写体が存在したことや本 人であるための確認として扱われる。そのため人々は肖像写真 からは被写体があたかも今ここに存在しているかのようにその被 写体の存在を感じることがある。しかしそれだけでなく、写し出さ れている被写体の体系や服装や髪型、写された場所との関係性 などから被写体の日常生活や風貌や性格などもうかがうことがで きるが、人間性などの言葉にすることのできないことや目には見 えないことまでうかがうこともできる。さらに肖像写真は鏡で見る姿 (虚像)とは違い、他者からの視点(実像)で見ることができる。そ して人間とは何か?ということにおいては一言では語ることができ ないほど謎めいているため、肖像写真を介すことによって普段見 ることのできない部分や言葉だけでは伝えきれない部分を垣間 見ることができる。しかし、ただただ肖像写真を撮るだけでは単な る記録や記念写真にしかならず、それではその肖像写真からは 何も伝わらず考察することもできない。それを解決するにあたり撮 影者と被写体との関係性が密接でなければならない。 普段は無意識のうちに行っていることを意識的に行わせ、確認さ せることによって考えるということができる。それによって肖像写真 から他者のことを考えるということにつながり、人々に他人のことを 考えたり思ったりすることを養わせる。1.2 見ると見られるの関係
肖像写真はカメラという道具を用いて撮影する人(カメラマン)と 撮影される人(被写体)との関係によって成り立っている。撮影者 はカメラのファインダーを通して撮ることを意識的に行い、被写体 において写し出されている二人の考察で留まってしまい、他との 比較ということについては難しかった。2.3 家族での肖像写真果
二人での肖像写真に加えて、家族という集団での撮影も試み た。家族での肖像写真は、その家族としての固まりで見ることが でき、そこから家族構成や家庭生活が垣間見ることができ、その 家族独特の存在感を感じることができた。人間を個としてみるだ けではなく家族という集団で捉えるとその分「人間とはなにか」と いうことをさらに強く訴えかけてくるように感じられるのではないか と思い試みた。しかし今回は人間とは何かということよりも家族とし ての構成や関係性の方が強く感じられた。2.4 全身での肖像写真
全身の肖像写真となるとその被写体の立ち振る舞いを伺うこと ができ、顔の表情に焦点がいくよりか、体全体として被写体を捉 えるようになる。そのことにより被写体の動作であったり、体系で あったり、服装であったりと人の表面的な部分の情報を気にする ようになる。そのため全身の肖像写真は普段日常生活の中で見 る他者のイメージと近い。そして場(背景)との関係性においても 強調される。しかしこれらのことは被写体の表面的な部分であり、 内面的な部分、例えば性格であったり、感情であったりという面 においてはここから考察するとなると、写真1のような一人の肖像 に比べると難しい。3 個展“肖像写真たち”について
3.1 展覧会情報
『“肖像写真たち”肖像写真における人間とは何か?』 日時:10月10日(水)− 21日(日) ※月・火は休館 11:00 − 19:00(最終日は15:00まで) 会場:アートラボあいち4F Gakugei Lab. 今回の展示は肖像写真と鑑賞者が同じ時間、同じ空間を共に 共有し、この場で対話をおこなってもらうことを目的として行なっ た。現代社会で他者との関わりが希薄化されていると感じた。そし て日常生活において我々は他者と向き合うことが少ない。そんな 時代の中で今回の展示会場は他者について考える場となった。 はカメラのレンズによって撮られることを意識的にさせられる。そ してカメラを介してお互いの存在について意識し、認識し合いな がら撮影という行為を行い、その瞬間お互いの時間と空間が共 有され、シャッターが押された一瞬、撮影者と被写体が一つに結 ばれる。それによって、そこで言葉のない対話がなされ、その肖 像写真には被写体の意思が存在する。 被写体は撮影の際に写し出される自己像について想像しなが ら自己の存在について考える。そういった肖像写真には被写体 の意思が存在しており、誰かに見られることを想定している。それ は肖像写真として出来上がったときにそれが被写体の意思とは 関係なく誰かに見られることを想定しているからである。そしてそ こにも写真を見る人と写真に写し出されている人が見られるという 「見る」と「見られる」の関係性も生まれる。そのことから肖像写真 には「撮る側」と「撮られる側」の関係にありながら、「見る側」と「見 られる側」の関係にもあることがわかる。 肖像写真は人と人との関わりの中で撮影が行われることによっ て人々の意識に変革を与えることができる。そのためそこには言 葉にすることのできないことや目には見えないことまで写し出され てくる。1.3 カメラによって与えられるもの
人々の意識に変革を与え、言葉では伝えることのできないこと を表現していくには、人間の記憶はあまりにも主観的な曖昧さが あり、人間の目もまた主観的な曖昧さがある。カメラは真実を客観 的に記録して、客観的な視点で見せてくれる。そのため肖像写 真には視覚による差異もなく全てを平等に写し出すため、普段 意識して見ていなかった無意識的な部分まで写し出されるので あり、気づかないで見ていなかった部分を見る事ができる。それ は我々が普段鏡で見ている自分の顔とは明らかな違いが存在し ている。また、我々はカメラの前に立つとどうしても何者かを演じ ようとしてしまい、偽ろうとしてしまう。それは、カメラという物に対し ての人々の認識であり、写真に撮られるということはその後誰か に見られたり見せたりする物であるという認識があるからである。 その認識があるため被写体になった人は誰かに見られるというこ とを意識してしまい、無意識のうちに自分を偽ろうとしてしまう。そ れを排除するにあたり撮影において被写体の表情を無表情にす ることによって偽りの部分は排除することができる。そうすることに よって、我々は被写体すら知らないその人の現実の顔を写し出 すことができ、自らの知らなかった部分について知ることができる のである。このことについては日常生活の上では自らを客観的な 視点で見ることができないため確認することはできない。それを 言葉で表すよりも肖像写真によって表現さえることのほうがより説 得力があり、理解しやすいのである。2 肖像写真の制作
2.1 群衆として構成された肖像写真
写真1のように肖像写真をたくさんまとめて群衆のように見せる ことによって、それらを全て平等化した中で肖像写真を比べて考 えさせる作品形式で行ってきた。それは見るだけでなく考えると いう行為を鑑賞者に行わせることを目的としていた。そして群衆 で見せることによって同時に多数の視線を感じることができ、常 に見られている状態を意識的にさせることはできた。 しかし今回の展示で行っていたスタイルがパターン化してきて いることがわかり、フォーマット化してきていることに気がついた。 パターン化してしまうとその被写体の人とのコミュニケーションや その被写体との距離感が伝わりにくくなり、それにより記録という 面が強くなり、その時そこにその人が存在したという記録をしただ けにすぎないように感じだした。そして撮影を重ねて行くにつれ て被写体を捉える構図が無意識のうちに自らの中でフォーマット 化されてきた。さらに群衆で見せてしまうと一枚の写真を見るので はなく、全体を眺めるように見てしまうがために全てが平等化され てしまう。全てを平等化してしまうと一枚一枚の個としての個性と いう面を考察するということが難しくなることがわかった。そのため 研究の「人間とは何か?」ということを知る上での情報が薄れてい るように見えてしまい、読み取りにくくなることがわかった。2.2 二人での肖像写真
新たな試みとして写真2の何らかの関係をもった二人を一つの フレームに納め、そこから二人だけの二人から感じる人間とは何 か?を考察した。被写体として選んだ二人は何らかのつながりや 関係性をもった人を選んだ。それによって鑑賞者は写し出されて いる二人の関係性について考察を行い、そこに共通点を見つけ ようとする。例えば夫婦であったり、兄弟であったり、友達同士で あったりと身近な関係にある人を一緒に撮影した。そこから夫婦 なら夫婦の、友達なら友達の言葉では表現することのできない二 人だけの環境や空気感が現れてきた。しかしながら考察という面 076 名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要2013 VOL.6NAGOYA UNIVERSITY OF ARTS AND SCIENCES, SCHOOL OF MEDIA AND DESIGN / RESEARCH BULLETIN 2013 VOL.6