しがだい 10
特
集
滋賀大学からみた近江
道と近江
近江という国は、歴史上不思議な位置をしめていました。律令国家の定めた五畿七道の五つの畿内の国(大和、山 城、摂津、河内、和泉)の中に近江は含まれていません。しかし、古代には、天智天皇の大津宮、聖武天皇の紫香楽 宮と近江国に宮城がおかれたこともありました。その後の鎌倉・室町時代は、公家・武家・寺社の勢力が独自に力を 伸ばしていたのですが、寺社勢力の雄である比叡山延暦寺は山麓の坂本にその拠点を持っていました。そして戦国 時代、京を追われた将軍が逃げ込む地でもありました。京を奪われた将軍は、時には安土へ、時には朽木へと近江の 武士たちを頼って落ちのびていったのです。また、織田信長が安土城を造り、そこから豊臣秀吉を経て、江戸時代の 新たな武士を中心とする体制がはじまったのはご存じの通りです。 五畿七道の七道のうち現在の九州だけを通る西海道を除く、六つの道はすべて京を起点にしています。西へ向か う三つの道は、山陰道は山城から丹波へ、山陽道は摂津から播磨へ、南海道は和泉から紀伊へと畿内から出ていきま す。それに対し、東へ向かう三つの道はすべて山城から近江へ出てそこで、北陸道の若狭・越前へ、東海道の伊賀・ 伊勢へ、そして東山道の美濃へと分かれていきます。近江国は、畿内の国ではなく東山道のはじめの一国にすぎない のですが、京から東へ向かうには近江は必ず通らねばならないのです。それは古代の三関と呼ばれる鈴鹿、不破、愛 発の三つの関がすべて近江国から隣国へ出たところにあることからも分かります(愛発関はまだ発見されていません が)。近江国は、古代の七つの主要な道のうち三つが走っている国なのです。つまり、東国から都への玄関口という ことがいえましょう。だからこそ、歴史の転機で近江国は登場するのです。 また、この道は近江国にとっても重要な位置をし めていました。先に触れた比叡山は、根拠地の近江 から北陸道沿いにその所領を伸ばしたともいわれて います。また、近江商人が成功したのも、この道を 使って京と東国や北国を行き来する荷を古くから 扱っていたからともいえましょう。古地図を見る
そんな近江の道は、古くからの地図でみることが 出来ます。奈良時代の大仏建立に貢献した僧行基が 制作者として仮託される行基図といわれる古い日本 地図にも、近江に三つの道が通っていることが見え ます。 江戸時代に入ると、各地でもっと詳しい地図が作1
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歴史からみた近
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特集 2
宇 佐 見 隆 之
(教育学部助教授) 地図1(西が上)しがだい 11 られていきます。支配のために作られた国絵図、村絵図といわれるものや、中には裁判の証拠とするために作られた 地図などもあります。そこにも近江の道は描かれています。 様々な地図があるなかで、ここでは江戸時代の観光地図ともいえる地図をみてみましょう。この頁に出ている地 図は、教育学部史学研究室に所蔵されている江戸時代末の安政三年(1856)に作られた「湖水浦廻り名所寺社便覧図 蹟」という地図です。この地図は堅田の浮御堂で出版されたことが記されています。浮御堂は江戸時代から観光ス ポットであったうえに、このような地図を出版できるほど多くの人々が訪れていたことが分かります。 この地図の大津付近を見てみると(地図1)、二重の赤線で東海道と北国街道の二つの道が記されていることが分 かります。この二重の線が主要道であり、赤の単線で記された道が補完しています。このような道が地図全体に記 されています。これを見てみると、東海道五十三次のような宿場町だけではなく、街道が通っている地名がわかりま す。また、観光地図ですから近江八景をはじめとする当時の観光名所も知ることが出来ます。勢多橋や石山寺など 旧跡にはその由緒まで記されています。 地図からは、このように道をはじめとする地図作製当時の情報を読み取ることが出来ます。しかし、文字で記され たものだけでなく、形から読み取れることもあります。近江八幡近辺を見てみましょう(地図2)。この付近の道で は、二重線で記された中山道(東山道)と湖岸を通る単線の朝鮮人街道があります。また西国巡礼三十一番札所の長 命寺のある付近は今でこそ陸続きですが、当時は島であり、安土山などに較べても大きな島と認識されていたことが 分かります。いかにこの地区が近代に陸地となっていったかを知ることができます。そして興味深いのは、八幡堀 が琵琶湖の一部のように記され、城跡である八幡山までが島状に描かれていることです。狭い八幡堀ですが、船が通 い物資が行き来したことからこのような大きな存在として描かれたのでしょうか。 このように、古い地図を観察し、現在の地図と比較することで時代による変化を見ることが出来るのです。