富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧〜中部高地の様 相〜
著者 小松 隆史
雑誌名 金大考古
巻 36
ページ 3‑5
発行年 2001‑08‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/2873
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兜山北古墳出土遺物分布図
よりそれまでの首長権が再編成された結果 と捉える見解が多い。本墳の場合は6世紀代 に下る造営年代であるから、帆立貝形古墳 としての上記の評価は必ずしも妥当ではな いと思われるが、本墳に隣接する兜山古墳 は径65mの大型円墳で5世紀代と推定されて いる。兜山古墳がまさに畿内政権による規 制によって前方後円墳ではなく円墳として 造営されたとするなら、その次世代と思わ れる本墳もまた前方後円墳ではなく帆立貝 形古墳として造営されるべき首長権の系譜 であったのであろう。すなわち、それまで 顕著な首長墓の造営されなかった兜山の首 長権が5世紀に入ってにわかに脚光を浴びた、
、 つまり福井平野における軍事再編の影響下 鯖武盆地での軍事編成を統括するような位 置に台頭してきたと考えられよう。兜山北 古墳は、全長20m余という小古墳であるが、
周溝・葺石という外部施設と帆立貝形とい う墳形、複数の専用儀器を使用した土器祭 祀において、他の小首長墓とは一線を画す る。こうした内容が、兜山古墳の首長権の 系譜が6世紀に継承されたことを示している のであろう。
富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧
〜中部高地の様相 ~ 小松 隆史(井戸尻考古館)
1 はじめに .
磨製石斧の研究史は古く、一般の人々に もよく知られた遺物の一つであろう。そし て、それが「斧」であるということも、当
。 、 然のことのように考えられている しかし 主として伐採に用いられる「斧」は、磨製 石斧という遺物の一部のものに限られる。
今回は近年の調査によって得られた新し い資料を加え、中部高地における縄文時代 の磨製石斧について紹介し、斧について考 える一端としたい。
2 坂平遺跡と出土磨製石斧 .
長野県富士見町の坂 平遺跡は八ヶ岳の南
さかだいら
麓台地ではなく、糸魚川・静岡構造線によ
、 って開かれた谷に形成された緩斜面にあり 縄文時代前期前葉の大規模な集落を中心と する遺跡である。
坂平遺跡で発見された10点の磨製石斧に
より、それまではっきりしていなかった当
- 4 - 該期の磨製石斧の様相をつかむことができ た。おおむね大・中・小に分けることので
、 きる定角石斧に近い特徴を持つものが9点 ほか1点は乳棒状石斧であった。定角石斧 に近い特徴を持つもののうち7点は蛇紋岩 製で、極めて良質のものも含まれる。刃部 を残すものを観察すると、小型品には片刃 もあるが、大型品はいずれも蛤刃状の両刃 である。また、この刃部にはいずれも明確 な使用痕が見られるが、線状痕や衝撃剥離
・刃潰れではなく 「谷と山の起伏が連続し 、 て、ひだの付いた面のような状況を呈する
」ものである。
(1)
3 中部高地の磨製石斧と坂平遺跡出土資料 . 中部高地の磨製石斧は、定角石斧、乳棒 状石斧、小型石斧に大別できる。断面にし っかりした角のみられる、純然たる定角石
、 斧は前期中葉には明らかに存在しているが 坂平遺跡の資料はいまだ純然たる定角石斧 の体を成していない。しかし同質の蛇紋岩 を用いること、乳棒状石斧とは明らかに異 なる角ばった形態から、前期初頭から前葉 のこの種の磨製石斧が前期中葉以降の定角 石斧の祖形であったことが推測できる。
一方、乳棒状石斧はその数こそ少ないも のの早期から知られており、坂平遺跡の資 料もわずか1点のみではあるが、この時期 の資料として理解できる。
小型の石斧も早期から存在することが知 られていたが、坂平遺跡の資料には明らか に横斧として使用された痕跡を残すものが あり
(2)、前期初頭から前葉には大型品とは 分化して定立していたことを知ることがで きる。
4 共存する定角石斧と乳棒状石斧 .
縄文時代全体を見わたしてみると、八ヶ 岳西南麓を中心とする中部高地では、定角 石斧と乳棒状石斧が共存していることに気 づく。そこにはどのような意味があるのだ ろうか。
石斧柄の出土や石斧に残された痕跡など から 、 定角石斧は膝柄に 、 乳棒状石斧は直柄
ひ ざ え な お え
に装着されていた可能性が高い。そして刃 部の形態と使用痕から、ともに伐採用の縦 定角石斧は主に姫川水系に産出する良質の
。 、
蛇紋岩が用いられている 中部高地より北 現在の長野・新潟県境に近い地方では、縄 文時代各時期を通してこの定角石斧が用い られており、乳棒状石斧の存在は極めて希 薄である。
乳棒状石斧は緑色岩類や凝灰岩類でつく られている。御荷鉾緑色岩など、代表的な
み か ぶ
緑色岩類は中央構造線外帯(太平洋側)に 産出し、ここに属する関東・東海地方では
。 、 晩期に至るまで乳棒状石斧がめだつ また このことを裏付けるかのように日本海側に は蛇紋岩製の定角石斧の生産遺跡が、神奈 川県などでは乳棒状石斧の生産遺跡が発見 されている。
中部高地で共存する両者は、時期によっ て遺跡で確認される比率に一定の傾向が見 られる。乳棒状石斧が増加する前期中葉以 降、中期中葉までは乳棒状石斧が定角石斧 を圧倒しているが、中期後葉から後期には 定角石斧が互角か乳棒状石斧を凌駕する。
この傾向は北へ行くほど強く、全て定角石
斧が占める遺跡もある。晩期には再び乳棒
状石斧が増加するが、新潟県に近い長野市
周辺の遺跡では乳棒状石斧は全く見られな
い。
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坂平遺跡出土磨製石斧
5 「縄文の斧」〜おわりに〜 .
一般には漠然と「斧」であると認識され ている縄文時代の「磨製石斧」は、いくつ かの表情を持っており 「磨製石斧」のまま 、
。 、
ではその本質は見えない 近年の発掘では 縄文時代の大きな木材利用が人々を驚かせ るとともに、精緻な加工技術が人々を感心 させている。この道具を用いて木を切り、
加工していた縄文人の技術に少しでも近づ けたら、と思っている。
註
(1)佐原真氏は、この種の使用痕を石材の違いによ るものではなく、伐採対象物の違いであるとするSemen ovの研究を紹介している。Semenovによればこれは針葉 樹を伐採した際に残される痕跡とのことであるが、縄 文文化においては、他の石斧、石材における観察と検 討が必要であろう。
「 」
佐原 真 1994 Ⅳ刃物の変形と使用痕 2使用痕
『斧の文化史』
(2)この小型磨製石斧は刃を柄に対して横にして装 着することは間違いないが、その大きさからとうてい
「斧」とは見なしがたい。筆者は鑿のような着柄法を 想定してよいと考えている。