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予期の現象学 : フッサールの予期現象の分析を手かがりにして

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(1)Title. 予期の現象学 : フッサールの予期現象の分析を手かがりにして. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 文化, 57(3・4): 25-43. Issue Date. 1994-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1775. Rights. 東北大学文学会. Hokkaido University of Education.

(2) 25. 予 期 の 現 象 学. フッサールの予期現象の分析を手がかりにして. 千 葉 胤 久. われわれほつね日頃未来について様々に思いをめく、、らしている。たとえば,明. 日の仕事について計画をたてたり,将来の世界情勢に関して議論したり,あるい は天気予報を見て明日スキーに出かけるかどうか思案したりする。こぅした予期 のなかに未来は何らかのかたちをとって現れていると言えるだろう。しかし,一 方では,未来ほ決してそのようなかたちをとって現れるものでほないという議論 も成り立つ。未来はありとあらゆる意味で存在しない。予期されたものごとは,. それが現実のものとなったとき・現在的になったときはじめて存在すると言われ うるだけであって,予期されたものとしての未来は存在しないと言うこともでき よう。このふたつの考えは,誰もが時に応じてもつ未来に関するふたつのイメー. ジである。しかし,未来が何らかのかたちで現在に立ち現れるのか否かで両者が 対立することも見逃すことはできない。未来は「未だ・‥ない」こととして非存在 であり,前者のように予期のうちに未来が立ち現れると考えるのは「錯覚」に過 ぎない,このように言うことにも一理ほある。だが,もし未来がどんな意味でも. 非存在であるということになるならば,われわれにとって未来はまったくの無意 味ということになってしまう。さらに言えば,予期するという経験をなぜわれわ れが行いうるのかも理解できないことになろう。われわれほ,「未来は全くの非 存在である」と単純に断定することも,予期において立ち現れる「未来」を即座 に承認することもできない。われわれに必要なのは両者の議論の詳細を吟味する ことである。 本論でわれわれの考察が主題的に取り扱うのほ,紙幅の都合上,予期において 「未来」が何らかの仕方で現れているという立場での議論のみである。この考察 ほ,予期が可能であるための条件を探究するという仕方で行われるが,その作業 のたたき台としてわれわれはフッサールの予期分析を取り上げる。彼の分析をも とに予期の可能性の条件を追い求めていくことで,かえって「未来はいかなる意 354.

(3) 26. 味でも存在しない」ということの深い意味が明らかになってくるからである。本 論の最終的な目標は,この深い意味を垣間見ることにあるノ。. 1 フッサールによる予期現象の分析 まずほじめに,フッサールが予期に関して一般にどのような規定を与えている のかを,予期と他の諸作用との相違がいかなる点にあるのかを明らかにしていく. という仕方で確認しておこう。彼によれば,予期は過去の想起や想像と同じ「準 現在化」(Vergegenwartigung)であり,知覚という「現在化」(Gegenw畠rtigung) とは区別される。さらに,予期は同じ準現在化である想起や想像からも区別され る。その区別ほ,想起が想起されたものを「過去」という客観的時間に措定し,想像. が想像されたものを客観的時間のうちに措定しないのに対して,予期は予期され たものを客観的時間のうちに,それも「未来」という客観的時間のうちに置くはた らきである(りという点にある。. このように予期ほ他の作用から区別することができるのであるが,ここで注意 したいのは予期と想起との関係である。フッサールにおいては,予期と想起は当. 然区別されるふたつの異なる準現在化であるのだが,両者は対等ではなく,「予 期ほ想起を(そして未来予持ほ過去把持を)尺度とする」という見方がとられて いる。例えば,彼の述べるところによれば,「将来のものが現れること (Eintreten)ほ,すでに現れた過去との類似によって予期される」(2)のである。. この事態をもう少し詳しく見ていくことにしよう。 あらゆる体験ほ,内在的時間的なものとして過去把持的に減衰し(abklingen),. ついには生き生きしていない過去へと沈下していく。しかし,その体験ほ全く跡 形もなく消え去ってしまうのでほない。その体験ほ潜在的に(1atent)なり,習 慣的な所有となる。ここに習慣性が創設されるのであるが,これは同時に類型の 成立を意味し,そこでは類型があらかじめ示され,予描(Vorzeichnung)され る。この類型の予措によって,その類型に属する類似の対象が類型的親しみと先 既知性の地平のうちに連合的に現出することになり,そのようにして地平的に予. 科が行われる(3)。この意味での予科がフッサールにおいては予期の基本形態と見 なされている。 「この子料は予科という以上,無規定に一般的であり,類型的に親しまれたも. のとしての<類型的な仕方で規定されたもの>を予料するのである。この類型的 な一般性を,この色の現実的な存在に対して開かれている特定の『可能性』とい 353.

(4) 27. う形式において解釈するとき,予料の無規定な一般性の明確な『範囲』として, 可能性の遊動空間があらわれてくる」し4)。 経験可能な実在的なものは類型の範囲内で予科される。そのような意味でアプ リオリなものとして類型は「あらゆる充実を通して不変の遊動空間のあれこれの 可能性という形式において不変のままであるところのもの」(5)であり,いわば, 経験の「先行的な意味の枠組」と呼べるようなものである。でほ,この類型的な 親しみの根拠はどこにあるのだろうか。 「そうした類型的な親しみは自らの根拠を,受動的連合的な同等性や類似の関係, 類似のものの『ばんやりした』想起のうちに有している」(6㌧. 類型的な親しみの根拠として,「受動的連合的な同等性や類似性の関係」と「(類 似のものの)想起」が挙げられているが,予料・予期は「類型的親しみと先既知 性の地平のうちで」(7)遂行されるのであるから,これはそのまま予科・予期にも 当てほまる。予期は「連合」・「想起」に基づいているということ,フッサール においては,これが予期現象を説明する際の基本となる態度である。先に予期は ある対象を客観的時間のうちに措定するほたらきであるといったが,そのあるも のの何であるかは,つまり予期の内容は想起に負うているということになる。想 起がなければ予期は内容をもちえない。この意味で,想起は予期の前提となって おり,予期ほ想起に基づけられているのである。これは,ある意味では,常識的 な見解であると言うことができよう。想起可能な類似の経験をしたことがないた めに,これからどうしたらよいのか途方に暮れてしまうといったことは,われわ れの日常の生活においてよくあることである。さらに,フッサールにおいて想起 は過去把持によって可能となると見なされていることを考慮に入れれば,最終的 には予期は過去把持に基づけられているということができる。 われわれがこの節で確認しておきたかったのほ,フッサールが予期に必要と認 めた二つ契機である。すなわち,予期は「類型的親しみ」を不可欠な契機として もつということ,そして,予期はその内容を想起に負うているということ,この 二つである。後者の,何が予期されるかほ想起・記憶の制約をうけるということ を,フッサールは次のように言い表している。 「想起的に与えられたものが到来するもの(Kommende)を像化せしめる (verbildlichen)。到来するものほ,過ぎ去ったものでほなく,過ぎ去ったものの うちに自らの原型をもつ予期されたものである」(8)。. .1.52.

(5) 2β. 2 予期の可能性の条件 2.1想起に基づいた予期という考え方の不十分さ. さて,われわれがこの節で検討したいのは,先の基本的態度からの予期の分析 ほ予期現象の一面しか捉えていないのではないかということである。換言すれば, 「想起が予期の前提である」ということや「類型的親しみ」は,予期の必要条件. ではあっても,必要十分な条件でほないのでほないかということである。なぜ必 要十分でほないのかといえば,「類型的に親しんでいること」は,「過去のあるも. の」を想起する場合にも,また,「現在のあるものの背面」に関する意識につい ても見出せるものだからである。例えば,あるものが出現したとき,その出現に おいて「これと類似した何かがあった,あれは何であったか,いつそれに出会っ たのだったか」と想いを巡らすことはありうることである。このようにして,わ れわれは「類型的親しみ」に導かれて,かつて在った類似のものを想起するので ある。また,あるものの正面を見ているときにそのものの背面を予測するとき,. 確かに類型的な親しみが予測を可能にすると言えよう。しかし,ここで注意すべ きほ,この予測ほ決してそのあるものの未来の背面を予測しているのでほなく, まさにそのものの「現在の」背面を予測しているということである。いや,そう. ではなく,いま背面である面を未来のある時点において正面から見たときにそれ がいかに見えるかを予測しているのだ,だから未来のものを予測しているのだと 言われるかもしれない。それに対しては,確かにそのように「未来の時点におい て」ということに関心のある場合ほ未来のものを予測していると言うことができ よう,しかし,現在の背面が予測の関心の的になることもある,と答えることが できる。例えば,過去の類似の経験からみて,あるビルのコンクリート壁の内部 で腐食が進んでいると考えられる場合,その腐食の状況を調べようとしていると きの関心はまさに「現在の」腐食の状況であって,未来のある時点で壁を掘り返 したときに見られる壁の内部が問題ではないのは明らかであろう(9〕。このように, 「類型的に親しんでいること」は,ある類型に属するものを思い起こすことを可. 能にはするが,その思い起こされたものがまさに「未来のもの」であることに関 しては,効力をもたないと思われる。では,これ以外にも予期に必要な条件とほ 何か。以下のフッサールの言葉を批判的に解釈することでこの間いに解答を与え ていきたい。 「p qが相次いで結びつきをもって現れ,それからpと等しいものであるp’ が直接に続いて現れる場合,言い換えれば,繰り返しとして現れる場合,それは, 351.

(6) 29. 以前に述べたことにしたがえば,過去把持的に沈下したpを想起させる。これは 触発力の助成をうけており,この助成はさらにqにまで移行する。このことよっ てq’もまた,たったいま現れたp’に引き続いて根源的本質必然的に予期され る」(10)。 いまここでわれわれが注意すべきは,「pqが相次いで現れ」という箇所と「触 発力の助成は,・‥さらにqにまで移行する」という箇所である。先にとり上げた フッサールの議論からすれば,これらはすべて過去把持によって可能となると考 えねばならなくなるのだが,果たしてそうであろうかということを疑ってみなけ ればならない。「p qが相次いで現れる」ということをわれわれが意識しうるの は,qが原印象的に与えられたとき,同時にそのときpが過去把持的に与えられ ていることによってであるとフッサールほ説明する。例えば,フッサールにおい ては「内在的時間,客観的時間,持続するものの持続や変化が存在する真の時間」 を形成するのも,「流れの諸位相の準時間的秩序」を形成するのも過去把持であ り,前者は過去把持の横の志向性によって,後者ほ過去把持の縦の志向性によっ て形成されるのである(11)。 しかし,時間に関する秩序は過去把持のみによって形成されるのだろうか。先 に引用したかたちでの予期意識は,厳密にはqの原印象とpの過去把持のみによ って可能になっているわけではないと思われる。なぜなら,未来予持を排除した 意味での「qの原印象」に「pの過去把持」がともなっているだけでほ,継起を 意識することほできないからである。というのも,pの過去把持が「保証」する のほ,「pが過ぎ去った」ということだけであり,未来予持と過去把持を捨象L た意味での「qの原印象」とは,まさに「qが今ある」ということを「保証」す るだけだからである。そこには,「qが到来した」ということが抜けている。換 言すれば,先の説明では「qが到来した」ということが暗黙のうちに前提されて しまっているのである。 「pq」という継起についての意識には,「qにとってpは過去である」とい うことだけではなく,「pにとってqは未来である」ということも含まれていな けれはならない。それは;「qにとってpほ過去である」ことから「pにとって qは未来である」ことは,本来,現象学的には「根源的本質必然的に」は導き出 されないからである。前者から後者が導き出せることは,過去・現在・未来の客 観的時間の秩序にしたがえば,自明のことだと言える。しかし,客観的時間を排 去した態度をとるならば,それを自明なこととみなすわけにはいかない。もちろ 350.

(7) 30 ん,この「自明なことと見なさない」ということは,「否定すること」でほない。. つまり,「qにとってpが過去である」とき,現象学的には「pにとってqは未 来ではない」,などと主張しているのではない。ここでわれわれが主張している のは,次のことである。「qにとってpは過去であること」と「pにとってqは 未来であること」ほ,どちらも,いわば「p→q」と表記できるような同じ事態 と関わっているのではあるが,その両者の「意味するところ」ほ異なっていると いうことである。われわれが,ここで注目したいのは「未来であることの意味」. である。われわれほ,予期を遂行する際には「未来の意味」をもっていなければ ならないのである。 「未来の意味」の必要性は,もうひとつの面カごらも指摘できる。フッサールは,. 予期されたものほ過ぎ去ったものに自らの原型を持つと述べた後で,「予期にお いてわれわれほ,過去がその際に現出しているにもかかわらず,過去意識を持つ ことはない。過去は予科に変換され,この変換は予期において見て取られうるの である」(12)と言う。しかし,この「変換」が生ずる根拠は語られていない。こ. の引用において示されている事態をより簡潔に述べれば,「予期は前方に投げら. れた想起である」(13)と表現することができるが,このような考え方を批判するメ ルロボンティがやはり「未来の意味」に言及している。 「事実,われわれが己のすでに見たところのものの助けを借りて未来を思い描. いてみるとしても,それを己の前にもっと先のこととして投射する(pro−jeter) ためには,やはりわれわれはあらかじめ未来の意味をもっていなくてはならない。. 仮に予期が回顧だとしても,それはいずれにせよ予料された回顧に違いないのだ が,未来の意味をもっていない老が,どうして予料することなどできるだろう か」(14)。. 予期を行うことの可能性の条件を求めていくという本節の課題は,「過去の変 換・想起の前投」の根拠としての「未来の意味」の解明を必要とすることになる。 「未来の意味をもつこと」とはいかなることなのか,いかにして行われているの. かをわれわれほ解明していかねばならないのである。 2.2 「未来予持」の多義性. われわれに必要なのほ,「未来の意味をもつこと」はいかにして可能かを問う ことである。ここで,次のような主張が予想される。この間いに対してはすでに フッサールが解答を与えている,未来予持こそ「未来であること」の意識の仕方 である,と言われるかもしれない。この主張をわれわれほ否定するつもりはない。 349.

(8) 3J. 基本的には賛成する。しかし,この答えはいかにもあいまいであると言わぎるを えない。それは,答え方があいまいであるというよりも,「未来予持」という概 念自体のあいまいさに由来する。そこでまず,フッサールが与えている「未来予 持」の一般的な規定とそれに関する解釈を簡単に見ておくことにしよう。 もっともよく知られている「未来予持」の定義ほ,「到来するものそのもの (dasKommendealssoIches)を空虚に構成し,捕捉し,充実へもたらす未来子 持」し15)というものである。これは,「まさに到来しつつあるもの」を「待ち受け ること」としての未来予持(16)であり,いわば「現在が未来に腕を広げて待ち受 ける」のである。しかしこれは,言い換えれは,類型の網目を広げて到来するも のを待ち受けることである。したがって,この意味での未来予持は予科とほとん ど区別できないものであると言えよう。フッサール自身,未来予持と予料の区別 をあいまいなままにしており,「われわれほ未来予持を予料的な先取りする思念 と名付ける」(17)と述べたりもしている。 未来予持と過去把持の一般的な解釈を「ド・ミ・ソ」というメロディを聴くと きのことを例にとって説明すれは,「ミ」音を今聴いているとき,つまり「ミ」 が原印象となっているとき,「ド」音ほもはや聞こえていない。しかし,それほ 聴こえていないにしても,まさに過ぎ去った音として現在に保持されている。こ のような保持が過去把持である。そして,さらに「ソ」音は,今は聴こえておら ず,端的に今ほない音であるが今にもすく・、に到来する音として現在に保持されて いる。このような保持が未来予持である。メロディ知覚という体験において,未 来予持・原印象・過去把持の三契機は,メロディがメロディとして聴こえている ためにどれひとつとして欠くことのできない契機として取り出される。 しかし,この意味での未来子持,つまり予科的な未来予持もまた「脱現在化的」. ではあっても,特殊な志向性として「志向的所持」(1郎であり,これと「未来であ ることの意識の仕方」としての未来予持とは区別されねはならない。予科的な未 来予持は,「予め捉えて(先取りのうちに)保持すること(Im−Vorgrifトhalten)」 と規定できるようなものである(19)のに対して,「未来の意識」としての未来子持 はそれとほ異なるものである。いったいどのように異なるのか。比較的前期の思 想に属する『内的時間意識の現象学講義』〔以下『時間講義』と略す.〕にほ見出. せないこの違いを,『経験と判断』における「なお捉えて保持すること (Noch−im−Griff−behalten)」と過去把持との相違を指摘している箇所を参照す ることによって明確なものにすることができる。 348.

(9) β2. その相違は,『経験と判断』によれば,以下の点にある。「なお捉えて保持する こと」ほ「能動における受動」であり,対象的関係を有している。先のメロディ 知覚の例で言えば,ひとつの「ド・ミ・ソ」のメロディとの能動的な対象的関係 において「ド」という過ぎ去った音が「なお捉えて保持」されていることをそれ ほ意味している。これに対して,過去把持は「純粋な受動」であり,対象的関係 を有していない。過去把持は「ド」音が「過ぎ去ったこと」や「ミ」音が「過ぎ 去ること」に,ないしほ「今がたった今に変化すること」に関わっているのであ って,直接に対象に関係するのではない(20)。この区別は,「対象に関わる意識に 見られる二次的受動性」と「根源的に構成するのだが,ただ先構成的であるだけ の時間流の受動性」(21)との区別である。われわれがここで主張したいのは,この 区別は未来予持にも認められる,ということである。予科的な未来子持に関して はフッサールほ次のように言う。 「そして,問題となっている契機〔絶え間なく鳴り響く音を聴くときのその音〕 はこの現出の変化の連続のうちでひとつの同じものとして受動的に自己合致する こと(Selbstdeckung)において,連続的能動的に捉えられたままである(im kontinuierlichen aktiven Griff bleiben)。それで,<なお捉えていること (Noch−im−Griff)>という変様された能動性は,<生き生きした今に接続する という仕方で連続的である過去の連続>を絶えず貫き通している。そして,変様 された能動性は原湧出的な新たな能動性とひとつになって,能動性の流動的統一 (flie瓜ende Einheit)をなし,そのようなものとしてこの流れ(FluL;)のうちで 自己合致する。もちろん,同様のことが未来予持的に現出する未来地平の流れに. も当てはまる。ただ,この未来地平はたんに<なお捉えて>経過する (verlaufen)だけではなく,<なお捉えていること>の協力のもとに,<予科的 にあらかじめ捉えて(im antizipierenden Vorgriff)>連続的に経過するのであ る」(22)。 このように予料(的未来予持)は「能動における受動」であるのに対して,そ れとは区別される未来予持に関して議論する余地がフッサール時間論のうちにほ 残されている。そのように言うのは,先に引用したのと同じ節において,彼が次 のように述べているからである。 「同様に,作用が中断される際にほ,未来予持の受動的な合法則性がなおはた らき続ける(Fortwirken)にもかかわらず,未来地平は能動的に予科された地 平という性格を失う。そのとき,未来予持ほもはや先取り(Vorgreifen)という 347.

(10) 33. 様態での現実的能動性ではないのである」し23)。 ここで注目すべきなのは,未来予持が「先取り」という「予料」としてはたら かなくなっても,「未来予持の受動的な合法則性はなおほたらき続ける」という 点である。つまり,未来予持は予料としてほたらくこともあるが,それとほ区別 される意味での未来予持の存在をフッサールが認めていることをこれは示してい るのである。ある一連の作用,例えばメロディ知覚が終了したとき,そこではも はやどんな音が到来するのかを「空虚に構成し,捕捉し,充実にもたらすこと」 は遂行されていない。しかし,そのときにも未来予持は純粋に受動的にほたらき 続ける,言い換えれば,そのときにも「時ほ流れている」。純粋な受動性におけ る過去把持・未来子持にわれわれは着目しなければならないのである。では,純 粋な受動性の次元の事柄に関してフッサールほどんなことを言っていただろう か。ここで,われわれは『時間講義』において彼が「過去そのもの・過ぎ去るこ とが知覚される」と言っていたことを思い出すべきであろう。 「しかし『時間客観ほ,絶え間なく新たに生ずる原印象のなかでなおもそれが 産出されている限り,知覚されている(または印象的に意識されている)』と言 いえよう。〔原文改行〕だからわれわれは過去そのもの(Vergangenheit selbst). が知覚されるといったのである。実際,もしもわれわれが過ぎ去ること (Vergehen)を知覚しないとすれば,先に記述したような場合〔メロディーを構 成する個々の音は過ぎ去って現在しないのに,そのような過去の音を含むメロデ ィー全体を知覚すると言うことができ,メロディーが原本的に自体所与となりう るような場合〕などでも,最前まで存在していたということ,すなわちたったい ま過ぎ去ったということを,その自体所与性において,つまりそれ自身が与えら れている(Selbstgegebensein)という仕方で,直接に意識することほありえな いのではないだろうか」(24)。 もちろん,この「過ぎ去ることの知覚」は想起,予期,想像と対比される意味 での「知覚」とほ異なる,ないしは意味に少々ずれが見られる。この「知覚」ほ, あるものを見たり,ある音を聴いたりすることとしての主題的知覚と同列におか れるものでほなく,そのような知覚(そして想起,予期,想像)といった現在に おいて遂行される作用のうちに現象学的に見出される一契機であり,これが「な お捉えて保持すること」と区別される意味での過去把持である。つまり,これは 「過ぎ去ったということの原本的な意識」(25)であり,過去把持というはたらきが 生き生きした現在における機能であることを示すために「知覚」という語が使用 346.

(11) 34. されたと言える。 また,想起と区別される「過ぎ去ること」の意識が過去把持と呼ばれるように なるのであるが,想起は「過ぎ去ったものを現在にもたらす(現在化せしめる vergegenwえrtigen)」作用であるのに対し,過去把持は過ぎ去ったものの「過ぎ 去ることを意識していること」である。このように,生き生きした現在における 機能としての過去把持が,「過ぎ去ることを現在のうちに保持する」のであるが, そのような意味で,過去把持とほ「過ぎ去ること」を「見ること」である。われ われは過去把持が「過ぎ去る三豊」を保持するということに注意しよう。それに 対して,「なお捉えて保持すること」ほ,過去把持的に保持された「過ぎ去るこ と」という意味を与えられたもの(例えば,過ぎ去った音)に関わっているので あり,そのようなもの・対象を「なお捉えて保持すること」であると言うことが できよう。「過ぎ去ることを保持すること」という表現が「なお捉えて保持する こと」と混同される恐れのある表現だと言われるならば,K.ヘルトの言葉を借 りてを「滑り去るにまかせること(entgleitenlassen bzw.Weggleitenlassen)」 と呼ぶことができる(26)。そして,この「滑り去るにまかせる」ことは「なお捉 えて保持すること」に原理的に先立つ。つまり,「滑り去るにまかせること」に よって「過ぎ去ること」が意識されるからこそ,「過ぎ去るもの」を「なお捉え て保持すること」ができるのであって,その道は成り立たない。 では,われわれの求めてきた「未来の意味を所持する仕方」としての未来予持 とは何か。われわれは,ここで次のように答えることができる。それは,「到来 することを現在のうちにあらかじめ保持すること」であり,「到来すること」を 「見ること」だ,と言うことができる。また,「滑り去るにまかせる」に対応し た言い方をすれば,「滑り来るにまかせること」によって「到来すること」を意 識することが,「未来の意味を所持する仕方」であると言うことができよう。予 期することの可能性の条件として,われわれは「類型的親しみ」のほかに,「未 来の意味をもつこと」を挙げた。そしてここで,この「未来の意味をもつこと」 が,生き生きした現在における「到来することの保持」ないしは「滑り来るにま かせること」としての未来予持であることが見出されたのである。. 3 未来予持と未来の意味. 3.1原印象の原産出と未来予持 この次元での未来予持と過去把持についての考察ほ,フッサー′レの初期時間論 345.

(12) 35. における「原印象の原産出」に関する議論の検討を必要とする。原印象が原産出 であるということを『時間講義』からの引用を通じて明らかにしていこう。 「変様は絶えず次々に新しい変様を産出する。原印象はこの産出の絶対的端緒 であり,源泉であって,そこから他のすべてのものが絶えず産出される(sich erzeugen)のである。しかし,原印象自身ほ産出されほしない。原印象は産出. されたもの(Erzeugte)として生じるのではなく,自発的(自然的)発生 (genesis spontanea)によって生ずるのであり,原印象は原産出(Urzeugung) である。それほ何かから成長する(erwachsen)のでほなく(それは胚子をもた ない),それは原創造(Ursch6pfung)である」(27)。 では,「原産出」あるいほ「自発的発生によって生ずる」とは,いったいどの ような含みをもつのであろうか。 「何かが持続している場合には,aはⅩa’へ,Ⅹa’はy x’a”へ順次移 行する。しかし意識の産出ほ単にaからa’へ,Xa’からⅩ’a’’へ進むに過 ぎない。それに反して,a,Ⅹ,y,は意識の産出物(Bewu瓜tseins−Erzeugte) ではなく,根源的に産出されたもの(Urgezeugte),『新しいもの』(Neue)で あり,意識自身の自発性によって産出されたものと対比させて言えば,<意識と. は無関係に生成し,感受されたもの(das bewuiitseinsfremd Gewordene, Empfangene)>である」(28)。 原印象が意識の自発性によって産出されたのではないということが,原産出と いうことなのであり,自発的発生ということも意識の自発性と対比されて使用さ れているのである。では,意識の自発性とほどのようなことかと言えほ,「意識 の自発性は根源的に産出されたものを成長させ,発展させるだけであって,何一 つ『新しいもの』を創造したりしないのであり,それが意識の自発性の特徴であ. る」(29)。この「意識の自発性」ほ,高次の能動性としての自発性であるばかりで ほなく,意識・自我の関与が見られるほたらきすべてを含んでいると言える。と いうのも,ここで引用した箇所の「意識の産出は単にaからa’へ,Ⅹa’から x’a”へ進む」ということは過去把持のはたらきのことを言っているのである から,ここで言う「意識の自発性」は当然,過去把持(そして未来子持)を含ん でいることになるからである。こうして,この「意識の自発性」の中には過去把 持も未来予持も含まれるということになるが,そうすると,このとき以下のこと が問題となってくる。 われわれが追究する次元での過去把持ほ,「過ぎ去ったということを自体所与 344.

(13) 36 にもたらすこと」であった。だが,過去把持において自体所与にもたらされる「過. ぎ去るということ」は,過去把持によって引き起こされた事態(意識の自発性に よって産出されたもの)でほなく,これは原印象の「意識とは無関係な生成」に 由来する。原印象aが原印象xにとって代わられるとき,原印象aは「過ぎ去る」 のだが,この「過ぎ去ること」は過去把持が産出したものではなく,ただ過去把 持されるだけである。過去把持は,「原印象が転化し滑り去るにまかせる」だけ である。また,われわれが先に取りあげた意味での未来予持は,いまの例で言■え. は,原印象xの「到来することを取りおさえること」である。ここで言われてい る「到来すること」も,やはり,未来予特によって引き起こされたもの(産出さ れたもの)ではなく,まさしく原印象の自然的生起・到来であり,「新しいもの の生成・到来」である。原印象へ転化し「滑り来るにまかせること」だけが未来 予持のはたらきだと言わねばならない。すなわち,「到来すること」・「過ぎ去 ること」は,「滑り来るにまかせること」・「滑り去るにまかせること」に原理 的に先立つのである。「到来する」から「滑り来るにまかせること」ができ,「過 ぎ去る」から「滑り去るタこまかせること」ができるのであって,その逆ではない。. ここで,これまでの論述を簡単に振り返ることにしよう。まず,未来予持・過 去把持に以下の二つの機能が見出され,区別された。 (l)「あらかじめとらえて保持すること」・「なおとらえて保持すること」 =能動における受動,予科的未来予持・地平を形成する過去把持 (2)「到来することの保持」・「過ぎ去ることの保持」 =「滑り来るにまかせる」・「滑り去るにまかせる」 この区別の検討を通じて,この(2)こそが「未来の意味を所持する仕方」,「過 去の意味を所持する仕方」であるということが指摘されたのであった。そして,. この「到来することの保持」が,「原印象の生成・到来」の保持であり,原印褒 の到来することを「滑り来るにまかせつつ一保持すること」であることが見出さ れたのであり,同様に「過ぎ去ることの保持」が,原印象の「過ぎ去ること」の 保持であり,原印象が転化し過ぎ去ることを「滑り去るにまかせつつ一保持する こと」であることが見出されたのであった。そして,ここで留意しなければなら なかったのは,以下のことである。「到来すること」・「過ぎ去ること」が原印 象の「生成」の二つの動的契機であること。われわれの追究してきた意味での未 来予持・過去把持が,勝れて現在化的な「原印象の生成」にいわば「立ち会って いる」ということ。そして,それにもかかわらず,原印象の生成と未来予持・過 343.

(14) 37. 去把持との間にほ,前者が後者に原理的に先立つという意味で差異があること。 これらのことを心に留めながら,考察を前に進めることにしよう。 3.2.ヘルトの「未来予持」批判. ここでわれわれが参照しておきたいのは,未来予持概念に関してK・ヘルトが 行っている批判である。彼は,フッサールの「未来予持」が予期のうちで枚能す るはたらきであることほ認めるが,かえってそのことによってフッサールは「未 来の本質」を見逃してしまっていると批判する。では,ヘルトの考える「未来の 本質」とは何なのだろうか。彼の批判を見ていくことにしよう。 「さて,予期と予期の先行形態としての直接的な未来予持的待ち受け (Gew孟rtigen)とが存在するということには,疑いの余地はない。それに対して・ フッサールの気づかなかったことは,彼の主張する未来予持が絶え間のない遂行 現在(Vollzugsgegenwart)の到来性に関する意識の原本的形態ではないという. ことである。このことほ,未来予持の理論は新しいものあるいは突然のものにつ いての意識を解明できないとして,フッサールの批判者たちによってすでに何度 も警告された事情によって知ることができる。未来予持は未来の意識を基礎づけ るべきである。不意打ちという性格(tJberraschungscharakter)が未来の本質 的部分を形成しているのであり,予期されたもののもつ過去把持的に可能とされ た先既知性が未来の本質的性格を形成するのではないのである。単に,未来子持 的に前もって保持された退去性(Weggangigkeit)としてのあらかじめ知られた. 未来だけが,絶え間のない移行性としての唯一の遂行現在の契機でほない。不意 打ち的な未来もまた,純粋な到来性(Ankdnftigkeit)として,このつねに現在 的な移行性の契機なのである」(30)。 ヘルトの強調する「未来の本質」とは,未来の「不意打ちという性格」である と言える。ただし,「不意打ちという性格」が「純粋な到来性」であり,「現在の 移行性の契機」であることに注意しよう。すなわち,確かにヘルトの表現に「不 意打ち=予期せざるものとの出会い」と思わせる面はあるにしても,ここで言う 「不意打ち」は,「予期せざるものに出会うこと」としての「不意打ち」とは区 別されねはならないことに注意したい。「予期せざるものに出会うこと」は,フ ッサールの予期の分析の中ですでに考慮に入れられ,「期待外れ」の現象として 扱われているからである。そして,そもそもそのような「期待外れ」や「幻滅す ること」が可能であるのは,未来予持的な「待ち受け」があるがゆえであること が論証されている(:il)。したがって,この「不意打ち」ほわれわれが期待通りのも 342.

(15) 3β. のに出会っているときにも認められる未来の本質的性格であると言わざるをえな い。われわれはつねに不意を打たれているのである。いずれにせよ,ここでは「不. 意打ち」という言葉に惑わされずに,未来の本質的性格とされたものが,「現在 的な移行性の契機」としての「純粋な到来性」であると規定されていることにこ そ注目すべきであろう。 確かに,「不意打ちという性格」=「純粋な到来性」は未来予持によって産出 されたものではないと言えよう。それは新たなもの・原印象の生起である。しか し,われわれが見てきたように,フッサールの議論の可能性ないしは潜在的射程 を考慮に入れれは,未来予持ほ原印象の生起を「滑り来るにまかせること」なの である。したがって,「未来予持が絶え間のない遂行現在の到来性に関する意識 の原本的形態ではない」という批判ほ,先に述べた(1)の意味での未来予持だ けを「未来予持」と解するならば有効であるが,(2)の意味での未来予持には 当てはまらないと言うことができよう。(2)の未来予持は,絶え間なく転化す る原印象の「到来すること」に関する意識であるからである。未来予持は,「予 期の先行形態」・「到来するものの待ち受け」であるばかりではなく,まさに「絶 え間のない遂行現在の到来性に関する意識の原本的形態」でもある。このことこ そ,本論考でわれわれが主張してきたことであった。とはいえ,ヘルトのこの批 判ほフッサールが語り残していたことを的確に指摘し補足した内在的批判である と言うことができる。彼の批判は,(2)の意味での未来予持にフッサールが「気 付かなかった」ことを批判しているのであって,「遂行現在の到来性の原本的な 意識」としての(2)の意味での未来予持を要求していると解することもできる。 また,彼は「到来性に関する原本的意識」とほ別に,未来の本質を「現在的な移 行性の一契機」としての「到来性」に見出そうとするのであるから,彼の批判的 主張のうちにも,未来予持と「到来すること」の差異が姿を現していると言うこ とができる。 「未来予持的に前もって保持された退去性としてのあらかじめ知られた未来」 というヘルトの言葉に,彼の批判する未来子持が予料的未来予持であることが表 れている。過去把持・未来予特に原理的に先立つ「原印象の生成」が例外なく過 去把持されることに注意しよう。過去把持においては,「原印象の過去把持的変 様」が保持され(第一の過去把持),その過去把持がまた過去把持されて,過去 把持の過去把持(第二の過去把持)が形成されるのだが,そのとき,「二番目」 の過去把持のうちにほ,「原印象の変様」とそれを取りおさえる第一の過去把持 341.

(16) 39. のほかに,「原印象の生成」とそれを取りおさえる未来子持が必然的に保持され ていることに注意したい。そのように未来予持が過去把持されるがゆえに,われ われが生き生きナした現在に事後的に反省を加える場合には,未来予持を通して告. げ知らされる「到来すること」は,必然的に「到来した」という完了形で与えら れるほかはないのである。 したがって,予期という現象を反省的に考察するときには,未来意識は「到来 した」というかたちですでに過去把持のなかに保持されており,このように保持 された未来予持だけが「未来予持」と見なされるとき,その未来子持は「裏返し の過去把持」と特徴づけられることになるのである。過去把持された未来予持だ けが「裏返しの過去把持」である。「裏返しの過去把持」という規定は完全に誤 りというわけではない。というのほ,「未来予持の未来子持」といった未来予持 の連続,そしてそれによって形成される未来地平は,確かにそのつどの一回限り の未来予持が過去把持によって保持されることによって形成されるからである。 過去把持的に保持された未来予持にほ「裏返しの過去把持」という言い方も当て はまる。そして,これこそ未来地平を開いている未来予持であり,つまりは予料 的未来予持であると言うことができる。過去把持的に保持された未来予特に反省 の目を向けるとき,未来は未来地平としてあらかじめ知られたものと映るのであ り,「前もって保持された退去性」と見なされることになる。 しかし,われわれの求める次元の未来予持にほこの規定は当てはまらない。そ. れほ,「到来することを滑り来るにまかせつつ−保持すること」としての未来予 持ほ,そのつど一回限りの未来予持であり,つねに「開始相」における未来子持 だからである。われわれがなんとしても忘れてほならないのは,過去把持と未来 予持の決定的相違である。過去把持が「過ぎ去ること」に関わるのに対し,未来 予持は「到来すること」に関わる。われわれが求めてきた「未来の意味」ほ「到 来すること」にあり,そして未来予持はその「到来すること」に関する意識であ る。 ここで以下のような批判が予想される。その批判への応答を通じて,「到来性 ・退去性」と「未来予持・過去把持」の「差異と合致」に関して考察を加えるこ とにしよう。その批判とほ次のようなものである。ここで考察されている意味で の「過去の意味をもつ仕方」,「未来の意味をもつ仕方」が,なぜ過去把持 Retention,未来予持Protentionと呼ばれるのか,つまりなぜなにものかを「(再 び)取りおさえておくこと」,「予め取りおさえておくこと」なのか,「取りおさ 340.

(17) 4∂. えておくこと」・「予め取りおさえておくこと」ほ「なお捉えて保持すること」 や予科にこそふさわしい呼称ではないか,と言われるかも↓れない。この反論に ほ次のように答えることができよう。ここで「取りおさえられる」のは,「なお 捉えて保持すること」や予科とほ異なり,対象や出来事などの対象性としての「も の」でほなく「過ぎ去る三豊」や「到来する三豊」である,と答えることができ よう。だがさちに,「取りおさえる」といった能動的なはたらきを思わせる表現 は,純粋に受動的(原受動的)な次元の事象の記述忙は不適当ではないか,と批 判されるかもしれない。これに対しては次のように答えることができよう。確か に,そこに自我ないしほ主観性が自発的に関わることはできない。また自我の憤 向といった意味でも自我が関与しているわけでもない。われわれが追究してきた 意味での未来子持・過去把持ですら,その動態を「動かしている」原動力ではな いし その動態をひきとめることもできないb このことを表すためには「取りお さえる」という言い方よりも,やはり「滑り去るにまかせる」という表現のほう が適当であろう。 だが,ここで注意すべきは,確かに原受動的な次元には自我の関与ほいかなる 意味でも認められないのでほあるが,しかしそこに自我がまったく居合わせない わけでほないということである。到来性と退去性はそれ自体が構成された「未来」 や「過去」であるわけではないが,もしそこに自我がまったく居合わせないとし たら,未来も過去もそして現在も,これらすべては全くなにものでもない無とい うことになってしまうだろう。 「t・・最も受動的[原受動的]な<流れること>でさえも,,自我が単純にそれに 屈服させられてしまうような非一自我的な動きでほありえないのであり,こうし. たことは,『滑り去るにまかせる(entgleitenlassen)』とか『脱現在化 (entgegenwartigen)』という概念によってほのめかされていた」(32)。 「流れること」という原受動的な次元の事象,つまり到来性と退去性に自我が 居合わせ,それを感灯していることを,ヘルトは「甘受(Hinnahme)」(33〕と言 い表している。われわれは,「流れること」に曝され,それが「流れ来たり,流 れ去るにまかせ」,それをどうすることもできずに受け容れる(hinnehmen)ほ かはない。だが,その「受け容れ・甘受」においてわれわれほ「流れること」を 何らかの仕方で了解していることも事実である。われわれの探究してきた未来予 持・過去把持と到来性・退去性との合致(差異をはらんだままの合敦)は,この 現在における「甘受」という意味で理解される必要があると言うことができよう。 339.

(18) JJ. 結びに代えて われわれは,「未来の意味を所持する仕方」を「到来することの甘受」に見出 した。この立場から「未来の本質とは何か」という問いに答えるならば,それは 「到来すること」であるというものになろう。しかし,ここでわれわれは自らを 反省してみなければならない。われわれほ,つねに現在からみた未来,意味をも つと前提された未来を問うてきただけではないか,と。この反省を促すもののひ とつは,死の問題である。死ほやほり未来の「出来事」であろう。しかし,死と はそもそも何ものも「到来しないこと」ではないのか。「未来の意味を所持する 仕方」を生の現在における甘受に,未来を「到来すること」に見るわれわれは, この間いにいかに答えることができるのだろうか。その答ほ,死は「到来しない こと」が「到来すること」である,というものである(34)。われわれの立場から可 能なのほ唯一この解答のみである。甘受される「到来すること」を未来の意味と見 なすわれわれは,「到来しないこと」を「到来しないことの到来すること」という「不 可能性の可能性」と理解するほかはない。甘受ほ,原受動的ではあっても,何らかの 仕方で「気付くこと」であり,それゆえ可能性であるからである。 だが,本論におけるわれわれの考察が,「未来」とは「意味あるもの」であるという ことを前提としたものであったことをここでも思い起こすべきであろう。したが って,この前提ないしは立場を変えるならば,別の解答も可能なのである。それは, 死は「到来すること」が「到来しないこと」である,というものである(35)。ここでは, 死そして未来そのものほ「到来しないこと」と特徴づけられる。つまり,未来の 本質ほ「到来しないこと」であると言われているのである。この「到来しないこ と」は,未来が「意味のないもの」であることを,正確には,未来が「意味ある もの」の「外部」ないしは「他なるもの」であることを意味している。そして, このことが本論のはじめに述べられた「未来ほありとあらゆる意味で存在しない」 ということの深い次元での意味である。こうしてわれわれは,はじめに述べられ たもうひとつの「未来に対する態度」の深層へ導かれていく。でほ,「意味ある ものの外部・他なるもの」としての「未来」に関していったいいかなる言明が可 能なのか。そもそも通常の意味での言明ほ可能なのか。ここでわれわれは一端筆 をおくほかほない。この思索,すなわち「未来とは到来しないことである」とい うことから出発する思索の歩みがいかなる展開を示しうるか,ということに関し ては稿を改めて論ずることにしたい。 338.

(19) 42. 註.. (1)Ⅴgl.Husserl,E.,Edbhrungund【hlei〔以下EUと略記〕,6.aum, (Hamburg,Felix Meiner,1985),S.205f. (2)Husserl,E.,Ana&senzwPassivenSynthesis,ガ揖SerhanaBd.XI,(Den,Haag, MartinusNijhoff,1966)〔以下HuXIと略記〕,S.187, (3)Vgl.EU,SS.136−140. (4)EtJ,S.32.なお,< >は読みやすくするために筆者が補足したもの。以下同. 様。 (5)EU,S.32. (6)EU,S.172. (7)EU,S.136. (8)HuXI,S.290. (9)もちろんこの現在の関心も,未来への関心があればこそ惹起されていると言うこ とはできる。そして,このことはわれわれの予期,さらに一般的にほ認識,行為 の目的論的性格を考察する際に,重要な論点となるものである。しかし,本稿の 考察対象である「時間様態」を問題にする際には,関心が直接にほどこに向かっ ているのかを正確に捉える必要がある。ここの例においては,現在への関心に未 来への関心が先立っていると言えるけれども,直接の関心は現在に向かっている。. (10)HuXIナS.187. (11「Vgl.Hussegl,E.、ZtLr PhG170TltElnOZ(画1dcs(Tu7e7rlT Z(i(b(l(lt(L!ね((T7S(I893−. 19I7),肋sserlhmaBd.X〔以下HuXと略記〕,(I)enHaag,MartinusNijhoff, 1966),S.83.(『内的時間意識の現象学』,立松弘孝訳,みすず書房,109貫)な お,訳語統一などの都合上,訳文を一部改変している箇所がある。訳者諸氏のご. 寛恕を乞いたい。以下同様。 (12)Hu XI,S.290. (13)この表現は,以下のフッサールの言葉から,彼の思想における想起と予期の関係 をまとめたものである。「われわれは未来予持を,前に投げられた影,突き出さ れた想起と呼んだ」(HuXl,S.289.)。. (14)Merleau−Ponty,M.,m勿omdnoLbgiedeh2Pe噂tion(Paris,Gal1imard,1945) p.473.(F知覚の現象学』2,竹内他訳,みすず書房,310貢以下) (15)Hu X,S.52.(邦訳70頁). (16)Vgl.Held,K.,Lebendige GegenwaYi[以下LGと略記〕(Den Haag,Martinus N毎hoff,1966),S.39.(『生き生きした現在』,新田他訳,北斗出版,60頁) (17)Hu XI,S.86.. (18)Vgl.Held,KりLG,S.40.(邦訳60頁). 337.

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参照

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