岡山大学構 内遺跡発掘調査報告
第
27冊
津島岡大道跡
20
一 第
32次
調査 ―
〔
教育学部剣道場新営工事に伴 う発掘調査〕
2011年
岡山大学埋蔵文化財調査研究セ ンター
岡山大学構 内遺跡発掘調査報告
第
27冊
津島岡大道跡
20
― 第
32次
調査 ―
〔
教育学部剣道場新営工事に伴う発掘調査〕
2011年
岡山大学埋蔵文化財調査研 究セ ンター
今回の発掘調査 は、本学の教育学部剣道場の新営に伴 う、
20X10mあ
ま りの比較的小規模
なもので した。遺構が集中するため「遺跡保護区」に指定されている地点にも近 く、以前に
近辺で試掘調査 を実施 してお り、確実に弥生時代や縄文時代の遺構が存在するだろうと予測
して全面調査 に踏み切 った ものです。
7月
16日に調査 を開始 し炎天下での発掘 を進めていきましたが、予想 どお りとはいえ中・
近世の水 田の痕跡 を除 くとほとんど遺構や遺物が出土せず、調査期間の後半になると作業員
の方々のあいだにも多少の倦怠感のようなものがただよってきました。重要な遺構や遺物が
出土することの多い弥生時代 は じめの黒褐色の層 を掘 り進めても不思議なほどあまり遺構や
遺物が出土せず、 もうこれで調査 は終わるのか と思い始めていたころに、下層か ら縄文時代
後期の貯蔵穴が突然姿をみせたのです。それまでの調査がまるで「嵐の前の静けさ」であっ
たかのように次々と貯蔵穴は数を増 し、狭い範囲であ りなが らついに
12か
所 に達 しました。
本学の津島キャンパス付近では縄文時代や弥生時代 に、旭川の分流である河川が北東か ら
南西の方向にい く筋 も流れていましたが、稲作が本格的に開始 される前の縄文時代後晩期に
は、流路の肩 にあたる部分に貯蔵穴が しばしば掘 られていました。採集や狩猟が中心の生活
の中で、
ドングリなどの堅果類 を貯蔵するという行為は、農耕へのプレリュー ドともいえる
ものです。今回の調査では堅果類 はあまり多 く出土 しませんで したが、貯蔵穴の底 に敷かれ
た編み物であるアンペラが 目を引 きました。また、貯蔵穴を埋めている土の中に残 されたさ
まざまな植物の種子なども当時の人々の生活や環境を復元するための重要な資料 となります。
比較的小規模 な発掘調査で したが、 このように思いのほか豊かな成果を上げることができ
ました。この地域の土地利用や環境の変遷の資料が、調査 を重ねるたびに豊かなものとな り、
全国的にみて もきわめて重要なフィール ドとなってきています。 こうした調査成果をさまざ
まな方向でご活用 くださいます ようお願いします。
岡山大学埋蔵文化財調査研 究セ ンター
センター長 鯉事
)
北
尾
善
信
副セ ンター長
(大学院社会文化科学研 究科 教授
)新
納
泉
日
次
第 1章
地理的・歴史的環境 ……
………
………
…
1 1 4 4 4 第2節
津島岡大遺跡 ……… 第1節
近P/RIの遺跡2.地
形 の推移1.構
内座標 の設定 ………2.遺
跡 の概要 ………第
2章
調査 の経過 と概 要 ……
・
8 8 8 9 10 12 12 12 12 13 13 18 19 19 第1節 調査 にいた る経過 第2節
調査体制 …… 第3節
調査 の経過 第4節
調査 の概 要第
3章
調査 の記録
第1節 調査地点の位置 と区割 り1.調
査 地点 の位置 ………2.調
査 地点の区割 り 第2節
層序 と地形 ………1.層
序 ………¨・ 第3節
縄 文 時代後期1.縄
文時代後期 下層a.微
高地 。河道 ・・¨・・・・・・・・・・¨¨・・・・ 19b.土
坑 25 25 25 27 37 37 38 39 39 40 40 40 40 40 42 42 42 432.縄
文 時代後期上層 ………a.微
高地・低位部 ………b.貯
蔵穴 ……… 第4節
弥生時代∼古墳時代 ………a.微
高地 。低位部 …………b.水
田畦畔c.溝
………d.ピ
ッ トe.包
含層 出土遺物 第5節
古代a.転
写畦畔b.動
物遺存体集中 ………c.包
含層 出土遺物 ……… 第6節
中世∼近世 ………1.中
世 ………a.耕
作痕 ……… ……b.包
含層 出土遺物2.近
世 ・ ・・……… 43a.溝
,……… 43b.耕
作痕第
4章
自然科 学 的分 析 ………
…
1.津
島岡大遺跡 第32次 調査 出上 自然木 の樹種 …… ……… ………¨… … …… ……… … …… (能城修 ―)2.津
島岡大遺跡 第32次 調査 出土 ア ンペ ラの樹種 ………Ⅲ………… (株式会社 吉 田生物研 究所) 3。 その他 の 自然科学 的分析 ……… ……… ……… ………… ………… …… ………… ……… ……… ………… ……… ……a.放
射性炭素年代 (株式会社 古環境研 究所) (株式会社 古環境研 究所) (株式会社 古 環境研 究所)b.花
粉分析c.植
物珪酸体分析第
5章
結
語 ……
…
・・・・……・ 56 44 寝 45 46 46 4 52 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 図10 図11 図12 図13 図14 図15 図16 図17 図18 図19 図20 図21 図22 膠]23 図24 図25 図26 内座標 と各調査地点 ……… の調査風景 ……… 時代遺構全体図 ……… 全体図 …… ……… … 貯蔵穴11・ 出土遺物 舞r,潤鳴ァ、■■・「El_L刊尉T//J 貯蔵穴12・ 出土遺物 灯 ,吹 八 上Z・ m‐ 還 ・F//J………… … ¨…… 弥生時代∼古墳時代遺構全体図 畦畔1・ 溝1………¨… 溝2断面 ……… ピッ ト1∼ 3¨… …… … … … ¨¨………¨¨… … … …… 弥生時代包含層出土遺物 ………¨……… 古代遺構全体 図 ………"……… 転写畦畔検出状況 ……… 動物遺存体集中 1出 土状況 動物遺存体集中 2出 土状況 古代包含層出土遺物 中世遺構全体図 中世包含層出土遺物 近世遺構全体図 … 溝3断面 ……… 津島岡大遺跡第32次調査 出上 自然木の 顕微鏡写真 ………44 アンペ ラ顔微鏡写真 ………¨… 自然科学分析サ ンプル採取地点 …………"……… 暦年較正結果 北壁 における花粉 ダイアグラム 東壁 における花粉 ダイアグラム 花粉・寄生虫卵顕微鏡写真 植物珪酸体分析結果 …Ⅲ 植物珪酸体顕微鏡写真2
7
2
8
2
9
3
0
3
.
3
2
3
3
3
4
3
5
3
6
3
7
3
8
3
9
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
剛
図 図 図 図 図 図 図 図 図 図 図 図 図 2 4 9 ・0 ︲1 ︲2 ︲2 ・4 ・5 ︲8 ︲9 2︲ 22 23 24 25 26 27 28 29 30 3 . 32 32 33 34 35 36 37 38 39 39 40 41 41 41 41 41 42 42 43 43 4 4 4 5 5 5 5 5挿 図 日 次
周辺遺跡分布図 津島岡大遣跡構 縄文時代貯蔵穴 縄文時代∼古墳 古代∼近世遺構 調査地点の位置 調査区の区割 りと断面位置 調査区断面図1 調査区断面図 2… 縄文時代後期前葉の微高地 と河道 ……… 縄文時代後期下層遺構全体図 … 河道出土遺物(1)……… 河道出土遺物(2)………¨・ 河道出土遺物(3) 河道出土遺物(4) 土坑1 縄文時代後期上層遺構全体図 低位部出土遺物 貯蔵穴1……… 貯蔵穴2・ 出土遺物 … 貯蔵穴3……… 貯蔵穴4∼6…
…………¨……… 貯蔵穴7………¨……… 貯蔵穴8・ 出土遺物 ………¨………… 貯蔵穴9・ アンペ ラ出土状況 ………¨……… 貯蔵穴10表
日 次
7
表5
放射性炭素年代測定結果11
表6
花粉分析結果 …Ⅲ45
表7
植物珪酸体分析結果 46 表1
津島岡大遺跡文献一覧 ………… 表2
検出遺構一覧 ……… 表3
出土ア ンペ ラ樹種同定表 表4
放射性炭素年代測定資料 図版1
縄文時代後期上層全景 図版2
貯蔵穴1・ 7・ 10 図版3
貯蔵穴 2 図版4
貯蔵穴 3 図版5
貯蔵穴4∼6 図版6
貯蔵穴5,6
図版7
貯蔵穴 8 図版8
貯蔵穴 9 守 0 53図 版 日 次
図版9
貯蔵穴4
図版10
貯蔵穴12 図版11 貯蔵穴出土縄文土器・土製品 図版12
河道出土縄文土器(1) 図版13
河道出土縄文土熱21 図版14
河道出上縄文土器3) 図版15
河道出土縄文上黒4)・ 低位部出土縄文土器 図版16
石器・土製品・鉄器例 言
1
本書は、岡山大学坦蔵文化財調査研究セ ンターが教育学部剣道場新営工事に伴 って実施 した津島岡大遺跡第32次調査の発掘調査報 告書である。 調査地点は、岡山市北区津島中3丁目1番 1号に所在する。 調査期間 :2009年 7月16日∼10月 13日調査面積 :383∬
2
発掘調査か ら報告書作成 までの諸作業は、岡山大学埋蔵文化財調査研究セ ンター運営委員会の指導の もとに行われた。委員・幹事 の諸氏に御札 申し上げる。3
本調査の概要を『岡山大学坦蔵文化財調査研究センター紀要2009』 に報告 しているが、細部にわたる事実関係は本書 をもって正式 のもの とする。4
調査時の遺構・遺物実測、写真撮影は、池田晋・岩崎志保・井上佐智・ 山口雄治が担当 した。5
報告書作成にあたっての主な担当は以下の通 りである。 <遺物>土器の実測 。浄写・観察表 :池 田・岩崎 。西本尚美、石器の実測・浄写・観察表 :池 田、写真 :岩 崎 <遺構>浄写 :池 田・西本、版組 :池 田・山本悦世 <整理作業>井口三智子・内田優子 。大橋紗恵子・木下洋子6
本書の執争は、第4章を除いて池田が担当 した。7
編集は、新納泉 (副センター長)・ 山本悦世 (調査研 究室長)の指導の もと、池田が担当した。8
本書作成 にあたって、樹種同定を能城修一氏 (森林総合研究所)、 動物遺存体の鑑定を富岡直人氏 (岡山理科大学)、 石器石材の同 定を鈴木茂之氏 (岡山大学 自然科学研究科)に依頼 した。 また、千葉豊氏 (京都大学文化財総合研究センター)から縄文土器につ いて、佐々木由香氏 (株式会社 パ レオ・ラボ)からアンペラ(編組製品)についてご教示いただいた。記 して感謝する。9
本書で使用 した地形図は、建設省国土地理院発行の1/25,000地 形図「岡山北部」。「岡山南部」(平成6年発行)を合成 したもので ある。 10 本書に掲載 した調査の記録・出土遺物等はすべて当センターで保管 している。 凡 例1
本書で用いる標高は東京湾の平均海面を基準 としてお り、方位は平面直角座標第V系 (世界測地系)の座標北である。2
遺構・遺物の縮尺はを図に付 している。基本的には、遺構断面図1/30、 土器1/3、 石器1/3もしくは1/4に
統一している。3
基本層序の記載に際しては、層番号に 〈〉を付 して遺構坦土と区別した。4
挿図中において遺構の種類を以下の記号で示す。 貯蔵穴i SP、 土坑:SK、 溝:SD、 ピット:P5
土器の遺物番号は原則として遺構別に付す。その他石器等には通し番号を付 した。石器にはS、 土製品にはT、 鉄器にはMを付け て区別 している◇なお、巻未写真図版中の遺物番号は、本文中の遺物香号に一致する。6
遺物の計測値 と観察所見は観察表を作成し、実測図と組み合わせて掲載した。観察表の表記基準は以下の通 りである。 ①土器胎上に合まれる砂粒の分類基準 微砂:径0 5Hllll未満、細砂:径05∼1 4ul未満、粗砂:径1∼2 Hll未満、細礫:径2 11ull以上 ②遺物法量について、土器の口径・底径の復元値は*を 付 して示す。石器等については、破損等により本来の法量が失われている 資料の残存の実測値を( )を付 して示す。7
挿図中において、須恵器の断面は黒塗 りで区別した。8
土層の記載基準は以下の通 りである。 ①堆積物の粒度区分は、地質学で一般に用いられる砕屑物の分類を参考にしつつ、肉眼観察の範囲で行った。 ②土層中に遺物等の混入物が含まれる場合や、粒径の異なる堆積物がプロック状に含まれる場合は、含有物の種類に以下の基準で 記号を付 して、相対的な量を示 した。 ◎:非常に多い、○:多い、△:少ない近隣の遺跡
第
1章
地理的・歴史 的環境
第
1節
近 隣の遺跡
津島岡大遺跡は、岡山市北区津島中所在の、岡山大学津島地区構内に位置する遺跡の総称である。本遺跡の所 在する岡山市北区津島一帯は、中国地方において最大の面積 を有する岡山平野の北端にあた り、主要河川の一つ である旭川の西岸 に位置する。北側には半田山・ダイミ山・烏山といった標高150m前後の山塊が連なってお り、 現在の津島一帯はそれ らの山麓に形成 された扇状地か ら平野部を含む、地形の変換点になっている。 岡山平野は、旭川・吉井川・高梁川の三大1可川の沖積作用 により、最終氷期以降に形成 された ものである。海 水準の変動お よび1中積化の過程は、考古学および地質学の成果か ら次第にあきらかにされつつあ り①、海進のピ ークは縄文時代前期頃にあったとみ られる。中期以降、海岸線は後退 し、河川の堆積作用 と氾濫の繰 り返 しによ って、 自然堤防 と後背湿地が形成 されることとなる。本遺跡周辺で も、旭川の旧河道や支流および谷状の低位部 と、それ らの間に形成 された自然堤防をなす微高地が複雑に点在する地形が拡がっていたことが、発掘調査によ って確認 されてきた。 このようにして形成 された微高地への進出が、岡山平野開発の端緒である。以後、この平 野を舞台に、人々の歴史が現代 まで連綿 と展開することになる。平野周辺における人類の最初の痕跡は、操山山 塊 においてナイフ形石器の採集が報告 されていることか ら②、後期旧石器時代 にまでさかのぼる可能性はあるも のの、 この時代の確実な生活の痕跡は現在のところ未発見である。 ここでは、本報告に関連する時代を中心に周 辺遺跡の概要を述べることとする。 縄文時代前期 にさかのぼる遺跡 は、半田山丘陵の下端に立地する朝寝鼻貝塚 (図1-19)③
である。中期の遺物 は、本遺跡で断片的ではあるが複数地点で確認されてお り、この頃か ら低地へ人の往来のあったことが窺える。 周辺では、旭川東岸 に位置する百間川沢田遺跡 (81)④に認め られるものの、全体 として遺構・遺物の分布は希薄 である。後期になると遺跡数が増加 し、前出の朝寝鼻貝塚のほか、本遺跡では竪穴住居・ ドングリ貯蔵穴・炉跡 などの遺構や、土器・石器等の遺物が確認 されるようになり、生活の痕跡が明瞭 となる。前出の百間川沢田遺跡 では、本遺跡の生活跡 よりもやや時期の新 しい、後期中頃の貝塚や炉跡などが確認されている⑤。縄文時代晩期 か ら弥生時代早期 にかけては、本遺跡の第3・ 15次調査地点で貯蔵穴や土器の出土が認め られるものの、明確な 居住の痕跡 は確認 されていない。 この時期の遺物は本遺跡 をはじめ、百間川遺跡群 (79)でも出土 している。 縄文時代の終わ りに北部九州で逸早 く稲作農耕が導入され、列島各地に受容 されてい く過程で、瀬戸内地域ヘ は比較的早い段階に情報が もたらされたようである。津島江道遺跡 (25)のように、突帯文土器が出上 している ことか ら、弥生時代早期の水田跡 として報告される資料 もあるが0、 評価 は定 まってお らず、現在のところ確実 な水 田跡 として弥生時代早期 にまでさかのぼる資料はない⑦。本遺跡周辺における出現期の水田遺構は、弥生時 代前期の水 田畦畔である。それ らは、弥生時代早期か ら前期にかけて形成されたとみ られる黒褐色粘質土層上面 で検出されてお り、北方中溝遺跡 (36)・ 北方地蔵遺跡 (37)①等で確認 されている。 また、国指定史跡である津 島遺跡 (33)では、微高地上に弥生時代前期前半の竪穴住居・掘立柱建物が、その周辺では水田遺構が確認され てお り③、弥生時代の最古段階の集落の姿を知ることができる。前期か ら集落周辺において水日経営が営まれて いた状況が窺 えよう。 前期以降 も平野部の拡大は続 き、農耕技術や水利技術の定着 も相倹 って、平野のさらに南側の微高地において も集落が次々と出現、拡大 してい く。前出の津島遺跡住0を は じめ、前期後半か ら出現する南方遺跡(43)Qつ、中期 か らは絵図遺跡 (42)OD。 上伊福遺跡 。伊福定国前遺跡 (40,41)00・ 鹿田遺跡(49)Qり、後期 には天瀬遺跡(51)Q0 といった、集落遺跡の増加 と、海浜部への進出がみ られるようになる。 1-地理的 。歴史的環境 [キ〕! i::iケ 0 1km ― (S歳1/50,OOO) 質市│=:ユ
封耳
辮
翻
て
卜市.( 1 津 島 岡 大 遺 跡 (縄文 中期 ∼近 世) 2 田益 田 中 (回立Fl山病 院)遺 跡(縄文 ∼ 近世) 3 自壁 奥 遺 跡(古墳 後 朗 )(製 鉄) 4 津 高住 宅 団地 内遺 跡 群 (古墳 他)(製鉄 遺 跡 群 を含 む) 5 佐 良池 古墳 群 (古墳 後 期) 6 悟 鉢 池 古墳 群 (古墳 後 期) 7 奥 池古 墳 群 (古墳 後 期) 8 ダイ ミ山古墳 (古墳 中期 ?) 9 津 鳥束3丁目第1地点(弥生 古墳) 10 宿 古墳 群 (古墳 前期 後期) H 片 山古墳 (古墳 前 期) 12 烏 山城 跡 (戦国) 13 とつlTL墳墓 古 墳 群 (弥生 ∼ 古 墳) 14 都 月坂 墳 墓 古墳 群 (弥生 ∼ 古墳) 15 半 田 山城 (戦回) 16 津 島福 居 選 跡 (古墳 ∼室 町) 17 お塚 (様)古墳 (古墳 中期) 18 津 島束 遺跡 (縄文 ∼ 室 町) 19 朝 寝 鼻 貝塚 (縄文 前 ∼ 後期) 20 -本松 古墳 (古墳 中期) 21 不 動 堂古墳 22 妙 見 山城 跡 (戦回) 23 鎌 田遺 跡 (弥■他) 24 津 島新 野遺 跡(弥生) 25 津 島江 道遺 跡(縄文 ∼ 近L) 26 北 方 長 日遺 跡(弥生 ∼近 世) 27 神 宮 寺 山古墳(古墳 前 期) 28 青 陵古墳 (古墳 前 期) 29 石 井 廃 寺 (奈良?∼室 町) 30 津 倉 古墳 (古墳 前 期) 31 妙林 寺 追 跡 (弥生) 32 ヒ伊福 西遺跡 尾釘 神社 商 遺 跡 (弥生 ∼ 平安) 33 津 島遺 跡 (弥生 ∼ 近 世) 34 北 方下沼遺跡(弥生 ∼室 町) 35 北 方横 田遺跡(殊生 ∼室 町) 36 北 方 中溝 遺 跡(弥生 ∼室 町) V 北 方 地蔵 遺 跡(弥生 ∼近世) 38 北 方薮 ノ内遺 跡(弥生 ∼近世) 39 北 方 上 沼遺 跡 他(弥生 ∼近世) 40 上伊福 遺跡 伊 福 定 日前 遺 跡 (弥生 ∼近 世) 41 上伊福 遺跡(株生 古墳) 42 絵 図遺 跡 (孫生 ∼平 安) 43 南 方 遺 跡 他(弥生 ∼ 近世) 44 広 瀬遺跡 (弥生) 45 _L伊福 (立花)遺跡(弥生 ∼ 室 町) 46 大 供 本 町遺 跡 (古代 ∼ 近世) 47 大 供 東 浦 遺跡(弥生 ∼ 室町P) 48 鹿 日(県立 岡山病 院)遺跡(平 安 ∼鎌 倉) 49 鹿 』遺跡 (弥生 ∼近 世) 50 岡 山城 跡 (室町 ∼近 世) 51 天瀬遺跡 (弥生 ∼近 世) 52 新 道遺 跡 (奈良∼ 近 世) 53 三 日市 遺跡 (弥生 ∼近 世) 54 竜 ノロ 山頂古 墳 群(古墳 後期) 55 湯迫 古墳 群 (古墳 前期) 56 備 前 革塚 古墳 (古墳 前剣) 図1
周辺遺跡分布図 唐 人塚 古墳 (古墳 後期) 賞 日廃 寺 (飛鳥 ∼ 室 町) 百 問川 二 の 荒手 遺 跡 (近世) 中 島遺 跡 (中島城 跡 )(鎌 倉 ∼ 近 世) 宮 南 遺 跡 (鎌倉 ∼近世) 国長 遺 跡 (平安 ∼近 世) 天神 河原遺跡 (弥生 ∼室 町) 備 前 日府 関連 遺 跡 備 前 国庁 跡 (奈良 ∼平 安) 備 前 国府 推 定 地(南回長)遺 跡 (弥■ ∼鎌倉) 南 古 市 場 追 跡 (奈良∼平安) 北 口遺跡 ハ ガ(高島小)遺跡(奈良∼ 室 町) 70 中井 南 三 反 日遺 跡 古 墳 群 (弥生 ∼ 室町) 71 原 尾 島遺 跡 (弥生 ∼室 町) 72 赤 田西 遺 跡 (弥生 ∼室 町) 73 幡 多廃 寺 (飛鳥 ∼平 安) 中 倦‐1/1,250,0001 74 75 雄 町遺 跡 (縄文 晩期 ∼平 安) 76 乙多見遺跡 (弥■) 77 赤 田東 遺 跡 関遺跡 (弥生 ∼ 室 町) 78 関遺 跡(弥■) 79 百 間川遺 跡 群(縄文 ∼近 世) 80 百 間川 原尾 島遺 跡 (縄文 中期 末 ∼ 近 世) 81 百 間川 沢 lE遺 跡 (縄文 中期 ∼ 近世) 82 百 問川兼 基 遺 跡(弥生 ∼室 町) 83 百 問川 今 谷遺 跡(弥生 ∼古墳) 84 88 操 山古墳 群 (古墳 後 期) 85 妙 禅 寺 城 跡 (戦国) 86 操 山219号 遺 跡 (旧石 器) 87 金 蔵 山古墳 (古墳 中期) 89 網 浜 廃 寺 (飛鳥∼ 平安) 90 操 山109号 墳(古墳 前 期) 91 網 浜 茶 臼 山古 墳 (古墳 前期) 92 操 山103号 墳 (古jFl前期) 93 湊 茶 臼 山古墳 (古墳 前 期) 57 58 59 60 6︲ 62 63 64 65 66 67 68 69近隣の遺跡 一方、岡山平野の北側の半田山山塊には、弥生時代中期か ら古墳時代後期にかけて、有力な首長系譜をたどれ る弥生墳丘墓、前方後円墳、前方後方墳が相次いで築かれる。すなわち、都月坂
2号
墳丘墓(14)■0・ 1号前方後 方墳Qの・七つ坑古墳群 (13)00、 ダイ ミ山古墳(8)、 一本松古墳群(20)Oの、さらに麓部にはお塚 (様)古墳(17)90 が所在 している。 また、やや東に離れた平野の中に神宮寺山古墳 (27)9りが築かれている。 これ らの墳墓の造営 に携わった人々と、本遺跡周辺で検出されている遺構群 とは密接な関わ りを想定できよう。津島遺跡では、弥生 時代中期か ら古墳時代初頭 にかけても集落域 として利用 されていたことがわかってお り、本遺跡では主に耕作域 としての利用が窺 える水 田遺構や用水路が検出されている。 次いで、古墳時代後期 には、周辺での造墓活動はみ られな くなるが、津島遺跡では、遺跡推定範囲の西端で 6 世紀初頭の製鉄関連の遺構 。遺物が検 出されてお り、注 目される。本遺跡では、第6・7次
調査地点で水 田遺構、 第10次調査地点で竪穴住居が検出されてお り、当該期の集落構造を知る手がか りが少 しずつではあるが増加 して いる。この時期、遺跡の活発な動向をたどれるのは旭川東岸地域で、百間川遺跡群 (22)。 原尾島遺跡 (71)90。 湯迫古墳群 (55)。 操山古墳群 (84・88)等
が知 られている。 古代 においては、岡山平野において も条里 による土地区画が導入 され、現在の市街地にも比較的良好にその影 響 を読み取 ることがで きる。本遺跡周辺は、継続的な調査 により、平野北部ではもっとも条里遺構の調査成果が 蓄積 されつつある地域である。周辺遺跡の条里遺構 として、北方遺跡群 (34∼38)の や津島遺跡99で確認 されて いる大溝が挙げ られるほか、中溝遺跡90。 南方釜田遺跡(")において も関連遺構の検出が知 られている。本遺跡で は、正方位に合致する水田畦畔や、坪境 とされる大溝、道路状遺構などが検出されている。また、宇喜多秀家が 城下町経営にあたって移設する以前に、本遺跡内を古代 。中世山陽道の一部をなしていた、福輪 (隆)寺
縄手 と して文献にみえる古道が通っていたとされ99、 条里の施行時期 とのかかわ りを探 るうえで も、本遺跡周辺の成果 は重要である。そのほか、津島江道遺跡では、古代の建物群が発見 されてお り、御野郡行に関連する施設との想 定がなされているの。旭川東岸 には、賞田廃寺 (58)30、 成光廃寺、居都廃寺、幡多廃寺 (73)、 網浜廃寺 (89) という5つの寺院が知 られてお り、西岸 に古代寺院がほとんどみられないことと著 しい対照をなしてお り、上道 氏の本拠地の権勢 を物語るもの とされる。備前国府についても、ハガ遺跡 (69)GDや南古市場遺跡 (67)などの 調査成果か ら、東岸の、現在の国府市場周辺にその所在が推定されるようになってきた。 一方、古代か ら中世 にかけて平野南部を中心に、多数の荘園がひらかれていったことが文献から知 られてお り、 中でも鹿田遺跡G分 。新道遺跡 (52)① 。大供本町遺跡 (46)30では建物群・井戸等の遺構や、輸入陶磁器、硯や墨 書土器 などの文字関連資料の出土か ら、摂関家殿下渡領「鹿田荘」の比定地 とされている。この時期には平野南 部における三角州の発達 とともに、中央お よび在地の有力者による新たな土地開発が一層進んだことが窺えよう。 中世においては、本遺跡で も水 田関連遺構が検 出されているほか、旭川西岸の二 日市遺跡 (53)●0、 東岸の百間 川遺跡群(“)等 が当該期の集落遺跡 として知 られている。また、周辺では、半田山城 (15)、 烏山城 (12)、 妙見山 城 (22)など、中世城郭の存在が知 られているが、発掘調査は未着手であ り、詳細は不明である。 近世、 とりわけ16世紀以降には、児島湾の干拓 と、森林資源の乱伐 による土砂流出の増加 によって、平野南部 は急速に拡大 した。旭川は、岡山城防備のため、文禄3(1594)年
に付 け替えがおこなわれたほか、寛文9(1669) 年か らは洪水対策 として百間川の築造が着手 されるなど、大規模工事 を経て、岡山平野の景観は大 きく変化する こととなった。旭川西岸では、岡山城 (50)∽お よび城下町の建設・整備が進行する。本遺跡の位置する津島一 帯は城下町近郊の農村 として、農産物 を城下へ供給する役割を主 として担 うことになったようである。 1907∼ 1908年に御野郡御野村・伊島村 に十日陸軍屯営用地が造成 されることとな り、弥生時代以来の、本遺跡の 耕作地 としての開発の歴史は幕 を閉 じることとなる。旧陸軍による造成の痕跡および駐屯地関連の建造物は、現 在で も岡山大学津島地区構内の随所 に残存 している。 さらに、戦後の急速な市街化・宅地化によって、かつての 田園風景は姿 を消 し、現在 に至っている。3
-地理的・歴史的環境
第
2節
津 島岡大遺跡
1.構
内 座 標 の 設 定 現在 、 岡山大学津 島地 区構 内で は、世界測地系 に よる国土座標 第V座
標系 に基づ いて、構 内座標 を独 自に設定 してい る。 これ は、 国土座標系 の座標北 に軸 をあわせ た もので、本地 区の現在 の地割が ほば この座標 に合 致 して い ること、 また岡山市街地 に残 る条里地割が正方位 となっている状況 に対応 した ものである。 この原点か ら、一辺50mの
間隔で、東西 。南北方 向 に方形 の区割 りを行 った (図 2)。 座標軸の名称 は原点 を基 準 に、東西線 に関 して は北 か ら南へAA∼
BGライ ン、南北線 に関 しては東か ら西へ00∼48ラ イ ンとす る。50m四
方 のそれぞれの グ リッ ド名 につ いて は、東西 。南北方向の軸線の名称 を組み合 わせた北東隅の交点の名称 を用いる。 したが つて、原点 は
AA00と
な り、その他 の交点 について もAW04、 BA08、 な どと呼称す る。本 セ ンターで は、従 来、日本測地系座標 に合 わせ ていたが、2002年 4月 1日 に改正 された測量法 の施行 に伴 い、 2003年 度以降に作成す る報告書 ・概報 に使用す る国土座標 を世界測地系へ と変更 した。変更 に際 して、構 内座標 の原点 については、従来の構 内区割 りとの整合性 を可能 な限 り保つために、その座標値 のみ を世界測地系 による 数値へ 変換 す る こ ととした。原点 はこれ まで 日本測地系 に よる座標値 (X=-144,500.0000m、 Y=-37,000.0000
m)で
あ った もの を、世界測 地系 に よる座標 (X=-144,156.4617m、Y=-32,246,7496m)と
した。2.遺
跡 の 概 要 津 島岡大遺跡 は、 岡山市北 区津 島中 に所在す る、 岡山大学津 島地 区 にひろが る遺跡 の総称 で あ る。2010年 度 ま で に、発掘調査 として第34次 調査 まで を終了 している。遺跡 の範 囲は、大学敷地の西北部 にあたる一部の地域 を 除 き、構 内のほぼ全域 にひろが る と推定 されてい る。 23 26 24 22 20 18 16 14 12 10 03 06 04 02 00 98 ※番号は各調査狭 と一致 o 500m Lェェ ェ 冨F菖ェ ェ 冨 冨 工 冨 エ エ エ エ エ エ ヨ こ 工 冨 冨 冨 エ エ エ エ エ エ エJ(s=]/10,000) 図2
津島岡大遺跡構 内座標 と各調査地点 ――― │― ― 一――― ―- 4 -―津島岡大遺跡 自然環境 津島岡大遺跡 は、半田山山塊の裾部 という立地か ら、縄文海進の最盛期以降、逸早 く旭川による沖積 化が進んだ一帯 とみ られる。縄文時代後期の時点では、北東か ら南西へ向けて流下する、少な くとも
2∼ 3条
の 自然流路が確認 され、微高地 と低位部が入 り組む、起伏 に富んだ地形が復元 されるGO。 遺跡の堆積層 に残 る植物 遠酸体、花粉、種子の分析 を継続的におこなってお り、古植生の変化 も検討が可能になりつつある09。 縄文時代 津島岡大遺跡 において もっとも古い遺構・遺物 は、第21次調査地点で確認 された縄文時代中期前半の 土坑 と土器である。それに続 く中期後半では、複数地点 において遺物の出土が確認 されている (第3・ 15。 17・ 19・ 26・ 27次)。 大半の地点では、遺構・遺物 とも分布 は希薄である。 後期初頭か ら前葉 にかけて、遺構・遺物の出土量は大幅に増加 し、集落構造 を把握 しうる資料の蓄積が進んで いる。本遺跡の北東部にあたる第3・ 15次調査地点か ら第17。 22次調査地点を経て、第6。9次
調査地点に至 る 東西約300mの
範囲では、微高地上で竪穴住居 。大形土坑・柱穴群・炉跡、河道で ドングリ貯蔵穴群が検出されて いる。遺物量 も他の地点 と比べ際立って多 く、この時期の居住域の中心 と考えられる。続 く後期中葉の貯蔵穴・ 遺物 は、やや南側の第5次
調査地点で検出されているが、居住域 は未確認である。 津島岡大遺跡のこれ らの成果は、当時の 自然環境 と居住域お よび周囲に広がる活動域の関係を知ることがで き るという点で、西 日本 において重要な縄文時代集落の一例 となっている。そのため、遺跡北東部の約17,000ポに 遺跡保護区を設置 し、建設計画か らの保存 を図っている。 弥生時代 弥生時代早期か ら前期 には、「黒色土」 と通称 している黒掲色の安定 した土壌化層が、津島地区一帯 に 確認 される。早期の突帯文土器は、「黒色土」中に含 まれてお り、標識資料 とされる第3・ 15次調査地点な どの遺 跡北東部だけでな く、第2次
調査・事務局本部棟立会調査地点⑩ といった遺跡南東部にも出土地点が拡がってい る。「黒色土」上面には、弥生時代前期の小区画の水 田畦畔が遺存 している場合が多 く、弥生時代開始期の農耕の 実態 を解明するうえで も津 島岡大遺跡一帝は重要な地域 といえる。 弥生時代前期末か ら中期初頭の時期 には、それまでの 自然流路や低位部の多 くが埋没 し、微高地の拡大が進行 する (第3。 15。 5・ 19次など)。 続 く中期の資料 として、第8。 12次調査地点などで用水路が報告 されている。 後期に入 ると、新たな集落形成が確認 される。居住域 は、第10次調査地点周辺に想定 される。後期初頭 には遺 物 を多量 に含む土坑群が集中し、古墳時代初頭 には井戸がみつかっている。耕作関連の遺構 として、後期か ら古 墳時代初頭 にかけて用水路が遺跡全域で確認で きる (第3・ 15。 6。 12・ 19・ 27次など)。 第12次調査では、後期 初頭の大溝か ら土器・木器が多数出土 している。水 田畦畔は、第3・ 15・5次
調査で確認 される。 古墳時代 古墳時代では、引 き続 き水田経営が確認 されるが、集落内では、後期の鍛冶の存在が明 らかになって いる。第10次調査地点において、竪穴住居の周囲に鍛冶関連遺構が検 出され、鉄津 。炉壁 なども出土 しているほ か、第19次調査地点で も鉄滓が確認 されてお り “い、集落内での手工業生産の一端を窺 うことができる。 古代 条里 に関連する遺構 として、坪境 に比定 される東西方向の大溝が検出されている(第 1。 3・ 6・ 7・ 9・ 12・ 22次)。 道路状遺構 は、第28・30,31次
調査地点で確認 される。水 田畦畔は、第3・ 6・ 7・9,12・
15次調 査地点において確認 された。集落に関 しては、第8。 10次調査地点 にその可能性が考 えられる。 中世 中世後半には、大規模 な土地造成が想定 される。一定規模の造成は、少な くとも古代の段階には確認 され るが、中世層か らは少量なが ら円筒埴輪片が複数の調査地点か ら出土 してお り、当該期の造成が古墳 を破壊する ほどの規模であったことが窺 える。また、条里関連の溝の形状変化や位置のずれ (第12次)、 あるいは集落の移動 (第10次)が
認め られる。耕作関連遺構 においても、比較的小規模 な区画を残す古代の畦畔が消失 し、面積が拡 大 した田面に鋤痕がみ られるようになるといった、耕作形態の変化 を窺 うことができる (第6。9次
など)。 近世 耕作地 として継続 していた状況を各地点でみることがで きる。規格の整った用水路が、古代以来の条里地 割 を一部で踏襲 しつつ利用 されている。 これ らの用水路の脇 には、野壼 とみ られる土坑が掘 られるようになるこ とは、中世以前の耕作地 との注 目すべ き差異であ り、当時の農村 において二毛作の普及 とともに、施肥を伴 う商 ―- 5 -―地理的・歴史的環境 品作物の栽培が浸透 しつつあった状況(ワ)を反映 した ものであろう。 近現代
1907∼
1908年の旧 日本陸軍 による駐屯地設営のための大規模 な造成によ り、弥生時代以来の耕作地は埋 没することになる。旧隆軍の関連施設 は、大学敷地の外縁 をめ ぐる土塁の痕跡や、赤煉瓦造 りの建物 として津島 構内の各所で現在でも容易 に日にす ることがで きる。 註 (1)鈴木茂之 2004「岡山平野における最終氷期最盛期以降の海水準変動」F岡山大学地球科学研究報告』11巻1号 (2)鎌木義昌 1962「原始時代」F岡山市史 (古代編)』 (3)富岡直人 1998F朝寝鼻貝塚発掘調査概報』加計学園埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 2 (4)二宮治夫 1985『百間川沢田遺跡2
百間川長谷遺跡2』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告59 (5)平井 勝 1993「百問川沢田遺跡3』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告84 (6)日本考古学協会静岡大会実行委員会編 1988「津島江道遺跡」『日本における稲作農耕の起源 と展開一 資料集―』 神谷正義 1992「最古の水田」F吉備の考古学的研究』(上) (7)草原孝典 2010「縄文か ら弥生へ」F考古学研究』57巻3号 (8)岡田 博 1998 『北方下沼遺跡 北方横 田遺跡 北方中溝遺跡 北方地蔵遺跡』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告126(9)a
津島遺跡調査団 1969F昭和44年度岡山県津島遺跡調査概報』b
岡山県教育委員会 1970『岡山県津 島遺跡調査概報』c
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平井 勝 2000『津島遺跡2』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告151e
島崎 東 2003「津島遺跡4』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告173f
岡本泰典 2004『津島遺跡5』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告181g
島崎 東 2005『津島遺跡6』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告190h
柴田英樹 2007『津島遺跡7』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告212 (10)註 9および杉 山一雄 1999『津島遺跡』 岡山県坦蔵文化財発掘調査報告145 尾上元規 2007『津島遺跡』岡山県坦蔵文化財発掘調査報告206 (■)a
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北方荻 ノ内遺跡』岡山県埋蔵文化財発掘調査報告149 言主10d ・ e 日本考古学協会静岡大会実行委員会 1988「中溝遺跡J『日本における稲作農耕の起源 と展開一 資料集―』 日本考古学協会静岡大会実行委員会 1988「南方金田遺跡」F日本における稲作農耕の起瀕 と展開― 資料集―』 高重 進 1989「山陽道」『岡山県史』第3巻 古代 Ⅱ 岩崎志保 2005「条里の溝について」F津島岡大遺跡16』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第21冊 高畑知功 1988「津島江道遺跡」『岡山県坦蔵文化財報告18』 鶴 僻 傷 伽 似 鶴 の6
-津 島 岡大 遺 跡 (30)高橋伸二 2005『史跡賞田廃寺跡』 (31)草原孝典 2004「ハガ遺跡』 (32)註15および山本悦世 1990『鹿田遺跡 Ⅱ』岡山大学構内遺跡発掘調査報告第4冊 松木武彦 1993『鹿田遺跡3』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第6冊 松木武彦・山本悦世 1997F鹿田遺跡4』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第11冊 山本悦世 2007『鹿田遺跡5』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第23冊 光本 順 2010F鹿田遺跡6』 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第26冊 (33)草原孝典 2002F新道遺跡』 (34)岡山市教育委員会 2006『大供本町遺跡発掘調査現地説明会資料』 (35)出宮徳尚 孔985「岡山県二 日市遺跡」F日本考古学年報』35 (36)註22および岡山県教育委員会 1981F百間川長谷遺跡 当麻遺跡I』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告46 同 1982『百間川当麻遺跡2』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告52 同 1984F百間川原尾島遺跡2』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告56 岡山県古代吉備文化財セ ンター 1989「百間川米田遺跡3』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告74 柳瀬昭彦 1996『百間川原尾島遺跡5』 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告106 (37)乗岡 実 1997『史跡岡山城跡 本九中の段発掘調査報告』 未岡 実 1998F岡山城内堀』 乗岡 実 2001F史跡岡山城跡 本九下の段発掘調査報告』 乗岡 実 2002F岡山城三之曲輪跡』 亀山行雄 2003F岡山城二の丸跡』岡山県埋蔵文化財発掘調査報告175 安川 満 2008F岡山城三之外 山輪跡 旧岡山藩藩学跡』 (38)山本悦世 2004「縄文時代後期の集落構造 とその推移」『岡山大学埋蔵文化財調査研究セ ンター紀要2003』 (39)山本悦世 2006「構内遺跡における発掘調査資料の自然科学的分析」F岡山大学坦蔵文化財調査研究セ ンター紀要2004』 (40)忽那敬三 2004「事務局本部棟・創立五十周年記念館新営 に伴 う立会調査」F岡山大学埋蔵文化財調査研究セ ンター紀要2002』 (41)川 鉄テクノリサーチ 2004「津島岡大遺跡 (第10次・第19次調査)出土鉄津類の分析JF岡山大学坦蔵文化財調査研究セ ンター紀要200刺 (42)加原耕作 1985「農業」F岡山県史』第7巻 近世 Ⅱ 表
1
津 島岡大遺跡文献一覧 番 号 調査 次 文 献 発行年 1 1 岡山大学津島北地区小橋法 目黒遺跡 (AW14区)の発掘調査 (岡山大学構内遺跡発掘調査報告第1集) 1985 2 2 岡山大学津島地区遺跡群の調査 Ⅱ(農学部構内BH13区他) 3 3 津島岡大遺跡3(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第5冊) 1992 4 4 岡山大学構内遺跡調査研究年報4 5 5 津島岡大遺跡4 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第7冊) 6 6・ 7 津島岡大遺跡6(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第9冊 1995 7 8 津島岡大遺跡5(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第8冊) 1995 8 9 津島岡大遺跡10 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第14冊) 10・ 12 津島岡大遺跡■ (岡山大学構内遺跡発掘調査報告第16冊) 津鳥岡大遺跡7 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第10冊 1995 津島岡大遺跡8(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第12冊 1997 津島岡大遺跡 9 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第13冊 津島岡大遺跡14(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第19冊 岡山大学構内遺跡調査研究年報14 17・22 津島岡大遺跡16(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第2上冊) 岡山大学構内遺跡調査研究年報16 19,21 津島岡大遺跡12(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第17冊) 岡山大学構内遺跡調査研究年報16 23・24 津島岡大遺跡17(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第22冊) 岡山大学構内遺跡調査研究年報18 津島岡大遺跡15(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第20冊) 津島岡大遺跡13(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第18冊) 津島岡大遺跡18(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第24冊) 岡山大学埋蔵文化財調査研 究セ ンター紀要2002 津島岡大遺跡19(岡山大学構内遺跡発掘調査報告第25冊) 2009 岡山大学埋蔵文化財調査研 究セ ンター紀要2008 2010 本 書 ―- 7 -―調査の経過 と概要
第
2章
調査 の経過 と概 要
第
1節
調査 にいた る経過
2009年 度 に岡山大学津 島地 区に教育学部剣道場 の新設が計画 された。建 設計画地 は、津 島地 区の北東部 に位 置 す る、教育学部体育館 北側 の駐 車場 と して利用 されてい る地点で あ る。既 設 の体 育館 を北 に増築す る計画 であ る。 計画地 の近接 す る地点 にお いて、1985年 度 と2000年 度 にそれぞ れ試掘 調査 を実施 してい る●。また、周辺では、 北 に60mの
地点で津 島岡大遺跡第17・ 22次 調査 (環境 理工学部棟)、 北 東 に70mの
地点で同第 3・ 15次調査 (新技 術研 究 セ ンター (旧サ テ ライ ト・ベ ンチ ャー ビジネス・ ラボ ラ トリー))、 西80mの
地 点で同第31次 調査 (福利厚 生施設東棟)を
実施 している。以上のように、計画地周辺は既往の調査成果か ら、遺跡の概況が比較的判明 して いる一帯 といえる。 既往の発掘 。試掘調査 の成果か ら、計画地の位置する津島地区北東部 を中心 に、縄文時代後期集落の存在が判 明 している。第17・ 22次調査地点では、同時期の竪穴住居状遺構・土坑 などとともに大量の土器・石器が確認 さ れた。 また、第3・ 15次調査地点では、貯蔵穴が河道の縁辺 に沿 う状況で検出されている。同時期の貯蔵穴は、 第17・ 22次調査地点か ら西へ40mの
地点に位置する第6・9次
調査地点 において も確認 されてお り、集落 とその 周辺の自然地形・土地利用 を示すデータが得 られている。また、弥生時代以降では、耕作域 としての利用が進み、 近代 に至るまでの各時代 の遺構 。遺物が確認 されている。以上の調査成果か ら、今回の剣道場計画地において も 縄文時代後期か ら近代 にお よぶ遺構・遺物の存在が予測 されたため、発掘調査 を実施することとなった。 註 (1)山本悦世 1987「教育学部研究棟予定地」『岡山大学校内遺跡調査研究年報3』 岡山大学埋蔵文化財調査室 (2)山本悦世 2001「津鳥岡大遺跡における縄文∼弥生時代の環境復元に伴 う試掘・確認調査」『岡山大学構内遺跡調査研 究年報18』 岡山大学坦蔵文化財調査研究セ ンター第
2節
調 査 主 体 岡 山 大 学 調 査 担 当 岡山大 学埋 蔵文化財調査研究 セ ンター 調査研 究員 岡山大学埋 蔵 文化 財調査研 究 セ ンター 運 営委員会【
委員】発掘調査年度
(2009年度
)センター長
(理事
)
北尾善信
副 セ ンター長 (大学 院社 会 文化科 学研 究科教授) 新 納 泉 久野修義 夫塚愛二 柴 田次夫 沖 陽子 山本悦世 山下隆幸 大 学院社会文化科学研 究科教授 大学 院医歯薬学総合枡 究科教 授 大 学 院 自然科 学研 究科教授 大学 院環境学研究科教授調査谷制
学長 千 葉 喬 三 セ ンター長 北尾 善信 助
教 池 田
晋 (主任) 助
教 岩崎 志保
【
委員】報告書作成年度
(2010年度
) セ ンター長 (理事) 大学 院社会文化科学枡 究科教授 大学 院医歯薬学総合研 究科教授 大学 院 自然科 学研 究科教授 大学 院環境学研 究科教授 北 尾 善信 副 セ ンター長 (大学 院社会文化科 学研 究科教授) 新納 泉 久野修義 夫塚愛二 柴 田次夫 1中 陽子 施設企 画部長 山本悦世 山下隆幸 埋 蔵文化財調査研 究 セ ンター教授 (調査 研究室長)
埋蔵文化財調査研究セ ンター教授 (調査研 究室長) 施設企画部長8
-調査の経過
第
3節
発掘調査 に先立ち、2009年7月 9。 13∼15日の4
日間に、近代以後の造成土(基本層序 1層)・耕作土 (2層)を
重機 により除去 した。機械掘削の際の平 面観察お よび調査区断面の観察により、2層上面で は南北方向の畝の拡が りを確認 した。 また、1層
中 において、東西方向に棟 を向けた旧陸軍関連の建物 基礎 を確認 した。 発掘調査 は7月16日か ら開始 した。近世の調査 は、 3層上面 。4層
上面の2面
で実施 し、いずれの面で も南北方向の耕作痕 を確認 した。 7月28日に中世面 (6層上面・8層上面)へ
の掘 り下げに移 り、中世 面において も近世 とほぼ同様の耕作痕 を検出 した。 12層上面では、水 田畦畔の存在が予想 されたため、 直上の洪水砂である11層の除去 を慎重に進めた。畦 畔は確認で きなかった ものの、ほぼ正確 に南北 。東 西方向に延びる転写畦畔を確認 した。 8月26日か ら 弥生時代後期面 (13層上面)の
調査 を進め、 9月 2 日か ら弥生時代前期面 (16層上面)の
調査 を開始 し た。16層上面においても、畦畔の存在が予想 された ため、15層の除去 を慎重に進めた。調査区北西部の 微高地では畦畔、南東部では谷状の低位部を確認 し た。 縄文時代後期面への掘 り下げは 9月14日に開始 し た。低位部にはとりわけ河川性堆積物が厚 く堆積 し てお り、側溝で遺構の帰属面 を確認 しつつ、18層上 面 と19層上面の大 きく2面
に分けて調査 を行った。 18層で は2層
の土壌化層上面で貯蔵穴 を計12基、19層 上面では土坑1基を確 認 した。貯蔵穴か らの遺物・堅果類 の出土 は全体 に少量であったが、断面 に明瞭 な葉理が観察 されるな ど、埋没過程 をよ く示す ものが多かった。そ のため、貯蔵穴内の土壌 は、分層 した後 に層別 にコンテナ1箱 (約 30を)ず
つ 回収 し、種子の水洗選別 を行 うこ ととした。19層 上面 は、微 高地部では縄文時代後期以前 の基盤層上面、低位 部では縄文時代後期 の河道底 に相 当 し、本層上面 まで を調査対象 とした。調査終了 は10月 13日である。 なお、10月 9日 に貯蔵穴か ら出土 したア ンペ ラの取 り上 げ作業 (発泡 ウ レタ ン使用)(図3a)を
、 同13日には貯蔵穴断面 の剥 ぎ取 り、土壌サ ンプル・植物遺 体 (流木 な ど)の
サ ンプル採取 を実施 した。 10月 3日には現地説 明会 を開催 し (図3b)、 130名の参力H者 があった。そのほか、現地の公 開は調査 中に適宜 実施 してお り、10月 5日に文学部学生25名 、 同6日 に教育学部学生17名 、 同9日 に理学部学生40名 、教育学部学 生10名 の見学があった。 また、8月 4・ 6。 11日に文学部が開講す る博物館実習の一環 として3日間で計34名 の 受講生 を受 け入 れた。調査 の経過
a:ア
ンペラ取り上げb:現
地説明会 図3
縄文時代貯蔵穴の調査風景9
-調査 の経過 と概要
第
4節
調査 の概要
本調査地点では、縄文時代後期、弥生時代∼古墳時代、古代、中世、近世の遺構・遺物 を確認 した。調査区は、 縄文時代後期の時点の微高地か ら河道 (低位部)の
変換点に位置 してお り、概 して遺構・遺物の分布は希薄であ ったが、各時代の堆積層が良好に観察 された。胎
260
胎
240 b220
訂退
③
治◎
①縄 文時代後期 (図4) 縄文 時代後期 の遺構検 出面 は、後期下層 と 後期上層 の2面
に大別 される。 後期下層 は縄 文時代 後期前葉 にあた り、調 査 区内 を北東か ら南西 にかけて旭川の旧河道 が流下 している。河道内か ら、 同時期 の縄文 土器が比較 的 まとまった量 で出土 した。遺構 は、土坑1基
が確認 されたのみで、 この時期 の生活の痕跡 は希薄である。 N蝉
キ
│ □ T下「 弥 生 ∼ 古墳 時代 図4
│ 1
後期 上層 は縄 文時代後期 中葉 にあた る。後匡コ
TTT縄
文
時
代 ヒ
______習
【
=]/400
期前葉の河道は埋没し、谷状の低位部に変化
縄文時代 ∼古墳 時代遺構全体 図してい る。 この低位部 に営 まれた、計12基 の 貯蔵穴 を確 認 した。堅果類 の出土 は、周辺 の 他の調査地点に比 して少量で、多 くのものは堅果類 を回収 した後に放棄 されたもの と考えられる。当時の使用状 況をよく示す資料は得 られなかったが、埋土に明瞭な棄理が観察 されるものが 目立ち、使用後の放棄か ら埋没に いたる過程 を復元する情報が得 られた。また、形状 を良好にとどめてお り、日径部が特徴的に外にひろがるもの が
5基
み られる。 津島岡大遺跡では既往の調査 により、後期前葉の居住域が第17・ 22次調査地点や、第3・ 15次調査地点を中心 に、遺跡の北東部で確認 されてきた。本調査地点の貯蔵穴は、それ らの居住域 よりも新 しい時期の所産で、貯蔵 穴10基が確認 され、後期中葉 に位置づけられている第5次
調査地点 と同 じ時期、 もしくはやや後続する時期のも の とみ られる。空間的には、遺跡北東部に位置する後期前葉の生活域の南端に相当する位置にあたるとみ られ、 後期中葉の生活域がさらに南側へ展開する可能性 を示唆するもの とも考えられる。いずれにしても、貯蔵穴 を除 いて後期中葉の居住域は、いまだ本遺跡で確認 されてお らず、今後の調査の進展が期待 される。 ②弥生時代∼古墳時代 (図4) 縄文時代後期以来の微高地 と低位部は、弥生∼古墳時代 を通 して基本的には残存 しているが、低位部は堆積の 進行 により急傾斜で、幅が狭 くなっている。遺構 は、調査区北西半の微高地側 に分布する。 微高地上で、弥生時代前期の水田畦畔 と、溝1条を確認 した。畦畔は、 自然地形の傾斜 にあわせ るように、北 東 ―南西方向の ものが確認で き、この時期の ものによくみ られる小区画の畦畔である。そのほか、弥生時代中期 頃の所産 とみ られる溝1条と、弥生時代後期か ら古墳時代 に帰属するピッ ト3基
を確認 した。 ③古代 (図5) 旧地形の起伏は、古代以降ほぼ平坦 となる。起伏 を埋める堆積層か ら出土する土器は9∼
10世紀のもので、 こ ―- 10 -―調査の概要 の時期 に低位部 を埋 める整地活動が想定 される。他層 と比 して多量 の土器片が含 まれているほか、礫 を多 く含 む こ ともこれ を示唆す る根拠 となろ う。 明瞭 な遺構 は確認 されなかったが、 この時代 に帰属す る とみ られ る転写畦畔1面と、動物遺存体集 中を
3箇
所 検 出 した。転写畦畔 は、正方位 を指向 してお り、古代 の条里地割 にほぼ合致す る。動物遺存体集中は、 いずれ も系
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る類例が知 られてお り、整地活動の存在 と あわせて注意 される。 ④中世∼近世 (図5)4面
に分けて調査 を実施 し、鋤痕 とみ ら れる小溝、お よび近世の溝1条を確認 した。 いずれ も耕作 に伴 う遺構 と考えられる。近 世の構 は、南北方向の もので、中世以降の 条里地割にほぼ合致するものである。 表2
検出遺構一覧a.貯
蔵穴N
I
AX-8 匠コ8層上画 踵鰯4層上面 ■■6層上画 ■■8層上面 ほ物 古代(12層) 転写畦畔 図5
古代 ∼近世遺構全体図 番 号 時 期 地 区 帰属面 平 面 形 断 面 形 規模 (cm) 検 出 標 高 (m) 底面標 高 (m) 基本形 日 径 拡 張 長 径 短 径 深 さl 縄 文 時代 後期 中葉 AX02-18 (18a層)上面 U字形 有 094
2 縄 文 時代後期 中葉 AX02-28 (18a層〉上面 円 形 U字形 63 094
3 縄 文 時 代 後 期 中 葉 AX02-28 8a層〉上面 不整 円形 U字形 有
4 縄 文時代 後期 中葉 AX02-28 (18c層)上面 円 形 ボー ル形
縄 文時代 後期 中葉 AX02-28 (18a層)上面 (43)
6 縄 文時代 後期 中葉 AX02-28 8a層〉上 面 不 整 円 形 U字形 有 095
7 縄 文 時 代 後 期 中 葉 AX02-38 8a層)上面 糖 円形 U字∼ フラス コ形 126
8 縄 文 時代 後期 中葉 AX02-37∼38 8a層)上面 権 円形 フラス コ形 有 104 088
9 縄文 時代 後期 中葉 AX02-38 8a層)上面 円 形 U字形 105 94
縄 文 時代後期 中葉 AX02-26 8a層〉上面 円 形 箱 形 48
11 縄 文 時ft後期 中 葉 AX02-37 (18a層 上 面 円 形 U寧形 有
12 縄 文時代 後期 中葉 AX02-48 (18c層)上面 不 率 円 罷 逆台形 76
b.土
坑 番 号 時 期 地 区 帰属 面 平 面 形 断 面 形 規 模 (cI) 検 出標 高 (m) 底 面 標 高 (m) 長 径 短 径 深 さ 1 縄 文時代 後期 前葉 ∼ 中葉 AX02-58 (19層〉上面 円 形 逆 台 形c.水
田畦畔 番 号 時 期 地 区 帰属面 規 模 (cla, 検 出標 高 (m) 幅 高 さ 1∼3 弥 生 時 代 前 期 AX02 36∼37、 46∼47、 56∼ 58区 (16層) 上 面 30--50 2-3 26∼285d溝
番 号 時 期 断 面 形 帰属面 方 向 規 模 (cll) 検 出標 高 (m) 底 面 標 高 (m) lR 深 さ 1 弥生 時代前期 皿 形 (16層) 上 面 北 東 ―南西 15 3 279 2 弥生時代 中期? 皿 形 15層) 上 面 北 東 ―南 西 3 近 世 皿 形 (3層)上面 30^-120 9 372e,ピ
ッ ト 番 号 時 期 地 区 帰属面 平面形 断面形 規模 (cll) 検 出標 高 (m) 底面標 高 (m) 長 径 短 径 深 さ ] 古 墳 時 代? AX02-56 13層〉上面 円 形 皿 形 4] 4 2 弥生 時代後期 AX02-26 14層) 上 面 円 形 皿 形 弥生 時代後期 AX02-58 14層 〉上 面 円 形 皿 形 8 299 ―- 11 -― *は 推定復元値( )は
残存実測値調査の記録
1.調
査 地 点 の 位 置 本調査 地点 は津 島北地 区の東部、津 島岡 大遺跡 の構 内座 標 で はAX02区
に位 置す る (図 6)。 周辺 で は、北60mに
第17'22次
調 査地 点 (環境 理 工 学 部棟)、 北東70mに
第 3・ 15次調査 地点 (新技術研 究 セ ンター)、 西80mに
第31次 調査 地点 (福利厚生施設東 棟)、 北西110mに第 6・9次
調査 地点 (工 学部6号
館)が
位 置す る。津 島北地 区の北 東部 は既往 の調査 地点が比較 的密集 してお り、す で に多 くのデー タを蓄積 してい る。 一方、本調査地点の南側、津 島北地区の南 東部 は、立会 ,試掘 の実施 はあ る ものの、 デー タの希薄な一帯 である。 第17・ 22次 調査地点では、縄文時代後期 の集落 を確認 してい る。本調査地点は、そ のす ぐ南側 に位置 してお り、集落の拡が る 微 高地 の確 認が調査 課題 の一つで あった。 また、 第3'15次
調査 地点、お よび本調査 地 点 の西南西220mに
位 置す る第5次
調査 地点では、いずれ も同時期 の河道が確認 さ れてお り、一連の河道であった と推定 され る。両地点のほぼ中間に位置す る本調査地 点で は、河道流路 に関す るデー タの収集 も 予測 された。2.調
査 地 点 の 区割 り 調査にあたっては50m区
画の構内座標内をさらに5m区
画に 細分 した区割 りを使用 している。その区割 りに従 うと、調査区 は東側がAX02-15∼
19、 西側がAX02-65∼
69の間におさまる ことになる (図 7)。 調査 にあたって、調査 区 を便宜 的 に4等
分 し、 出土遺物 の取 り上 げ単位 とした。分割線 は、南北 が02-40ライ ン、東西がAX
-8ラ
イ ンか ら北へ3mに
位 置す る。 区画 は、北東 を1区、南 東 を2区
、北西 を3区
、南西 を4区
とした。第
3章
調査 の記録
第
1節
調査地点の位置 と区割 り
図6
調査地点の位 置 0 10m _ (S=1/500) 図7
調査 区の区割 りと断面位 置 ―- 12 -―層序 と地形
第
2節
層序 と地形
1.層
序 断面観祭用の土手は、区割 りの分割線に沿って調査区中央 に十年に設定 した(図 7)。 基本層序 を記録 した断面 は、調査区四周の壁面 と、地形の変化 をよく示す南北の中央土手である。ここでは、南北中央断面・北壁 。東壁 の3面
を図示 した (図8。 9)。 図の縮尺 は、水平方向を垂直方向よりも3倍
圧縮 して示 している。 本調査地点で確認 した堆積層は、19層に大別で きる。以下では各層 について記載する。(1層
〉 責橙褐色砂質土 (花尚岩風化土)。 1907∼ 1908年に実施 された旧 日本陸軍駐屯地造営 に伴 う造成土、お よび岡山大学設置以降の造成土 (褐色土)を
一括 したものである。現地表面の標高は4.8∼5.35mで 、駐車場 とし て利用 されていた調査範囲】ヒ側が50cmほど高 くなっている。 (2層〉 明灰∼青灰 (グライ化)色
砂質土。近代の耕作土層で、形成時期の下限が1907年である。上面の標高 は4.Omで ある。層上面に南北方向の畝が列状に並び、(1層
)に
よって埋没 していることが確認で きた。(3層
〉 灰黄褐色砂質土。近世の耕作土である。上面の標高は3,85m、 層厚5 clllである。鉄分の沈着が顕著に み られる。近世陶磁器片、備前焼片などが出土 している。(4層
〉 黄褐色砂質土。上面の標高は3.8m、 層厚5∼
7 clllである。土師質土器椀、白磁小片、施釉陶器、瓦な どが出土 しているものの、層相か ら判断 して近世の耕作土 と考えられる。(5層
〉 黄褐色砂質土。上面の標高は3,75m、 層厚5 cmである。白磁小片などが出土 しているものの、(4層
〉 と同様、層相か ら判断 して近世の耕作土 と考えられる。(3∼
5層)は
、いずれも下層の耕作土 と比べた際に際立って砂質がつ よく、互いに似た色調・層相 を呈する 層である。 これ らの分層は色調 と、鉄分・マ ンガンの集積面を目安 としているが、斑鉄・マ ンガン斑の形成は、 上層における耕作活動の影響 と考えられるため、各層の上面に耕作面 として機能 していた期間があったかどうか はわか らない。後述の 自然科学分析の結果 を参照する限 り、(3∼
5層)の
差異 は、複数の耕作面が存在 したため というよりも、上層か らの攪拌の度合い、お よび鉄分・マ ンガンが後成 されて生 じたものとみ られる。 耕作活動に関する情報 を得 る目的で、(3∼
5層)の
土壌 については花粉分析、植物珪酸体分析を実施 した。詳 細 については第4章
を参照 されたいが、(3層
)を
中心 に、アブラナ科、イネ、ソバの花粉、お よびイネのプラン ト・オパールが検出されてお り、畑作が行われていたと考えられる。(3∼
5層〉の砂質がつ よい層相の要因とし て、土砂の供給量の増加 なども考慮 しなければならないが、今回の分析結果か ら、栽培種や耕作形態の変化が影 響 している可能性 も考えてお く必要があろう。 (6層〉 灰黄褐色土。層上面の耕作痕中か ら13∼14世紀頃の土師質土器椀の底部片、層中か ら亀 山焼の破片が 出土 していることか ら、中世後半の耕作土 と考えられる。上面の標高は3.7m、 層厚5 clllである。色調 。層相が(7
層〉 と似 るものの、本層が鉄分・マ ンガンを多 く含むことで区分 される。 (7層〉 黄灰褐色土①層中か ら土師質鍋の支脚片、自磁、土師質土器椀の底部片などが出土 してお り、中世前 半の耕作土 とみ られる。上面の標高は3.6∼ 3.65m、 層厚3∼
5 cmである。(8層
〉 淡黄灰褐色土。上面の標高は3.55∼3.6m、 層厚7∼10cmである。遺物は少ないものの、土師質土器椀、 白磁小片が出土 してお り、古代末か ら中世前半の耕作土 と考えられる。色調・層相が(9層 )と
似 るものの、本 層が鉄分 。マ ンガンを多 く含むことで区分 される。(9層
〉 黄灰褐色土。上面の標高は3.45∼3.5m、 層厚10∼13cmである。土師質土器椀 などが出土 してお り、(8
層〉 と同様、古代末か ら中世前半の耕作土 と考えられる。 (刊0層)
淡灰色粘質土。(8。 9層)に
似 るが、細粒で、粘性がつ よい。(9層
〉 との明瞭な層境界は色調・包 ―- 13 -―N( ´
S
く南 北 中 央〉 基 本 層 序 註 記 《近 現 代》 1層 造 成 上 2層 明 灰 ∼青 灰 色 粘 質 土 耕 作 土 《近 世》::
ξ君§
写警三
土
)耕作土
《中 世》 ,層蚤戻
握包
圭
)耕作土
《古 代 末 ∼中 世 前 半》 :層姿戻
暦雹
皇
土
)耕作土
《平 安 時 代 》 i靴橿
優包
驚暮
圭
粘性
強
)耕作土
《 弥 生 ∼古 墳 時 代 》 11層 灰 白 色 砂 質 土 12層 灰 色 粘 質 土 耕 作 土 13層 暗 灰 色 粘 質 土 土 壌 化 層 14a層 淡 灰 褐 色 砂 質 ∼褐 灰 色粘 質 土 14b層 淡 褐 灰 色 粘 質 土 14c層 褐 灰 色 粘 質 土 植 物 遺 体 △ 15a層 明 黄 褐 色 砂 細 ∼粗 砂 15b層 灰 白 色 砂 混 淡 灰 褐 色粘 質 上 15c層 淡 灰 褐 色 粘 質 土 15d層 淡 灰 色 粘 質 土 15e層 淡 褐 灰 色 粘 質 土 15fe 淡 灰 ∼淡 褐 色 粘 質 土 耕 作 土 15g層 灰 色 粘 質 土 《 弥 生 時代 早 ∼前 期》 16層 黒 褐 ∼黒 灰 色 粘 質 土 土壌 化 層 《縄 文 時 代 後期 》 17a層 暗 灰 色 粘 質 上 土壌 化 層 17b層 灰 色砂 質 土 18a層 暗 灰 色 粘 質 土 土壌 化 層 18b層 暗 青 灰 色砂 極 細 ∼細 砂 18c層 暗 灰 色 粘 質 土 土壌 化 層 18d層 暗 青 灰 ∼灰 色 砂 質 土 18e層 青 灰 ∼灰 色 砂 細 ∼粗 砂 18J詈 青 灰 色 砂 極 細 ∼細 砂 18g層 暗 褐 色 砂 質 土 植 物 遺 体 ○ 18h層 褐 色砂 質 土 植 物 遺 体 ◎ 土 器 ○ 《縄 文 時 代 後 期 以 前 》 19a層 淡 ∼暗 黄 灰 色 砂 質 土 19b層 青 灰 色 粘 質 土 19c層 青 灰 色砂 粗 砂 19d層 淡 褐 色 砂 質 土 19e層 灰 色砂 細 ∼中 砂 19fe 淡 青 灰 色 粘 質 土 19g層 灰 色 粘質 土 19h層 暗 黒 灰 色 粘 質 土 植 物 遺 体 △ 謎齢 ⑤型鞠 河 川 性 堆 積 物 ︱ 出トー 20m ■ ■ ∼□ ■ 土壊 化 層 匡 コ 砂 層 ∞ 甥 遺 構 ● 土 壌 サ ンプ ル採 取 箇 所 レ 調 査実 施 面 〓 近接 写 真 範 囲 0 1m 垂 直 方 向 ― (s=]/50) 0 5m 水 平 方 向 ― (s=]/150) 図8
調 査 区 断 面 図 1II P釦 II 40m 0 1m 垂 直 方 向 ― (s=1/50) 0 5m 水 平 方 向 「 隠 流 木 配 図 植 物 遺 体 眉