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空 か ら 見 た 大 佐 町 の 中 心 部
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大佐山と町並み富の大佐山
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中 央
公民館和 牛 セ ン タ ー
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(大 佐 町 農 協 出 荷 場 )
キュウ
リ の 出 荷
(主 催 大 佐 町 畜 産 共 進 会 )
和 牛 ・ 乳 牛 の 品 評 会
は し が き
伯 山大学教育学部社会科教室 円地域研究 会第21壬築報 告串 として.「山間盆地 の産業 と生活 一岡 山県大佐町 ‑ 」を公刊す る。
調査 の対 象地域 で ある幽山県阿哲郡 大佐町 は .阿哲郡 の衆北部に位
i
正 し,北か ら南にかけ て細長 い地形 をな し,乗は米産舶新庄村 ,間葉甘村 ,同勝 山町 に,酉は新見市に ,南は新 見市 ,上房郡 北!郡汀に,北 は鳥取 県 日野郡 日野町 に それ ぞれ婦 を接 している。北部県境 には二子LLl(1,0 7 5′〝) が そびえ,また新 見市 との境に は傘山 (1.02 dm ).推 山 (1.1 5 5′叩 ),大佐山 (98 8′〝) が北か ら繭へ雌 び,雌 山の府北 には雌山 ( 1,0 6 4/17)が寄 り飾 うように弛立 してい るo東 の新EE 村 ・糞甘村 との卿 こも海抜9 D O′M以上の峰が連な り.南部 に も海技 50 0/〝ない し占 0 0mの起 伏が軟 いている。県境 二 子山0)南面 (こ転 を発 した小敵
粗
目 は,支流 を合 わせfLが ら町 の中央低地 を 縫 って痢下 し,布漸か ら所見市 に入 り小阪部IHダムにそそ ぐO小板部川の中流 につ くられた偏の広 い谷底盆地 の周辺 には,小阪部 をは じめ多 くの娼膚 が染 まってい るO古 くは町内の小阪 臥 永田 ,小南 .布机 上刑部 ,大井野 の地 区は允恭天皇 の触名代 の地 として 刑部
軌・ こ.
また田治邪 は反正天皇 の抑名代 の地 として丹治 部埠
に属 し,由緒 深 い土地 で もあ り,特 に交通 上山陰 .山脇 を結 ぶ変 通にあ り.大井野 ..71日JJ,小阪 部には得物 も設 け られ て物 資の交流に 頁献 し,徳川時代 には所見滞 と放水水谷氏 の所祖 に尾 していたo明治22年 占月町村制実施 化よ り, 小板部 ・永宙 ・小南 は刑部相 に,田治雄 ・作掛よ
丹粉部村 に.
山奥 ・大井野 は上刑部村 に それぞれ 行政区画 され ,その後他和2
年 1 0月刑部村 は町制 を施行 LFFu部町 とな ったO さらに昭和 50年2 月刑部町 .付冶部村 ・上刑部村 の一町二村が合併 して ,町 0)中央 に位す る大佐山の掛 こらなん で大 佐町 として発足 し現在 にいたる。大佐町は,中国山地 の南耐 こ位
'
Eす る町 だけ に,山林原野o)占め る面鞘 の削合が拓 く,王顔
な産 盛 は .従朱 よ り,
出 番林雀 を主休 とした第 1次醇題 であ り,米作 を巾心に乳牛 .役 肉牛 ,木材 を主昏
産物 とし,特産品に しいたけがあ るO しか し.温柔 は米 作を中心 とした普漣作で .経営魁段 が零 細 なため生産性oj低い蒔菜構
造 とな ってお り,
唱和5
0年代後半 か らの拓度経 済成長の ゐお りを受 け年 々人口は流出 し.ことに百 ・中年 層 の主体労働 力 の都 市流出は ,生産者欲 の減退 ,経営桝地 面 横 の減少 ,老人臓 ,畜産飼育頑数 の減 少 な どとILって現 われ てお り.都 市 と血相 o)所得格差増大 が過疎化 に‑/
d拍車 を加 える結果 となってい るQ大 佐町 では,、この ような過疎化現象か ら脱 皮す る ため .生産基盤の吐備 ・住居基盤 の毅 郎 ・社会教育 の推進強 化 を行政の三̲qi,点魔賓 とし,美 しい自 然 を生か した観光開発 も推進 して,明 る く庄み よい地域社会 と所得 .文化水準 の高 い ブルーの郷 土零 i
「
建設 に努めてい るo
当地 城研死会 は,この地域 C)人 々が その自然的 ・社/L7的諸条件 の中 でどの ような生活 を営 んで今 E]にい‑rこり,新 1こな時代 に どの ように対応 しつつあるかを歴史 ・地理 ・地方 自治 ・爵英経 済 ・社会
・文化 .教育等 0)諸分野か ら総 合的にJ詔査研究 しTこい と願 っT=o調査 は昭和 51年7
月
2 7日か ら 5 1E]までの4泊5日間 を本調査 と し,教官7名 ,教室所 属5年次学生4 0名 ,それに卒 来生 有志 2名の応援 をJ
fU
でこれに当た つ1こ。こう して資料 の調香 ・収雄 ,執筆 の段階 を ようや く終 え,編嬢 の段階 にいた つT:時点 で ,図 らず も拓i
蛸担当教官2名の相 次 ぐ転任 とい う事態 に遭遇 し,当初 ol)刊 行予定 か ら大中 削
こ辿れることとな った ものの .よ うや くここに発刊 の鎚 び とな り,当地域研究会 として もやっと愁眉 を硝 くといった心境 であるQ しか し,舶査経験 の浅 い 5年次学生 が調査 の主体 で あったことな どか ら,不
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な点 も多 々あることと考 え られ る。この点 おゆるLを頗 い1こい。 ともあ れ.この ささやかな研死労作が公刊 でき1この は .炎智 を もの ともせ ず ,学 ほ うとして昼夜頑張 っ/こ 学生 諸君 の努 力 もさることなが ら.調査 を誠 して終脚廼かい ご協力 をいただいた町長 ,教育長 をはじめ として姻係槻幽 ・B]体 および町民の多 くの万 々のお経 である。心か ら煙 くお礼 申 しあげる次第 である。
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発 刊 に よ せ て
大 佐 町 長 川 添 岩 男
大佐町では ,昭和5 4年にその創成期 か ら明治維新 までの約2千年間の先人の生活 oJ軌跡 を雄大 成 し1二千四 百貞 に及 ぶ 「大佐町史 」を刊行 しま したが.このたび その異色緬 として ,本社Fを発刊す
ることにな りま した。
本怨 は ,畑 山大学教育学部数授 三珊B]長 以下学生 を主体 とした‑行49名が ,社会科教 育の一環 として,昭和5 1年7月2 7日か ら5日間町内各地 を調宜 し,本町0)永 い過去 の過樫 を歴 史 ,地BP.
醇梁経済 ,社会 .散乱 文化の諸分野 か ら樹合的 に研究 され ,その資料 を約2年 がか りで編翁 され た ものであ ります。
「恒産 /JくLで匝心 な し 」の教訓 の ごとく.私達 の先人は .過味 な条件 の もとで 「この地 」を耕 し,掴若駒 乏に耐 え,創謡 と工夫 を謁 ね
,
「この地 」に産 をな し,栄枯 盛盤 の変 超 をFFtLり継 ぎ.そ の風俗 ,知歯 .i
B葬が今 なお平和 と繁栄 の「この地」
に脈 々 と生 きづいてい ることは ,私選が周知 uJとお りです。思 うに,昨年 は 「大佐町史 」を発刊 いTこし,続 いて今度 「この他 」に総 もゆか りもない学死 の
従
か,ひたす ら純粋 な 目,心 に映 る「この他 」の雌 史 を段斉 し,研死 Llこ成果 に揺 す ることがで き . この上 /itく轟 びにI:えません。
本榔 よ,この よ うな意味 で ,私選 が 「この
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H の歴 史的考察 を試み るとき,ft重 な示唆 を与 えて くれ る もの と碗情す るとともに ,今後ulJ史 と弛 び広 く変配 され ることを蘇 ってやみ ません。終 りに蝕み ,本態 の嗣茄 にあた られ 1二三軒先生 をは じ
めr
Lt d
山大学 の舶係者 UL)弟組 に敬意 を表 しま す とともにC協力賜 わ りました町民各位 に厚 くお礼 申 し上 げます。調 査 参 加 者
三
浦 虚 言̲郎 米 村 昭 二 苗 耶 遵 郎行 安 茂 田 中 史 郎 山 内 峰 行
中 野 栄 夫
#・ 上 敏 夫 小 野 健 忘
板 谷 英 一 郎 閥 lf] 英 三 岸 本 半 五 郎
黒
瀬 祐 子 白 井 朋 子高
崎小 百 合
藤 原 梨 忠 子
細
石 弘 子 山 崎 敏 江伊 丹 恭 子
典
払 神 子串 苅
礼
子合 田 美 寿 保 角 南 み ど り
届 出 雅 子
藤 原 久 美 子
本 多 洋 子
山 崎 泰 代
大 角 百 合 子 尾 崎 早 苗 久 保 田 常 子 佐 藤 利 枝 子 洲 本 い づ み
霜 壌
正
夫船 岳 っ か さ
森 脇 初
実
山
野 雅
代鳩 山 文 雌 赤 木 啓 子 赤 松 弘 子
金 谷 佐 男 城 井 田
二 郎
谷 口 雅 隆新 田 和 美 長 谷 部
正 樹
原 私 事前 原 敏 彦 宗
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千 恵 子 妊 辺 克 弘村 山 信 子
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参加掃蒔教官
参 加 卒 業 生
参 加 学 生
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第 2 革
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第 6 孝
自 然 環 境 大佐町の地形 ・地質 繋 候 一一
人 口
総人 口と人口捕成 人 口 移 動
古代 ・中虻の大 佐町 ‑‑ 古 代の大佐町
中世の大臣町
近 tl̲rの 大 佐町 一 徹 主の系譜 検地 と年fi'収納 股遜生産 と旗民の生活
近 代 の 大 佐 町 地租改正 と大佐町 大佐町行政の沿革
地 方 自 拾 一・‑=・・・‑tJ・・‑‑ ・・‑・・‑‑‑‑ 8 9 地方 自治 の展開 ・‑・‑・‑∵一一・‑ ・・‑一一日一・‑・・‑・・.‑ 8 9 大佐町の成立
大鑑町の財政
9 7 1 0 4
第 1 章 自 然 環 境
1
大 佐 町 の 地 形 ・地 質 (1)地形 ・地質の概観大 臣山は町 の象徴である。 小阪部の盆地か ら仰 ぎ見 る山容 は美 しく,雄大で ある. 櫛 商は.たかだ か98 8〝‖こす ぎないのだが,周囲の山々か らひ ときわ抜きんでている。
山頂に立つ と, 5 i 00の展望が素晴 ら しい。 北 を見は るかせば .雄 山 .雌山 ・現ケ 山な どの中国 地方の背梁 を72:す 山鱗が うちつづ き.晴天の 日であれば ,は るか伯智大山が望 まれ るO東 は中国習染 山地が徐々に低 くな って,その南に 吉備前原の山並みがつ らな っている。 眼下 を見れば .大 臣山の 山 軽斜面が操にひろが り.牛の群の 散らば りと,その一 角に県和 牛試験場 とおぼ しき建物 とが望まれ, さらに下 っては.,」、阪
郡
川の流れのあた り.狭長な低地
が開け.小阪郡の町並みが見 られ る。 大 匹町 の全域は .この山頂か らの展望の うちに納まって しま う。大臣町は .中国管梁山地 南面か ら吉僻高原にかかる.南北約2 8kRr.東西 帖最大約1Dkdの細長い 町である。 面杭約1 2 2 4ki。 行政区域か らみ ると,岡山県の北部に位旺 し,北 の町界は ,鳥取県 と の県境 とな る。 西は新見市 に接 し,東辺は新庄村 ・美甘付 ・勝山町に .南部は新見市 と北房町 とに接 す る。町 内の位宿所は ,1.1 5 5m (堆山山頂 ).投低所は240"L程度 (町 南端の小阪部川谷庇 ) である。 標高区分面街概評 (経済企画庁1 9 7 4‑土地 分澱同 一岡山頗 一附属獲料 )に よれば, 1.0
007n以上の地域1多, 8 0 0‑ 1,DD Omの地域18帝. A 0 D〜 8 0 0,nの地 域5 2多, 400
‑ 6 0 0
m
の地域 55多 , 2 0 0‑ 4 0 D7nの地域 ld帝となる。 4 8 0‑80 0mの山地が町 域の 2/Sを占めるが,袋帯の大部分は4 0 0m以下 の地域にある。 小阪部川沿いには弥定 .落合以下 が 4 0 0m以下の地域である. 君山の集 落は7 DO711近 くに,大井野
.伏谷の築露は占 0 8m前後の . 小阪部川 ・大井野川上流の谷底にある。この地域の地形 を大観す る。 山頂の高度分布の大略は 卿姓 面図 (図1‑ 1‑ 1)に表現 されてい る。
この図揮. 5万分の 1地形 図に南北ll .東西1.5. の方眼をかけ.各 方眼内の 位荷点を抽 出 し,そ れ を基にそれ ら投荷点高度の等値線図を作 ったものである。 これに よって 山頂の高度 分布の大 略が読 み とれ る。 中国背 窮山地の主脚 ま
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Trl<碑を1.D801 l
l肌後の ビ‑ クを避ねて走る。 この支 脈の一 つは , 大 娃町の西町境を南東にのげ .町 内L
i一高峰の碓山(1.15 0m )か ら大 佐山( 9 a 8m )‑ と張 り出している。 も う一 つの支脈は.大 臣町 の東境 を南東に.現ケ山(9 4 2uL).高山 (約92 0 m )と のび .雨に下 って窮見U」(8 5 4m )と連なる。 この間支脈の間 を小阪部川 水系が下 刻 してい る。
京見山の南斜面,大 佐山の南斜面か ら南は,高度 を下 げて .東境では占 0 0m以下 .西部では700 m以下の 山槻 となるO 京見 山南 斜面と大 臣山南斜面を.中国 脊梁山地の南緑 と見徹 してよかろ う。 こ の南が 吉備高原で, 5 0 0mか ら占 0 0m前後の定有性ある山頂と,ところ どころに見 られ る小起伏 面が.特 徴的である。 町 域のほぼ中央 を小阪部川が縦断す る。 小阪部川は岡山 ・鳥取県墳 とな ってい る山蔽山陰分水嶺付近に源を発 し,支流 を合せ なが ら山地 を下 刻 し,小阪部で小盆地 をつ く り,や が
‑ 1‑
.)
図
1‑ 11 1大 佐 町 付 近 の 切 省 面 図
(高橋 ら
19 75に よる )て.吉僻 Ia一原に峡谷 を うがって貫入 し.新見市 域に入 ってか ら高梁川に合 流す るO 町 域の大部分は . この小板部川の流域に属す る。
小阪郡川 ・大井野川水系では,最上 流の君 Ltl付 近 ・伏谷付 近 ・大井野付近で狭長 な河 谷低地をつ く るが.以下は惣ケ原まで峡谷 をな し,惣ケ原か らは蛇行の故 郡に小さな河谷低地 をみるようになる。
これ らの河谷低地は現河床の下刻によって段丘化 している。 千 谷か らは小阪部盆地 とな る。 盆地 円で ち,川掛 、は下刻がは じまって .盆地底の大都分は押切段丘 化 している。 盆地の東には.比高1 0‑
28mの高位の段丘があ る。 小板部盆地尻で ,川酎 Ht田治部か らの中流 を合 せ .吾
節
福 原に国人す る。 この部分では.主 として蛇行の訣 部に小さ72谷底庶地 をみ るO それ らも沖戯段丘化 しているもの が多い。大 佐町 の地質は.15万 分の1の岡山県地 質図によると生成時 代の古いものか ら. 〇三郡変成岩類
○古生代後期〜中生代初斯道 入岩類 ○中生 代周 で現石同 ・ジュ ラ紀屑 )○中生代後鵜‑新生代初期火 山岩類 o中生 代後期〜新生代初XFJ述入岩類 o第三 紀
屑o
節四紀沖田層 で構 成 され てい るo これ らの 地質概略図を図1‑ 1‑ 2に示す。大 佐町 の地質を大別す ると.上刑部付 近の中生 代.j lラ紀屑 と三郡 変成岩梯 とを分割す る断層 を境 として北部のほ とん どの地 域は.中生代後嗣一新生代初期の地 層から成 り,南 の地域 は,多 くは 古生代 後籾の地層か ら成 っている。
花鯨岩類 (中生代後期〜新生代初捌逝入岩耕 )は君 山の北部か ら鳥取県境にかけて分布 し,また.
大 臣山の南健 の奥谷付 近にも分布 している。 石英閃緑岩 で中生代後期〜 新生代初期逆入岩類 )は.雄 山山頂付近 と岩 山の北 部の小地域に点 在す る程度 であるが .同 じく中EE代後期〜新生代初期泣 入岩類 である文教花尚岩は,雄山北柾やまた惣ケ原か ら赤掛 こかけて広 く分布 している。
中生代後親〜新生代初期火山岩鞍の分布について見てみ ると.流紋 岩は碓山 と耶 山の北 斜面に広 く 分布 し.赤松の北 部の町界 までほぼ 東西 に分布す る。 また.流紋岩 巽砕屑岩類は ,大 臣町 の北端の二 子 山付 近とEl治郡の南か ら大 臣町の南端 にかけて ,広い地域にわた って分布 ILて いる。 また安山岩お よび同質砕屑砦類は.上 刑部付 近の断層の北部地 域の約半分の地域にわ た って分 布 してい る。
古生代後期〜中生代初XEIE逆入岩類である撒 らん宕お よび蛇紋岩に よ って構成 されている大 臣山 と.
同 じくその南部の田治部との間には.先に 述べた花尚岩野が中生代後期か ら新生 代初期にかけて逆入 されたように思われ る。
大 臣町 の最 古の岩層は.三郡 変域 岩類であ り,刑治部の東 また大 臣山の東棟 の小阪都か ら篠原にか けて広 く,黒色準片岩や緑 色準片岩を主 とす る地層 と して分布 している。
三郡変成岩矧 ま.古生代後期の地向斜唯心物が高BE・低温の条 件の もとで.広 域変成 作FEIを うけて 生成 した ものであ り,北九州か ら中国地方東 部にまで広い範 囲にわた って分布す るものである。 本地 域においては,軌冶部の南西か ら国鉄お さかべ駅付近にかけての新生 代沖横層 また.その地域に点 在 する新生 代第三紀層によって南北 に分割されている一つ
r金谷修男 )
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Fl P ' . I l l l E
十
図1‑ 1‑ 2 大佐町の地質 図 (岡山県地質 図 一昭和58年 一に よる )
A
花樹岩簸B
石英 閃緑岩 C 文象花泣Jl岩I
) 流紋岩 E 流紋岩質朴屑岩瀬 F 安山岩お よび同JjE砕屑岩類G
轍 らん岩 および蛇紋岩Ⅱ
第三紀層Ⅰ
ジ ュラ紀層 J 硯石屑K
黒色および緑 色準片岩 を主 とす る地層L
沖積層姐 断 層
(2)山 地
中国 山地 とい う呼び名は .中国地方の芋f梁部をなす 山地のみ を指す場合 と,中 国地 方の 山地 とい う 意味で ,吉備市原や 石見高原な どをも含めて広い範 鼎に 用い られ る場合 とがあ るので ,ここでは .育 紫 部をなす 山地 を,中国
腎
梁 LLJ地 と呼ぶ ことにす るQ 中国 菅粂 山地は .やや北 に噂曲す るが ,全体 と してはば東 北東 一 西南西に走 る山地 で原宿 1.0 0 0‑ 1,5 D 0Tnの山頂 を連 ね る。山頂の多 くは丸 味 を碍 び てお り,旧輪廻性の侵蝕小起伏面 と判断 され る もの もい くつか あ るが ,.全体的 には平 坦面 を 失 ってい ることが多 く,早壮年畑 的な山地 をなす。大 佐町 域 では .二 子山 (1,0 7 5'Tl),雄 山 (1.1 5 07n ),雌 山 (1,D 6 77n ),硯 ケ山( 9 4 27,i).大佐 山( 9 8 8 ,A ),高 山 (約9 2 0m ), 京見山( 8 5 4m )な どがあ るが ,小起伏 面は残存 して い ない。京 見 山の南斜面 や大佐 山の南斜面 か
ら南の山地 は音節高原 に編入 す る ことが できよ うo中 国山地 の地形発達 につい て は ,い くつかの説 が あ るが,おそ らく古第三紀 には陸化 していた中国菅 梁山地 は削剥 され て老年1抑iJ地 とな り,現
在 高度
1,0 00TTL前後 の小起伏 面が形成 きれ たの だ ろ う。その後中国脊梁 山地 は隆 起 して侵蝕 が復 活 した 。 中新世 には中国脊梁 山地 に梅 が侵入 していて ,多 良桁 とな り,海底 や溺 れ谷 には中新銃 が唯5'
l
LI: O軌 山盆地 や この大佐 町 の小阪部 盆地周辺 に分相す るFtl断続 が それ であ るOつ ぎにテ応過 に と もな って , 侵蝕 が始 ま り,削刺 されて ,吉 備同原面が形成 された わ
吉節高原は中新統耶研後 に形成 された 準平原が隆 転 した もの とされた。 しか し準平原 が完成 したわ けでは73:く,それ に至 る途中で隆起 した もので .何段かの異 な った レベルに侵蝕 小起伏 面がみ られ るo
山頂の高度 分布 をみ ると.い くつかの定席性が認め られ る. それ らを姉妹 面か ら読み とって .一応 の区分 を行 うと,次の ようで あるO① 11・O Dロ/n山頂軌 ⑧ 8 8 077L山原汎 ③ 5 0 07n山頂肝 ,④
400m山頂艶 ,以下 ,お のおのにつ いて 述べ る.
(∋ 1,0 0 0′〝山頂群
棲布 9 0Dmか ら1.180′〃の範 囲に存 在す る定商性 山頂 群である. 中国菅熊 山地 面 と呼ばれて い るものに対応す ると思われ るもので .大 臣町 の北部 にひろが って いる.二 子 LLJ(1.□ 7 5.2m ),そ の西の1.0 5 5mの峰 .南東 ‑分岐 して1.0 2占711の峰か ら雄 山 (1.1 5 2.8m ).雌 山 (1.D d 7 m ).それ らの南 にや や弧立的な大 佐‖」(98 8 7TL)があ る。 東 の町 境 では硯ケ 山( 9 4 2 m )を中 心 と して東 は 南山 (約9 2 07JL),西 は1.0 i 17〟の噂か らその北 の9 5 47JLの嘩 73:どで ある。 こ こ の地域は.主 と して ,流紋 岩質砕屑 岩揖 ・安 山岩お よび同質抑屑岩類 (中 生代後 期〜 新生 代初期火 山 岩叛 )と.花闇岩類 ・石英閃緑岩 (中 生代後鵜‑ 新生 代初 期逝入岩斬 )である。 大 匠山は蛇紋岩 よ り 73:る. この大 臣町 にお け る1.ロ 0 0"l山頂群は .その両度 か らは西村 爵助 (1 9 65 )の い う道 後山 面に相 当す るもの と思われる。
② 8D D桝山頂群
1.000 m山頂群 を切る よ うに して,主 と してその南軽にみ られ る捷 高75D〜 85□〝7相席 の 山 頂群 であ る。 それ らは .惣ケ原付 近 よ り上 流の 小阪飾 り沿 いの軒高7501nか ら85 0mにみ られ る もの と,その下 流地域お よび ,大 臣山周辺にみ られ る標高7 5 07〝前後の もの とに区 分す ることも可 能であ る。 この地域の地 好捕滋 は .主 と して安山岩お 上げ同質砕屑岩類 (中生 代後 期〜 新生代 初 期火
・→5‑
山岩類 )と文象花嵐岩 (中生代後期〜新 生代初期証人岩類 )であ り,一 都,流紋岩 (中生代後期〜 新 生代初期火 山岩塀 ).かん らん岩および蛇紋岩 (古生代後期〜中生代初期送入岩類 ).ジ lラ紀層 . 硯石屑 (中生代層 )も見 られる. 吉川虎雄 ら( 19 7 5 )は.太田川流域で, 800m以内の小起伏 面を指摘 してお り.八 幡高原 と呼んでいる。 また ,藤原鍵蔵 ら( 19 7 6 )ち.広島県 円の中国 山地 内で同様 の高度の侵蝕 小起伏面 を指摘 している. 大 匹町の この8 □ DJD山頂群には,侵蝕小起伏面は は認め られ 加 、が.(Dで述べた1.00 07′L山頂群 との関係が,1.0 0 0′FJ山頂群の中に入 り込む よ う に8 0 0m山頂群があることな どか ら.吉川 ら( 19 7 5 )のい う八 怖高原 面と対応す るものか も し れ72い。
③
500I〝山頂群標高5□8mか ら6 08mに広がる定ELJT性 山頂群である。 それ らは大 佐町 南部か ら南方お よび東方 に広 くひろが ってお り.侵蝕小起伏面も窪め られ る。西村kj・助のい う吉鮒高原面に相 当す るO その地 ei構成は.流紋岩質砕屑岩叛 (中生代後根〜新生代初期火山岩類 )とfll{色準片 岩 ・緑色畔片告 (三郡 変成 岩頬 )である。 大 佐町内では .大 佐山南斜面と京見山南斜面を8 0日 〝山頂酢お よび1.a 80 7〝
山頂群 との境 として ,その南方に発達がよい。 吉備布原 面 (5 8 0m山頂群お よびそれ以下 の山頂群 を含めて )についても, 19 0 8年 に中藤文次郎がは じめて隆起準平原であることを指摘 して以来 . 多 くの研究者 によ り,論争がたたかわされてきた。 それは ,新第三 紀層堆横 前に準平 原化 され ,その 後の仙陰によ り現在の位際にな った とす るものと,新第三 紀層堆研後に準平 原化作用 を被む った とす るものとである。 また ,この 吉備ELJ'原面と前出の中国背築 山地 面との分化についても同時異高か異時 の面か をめ ぐって.さまざまな論争がある。
④
4 0cm山頂群小阪部盆地 と田治部周辺には授 高4007,欄 後の定市性の山頂群がみ られ る。 山頂とい うよ りは.
丸味 を帯びた丘陵の稜線である。 これ らはすべ て谷掛 、に発遵する。 地質図に よると.これ らの地域 には.中新銃 が広 く分布 してお T), 4 0 0m面は第三紀丘陵原画をつ72ぐものである。
以上 .大 臣町お よびその周辺 で怨め られ る定両性山頂群 について報告 したが,その発達史的位 思づ
けにまで十 分論及する ことはできなか った。 (城井田二 郎 )
(さ) 河 谷 の 河 岸 段 丘
小阪即 l沿い・お よび姫新線の適っているB]治馴 E沿 いには ,ほぼ2段の河 韓段丘が発達 している。
低位の段丘は ・JJ、阪
矧
Hとその支流の谷底面であるが .現河床の下 刻が進ん で,
沖綴段丘化 したもの であ るo 現河味とあま り高度 差 をもたな いところが多いが・ところによ 。現河 卵 、ら5‑ 6mの比布 をも っているo 小阪郡州谷底 の平か 也のほ とん どは この段丘 面であ り,もっとも広 くひろが っている のは 小阪珊盆地 であるo ここでは ・水田 などの桝地が掛 ナ.町 役場 ・学校な どの主夢機関の多 くが こ の上 に立地す るo その他の地域では・低地段丘は水田な どの桝地 と して利 岡されるが.奨落はその周辺の壁錐や電位の段丘面上 に立地 していることが多い。 帝位の段丘は .落合 ・篠原 ・千谷 と.車阪部 川上流にも分布す るが,小阪郡盆地 に至 っては ,水声で もっとも広 く見 られるほか,両岸に点 在して お り.銀地尻の小南に も認め られ る。 高位段丘は現河床 よ り1
0m
あ るいはそれ以上 の比高 をもって いる.段丘面上 には水mはあま りみ られず .もっぱ らNT地および柴落とな っている。 姫新線沿線の 田 治部川沿いの谷では.馬場小原 ・仲尾にも高位段 丘が分布す るoまた この谷には形憤的に段丘 と呼ぶ の は無理であるが.定前性の尾根 をもつ
丘陵や礎板斜地 が多数 みちttBQそれ らはほ とん ど中新銃 よ りなる。 この谷は北康 一南西方向に走 ってお り.光 吉付近に谷中分水界があ り,ここか ら北東 に流れ るの がm治部川で ,南西に流れ る大j]Ll川は熊谷川 とな り新見に至 る. 小南よ り下 流の 小阪郡川水流は,咲 谷をな して 吉備高掛 こ穿入 し,狭 い低位の段丘 をつ くるが,そこでは中新統丘陵も高位段丘も認め ら れない。
永富の新道沿いで高位段丘 を切る取 で見 られ る高位段丘偶成物は次の通 りであ るo
上部か ら,黒色常佑土5
D
c7H.褐色粘土5Dc
w,砂斡 周 4
′〝,この下郡 に基盤の黒色片 岩がみ られ るQ 砂襟KLlは1DcIIl内外の鵡円硬 と.その間 を埋める小疎 .砂で,般大磯 は長径dDC P l
,短径5 5cnlo 症角確は若干認め られ るO 周遊はほ とん ど認め られか 、。 以上 の琵頭に連続する と思われ る同 じ道俺?払いの館頭は次の ようで ある。 黒色腐 植土
=〟.
茶褐色粘土1.5m
,小硬 湿 りシル ト屈27 〝.
その下 位に抄瞭層があ るが.基射までは掘 り削 られていない。郷尾の北でみ られ る高位段丘の田頭は,すべて抄鞭倍で51n。 基鮎 までは見 ることがで きない。被 Gt周も不 明である。 この砂嘩 屑は, 1‑ 5cnlの 小牧お よび 砂を主 と し,砂層お よび シル ト層 を挟む こ
とがある. 付近には5cnl内外の円畔 を主とす る喋周 も見 られる. (城井田二 郎 )
①
′J、阪部付近の沖6'1低地大佐町町 役場の位監す る所は .標高がお よそ5 4 51JLである。 町 役場の屋上か らながめると.周飽 はきわめて低平な平軌 出である。 小阪部の町並みは この平地 の上 に立地 している。 地形図を見 ると.
山に甜まれた盆地状の この平野 は摂南 5 5 07p‑ 5 60〟2程度 で小阪珊川に沿 って北 に高 く南に低い.
広さは約2l・dlぁ り,融 ヒに長 い形 を して いる。 娼務でい うな らば北か ら千谷.寺地 .永乱 西 .刑部 . 定軌 中 .,Y /.金堂 .郷尾.辛 .小南 ,山彫な どの聴取であ る。 小南 よ り南 にもその連続が見 られ るが.
平地は河流に沿 って柑狭い谷底に細長 くのび,規模 も小さい. この狭長な平野もまた水田に利FFlされ てお り,安藤.河 内,布瀬な どの雄落があ るO
小師部の平野は地 形的には谷底平野で小板
瓢
川の沖田作 岡によって形成 された。 だか ら河 流に沿 っ て上 流ほ どその高度が布 く.下 流ほ ど低い。 しか しその勾配は概 して緩 く.傾斜が感 じられないほ ど であるO この谷底平野も.形成後河川 の下刻 をうけて 一すでに段丘化がは じま ってい る. 段丘化は盆 地 尻で著 しく,段丘崖 とその下 に小規模な氾荘原 とがみ られるが,小耐付 近では段丘 化は進んでい72い○
この谷底平野を構成 している物 質を直接馳察す ることはで きなか ったが. 「大 佐町ポJ )ング土 質 柱状図及び揚水試験結果表」 (大 佐町水道認 )‑図1‑ 1‑5か ら推賓(できる. 沖讃屈の厚 さは. 2・
5ul〜 7.5mで,大部分は砂硬 で椛成 されるが,秋田層 との砂 こ砂 ま じり粘土をはさんでいる ところ
̲.7‑
沖田屈全体
の 厚 さ ‑
(m) 表土 玉石交り砂際 抄(盟) 砂交り粘土 粘土 洪析層暫
「
[冒り.
.̲..Ⅲ
̲∩.̲ ・二89
o C ,
Lj 0o c c C
0
0
c co oLJJ 0
っ O 〇 0
〇
c c) C
図111‑5土質柱状図 (大佐町ポーリング土質柱状図及び揚水試験 結果表‑大佐町水道課一による)
がある。 研きの大きさは7
c
pl程度の ものが多 く.故 大のもので2D
CnJくらいのものを含んでいる。 「玉
石」 とい う記職は円棟で.河原な どでみ られる角の とれた丸い裸の ことである。
川の上 流か らころがりなが ら運ばれて来てここに碓射 した ことを物語 っているQ
現河 流の規模に対 して砂傑層の分布略取がかな り広いことか ら.この谷底 平野 を形成 してきた河川 は紐皮 もこの平野の確執内で流路を変 えたことが うかが えるQ 流路の変適に関 しては歴史時代には い ってか らの記録に も残 って いる。 それに よると中 田集落の東 方 を流れていた時期があ る。 それは現 在 の地形を見ても推察できる。 中 宙奨落は東 方の水 田地帯 よ りもわず かに高 く,現 在は西 方 を小阪部川 が流れることによ り中州的なEEa‑ま りとな っている。 小阪部川は滑勤 しなが ら触多の流職変更 と氾濫 を 経ていることは確実である。 小阪冊付近 の平野はまさに小阪部川がつ くった とい えるO
(赤木啓 子 )
2
気 候地図 をひろげてみる と.大 佐町 は南北 に長い形 をしていることがわか る。 最北端の君 山集落 と最南 端の畑尖落とでは20kH.周 っている. また,狭隆な谷間 である とか,なだ らか 72山頂付 近であ るとか , あるいは高い山とかの位 田や地形的な条 件によ り.気候は 7+こも一様 とい うわけには いかない。 しか
しマ クT,に見ると山地 的特 色 をもつ気候 といえるD すなわ ち,低配で比敏的多雨であるのが特色であ る。 た とえば漸戸内海に臨む開山と比較 してみる と.年 平均気温では5‑ 4℃,大 国町の方が低いO
‑ 方.年間降水虫では .逆 に大 国町の方がかな り希い観測値 を示 している。 天気予掛 ま.おおむね岡 山県 よりも鳥取県 のものの方が よくあた るといわれる。 このことは特 に冬につ いて顕著であ る. 比較 J)たか こ岡山を例 に出 したが.気仮 のタイ プと してはむ しろ山陰側に よ り近い 。
降 水 韮 (p77W)
400
5t]0 200
10(〕
0
図1‑ 2‑ 1 大佐 と岡山の月別 平均気温 ・降水正 (昭和5 0
年 )
‑
9
‑表1‑ 2‑ 1は昭和5 0年 までの過去2 0年間の平均気温 と降水 塁である (大
臣
町 教育委員会金子 氏提供 )0表
1‑ 2‑ 1 気温と降水Et:(2・□年 平均 )5 6 7 8 9 10 11
‑ i ‑ 2 J ユ
15.8 19.9 24.占 25.2 20.7 14,5 8.5
5 . A l 1 2 . 6
22.6 25.4 29.5 50.5 25,8 28.2 14.8 &8 119
7.7 9,1 14.4 19.9 19.9 15.5 8.5 2.1 ‑1.6
1占5 252 275 171 210 1〔】5 74 占1 1.755
1 2 5 4
月 別 平均気
拍
(℃ ) 月別虎猫 平均気温(.C) 月別般低 平均 気湿 (℃ ) 降 水 E!
( ・71,I )
1.8 20 5.0 11.5
5.9 74 11.2 18.0
‑5.8 ‑54 ‑ 1.2 4.占
91 85 108 1占2
年 平均気渦は1 2・6℃で拓 くはない. 月別平均気温を夏季についてみ ると, 7 18月でも2 5℃
耐
乳 平均最高気温が5 0℃前後 ,平均穀低気温が2 0℃前後であるO
真夏の一 日の気氾較蓑は平均1 8■■Cあ り,即
jがかな り黒 くて も攻になると気温が ぐっと下 が って しのぎやす い。 この ことは降雨に も醒係す るようである. 同様の ことは冬季についてもい える. l・2月の気孤は平均で1‑ 2℃ と低 く.平均L
nu砧気相 と平均以低気伯の差はや は り10oCくらいの差があるO北西 の季節風 (JJ\阪部 では 大臣山のために風向きを北演 に変 えられ るのは燕昧掛 、)がもた らす 貰や しぐれのため ,また .降 ら ず ともな天のために日中でも気温 が上が らない。糞
1‑ 2‑ 2 気象ヰ 貨 (唱和 50年 )・ . 厚
・表 1r‑ 2‑ 2をみ ると.一年間 を泡 じて畢均 して降雨 があ り.冬は雪 としてもた らされる0 両 ある いは雪の降った 日を合計す ると2 4 6日とな り.一 年の 5分の2は何 らかの降水があ ることになる。
.
ilの雨丑は,桁雨や台取な どによる降水 もさることなが ら
,
TE
,三・をともなって降 る笛雨にも特色があるo rD雨は必ず西方 (JJ\阪郡では大 臣山JJE桁 )か ら取 って くるといわれている。 来 夏で もこの惜雨のた め 年後にな ってもそれほ ど気か講が上 が らず .比椴的 しのぎやすい。 日没 とともに気温が下が り夜はかな り涼 しい。 冬の陣水 をみる と,初 雪は例年 1 1月中旬〜下旬にかけてで,小阪部での戯 宮野 ま多 くて 5 0cN/くらいであるが,北部の大 井軌 君 山では もっと多 い。 記録に残っている椴大衝撃血は 「岡 山 県の気象」 (日本気象臨会 )によれば .昭和45年2月2 4日の5 9LIHIであるが,H円くところに よれ ば昭 和5 8年には小阪部で7 0C"[・大井野 .君 山では2,〝あ った とい うO終 雪は 5月下旬〜 4月上旬であるが ,大井野 ・君 山では 少 し遅れ る。 また冬には .野 とは な らな いまで も, しぐれが多 くみ られ る。
昭和50年 の記録に よると,諺 が発生 した 日数 は4 1日である。 8月下 旬か ら秋 にかけて 転の 日が 多い。 山間地 に特有 の現 象で ある初・mま10月中 旬 で .それか ら約1ケ月後の日 月中旬頃には初 雪 が見 られる。 春がお とずれ . ソメイ ヨシノが絢 花す る職場は 小阪部で4月10日前後で ある。
大 佐町全体が山に囲まれてお り,特 に西 側 と北 側 とは1
,
0 0 0m前後 の掛 、山に蝕まれて いる こと は,気候 に掛 、彫抄を与 えて いる。 台風必釆時 の強 風は これ らの 山々 .さ らには中国 山地 にあた って 弱め られ るため .風に よる被 書はほ とん ど受けていない。 それ に ,冬 の季節風は主 と して北東 帆が多 いが .これ も北 匹部に位 匠す る山々のために風向 き を変 え られ ると同時に勢 い を弱め られ る よ うであ る。気族 に起関す る 自然災苗は比較的 少な く,近年 大災等 を受 けて いないo 掛 こよるtE気通 信‑ の被 害 が過去 にあ った が .集 中豪雨 に よる災害 な ども含め て ,自然災害は きわ めて少ないO
(赤木啓 子 )
参 考 文 献
措僻遠郎仙(i97 5 ):岡山県の地 JrS,計 nuとその締罪か らみ た地形 の特融 1)一 席度 に関す る計 軌 一間‖I大学 教 育学誰7Jf死集録55. 157‑ 142
経済企 画庁総合m 先局 (1 9 7 4):土地 分類 図 一 岡山県 一 岡 山県rl965 ):岡LHN,<地 質図 (15万 分の1 )
西村誌助 (19 占5 ).'ChugOku̲Mo1ユntainS 亀B a StairCaEie mOrph
O
lo色yT. Scl.°ept.TOlrlOku LTniV.,Ser.71:A(Geogv. ). 12 1‑ 19林原鮎拭 ・艮松帽子 (196 占 )
: 軸木 ・里 ? 松民俗孜
糾 緊liL調奄 報告 .広 島県 教委5‑ i 2 吉川虎雌 ・杉村新 ・風域爽 平 ・太FT殴千 ・搬 口出 (1975 ).'日本地形 諭日本気象鮎金 剛山支部 二防災 気象ノー ト 「岡山県の 気
乳
一一 11・‑
第 2 章 人 口
1
総 人 口 と 人 口構 成 (1)総人 口の推移大
佐
町 の総人口の推移 を大正9年 (1920年 )か ら侶和50年 (1975年 )までの国勢調査に よ って見ると ,大正 9年 に5,255人であ ったのが,
昭和50年 では4,857人であ り59ム人の減 少 とな り稀少率7・5%を示 し,岡山県 の総人 口が大正9年 の1.2 17.A98人 か ら昭和50年1,8 14.
50
0人 と59占,ム02人の増加 とな り増加率 49.0男を示すの と著 しい違いがみ られる。さらに詳 しく総人口の推移 をみ ると大正 9年 か ら昭和5年 (19
5
0年 )までの10年間に552 人増加 し,上翫 口率 ム・5% ,昭和5年 か ら昭和15年 (1940年 )の10年間に5 12人の増加 ,tL.1) 加率ム15%とな り,大正9年 か ら槻前までは10年HF罰にだいたい 500人 ,年間 に して約 50人前後 の増加 を示 した といえる 。この傾 向を岡山県全体 と比較 してみ ると ,岡山県 の人口が大正9年 の1,2 17,ム98人か ら10年後の昭和5年 に1,285,962人 とな り,増加率5・4%,さらに 10年 後の 昭和15年には1,529.558人 ,増加率5.5楚となる。だか ら職前の段 階では大佐町 は岡山県全体 より高い脚加率 を維持 していたことになる 。続 いて戦後についてみ ると ,職後最初の国勢調査の年 で ある僻和22年 に ,大佐町の人 口は6,9 79人 と急増 し,昭和15年 か らの7年 間に1,
082人 もの 増加 を示 し,
増加率に して18.2ヲZとなる .この急1掛ま,靴争に よる都市 の売廃 に より人 口が位相部‑逆流 してきた ことや
,
引き扱者 人 口のためであろう。その後昭和2 5年 には7,1 2 5人 とな り,昭 和15年 とくらべると1.228人の増加 とな り増加率 20,5%を示 し,さらに5年後の昭和50年に は7,188人 と5年「抑こム5人蝿加 した .その後昭和55年 には6,57ム人 とな り昭和50年 よ り4 12人の減少 とな った 。ここで大正 9年 よ り増加 を鰍 ナた大佐町 の人 口が初 めて減少 を示 したのであ り,その減少率 もかな り高率で8・55gであ った。このようにい きな りかな り急激な減少 とな ったのは . 日本経済の復卿 こよ り払村部 か ら都市 部‑の人口流出が急激に起 ったためであろ う。それが昭仰 4 0 年 になると .さらに824人減少 して5.752人にな り,5年後の昭和45年 には さらに減少 して5,054人 ,減少率12・5プgとな った 。しか しこの ころか ら大幅な人 口減少が落 ち宕 きを と [,'もどし , 昭和50年 までの沌少は78人 とな り ,減少率 も1.5男とかな り低 くな った oこの傾 向は 日本経済の 両度成長が終 り ,安定成長の時代 にな ったこ とが主因 と考 えられる 。
また戦後の人 口推移 を岡山県 全体 と比較 してみ ると ,大佐町 は戦後急激な増加 を示 したのに対 し, 剛 L蘭 は昭和 15年 か ら昭和22年 の間 にわず か2・2芳 しか増加せず ,また大佐町 が
5
0年 代 よ り急 激な減少 を示 したにもかかわ らず 岡山県はわずか1%台の搬少 を示 しただけで昭和40年 代 に入 って 大佐町 とは逆 にナ他 日を示 し始 めた 。以上か ら大佐町の人口推移 をまとめ ると ,城前 は コンスタン トに増加傾 向で戦後急激な人 口増加 が あ り,昭和5 0年 代に入 り人口減少が始ま り,その憤向は昭和4 0年代後半 まで続 き僻和40年 代後 半に な って減少がゆるやかにな った とい うことにな り.これは 日本における股山村 の一般的な姿のよ
うに 思 わ れ る Q
表2‑ 1‑ 1 大佐町人 口 ,虻幣数 推移
年 度 総 人 口 世 帯 数 人1相帯 当 り数 人 口嶋加数 人 口増加率
大正 9年 5,2 55人 1,0 52 5.1 人
罪
昭和 5 5,58 5 1,0 78 5.2 5 5 2 8.5
15 5.8 9 7 1,09 2 5.4 5 12 5.A
22 占,9 7 9 1,2 8 4 5.4 1.0 8 2 18.5
2 5 7,12 5 1,2 84 5.5 14ム 2.0
5 0 7,18 8 1,2 84 5.占 85 0.9
55 A.5 7ム 1,2 75 5.2 △ 占 12
△
8.54 0 5,752 1,2 4 4 4.占 △ 8 2 4 △ 12.5 4 5 5,0 54 1.2 2 0 4.1 △ 7 18 △ 1 2,5
(国勢調査より作成 )
‑14‑
̲ ̲‑ I ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ・ '
大正 9
昭和
5 15 22 25 50 図 2‑ 1‑ 1大佐町 人口推移
55 40 45 50
( 午)
大正 9
昭和
5 15 22 25 50 55 40 45 50( 午)
図
2‑ 1‑ 2大佐町 粒符敬推移
いままで総人口の推移 を見てきたが .これ と世帯数の変化 を考 え合 わせて1世帯 当 りの人数 を見 る と ,大正9年 には戸数1.052人で1世帯当 りの人数は5・1人 とな り, 10年 後の昭和5年 には ,牡 稽数が4 6世帯増加 したが人 口も5 5 2人増加 し1世帯 当 りの人数は5,2人 と微増 を示 し,昭和1 5 年 も この傾向が続き1世帯 当 り5.4人 とな った。
戦後最初の昭和2 2年 の国勢 調査の時 も1世帯 当 りの人 数は5J 人 と変 りはなか った 。その後昭和 2 5年 .昭和5 0年 と世帯数の変化はなか ったが人 口の増加によ り l世帯 当 りの人数は ,わず かなが ら増加 した 。 しか し昭和50年 か らは人口が急激な減少 を示 したのに対 し,世相数はわず かな減少 し か示 さなか ったので, 1世符 当 りの人数は減少 し ,昭和55年 には5・2人 ,昭和40年 には5人台を 割 り4・占人 ,さらに昭和45年 は4・1人 .唱和 50年4・□人 とな った oしかもそのペースは大正9年 か ら昭和5 0年 までの1世相 当 りの人数増加 よ り急速であ り,人 口が増加 す るときは ,そのペ ースは 人 口よ りも遅 くて も世相数は他加 し,人口が城少す る ときは ,
世
招致はほ とん ど減少 しない よ うであ る 。(2)年 航別人口構成
昭和50年 の大佐町 の年齢別人 口を5才階級 で図にす るとほぼ ピラ ミッ ド型 を示 し ,まだ人 口の流 出が激 し くなる以前の形 であるが昭和5 5年の同陳の図 を見 ると, 15才〜 5 0才の屑が著 し く栢 少 してお り ,数字で見 ると昭和50年 の10才〜 14才屈の807人 が岨和55年 の15才〜 19才眉 では4占9人に減少 し ,誠少数558人 ,減少率 4 1・9ヲgとな り非常な高率 とな っている 。また昭和
5
8年 の15才
〜 19才屑の650人が昭和55年 の20才〜 24才屈では597人 とな り,255 人の減少で鮎少率57・0%,
朋和50年 の20才〜 24才同のSd8人がr耶口55年 の25才〜29 才肘では446人 とな り21・5男の氾少 となる Oこの5科 .I'・Jの同町 全体の人 口の誠少が占 12人 ,減 少率a
5%と比較する と ,若年 厨 の人 口減少 ,いいかえれば若年 IRの人口流 出が非絹にはげ しい こと が わか り,人 口滅少の中心が若年r7)であ る ことに気がつ くOさ らに10年 後の昭和4 5年 において同 様 の図を昭和55年 の図 とくらペて見る と.昭和55年 の去年 Jdの急激な減少の辞世 で昭和45年 で は幼年屑 も紙少 し人口減少型の凶 になっている 。昭和55年の5才〜 9才J
酬;8 15人 であ ったのが 昭和45年 の15才‑ 19才厨で578人 とな りなん と457人の減少 を見せ減少率 も55.占%とな り昭和55年 に5才〜 9才だ った者 の うち10年 後の昭f1045年 には半減 したことにな り,
昭和55 年 の10才〜 14才屑の884人 も10年後の昭和45年 の20才〜 24才屑 では271人に な り6 15人の械少で率に して占915%で .昭和55年 に10才〜 14才だ った人の実に10人中7人近 く が1獅ロ4 5年 までに減 った ことにな り,この判 論では死亡 はあま り考 えられないので減少 のほ とん ど が人口流出に よるものであろ う。‑1ムー
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.‑ 44才巨 5‑59才 576人 ll ー 50‑ 54才 414人 l i 25‑ 29才 545人 l
∫ 20‑ 24才 5占8人 コ l 15‑19才 H o人 吉
「 ‑
J 10‑ 14才 8ロ7人
500 400
5
00 200
100 01 0 0
200 500 400 500( A)
図
2‑ 1‑ 5 昭和50年 (大 佐町 )の年齢 階級 ピラ ミッ ド500 400 500 280 100 01 100 280 500 400 500
( 人)
図 唱和
年 (大 佐町 )の年齢階級 ピラ ミッ ド500 400 500 200 100 0 100 200 500 400 500 (人)
図 2
‑ 1‑ 5 40年 (大佐町 )の年齢階
級 ピ ラ ミッド図2‑1‑
6 昭和 4 5年 (大佐町 )の年齢階級 ピラミッド ー18‑500 400 500 200 100 0 100 200 500 400 500
( 人)
図2‑ 11 7 昭和5 0年 (大佐町 )の年齢階級 ピラ ミッ ド(Ytuqr糊寛容EJ)
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(5)産業別人口偶成
大佐町 の産更別人 口を敬後についてみ ると ,昭和25年 は戯業 ,林業な どの第1次産業 が2,55占 人で構成比7 8.2% ,産投薬 ,製造業 な どの第2次産糞が18 1人で鳩成比5,dYD,卸売小売薬 ,逆 相迅侶糞 な どの第 5次産菜が527人で構成 比1612声であ り8割近い人が出発 を中心 と した第1次 産菜に従事 していたことになる。 5年 後の昭和50年 には ,第 l次産業就業者数2.占55人で描成 比 7ム・870,第2次産業205人で構成比占.0%,第 3次産業595人で梢成 比17・2%とな り昭和2 5年 とくらべ ると実数ではほ とん どの菜超が増加 しているが構成比でみ ると出業の21占70減少が 目に つ く.さらに5年後のり田仲 55年 には第1次産業2,24 1人 ,梢成 比7 1・070,第2次産業2 19人 , 梢成比丘9%,第5次寝業698人 .柵就比22・1男で .この5年間 でも脱糞従事者 の減少が 目立 ち 実数に して40占人 ,椛耽比に して6・2男の減少 を示 している 。これにひきか え卸売 小売業 ,サ ービ ス業 を中心 とす る第 5次座薬が100人以上蛸加 し柵成比 も2070台 を超 えた o
fTB和 40年 にな っても
J E
!業人 口の退潮 は続 き ,昭和55年 よ り実数 に して200人以上 ,描成比に して5%弱の減少 とな ,),林業人 口の半減 と相 まって軒 1次産菜は ついに占 070台に な った 。それに ひきかえ製造菜は実数 ,構成比共に倍雌 して105人 ,榊成比に して5.7%増加 した 。昭和45年 に なると偲菜は さらに250人近 く液少 し1,58占人にな り耶成 比 も60%を割 り55・5%に減少 した 。 その結果韓 1次産業は1.占 6 9人にな り描成 比 も5 8・4男にな った。一方第 2次産業は班殻業 ,製造 薬弗に増加 し実数 は400人 を抱 えた 。これ を全国 と比較 してみ る と昭和25年に全国が構成 比に し て第1次産業48・5% ,第2次産業2 1・970.第 5次座薬 29r870であ り大佐町 は全国 に くらべて第1
次産菜の比率が高 く,第2次産業の比率 が低い Oその後もこの傾 向は続 き ,また推移 の しかたは全 国 も大佐町 もだいたい同 じで ,第 1次産業の減少 ,辞 2次 .第 5次産業の租加搬 向を示 してい る.ま た大佐町 の就業者 が しだいに減少 しているにもかかわ らず第2次産業 ,第 3次産業の数が増 えた とい うことは ,大佐町 の就 発着 数の減少は出発 を中心 とした第1次産米が中心であ るとい うことである O表2‑1‑5産菓別就業者数の推移(大佐町) 「一、‑年
次別
産業別昭和25年昭和50年昭和55年昭和40年昭和45年就業者数楢成比就業者数構成比就業者数構成比就業者数棉成比就表妄訂「盲成比 節吹産業農業l2.58275.412.4461
70.82.04064.占1.82660.51.58655.5林業,狩鞘業154A4.8207占.02016̲410Di5822.9 漁業,水産養殖業‑‑‑‑‑‑1a.01
0.0
小計2.5567&22,占5578.82.24171.01,927占5̲61.占占958.4 第吹産業鉱業20.110.0‑‑‑‑5D.1建設業8占2̲6952.81875.41195.91445.0 製造業952.91〔〕95,21125.52177.22729.5 小計1815.占205占.D2196.9556ll.141914.る 第吹産卦十i卸売菜,小売糞1755.51845.52588.12799.22589.0
金融,保険不動産業50.217a.5lln4100.598.5 迎梱通信業)1584ー21414.11255.91504.514
0 4.9
電気,ガス,水道業40,1I50.150,1 サービス業1454.42055.92517.5285I9.528710ー0 公痕682ー1501.4752.5612.0752.占 小計5271占.2
59517.269822.1I7占625.577227.0 分類不能‑‑
‑‑
‑‑‑‑‑‑ 昭和25,50年は岡山県市町村勢要覧(昭和50年干リ,55年刊)より,昭和55,40.45年は岡山県統計年報(昭和58,45.48年)より作成。 ′ヽノヽLー\.A昭 和 2
5年
\
ノ
朋和 4 5fF I l
凶 2‑ 1‑ 8
大
佐町産繋 別人口比
(器
芸 2,5;・4言.044
i年問詰9 :芸諾 芸芸警 り作成 l
2 人 口 移 動
(1) 自然動 態昭和4 1年 か らの大佐町の 出生老 数 を見 る と5 5人で 出生率 に して& 7‰ であ り ,全国の出生 率 が
「ヒノエ ウ
マ
」 に より他年度 よ り著 しく低下 して 1五・7銘 にな っても全.国 よ り低い レベルであ る 。翌 年 は65人 とわず かに増加 し出生 率 も1 0%;を超 えて10.2%乙とな った 。 しか しuB和45年 には再び 4 0人古 にな り,その後 も昭和4 7年 まで増減 を くり返 し ,uB和48年 か ら6 0人台にな った 。出生 率 を見 る と全国が 「ヒノ‑ ウマ」 の翌年 の昭和42年 か ら18%〜 19%台 を保 っているのに くらべ 大佐町 は7‰
〜 12‰ 台で全国 レベ ルよ り低 い こ とがあ き らかで あ る 。死亡 者は昭和4 1年 にム 2人で死亡率に して 9 8‰ で全国 の6・8,010よ りも高率 を示 している 。その 後昭和45年 に死 亡者59人 ,死 亡率6.6‰ と一 時的に減少す るが再 び10%o前後の高い死亡率 を示 している O尚全 国平均は占‰ をず っと維持 しつづ けてい るのに対 し ,大佐町 が1
0
,0to前後 とい うのは 全国 レベルに比 して も高率 とい えるが .ただ昭
和 45年 だ けは全問L,ベル よ り低い死 亡率 で あ る 。以 上 の ことか ら出生 ,死亡 には ‑出 した他 向は見 られない よ うだが ,出生率が全国 レベル よ り低 い こと , 死 亡率が全国 レベルよ り商いのは ,年 齢梢成 と深 いかかわ りが ある と恩 ぬれ る 。表2‑ 2‑ 1 大佐町 自然勅使
出 生 死 亡 自然 榊加
人 人 人
5 5 占 2 7
6 5 5 3 10
4 5 5 9 占
4 7 5 6 9
d d 5 4 12
4 0 5 2 12
5 5 5 5
0
占 0 4 5 17
6 1 5 4 7
r 昭和4 1
4 5 ‑ 4 4 4 5
4 8 4 7 . 4 8 4 9 5 0
(症 ) 表 の数字 は本 文中 では年 として表現 した。以下袈 2‑ 2‑5までの蓑 と図2‑ 2‑ 6 までの園は これに準ず る.
128 ‑
(2)社会動態
大佐町 の転出転入者 数 を昭和4 1年 か ら見 ると .昭和4 1年 は転 出者 数5 4 4人 ,転 出者 率5,5罪 , 転入者 数1 5 9人 ,転入者寧 2・5%で1 8 5人 の社会減少 を示 しているo翌年 の昭和4 2年 も転 出者 数5 日 人 .転入者 18 5人 で社会減 18 1人 とな り ,前年
と
同様 18 0人台の社会 減 少 を示 してい る。それが昭和45年 にな ると転出者 数の激減 ,転入者数 の微 増に よ り社会 減が1 1 1人 とな った 。 しか し昭和4 4年 には再び祉全 滅 が激化 し15 7人 とな り,転出者串は総 人 口の減少 も手伝 って6 % 台 を超 え占・5ヲ岩にな った 。その後場
′紬 45年 ,旧秤 一6年 と転出者 ,転入者共 に多少 の変動 が あ り .昭
和 4 5年 12 9人の社会減 ,
昭和4 6年 1 5 4人 の社会 棟が見 られた Oそ して昭 和4 7年 にな って社会 減が著 しい鈍 化 を見せは じめ ,昭和4 7年 の転出者敢 2 5 1人 ,転 出者率 5.0%と転 出者数 に し て的年 よ り約5 0人減 り,転 出者 串に して約 1ヲ岩の放下 とな り,一 方では転入者 数は 前年 よ り5 1人 増 えて2 08人 とな り社会減は前年 よ りも188人 近 くも‑ って45人 とな った 。その後昭和48年 には ,転出者数2 8 6人 ,転入者 数2 2 2人 とな り .社会 減6 4人で前年 よ り多少増 えたがかな り少 ない社会 減 とい えよう。そ して昭和4 9年 には .転 出者数2 8 9人 ,転 出者串 5,8% ,転入者数5 0 5人 ,転入者率6・1ヲgとな り昭和4 1年 以来は じめて社会 増加 を示 した 。 しか し翌年 の昭和50年 に は再 び7 4人 の社会減 を示 し ,転 出者数2 占 9人 .転入者 数1 9 5人 とな り,今後再び社会 減 少が激 化す るか ,鈍化 するか ,或 いは社会 増加 に転 じるかは も う少 しよ うす を見守 る必要 があ ろ うし ,昭和 4 9年 頃の転出 ,転入 異変 は中国縦 Bf自動串道 剛体の労務者 の膨額 が考 え られ ,一 時的な変化 の よ う に患われる。
衰 2‑ 2‑ 2 大佐町 社会動態
年 度 転 出 転 入 社会増加数
昭和4 1 5 4 4人 . 5{ △ 1
8
6^4 2 5 6 占 1 8 5 △ 18 1 4 5 5 0 9 1 9 8 △ 1 1 1 4 4 5 4 1 1 8 4 △ 1 5 7 4 5 5 1 5 1 8 6 △ 1 2 9 4 占 5 D 9 1 7 7 △ 1 5 4 4 7 2 5 1 2 0 8 △ 4 5 4 8 2 8 6 2 2 2
△
占 4 4 9 2 8 9 5 0 5△
1 4 5 0 2 4 9 1 9 5 △ 7 4 (注 ) △ は減少 を示す 。‑28‑
つぎに転出 ,転入者 の ようす をも う少 し詳 しく分析す ると ,昭和4 1年 は県内 ‑の転出が転出者 全 体 の d乱 近 くを占め ,県外 ‑の転出者 よ りも多か ったが翌年の昭和4 2年 ではわずかではあ るが県外 への転出者 が県 内‑の転出者 を上回 った 。その後昭和45年 にな ると再び転出者のd割近 くが県 内‑
転出するようにな り.この傾向は昭和44年 ,昭和45年 と就 き昭和 4占年 ではdi8プgの転 出者 が 県外 を志向 している 。続 く昭和 47年 では ,県 内‑の転出者 ,県外 ‑の転出者共 に減少 してい るが , 県 内‑の転出者 の減少 が県外 よ り激 しく妹内‑の転出者 の占める割合 がtiiぴ6割を割 ったので ある 。 その後昭和4 8年で県外の転出者 が激増 したため相方 の差 が非筒 に縮 ま り,だ いたい半 々の割合 にな ったが,昭ri]4 9年で再 び粍 円‑の転出者 が県 外‑の転出者 より占 5人 多 くな り .転 出者 の約 6割 を 県 内への転出者が 占めるようにな り,翌年 の昭 岬 5 0年 もII‑]]様 の傾 向である。だか ら昭和4 2年 と昭 和48年 をのぞいては ,転出者 全体 の 占割前後が県 Pj‑1iLZ;出 している ということになる Oまた転 入者 の転入B'd住所 を県内県外別に分 けてみると1唱和4 1年 では眼内か らの転入者 1 14人 ,舶外か らの転 入者4 5人で転入者 全体 の うち約7割が県内からの転入である。これが昭和4 2年 になると県外 から の転入者 が地加 し,9,J<内か らの転入者 の削合は d割 ぐらい にな った 。昭和45年 にな ってもこの僚向 は就 き県内か らの転入者は5il1ヲgを占めるようにな った .しか し昭和44年 は県外 か らの転 入者が 減少 し県内か らの転入者 の割合 が再び6割を超 えd 4・170にな った 。翌昭和4 5年では県外 か らの転 入者 が増加 し, 44・droを県外 か らの転入者が 占めた。 ところがUB和 46年に再び県外か らの転入者 が減少 し,6割近 くが県内か らの転入者 にな った 。昭和4 7年では県 内からの転入者 ,県外 か らの転 入者共に増加 し割合は 前年 とたい した適 いはなか ったが昭和4 8年 に入 って県外からの転入者 が急激 に増加 し,県 内からの転入者 と県外 からの転入者 が だいたい同数 にな り,翌昭和4 9年 では ,県外か らの転入者 が飛躍的に増加 し,県 円からの転 入者 12 9人比率4 2・d男 ,県外 か らの転 入者 1 7 4人 比率5 7・4ヲgとな り昭和4 1年 以来は じめて県外 か らの転 入者 を上 回 ったのである .それが昭和5 0 年 ではわずかではあるが再び県 内か らの転入が県外か らの転 入を と回 った。昭和4 9年 の舵外か らの 転入者の急畔tは ,前述の転入者 数全体 の梢加 と一致 し
, 昭
和 49年 の転入者 梱加の主役は県外 からの 転入者で あったことがわか り .言いかえれば中国縦貨 道馳係の労務者 は県外 か らの転 入が多 い と言 え よ う。また転入者 の うちLf.1.A.伽 ゝらの転入者は変軌の幅が小 さいが娘外か らの転入者 の変動幅は比較的 大きいようである 。‑5 0‑
41 42 45 44 45 46 47 48 49 50 (昭和 ,年度 )
図
21 2‑ 5 大佐町 転出者転 出先県 内県外別分類41 42 45 44 45 46 47 48 49 50 (昭和 .年度 )
図
21 2‑ 4 大佐町 転入者転入前任所 県内県外別分類̲.Lh‖y
次に転出者 の転出先 を詳 しくみ ると ,昭和4 1年 は広敷市 が58人 で トップ ,つづいて大阪肘 の5 6人 ,岡山市の42人 とつづき ,あと兵距県
,
Lt佐郡 とな り.転出者5 4 4人の うちだいたい1 0 0 人が県南の岡山 ,倉敷 ‑hLd市 ‑ 一まただいたい10
0人が大 阪 ,兵砧を中心 とす る近洩地方 、転出 した ことになるOそ して昭和4 9年 に なると新見市 や沖 山市 ‑の転出が蛸 え ,逆に愈政市 ‑の転 出はlla和 4 1年 の半数 以下 とな り近 く‑の転山が増加 した。しか し昭和50年 になると津山市 ‑の転出が再び 少な くな り,児列 ‑の転出も前年 よ り増加 した 。割合で見 る限 りにおいては ,岡山市 の伸び ,新見市 の伸びが 目につ き剛山県 の中心 と しての閉山市 .阿新広域圏の中心 と しての新見市 の正敏が玉堂になったことを示す 。
‑52‑
表2‑ 2‑ 5 大佐町 転 出者 転 出先 分類
完 壷 二 塁 空
岡山市 I昭
和 4 142人 昭和4 759人 昭和4 845人 昭和4 24 9人
昭和5 04 6人新 見 市 19 2 8 2 7 2 9 2 8
台 数 市 5 8 2 4 2 5 2 2 2 9
その 他 の 市 部 5 4 17 2 5 42 1 占
市 部 合 計 15 5 1 0 8 12 2 15 5 1 19
弟 庭 郡 2 4 2 0 12 18 1占
阿 哲 耶 1 4 4 l l 7
その 他 の 郡 部 2 5 14 9 15 14
.郡 部 合 計 4 9 5 8 25 4 4 5 7 県 内 合 計 2 02 14 6 14 7 17 9 15 6
大 阪 桁 5 6 5 7 LI4 5 2 5 5
兵 庫 県 25 2 4 2 6 2 5 16
京 都 府 4 6
8
7 5その 他 の 近 鏡 8 8 8 9 8
近 親 合 計 9 5 7 5 8 占 7 1 62
広
島 県 l5 5 1 7 6 10馬 取
県 占 5 8 1 8島 根 県 0 4 1 5 2
山
口
県 50
80
2中 国 合 計 2 2 12 2 8 12 2 2
東 京 都 1 4 4 7 4 6
神 奈 川 県 5 5 1 4 6
埼
玉
県 50 1
20
その 他 の 関 東
0 I 0 さ 0
約 束 合 計 2 〔) 8 9 15 12
愛 知 県 5 4 ー0 10 4
その 他 の 東 海
0 0
5 5 1東 海 合 計 5 4 15 15 5
九 州 合 計
0
2 1 2 a他 国 合 計 4 2 2 1 占
そ の 他 O 2
0 0 0
県 外 合 計 142 1 0 5 15 9 1 12 1 15
(大佐町役場 資料 よ り作 成 )
また転入者 の転入前 の住所 をみると ,昭和4 7年 では大阪府 が58人で トップ ,つづ いて倉敷市5 5人 ,岡山市2 4人 とな りだ いたい4分の1が県南の都市 部か ら .4分の1が阪神圏 からの転 入者 と い うことになる 。昭和49年 には広島県 か らの転 入者が急増 したが ,これは中国縦貨道工事 の関係 で あ る。昭和50年 も昭和47年 と大きな違いはみ られない 。
次に昭和4 7年 か ら昭和58年 の転出者 を年齢 別に分類 してみ る と男女 ともだいたい似 てい るが , 女子の場合 19才‑28才の間は男子より多 くの転 出者 を出 しているが, 5 0才代 以上に なる と男子 の方が多 くな って くる 。これは若 い うちは女子も動きやすいが50才を超 えると女子は家財 こ落 ちつ くのにひきかえ男子は ,中年 矧 こ至 っても労視力 としての移動が あるためであろ う。また2□才代 で 女子が男子 よ り多いのは結掛 こよる転出が 多いよ うである 。転出者数がいちばん多 いのは ,男女共 1 9才であ り男子5 8人 .女子51人 を示 し .ついで男子18才5 5人 ,女子は25才, 2 4才 の5 4 人であ り ,男子は転出者の約4分の1が砧卒後の就職 ,進学 に伴 な う転 出であ り,女 子の敏合約5分 の1が応校卒箕に伴 な う転出である。
また同様 に昭和47年〜 50年 の転入者 を年齢 別に分けて見 ると.20才代 において女子の転入者 が男 子の転入者 を上回 り ,それ 以外 では男子が女子 を上回るとい う傾向は転 出 と同 じであ るが .これ も女子の結婚 による転 入が2 0才代 に多 く見 られること ,また結婚準備のための転入 もある と患われ る。転入の場合は転出の19才 のような とぴぬけた年齢が見 られないのは ,高卒後の転出の よ うなは っき りと した区切 りがないためであろ う。また転入者の多いのが2 0才代 中 ごろで あるのは, 2 0才 前後 で多数転 出 した者 が.5, 4年 の都会生活を経験 し同町 へ帰 ってきた とい うことも考 えられるが .
その実数は残念なが ら同町 においては把握 しきれ ていな い 。
‑54‑
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(5)過疎 と人口
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クー 1/大佐町は昭和45年 に過疎地域対策 緊急招 駁法の成立 と同時に過疎町 としての指定 を受けたo過疎 町村 としての指定 を受けたのは岡山県7 8市町村 の約半数にあ たる5 7町村 である 。そ して ,人 口減 少率 を岡山県 の他の過疎町村 とくらべ ると ,昭和5 5年 か ら昭和4 0年の5年間 では大但町は減少率 1 2.5%で5 7町村 の うち稀少率 の高い方か ら2 7番 Elにあた り ,昭和4 0年 か ら昭和4 5年 までの 間は減少率1215%で25番 目 ,さらに昭和4 5年 か ら昭和5 0年 までの5年間 は ぐっと低下 して減 少率ま 5%とな り順位 も2 9番 目にな り ,岡 山県 の過疎町村 の中 では比較的ゆ るやかな過疎町 である といえる し ,昭和4 5年 か ら昭和5 0年 までの人 口減少率が515%と急激 な低下 を示 したことは ,過 疎 の進行速度が鈍 化 したことを表す o Lか しこれはあ くまでの人 口流出速 度が鈍 っただけであ り過疎 問題の解消 とはいえない 。ただ昭和4 7年 か ら昭和5 0年の間 の転入者 の中で阪神圏 ,硬 京雌 ,中京 憩の大都市朗か らの人 口
U
タ ーンがかな り見 られ ,昭和4 7年 では転入者総数2 0 8人の51・5射 こ あたる占5人が 人口Uターンに該 当 し ,昭和48年 では10人以上脚 え78人 とな り ,転入者 の54・8%を占めた 。続 く昭和49年は前年 と同数 であ り .昭和5 0年 は5 1人, 2 dt2 %であ り,これ ら 人 口Uタ ーンは阪神大都市 鮎が8割以上 を占めているOとい うことは .同町 の過疎解消の1つのてが か りとな り,今後 も魅力ある町 づ くりを推進 し ,若年 層 を中心 とした人 口流 出を抑 制 し ,さらには都 市 部‑流化 した人口を引きも どし,過疎 の解約を進 めてい くことを期待す る 。