• 検索結果がありません。

富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧〜中部高地の様 相〜

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧〜中部高地の様 相〜"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧〜中部高地の様 相〜

著者 小松 隆史

雑誌名 金大考古

巻 36

ページ 3‑5

発行年 2001‑08‑26

URL http://hdl.handle.net/2297/2873

(2)

- 3 -

兜山北古墳出土遺物分布図

よりそれまでの首長権が再編成された結果 と捉える見解が多い。本墳の場合は6世紀代 に下る造営年代であるから、帆立貝形古墳 としての上記の評価は必ずしも妥当ではな いと思われるが、本墳に隣接する兜山古墳 は径65mの大型円墳で5世紀代と推定されて いる。兜山古墳がまさに畿内政権による規 制によって前方後円墳ではなく円墳として 造営されたとするなら、その次世代と思わ れる本墳もまた前方後円墳ではなく帆立貝 形古墳として造営されるべき首長権の系譜 であったのであろう。すなわち、それまで 顕著な首長墓の造営されなかった兜山の首 長権が5世紀に入ってにわかに脚光を浴びた、

、 つまり福井平野における軍事再編の影響下 鯖武盆地での軍事編成を統括するような位 置に台頭してきたと考えられよう。兜山北 古墳は、全長20m余という小古墳であるが、

周溝・葺石という外部施設と帆立貝形とい う墳形、複数の専用儀器を使用した土器祭 祀において、他の小首長墓とは一線を画す る。こうした内容が、兜山古墳の首長権の 系譜が6世紀に継承されたことを示している のであろう。

富士見町坂平遺跡からみる縄文の斧

〜中部高地の様相 ~ 小松 隆史(井戸尻考古館)

1 はじめに .

磨製石斧の研究史は古く、一般の人々に もよく知られた遺物の一つであろう。そし て、それが「斧」であるということも、当

。 、 然のことのように考えられている しかし 主として伐採に用いられる「斧」は、磨製 石斧という遺物の一部のものに限られる。

今回は近年の調査によって得られた新し い資料を加え、中部高地における縄文時代 の磨製石斧について紹介し、斧について考 える一端としたい。

2 坂平遺跡と出土磨製石斧 .

長野県富士見町の坂 平遺跡は八ヶ岳の南

さかだいら

麓台地ではなく、糸魚川・静岡構造線によ

、 って開かれた谷に形成された緩斜面にあり 縄文時代前期前葉の大規模な集落を中心と する遺跡である。

坂平遺跡で発見された10点の磨製石斧に

より、それまではっきりしていなかった当

(3)

- 4 - 該期の磨製石斧の様相をつかむことができ た。おおむね大・中・小に分けることので

、 きる定角石斧に近い特徴を持つものが9点 ほか1点は乳棒状石斧であった。定角石斧 に近い特徴を持つもののうち7点は蛇紋岩 製で、極めて良質のものも含まれる。刃部 を残すものを観察すると、小型品には片刃 もあるが、大型品はいずれも蛤刃状の両刃 である。また、この刃部にはいずれも明確 な使用痕が見られるが、線状痕や衝撃剥離

・刃潰れではなく 「谷と山の起伏が連続し 、 て、ひだの付いた面のような状況を呈する

」ものである。

(1)

3 中部高地の磨製石斧と坂平遺跡出土資料 . 中部高地の磨製石斧は、定角石斧、乳棒 状石斧、小型石斧に大別できる。断面にし っかりした角のみられる、純然たる定角石

、 斧は前期中葉には明らかに存在しているが 坂平遺跡の資料はいまだ純然たる定角石斧 の体を成していない。しかし同質の蛇紋岩 を用いること、乳棒状石斧とは明らかに異 なる角ばった形態から、前期初頭から前葉 のこの種の磨製石斧が前期中葉以降の定角 石斧の祖形であったことが推測できる。

一方、乳棒状石斧はその数こそ少ないも のの早期から知られており、坂平遺跡の資 料もわずか1点のみではあるが、この時期 の資料として理解できる。

小型の石斧も早期から存在することが知 られていたが、坂平遺跡の資料には明らか に横斧として使用された痕跡を残すものが あり

(2)

、前期初頭から前葉には大型品とは 分化して定立していたことを知ることがで きる。

4 共存する定角石斧と乳棒状石斧 .

縄文時代全体を見わたしてみると、八ヶ 岳西南麓を中心とする中部高地では、定角 石斧と乳棒状石斧が共存していることに気 づく。そこにはどのような意味があるのだ ろうか。

石斧柄の出土や石斧に残された痕跡など から 、 定角石斧は膝柄に 、 乳棒状石斧は直柄

ひ ざ え な お え

に装着されていた可能性が高い。そして刃 部の形態と使用痕から、ともに伐採用の縦 定角石斧は主に姫川水系に産出する良質の

。 、

蛇紋岩が用いられている 中部高地より北 現在の長野・新潟県境に近い地方では、縄 文時代各時期を通してこの定角石斧が用い られており、乳棒状石斧の存在は極めて希 薄である。

乳棒状石斧は緑色岩類や凝灰岩類でつく られている。御荷鉾緑色岩など、代表的な

緑色岩類は中央構造線外帯(太平洋側)に 産出し、ここに属する関東・東海地方では

。 、 晩期に至るまで乳棒状石斧がめだつ また このことを裏付けるかのように日本海側に は蛇紋岩製の定角石斧の生産遺跡が、神奈 川県などでは乳棒状石斧の生産遺跡が発見 されている。

中部高地で共存する両者は、時期によっ て遺跡で確認される比率に一定の傾向が見 られる。乳棒状石斧が増加する前期中葉以 降、中期中葉までは乳棒状石斧が定角石斧 を圧倒しているが、中期後葉から後期には 定角石斧が互角か乳棒状石斧を凌駕する。

この傾向は北へ行くほど強く、全て定角石

斧が占める遺跡もある。晩期には再び乳棒

状石斧が増加するが、新潟県に近い長野市

周辺の遺跡では乳棒状石斧は全く見られな

い。

(4)

- 5 -

坂平遺跡出土磨製石斧

5 「縄文の斧」〜おわりに〜 .

一般には漠然と「斧」であると認識され ている縄文時代の「磨製石斧」は、いくつ かの表情を持っており 「磨製石斧」のまま 、

。 、

ではその本質は見えない 近年の発掘では 縄文時代の大きな木材利用が人々を驚かせ るとともに、精緻な加工技術が人々を感心 させている。この道具を用いて木を切り、

加工していた縄文人の技術に少しでも近づ けたら、と思っている。

(1)佐原真氏は、この種の使用痕を石材の違いによ るものではなく、伐採対象物の違いであるとするSemen ovの研究を紹介している。Semenovによればこれは針葉 樹を伐採した際に残される痕跡とのことであるが、縄 文文化においては、他の石斧、石材における観察と検 討が必要であろう。

「 」

佐原 真 1994 Ⅳ刃物の変形と使用痕 2使用痕

『斧の文化史』

(2)この小型磨製石斧は刃を柄に対して横にして装 着することは間違いないが、その大きさからとうてい

「斧」とは見なしがたい。筆者は鑿のような着柄法を 想定してよいと考えている。

行政における考古学

−埋蔵文化財行政の現状と課題−

楠 寛輝(松山市教育委員会文化財課)

1.はじめに

日本では、毎年10000件を越える発掘調査 が実施され、その99%が行政発掘であり、

土木工事に先立つものがその大半を占めて いる。行政発掘であるから、当然行政が調 査主体となって行う訳であり、その実施は 法律に基づいて行わなければならない。そ の根拠法となっているのが、文化財保護法

( 以下 法 「 」 ) や文化財保護施行令 以下 令 ( 「 」 )

であるが、平成12年4月1日からのいわゆる

地方分権一括法の施行に伴い、その改正が

行われ、特に都道府県教育委員会や指定都

市教育委員会に権限が大きく委譲されるな

ど、今埋蔵文化財行政は大きな変革の中に

ある。そんな中、埋蔵文化財行政の現場を

預かる市町村教育委員会から見た埋蔵文化

参照

関連したドキュメント

一方,個人の内部に公共道徳の源泉を見出そ これらの挑戦は,それまで前提とされてきた

王宮にはおよそ 16 もの建物があり、その建設年代も 13 世紀から 20 世紀までとさまざまであるが、その設計 者にはオーストリアのバロック建築を代表するヒンデブ

 戦後考古学は反省的に考えることがなく、ある枠組みを重視している。旧石 器・縄紋・弥生・古墳という枠組みが確立するのは

瓜生坂―入山峠を結ぶ古墳時代のルートを律令期に整

 トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration

二月八日に運営委員会と人権小委員会の会合にかけられたが︑両者の間に基本的な見解の対立がある

調査の結果、相模川よりも北部の関東山地の個体から発見されている遺 伝子型CN-2を持つ個体が最も多く計