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エ ミ リ ・ デ ィ キ ン ソ ン と 不在 の ゴ シシ ズ ム

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エ ミ リ ・ デ ィ キ ン ソ ン と 不在 の ゴ シシ ズ ム

詩学とロマンティシズム

1.「アメリカン・ルネッサンス」と存在の神話

アメリカ十九世紀ロマン派の詩一般が'強‑存在論的な詩学

を提唱し実践したものであると述べても'それほど正確さを欠いているとはいえないだろう。ラルフ・ウオルド‑・エマソン

による詩論、ヘンリー・ディヴィッド・ソローによるWalden

などの著作、ウォルト・ホイットマンのL

ea

v

es Qf

Grassなどは'ニューイングランドの土地としての固有

や '

外界を眼差す「目」("eye")と眼差しの対象となる「自然」("nature")がともに

存在し、知覚作用や芸術創作をポジティヴにおこないうる空間が現前することを前提とした作品群であったといってよいだ

ろうし、アメリカ的な詩学を確立したホイットマンのトeav

es of

G

ra ss

は'語‑手として想定された「私」("myself")が'空

間 お よ び 時

間の通常の制約を超えて、アメリカ全土を旅し、眼差

しや語りの対象としてのアメリカ大陸やその過去'未来を記述

し、それらを魔法によるかのようにして現前させる、強‑存在

論的な詩学であったといってよいだろう1。

十九世紀の作品にかぎらず、アメリカ文学一般において、ア

メリカ大陸の自然やそこに構築された人工的な空間の環境世

界としてのありかたが自明の前提事項として語られがちであ

‑ ]

diedjTor

beau o)

における詩と死の時空間'非人称の

ることをあらためて指摘しておいてもよいかも知れない。とくに十九世紀半ばのトランセンデンタリス‑たちによるロマン

ティシズムの提唱や'それらと同時代のハーマン・メルヴィル

やナサこエル・ホ‑ソーンらによる小説作品が、捕鯨船などの

船の内部の空間や広大な海の広がり、ニューイングランド植民

地時代の歴史的空間などを'あらかじめ存在した、あるいは現

実に存在する場所として前提していたことは興味深い2。

エマソンがNature冒頭で述べるように、トランセンデンタ

リズムの主張のとつの大きな眼目となるのは、「わた‑した

ち」("our","we")と窓意的に名指されるなにものたちかの、集

団に史との関係の取‑結びの再考だった3。それ

が十九世紀前半の国家主義的な文芸復興運動としてとらえら

れるのだとすれば、きわめて唆味なかたちで成立していたら

しい初期アメリカ合衆国とその文化の固有性は、一部の詩作

品をのぞけば文芸創作そのものに携わることな‑'国家的プ

ロジェクトにふさわし‑ハーバード大学で行われた講演"T

he

A

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i

ca n

S

ch o

t

a

r"をはじめとする講演やエッセイによって

展 開

したエマソンやその追従者たちによって、現実に存在

するなにかというよ‑も、先験的に存在するはずの諸条件として想定されたものだったのではなかったか。

(2)

二i:{lI,鼎/

2 .

ディキンソンとロマンティシズムの詩学

本稿の主題となるエミリ・ディキンソンの詩群は、ラルフ・ウオルド‑・エマソンがすでに代表的な詩論を発表してロマ

ン派の詩学をアメリカの文化的土壌に移入し、エマソンやソ

ローが他の超絶主義者たちとともにアメリカ合衆国における

最初の文化的運動を興した場所であるマサチューセッツ州コ

ンコードからそれほど離れていないアマ

ストで、密かに書き

継がれた。それらの詩は、ほんの少数を除いて'現在では「ファ

クル」("fascicles")とよばれるようになった原稿の束として

キンソンの死後まで未発表のままに保管され、死後ディ

キンソンの親族によって不完全な形で編集され、出版された。

ディキンソンの詩が本格的に評価されはじめるのは、二十世紀

モダニズムの時代、「イマジスト」の詩人たちがディキンソン

による断片化された短詩形とその硬質な言語の質に注目する

にいたってからであり'ディキンソンが日記のようにして書き

継いだ詩作品の総体がようや‑l般読者に知られるようにな

るまでには、l九五六年のジョンソンによる全詩集の出版、さ

らにl九九八年のフランクリンによる詳細なテクスト研究を

踏まえた全詩集の出版を待たなければならなかった。あま‑に

もよく知られた'ディキンソンにまつわる神話である4。

こうした経緯や、ディキンソンという詩人が現代アメリカ文

化のなかで付与されるにいたった「アマーストの隠者」などの

パーソナルかつポピュラーなイメージはさておき'ディキンソ

ンの詩が上記のような経緯で現在にいたるまで読み継がれ、お もにモダニズム以降の時代のアメリカ作家や詩人に大きな影

響を与えてきたことは、上記のようなディキンソンの詩の現代

的な特質やグラフィックといってもよいような視覚的効果の

などが、現在の詩人たちに影響を与え'たとえばアメリカ現代

詩を代表する詩人のひと‑であるスーザン・ハウが'創作に

おいてディキンソンを意識しているというだけではな‑、My

EmilyDic

kin so n (

B

er

k

e

t

ey

:

N ort

hAtlanticB

oo

ks,)995)のような、現

代にお

る詩人

て の 創

作活動とデ

ンとを直接に

結びつける試みとも思われる研究書を出版するなどしている

ことからも理解されるだろう5。とくに、チャールズ・オルソ

ンやビート派の詩人など'エマソン'ホイットマンの流れを汲

むアメリカ的詩人たちにつぐ、LIAINIG

IU ‑

AIGIEpoetsなど以降の現代詩人たちとディキンソの類縁性立って

いる。メルヴィルやポーなどと並んで、エミリ・ディキンソン

の作品とその解釈は'アメリカ文学や文化研究に向かう誰に

とっても、アメリカ的特質を議論する際のきわめて危険な試金

石となっているのだといってもよいだろう。

ホイットマンやエマソンと同時代のニューイングランドで

創作した詩人として、ディキンソンが当時のロマンティックな

風潮やヨーロッパ中心主義的指向性を共有していたことは、諸

作品における王権や非アメリカ的要素への頻繁な言及や、トラ

ンセンデンタリズムのトレードマークともいうべき円環のイ

メジやロマンティックな「自然」の有機的全体性に呼応するイ

メジの多用、時の経過、進行と自我との葛藤を思わせる語りの

頻出などによって理解されうる6。しかしながら、当時主流の

ロマンティシズムの主唱者たちがある意味で無意識的に不在

7

(3)

としての存在というパラドクスを言説の基調として文化活動

や創作を行ったのにたいして、ディキンソンはその時代的パラ

ダイムのパラドクスそのものを生き、創作したのかも知れな

い。ディキンソンが詩人および個人として十九世紀アメリカの

文芸サークルや社会から積極的に不在であろうとしたことと

呼応するかのようにして'ディキンソンの詩における語り、イ

メジ、詩形の独自性は'存在の強さやポジティヴさではな‑、

トランセンデンタリストたちが看過した不在そのものの根源

性を強‑主張しているように思われるのだ。 thetomb,JWhenonewhodiedfortruthwaslainJInanadjoinln

g

room.FHequestionedsofttywhylfailed?['Forbeauty,'(replied.

I

'Andlfortruth

,‑

thetwoareone,JWebrethrenare,'hesaid.JAndso,askinsmenmetanight,JWetalkedbetweentherooms,[Untilthe

m

os

s

hadreachedourlipsJAndcoveredupournames.

3.テネシー・ウィリアムズの芸術観とディキンソンの詩学

現在ではあまり知られな‑なっているかもしれない、ひとつ

のディキンソン論がある。アメリカ二十世紀半ばの劇作家テネシー・ウィリアムズが、おそら‑はディキンソンにたいするあ

る種の羨望の念をこめてか'CatonaHotT,.nRoofの序文"person

toperson"において、墓の空間を舞台設定としたディキンソン

詩Jdiedfo

rbea u

o,を引用している。

Thediscretionofsocialconversation,evenamongfriends,isexceeded

onlybythediscretionof'thedeepsix,'thatgravewhereinnothinglSmentionedatalI.EmilyDickinson,thatlyrlCalsplnSterOfAmherst)

Massachusetts,whoworeastrictandsavageheartonataffetasleeve,commentedwrylyonthatkindofposthumousdiscourseamongfriendsintheselines:"(diedforbeauty,butwasscarcerAdjustedin ウィリアムズがこの序文で提示している文学的前提は、そも

そも"

Pe rso n

toPerson"というタイトルに表われている'自己

表現と

し て

の文芸創作というい‑ぶん古風ともいえるもので

ある。ウィリアムズが表現者に特徴的な例として挙げているの

は、自分の姿に周囲の注意を向けようとやっきになる南部の少女であり、その少女の"Lookatme!"という叫びである。自己

表現の農重さを強調するウィリアムズの文学性と序文全体の

叙情性が現代における典型的にロマンティック態度にもとづ

いたものであることはいうまでもないが、もっとも注目すべき

序文の特徴は'ウィリアムズがディキンソンを引用するにあたって、生と死という二項対立を同時に導入していることであ

る。さらに、序文最後のパラグラフにおいてウィリアムズは、

生の領域に属する自分と死の領域にあるディキンソンを明確

に差異化することで、ディキンソンを他なるものとしての死と

決定的に結びつけ'葬り去る。ウィリアムズは、死後の世界で

の真実と美の一致を墓の内部の空間での対話をとおして歌っ

たディキンソンの]diedjbrbeautyをロマンティックな自己表現の究極的なかたちとして引用しながらも'それと同時にディ

キンソンをみずからの創作の場である「生」の領域と切り離し、他者化していることがわかる。

(4)

二1:iLllI,i.:I,I,'J

ここでさらに問題となるのは、あ‑までも存在としての主体

による叙情的表現を生の領域に属するものとするウィリアム

ズの序文と'引用されたディキンソンの詩そのものとの深い

離敵である。個人による自己表現としての文学という考えかた

は、そもそも表現する主体の絶対的で強力な存在を前提として

いるために'カント哲学の傍流であるアメリカのトランセンデ

ンタリズムやその末流や西欧一般における二十世紀前半まで

の存在論や存在論にもとづいた思想・哲学がそうであったよう

に、不在にたいして存在を特権化し、不在を他老化する傾向を

持っていた。いうまでもな‑'デカルト主義的な「コギー」に

もとづいた存在論は'恩考する主体の知覚の対象を主体の存在

の下位に置き'主体にとっての現れとして記述することによっ

て、客体を他者'不在として主体の下位に位置づけるヒエラル

キーを自然化するものだった。

そうした議論の代表的な例として'現象学的、精神分析的な

観点から文学における空間を論じたガストン・バシュラールに

よるよ‑知られた著作﹃空間の詩学﹄などをあげてみて

よい

かも知れない。家のイメジなどに代表される詩人や作家の想像

力に固有の空間を文学にとって根源的なものとし、空間の内部

性と外部性との隔た‑と相互関係とを文学論として提示する

バシュラールの議論は'現代の視点からはい‑ぶん奇妙に思わ

れるとしても'存在論的な詩学にとっておそら‑必然的な帰結

にたどり着いている。十九世紀主流のアメリカ的詩学やその末

流のひとつであるウィリアムズらの文学観は、それぞれが属す

る文化がことなっているとはいえ'バシュラールが提示する内

部と外部、存在と不在'肯定と否定との二重構造の一方を特権 化することによって成り立っている。バシュラールは﹃空間の

詩学﹄末尾において、存在論的、現象学的'精神分析的文学論

の帰結をおそら‑ある種の憂慮とともに記述し、ロマン主義の

詩学一般の問題点を鋭‑指摘している。

外部と内部は分割の弁証法を形成し、そしてこの弁証法の明白

な幾何学は、もしわれわれが暗境の領域でこれを作用させると'

たちまちわれわれを盲いさせるOそれは一切を決定する肯定と

否定の弁証法の鋭い明噺性をもつ。われわれは不注意にも、こ

れを'一切の肯定的なものと否定的なものの思想を支配するイ

メジの基礎としている。たがいにかさなりあい、あるいはたが

いに相いれない円をえが‑と、論理学者たちの規則はみなたち

まち明瞭になる。哲学者が内部と外部とをいうときには、存在

と非存在とをかんがえる。したがってもっとも深い形而上学は

暗黙の幾何学、欲しようと欲しまいと、思想を空間化する幾何

学に根ざしている8。

ディキンソンの詩ヽdiedforbeauo,においては、そうしたロマンティックな内部空間によって存在の始まりを生成する子宮(=womb")と、生と存在論の領域において不在であり外部の

不在の領域として想定される死や墳墓("tomb")がともに合意さ

れているO死が始まりとなるJdiedforbeauoJにおいては'肯定と否定'存在と非存在、内部と外部とは'不在としての語り

とその語りの場である墓地の内部の空間によって同時的に隠

愉化されている。ディキンソンは、「アメリカン・ルネッサンス」

とロマンティシズム一般のパラドクスを'死後の墓の"between

9

(5)

thespaces"での対話という、存在と不在とを併せ持った空間にお職化し、二十世紀にいたるまでのロマン派の詩学一般

や十九世紀アメリカ・ロマン派のジレンマをそのものとして提

示することにおそら‑成功している。

ウィリアムズの実存的立場に限界があることはいうまでも

ないとしても、Cat

on

aHotTinRoof序文で提示されているのは、まさに二十世紀

ばの標準的な芸術観であるといっていい

だろう。それが文芸創作や詩的感性の主体を特権化し'女性を

他者として表象することを自然な前提としていることの意味

あいのなかには'文学的主体としての女性にたいする差別意識

が言うまでもな‑含まれている。しかし、ウィリアムズが「ア

マーストの叙情的なあの老嬢」("thatlyricalspi

nste ro

f

Am

h

erst ")

よぶ詩人は'そうした制約から確実に逃れ出

て ゆ

90

4.デイキンソンにおける主体と声の消滅

実際のところ、ウィリアムズがJdiedforbeauo,における「死

後の対話」("posthum

ou s

di

sco urs e

"

)

とよぶものは、ウィリアムズ

が前提する

生 の

か に 現

前する自我による'アイデン

ティティーの個別性とユニークな声を特徴とする対話ではな

いはoディキンソンによる芸術家「個人」(‑p

ers on

)

の定義は、

おそらくエマソンやホイットマン'ウィリア

ム ズ

らが提示する

定義とは非常に異なったものである。]diedforbeauo)において'対話は「何も語られることがないあ墓」("thatg

ra ve

wherein

no th

ingis

m ent

i

on ed at a

Ll")のなかで続けられる

キ ン

ソンの 作品における沈黙とは絶対的な沈黙であ‑、そこではウィリア

ムズが例に挙げている少女が声をあげ叫ぶことは許されてい

ない。声の音としての実質を文学的表現とする立場は'おそ

ら‑必然的に声と沈黙とを階層構造的に二項対立として指定してしまうことになるだろう。それゆえに、ウィリアムズがヽ

diedforbeauo,を引用するコンテクストにおいては、絶対的な沈黙と静寂のなかで続‑「死後の対話」は、生や存在としての

声と身体性と差異化された、飽なるものとならざるを得ない。

ウィリアムズの序文におけるディキンソンの詩の提示は、芸

術創作そのものの普遍性への願望を表しているというよ‑は、

"Lookatme."と叫ぶ少女のイメジが提示する女性芸術家による

直接的な自己表現への羨望とあいまって'ジョーン・ドブソン

らが指摘するように、現実には女性による個人的表現の可能性

を他なるものとしての死と沈黙の領域に追いやる男性中心主

義的な戦略とも思われてくる日。

]diedforbeauやにおいて沈黙や不在が絶対的であることの意味具体的な発話であるはずの声が、いわば沈黙に囲ま

れる形式で提示されていることだけに特徴的に表われている

というだけではない。文学における「声

の概念は、それを先

駆けとして提示したミハイル・バフテンによる小説論などにお

いては、キャラクターの自律性を前提としていた。しかし'文

学テクストにはそもそも声は現前しておらず、キャラクターの

独自性や身体としての個別性も声やテクストそのものに現前

していないことは、ロラン・バルトらの指摘を待つまでもな‑あきらかである。文学における声の主体や語‑の主体とは、実

際のところテクストを構成する文字による指示対象の現前を

(6)

1:lェ',tL.I/I'EJ

形而上学として前提しないかぎ‑、きわめて唆味かつ不可能な

概念であることはいうまでもない。

]diedforbeauo)において'コミュニケーションは個別化された個人から個人」との対話として思考されているのではな

い。詩の最後の行では、美と真実のために死んだ無名の二人に

よる対話は、「苔がわた‑したちの唇と名前を隠すまで」

(

"

un

til

themosshadcoveredupou

r

li

p

s

an d

ournames")続‑のだとさ

れ て

り、間のなかで対

二人の身体は朽ちてゆ‑ことが

想像され、個人としての人間やその身体、名前に合意されるア

イデンティティーなどがむしろ消失するなかで沈黙の対話は

成立する。]diedjbrbeauo)が提示する詩学は、ホイットマンやエマソン、現代のロマンティックな詩人たちのものとはことな

り、語る主体を欠いた、沈黙の言語のなかに消失してゆ‑無名

の個人による詩学なのである。

5 .

(([ディキンソンと"imper

s

o

nalit y"

主体の現前と主体による自己表現を文学的表現の根源とす

るロマンティックな文化的土壌において、絶対的な沈黙を発

話の基盤とし、芸術創作の主体を消去するディキンソンの詩

学はきわめてラディカルであるが'シャロン・キヤメロンが]mpersonalityで詳細に述べているように'ハーマン・メルヴィルやT.S.エリオットなどを含めた十九世紀からモダニズムに

いたる時代の作家や詩人たちの作品において、主流とされるロ

マンティックな作家や詩人たちの「個人」を基盤とした文学と はことなった、

"im

personal"な詩学がじっは支配的だと指摘す

ることもできる

た、本論でエマソンやバシュラールを例に

とって繰り返し指摘してきた、存在と不在とを階層構造的に二

項対立化する存在の詩学と、不在を絶対的な基盤とする詩学

は'十九世紀の詩や小説作品からアメリカ現代詩、現代文学に

いたるまで、つねに併存してきたふたつの異なった文学のモー

ドであるということもできるだろうol九七〇年代に優れた

先進的なディキンソン論LyrJ.CTJ'meJ

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79 ) を

発表してもいる

キヤメロンによれ

ば 、

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いう語は、ステータス(物や動物と区別された合理的存在

の こ

と)を与えるが、何ら物質的なも

のを前提としてはいない」("thewordpers

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hin

gofsu

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nce")。主流のアメカ・ロマン派やウィ

アムズなどの実存

義的現代モダニストらの前提とはこと

なり、「芸術家を定義づける"personality"の消滅」によって基

礎づけられる文学や芸術表現が'ディキンソンによって提示されている崇

ディキンソンに親しんだ読者であれば、Jdiedforbeauo,以外にも、多‑のディキンソンの詩が死者の観から語られている

ことを了解しているはずである。たとえば、やはりよ‑知られ

ている。lheardany

bu

zzw

hen ld ied

"は、語り手がすでに死ん

で、身体が解体しっつある

の進行のなかで語りだされている

し、南北戦争などの歴史にコメントする、つまり歴史表象の可

能性にかかわる詩においても、ディキンソンは死者の視点を多

用し、歴史を現実の生とされる領域において表象することを拒

l ■

(7)

む。ディキンソンの詩において、声や身体性や時の進行'歴史

などは注意深‑存在や生の領域から除外され、死やそれがもた

らす無時間的な領域における無の絶対性の一部として、きわめて冷静に脱構築される。それによって詩の言語や言語が提示する無としてのなにものかは、十九世紀半ばに一般的だったロマンティックなイメジや自然観、時間観'歴史観やそれらにかかわる同時代的諸言説を反復しながらも'それが提示する現実的

な磁場から半ば解き放たれ、より制限のない、自由な表現を可能にするoテネシー・ウィリアムズは芸術家個人の限界からの

解放への願望を序文で強調しているのだが、"person"としての芸術家に必然的につきまとうそうした限界は、実在とされる個

人の限界の外部である、]diedforbeauo,の墓の不在のスペースの絶対的沈黙と、その沈黙の部としての語りによって解き放たれる。ドブソンも指摘するように、ディキンソンはみずから

の詩の語り手について「それはわた‑Lではな‑、ひとりの仮想の人物のことなのです」("1itdoesnotmean‑me‑butasupposed

person")と述べており、語り手は詩人本人ではな‑、詩によっ

てアイデンティティーを変化させる、つねに仮想の誰かなのである14。

]diedforbeauo)はまた、それが反復しているキーツの"Grecian

um"ともことなっている。]diedforbeauo)と"GrecianUrn"を比較すれば、語‑の方向性が正反になっていることが観察されるはずである。

ThoustillunravishfdbrideofquletneSS,

Thoufoster・childofsilenceandslowtime, Sylvanhistorian,whocanstthusexpressAnowerytalemoresweettythanourrhyme:

Thou,silentform,dostteaseusoutofthoughtAsdotheternlty:Cold

Pastorat!Whenoldageshalithisgeneration

wa

ste,

Thoushaltremaln,lnrnidstofotherwoe

Thanours,afriendtoman,towhomthousayrst,一'

B

eautylStruth,truthbeautyJ‑thatisau

5

Yeknowonearth,andatlyeneedtoknow;

請冒頭でのギリシャの壷は、"Thoustill

un ra vi

sh'dbrideofquietness,[Thoufoster・chitdofsitenceandslowtime

"

と、沈黙によって特徴づけられ、詩のナレーターによってそのアイデンティ

ティーを代弁される「もの」である。しかし'詩の末尾で'"Beautyistruth,truthbeauty"というある種のモラルを、長い時の流れを

経て存在してきた普遍的美的対象としてのギリシャの壷その

ものが発話し述べる結末では、Jdiedforbeauo)の結末とは逆に'壷は語り手とな‑、"person"としてのアイデンティティーが確立され'物質的なものに声が与えられるo真実と美との一致は、おそら‑物質的なものと発話とのl敦でもあるoキーツ

もまた、「夢」と「真実」の二項対立的な要素に深い関心を持っていたことが知られており、ある書簡において想像力の真証性("theauthenticityofimagination")を定義し、「想像力は、目覚めてそれが真実だと気づいたアダムの夢にたとえられるかもしれ

ない」("lmagi

na

tionmaybecomparedtoAdam'sdream‑heawokeandfo

un

ditt

ru

th

,

) と

述べている16。したがって、キーツが生や歴史

(8)

や存在をそれ自体と一致した単純にひとつの位相であると考

えていたとは考えに‑いが、夢が実現することが想像力の真証

性の証しになるのだとすれば、ウィリアムズやバシュラールの

文学観に類似して、キーツは真実性や存在、生を想像力の優越

した領域としていたとも考えられるのだ。

また、キーツの詩が生や支配的な歴史観に親しい西欧的な美

を提示するのにたいして、ディキンソンの歴史、時間観は、語

りの始まりと終わりである死が一致する瞬間を始まりとする

ことによって、時間の始まりと終わ‑や、その経過そのもの

を無効化している。]diedforbeauo,におけるもっとも奇妙な諸

行は、結語となる

=u

ntitthem

o

sshad

co ve re

dupourtipsandour

na m es"

である。詩

" un tit t

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ってい

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。詩における沈

黙の語‑が

た ど

‑着‑地点は、キ

ツの詩とはことな‑、動き

や進行ではな‑ある完了して静止

た状態であ‑、その状態は

あらかじめ到達されており'すでに進行をとめている。読者は

ここで、"between

th e

s

p

aces"とされるあいだの空間がそのものとしては存在しえな

ことに似て'死後の対話の始ま‑と終わ

りに時間的差異が存在しないことに気づかされるだろう0シャ

ロン・キヤメロンがLyI)'CTL'meにおいて指摘しているように、

通常の意味で全体性をはずの時間的始ま‑や終わ‑

や時間性の連鎖'そして空間の完結性は'ディキンソンによってはむしろ存在の全体性を損なうものとして認識されていた。

それゆえにディキンソンは時間の連鎖や空間の完結性を破綻

させるのであるけo墓地における対話という設定は'いうまで

もな‑イギリスの"

gra ve

yardschoot"やゴシック趣味を思わせ るものだが、ディキンソン的なゴシシズムは、謎が潜む空間そ

のものの完結性を破綻させ、探求の時間的・空間的目的を不在

化する、反近代的ともいえる構造を内在しており、そうした不

在の探求こそがディキンソンの詩の読書経験となる。

6.「アメリカン・ルネッサンス」とエミリニアィキンソン

トランセンデンタリズムを代表とする新興文化運動が'ヨー

ロッパや初期アメリカ合衆国とはことなった文化や歴史を創

設する試みを開始した一八三

年代に起きたことのひとつは、

バシュラールの議論におけるように、まった‑原理的な問題に

図式的に還元されうるのかも知れない。エマソンらが創設しょ

うとした文芸の原理とは、ヨーロッパや合衆国の過去や伝統か

ら切‑離された民主主義的な「私」「自我」であり、その原理

自体はエマソンの講演やエッセイで民主主義国家における文

芸や歴史観の絶対的な前提となる実在として指定されながら

も、現実にはいまだに存在しているとはいえなかっただろう。

エマソンらの時代にあっては、実質的には不在である自我の

存在が歴史や過去と向き合い、それらを記述の対象とすること

によって、「自然」や「歴史」とよばれるなにものかが生まれて'

そして記述されることになる。トランセンデンタリズムと十九

世紀前半のアメリカ合衆国における文化論的言説一般が'自我

と自然、主体と客体との関係を文芸における記述の原理として

想定することによって'本来は不在であったはずのアメリカ的

な主体とそもそも主体概念を成立させる要件として必要不可

13

(9)

欠なはずの客体概念を存在の原理として提出し、しかもそうし

た「新しい」関係性を'それ「以前の」歴史的に構築された関

係性と対比することによって、不確かだったはずのアメリカ合

衆国の過去や歴史が自動的に生成されるような装置を仕込む

ことが、エマソンの"Nature"その他の著作における戦略の▲

側面だったといえるのではないだろうか。

エマソンやホイットマンらが提唱したアメリカ的な民主主

義的「自我」による語‑は、主体と客体を相互依存的にナルシ

システィックな関係性として想定し、上記のような原理によっ

て存在と不在とを運転して提示している。アメリカの文芸復興

が実現するにあたっては、「以前」としての過去や歴史を'い

まだ存在していない「以後」の存在による視点を提示すること

によってつ‑りだすこと、主体としての自我と客体としての自

然との関係性を'あらかじめ存在した自然とそこにあらたに参

入する自我としてではな‑'主体としての自我の絶対性と'眼

差され、記述される対象である自然として運転した関係におい

て提示することによって'あらかじめ存在しているはずの自然

の絶対性を保証しようとすること。これらが、いわゆる「アメ

リカン・ルネッサンス」の文化が原理的に学んでいたパラドク

スである。「以後」の基盤となるはずの「以前」は「以後」によっ

てつ‑りだされ'過去の自我の存在や自我に先立つべき「自然」

や歴史の存在は'実質的には不在である現在の「自我」の現前

によって保証される。「アメリカン・ルネッサンス」における

執擁なロマンティックな存在論の主張は、現代の視点から再考

されたとき、実際のところ自我とその客体である自然の不在そ

のものを際立たせ、主体を中心とした主客関係そのものが存在 論としてのロマンティックな文芸論を成立させるための、それ

自体フイクショナルな装置であったのではなかろうか禁

このように論じて‑ると'ディキンソンの詩がその力強さや

魅力にかかわらず「アメリカン・ルネッサンス」の主流からポー

などとともに除外され'ある種の異端的な詩人とされてきた

のは'おそら‑上記のような「アメリカン・ルネッサンス」に

固有のフイクショナルな装置を暴‑転倒的なカをもっていた

からではないかと想像されて‑る。ディキンソン的な不在の観

点が詩そのものや詩におけるイメジとして成立しうるとすれ

ば、現実的な存在論や絶対的な空間として提示される芸術創作

の主体の絶対性'それらに基づいた歴史観や芸術観は不在や非

人称性の一側面として相対化される。十九世紀のアメリカ文学

は、ニューイングランドの"genteel"な階級によって支えられ

たまさに国家的な事業であったといってよいはずだが、そうし

た国家的事業としての主流のロマンティシズムを相対化し、転

倒しかねない作品が同時代に書かれたことは、おそら‑偶然に

起きたのではない幸運だった。lohnson版の全詩集が出版され

た頃には、F

0 ・

マシーセンの﹃アメリカン・ルネッサンス﹄

が出版された二

世紀中庸の時代の右翼的、抑圧的なヨーロッ

パ男性中心主義的なイデオロギーに支配されたアメリカ合衆

国はすでに変貌しはじめていた。同じ頃作品を発表しはじめた

トマス・ピンチョンらのポストモダン作家たちや、七

年代以

降の'発話の主体ではな‑言語そのものに目を向けた詩人たち

にとって、ディキンソンほより魅力的な詩人となったに違いな

い。国家主義やエディパス的な関係性によって構造化された家

の内部空間に閉じこもり、それらに親しみながらも、それらが

(10)

:{lI,

15

構築するものとは別個の不在の空間を想像しえたディキンソ

ンの"

im per son a

t"な詩学は、現代の文学・芸術にとって強力な

文学的

先 行

例となりえていたはずである。

‑RalphWaldoEmerson,"Nature,"DonaldMcQuadeed.,SejeCtedWTJtLngsofk.merson(NewYork:TheModernLtt)rary,]981),3ム2,参照。エマンは類似

の表現をさまざまな著作で反復しているが、たとえば同書9ページなど

では、自然と視覚機能としての「目」を美と芸術の構成要素とし、つぎ

のように述べている。"TheancientGreekscalledthewor)dx6'GT0爪,beauty.

Suchistheconstltutionofallthings,orsuchtheplasticpowerofthehumaneye,thaheprlmaryfbrms,asthesky,themountain,thetree,theanimal,glVeuS

adelightmandforthemselves;apteasurearlStngfromoutllne,COlor,motion,andgrouplng.ThisseemspartlyowlngtOtheeyeltSelf.TheeyelSthebestofarttsts["

2よ‑知られていることだが、ナサニエル・ホ‑ソーンは歴史的事実を忠

実に再現している素振りを拒み、おそら‑故意に年号をずらすなどする

ことによって、あくまでフィクションとしての歴史を作品として提示し

ていることを明確にしていたoしかしながら'﹃排文字﹄序文でへスター・

プリンが胸につけていたとされる=A"の文字が物質的な異物として残さ

れていたり、"TheMlnister.SBlackVeil"のヴェールやフーパー牧師の身体

の物質性が強‑意識されているなど、かならずLも歴史を非存在として

提示しているわけではない。

3Emerson,"Nature,"3.のあまりにも有名な書き出し、"Ourageis retrospective."以下を参照。

4ディキンソンのテクスト出版の経緯については多‑の著作がある。最新

のRIW.FrankllnによるThePoemsofEmlZyDICklnSO17(Cambridge,Mass∴

TheBelknapPressofHarvardU.PL998)にいたる経緯については、同書の

"ntroduction"を参照。

5SusanHowe,MyEmllyDLCkLnsof2は、タイトルが示すように、研究書と

いうよりは、ハウとデイキンソンとのパーソナルなつながりを意識し

るOハウはうSusanHowe,SlenguLanrtl'eS(Hanover⁚

UnlVerSltyPressofNewEngtand,1990)などにおいて、ディキソンの詩を

意識していると思われる短詩形やダッシュを利用したグラフィックな詩

行などを実践している0

6ここで詳述するスペースはないが、よ‑知られた"hummingt)ir°"など

に代表されるディキンソンの自然のイメジは、それ自体他の詩人たち

のものと絶対的にことなっているわけではないC本稿で論じるjdledj(wbeauo,における否もうそれ自体としては通常の有機的自然のイメージで

あり、ホイットマンのLeavesofGrassにおける「章の葉」とことなるわ

けではない。

7TennesseeWittiams,"Preface"toCatonaHotTlnRoof(NewYork⁚Pengu)n

Books,2009)参照0

8ガストン・バシュラール、岩村行雄訳﹃空間の詩学﹄(東京⁚思潮社、

1九六九)'二六0

9WilliamsVxi1'1

lo問.

1110anneDobson,DJckij"OnandtheStl・BtegJeSOfRetJcence(Bloomington⁚lndlanaU.P.,)989),xli・xiii.を参照0

I2バフチンによる「声ポリフォニーといった議論の装置は、テクスト

(11)

「声

「作

'「声

SharonCameron,Tmpe,sonaJJtySevenEssays(ChicagoU.ofChicagoP.)

2007),vlli.14Dobson,DJckJ・nson,xm.

151ohnKeats,"OdeonaGreclanUrn,"TheortonAnthologyofEngIJsh

L]teTatuZ'e2vo]S(NewYork:W.W.Norton&Company,i986),822・823.

16JohnKeats,L,ette"oBenjanu.nBaL]ey,November22,1817.

1SharonCameron,Ly,LcTzme.DJckLnsonandtheL/Jml.tSOfGenTe(Baltimore

T

heJohnsHopklnSU.P.979),170.

18

'

*稿10

"ReadingsontheMarg]n:Em)lyDICkinson's

PosthumousPoeticsandtheEnglishRomanttcs"

C()

参照

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