-ヘルダーリンの西欧ギリシーア論−﹁至福なるギリシア﹂
︹三︺ 神話の神 I 最深の親密性
本 序
一 一・ i冊 i冊 / ’ 乙 -J m 一 一 W (7) (6) (5) (4) (3) 12) (1)要 (7) (61 (5) (4) (3) 12) (1)要内容梗概
シラーの問題提起
約
牧歌と毒舌
優美と尊厳
理想と人生
啓蒙批評 。
批判精神
自然と神
シラーの遺言
一 一︵14︶頁− 三︵15︶頁 三︵15︶頁− 四︵16︶頁 四︵16︶頁− 六︵18︶頁 六︵18︶頁−一〇︵22︶頁 一〇︵22︶‘頁I一四︵26︶頁 一四︵26︶頁︱一七︵29︶頁 一七︵29︶頁−ニ○︵32︶頁 二〇︵32︶貞I二三︵35︶頁 二四︵36︶頁−二九︵41︶一頁古典ギリシアとキリスト教西欧
約 民族の神々と世界宗教 悲劇の死と復活. 偉大なる運命 古典神話の畏怖と荘厳 自然の真性 西欧選民意識粉砕 古典古代理念追求 二九︵41︶頁−三〇︵42︶頁 三〇︵42︶頁上二二︵44︶頁 三二︵44︶頁−三五︵47︶頁 三六︵48︶頁−三九︵51︶頁 三九︵51︶頁−四六︵58︶頁 四七︵59︶頁−五二︵64︶頁 五三︵2︶頁︱五八︵7︶頁 五八︵7︶頁−七一 ︵20︶頁 ︹三︺回註結
3
<解
(2) (1)要 論測(9) (8) (7) (6) (5) (4) 13) 神話の神 約 内面の飛翔 オイディプースと ディオニューソス 神話と寓意 開かれた時空 神の国 叡知直観 絶対的分裂 無の思想 堅固に留まる一者 最深の親密性 ・ e r s t a n d n i s d i e s e r A r b e i t 高 橋 克 己 人文学部独文研究室 七 − 七 −ニ︵22︶頁− 一︵21︶頁− 七三︵ 七五︵ 22 W 頁 24 W 頁 七五︵24︶頁− 七八︵27︶頁 七八︵27︶頁− 八二︵31︶頁 八二︵31︶頁− 八五︵34︶頁 八五︵34︶頁− 八八︵37︶頁 八八︵37︶頁− 九八︵47︶頁 九八︵47︶頁−一〇三︵52︶頁 一〇三︵52︶頁−一〇六︵55︶頁 一〇六︵55︶頁−一二一︵61︶頁 一回一︵2︶頁−こ一五︵14︶頁 一二六.︵15︶頁−一三一 ︵20︶頁 一三二︵21︶頁−一八一 ︵62︶頁 一八二︵63︶頁−﹁九三︵66︶頁 ※既刊部は、高知大学学術研究報告第三十三巻、人文科学、一三頁−七二頁 所収︵一九八五年三月刊︶、及び同学術研究報告第三十四巻、人文科学、 一頁−七二頁所収︵一九八六年三月刊︶。 ※※本研究は昭和六〇年度文部省科学研究費助成︵奨励研究固︶による研究成 果の一部である。-高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学 I 最深の親密性 峰云、﹁忽遇明鏡来時如何﹂。 玄沙云、﹁百雑砕﹂。 ︵道元﹁正法眼蔵﹂第十九﹁古鏡﹂ こ一四一年︶ 思想詩﹁パンとぶどう酒﹂の詩歌象徴に﹁霊感を得た雄飛と崇高なる 高揚﹂︵︹三︺閣︵H︶︶が無いと本論が主張するのではない。確かにそ れは有るには有るが、しかしそれを在ると言い切れぬ﹁空無を孕む内面、 の飛翔﹂。︵︹ゑ剛︺を認めざるを得ないのであるoすなわ梅無吸感だ る仏法が云う真諦’﹁色印是空。空即是空﹂︵︹三︺面︵85︶︶の幽玄霊妙 なる詩歌象徴の調べが□切顛倒夢想を遠離﹂︵︹三︺閣︵90︶︶’する必∼ 然︵ネメシス︶の厳撒なる眼差穴二︺閤︵42︶︶を孕み、﹁パンとぶ。 どう酒﹂の詩想に濃淡細やかな明暗を深くし安直な立言を黙させるので ある。殊に思想詩の﹁最高潮で召喚の問いかけを視覚造形へともたらす 讃歌の霊感︵ベガイステルング︶が燃え上がる﹂︵︹二︺剛︵108︶︶と同 時に、この﹁最高潮﹂なす﹁至福なるギリシア﹂において既成キリスト 者の西欧自我意識を木端微塵の﹁百雑砕﹂へと粉砕する﹁偉大なる運命﹂ ︵︹二︺閣︶が突入し、﹁忽ちに︵真理の︶明鏡来に遇はん時﹂が到来し たのである。 ところで、むの仏法の真諦が孕む﹁絶対的分裂﹂︵︹三︺剛︶は、西欧 歴史意識にとり決して新しいものではない。例えば、在来の古代ギリシ アの神々が君臨する神話︵ミュートス︶の世界に深く腰を落ち着けてい た既成ギリシア意識に、ソークラテースの学知︵ロゴス︶が忽然と対決 した紀元前五・四世紀の転換点︵前三九九年︶においても、奴隷制民主 国家︵ポリス︶都市アテーナイの法廷の裁決は真二つに裂けたのである。 例えば、悲劇詩人アイスキュロス︵前五二五年−前四五六年︶の劇詩 ﹁オレステイア﹂三部作︵﹁アガメムノーン﹂﹁コエーポロイ﹂﹁エウ メニデス﹂︶が樹立した正義︵ディケー︶女神の司るアテーナイ都市国 家の立法︵ノモス︶は、ソークラテース︵前四七〇年−前三九九年︶の学 知︵ロゴス︶が有する﹁否定的なるものの物々しい力量﹂︵︹三︺閑︵花︶︶ により真二つに裂かれ、比所に﹁絶対的分裂﹂のなせる悲劇が現実の白昼 の下に誕生したのである。この不可避必然︵ネメシス︶なす現実の裂け 目へと呑み込まれゆく哲人ソークラテースの雄姿は悲劇の英雄を思わせ ると同時に・布人牛リストに︸脈通ずるものであ肩・ この﹁プロメーテウス﹂の詩句を念頭に置き、ヘルダーリンは詩歌﹁運 みちしる:c命︵ダスーシックザール︶﹂︵︹二︺㈲︵57︶︶の表題の傍に道標を打ち 立てる。 運命︵ヘイマルメネー︶を敬して挫く人は知恵︵ソピアー︶がWk>。
プラトーンの対話篇﹁パイドーン﹂の記述によると、死へと赴く前まで
魂︵プシューケー︶の不死に関する学知︵ロゴス︶を友人たちと闘わせ
たソークラテースは、この活発な議論の後に結びの言葉として、次のよ
うに﹁運命︵ヘイマルメネー︶﹂について語る。
今や私を呼 マルメネー謳
だI悲劇の主人公ならこう言うだろうIあの運命︵ヘイ
︵﹁パイドー﹃ン﹄ 一 一五A︶
この後プラトーンの筆は、毒杯を仰ぐ哲人ソークラテースの雄姿を描く のみである。 内容からすると、この毒杯を仰ぐソークラテースを物語る対話篇﹁パ イド’Iン﹂の論議の的は﹁魂︵プシューケー︶について﹂である。とこ ろで、古典古代の神々が君臨する造形世界において、この﹁魂︵プシュー ケー︶﹂こそ形無き﹁色即是空﹂︵︹三︺囲︵85︶︶に他ならず、実体な き無の思想と看倣され得よう。だが哲人ソークラテースはI見影なす幽 霊に過ぎないが如きこの﹁魂﹂をこそ、理念︵イデー︶追求すべき霊峰 ﹁堅固に留まる一者﹂︵︹三︺剛︶への道として樹立する。かく﹁空無を 孕む内面の飛翔﹂において畢竟、古代ギリシアの神々の世界は﹁一切顛 倒夢想﹂として﹁遠離﹂︵︹三︺図︵90︶︶され﹁百雑砕﹂へと崩壊して ゆくのである。この空怖ろしい。哲人の学知︵ロゴス︶に負けずとも劣ら ぬ霊威なす﹁明鏡﹂として、西欧精神史上で神人キリストの明知︵ロゴ ス︶が顕正したと考えられる。事実﹁新約聖書﹂﹁ヨハネ福音書﹂・の記 述によると、神人キリストこそ正に明知︵ロゴス︶そのものなのである。 始源にロゴスがあり、このロゴスは神と共にあり、そしてロゴスは神であっ た。このロゴスが始源に神と共にあった。万物はこのロゴスに依り生じ、こ 一 I I I のロゴスに依らず生じたものは何一つ無かった。このロゴスに気侭があり、 この虫斜は人々の光明であった。≒こ心光明は暗闇の中に︵今も︶輝いているの ではあるがヽしかし暗闇^に在りし世の人々゛はこの光明を理解しなかっ'tl” ︵﹁ヨハネ福音書﹂第︸章、第一節︱第五節︶ 幾世紀にも亙る宗教闘争の果に、西欧キリスト教の唯一神が南欧や北欧 三 ヘルダーリンの西欧ギリシア論 ︵高橋︶ の神話︵ミュートス︶の神々を征服して後、明知︵ロゴス︶の化身キリ ストが御神体なす十字架像として無条件に崇め奉られる習俗が西欧。に根づ いて以来、ゲーテの戯曲﹁ファウスト﹂。に見られるような﹁主なる機械仕 掛けの親爺神﹂︵︹二︺口︵8︶︶の﹁活動︵タート︶﹂︵︹三︺剛︵103︶︶ として﹁ロゴス﹂を解する傾向も定着したと考えられる。。ところが、始 源︵アルケー。︶なす明知︵ロゴス︶そのものたるキリストは、古典古代 の神々が君臨する神話︵ミュートス︶世界の只中に忽然と現われ、あた かも思想詩﹁パンとぶどう酒﹂第三節に聳える霊峰﹁堅固に留まる一者﹂ ︵︹三︺閣︶の如く、既存の神話世界観に峻厳と立ち開かったと考えられ る。 哲人ソークラテースの学知︵ロゴス︶は在来の古代ギリシア神話︵ミュ ートス︶を敬う既成意識に決然と対決した。明知︵ロゴス︶そのものた るキリストは、古代ギリシア民族のみならず西欧諸民族の神話︵ミュー トス︶の神々に敢然と敵対する﹁聖書﹂神話の神でもある。 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分 のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にある 、もの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主で あるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に 報いて、三、四代に及ぼし、わた1 を愛し、わたしの戒めを守るものには、 恵みを施してヽ千代に至るであかイ ︵﹁旧約聖書﹂﹁出エジプト記﹂第二〇章、第三節−第六節︶ 諸民族は伝承において自らの歴史を担い、生活において自らの風土を有 する。諸民族の歴史には各々独自の世界観、或いは世界﹁像﹂が在り、 それを諸民族の神話が十人十色に﹁造﹂形する。﹁旧約聖書﹂とても。 本来イスラエル民族の歴史に他ならず、そこに登場する﹁あの感受され るだけで、決して濃密なる造形へと結晶すること無き力﹂︵︹二︺圃︵25︶︶四 高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学 たる﹁生ける神︵エロヒームーハイーム︶﹂︵︹二︺闇︵68︶︶の無造形む 所詮一種の﹁像﹂あるいは﹁観﹂と看倣せるであろう。成程この﹁旧約聖 書﹂は、古代ギリシア神話造形に見い出されるような諧調︵ハルモニアー︶ なす自然万有︵コスモス︶の神界の歴史︵テオゴニアー︶ではないが、少 くとも比較的造化の妙が枯渇した砂漠の宗教史であり伝承であると言えよ う。右の引用にある全てあらゆる造形化を厭うイスラエル民族の生ける神 χ I I イ干ホヴァーの本質には、実に森羅万象なす造化の妙に乏しい砂漠の空漠
とした時空が控え
西欧諸民族の自然
控えているようでおる。実際七の空漠4Jした砂漠の時空を、・ 一一lχ ss’χs 一 一 I II I I f l’︱自然に生ける神々の世界の只中に持ちこんだのが、他ならぬ。 キリスト’教でありゃこの新興宗教の明知︵口’コ・ス︶そのもの’たる神人キリ ストの権威による偶像破壊の猛威︵︹一︺・閣︵41︶︶によひ、西欧諸民族 ﹄の無数なす夥しい歴史文化遺産が木端微塵の﹁百雑砕﹂に帰した0 である。し s4 sl− ・ ’ぐ ’‘’・ ‘ ここに正に無の思想︵︹三︺図︶。が在る。 ﹁明鏡﹂として勿丿然と到来した明知︵ロゴス︶の化身キリスト十字 架像の神威の下に、西欧諸民族の神話︵ミュートス︶なす歴史伝承は微 塵に砕かれた。この非情なる明知︵ロゴス︶の神威は更に、イスラエル 民族の伝承﹁旧約﹂神話の神をも粉砕せざるを得ない。﹁旧約聖書﹂の 神は、右記の通り、﹁妬﹂み﹁憎﹂み﹁愛﹂し﹁恵﹂む生ける神イェホ ヴァーである。明知︵ロゴス︶そのものたるキリストの大悲︵アガペー︶ は、この生ける︵ハイーム︶神︵エロヒーム︶として、﹁在りて在る 者︵エヒイエーアシェルーエヒイエ︶﹂︵︹二︺剛︵68︶︶をも砕き、砂 漠の大地に張るユダヤ民族の根をも一刀両断とし、既成意識を﹁空無を 孕む内面の飛翔﹂︵︹三︺田︶へと解放し自由にした。実際キリスト教徒 迫害の急先鋒ユダヤ人パウロの使徒キリスト者への回心がその証左とな ろう。このように万有自然の大地から根こそぎ自由となる純粋精神とし て、明知︵ロゴス︶そのものたるキリストは諸民族の伝承風土の神々に ﹁堅固に留まる一者﹂︵︹三︺閣︶の如く毅然と立ち開かったと考えられ る。それのみではない。西欧キリスト者は更に、﹁堅固に留まる一者﹂ の秘蔵︵フェアボルゲンハイト︶・の静謐に住せず、古来の父祖伝来の神 話造形を偶像と看倣して悉く破壊し尽くさんと狂騒した模様である。宣 教師ザビエルの渡来︵一五四九年︶以来、わが国の寺院も焼失を免かれた わけではなかった。実に地球の裏側まで西欧キリスト者の偶像破壊の勢 力圏は伸び、南米北米のインカーインディオの文化遺産はほぼ根絶やし にされたと見て間違いなかろう。古来綿々と近世まで続くこの﹁野蛮﹂ ’なる偶像破壊の淵源。たる﹁神聖なる﹂明知︵♭ゴス︶。の化身キリス下の 。有した﹁否定的なものの物々しい力母︵マハト︶・’﹂。︵︹三︺剛・︵72︶︶と、 諸民族に伝承されだ神観は血塗れの格闘を繰り返したのであ昨、ごの神々 Ir −I ・ y f︱ ’ ゜一 四 一 ″ a1 ‘と唯一神どの宗教戦争の果てに西欧諸民族の神観は明知・︵ロゴス︶の空 無へと呑み込まれヽ後世キリス。卜教西欧が誕生の副声をあげたのである・・Å ’西欧意識における明知4 リスト教の勝利は、古来から諸文化に多様な 姿で伝承された民族固有の神々の世界を、唯一つの教会の明知︵ロゴス︶ が呑みこみ、西欧キリスト教が今度は体制宗教として実定的な既成権力 となり、逆に﹁杏定的なものの物々しい力量﹂の襲来する危機に自ら常 に晒されることを意味する。つまり西欧キリスト教自らが誕生におい て孕んだ無の思想は、哲学知︵ロゴ・ス︶の雄ソークラテースや明知︵ロ ゴス︶そのものたる神人キリストの生きた現実へと眼差しを向ける度に、 常に新たな﹁空無を孕む内面の飛翔﹂として甦るのである。本論の焦眉 の急なす﹁至福なるギリシア﹂の召喚は、この﹁内面の飛翔﹂の精華と 看倣され得よう。即ちこの召喚により、﹁至福︵ベアーティタース︶﹂ はキリスト教西欧から突然に消失し、空無を孕む西欧意識の深淵に古典 神話の畏怖と荘厳なる悲劇祝祭の時空が開けるのである。それのみでは ない。西欧キリスト者に本来至福を恵むべき神人キリスト像そのものも、 他ならぬ﹁至福なるギリシア﹂の悲劇祝祭の時空から古典古代の神とし て、つまり外の死圏から密やかに顕現するに過ぎないのである。この密やかなキリスト像は直接名指しされることなき言わば﹁隠れた 神︵︷︸eus absco乱itusJjとして、だが詩歌象徴としては紛れもなき神 人キリストとして歌い上げられる。 ∼ 一〇五 Warum zeichnet. wie sonst。 die Stirne des Mannes ein Gott nicht。 Driikt den Stempel。 wie s0inst。 nicht dem Getroffenen auf? I Oder er kam auch selbst und nahm des Menschen Gestalt an IにInd vollendet' und schloB trostend das himmlische Fest. 一〇五 なぜ ‘ ︵西欧の時空では、︶万劫の額に或る︵ポイボス神アポ・Iンの如 き︶神が、 古典古代の如く悲雄の恪印を撃たぬのか? 或いは神自身もまた来臨し、しかも人の諮をとり、 そして天上の祝祭を終結し宥和したのだ。 ︵﹁パンとぶどう酒﹂第六節、第一〇五句−第一〇八句︶ 第一〇七句冒頭の﹁或いは︵オーダー︶﹂に音律と語義の両面で注目し たい。この接続詞に引き続く単語は僅かにそれとなく﹁彼︵エア︶﹂と 人称代名詞で﹁或る神︵アインーゴ。ト︶﹂︵第一〇五句︶に呼応するに 過ぎず、それ自身では明確な実体を示さない。ここは韻律上ダクテュロ ス︵強弱弱格︶で﹁オーダー・エア﹂と読める。つまり﹁彼︵エ″︶﹂ よりも﹁或いは︵オーダー︶﹂に強声があり、敢て意訳すれば﹁或いは もしかすると神が ⋮⋮⋮ ﹂と言う風に解される。このように﹁神﹂ はむしろ隠れている。 ところで、この﹁或いは︵オーダー︶﹂ぽ接続詞として前後の文章を 対置させる。この接続詞の前方第一〇六句までは、古典古代の悲劇神話の 畏怖と荘厳なる神、例えば悲雄オイディプースの﹁無知の知﹂︵︹三︺・ぼ︶ を撃つポイボス神アポローンが﹁或る神︵アイン・’ゴ。ト︶﹂︵第一〇五句︶ として語られている。これと対称をなして、接続詞﹁或いは︵オーダー︶﹂ の後では、﹁神自身︵エア ・・・⋮’: ゼルプスト︶﹂に言及される。と 五 ヘルダーリンの西欧ギリシア朧 ︵高橋︶ の﹁自身︵ゼルプスト︶﹂は韻律上も明らかに強声を有する。つまり、﹁オー ダー・エア︵ダクテュロス︰強弱弱格︶、力−ムーアウホ︵スポンデイオ ス︰強怪格︶、ゼルプストーウント︵スポンデイオス︰強強格︶、・⋮⋮⋮ ﹂ ︵或いは神自身もまた来臨し、しかも ⋮⋮⋮ ︶と続き、 Oder er kam auch selbst und⋮⋮ ICC一I j 一 一一−
加えて引用の最後のスポンデイオス︵強強格︶の﹁ゼルプスト︵自身︶﹂
と﹁ウント︵しかも︶﹂との間に、中間休止︵カエスーラブが挾まり、
語勢は﹁ゼルプスト︵自身︶﹂で一時塞き止められ、この﹁ゼルプスト
︵自身︶﹂は一層と強く意識される。
この﹁自身︵ゼルプスト︶﹂は語義上も意味深長である。﹁神自身﹂
とは﹁神そのもの﹂、﹁自存する存在︵エッセ︶そぼもの︵イプスム︶﹂
︵︹一︺圓︵58︶︶、つまり神話︵ミュートス︶造形の神ならぬ明知︵ロ
ゴス︶純粋思惟の神を、すなわち自然造化の妙ならぬ精神の神を意味す
る。この説明には、ヘーゲル﹁歴史哲学﹂の次の論述が引用されるに相
応しかろう。 プ
神が三位一体であることが知られるとき、はじめて神は精神として認識され る・この新七い原理は世界史転回の基軸である・歴史はひひ心終かとともに、 また乙こから始まる。﹁時満つるに及びては、神はその御子を遣わし ⋮⋮ 給えり﹂︵﹁ガラテア書﹂四の四︶と聖書の中にも記されている。これは自意 識が精神の概念に属する諸契機にまで高まり、絶対的な意味で、これらの契 機を把握しようとする要求を感ずるに至フたという意味にほかならない。い まこの点を、いくらか詳しく述べてみよう。前にギリシア人の精神の法則が ﹁汝自身を知れ﹂ということであったことをいった。しかし、ギリシア精神 は精神の意識ではあったが、それはまだ自然の要素を本質的な成分とするよ うな制限された精神の意識であった。精神はなるほど、この自然の要素を支 配しはしたが、しかし支配者と被支配者の統一は、まだそれ自身自然的なも教西欧なのである。
このキリスト教西欧を把える詩人と哲学者との視点の相違は、当然各々
の古典ギリシア理解に基ずくと考えられる。この理解における両者の差
異については既に述べたように、古典神話︵ミュートス︶の畏怖と荘厳
︵シュレックリヒーファイアーリヒ︶に対して、﹁ヘーゲルが振り返り
見て閉鎖したのに対し、ヘルダーリンは前を見やり開けた﹂︵︹三︺剛
︵78︶︶と言えるのであって、概念たる哲学知︵ロゴス︶を詩歌象徴の
調べより高次な人知と看倣す哲学者ヘーゲルが、あたかも先に述べた美
術史家ヴィンケルマンのように﹁ソー。クラテース派の諸著作﹂を﹁ギリ
シア最盛期﹂︵︹二︺m︵84︶︶の証左と考え、この明知︵ロゴス︶への
傾斜において神人キリスト像へと丸く収まる大団円を構想したのも不思
議ではない。これに対するニーチェの﹁悲劇の誕生、或いは古典ギリシ
ア精神と空無の思想︵ペシミスムス︶﹂︵一八八六年︶における鋭い批判
﹁空無を孕む内面の飛翔﹂︵︹三︺山︶へと開き、既成西欧意識﹁自身を
も越えた現存の彼方へと向か﹂う道程において、明知︵ロゴス︶へと高
まる神話の神キリストが問われないと誰が言えようか。
外へ往くな。汝自身の内へと帰れ。現存の深奥に真理は住まう。そして、も し汝の本性が移ろい往くのを見い出したら、汝自身をも越えた現存の彼方へ と向かえ。 ︵アウグスティーヌス﹁真の宗教について﹂第三九章、第七二節、 ︹二︺圓︵67︶︶ t _ / ゝ 高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学 のであった。精神は民族精神︵民族の守護神︶や神々という、たくさんの個性 の形態をとって、規定された特殊的精神として現われ、また芸術によって表象的 に表現された。しかし、芸術においては感性的要素が、あくまでも美的形式と美 的姿像の中心になるから、精神はそこではまだ純粋思惟にまで高まらなかった。 ︵﹁歴史哲学﹂第三部 ローマ世界、第三篇 帝政時代、 第二章 キリスト教︶ 明知︵ロゴス︶そのものたる神人キリストを﹁世界史転回の基軸﹂に据 えるのは、ヘーゲル﹁歴史哲学﹂犯も、ヘルダーリンの思想詩’﹁パ’ン泡 ぶどう酒﹂にも見られる附様の観点である。哲学者へIゲルは、﹁歴史 はとこに終るとともにヽまたひひ加”s\始まる﹂と明言する。思想詩﹁パ ン、とぶどう酒﹂でも、明知’︵口しコ’ス︶純粋思惟の化身キリストが、古典 ︸神話︵ミュ才スド︶。世界における﹁天上の祝祭を終結し宥和﹂︵第一〇 そのように大団円を迎えること、君達がそのような大団円を迎えること、つ まり文字通り﹁心を慰められ﹂て、厳粛と畏怖に向けて自己形成するあらゆ る努力にも拘わらず、﹁形而上の︵あの世での︶心の慰め﹂を得て、端的に 言えば、浪漫情緒の持主の如くキリスト教により︵あの世での︶心の慰めを 得て安心立命する。⋮⋮⋮ これはならぬ! 否である。 ︵﹁自己批判の試み﹂第七章、︹二︺閤︵7︶︶ ’ は周知のことである。 この立言は一見するところ、・明知︵ロゴス︶の雄たる神人キリストから 逸れ、懐疑︵スケプシス︶と皮肉‘︵イロニF︶。の泥土に足を掬われるが 如き観を呈するかも知れない。だ・がむし石真実は正反対であるように私 には思われる。すなわち、﹁厳粛と畏怖祀向けて自己形成するあらゆる例えばヘーゲル哲学知︵ロゴス︶により丸く収まる浪漫楽天思想︵オプ
ティミスムス︶を、厳しい﹁自己批判の試み﹂において﹁古典ギリシア
精神と空無の思想︵ペシミスムス︶﹂へと越えてゆく西欧キリスト者の
眼前に、﹁神自身﹂として立ち現われて来る無の零︵ゼロ=O︶点、こ
れを詩人ヘルダーリンが思想詩﹁パンとぶどう酒﹂における西欧ギリシ
レ句︶して古典訪代め﹁歴史砲ひひI心終か﹂ニのでありヽどの佐瀬古代≒∼∼ヽ努功圧・お。て、省察心淵へと深沈する西欧意識が敬虔淳障りの逼底
の終焉とともにヽ他方新たに、。﹁ひひ豹y始まる﹂のが他な妬ぬキリスト。ノ ︵グラウベンスーアプグルント・テ″−フエ︶にお。いて直向に自我をI
ア論に﹁平衡︵グライヒーゲヴィヒト︶﹂︵︹二︺剛︵90︶︶あらしめる
﹁中間休止︵カエスーラ︶﹂︵︹二︺剛︵102︶︶として把えた点は既に本
論で叙述した通りである。
この思想詩の中間休止︵カエスーラ︶なす無0 理︵ロゴス︶が、比所
で話題の﹁神自身﹂︵第一〇七句︶に他ならない。ところで、神人キリ
ストを﹁神自身﹂と語る以上、古典ギリシアの神々は当然﹁神自身﹂で
はない。すると、﹁神自身﹂ならぬ神々は、言わば唯T水遠なる﹁神自
身﹂の陰影となる。蓋し、この永遠の影なす古典神話の畏怖と荘厳なる
時空が﹁至福︵ベアーティタース︶﹂として西欧キリスト者に立ち陽か
り、西欧選民意識粉砕︵︹二︺圓︶の淵源となり、かくして敬虔なる西
欧意識の深淵に謹厳な祈りの基底が開けたのである。ところで、当該の
思想詩は﹁パンとぶどう酒﹂と題され、究竟﹁キリスト者の繊細な精神﹂
︹二︺圓︵51︶︶に誠意をもて応えるべく神人4 リスト像を詩歌象徴の
調べにて奏でる期待を覚醒せざるを得ないと思われる。だがしかし、こ
の荘厳なる秘跡︵サクラーメーントゥム︶なす神観は、ゲーテ﹁ファウ
スト﹂の大団円を丸く収める﹁永遠の女性﹂︵︹二︺閣︵12︶︶の如き神
秘に甘えた浪漫情緒の安逸なる地平には決して見性されぬ﹁至高の極致
の明鏡へと映し出され﹂︵︹︺︺閣︵18︶︶ねばならない。故に﹁神自身﹂
に他ならぬ神人キリストは、恥じらいなく西欧意識に﹁機械仕掛けの神﹂
の如く晴がましく現われるのではなく、むしろ古典神話︵ミュートス︶
の畏怖と荘厳へと隠れて現われることに成るのである。ヘルダーリンの
思想詩では、この陰影を濃く細やかにして、
Oder er kam auch selbst:⋮ 或いはもしかすると神自身もまた来臨し、・⋮⋮⋮ ︵﹁パンとぶどう酒﹂第六節、第一〇七句︶と幽玄霊妙に歌われて、﹁至福なるギリシア﹂︵第四節冒頭、第五五句︶
七 ヘルダーリンの西欧ギリシア論 ︵高橋︶ の召喚により百雑砕へと瓦解した敬虔なる西欧意識の﹁絶望﹂なす祈り の淵に・、﹁希望︵エルピ・ス︶﹂︵︹二︺剛︵m⋮︶︶の慎ましく﹁ひそやか な燈火の光明︵エアロイヒトウング︶﹂︵︹三︺田︵3︶︶たる詩歌象徴 の調べとなっているのである。 しかも、この﹁神﹂は既に述べたように、人称代名詞﹁彼︵エア︶﹂ として、その二回剛の﹁或る︵ポイボス神アポローンの如き古典古代の︶ 神︵アイッーゴット︶﹂と呼応するに過ぎず、古典ギリシア神話の神の 残影を微妙に保たざるを得ない。だがしかし、。引き続いて﹁自身︵ゼル プスト︶﹂と明知︵ロゴス︶の盤刃を力強く刻まれることにより、不可 避必然に﹁神自身﹂としての神人4 リストヘと眼差しが向くのである。 従って、人称代名詞﹁餓︵エア︶﹂が、古典古代の神話︵ミュートス︶ の神と明知︵ロゴス︶の化身たる神人キリストとの繋ぎ目となる。 04の﹁Q﹁rp∃pcQ7紹iS:⋮ 或いはもしかすると彼自身もまた来臨し、・⋮⋮⋮ この﹁彼︵エア︶﹂と云う繋ぎ﹁目﹂は実に小さい幽かな眼に過ぎぬが、 しかしその幽玄な深く隠れた霊妙さにおいて、逆に台風の目の如き﹁世 界史転回の基軸︵アングル︶﹂︵註︵114︶︶として奥底から働きかけるの雄弁に語り出だすのに躍気となる西欧意識には難中の難なす大事に思わ
れる。実際、学知︵ロゴス︶の雄ヘーゲルの右記の能弁︵註︵m︶︶に
も、﹁彼の大いなる修辞︵レートリカ︶と抒情︵リュリカ︶の場景﹂
︵︹二︺閣︵51︶︶なすゲーテの大作﹁フ″ウスト﹂にも、このような融
通無碍は体得されていないように思われる。だが正に比所にこそ参学す
べき﹁光明︵エアロイヒトウング︶﹂が慎ましくも謹厳に輝いているの
である。
八’ 高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学
かくして思想詩﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像を密やかに点す﹁燈
かの光︵エアロイヒトゥング︶﹂からの一条の光明が、第六節の終結部
を締め括る神人キリスト像の幽玄霊妙なる空無の﹁目﹂たる零︵ゼロ=
O︶占Jへと消え隠れて現われるのである。
Rings um ruhet die Stadt; still wird die erleuchtete Gasse。 静かに安らう都市Jひそやかに街路に燈火︵エアロイヒトゥッグ︶がともり、 、 ︵ ‘ ﹁パ’ンとぶどう酒﹂≒第7節、第一句、︹三︺出︵3︶︶ 真骨頂を、詩人ヘルダーリンは﹁至福なるギリシア﹂︵第五五句︶召喚の 最高潮に据えたのである。 五五 Seeliges Griechenland!⋮⋮ Wo。 wo leuchten sie denn。 die fernhintreffenden Soriiche? Delphi schlummert und wo tonet das groRe Geschik? ’ Wo ist das schnelle? wo brichis。 alleeenwartieen Gliiks voll Donnernd aus heiterer Luft iiber die AuEen herein? I I I I I 六五 、Vater Aether! 。。。。。 ︰ I・I − 一ll’I“ . t“ ︱ ゛﹄ ゛ ゛ ゛ ゛ 此所で’﹁熾やのともる街路︵Jアロイヒクテーガッセ︶﹂を隨蕩す︵光明∼ 。 ?アロそ。ピトゥ乙グ︶﹂がヽ﹁彼︵エア︶﹂に消え隠れて現われると⋮⋮‘ 七〇 ¥一‘ ’ l r − − ﹃ I I r 一w− 一 4読める・すなわぢy思想詩ご﹁パンとぶどう舞﹂’は冒瀬の都市像を点す慎﹂ 八∼な﹁光明︵エアロイヒトゥシLグ︶﹂において既に、﹁神自
︵エア︶﹂の﹁目﹂が幽かに文字通り宿っていると読み取
れるのである。
ところで、﹁神自身﹂とは﹁明鏡﹂
思惟にまで高まった精神﹂
の如き明知︵ロゴス︶たる﹁純粋
0 帯でありヽ﹁美的形式とか美き﹁表象︵フォーアーシュテルー
︵s︶︶へと木端微塵に粉砕する無
︵註︵114︶︶を﹁ の如 ﹂︵註︵ロゴス︶である。だが既に論
述したように、この無の真諦は西欧キリスト者の選民意識に独占される
ものではない。この﹁明鏡﹂の無の理︵ロゴス︶は、正に古典ギリシア
神話の雄オイディプースの悲劇誕生においても、無知の知を砕き破邪顕
正されたと見ることができるのである。すなわち、知者の雄オイディプー
スが自己の知恵︵ソピアー︶の空無を認知︵アナグノーリシス︶し、
﹁無知の知﹂を見性する﹁空無を孕む内面の飛翔﹂において、この無の
理︵ロゴス︶が神話︵ミュートス︶世界に﹁偉大なる運命︵モイラ︶﹂
として突入する、この畏怖と荘厳なる必然︵ネメシス︶なす悲劇誕生の
Vater! heiter! und hallt。 so weit es eehet。 das Uralt .. Zeichen。 von Eltern eeerbt。 treffe乱und schaffehd hinab. 。 ” ¨ず に で し。 ’ノ”ト 。 ﹀ 。﹃” 何処に、一体いずこに輝いてい。るのか、彼方をま・で射抜く︵ポイボス神 アポローンの弓弩の如き︶あの神託は? ︵アポローン神の宮居す︶デルポイは郵膨んでいる。−鴎磐に轟く のか、あの偉大なる運命︵モイラ︶は? 何処にあの神速の運命は、何処で砕けるのか? 普遍の幸に満ちて、 雷鳴とともに、清燈刀る大気から眼界を避り、運命︵モイラ︶が突入 して来るのは清
回
礼E
六五 父なる神気アイテールよ! ⋮⋮ 父よ! 清澄なる者よ1・ この言葉は久遠の彼方まで響き渡るのだ。こ の太古の !¥9し (e>七〇 証は、父祖から伝来され、的を射て、創造的に下って来る。 ︵﹁パンとぶどう酒﹂第四節、第五五句︱第七〇句︶ 既成意識が﹁百雑砕﹂へと必然︵ネメシス︶不可避に崩壊してゆく古典 神話︵ミュートス︶の﹁畏怖と荘厳︵シュレックリヒーファイアーリヒ︶ なを形式﹂︵︹二︺閣︵15︶︶の只中で、あたかも﹁清澄なる神気アイテール﹂の如き﹁明鏡の水面から聖なる覚醒︵ハイリヒーニュヒテルン︶﹂
︵︹二︺剛︵91︶︶が甦り、﹁パンとぶどう酒﹂第四節の詩想はこの
﹁明鏡の聯欧ご ︵ Ins heiligniichterne Wasser ︶ J︹つ二︺剛︵81︶︶ と自らを空しく放下して、﹁父よ、清澄なる者よI・﹂と蒼寫なす碧空の空 無に向かい雄嘩びをあげるので。ある。 ’ 。実は既に﹁至福なるギリシア﹂への途上で、﹁空無を孕む内面の飛翔﹂ は、久遠の彼方に聳える道標なす霊峰を見い出していた。 ト Fest bleibt tiins; ⋮⋮ 堅固に留まる一者︵アインス︶。 ︵﹁パンとぶどう酒﹂第三節、第四三句、︹三︺閣︶ 当該の。﹁神自身﹂への問いにおいても、正にこの﹁一者︵アインス︶﹂ が焦眉の急となる。すなわち、哲学者ヘーゲルの右記の論述にもあるよ うに、﹁自然の要素を本質的な成分とするような制限された精神の意識﹂ に過ぎない﹁民族精神や神々という、たくさんの個性の形態をとって、 規定された特殊的精神﹂︵註︵Ⅲ・︶︶を乗り越え、勿論ヘーゲルが体系 づけた西欧精神︵ガイスト︶をも越え、唯﹁一者﹂な。る﹁神自身﹂へと 必然︵ネメシス︶の厳粛なる眼差︵︹二朗︵42︶︶が向くのである。 この﹁一者︵アインス︶﹂探求の姿勢をヘルダーリンは、悲劇詩人ソポ クレトスの古典作品﹁オイディプース王﹂における﹁悲劇性の表出﹂に 見い出す。 悲劇性の表出は殊に次の点に依拠する。・‘つまり神と人とが︼体と成り、無際 限に自然の威力と人間の内面の最深部とが、怒りにおいて一者︵7 インこ となるような途方も無いことが、無際限の分離により無際限の一体化が浄化 されることにより自覚される点てあが。 ︵﹁オイディプースヘの註解﹂第三章︶ 九 ヘルダーリン01西欧ギリシア論 ︵高橋︶ 無限なる絶対者と有限なるものとを峻別するスピノーザ﹁倫理学﹂や、 人知の有限性と物自体の秘蔵を両軸とするカント批判哲学などに見性さ れる、無の思想が孕む﹁根源︵ウア︶分離︵タイル︶﹂︵︹三︺圓︵57︶︶ の刃により[刀両断された﹁自然の威力と人間の内面の最深部﹂とを結 ぶ形而上の絆が、古典悲劇誕生の微積分﹁無際限の分離により無際限の 一体化が浄化されること﹂により新たに自覚されるのである。 更に詩人は、この自覚を右記箇所を念頭に置き、別の美学論文﹁アン ティゴネーヘの註解﹂において新たに説明する。 ﹁オイディプースヘの註解﹂でも示したように、悲劇性の表出は次の点に依 拠する。つまり無媒介直接の神︵デアーウンミッテルバーレーゴット︶が人 間と全き一者︵アインス︶となる点である。︵これに反して、︶即ち使徒と しての︵機械仕掛けの︶・神は、より間接的であり、これは精神の最も知的な 領域にある最も分別ある悟性であるから︵問題とならない︶。ところで、こ の神人合一は、無限の霊感︵ベガイステルング︶が無限に自らを掴むことで ある。これはつまり意識を揚棄︵アウフヘ・−ベン︶する意識での諸々の相克 により、神聖な霊感そのものに亀裂︵シャイデン︶が入ることである。かく ’して神は死の姿をとり現前成就するのであiK>° 実に﹁明鏡﹂。として﹁神自身﹂は、あらゆる意識を﹁百雑砕﹂ヽへと木端 微塵に粉砕して﹁死の姿をとり現前成就する﹂と考えられる。この畏怖 と荘厳にみちた神と人との避追は故に決して晴がましい﹁機械仕掛けの 神﹂の如き安逸なる大団円へと丸く収まらず、むしろ絶望の淵に深沈せ ’る意識の﹁絶対的分裂﹂︵︹三︺閉︶なす﹁根源︵ウア︶分離︵タイル︶﹂ の相の下に、始めて清澄なる威厳を具して現前成就するのである。 此所では峻厳なる神人分離︵シャイデン︶の思想が、終に神人合一 ︵アインス︶を理念︵イデー︶として樹立し、﹁清澄なる神気アイテー ル﹂の蒼寫なす碧空の空無へと眼差しを向ける。この﹁空無を孕む内面 の飛翔﹂では、神人合体の甘美な霊感の神秘に甘えた﹁叡知直観﹂︵︹三︺一〇 高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学 圓︶の天人飛翔の比翼は、あたかも哲人カントの批判学知︵ロゴス︶の 如き威力で断ち切られ、紺青の水底深く思念は絶望の淵へと沈みゆく。 だが水底に深沈せる意識の基底の顎門からは、あたかも混沌︵カオス︶ から大地︵ガイア︶と天空︵ウーラノス︶が誕生した如くに、理念追求 ︵イデアリスムス︶の止み難い根源︵アルケー︶から物々しい力量︵エ ネルゲイア︶が噴泉の如く清澄なる蒼寫を目指し送るのである。 この脈絡を詩人ヘルダーリンは、一七九九年から一八〇〇年化かけて の冬期に、古典文献学の専門家シュッツ︵一七四七年−一八三二年︶宛 の書簡において一層と解かり易く説明して次のように語る。 ・` / ‘かくして古典ギ丿シアぱ、 ‘ 神々しいものを人間化して表現しました吐れども、ヽ I I i 一 ″″ い‘しかし常に人絹本来の尺度は回避しました。当然の‘ことながら、詩歌芸術の ・全本質は、霊感におきましても、慎しみや冷静なる。姿におきましてもバ清澄 / j ` jl I ■ − I ト ー ー ﹃‘ なる神事なのですから、決して人間を神々に、或いは神々を人間にし立て、。’‘・ 不浄な偶像崇拝を挙行してはなりません。只管に神々と人間とを相互に︵無 限︶接近させることが許されるのみです。悲劇はこのことを二律背反の矛盾 相克により提示します。神と人とが一者︵アインス︶の如き仮象︵シャイン︶ が立てられますと、運命︵モイラ︶が到来し、人のあらゆる卑下やあらゆる。 不逞を覚醒します。だが最後には、悲劇の運命︵モイラ︶の襲来により、天 上の神々に対する崇敬が︸方に、 タルシス︶が残りま徊〃 また他方に人間固有の浄化された心情︵ヵ ︵第二〇三書簡︶
此所で詩人も明言している通り、悲劇の白眉オイディプース神話の神を考
量する限り、古典ギリシア精神の本性が﹁敬虔︵ピエタース︶﹂と見性
され、﹁至福なるギリシアー﹂は単なる空言ではなくなるのであろう。
実際この古典悲劇造形の畏怖と荘厳︵ティノス︶なる時空と比すれば、
むしろ中世以来巷で挙行される受難劇の方にむしろ﹁偶像崇拝﹂の一端
が窺えよう。なぜなら、このキリスト教西欧の祝祭空間では、人が神な
のか、神が人なのか皆目解からぬ有耶無耶の籐朧とした悲哀交の顎門の
中に神人キリスト像も呑み込まれてしまうからである。これに反して、 ﹁至福なるギリシア﹂の祝祭悲劇誕生の時空では、峻厳なる神人分離 ︵シャイデン︶の毅然たる慎しみにおいて始めて、万有の全一 ︵ヘン・ カジーパーン︶なす﹁最深の親密性︵ディーティーフステーイニヒカイ ト︶﹂も問われ得るのであり、この根源︵ウア︶分離︵タイル︶なす ﹁最深の親密性﹂の只中において、﹁神自身﹂なる明知︵ロゴス︶その ものたるキリストも、静謐の秘蔵︵フェアボルゲンハイト︶に隠れた神 、‘ ひそ lχχI 一 ’ ︵註に︵113︶︶として密やかに現われ右のであるヽ。 r F k 1 6y `‘ 此所に言う﹁最深の親密性﹂を語る詩人ヘルダーリーン。の美学論文﹁エ ごペドクレースの基底﹂二七九九年︶にはヽ−本論0 扱う吝典ギリ?ア ブと午リスト教西欧との敵対相克する二律背反の相互矛盾を念頭に置くと、。 フ次0 興味深。い叙述が見い出せ七 。 ドご ︿ so da6 in diesem Moment。 in dieser Geburt der hbchsten F e i n d s e e l i g k e i t d i e h o c h s t e V e r s o h n u n g w i r k l i c h z u s e y n s c h e i n t . かくして、この瞬間に、この最高の敵意︵ファイントーゼーリヒカイ ト︶の誕生の只中で、至高の宥和︵フェアゼーヌング︶実現の仮象︵シャイン︶ が立てられり此所に云う﹁仮象︵シャイン︶﹂が意味深長に思われる。実は右記の古
典学者への書簡でもヘルダーリンは、この﹁仮象︵シャイン︶﹂に言及
していた。
:⋮ Das Trauerspiel zeigt dieses per contrarium. Der Gott und Mensch scheint Eins ⋮⋮悲劇はこのことを二律背反の矛盾相克により提示します。神と人とが 一者︵アインス︶の如き仮象︵シャイン︶が立てられます ⋮⋮ ︵註︵118︶︶この﹁仮象︵シャイン︶﹂として思想詩﹁パンとぶどう酒﹂の神人キリ スト像を私は考えたい。つまり、この﹁仮象﹂としての﹁中間休止﹂な す神人キリストが、﹁天上の祝祭を終結し宥和した﹂と考えるのである。 この﹁仮象︵シャイン︶﹂とは﹁色印是空﹂の無の理︵ロゴス︶なす真 諦に他ならない。 実に﹁仮象﹂は﹁光明︵シャイン︶﹂であり、この光明キリストが思 想詩の内容上の﹁中間休止﹂︵︹二︺剛︵ 10 2︶︶として無の零︵ゼロ=O︶ 点と成り、蒼寫なす碧空に輝く日輪の下に浮き彫りにされる畏怖と荘厳 なる古典ギリシア悲劇が誕生する﹁天上の祝祭を終結し宥和した﹂ので ある。つまり、熾烈に輝くポイボス神アポローンが澗歩する古典神話の ﹁神々の日昼︵ダーク︶﹂が終結したのである。ところで、この﹁終結﹂ とは黄昏であり日没であり、キリスト教西欧の夜の始まりである。従っ て、この﹁終結﹂に輝く神人キリストの光明は、日没時に次第に現われ る﹁月影︵シャイン︶﹂とでも言い得よう。実に﹁月影﹂は碧空にも夜 空にも共に輝やく光明であり、日の出や日没のように定かな実在性なき 仮象である。此所で言う日輪に輝く古典ギリシアの神々の日昼の明るみ から、月影︵シャイン︶なす仮象キリストの光明への遷りゆきは、思想 詩の第六節終結部なす当該の箇所︵註︵m’︶︶においてヽ動詞の昨齢加 現在から過去へと微妙に移り往く動静の中で成就されている。 一〇五 Warum zeichnet. wie sonst. die Stirne des Mannes ein Gott nicht Driikt den Stempel。 wie sonst。 nicht dem Getroffenen auf? Oder er kam auch selbst und nahm des Menschen Gestlat an llnd vollendet' lind schloR trostend das himmlische Fest. 一〇五 なぜ︵西欧の時空では、︶丈夫の額に或る︵ポイボス神アポローンの如 き︶神が、 ≒ 古典古代の如く悲雄の熔印を撃たぬのか? 或いはもしかすると神自身もまた来臨し、しかも人の姿をとり、 一 一 ヘルダーリンの西欧ギリシア論 ︵高橋︶ そして天上の祝祭を終結し宥和したのだ。 ︵﹁パンとぶどう酒﹂第六節、第︸○五句−第一〇八句︶ ここで動相の移りゆく﹁目﹂は、既に述べた古典神話︵ミュートス︶の 神々から明知︵ロゴス︶なす神人キリストヘの繋ぎ目なす幽かな眼﹁エア ︵神︶﹂である。第一〇七句冒頭は、﹁或いは︵オーダー︶神︵エ″︶ が来臨︵力−ム︶し、⋮⋮⋮﹂と始まる。和訳で﹁神﹂と訳したこの 人称代名詞﹁エア︵彼︶﹂と、それに引き続く過去時制動詞﹁力−ム ︵来臨した︶﹂との間には、韻律上で僅かな切れ目がある。つまり﹁オー ダー・エア﹂︵ダクテュロス︰強弱弱格︶で韻律を区切れば、新たな韻 律︵強強格︶スポンデイオス﹁力−ムーアウホ︵もまた来臨した︶﹂と t tの間に幽かな息継ぎが来る。確かに、この﹁エアーカーム﹂’の間に幽か な韻律上の切れ目は存在するのであるが、しかし主述なすこの﹁エアー カーム︵神が来臨した︶﹂は分離し難い一体をなす。このように﹁エア ︵神︶﹂は割り切れぬ幽玄な律動の只中に位置を占めて^yる。そこで、 この﹁エア︵神︶﹂を﹁位置を占めるが場を有しない点﹂︵エウクレイ デース︶と解し、空無の零︵ゼロ=O︶点と考えれば、正にこの﹁エア ︵神︶﹂において、動相の﹁現在﹂から﹁過去﹂へと移りゆく﹁目﹂が、 既に見た古典ギリシアからキリスト教西欧への繋ぎの﹁目﹂と同様に見 て取れるであろう。この﹁目﹂において神人キリストは西欧意識にとり、 ﹁過去﹂へと隠れると同時に、空無の零点たる﹁月影﹂なす﹁仮象︵シャ イン︶﹂として現われるのである。 確かに、このように﹁神﹁エこ﹂が無明に隠れることこそ﹁神自身﹂ の無限にして絶大なる畏怖と荘厳の本質に相応しいと言える。万有を無 に帰する﹁明鏡﹂の如き﹁神自身﹂がむしろ秘蔵︵フェアボルゲンハイ ト︶へと隠れ、万有が無から解き放たれ自由になることこそ、﹁神自身﹂ の大悲︵アガペー︶と考えられるからである。ここに﹁無からの創造
一二 高知大学学術研究報告 第三十五巻’二九八六年度︶ 人文科学 ︵クレアーティオー・エクスーニヒロー︶﹂の真諦があると私は考える。 つまり﹁神自身﹂が﹁過去﹂の無明へと隠れ、万有が光明`の﹁現在﹂へ ともたらされるのである。蓋し無明とは陰影であり、セバスティアンー バッハの雄篇﹁マタイ受難曲﹂︵一七二九年︶やイタリア文芸復興ルネ サンス絵画の巨匠レオ九ルドの名画﹁最後の晩餐﹂︵一四九三年−九七年︶ に見られる陰影徐やかで濃淡の油玄なる神人キ句スト像の有する崇高な る諦観がこの無明の真諦である 0この和やかに深沈せる真諦’の眼差しは、 古典ギ’リ’シア神話のぺ畏怖と荘厳なる形式﹂で熾烈娯燦めき輝/ペパラス l y ・ − l 一 I女神でアー余Iの鋭い1 光 ‘ ︵︹ニー︺㈲。︵29︶︶と好対称をなしてむしろ 穏やかで静かに内面を見詰める自己省察の深みから自ずと密やかに。とも る月影︵シダイン︶ の和ぎを有して私達の心の淵の内観なす魂の水面に 安らぎもて宿る。このよデに生者の活け。る視線と﹂は正反対に、 神人牛リ。。。。 ストのみが一人孤独に死を見詰め真諦もて無明政淵へと隠れてゆく。だが 真実を言えば、このように正に隠れることにより現われているのである。 このように隠れて現われる神人キリストに関して、﹁新約聖書﹂に収 められた﹁ヨハネ福音書﹂では、明知︵ロゴス︶そのものたる神人キリ ストについて次のように記されている。 その光明は暗閣の中に︵今も︶輝いているのであるが、しかし暗闇︵に在り し世の人々︶はこの光明を理解しなかった。 ︵﹁ヨハネ福音書﹂第一章、第五節。︹三︺I︵Ⅲ︶︶
神人キリストは他ならぬ﹁あからさまな真理︵アレーテイア︶﹂の﹁光明﹂
であり、﹁明鏡﹂の如く忽ち到来すれば、万有を﹁百雑砕﹂へと瓦解さ
せる神威なのであるが、実際には世に知られることなく静かに現われ、
密やかに姿を消し隠れたと、﹁ヨハネ福音書﹂は物語っている。実に神人
キリストの事跡は世間から見れば、たわいもない瓊来な出来事に過ぎな
かったのである。だがしかし、正にこの隠れて働く︵フェアボルゲッー ヴィルケX.︶と云える大︵いなる慈︶悲︵アガペー︶の神にこそ、﹁神々 しい安らぎ﹂。‘が秘蔵の荘厳なす静謐の。中に見い出されたのである。 yrのaQrQOQosc︸の汰ΦFQに︷tM︵︸の吼にs゛Fヨヨ︸iQゴ 一三〇 ,﹃ぶS§?’’、の︸og﹃作’IQJ ︷ぃr゛Qsに日Nlo7の?apQI口IQia炉同の’’、の宙口に口a’’、la宍 ’︸︷阿ヨの’仙の﹁ゴ︷ーヨ︸吋肖rQ︵w7oり町艮nQ︵りppびΦコsに一ロy ilか ` ・’ ゜1 ’ 4 ゛ー ーーー“ −‘ − i‘ ︲ ,‘ ダー・’クλ ’ yー ︲.︲︵あの︲古典古代の︶︲終焉に、昨かな霊威,︵キリ刄ト︶が現われ、.神々し’ところで別に興味深いことに、第八節でも第六節と同様に、古典ギリ シ・アとキリスト教西欧との繋ぎ目は、幽かな代名詞﹁彼︵エア︶﹂︵第一 三一句︶と考えられる。すなわち、この代名詞は、﹁静かな霊威︵キリ スト︶﹂︵第二一九句︶とも、或いは﹁至福なるギリシア﹂︵第五五句︶ における﹁天上の祝祭合唱﹂︵第一三二句︶とも決め難い両義性を孕む 詩歌象徴と看傲されるからである。かくして第六節での過去における神 の﹁来臨︵力−ム︶﹂︲も、未来に有るかも知れない第八節での﹁来臨 ︵ケーメ︶﹂も、共に唯一神には独占されぬ多義性の中を微妙に揺れ動 いているのである。 更に第六節の終結部においては、﹁神自身﹂の﹁来臨﹂に引き続き、 霊威キリストの本質規定が次のように歌い継がれてゆく。 ⋮:und nahm des Menschen Gestalt an ⋮⋮ しかも人の姿をとり。 ︵﹁パッとぶどう酒﹂第一〇七句︶
此所で神人キリスト降臨の真意が語られている。つまり﹁神自身﹂が
﹁人の姿﹂を取ると云う三位一体論が問われるのである。故に私は並列
接続詞を﹁ウント﹂と強く読み﹁しかも﹂と和訳する。成程、古典ギリ
シア神話の神々も、造形彫刻などで﹁人の姿﹂を取る。だが古典ギリシ
アの神々は本質から見て、大自然四大の威力︵エネルゲイア︶が示す神々
しい内実が、人間の形姿を纒い造形化され尤ものであり、成程生成消滅
の只中にはあるが人間の諸行無常の理﹁生者たらば、来し方へ石火の如
く消え往くこと﹂︵︹二︺圃︵34︶︶を体得する迄には至らず、あくまで
I神々であり心まで人間ではない。この神々と好対称をなして、この世に
誕生︵ナターレ︶し正真正銘﹁人の姿をとり﹂生き受難︵パトス︶し死
後魂︵プシューケー︶に復活︵ルネサンス︶する神人キリストこそ心ま
で人間であると言える。従って、古典ギリシアの神々は悲劇神話︵ミ’ユー
一三 ヘルダーリンの西欧ギリシア論 ︵高橋︶
トス︶において畏怖と荘厳︵シュレ。クリヒーファイアーリヒ︶なる形 式を取り、必然︵ネメシス︶不可避たる神威なす﹁偉大なる運命︵モイ ラ︶﹂︵︹二︺閣︶の襲来とともに、神々ならざる悲雄の﹁死の姿をとり 現前成就する﹂︵註︵川︶︶のである。かく古典古代の神々は何ら大悲 なき全く無慈悲な霊威ダイモーンである。これに反し神人キリストは言 明する。 慈悲︵エレオス︶を私は望み、そして︵生者が死の姿をとる︶犠牲は望まな い。 ︵﹁新約望書﹂﹁マタイ福音書﹂第九章、第十三節︶ この大悲︵アガペー︶ゆえに、﹁神自身﹂なるキリスト自らが﹁人の姿 をとり﹂この世に誕生し、生者たらざる﹁神自身﹂が受難︵パトス︶し ﹁死の姿をとり現前成就する﹂と考えられる。この神人キリスト来臨の 奥義なす三位一体論は実に意味深長にして幽玄霊妙なる理︵ロゴス︶で あり、この真諦を窮めるに至難の不立文字なのであるが、例えば西欧キ リスト論なす思索の成果﹁三位一体︵トリーニタース︶論﹂︵四〇〇年− 四一九年︶で教父アウグスティーヌス︵三五四年−四三〇年︶は、これ を﹁神の謙虚︵フミリダース︶﹂として理解して考量し、人心の内なる 密やかな﹁光明︵エ″ロイヒトウング︶﹂︵︹三︺田︵3︶︶に関連して 次のように探求の言葉を繋ぐ。 ところで私達の光明︵エアロイヒトゥング︶は明知︵ロゴス︶の分有、言い 換えると人類の光︵ルークス︶なる生命︵レーベン︶の分有である 0だがし かし、この明知︵ロゴス︶分有に与るに私達は全く無力で、しかも諸々の不 純な罪の心垢︵イムンディティア︶ゆえ一層相応しくなかったのである。だ から私達は清澄なる浄め︵ムンディディア︶に委ねられるべきであった。そ こで敵意が宥和され、崇敬へと高ぶる心が和らぐ、唯一無比︵アインス︶の 清澄なる浄めは、正しい者︵キリスト︶の︵受難なす聖︶血とこの神の︵受 肉なす︶謙虚︵7 ミリダース︶に他ならず、それ故に本性︵ナートゥーフ︶− 四 高知大学学術研究報告 第三十五巻 ︵一九八六年度︶ 人文科学 上私達と異なる神︵デウス︶の観想︵テオーリアー︶への道程で、私達は彼 の本性︵ナートゥーラ︶上私達と同じ人の姿を取り現われた神︵人キリスト︶ により清澄なる浄め︵ムンディティア︶へと委ねられるべきであった。この 神が私達と異なるのは本性︵ナートウーラ︶上ではなく、不純な罪︵ぺ。カー トウム︶の心垢ゆえである。だが私達は本性︵ナートゥーラ︶上神ではなく、 私達は本性上人間であり、不純な罪︵ぺ。カートゥム︶の心垢ゆえ私達は正 しくない。故に神︵人キリスト︶が正しい人の姿を取り、不純な罪の心垢な す人間に代わり、神︵デウス︶への仲介者と成ったのである。すなわち不純 な罪人は正しい者に調和︵ハルモニアー︶しないが、しかし人︵の姿を取る 神人キリスト︶に人間が調和するからである。ぞれ故に神人キリスト臆私達 にヽノ神自身の人性︵フーマーニタース︶との類似を結び合わせつつ、私達が ︵神と︶調和しない不類似を取り去ったのであり、、‘そして私達の死すべき運 命︵モルターリタス︶を神人声リストが分有しつづ、自身の神性’︵ディーウ ィ 1つニタース︶を私達に分有せしめたのである。・ / ¨ 。﹃。一 。︵﹁三位一体論﹂第四巻、。第二章︶ 西欧教父の厳しく鋭い自己省察の眼差しは、現存意識の只中に﹁神の謙 虚︵フミリダース︶﹂の証左たる神人キリストの来臨を必然︵ネメシス︶ 不可避ならしめる根源悪﹁諸々の不純な罪︵ぺ。カートゥム︶の心垢 ︵イムンディティア︶﹂を直視し見据える。だがこの脈絡が思想詩にお いて更に真剣に問われるのは、本論の焦眉の急なす神人キリスト像の空 無の零︵ゼロ=O︶点なす﹁中間休止︵カエスーラ︶﹂︵︹二︺剛︵102︶︶ の後に問われる第三部﹁西欧の夜﹂︵︹二︺剛︵105︶︶においてであり、 本論はそれに先立つ思想詩中央の第二部﹁ギリシアの日﹂を終結する神 人キリスト像で一旦論究を留めるのである。 かくして、﹁空無を孕む内面の飛翔﹂︵︹三︺剛︶は、白昼の熾烈なる ポイボス神アポローンの如き日輪の燦めく蒼宵なす碧空の下、’﹁偉大な る運命﹂︵︹二︺口︶が厳撒なる必然︵ネメシス︶の鋭い眼光なして襲来 し突入する畏怖と荘厳︵シュレックリヒーファイアーリヒ︶なる古典ギ リシア悲劇誕生の時空から、幽玄にして霊妙なる転調をへて、月影︵シヤ イン︶の光明︵エアロイヒトウング︶なす神人キリストの明知︵ロゴス︶ へと眼差しを向ける。新たな光明が仮象︵シャイン︶たる宥和に和らぐ ﹁静かな霊威︵キリスト︶﹂︵註︵124︶︶の訪れを告げる。と同時に、こ の真諦の﹁神自身﹂は過去の死圏なす﹁至福なるギリシア﹂の時空・へと 隠れるのである。この隠れた神の奥義を、わが国の仏門の祖師道元は ﹁正法眼蔵﹂第十九﹁古鏡﹂︵こ一四一年︶において。 ﹁鏡也自隠﹂なるべし。 ド ‘ − 一﹃ 一I I と明言している。正に此所に。参学すべ。きである。確かに。﹁明鏡﹂たる ﹁神自身﹂刄到凍の証左は、。万有の全一 ︵ヘツーカイ ‘ ・ ‘ パ 1こ・゛の`﹁百 獣幇﹂︵註︵105︶︶ ヽ言にて語れば、﹁ への木端微塵迦表現できよ与。だが更に幽玄なる妙 明鏡能ぼら隠れる﹂と言明でぎ’る0 である。実。にこの 真諦がヘルダーリンの思想詩﹁パンとぶどう酒﹂の﹁至福なるギリシア﹂ における神人キリスト像に兆していると言える。この眼目は、﹁エ″︵神︶﹂ ︵第一〇七句︶の深みある陰影なす月影︵シャイン︶の光明︵エ″ロイ ヒトウング︶なのである。 万古碧潭空界月。 ︵道元﹁正法眼蔵﹂第十九﹁古鏡﹂︶