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す る在地領主階級は , 「館」 な どと開発の拠点 を中心に佃 ・門田の経営 を行 った O (註5 ) 館は堀 に四.まれて ,城郭の役割をはた してお り,その前 面には ,私有地 の門田が あ った 。門田が在地領主 の 経済的拠点 にな ったのである。
以上 の ように ,地名か ら,在地 の平民百姓 .領主階級 の居 住地や田地等 のお よその位 殻がわかるの である。 ところで ,こうした肘地 の所在す る場所は よくみ ると ,広 い
河
川の沖税平野にはみ られず , 鋼 の碗水が利用でき るところに ,田地 ・居住地 が存在 していたことがわか る 。これが中世の村落形 憶の特徴である。永原俊二氏に よると (毘主 4 ),少 な くとも .平安期か ら棚倉 ・室町期にかけては , 生産力的には低劣 な湧水利用に よるサ コのタナ田が鮒 史の基盤で あ った 。そ して この粂 件の下では , 中世の田地は必然的に分散的形 態 をとらざるを得 なか ったoそ して段民の居宅 も ,散居 制 をとるか , 地EJl.的条 件に恵まれた場合 は1カ所に集任 して ,,Jすす的形願 を示すかである 。大佐町では ,現在でも 中世に摘発 された と思われるサ コの タナB]が桝作 されているoこうしたタナ田のL7観は私達に中世村 落の姿 を伝 えているのである Q地名か ら中世の在地の状況 をい くらか知 ることができたか ,地名か ら離れて ,文献 か ら大佐町 の歴 史 を追 うことに しよう。
先程 .「名」は荘用の支配の単位 でもある と述べ たが ,大佐町 に も ,荘 園が存在 した 。松尾惣 太郎 氏 rFP世左裾こおける備中国 の荘園 と国 人 Jによると ,永雷荘の名が宝冶元 (12 47)年 の記文にみ える とい うo今の小南 ・小坂部 ・永宙のあた りに存在 した らしい oまた
,r
備中国新見荘史料 .月の寛正
5(14占4)年11月
24日一切経勧進之Ilfに ,小坂部荘の名がみ え ,領家は不 明で あるが ,小 坂部 にも荘廟が存在 した とされている.また
,
FHJ.平盛衰 記 Jに ,備中国 多拾部太郎が ,一谷 城合敬で平家方に加 わ ったことがむ いてあ るo 多 拾部氏は ,おそ らく田治部付 近の土菜であ ったのだろ う Gこれ よ り時代がず っと遡 った延暦年 湖 , 平安遷都に際 して法
官が なされ ,宮城に作 られ る72円 を15カ国の造部 に命 じて建造 させ たのだが ,この門の うちの1つ ,達智門 を術中 .備後融国 に造 らせ ることにな った 。この時 ,監造 したのが ,丹 治比氏であ った. (註 5 ) 丹治比氏は ,碗在の田拾部何近出身 だったのでは なかろ うか 。平安初期 から田滝部に有 力穀族が いたのではないか と考 えられ る O
丹治部氏が参加 した蔽平合戦の後は衆知の辿 り,樺愈碍冊 が創鵡 され ,各国に守礎地象がおかれた 。 肺中国 における守謎は最初 ,土肥栗平が(I.lIl.前の守襟 と弟務 していた 。その後の守常 は十 分明確 でない が r岡 山県の蝕史 Jによると, 「弘安2 (1279 )年 前後の頃に備中守灘mが北条 氏得宗の所 管で
あ った ことは確か」 らしい。
また ,ln=中国 の]1b頭 も ,何 人か史料に出て くるが ,大
佐
町 と競分的係 のあるものだけを掲 げ ると, 荘氏が舶来 から備中国革壁郷の地頭 として入部 し ,欠損町 の括掛城 を本拠に した といわれる oまた , 松 山城が承久 の乱後 備中国有漢郷の地頭願 を得 て相位 よ り入部 した秋鮭氏によ って豹かれた .(註占) この他に ,雑念時代の大佐町 ,またその近辺 の動向を知 ることはできないが ,地名の ところで述べ たよ うに大佐町 に ,馬場 を作 り ,土井 を築 いた在雌綴主がいたと怯定 され る O藤平合職 で宿曜 した丹 治部氏は こうした在地領主 が有 力豪族に発展 したものだろ う。後醗郁天皇中心に した討林の計画か らお こった元弘 の乱では ,節中の国 人の 多 くが宮 方に与 した 。 新見圧の新見氏 ,成合氏 ,舶狛氏 ,共壁氏 ,小坂氏 ,河村 氏 ,そ して三村氏 ,荘氏で ある。逆に 陶山 , 小宮両氏は ,#府 方 として地役 まで戦 ったが ,結局は鎌倉耕府 の滅亡 一 建武 の新政 とな った O しか
し,これも長 くは拭かず ,南北朝の内乱 に突入する 。山酸四国地方では ,播磨の赤松氏 ,讃岐の細川 氏等 が ,いち早 く武家方についたが ,やがて ,備中の国人 も小坂 ,河村 ,
荏,
共壁 ,陶山 ,成 合 ,那 節 .市 川ついで新見氏 らが武家方についた 。僻 P近辺 は ,室町 推府 殻立 当初は ,足利の勢力下 に あ っ たが ,文和 元年 足利尊氏 とかねてか ら不和 であった虐冬 と ,軸府 から郁反 した山名時氏 が結 んで .や がて共 に南党に入 り,備作地方も ,この南 党たる山名氏の勢力の下に席捲 され ることとな った o (註 7 ) 備中 ‑の山名翠の具体的行動は ,山名時代の子師轟 を将 とする野郎 ;文和4 ( 15 5 5 )年 に , 備中守教にな っていた別 府秀 をせめた。この時 .先約 を とったのが ,早 くから山名覚 とな っていた多 治部備中守であ った。多拾部氏 といえば,r
源平盛7R記 」に輿われた多治部太郎 を思い出す: 。備中守 紘 .この多拾部氏の系譜 をひいた ものでは ないだろ うか 。街師秀 は ,守改 代秋鮭氏のねが えりもあ っ て ,鮎中値愈城に敗走 した oこ うして ,舶中の大半は ,両 党 山名氏の勢力下 に制EEされた 。しか し,貞治2 (15 65 )年 には ,山名氏が両党 を離脱 し,山陰山脇に於 ける南党の優勢はお さ まった。
備中 の守護は ,先に述べた荷師直か ら延文元( 155 d )年細川紙と ,貞治5 ( 15 4 4 )年 宮下 野入道 ,貞治5 ( 1566 )年渋川英行 ,明徳行 元 (15 9 0)年 熊川左近大夫将監棚板 .明徳2 (
13 9 1)年細川満之 と変超す る。 (註 8 ) 細川椀之の時 に ,新見EEが多粉部師掛 こ押領 され る と い う事件がおこ ってい る。このため ,守輩細川氏が新見圧に下 向す るが ,多冶部氏 の押 筋は明徳 5 ・
4年 まで続いた。 (註9 )
新見圧 (註lo)では'iTu正V 2 (1 46 1 )午 .守態方代官の苛酷 な支配 に対抗 して ,簡家方の在地の 下級荘官であ った ,公文宮B]家 席 ,惣追捕使福本盛 書 ,EEl所金 子衡氏の 5人 と名主 ・百姓が一致 Bi括 して守弛代官安宿氏の又代官大府氏 を新見EEか ら追 い出 し,代官には今後支配 を受けない こと ,寺家 の厄掛 こしてほ しい ことを ,細家東 寺に夢鞘 するとい う一茂がお こった oこの後寺家の厄務安堵 を袷 て .ほぼ在地の 自治によ って庄内は迎営 されることとな った o しか し ,応仁文明の内乱其郎こ入 る と , 守蕗細川騎久が ,新見EL三を錯府 の御 料所 と して召 し上げ た。I‑E民は またもこれに抵抗 し ,守灘方代官 の入部 を拒み続 けた Oこ うした状況にあ った新見正に ,文明5 ( 14 7 1 )年 多冶部氏 が鞘桁 の政所
執
恥伊勢氏の代官 を称 して ,再び入部 したのであ る .新見EE飽家方が ,文明10 ( 14 78 )年 に , 東寺に返付 されるが ,多治部氏は依然 として ,実力 でも って実質 支配権 を極 り続けたOこの間 ,新見圧の古 くか らの地頭 であ った ,新見氏 も在地の支配権 を多冶都民 と共に握るよ うにな った 。やがて . 文包元 (1 5 8 1)年 以後は ,新見国経が新見正敏家代官職 を掛 ナお うことになる。
こうした土着の有力勢力が ,備中 の国 でも顕著にな った。た とえば .守護代荘 ,石川両氏 ,成 羽の 三村氏 ,備北 における新見 ,多治部氏な どである。反 面守畿細川氏の支配は16世紀には名 目上 の も の とな ったoそれに加えて .天文 の末 か ら永禄の頃にかけて .
搬
北 か ら尼子氏 ,西方か ら毛利氏の進 出がは じまるo三村氏は毛利氏 と手 を組んで ,毛利氏の有力 な部将 とな った 。このころ ,備前 におい‑52‑
て駁大の勢力になっていた宇宙多氏 は ,備中侵略のため .三村氏攻略 を何度か企 るo永禄1 1年字音 多氏は ,佐井田 (現在上房郡北房町 )の城主槻木下総守秀長 を攻め落 として味方につけておいて ,永 禄1 2年に三村家親 と戦 った。この時 ,布施にあ った大山城主の福井孫六左街門尉が植木氏に従 って 合掛 こ臨んだ と伝 えられている。 (証 11)
元私元(1570)年 には ,尼子勝久が南下 し備中に進入 し,松 山城主庄氏は これに応 じた。また , 植木下総守秀賢 ,津々加bif守 と共に ,大山城主筒井孫六左 衝門は尼 子氏に組 した oしか し,三村家親 が毛利の壕兵 を得て松 山城 を陥れたので ,正 ,植木両氏 と共に ,福井氏は出雲に逃げのびた。
B=氏に代 って松 山城主 とな ったのは三村氏であったが ,元親の代 ,天正5 ( 1575)年 に ,それ まで手を結んできた毛利氏 とこれに与 した字を多氏 とによ って亡ぼ された o大佐町 にある矢作城城主 法行六雄左衛門尉元勝 は ,この合敬の頃 ,三村元親の弟上 田釆親 の部将 とな ってお り.鬼見娘にいた と伝 えられている。 (註12) 毛利氏は ,三村 を攻 め潜 とした後 ,さらに備前常山城 を落 とし.麦飯 山に及ぼ うとした。この時 .庄価賢が出雲か ら毛利氏の招 きに応 じて先 鋒を務 めた Oこの時 ,福井氏
も庄氏 と行動 を共 に したらしく,毛利氏か ら20右が宛行 われ ,再び大山城に戻 った。
この後 ,毛利氏 と手 を結んだ宇宙多氏が ,織田‑熔屈 したため ,両氏の内に再び攻防の職 いが始 ま ったo毛利氏は高松城攻めの後 .羽柴秀吉 と和親を成立 した。この後 ,天正15 (1585 )午 ,宿 梁川 を埠に して ,備中 の西半分は毛利氏の所領 ,僻中束 半は革帯多秀家に支配 された。宇宙多氏は豊 臣の韮 臣として権勢 をもっこと
l
こなったoL,かし. 秀吉死後 ,関ケ原に敗れ ,備仲 は徳川の直怖地 として中 期正次が代官 として松 山城に入 って くる。(赤松弘子 ) (註1) 「名」については ,多 くの剛兜論文が あるが ,坂本洋三 「王朝国家体制
」r
訊座 日本史 Jを参考にさせて もらった。
(註2 ) 「垣 内」については ,義江彰夫氏 「初期中世村落1初期中世村落の形成
」r
講座 日 本史21を参考に した。(註5 ) 永原段二氏 「中世村落の純塩 と領主制
」r
E]本中世社会稲造 の研兜J
l参照 (註4 ) 永原氏前掲坊(註5 ) 永 山卯三郎氏 r岡山県通史 」に よるo (註占) F岡山県の歴史
J
による.(註7 ) 註 占に同 じ。
(註8 ) 松尾惣太郎
氏
r中世期における備中園 と国人 J (註9 ) 註8に同 じ。(註一o) 註 =こ同 じ。
(註11) 「阿哲郡誌 」による 。 (註12) 註11に同 じ。