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アメリカ憲法理論におけるデッド

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(1)アメリカ憲法理論におけるデッド. 目次. デッド・ハンドの不可避性. 阪口正二郎﹃立憲主義と民主主義﹄とデッド・ハンドの問題. 序論. 第一章. 翻訳理論とζ一9器一5巽ヨ彗の批判. インフォーマルの憲法修正とζ一9器一困貰Bきの批判. 屋. ハンドの問題 ●. 土. デッド・ハンド支配の緩和ーインフォーマルの憲法修正と翻訳理論によるー. 第二章 第三章. 第一節 第二節. 第二節. 民主主義を可能にする憲法典. 清︶. 第四章 デッド・ハンド批判への応答 第一節 憲法典の明示する原理の妥当性からの応答. 第三節. ﹁人の支配﹂ではなく﹁法の支配﹂. 時間を越えた自己統治. 黙示の承諾. 特別多数要件について. デッド・ハンドの正統性の擁護 黙示の批准. 第四節 ︵一︶ ︵二︶. 第五節 第五章. ・ハンドの問題︵土屋 アメリカ憲法理論におけるデッド. 四三. 清.

(2) 前提−民主主義も立憲主義も. 考察. 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. 第六章. 第一節. 憲法修正レベルでのデッド・ハンド批判. 立法レベルでのデッド・ハンド批判. 第二節 デッド・ハンド批判の二つのレベル ︵一︶. 最後に1結論と課題. ︵二 ︶. 第三節. 序論. 一四四. デッド・ハンド︵畠毘−富&︶とは︑﹁死者の手しのことである︒この言葉は︑﹁ー特に抑圧的である場合のー ︵1︶ 死者の生者に対する影響力ないしは過去の現在に対する影響力﹂を意昧する否定的ニュアンスのある概念である︒. アメリカ憲法理論の文脈では︑現在この世に生きている者の決定が︑とっくの昔に死んでしまった者の決定によっ. て拘束されるという事態を否定的に評価する概念として用いられる︒従来︑現在の我々による支配を否定して過去の ︵2︶ 死者による支配を招来するとして非難されてきた憲法理論の典型は︑始原主義︵9嬉き房B︶であった︒始原主義と ︵3︶ は︑端的に言えば︑憲法典の意味が憲法典制定時に固定されたと考える立場のことである︒例えば︑一九八O年代の. 始原主義論争を総括する論文として有名なUき邑評吾震の一九八九年論文の冒頭で引用されるζ¢旨昌O貸論文は︑. 一九八五年に火花を散らした始原主義者である司法長官因謁pζ8器と非始原主義者である最高裁判事葦一鼠ヨ ρ⇒との論争について次のように評価している︒ ωお99. ωお言き判事とその支持者にとって︑選択肢は︑過去の者のデッド・ハンドによって支配されるか︑生きている.

(3) 現在の者によって支配されるかである︒ζΦΦωΦ司法長官とその支持者にとって︑選択肢は︑法が何であるかを述べ ︵4︶ るという自らの仕事を行う裁判所か︑法や政策を形成するという立法部の仕事を行う裁判所かである︒. このように非始原主義の陣営は︑始原主義論争の始まった頃から︑始原主義に対してデッド・ハンド批判ーデッ. ト・ハンド論に基づく批判ーを行ってきたのである︒囚①一9ミ鐸ぎ讐9によれば︑始原主義に向けられたデッド・. ハンド批判というのは︑﹁始原主義は︑憲法典を不当に硬いものとみなし︑現在の世代に対して先行世代の時代遅れの ︵5︶ 意見を課すものであるが故に︑憲法解釈の方法として採用できない﹂というものである︒こうした議論に対して︑始. 原主義の陣営は︑応答を迫られてきたのである︒例えば︑著名な憲法学者をパネリストとして招き︑始原主義論争を. 網羅的に再検討した一九九五年のフェデラリスト協会主催のシンポジウム﹁始原主義︑民主主義︑及び憲法典﹂の最. 初のパネルは︑﹁始原主義とデッド・ハンド﹂の問題に当てられた︒シンポジウムの冒頭で︑ω8︿窪O巴筈お巴は︑こ のパネルの趣旨を次のように述べている︒. 最初のパネルでは︑或る世代が後の世代を拘束できるのが適切かどうか︑それはなぜか︑という↓ぎ目錺. 冷譲あ8と冨B8ζaδ9によって大昔に争われた問題を取り上げる︒換言すれば︑一体なぜ死者が生者を支配す. ることが正統なのか︑という問題である︒始原主義は︑他の全ての憲法理論と同様に︑死者が︑一定の状況におい. 清︶. 一四五. ては︑生者を拘束できるのが適切だ︑と仮定する︒最初のパネルでは︑この仮定が正しいかどうか︑そして︑もし ︵6︶ 正しいとすれば︑なぜ死者がこうした権能を与えられるべきなのか︑が検討される︒. アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(4) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. 一四六. しかしながら︑直前の引用文中にもあるように︑一定の状況において死者による生者の支配を肯定することは︑始. 原主義の専売特許ではない︒近時では︑このデッド・ハンド批判は︑広く立憲主義を標榜する憲法理論全般に向けら. れていると考えられているのである︒召9艶ζ80馨窪は︑次のように述べる︒. 立憲主義を唱道する者が答えなければならない最初の問題は︑なぜ今日のアメリカ人が約一二二年前の人々の決. 定に拘束されるべきなのか︑というものである︒制憲者及び批准者は我々を代表しなかったし︑我々がカソリック. 教徒︑ユダヤ人︑女性︑黒人︑貧困者であるとすれば︑多くの場合︑我々のような人々を代表してさえいなかった︒. 彼らの側の権威主張にとって最も痛烈なものは︑制憲者と批准者は︑とっくの昔に死んでいるというものである︒. なぜ︑今日の人民は︑彼らの決定によって︑我々が適合的だと考えるように自分たちを支配することを妨げられる. のか︒これは︑一般に﹁デッド・ハンドの問題﹂として知られている︒大抵の場合︑デッド・ハンド論は︑始原主. 義を狙い撃ちにする⁝⁝︒しかし︑実際には︑もしデツド・ハンド論が受け入れられるとすれば︑それはどんな形. 態の立憲主義にとっても致命的なのである︒どの程度に我々の現在の決定が⁝⁝憲法典によって規定され又は束縛 ︵7︶. されるのかに関わらず︑我々は︑過去のデツド・ハンドに支配されているのである︒このことは︑どのようにして 正当化されるのか︒. こうしたアメリカの議論状況を踏まえて︑デッド・ハンドの問題を立憲主義と民主主義との問の緊張関係を示す典 ︵8︶. 型的な事例として︑日本の憲法学に紹介したのが︑阪口正 一郎が二〇〇一年になって公刊した主著﹃立憲主義と民主 主義﹄である︒同書の内容は第一章で概説する︒.

(5) 本稿でデッド・ハンドの問題を取り上げる上での主たる関心は︑阪口の著書の文脈とほぼ同じである︒すなわち︑. 立憲主義は︑民主主義からのデツド・ハンド批判にどのように応じるのかが本稿の主題である︒. 次に︑本稿の副次的関心は︑憲法改正論にデッド・ハンド論を援用する議論が見た目以上には説得的ではないとい. うことを示すことにある︒デッド・ハンドの問題が憲法改正をめぐる論議と少なからぬ関わりがあることには疑いの. 余地はない︒日本の場合についていえば︑日本国憲法の制定から既に半世紀以上が経過した現在︑憲法制定を体験し. た日本国民よりも︑制定時にはまだ生まれていなかった日本国民の方が︑遥かに多くなっている︒その一事をもって. しても︑デッド・ハンドの議論は︑現行の日本国憲法は現在生きている自分たちが作ったものではないから新しい憲. 法を作るべきだ︑または少なくとも憲法改正を行うべきだという議論に結びつく可能性がある︒加えて︑特に︑日本 ︵9︶ 国憲法の場合には︑内容の民主性はともかくとしても︑その前文の叙述にも拘らず︑制定時におけるGHQの介入︑. 大日本帝国憲法所定の憲法改正手続の遵守︵天皇︑枢密顧問︑貴族院などの関与など︶︑審議の非公開性などといっ. た手続的な非民主性が自明であり︑デッド・ハンドの問題以前に︑憲法典が民主的決定の所産であることを疑問視す. る土壌がある︒こうした観点から根強く主張されてきた押し付け憲法論ないしは自主憲法制定論といった憲法改正論. は︑今後︑時代が進むにつれて︑日本国憲法に対するデツド・ハンド批判を利用する形で︑新しい世代をその陣営に. 取り込んでいくだろうことが予測される︒換言すれば︑デッド・ハンド論に基づく憲法改正論は︑憲法典の民主的正. 統性︵号ヨOR善巳畠獣ヨ8賓︶に疑問を投げ掛ける点で従来の議論と共通しているため︑従来の議論によって培われ た土壌には︐馴染み易いものだといえるのである︒. 一四七. また︑憲法典には民主的正統性がないというこうした主張に基づいた憲法改正論とはやや次元の違う主張として︑ アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(6) 早稲田法学 会 誌 第 五 士 二 巻 ︵ 二 〇 〇 ⁝. 一四八. 憲法改正要件の緩和が主張されることもある︒この問題もデッド・ハンドの議論に大きく関わっている︒日本におい. ては︑憲法改正の発議に当たって国会の﹁各議院の総議員の三分の二以上の賛成﹂︵日本国憲法九六条一項︶が要求. される︒こうした﹁硬性憲法﹂のシステムは︑議会多数派のみならず国民多数派が憲法改正を望む場合においても︑. その意思に反して憲法改正を妨げる効果をもつ︒実際︑いわゆる五五年体制の下で︑憲法改正を主張する与党の自由. 民主党が︑長期にわたり衆参両院で過半数を遥かに超える議席を獲得していながらも憲法改正の発議すら実現できな. かったのは︑1当時の選挙制度が現在に比べればかなり少数代表法的だったとはいえ1日本において憲法改正の. 要件を充足することがいかに難しいかを物語っている︒つまり︑硬性憲法のシステムは︑立法のレベルだけでなく憲. 法改正のレベルにおいても︑憲法典に祀り上げられた過去の多数者が抱いた意思や価値を︑現在の多数者の意思や価. 値から守る効果を持つのである︒このあたりの事情は︑日本国憲法とは異なるがやはり特別多数要件を規定するアメ. リカ合衆国憲法においても問題になる︒例えば︑Oぼ奪09R固ω讐昌震は︑次のように述べる︒. 思慮深い学者たちが︑アメリカの立憲主義は非民主的であり従って望ましくない︑と非難してきた︒これらの批. 判者は︑憲法典が﹃過去のデツド・ハンド﹄に権力を付与していると主張することによって︑自らの主張を行うこ. とがある︒こうした関心を理解するのは容易ではない︒憲法典は︑制度や原理を改革からエントレンチする︵※変. 化に晒されない場所にしまい込んで防護する︶︒憲法修正は︑合衆国議会の両院の三分の二の多数又は特別の全国的. 会議によって発議されなければならず︑その上で︑諸州の四分の三によって批准されなければならない︒結果とし. て︑合衆国議会を制する政党及び連立政党は︑とっくの昔に法制化された憲法上のルールによって︑自らの提示す. るアジェンダが挫かれてしまうということを認識する︒合衆国は︑とっくの昔に死んでしまった世代が今日生きて.

(7) ︵10︶. いる人々の行動を拘束するのを認める憲法ではなく柔軟な憲法を有していたとすれば︑ もっと民主的だったのであ ろうか︒. 田ω讐暮震自身は引用文中の最後の疑問文には否定的に答えるが︑今はその議論には触れない︒ここで確認しておく. べきことは︑憲法改正手続の難易の問題もまた本稿の主題であるデッド・ハンドの問題ないし︑立憲主義と民主主義 の間題と大きな関連性を有しているということである︒. 第一章阪口正二郎﹃立憲主義と民主主義﹄とデッド・ハンドの問題. 本章では︑本稿にとって貴重な先行業績にあたる阪口正二郎の﹃立憲主義と民主主義﹄において︑デッド・ハンド の問題がどのように扱われているのかを確認しておきたい︒. 同書の特色は︑司法審査が民主主義の観点からどのように正統化されるのかという従来のアメリカ憲法理論のト. 1︶. ピックを︑立憲主義が民主主義の観点からどのように﹁正当化﹂されるのか︑というヨリ高次の間題として捉え直し ︵1 た点にある︒松井茂記の一九九一年の著作のタイトルが﹃司法審査と民主主義﹄であったのに対して︑その一〇年後. の阪口の著作のタイトルが﹃立憲主義と民主主義﹄であるのは︑そのことを象徴的に示している︒まず阪口の著作の 中で︑トピックが前者から後者へと移行する過程を確認しておこう︒. 一四九. 司法審査と民主主義とを対立的に捉える議論として阪口が取り上げるのは︑≧Φ着邑段田良①一の﹁反多数者主義の. 清︶. ︵12︶ 難点﹂︵8⊆段震白ao葺畳きq臣S一蔓︶の議論であるQ. アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(8) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. ︸五〇. 根本的な難点は︑わが国のシステムにおいて司法審査が反多数者主義的な力だということである︒⁝−最高裁判. 所は︑立法部の行為や公選の執政部の行為を違憲だと宣言するときには︑現在この世にいる現実の人民の代表者の ︵13︶ 意志を妨害しているのである︒⁝⁝そういう訳で︑司法審査は非民主的だという非難を行うことが可能なのである︒. つまり︑匪民巴によれば︑司法審査は︑現在の多数者の意思決定を阻害するという意味で非民主的なのである︒. 次に︑阪口は︑司法審査の民主的正統性︵阪口のいう﹁正当性﹂︶の問題に応答する試みの一つとして︑始原主義. ︵阪口のいう﹁原意主義﹂︶を取り上げる︒ここで念頭に置かれている始原主義の論理によれば︑﹁憲法典は多数者の. 意思に基づいて制定された法であり︑多数者の意思の表明であるとされる立法を︑より権威ある多数者である憲法制. ︵14︶. 定者の意思に基づいて違憲と判断しても︑それは多数者主義の観点からは何の問題もないはずだ﹂︑ということにな. る︒こうした始原主義の応答に対して︑阪口は︑始原主義批判の為に︑前門の虎を一匹と後門の狼を二匹用意した︒. 前門の虎というのは︑始原主義の不確定性︵一且9R巨富亀︶と呼ばれる議論のことであり︑一匹目の後門の狼は︑始 ︵15︶. 原主義における先例法理の援用に関わる議論︑すなわち︑始原主義者が自らの立場を穏健化する際に補足的に援用す. る先例法理が︑始原主義の本体を蝕むことになるという議論のことである︒これらの二匹は︑阪口の議論にとっては. 大して重要な役割を果していない︒阪口が始原主義の致命的なものとして最も重視するのは︑二匹目の後門の狼であ る︒. この二匹目の後門の狼が本稿の主題である﹁デッド・ハンド﹂批判である︒阪口が参照するζ一3毘困巽日きの議 論は次のようなものである︒.

(9) 始原主義者は︑非公選の遠隔的に説明責任を負う裁判官が︑自分自身の主観的な価値判断に基づいて︑民主的に. 制定された立法を無効にするのは反民主的だと主張する場合が多い︒しかし︑現在の多数者が二〇〇年以上も前に. 憲法典に祀り上げられた価値によって支配されることも︑等しく反民主的である︑と言い返す者もいるだろう︒す. なわち︑憲法始原主義者は︑司法部の主観性︵冒9︒芭霊豆①亀≦蔓Vという問題をデッド・ハンドの問題に単に置 ︵16︶. き換えたにすぎないのである︒どちらの解釈方法論も︑反多数者主義的だという非難にさらされる︒. こうした困震Bきの議論を援用することで︑阪口は︑始原主義について︑﹁民主主義を根拠にした主張である限り︑ ︵17︶. それはそもそも内在的に破綻した主張であり︑司法審査の正当性の問題に対する応答としては失敗していると評価せ ざるをえない﹂︑と述べる︒. さて︑ようやく﹁立憲主義と民主主義﹂の問題が登場する︒阪口は︑次のように述べる︒. 本書のように︑原意主義に対して死者による支配の問題を指摘するのであれば︑問題は司法審査と民主主義の対. 立に尽きず︑立憲主義と民主主義の対立にまでさかのぼる必要が生じる︒なぜなら︑死者による支配という問題は. 原意主義にのみつきまとう問題ではなく︑広く立憲主義につきまとう問題であるかもしれないからである︒成文憲. 法を制定するということは︑ある世代が将来の世代の行動を拘束することを意味するはずであるし︑近代立憲主義. は﹁人権﹂という多数者によっても侵しえない価値を憲法を通じて保障する考え方であるはずである︒だとすれば︑ ︵18︶. 一五一. そのような立憲主義は多数決主義として理解される民主主義とは鋭い緊張関係に立つはずであり︑はたして立憲主. 清︶. 義は民主主義との関係で正当化可能なものなのかどうかが問われることになる︒ アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(10) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. 一五二. このようにして︑阪口は︑デッド・ハンドの問題を媒介にして︑﹁司法審査と民主主義﹂の間題から﹁立憲主義と民 主主義﹂の問題へと議論を拡張したのである︒. この後︑阪口は︑冨箋窪8ω轟輿の議論を参考にして︑立憲主義と民主主義とを連結させる戦略として︑憲法典 ︵19︶. の起源に着目して憲法典が民主主義の所産であると説く戦略と︑憲法典の内容に着目して憲法典が民主主義を実施し. 完全にすることを目的とするものだと説く戦略を区別する形で議論を展開していく︒前者の戦略としては︑上述のよ. うな始原主義と国控8︾畠霞B昏の二乖王義的民主主義論が検討され︑後者の戦略としては︑冒ぎ田くのプロセス理. 論︑それを洗練させたとされる困貰ヨ磐の﹁反エントレンチメント﹂論︑ωけ8げ9=o巨窃のプリコミットメント論. が検討される︒細部の議論は割愛するが︑阪口は︑立憲主義を民主主義の観点から正当化する議論としては︑特に. 困巽B磐の議論を高く評価する反面︑民主主義の観点から立憲王義を正当化しようとすると立憲主義の射程が極端に 狭くなってしまうという結論に至り︑次のような問題提起を行う︒. 寅再ヨきの作業は︑﹈﹁反多数決主義的であること﹂がなぜそもそも﹁難点﹂とみなされるべきなのか︑逆に﹁多. 数決主義的であること﹂こそが﹁難点﹂ではないのかという問いを誘発することになろう︒そして︑こうした形で ︵20︶. 多数決主義それ自体の正当性が真正面から問い直されるとき︑それは紛れもなく﹇霞良色による呪縛からアメリ 力憲法学が解放される﹁始まり﹂の時を告げるものである︒. 結論としては︑阪口は︑﹁民主主義よりも立憲主義を﹂という立場を選択する︒問題は︑そうした選択を行うことで︑.

(11) 本稿の主題である﹁デツド・ハンドの問題﹂は不問に付されることになるのかどうか︑であろう︒. 第二章デッド・ハンドの不可避性. ︵21︶. 阪口は︑始原主義に対するデッド・ハンド批判に対して︑﹁﹇始原主義﹈の側からのいくつかの反論﹂として︑二つ. のものを取り上げる︒ 第一の反論は︑﹁デッド・ハンドの不可避性﹂を指摘する議論である︒阪口によれば︑この議. 論は︑始原主義がデッド・ハンドの支配を招来するということを承認した上での反論である︒第二の反論は︑憲法修. 正の可能性に基づく議論である︒すなわち︑憲法修正の可能性が開かれている以上は︑始原的意味1ー憲法制定時の. 憲法典の意味ーに従うことは︑デッド・ハンドの支配を意味するものではないという議論である︒阪口によれば︑. この議論は︑始原主義がデツド・ハンドの支配を招来するという批判それ自体が的外れのものだとするものである︒. 本章では︑叙述の便宜上︑前者の議論のみをデッド・ハンドの入口の問題として検討し︑後者の議論については後述 することとする︒. 阪口は︑上述のフェデラリスト協会のシンポジウムの第一パネルの二つの論稿を念頭において︑議論を展開してい る︒. 第一は︑U餌艮①一評吾震の論稿である︒霊ぎ震は︑デッド・ハンド批判に対して予想される始原主義者の応答とし て︑デツド・ハンドは不可避であるという次のような主張を取り上げる︒. ﹇始原主義は生者を犠牲にして過去の世代に不当に権能を与えるものであるという﹈始原主義批判に対する応答. 清︶. 一五三. の一つは︑単に︑いずれにせよデッドハンドは不可避だ︑というものである︒特に︑憲法典自体が︑或る意味にお アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(12) 早稲田法学会 誌 第 五 十 三 巻 ︵ 二 〇 〇 三 ︶. ︵22︶. いて︑デッド・ハンドの権能の行使なのである︒. 一五四. 要するに︑主張の骨子は︑およそ憲法典への忠節︵臣呂毫を説くはずの大抵の憲法理論はデッド・ハンドの問題. を抱え込むのだから︑始原主義だけが特別にデツド・ハンドの批判を被る理由はないというものである︒評ぎRは︑ こうした応答を次のように斥ける︒. こうした応答は︑憲法におけるデッド・ハンドの不可避性を示唆する点では正しいが︑始原主義が過去の世代に. 対して与える更なる権能を正当化するものではないので︑欠陥をもつ︒⁝⁝我々が文字通りに建築家によって創造. された構造の中に生きているのは確かである︒しかし︑建築家の意思が現実の建造物自体から⁝⁝区別される限り. において︑なぜ我々がそうした意思に配慮すべきなのかを述べるのは難しい︒⁝⁝始原的意思は︑デッドハンドが. 我々の生活に影響を及ぼすことの不可避性と容赦なく結びつくわけではない︒⁝⁝デツド・ハンドは不可避である︒. しかしながら︑始原主義は︑或る意味において︑究極の憲法上の権威をデッド・ハンド自体にではなく︑デッド・. ハンドの中にいる何人かの幽霊に授けようとする︒始原主義は︑制憲者によって遺贈された触ることのできる法的. 構造に焦点を当てるのではなく︑その構造の死せる創造者に対して︑恰も彼らの精神が未だにその創造物を動かし. ているかのように︑権威を与えるのである︒彼らの意思及び理解は関連的ではあるが︑拘束力のあるものとはみな ︵23︶. されるべきではない︒デッド・ハンドによって支配されるのは不可避であるかもしれないが︑我々は︑幽霊による 支配に同意する必要はない︒.

(13) このように︑評ぎ段は︑死者によって生み出された構造に現在の生者が拘束されることは︑或る程度までは不可避で. あるとしながらも︑その構造を生み出した死者に権威を認めるのは行き過ぎであり︑したがって︑始原主義は不当だ. と言うのである︒換言すれば︑憲法テクストによる拘束は不可避だとしても︑それを論拠として︑制憲者意思にまで. 拘束力を認めるのは不当だということになる︒この評号Rの議論は︑直接には︑始原主義の中でも意思主義的な立場. 憲法制定者の意思に権威を認める立場1に向けられていることになるが︑恐らく議論の射程は︑始原的理解や. 始原的テクストに権威を求めるヴァージョンを含む始原主義一般f憲法典制定当時にその意味は固定されていると. する立場1にも及ぶのではないかと思われる︒それらの議論についても︑憲法典というデツド・ハンドに構造的に. は拘束されており︑且つ霊ぎ震の議論によればそれ以上の拘束は不当だということになりそうだからである︒こう ︵24︶. した議論は︑基本的に妥当だと思われる︒. 第二の論稿は︑竃一︒冨巴ζOoおの論稿である︒ζ8おは︑憲法典の権威ー具体的には始原主義ーを正当化する. 論証として︑いずれも民主主義とは直結しない五つのものを検討した上でその全てを不十分なものとして斥けてい. る︒その中で︑阪口が参照したのは︑デッド・ハンドの不可避性に関わる第一の論証︑すなわち︑伝統の外側に立っ. て伝統を判断することはできないという論証のみである︒ζ8おによれば︑その論証とは次のようなものである︒. 憲法テクスト及びそれが始原的に理解される際の伝統がもつ拘束的権威の問題は︑⁝⁝必然的な解答をもつ類の. 問題である︒すなわち︑この見解に基づけば︑過去に注目することは単に望ましいだけでなく︑現に必然なのであ. る︒なぜなら︑我々の各々が︑過去に由来する伝統の中に立っているからである︒これは︑不可能性からの論証︵§. 一五五. 言8ω玖窪ぞ㊤茜gヨΦ簿︶である︒この論証によれば︑あなたは︑伝統の外側に立ち且つそれを判断するということ アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(14) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. ︵25︶ はできない︒なぜなら︑あなたには︑ こうした外的判断を行う為の場所がないからである︒. 一五六. ζ8冨は︑こうした論証の例として︑ポストモダンの解釈学と閃0950≦o量⇒の解釈的法理学を検討するが︑結論. 的には︑次のように 述 べ て こ れ ら の 議 論 を 斥 け る ︒. 我々の各々には︑過去の者によって何が我々に遺贈されてきたのかについて判断を行うという︑つまりそれが継. 承されるべきか否かを検討するという生得権だけでなく責務がある︒更に言えば︑こうした判断は︑我々に不可能. なことを要求するものではない︒何であれ全ての伝統の外側に立つことはできないかもしれないが︑だからといっ. て︑或る個別の伝統の外側に︑他の一定の伝統⁝⁝の名において立つことができないということにはならない︒. 我々全員が︑私が﹁革命的道徳判断﹂︵お<o耳δ困蔓ヨ○声二鼠磯3窪邑と呼ぶものの可能性を意識している︒革命. 的道徳判断とは︑我々の文化の支配的諸価値に反対する価値判断である︒⁝⁝我々全員がこうした判断を行うとい ︵26︶. う意識は︑少なくとも時折︑我々自身の伝統の外側に立つことが心理学的にも認識論的にも不可能であるという議 論を論駁するものである︒. つまり︑ζ8おは︑デッド・ハンドに対して批判的判断を下すことは不可能ではなく︑むしろそうすべきなのだと ︵27︶. ︵28︶. いうのである︒阪口がデッド・ハンドの不可避性に基づく反論を斥ける際に援用したのは︑ζooおの議論のこの部分. だと思われる︒なお︑更に︑ζ8おは︑他の四つの論証を検討した上で︑この論稿を次のように締め括っている︒.

(15) 過去に対して敬譲を示すことによって自分自身の批判的判断を保留しているかのように装う人々は︑実際には︑. 自分自身の個人的な理性を全く保留してはいない︒むしろ︑我々の批判的判断は︑自らの伝統に内在する判断と一. ︵29︶. 致するのである︒したがって︑我々は︑過去に﹁敬譲﹂を払うとき︑現実には︑自らの政治的結論を推進している. のである︒⁝⁝現在の判断と一致する限りにおいて権威をもつ過去には︑何の権威もない︒. 要するに︑ζ8おは︑デッド・ハンドに拘束されるべき理由はないし︑デッド・ハンドの不可避性を主張する論者. 1ここでは特に始原主義者1も︑現実にはデッド・ハンドに拘束されているわけではないというのである︒. 評吾震やζ8冨の議論の紹介︑それからζ8おの議論に対する阪口の支持によって︑デッド・ハンドの不可避性. の指摘が︑始原主義や立憲主義を擁護する議論としては怪しいものであること︑少なくとも不十分であることは確認. できたと思う︒仮に︑デッド・ハンドが不可避であるとしても︑現実的な選択肢が多様に存在する中で︑他の選択肢. を排除してデツド・ハンドに従うべきだという当為は︑デッド・ハンドの不可避性という議論からは導出されない︒. デッド・ハンドの不可避性の議論によって論証されるのは︑最大でも︑過去の者によって作られた現在の構造の中で. デッド・ハンド支配の緩和fインフォーマルの憲法修正と翻訳理論によるf. は︑その構造やその構造を生み出した人物の意向に従った方が上手くいきそうだ︑という程度のことでしかないだろ ・つ︒. 第一 一 一 章. ︒⇒は︑立憲主義に伴うデッド・ハンドの問題に対する主な解決策とされているものを三つの観念に ζ一3器一匿巽ヨ9. 一五七. 大別して批判する︒第一は︑﹁建国期の人々は︑その時代の﹃憲法政治﹄を今日の﹃通常政治﹄に優先させることを アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(16) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. 一五八. 正当化するだけの一定の特別な規範性を有している﹂という観念である︒第二は︑﹁憲法典は︑﹇憲法修正手続を定め. る合衆国憲法典﹈第五条以外の手段によって二〇世紀において修正されている﹂という観念である︒第三は︑﹁憲法. 典は﹃生きている文書﹄であり︑それに対する忠節は︑建国期のテクストを今日の変化した文脈へと翻訳することを. 要求する﹂という観念である︒困胃ヨきによれば︑﹁これらのアプローチの共通の目的は︑同時に無拘束の司法審査. によって投げ掛けられた反多数者主義の問題を悪化させることなしに︑デッド・ハンドの支配を回避︵ないし少なく. とも改善︶することであ﹂り︑﹁デッド・ハンドの支配と司法部の支配との問のスペクトラム上に中間点を置こうとす. る﹂ものである︒また︑困震日9・pは︑﹁これらはいずれも︑非公選で遠隔的にしか説明責任を負わない裁判官の無束. 縛の裁量に憲法決定を委ねるよう公然と主張するものではな﹇く︑﹈厳格始原主義の方法論に伴うデッド・ハンドの問 ︵30︶. 題の迂回を講学上可能にするような調整を考慮しながらも︑制憲者の有していた諸価値を解釈することに裁判所を限. 定する﹂ものであろう︑とも述べている︒本稿では︑第一の観念は︑﹁デッド・ハンドの支配﹂が民主主義を凌駕す. る場合があることを認める議論であり︑第二及び第三の観念は︑ともに憲法典の意味変遷を認めることで︑デッド・. ハンドの支配をある程度まで緩和する議論であると考える︒こうした判断に基づき︑第一の観念の検討は︑後の叙述. の中で触れることとし︑本章では︑切ε8︾良R日きを主唱者とするインフォーマルの憲法修正を承認する第二の観念. と︑冨≦お簿①﹇8の蒔を主唱者とする﹁翻訳﹂︵霞き巴善9︶理論を念頭に置く第三の観念を検討する︒なお︑困震B弩. は︑第三の観念として︑﹁翻訳﹂理論に限定されない﹁生きている憲法典﹂論を念頭に置いているのかもしれないが︑. 本稿では︑両者の問には︑根本的な相違があると考えるので︑ここでの検討は︑﹁翻訳﹂理論に限定される︒.

(17) 第一節. インフォーマルの憲法修正と≦警器一ス一聖ヨ彗の批判. まず︑>良震日彗のインフォーマルの憲法修正を承認する議論である︒ここでは︑︾民Rヨきの議論を丹念に紹介. する用意も紙幅もない︒簡単に述べるならば︑デツド・ハンドの問題との関係で重要なことは︑困巽日きに従うなら. ば︑次のようになる︒すなわち︑>良震Bきは︑コ九三六年から一九三七年において︑アメリカ人たちが︑第五条の. 憲法修正の為のフォーマルの要件を充足することなく︑現代の規制国家︵※いわゆる福祉国家︶を正統化するために︑. 事実的に憲法典を修正したのだ︑ということを証明すること﹂によって︑﹁憲法典が︑我々が考えがちである以上に ︵訂︶. 頻繁に且つ最近になって修正されており︑したがって︑﹇現在においては︑﹈一八世紀のデッド・ハンドの問題は大き く改善されている﹂ と い う 考 え 方 を 示 し て い る ︒. 困震Bきは︑インフォーマルの憲法修正という考え方そのものについても批判を加えるが︑デッド・ハンドの問題 に限定して言えば︑次のように述べてこの議論を断罪している︒. もし︑>爵段彗翠の見解が正しいとすれば︑ニュー・ディールは首尾よく憲法化されていることになるが︑しか. し︑他の生活領域においては︑過去の者のデッド・ハンドが支配し続けるのである︒︾鼻Rヨ習の提示する代替的. な憲法修正の仕組みは︑第五条の特別多数要件に伴う現状偏重の効果を改善するものではあるけれども︑彼は︑第. 2︶. 五条によらない憲法修正に対する単純過半数以上の支持を明示的に要求する︒その限りで︑>良Rヨきの提示する ︵3 体制は︑未だに︑過去の者のデッド・ハンドを不当に優位させるのである︒. 一五九. この引用文のポイントは︑二つある︒第一は︑憲法修正を経ていない生活領域では相変わらずデッド・ ハンドが支 アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(18) 早稲田法学会誌第五申三巻︵二〇〇三﹀. 一六〇. 配するということであり︑第二は︑>︒訂§讐の提示するインフォーマルの憲法修正も︑第五条の特別多数要件と同. じように︑単純多数決だけで憲法修正を承認するものではないから︑憲法修正手続に対するデッド・ハンド批判が妥. 翻訳理論と≦9器ヌ百ヨ彗の批判. 当するということである︒この第二点に関しては後述する︒. 第二節. 第三の観念として本節で検討するい8の蒔の翻訳理論とは︑裁判官の仕事を言語翻訳者の仕事になぞらえるもので ︵33︶. あり︑具体的には︑﹁裁判官は︑元々の文がその元々の文脈において提供していたのと同じ意味が︑現在の文脈にお いても提供されるような読解を元々の文に与える﹂べきだというものである︒. 困貰ヨきの翻訳理論に対する批判は多岐にわたるが︑本稿では︑その内の二個所だけ引用する︒まず︑翻訳理論に. は古い概念を新しい文脈へと翻訳する際に司法部の主観性の問題が伴うということを前提にして︑デッド・ハンドの. 問題との関連で次のような批判が示される︵なお︑上述のように︑困巽ヨきは﹁生きている憲法典﹂論とこの翻訳理 論とを同視している為︑以下の批判は︑両者の理論に向けられている︶︒. もし我々が古い憲法概念を新しい状況に適応させるべく翻訳しているのであれば︑デッド・ハンドの問題が続く. ことになる︒なぜなら︑無拘束の現代の決定者によって︑古い概念がその有益性を存えて︵2象<ΦVきたという単. 純な論結が行われる可能性がいつも存在するからである︒同じことを別の言い方で述べることができる︒すなわち︑. 翻訳者は︑翻訳を行うにあたり︑恣意的に低い一般性レベルを選択してきたのである︒彼らは︑変化した状況を反. 映させるべく制憲者の憲法上のコミットメントを調整するが︑将来の状況を知ったとすれば制憲者が同じ概念にコ.

(19) ︵34︶. ミットしたままであったであろうかということを問わない︒. つまり︑翻訳理論は︑高い一般性のレベルでは憲法テクストの意昧を固定して︑低い一般性のレベルでは意味変遷. を認める立場だということになり︑したがって︑高い一般性レベルでの意味の固定については︑相変わらずデッド・ ハンド批判が妥当するというわけである︒. 第二の引用は次のようなものである︒. ﹇翻訳の﹈主眼は︑過去の者のデッド・ハンドを抑制しながら︑我々の抱える問題に対する制憲者による解決策の. 提供を可能にすることである︒しかし︑それは︑翻訳によってはこれらの二つの目的の両方が達成されないという. 非難によって覆される︒すなわち︑翻訳によっては︑︵翻訳されるものが過去の概念であるから︶デッド・ハンド. の問題は除去されないし︑︵翻訳が作用するのは実体に関する翻訳者の争いのある見解を覆い隠す外套としてのみ. であるから︑︶我々の抱える問題に対する制憲者の回答も提供されないのである︒或る意味において︑翻訳事業の失. 敗は殆ど問題ではないのかもしれない︒すなわち︑我々は︑現在の紛争について︑根本的に異なる世界に住み且つ. 根本的に異なる思想を抱いていた建国の父たちにその解決を委ねるのではなく︑そうした紛争について自ら決定を. 下すべきだからである︒賢明な人々は︑自らの決定とは︑我々の現行体制の下では︑憲法解釈の偽装を通じてなさ. れる司法部による解決のことなのであるということのみを理由として︑デッド・ハンドの問題に対するこの一見明. 白に見える解決策を回避する︒したがって︑翻訳事業の失敗は︑別の意味においては︑大きな問題なのである︒我々. 清︶. 一六一. は︑非公選で遠隔的に説明責任を負う裁判官に対して憲法解釈の偽装を通じてなされるわが国の最も争いのある社 アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(20) 早稲田法学会 誌 第 五 十 三 巻 ︵ 二 〇 〇 三 ︶. ︵35︶. 会的な政策問題の委任をどのようにして正当化するのか︒. 一六二. つまり︑匹震B彗によれば︑翻訳理論は︑上述のような意味でデツド・ハンドの問題を解消できないなどの理由で. 失敗するわけである︒そして︑困巽ヨきは︑そうした失敗に対する代案としては︑民主的正統性の点で劣った司法部. による解決しかないのか︑という問題提起を行うのである︒結局︑困震日きは︑デッド・ハンドの問題については︑ 次のような﹁反立 憲 主 義 ﹂ と い う 立 場 を 採 用 す る ︒. 我々は︑単純に反立憲主義者でありうる︒すなわち︑我々は︑とっくの昔に死んでしまった制憲者や相対的に説. 明責任のない裁判官の命令を通じてではなく︑政治闘争を通じて︑争われている政策問題に自ら決定を下すことが. できるのである︒⁝⁝この解決策は一見して見えるよりはずっと急進的ではない︒⁝⁝つまり︑最高裁は︑頻繁に︑ ︵36︶. 立憲主義のデッド・ハンドを無視して︑今日の人民が︑自らが適合的だと考えるように自らを支配することを許容 する決定を行っている︒. 以上︑匹巽ヨきによる翻訳理論批判を紹介した︒私見では︑少なくとも翻訳理論がデッド・ハンドの問題を回避で. 7︶. きるものではないという点については︑困震B磐の議論は正しい︒しかし︑反立憲主義を支持するには︑その立場自 ︵3 体の検証と他の選択肢の可能性をもう少し行う必要があるだろう︒.

(21) 第四章デッド・ハンド批判への応答. 本章では︑デッド・ハンドの問題の緩和ではなく解消を目指す幾つかの応答を検討する︒本章の構成は︑憲3器一 ︵38︶ ζ80目器一一の論稿を参考にしたものである︒ ︵39︶. ζ80目色は︑デッド・ハンド批判に対する︑﹁憲法理論にとって最も一般的で︑最も説得的で︑最も重要である﹂. と彼が考える五つのありうる応答を取り上げ検討する︒順次︑検討していこう︒. 第一節 憲法典の明示する原理の妥当性からの応答. 第一に︑憲法典は︑﹁我々の賛同︵霧器9︶及び同意︵謎お①ヨ①邑に値し続ける政治道徳・政治組織の諸原理を明 示するが故に︑﹂権威を持つのだ︑という応答が挙げられる︒. ζ80暮亀が指摘しているわけではないが︑上述のフェデラリスト協会のシンポジウムの中で︑甘ぎζ︒Ωぎ巳ωが 展開した議論は︑ここに含めてもよいだろう︒. なぜ我々が元々の憲法典に拘束されるべきなのかという問題は︑なぜ我々が過去の者のデッド・ハンドによって. 導かれるべきなのかという問題として設定されることが多い︒古めかしいこの文書を社会としての我々の現在の潜. 在能力に対する不運でありうる束縛とみなすべきだというその観念には︑歴史における人間﹇の位置づけ﹈につい. ての或る暗黙の前提が含まれる︒この見解によれば︑人問には︑各世代ごとに一定の集団的な文化プロセスを通じ. 清︶. 一六三. て自らの歴史を作る道が開かれている︒こうした前提を所与とすれば︑各世代が︑何らかの過去のプロセスを通じ アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(22) 早稲田法学会誌第五士一一巻︵二〇〇三︶. 一六四. て過去の世代が発展させた社会の構成法︵8霧葺言話訂≦○房8一Φ毫に同意するかどうかを改めて決定する機会. を享受すべきであると考えることには︑説得力があるように見える︒しかし︑制憲者たちが共有し且つ再び受容さ. れつつある異なる歴史観がある︒すなわち︑人問には永続的な本性があり︑この本性によって︑人間が創造できる. 歴史一般と集団的統治から期待できる特殊な所産の両方が実質的に束縛される︑というものである︒この=⊆日Φ的. な歴史観は︑憲法典と現在の者との関係という争点を全く異なる視角で捉える︒憲法典の原理及び構造が︑人問本. 性の本質的に不易である諸側面︑及びそれらの諸側面と集団的統治との関係に関する正しい見解に基づくのだとす. れば︑元々の文書は︑デッド・ハンドではなく現在の指針源とみなされるべきである︒⁝⁝実際︑元々の憲法典は︑ ︵40︶. 我々の政治を生み出す生きた有機体についての正確な評価に基づいていたので︑結局は生きている憲法典なのだ︑ ということがわかる︒. ζ09唇δは︑冒頭でこのように述べた上で︑ーζoOぎ巳ωの依拠する人問本性論や進化論が容易に受け入れられ. るとは思えないがーいかに制憲者の見解が現在の観点から見て正しいものであるのかを証明していくわけである. が︑ここで確認すべきなのは︑細部の議論についてではなく︑例えば︑制憲者の見解が正しいものであり︑従って憲. 法典には権威があるという議論として︑このようものがあるということである︒もう少し説得力のある議論は︑憲法. 典︵ないし始原主義Vの正統性は憲法典が設ける法律制定システムの正統性に由来すると考える力彗身守旨①菖のも のである︒. 我々は︑過去の者のデッド・ハンドによってテクストの始原的意味を尊重するよう拘束されているのではない︒.

(23) 我々がそうした拘束を受けているのは︑ーまさに今ここに居るi今日の我々が︑成文憲法典に対するコミット. メントを公言するからである︒我々は︑成文憲法典に対するコミットメントを否認することによってその始原的意 ︵41︶. 味を容易に放棄することができる︒しかし︑こうした選択は︑裁判所と学者の両方が一般的には行いたがらないも. のである︒⁝⁝成文憲法によって当初設けられた法律制定プロセスが正統なものであると仮定するならば︑憲法典. が正しいことを述べているという事実は︑これらの規定が時問を越えて尊重されることを保証するのに役立つー. この保証は︑立法実務や司法意見によって自由に修正される不文憲法又は成文憲法典によっては提供できないもの ︵4 2︶. である︒このように︑憲法典の正統性は︑人民主権や人民の承諾ではなく︑﹇憲法典の始原的意味﹈へのコミット メントに基づくのである︒. ζ80目亀は︑こうした応答について︑次のように述べて斥けている︒. ﹇この応答によれば︑﹈憲法典の権威は︑死者が生者に対して有する何らかの権威にではなく︑その諸原理の妥当. 性に帰せられることになる︒この見解には︑憲法典のうち︑我々の現在の判断に即して見た場合に妥当である部分. だけが執行されるべきであり︑そうでない部分は︑修正されるか無視されるべきである︑という観念が含意されて. いる︒⁝⁝﹇こうしたアプローチ﹈は︑デッド・ハンド論に対する回答ではなく屈服である︒⁝⁝憲法典が︑政治. 道徳・政治構造に関する我々の独立した判断と一致する限りでのみ権威をもつのならば︑憲法典自体は付け足しの ︵43︶. 一六五. おもりにすぎなくなる︒すなわち︑我々の結論に力を与えるのは︑﹇憲法典ではなく︑﹈何が善いか︑何が正しいか︑. 清︶. 何が効率的か︑に関する我々の信念にすぎないのである︒ アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(24) 早稲田法学 会 誌 第 五 十 三 巻 ︵ 二 〇 〇 三 ︶. 一六六. 実際には︑意識的にであれ無意識的にであれ︑憲法典の内容が正しいと信じているからこそ︑そしてその限りにお. いてのみ︑憲法典を擁護する論者は︑アメリカに限らず日本においても少なくないはずである︵私もそうかもしれな. い︶が︑ζ8・導亀の見解は︑論理的・理論的には妥当なものであろう︒なお︑上述した困貰ヨ弩が批判するデッ. ド・ハンドの問題に対する第一の解決胱干﹁建国期の人々は︑その時代の﹃憲法政治﹄を今日の﹃通常政治﹄に優. 先させることを正当化するだけの一定の特別な規範性を有している﹂という観念1には︑制憲者が偉大であったか. らデッド・ハンドに従うべきだという見解が含まれている︒憲法典を制定した者の偉大さと憲法典の内容の正しさと. はかなり異なるものであるとも言えるが︑制憲者が偉大かどうかについては︑かなりの程度まで信念の問題であり︑. 且つその議論において重視されているのが制憲者の権威であって憲法典自体ではないと位置づけることができるとす. 民主主 義 を 可 能 に す る 憲 法 典. れば︑ここで取り上げた応答と共通の批判が当てはまるといってよいだろう︒. 第二節. 第二に︑﹁憲法上のルールがなかったならば︑我々は︑自己統治を可能にする諸制度をもっていないであろう﹂と. いう応答が挙げられる︒ζ8︒目亀によれば︑この応答は︑﹁特定の方法論に即して争点に決定を下すことよりも︑. 安定的で︑一貫した︑予見可能なやり方で争点に決定を下すことを重視する形態の憲法解釈を含意する﹇ので︑﹈強. 力な先例法理や憲法典解釈においては合衆国最高裁判所が最高であるという見解が支持されることになる﹂︒この応. 答については︑ζ8・目色は︑特に︑本稿第一章で阪口がω禮霞に依拠して︑憲法典の内容に着目して憲法典が民主. 主義を実施し完全にすることを目的とするものだと説く戦略︑すなわち︑ぢぎ田くの代表補強理論やω99窪頃○冒8.

(25) のプリコミットメント論︵ζ80目亀は挙げていないが困震ヨきの反エントレンチメント理論も含まれる︶といっ. た︑﹁憲法は︑選挙ルールや統治構造のような本質的にプロセス基底的である争点に限定されるべきだ﹂という見解を も示唆するものとして︑斥けている︒次の通りである︒. ﹇その応答﹂は︑過去の者のデッド・ハンドが1経済的権利︑プライヴァシー︑刑事手続︑非政治的言論︑平. 等王義などのような1政策に対する実体的な限定を課すことを認める為の正当化を何も提供しない︒結局︑そこ. には︑我々自身や我々の子孫に対して民主的自己支配を保障する為に憲法上のプリコミットメントを必要とする相. ︵44︶. 対的に僅かな争点しか存在しないのである︒我々が憲法と考えるものの殆どが︑こうした正当化の外側にあること になる︒. こうした議論は︑プロセス理論についてなされる批判としては一般的なものであり︑現在のところ私もこうした批. 判に乗ることができるが︑こうした批判が一般的なものであるが故に︑プロセス理論にとっては最早痛くも痒くもな. デッド・ハンドの正統性の擁護. い批判なのかもしれない︒いずれにしてもプロセス理論の是非に関する細部の議論は本稿の対象ではない︒. 第三節. 第三に︑﹁単にデッド・ハンドの正統性を擁護する﹂応答が挙げられる︒こうした応答として︑ζ80目亀が念頭. に置いているのは︑﹁国民の自己決定権︵Ω︒⇒蝕自︑ω﹃蒔辟o房&己9R旨p蝕9Vには︑永続的な統治制度を創造する. 一六七. 権利が含まれる﹂ので︑﹁以前になされた人々の決定や行為によって⁝⁝今日の世代が拘束されるという考えには︑困 アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(26) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. ︵45︶. 一六八. 難さも異常さも存在しない﹂︑という見解である︒私見では︑デッド・ハンドの正統性を擁護する議論は︑こうした. 国民の自己決定権を援用する議論に限定されず︑むしろかなり多くのヴァリエーションが存在するはずである︒特に︑. 立憲主義を民主主義に優位させる論者の議論は︑デッド・ハンドの支配を立憲主義の観点から正統化・正当化できれ. ば︑民主主義の観点から正統化できなくてもよいわけである︒本節では︑ζ80目亀の議論の範囲で叙述を展開する ことにする︒. ζ80募亀は︑この文脈において︑次のように述べる︒. 現在の構成員だけでなく将来の構成員にも適用することのできる約束を行うのは︑人々及び人々の集団の本性な. のである︒⁝⁝建国者たちは︑まず独立戦争を戦ってそれに勝利し︑⁝⁝次に︑新たな制度編制を求めて諸州の全. 員一致の承諾を獲得することによって︑一七八九年憲法典を制定し樹立した︒今日の人民は︑革命か第五条の憲法. 修正手続を手段とすることによって︑新しい憲法典を制定し樹立することができる︒⁝⁝しかし︑人民がこうした. 段階を踏むまでは︑ζ&一ω自﹇その他の﹈制憲者及び批准者のデッド・ハンドが墓場から我々を支配し続けるとし. ても︑それは全く正統なのである︒この自明の理は︑憲法起草者自身の見解であった﹇し︑﹈第二世界ないし第三. 世界の圧政から解放されて憲法起草の仕事に忙しく従事する世界中の民主的諸人民の見解でもある︒そして︑それ ︵46︶. は︑今日のアメリカ人民の見解でもあり︑⁝⁝立憲統治の理念がデッド・ハンドの問題に晒されるなどということ は︑全く意識されていないように見える︒. 既に序論で触れたように︑デッド・ハンドの問題には︑憲法修正手続の難易の問題が含まれるので︑憲法修正手続の.

(27) 硬さを捨象している限りにおいて︑この引用個所は︑デッド・ハンド批判への応答としては不十分の感がある︒ここ. での議論は︑第二章の冒頭で︑阪口正二郎がデッド・ハンド批判に対する始原主義の応答として︑デッド・ハンドの ︵47︶. 不可避性の議論とともに取り上げた︑憲法修正の可能性に基づく議論であるが︑阪口は︑特別多数要件の存在を理由. にこの議論を切り捨てているのである︵この問題については︑第四の応答との関連で言及されているので︑後述す る︶︒ともあれ︑ζ80暮色は︑以下のように︑続ける︒. デッド・ハンドの正当性の擁護論の基底には︑憲法実証主義の視角がある︒すなわち︑全ての権力は主権者であ. る人民に由来し︑憲法典の権威は︑それを創造する際の彼らの主権的な意志行為から生じる︒したがって︑憲法典. は︑彼らの意思に即して解釈されるべきである︒これは︑始原主義の理論的な基礎づけである︒もし︑憲法典が︑. 我々の能力の及ぶ限りで. 彼らの意図したように解釈されるべ. 一七八七年の人民が自分自身及び彼らの子孫の為に政府を樹立する始原的権利を有していたが故に権威を有するの. ︵48﹀. であれば︑彼ら に よ っ て 執 筆 さ れ た 言 葉 は ︑ きである︒. この叙述から分かるように︑ζ80暮色は始原主義者であり︑その理論的基礎づけとして︑主権者人民による意志行. 為を憲法典の権威の源泉とみなすという意味での憲法実証主義を採用している︒そして︑こうした立場から︑上述の. 一六九. ようなデッド・ハンド批判への応答が展開されたわけである︒ちなみに︑この応答は︑やはり始原主義者であり且つ. 清﹀. その代表格である力oσΦ昌ωo葺によっても行われている︒. アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(28) 早稲田法学会誌第五士一一巻︵一一〇〇三︶. 一七〇. わが国の権利章典や南北戦争修正条項を制定した死んでしまった非代表的な男たちは︑そうすることによって︑. 我々生者が新たな自由を付加することを禁じなかった︒相変わらず︑我々は︑憲法修正又は単なる立法によって. 有権者ではなく裁判官. は︑なぜ憲法典に現実に言及されている自. 我々が欲する更なる自由の全てを全く自由に創造することができるし︑国民は︑頻繁にそうしてきたのである︒問 題提起者が本当に意図するのは︑裁判官. 由だけを民主的選択から保護するよう拘束されるべきなのか︑というものである︒本当の異議は︑社会を完全には. 代表していなかった死んだ男たちによる支配にではなく︑﹇自由を付加しようとしない﹈生きている多数者による支 ︵49︶. 配に向けられているのである︒⁝⁝非代表的死者の議論︵⊆葭8お8筥器話ム8阜ヨ窪震讐ヨΦ9︶は︑生きている 男女を代表する者による自己統治を妨害する試み以上のものではない︒. 更に︑やはり始原主義者である墨3器一℃霞曙も次のような議論を展開している︒微妙に議論が異なるので︑ 冗長 ではあるが引用しておく︒. 私は︑単に我々の祖先たる政治家が我々に憲法上の命令を遺贈したという理由によって︑彼らが我々に遺贈した. 憲法上の命令が︑例えば司法審査によって保護されるべきだ︑と述べてきたのではない︒︵誰がこのような愚かな議. 論をするだろうか?︶︒むしろ︑重点は︑⁝⁝今生きている﹁我々人民﹂1結局は︑死んでしまった祖先たる政. 治家ではなく現在の政治的主権者iが︑二つある理由の一方から︑彼らが我々に遺贈した憲法上の命令を保護す. べきだということなのである︒第一に︑彼らが我々に遺贈した命令の幾つかは優れたものである︑というものであ. る︑そうした命令は︑我々が無から憲法典を起草したとしても︑包含させたいと我々が欲するはずの命令である︒.

(29) 第二に︑たとえ彼らが我々に遺贈した命令の幾つかが我々が無から憲法典を起草したとすれば包含させたいと願う. 命令ではないとしても⁝⁝︑にも拘らず︑我々は︑その命令を最高裁が保護し続けるよりも問題のないような仕方 ︵5 0︶. でその命令を廃立できるのでないならば︑そしてそうなるまでは︑こうした命令を保護すべきであるというもので ある︒. ︵51︶. ⁝もちろん︑我々の祖先たる政治家によって発せられた憲法上の命令を廃立する上で最も問題のない方途は︑. 黙示の批准. 合衆国憲法第五条によって明記された憲法修正プロセスである︒. 第四節. 第四に︑黙示の批准︵ぎ讐a鍔段8彗呂︶の観念が挙げられる︒この概念には︑暗黙の承諾︵声葺8房①糞︶といっ. た名称がつけられることもある︒この見解によれば︑﹁憲法典は︑始原的には︑その権威を制憲者及び批准者の意志. から引き出したのであるが︑その継続的権威については︑後続の各世代における人民の黙示の承諾から引き出すので. ︵一︶特別多数要件について. ある﹂︒. ここで︑ζ80目亀が本稿序論で言及し且つ前節でも言及した特別多数要件の問題に触れている︒ここでこの議論. を検討しておこう︒上述のように︑阪口は︑デッド・ハンド批判に対する始原主義の応答として憲法修正の可能性の. 清︶. 一七一. 議論を取り上げた︒しかし︑阪口は︑内冨同Bきを援用して︑この議論を斥けている︒困胃目きの見解を引用しておこ ︑つ︒. アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋.

(30) 早稲田法学会誌第五十三巻︵二〇〇三︶. 一七二. ﹇合衆国憲法の第五条に規定されているような﹈特別多数要件は︑必然的に︑現状を優位させる︒それは︑反多. 数者主義的であり民主主義の前提と調停させるのは難しい︒アメリカ史における多くの場合において︑国民多数派. の意志は︑第五条の特別多数要件を充足できないが故に挫かれてきたのである︒⁝⁝立憲主義に伴うデッド・ハン ︵52︶ ドの問題は︑特別多数要件を通じて現状を偏重している憲法修正メカニズムによっては解消されない︒. 次の鎮80導色の引用は︑一応︑阪口や目巽召きに対する応答と位置づけることができる︒. 第五条のプロセスは︑憲法修正の単なる欠如だけでは︑憲法典に対して継続的に人民が満足していることの証明. とはみなされないというくらいには困難なものである︒大きな憲法修正に対する持続的な要求があり︑それが人民. の過半数によって後押しされながらも第五条の二段階にわたる特別多数要件によって妨げられているという場合に. は︑我々は︑真正の正統性危機に晒されることになろう︒しかしながら︑現実には︑アメリカ人民は︑憲法典を崇. 拝しており︑ー学校での祈梼︑国旗保護︑均衡予算といった1相対的にポピュラーな憲法修正案でさえ︑結局. は︑刃物をもてあそんだにすぎない︒元々の憲法典において投票から排除された祖先をもつアメリヵ人−例えば︑. 女性やアフリカ系アメリカ人1も︑明らかに︑有産白人男性に劣らず熱心に憲法典を崇拝している︒こういう理. 由で︑一七八七年に黒人や女性が選挙権から排除されていたから憲法典は正統な権威要求を持たないという頻繁に. 聞かれる不平は︑的外れに見える︒一七八七年には︑現在生きている者は︑誰も代表されていなかったし︑今日の ︵53︶. 黒人や女性は︑他の集団に比べて憲法典の廃棄に熱心であるというわけでもない︒もし︑黙示の承諾が権威につい ての妥当な根拠になるならば︑我々の憲法典は︑確かに有効である︒.

(31) つまり︑ζ︒9馨亀は︑特別多数要件の存在を踏まえながら︑特別多数要件が問題となる憲法修正案は人民の過半. 数の支持を得ているものに限定されるとし︑且つ黙示の承諾を援用することで廃棄の主張を受けていない憲法典には. 正統性があると論じているわけである︵但し︑この黙示の承認の議論をζ︒Oo馨色が支持しているのかどうかは定か. ではない︶︒このように見てみると︑確かに︑阪口が斥けた特別多数要件の存在を根拠にして︑憲法修正の可能性に. 基づく応答を完全に斥けることはできないように見える︒特別多数要件に関して問題となるのは︑憲法典の正統性自 体ではなく︑過半数の支持を得た憲法修正が成立しないことに限定されそうである︒. なお︑特別多数要件を憲法典の正統性を妨げる要素と捉えるデッド・ハンド批判とは逆に︑特別多数要件があるか. らこそ憲法典は正統なのだと説く見解もある︒冒ぎζ︒9目δ印墨3器一肉8080旨は︑そうした立場から︑デッド・ ハンド批判に応答する︒. 憲法典が特別多数者主義的な起源をもつということを承認することは︑憲法典の﹁デッド・ハンド﹂に関する不. 平への応答にも役立つ︒しばしば︑こうした不平によって示唆されるのは︑制憲者世代の制定した憲法が特別多数. 者によってのみ修正されうるので︑制憲者世代は現在の者に対して過度の影響力を持っている︑ということである︒. しかし︑憲法典の樹立に必要とされた特別多数要件と︑それを修正するのに必要とされる特別多数要件とが符号す. ることによって︑制憲者の世代が現在の世代が有する以上の影響力を持っていなかったということが証明される︒. ⁝⁝憲法典は︑世代について平等な競技場を設けて︑各世代が自らの諸原理を憲法典の中に法制化することを許容. 一七三. しているのであり︑憲法典は︑それらが︑高次法としての資格を有する為の二重の特別多数要件を充足できると仮 アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(32) 早稲田法学会誌第五十三巻 ︵54︶. 定したのである︒. ︵二〇〇三︶. 一七四. 一見すると︑制憲者が特別多数要件をクリアしたのだから︑以後の憲法修正にも特別多数要件を課しても公平であ. るといっているように読めるが︑むしろここでの主眼は︑その程度の要件をクリアしなければならないくらいに︑憲. 法典のような文書を作成するという作業は神聖なのだということにあると考えられる︒こうした議論は︑むしろデッ. ド・ハンド批判に対して︑にも拘らず特別多数要件の正統性を主張するものと位置づけた方がよさそうである︒. 鋸妻お8Φω囲Rは︑フェデラリスト協会のシンポジウムで︑独自の立憲主義理解ー立憲主義の正義探求的説明. ︵55︶ 1に基づいて︑この特別多数要件が︑﹁デツド・ハンドの正統な一例﹂︵巴β置日讐①Φ釜ヨO一ΦoP冨留蹄富且︶で あると主張した︒. 変化に対する第五条の抵抗があるから︑思慮深い人々は︑﹇憲法典の修正を行う際に︑﹈自分たちが憲法典の中に. 諸々の規定を組み込むことが︑今日の自分たちの為だけではなく︑﹇将来の自分たち及び自分たちの子孫の為﹈でも. ︵56︶. あるのだということを実感する︒こうした人々は︑適切な正義原理︑及び⁝⁝永続的な憲法典の中に組み込む﹇に. 十分なくらい﹈高い一般性のレベルで語る正義原理に︑自然と駆り立てられることになる︒. Oぼ翼・9R田茜控びRは︑特別多数要件によって︑︵多数者主義とは異なる︶民主主義が促進されるのだという議論 を展開する︒.

(33) 憲法理論家は︑﹁デッド・ハンド﹂の非難に答えるべく洗練された議論を展開してきた﹇が︑﹈これらの憲法典擁. 護論は︑﹁デッド・ハンド﹂の非難と共通するものを享有する︒すなわち︑その非難におけると同様に︑第五条に. 明記された困難な特別多数決手続が通常の民主主義観とは調停できないものであるということが想定されているの. である︒⁝⁝人々は︑諸機関を通じてのみ発言することができるのであって︑どんな一組の機関であっても︑政治. 的行為を可能にすると同時に拘束するのである︒⁝⁝憲法典が容易に修正されるならば︑民主主義が苦しむことに. なる三つの理由﹇がある﹈︒第一に︑軟らかい憲法修正手続では︑民主的政策形成の為の安定した制度基盤を発展. させ維持するのが難しい︒第二に︑軟らかい憲法修正手続は︑実際問題としては後の世代の妨げとなるだろう不用. 意な改革を促進するかもしれない︒第三に︑多数者は︑憲法修正手続を利用して︑人民全体を犠牲にして権力を集. 中させるかもしれない︒⁝⁝憲法修正に対する障害によって︑自らを支配する人民の能力を高めることができるの ︵57︶ であり︑憲法典は︑民主主義の逸脱ではなく民主主義を実行する努力として理解されるのが最善である⁝⁝︒. ︵二︶黙示の承諾. さて︑黙示の承諾に議論を移そう︒この議論は︑匂&園旨9笹αによって︑デッド・ハンド批判に対する社会契約論. 者︵始原主義は社会契約論の復活と捉えられている︶の通常の応答と位置付けられている︒. ﹇デッド・ハンドの異議﹈に対する契約主義者の通常の応答は︑始原的契約に対する現在における暗黙の承諾で. あった︒今日生きている我々は︑始原的契約の当事者ではなかったが︑我々は︑その政治共同体に留まることによっ. 一七五. て︑或いは財産所有権のような恩恵に浴することによって︑その約定に対して暗黙のうちに承諾している︒⁝⁝社 アメリカ憲法理論におけるデッド・ハンドの問題︵土屋清︶.

(34) 早稲田法学会誌第五士一一巻︵二〇〇三︶. 一七六. 会契約の主張は︑一見すると過去の意思に向けられたものであるように見えるが︑結局は︑現在の人民意志に依拠. しているのである︒この理屈には大きな難点−始原的な意志行為の虚構性︑現在における被治者の﹁暗黙の﹂承. 諾の虚構性︑市民の﹁暗黙の﹂承諾によってその市民の明示的な不承諾を切り捨てるあらゆる議論の論理的脆弱性 ︵58︶. ーがあったので︑古典的な社会契約論の思考は︑政治理論においてもはや殆ど役割を果さなくなってしまったの である︒. ここで注目しておきたいのは︑園魯①溝Φ箆が︑暗黙の承諾に依拠する社会契約論ないしは始原主義を︑実は過去の. 人民意思にではなく現在の人民意志に基づく議論だと理解している点である︒つまり︑憲法典への忠節は︑デッド・. ハンドの支配なのではなく︑実は︑リビング・ハンドの支配なのだという議論である︒もつとも︑私見では︑デッド・. ハンドの支配をリビング・ハンドの支配へと転換する発想としては︑暗黙の承諾という主権者命令説的な理解より も︑被治者の受容という概念を用いた方が現在の議論状況から見て有望だと思われる︒. なお︑ζ︒Oo目亀は︑寄訂ξΦことは異なり︑黙示の批准が伝統主義に帰着すると考えている︒. デッド・ハンドの問題に対するこのアプローチによって示唆される憲法解釈の様式は︑建国時に観念された憲法. 原理だけではなく︑建国以後の何年にもわたる後続のアメリカ人の世代によって観念されてきた憲法原理をも重視. するものである︒それらの後のアメリカ人の世代もまた︑憲法典を﹁批准﹂したのであり︑彼らの理解もまたカウ. ントされるべきである︒実際には︑そのことは︑その国の長く存続し且つ進歩する慣行︑経験︑伝統に即して憲法. 典を解釈すべきだということを意味する︒⁝⁝﹇この﹈伝統主義は︑裁判所に対して︑社会変化の促進ではなく過.

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