近世町割からみた城下町柳河の空間構成とその変容 [ PDF
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(2) 借家. 農地 外 町. 新船津町. 50. 本船津町. 500m. 200. 100. 出橋門 材木町. 糀 屋 町. 卍. 天 叟 寺 門 前. 鍛 冶 屋 町. 卍. 卍. 卍. 卍. 卍 鷹. 卍卍 匠 小 路. 蟹 町. 卍. 卍. 上 町. 卍. 鉄 砲 小 路. 弓 小 路. 西 覚 寺 小 路 横山小路. 裏 町. 卍. 卍 卍 卍. 卍 中 町. 西 魚 屋 町 八百屋町. 卍. 卍 卍卍 辻 町. 順光寺小路. 瀬高町3. 瀬高町2. 瀬高町1. 卍. 隠居小路. 切革屋町. 片原町. 卍. 卍. 辻門. 東魚屋町. 卍. 細 工 町. 北 長 柄 小 路. 地区の最も広い部分を占める町人地は、W字型をし た街道沿いに面したものが中心で、一部街道の裏手に. 2. 卍. 図4. 柳河地区の近世町割と借家の分布 *史料1、2、3より作成. 復元をおこなった。. 細 工 町. 1. 小 道 具 小 路. 卍 卍 卍 卍 卍. 卍. 椿原小路. 瀬 高 門. 新町. もある。武家地や寺地は街道の裏手に位置し、町人地 とは水路をはさんでいる ( 図 3)。 この地区構成と近世の町割を復元した図 4 とを対応 させると、地区の東側では町人地はほとんどが街道に 面し、その裏に寺院と武家地が配置され、均質的な町. 細 工 町. 3. 南 長 柄 小 路. 真勝寺門前. 卍卍 卍卍 卍. 卍. 出 来 町. 割となっている。一方、西側は城内地区に近いことも あり武家地は配置されず、街道沿い以外にも町人地が. 卍. 分布している。これは町の成立時期が異なることによ る影響と考えられ、最初から近世城下町として計画的 に整備された東側と、それ以前から成立していた町が. 下の敷地はない。また、通りの幅による分類 ( 図 5) か. 近世城下町に取り込まれた西側との違いが、町割にも. らは、町人地では街道や寺院への参道、片側町などを. 現れている。. 中心に 3 間以上の幅の広い道から、脇道など幅の狭い. 3-2. 町割からみた町人地と武家地の特徴. 道まで場所によって様々であるのに対し、武家地では. 間口数の分布 ( 図 6) からは、町人地では多くが 2 間. 多くが 2 間前後にまとまっている。また、借家はほと. から 3 間の間に集中しており、2 間以下の狭い敷地も. んどの町人地に分布しており、武家地には見られない. 目立つ。これに対して武家地の間口は最も高密な足軽. ( 図 4)。寺の門前付近や脇通り沿いが特に多いことか. 居住地であっても 2 間半から 3 間以上であり、2 間以. ら、有力な寺院や町人の土地の一部を借地として利用. 10-2.
(3) 3間~. 辻 町. 2間~3間 外 町. 新船津町. 瀬高町. ~2間. 本船津町. 50. 100. 弓 小 路. 鉄 砲 小 路. 500m. 200. 出橋門 材木町 上 町. 糀 屋 町. 鷹 匠 小 路. 蟹 町. 西 覚 寺 小 路 横山小路. 図7. 街道沿いの町家(辻町・瀬高町付近) *史料4. 裏 町. 天 叟 寺 門 前. 中 町. 西 魚 屋 町. 鍛 冶 屋 町. 八百屋町. 図12. 辻 町. 順光寺小路. 辻 町. 隠居小路. 切革屋町. 瀬高町1. 新 町. 2階建ての表記. 瀬高町3. 瀬高町2. 瀬高町. 片原町 辻門. 東魚屋町. 図7・8. *史料1、2、3より作成. 15. 細 工 町. 2. 北 長 柄 小 路. 町人地 西覚寺小路・長柄小路 その他の小路. 細工町. 1. 図5. 各通りの道幅による分類. 20 (%). 細 工 町. 小 道 具 小 路. 0 1(間) 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 15 10 20. 近世町割. 図10. 真勝寺門前. 明治地割 瀬 高 門. 3. 5. 細 工 町. (新町・細工町付近) *史料4. 瀬 高 門. 新町 南 長 柄 小 路. 図9. 街道沿いの町家. (辻町・瀬高町付近) *史料2 椿原小路. 図9. 10. 図8. 町家表記の違い. 新町 細 工 町. 出 来 町. 3. 図6. 間口数の分布 *史料1より作成. 1962年建物 0. 50. 100. 200(m). 図10. 町割の変遷(新町・細工町付近)*史料1、2、3、5より作成. していたものと考えられる。こうした土地は明治以降. ある敷地は規模が大きく水路に面するものが多く、小. も有力な地主の土地として扱われたものが多く、その. 規模な敷地にはみられない。. 後細分化していった。. 一方、同じ街道沿いの新町と細工町付近を描いた図9. 以上より、町人地は間口数からみると画一的だが実. では、やはり平入り二階建てによる町並みだが、寺院. 際は場所によって道の性質が異なり、敷地の一部を借. や大規模な屋敷を除いて瓦葺と思われる建物はみられ. 家とするなど多様性があったことがわかる。また、武. ない。また、鍵屋のような描き方がされた建物が多く. 家地は町人地よりやや広い程度の間口の足軽組屋敷. 見られ、1960年代の航空写真でも新町南側には多数の. と、まとまった間口をもつ屋敷地に分類され、前者が. 鍵屋状の町家を確認できる (図10)。また武家地にも鍵. 連続性のある住居、後者が独立型の屋敷であったこと. 型の主屋が多数確認でき、この地域の特徴としてみる. が想定される。一方で道幅は多くの小路で共通してお. ことができる。. り、閉鎖的で細い道が続く城内地区の武家地との共通. このように街道沿いの町家では、大規模な屋敷や倉. 性がみられる。. を構えた商家が集まる西側の中心地区と、やや小規模. 4.町人地の空間構成. の町家が連続する東側の町に区分することができる。. 前章から、町人地には地区による違いがみられた。. 中心地区は近代以降道の拡幅がおこなわれ、建物の更. 本章では道の性質から町人地の空間構成を考察する。. 新も早く進んだために町家の遺構は少ないものの、比. 4-1. 街道沿いの町人地. 較的建築年代の古い建物からは規模の大きさをうかが. 柳河地区の商業活動の中心であった近世末期の辻町. い知ることができる。(図11). と瀬高町付近を描いた図7では、通り沿いの町家は平入. 4-2. 街道裏の町人地. 二階建てで屋根は瓦葺と思われるものが多い。近世後. 街道裏に立地する町人地として、西魚屋町の町家につ. 期の同じ場所を描いた絵図では、上町から辻町付近の. いて特徴を述べる。西魚屋町は柳河地区西部に位置し、. 町家のみ二階建てのように描かれている(図8)。また、. 現在の西魚屋町の領域は西側の寺町を含んでいる。町の. 敷地の奥には掘割に面して倉が建ち並び、船が通る様. 成立は古く、近世の城下町の整備以前からの町だとさ. 子が描かれている。これを近世町割と照合すると倉が. れている。蟹町浜に水揚げされた魚を捌く問屋が立地 10-3.
(4) 農地や大規模屋敷地跡に開発された武家地 (近世後半以降). 外 町. 新船津町. 歩道 . 本船津町 出橋門. 歩道 . 材木町. 拡幅された旧街道 0. 5. 10. 20(m). 上 町. 糀 屋 町. 図11. 瀬高町(現 京町) 断面図 卍 A-A’断面. 10. 20(m). 八百屋町. 順光寺小路. 辻 町. 瀬高町1. A’. 隠居小路. 切革屋町. 瀬高町3. 瀬高町2. 片原町 辻門. 東魚屋町. A. 細 工 町. 小 道 具 小 路. 寺の移転による町人地の拡大. B’. E邸. 新町 細 工 町. 瀬 高 門. 真勝寺門前. 3. 南 長 柄 小 路. S邸. 元は一軒だった . B-B’断面 B. 50. 図12. 西魚屋町 屋敷図・断面図 イタノマ. 椿原小路. 農地(町小路等絵図) M邸. ミセ. 細 工 町. 2. 北 長 柄 小 路. 西 魚 屋 町 通. 参道. 1. 寺 町 通. 西 覚 寺 小 路 横山小路. 中 町. 西 魚 屋 町. 鍛 冶 屋 町. 天 叟 寺 門 前. O邸. 5. 鉄 砲 小 路. 弓 小 路. 裏 町. 昭和40年代まで存在(蒲鉾製造) . 0. 鷹 匠 小 路. 蟹 町. 仏間. 100. 200. 500m. 卍. 出 来 町. 図14. 近世期の城下町の拡大 0 1 2. してきた延長であると考えられる。町人地の拡大も小. 5(m). 規模ながら周縁部でおきており、主に寺が移転してき ドマ(作業場). た周辺で町が形成されている。 1階 . また、近代以降の変化に関しては柳河地区の町割は. 2階 . 城内地区の武家地に比べて地割の変化は緩やかであっ. 図13. 西魚屋町 O邸 平面図 . する魚町であった。西魚屋町の土地利用は、通り沿い. た。これは敷地の規模が維持しやすいものであったこ. o邸 平面図 1:100. の表側だけに住居があり、裏側は農地として利用され ていたのが特徴的で、戦後しばらくまではそのような 構成が続いていた。また長屋形式の借家がいくつかあっ たことが確認されており、藁葺の町家が多数を占めて いた。M 邸と S 邸はそうした長屋形式の町家の名残を. とや、近代以降も商業地として一定の役割を持ち続け たことが影響しているものと考えられる。 6. まとめ 柳河地区の近世町割の復元から、多様な居住環境が. 並存する城下町の空間構成の一端をみることができ た。町人地は接する道や水路との関係、中心部からの. 示す事例で、もとはひとつの建物だったものを分割し. 位置等によりいくつかの構成をもち、近代以降の町家. て利用している ( 図 12)。 このような町家に混じって、西魚屋町には多数の蒲 鉾製造の店があった。こうした店は西魚屋町の中では 大規模な敷地と建物を持っており、敷地裏まで複雑に 建物が連なってい た。O 邸や E 邸はそうした町家の事 例で、作業場として広く取られた土間や、自由度の高 い続き間としてつくられた二階部分、敷地裏手に別棟. 空間にもそれが反映されていた。一方で武家地は小路 ごとの家格に対応した間口の屋敷規模をもち、通り等 の外部環境は均質的であった。 柳河地区では、近代に入っても比較的町割は維持さ れ、空間構成も一部を除いて近世のものが継承されて いた。しかし戦後は道の改変や建て替えによって、近 世の空間構成は多くが失われた。現在、城下町の構成. で作られた座敷空間などが特徴的である ( 図 13)。. は水路によってとらえることができるが、水路とまち. 街道沿いの町家と比べ街道裏の町家は住居が中心で あるため規模が小さい。このような柳河地区に残る町 家は近世期のものではないものの、場所に応じた町家. が密接に関係する柳河の環境を考える上では、商業地 とその背後の住まいを中心とした空間も見直していく 必要がある。. の構成が近代以降も持続していたことを示している。. 史料一覧. 5. 近世町割の変遷. 史料1 町小路等絵図 享保8~11(1723~1726)年頃. 町小路等絵図以降の町割の変化を示した 図14より、. 各小路・町ごとに間口や居住者が記載されている。. 近世後期にも城下町の拡大が所々で発生していること. 史料2 町小路絵図 寛政3(1790)年 史料3 柳川惣町図 享保8~11(1723~1726)年頃. がわかる。武家地の拡大は東側の農地を利用しておこ. 史料4 柳河明證図会 文政8(1825)年以降の数年間. なわれており、農地や荒地を切り開いて武家地を確保. 史料5 柳河町地引絵図 明治初期. 10-4.
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