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駒澤大學佛教學部研究紀要 65 - 002佐藤 秀孝「明州瑞巌寺の石窓法恭について : 南宋初期に活躍した宏智門下の破家子」

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明州瑞巌寺の石窓法恭について

南宋初期に活躍した宏智門下の破家子

佐 

藤 

秀 

  

はじめに

  南 宋 初 期 に 曹 洞 宗 に 属 す る 宏 智 正 覚 ︵宏 智 禅 師・ 隰 州 古 仏・ 覚 夫 子、 一 〇 九 一 ― 一 一 五 七 ︶ が 明 州 ︵浙 江 省 ︶ 慶 元 府 県 東 六〇里の天童山景徳禅寺に入院し、坐禅の実参を中心とした古淡な黙照禅を唱導すると、その化導を慕って江南各地から 多くの学人が天童山に参集しており、その数はおよそ一二〇〇衆にも及んだと伝えられる。後世、その門流を曹洞宗宏智 派と称しており、元代に東明慧日 ︵白雲、一二七二 ― 一三四〇︶ と東陵永 ︵妙応光国慧海慈済禅師、一二八五 ― 一三六五︶ が相 継いで日本に渡来し、日本の宏智派が鎌倉・京都の五山禅林に形成されている。   こ こ に 取 り 挙 げ る 石 窓 法 恭 ︵石 牕 叟、 一 一 〇 二 ― 一 一 八 一 ︶ も ま た 天 童 山 の 正 覚 に 随 侍 し た 参 徒 の ひ と り で あ り、 後 に 正 覚の法を嗣いで嗣法門人の一員に名を連ねた曹洞禅者に ほかならない。先に挙げた慧日や永 らは、法恭と莫逆の交わり を結んだ同門の法兄である自得慧暉 ︵一〇九七 ― 一一八三︶ の遠孫に当たっている。   法恭の伝記史料として貴重な ﹁瑞巌石牕禅師塔銘﹂ ︵以下、単に ﹁塔銘﹂ ︶ についての考察はつぎで触れるとして、その ﹁塔 銘﹂の冒頭には北宋末期から南宋初期における曹洞宗の流れに関して、 嗚 呼、 禅 林 五 枝、 蓋 出 二 本 一。 惟 曹 洞 宗、 至 二 蓉 一 大 振。 石 林 葉 公 左 丞、 称 二 与 レ 厳 者、 得 レ 必 精、 伝 レ 必 久 一。 河 南 邵 公 子 文、 称 三 為 二 立 之 士 一。 二 公 皆 名 儒、 言 必 不 レ苟。 一 再 伝 而 至 二 智 一、 尤 光 明 俊 偉。 而 師 得 二 正 伝 一、 卓 立 傑 出、 確 然 自 信。 末 後 一 著、照 二映今昔 一、盛矣。 と い う 興 味 深 い 表 現 が 存 し て い る。 こ の 記 述 に よ れ ば 、 中 国 禅 宗 の 五 家 の 一 派 で あ る 曹 洞 宗 は 北 宋 末 期 に 芙 蓉 道 楷︵ 定 照 一九 駒澤大學佛敎學部硏究紀第六十五號   平成十九年三月

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禅師、一〇四三 ― 一一一八 ︶ が出世するに至って大いに 振うように なったことが述べられており、左丞相の葉夢得 ︵ 字は少蘊、 号 は 石 林、 一 〇 七 七 ― 一 一 四 八 ︶ が 道 楷 を﹁之 れ が 与 め に 厳 な る 者 は、 之 れ を 得 れば 必 ず 精 し く、 之 れ を 伝 う れば 必 ず 久 し ﹂ と 称 え た こ と、 ま た 河 南 の 邵 伯 温 ︵字 は 子 文、 一 〇 五 七 ― 一 一 三 四 ︶ も 道 楷 を﹁特 立 の 士 ﹂ す な わ ち 飛 び 抜 け て 聳 え 立 つ 逸 材であると称えたことなどを伝えている ︵ 1︶ 。   道楷の門下に輩出した高弟としては丹霞徳淳︵ 子淳とも、一〇六四 ― 一一一七 ︶と鹿門自覚 ︵恵定禅師、? ― 一一一七︶ と枯 木法成 ︵普証大師、一○七一 ― 一一二八︶ と闡提惟照 ︵一○八四 ― 一一二八︶ といった人材が育成されており、これより曹洞の 宗風はしだいに隆盛へと向かっている。さらに徳淳の門人として大洪慶預 ︵慧照禅師、一〇七八 ― 一一四〇︶ と真歇清了 ︵寂 庵・ 悟 空 禅 師・ 了 菩 薩、 一 〇 八 八 ― 一 一 五 一 ︶ と 宏 智 正 覚 と い う、 い わ ゆ る 世 に ﹁芙 蓉 下 の 三 賢 孫 ﹂ と 称 さ れ た す ぐ れ た 三 人 の禅匠が輩出している。とくに徳淳が晩年に育成した法嗣である正覚はその才知きわめて高く、曹洞宗は南宋初期には正 覚を中心にかなりの勢力を有する集団に躍進しているわけであり、ここに取り上げる石窓法恭もそんな正覚の正伝を得て 傑出していたと絶賛されている ︵ 2 ︶ 。   法恭は同門の法兄である自得慧暉とともに、その後、宏智門下の古老として久しい接化をなし、曹洞宗の継承維持に尽 力した禅者として知られ、その系統こそ後世に存続展開することはなかったものの、それなりに興味深い活動をなした人 として位置付けられよう ︵ 3 ︶ 。以下、そんな法恭の知られざる活動のさまを整理し、南宋初中期の曹洞宗の実態の一部を解明 してみることにしたい。

  

伝記史料について

  法 恭 に 関 し て は、 幸 い に も 明 州 県 出 身 の 楼 鑰 ︵字 は 大 防、 攻 主 人、 一 一 三 七 ― 一 二 一 三 ︶ の 詩 文 集 で あ る﹃攻 集 ﹄ 巻 一一〇﹁塔銘﹂に﹁瑞巌石牕禅師塔銘﹂が収められていることから、宏智門下では最も詳しい事跡が知られる禅者といっ て よ い ︵ 4 ︶ 。 楼 鑰 は 楼 ︵? ― 一 一 八 二 ︶ を 父 と し、 汪 慧 通 ︵一 一 一 〇 ― 一 二 〇 四 ︶ を 母 と し て 紹 興 七 年 ︵一 一 三 七 ︶ に 生 ま れ て い る か ら、 法 恭 よ り は 三 五 歳 ほ ど 年 少 で あ る。 隆 興 元 年 ︵一 一 六 三 ︶ に 進 士 に 及 第 し、 後 に 参 知 政 事 に ま で 昇 進 し て 資 政 殿 学 士 と な り、 嘉 定 六 年 ︵一 二 一 三 ︶ 四 月 に 世 寿 七 七 歳 で 没 し て お り、 後 に 触 れ る ご と く 楼 鑰 の 語 る と こ ろ に よ れ ば 、 法 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二〇

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恭とはもともと親戚関係にあったものらしい。   ﹃攻 集 ﹄ 一 二 〇 巻 は 楼 鑰 の 主 書 で あ り、 そ の 中 に は 臨 済・ 曹 洞・ 雲 門 各 派 の 禅 者 あ る い は 天 台 宗 な ど の 教 僧 と の 交 流 を 伝 え る 記 事 な ど も か な り 多 く 散 見 さ れ、 当 時 の 禅 宗 な い し 仏 教 界 の 動 向 を 知 る 上 で も 貴 重 な 資 料 を 今 日 に 提 供 し て い る。法恭に関する ﹁瑞巌石牕禅師塔銘﹂ もその一つであり、ほかに曹洞禅者に関するものとしては、真歇派の大休宗珏 ︵小 珏、一〇九一 ― 一一六二︶ の﹁天童大休禅師塔銘﹂や、その法嗣の足庵智鑑 ︵鑑古仏、一一〇五 ― 一一九二︶ の﹁雪竇足菴禅師 塔銘﹂も撰しており、ともに﹃攻集﹄巻一一〇﹁塔銘﹂に 収められている ︵ 5 ︶ 。法恭の﹁塔銘﹂に は﹁璧求 二銘于余﹂とあ るから、法恭が示寂して後、その塔銘を楼鑰に依頼したのは、法恭の高弟でその後席を継いで明州定海県の瑞巌開善禅寺 に 住 持 し た 古 巌 如 璧 ︵堅 璧 と も ︶ で あ っ た こ と が 知 ら れ る。 ﹁塔 銘 ﹂ の 撰 述 年 代 は 正 確 に は 定 か で な い が、 お そ ら く 法 恭 の 葬 儀 万 般 が 終 わ っ て 後、 如 璧 が 楼 鑰 の も と を 訪 れ て 塔 銘 の 執 筆 を 懇 願 し た も の で あ ろ う。 ﹃攻 集 ﹄ 所 収 の﹁塔 銘 ﹂ に は 残 念 な が ら 年 記 な ど は 記 さ れ て い な い が、 実 際 に 明 州 定 海 県 の 瑞 巌 開 善 禅 寺 の 一 隅 に 立 石 さ れ た で あ ろ う﹁塔 銘 ﹂ に は、 おそらく撰述や立石の年時なども明記されていたはずであろうし、立石に関わった如璧をはじめとする法恭の門下の人々 の名なども刻まれていたことであろう。   また南宋代より以降に編纂された禅宗燈史には、一様に宏智正覚の法嗣として法恭の章が見い出される。もっとも古い のは南宋代中期に雲門宗の雷庵正受 ︵虚中、一一四六 ― 一二〇八︶ によって編纂された ﹃嘉泰普燈録﹄ であって、巻一三に ﹁慶 元府瑞岩石窓法恭禅師﹂の章が載せられており、いくぶん詳しい消息を伝えている。その後につづく南宋末期の﹃五燈会 元﹄ 巻一四 ﹁明州瑞巌石窓法恭禅師﹂ の章、明代初期の ﹃続伝燈録﹄ 巻二四 ﹁明州瑞岩石窗法恭禅師﹂ の章や明代末期の ﹃五 燈全書﹄巻三〇﹁明州瑞巌石窓法恭禅師﹂の章などはほぼ同文の内容を簡略化したかたちで載せている。ただ、明代末期 の燈史でも﹃祖燈大統﹄巻六三﹁寧波府瑞巌石窓法恭禅師﹂の章のみは、実際に法恭の﹁塔銘﹂を閲覧し、その内容を以 前の禅宗燈史と兼ね合せるかたちでまとめている点で注目される。   さらに法恭が活動した明州 ︵明清代には寧波府︶ の四明山の地誌で、清代初期に紹興府 ︵浙江省︶ 余姚の黄宗羲 ︵字は太沖、 一 六 一 〇 ― 一 六 九 五 ︶ が 輯 し た﹃四 明 山 志 ﹄ 巻 二﹁伽 藍 ﹂ の﹁雪 竇 資 聖 寺 ﹂ の 項 に も﹁法 恭 ﹂ と し て 章 が 存 し て お り、 こ れ も 法 恭 に 関 し て 独 自 の 記 事 を 伝 え る 点 で 注 目 さ れ る。 ま た﹃補 続 高 僧 伝 ﹄ 巻 九﹁習 禅 篇 ﹂ に も﹁法 恭 伝 ﹂ が 伝 え ら れ て お り、 ﹁塔 銘 ﹂ を 簡 略 化 し た か た ち で は あ る が、 伝 記 が か な り 詳 細 に ま と め ら れ て い る。 一 方、 県 志 と し て も 光 緒 三 四 年 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二一

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︵一九〇八︶ に刊行された ﹃奉化県志﹄ 巻三三 ﹁方外 ︿宋﹀ ﹂ に ﹁宏智覚﹂ ﹁宗珏﹂ ﹁智鑑﹂ らに 伍して奉化県の名僧として ﹁法 恭 ﹂ の 項 が 存 し て お り、 ﹃攻 集 ﹄ と﹃両 浙 名 賢 録 ﹄ が 典 拠 に 挙 げ ら れ て い る。 同 じ く 中 華 民 国 二 〇 年 ︵一 九 三 一 ︶ に 刊 行 された ﹃鎮海県志﹄ 巻三三 ﹁方外伝 ︿宋﹀ ﹂ にも鎮海県 ︵古くは定海県︶ の名僧として ﹁法恭﹂ の項が存しており、やはり ﹃攻 集﹄が典拠に挙げられている。   そ こ で 以 下、 ﹁塔 銘 ﹂ を 中 心 に 諸 史 料 に 基 づ い て 法 恭 の 事 跡 を で き 得 る か ぎ り 丹 念 に 辿 っ て み る こ と に し た い が、 そ の 際に先に挙げた主だった史料は、原則としてつぎのごとく略称して列記することにしたい。 塔銘 ⋮ ﹃攻集﹄巻一一〇﹁瑞巌石牕禅師塔銘﹂ 嘉泰 ⋮ ﹃嘉泰普燈録﹄巻一三﹁慶元府瑞岩石窓法恭禅師﹂の章 五燈 ⋮ ﹃五燈会元﹄巻一四﹁明州瑞巌石窓法恭禅師﹂の章 続伝 ⋮ ﹃続伝燈録﹄巻二四﹁明州瑞岩石窗法恭禅師﹂の章 祖燈 ⋮ ﹃祖燈大統﹄巻六三﹁寧波府瑞巌石窓法恭禅師﹂の章 全書 ⋮ ﹃五燈全書﹄巻三〇﹁明州瑞巌石窓法恭禅師﹂の章 四明 ⋮ ﹃四明山志﹄巻二﹁伽藍﹂の﹁雪竇資聖寺﹂の﹁法恭﹂の章 補続 ⋮ ﹃補続高僧伝﹄巻九﹁法恭伝﹂ 名賢 ⋮ ﹃両浙名賢外録﹄巻七﹁空空︿宋二﹀ ﹂の﹁法恭﹂の項 奉化 ⋮ ﹃奉化県志﹄巻三三﹁方外︿宋﹀ ﹂の﹁法恭﹂の項 鎮海 ⋮ ﹃鎮海県志﹄巻三三﹁方外伝︿宋﹀ ﹂の﹁法恭﹂の項   ただし、紙面の都合上、それぞれの項目で記事が存していない場合にはその史料を削除して配列することにしたい。な お、これら一一点以外の諸史料に関しては、その都度、各項目で別個に取り上げていくものとする。

  

出生と郷関

塔銘 ⋮師諱法恭、明州奉化人、俗姓林。母楊氏、号 二仏光道人 一、日誦 二蓮経甚専。一夕夢胡僧来謁 一、既寤而生 レ師。父早喪。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二二

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嘉泰 ⋮慶元府瑞岩石窓法恭禅師、郡之奉化人、族林氏。 五燈 ⋮明州瑞巌石窓法恭禅師、郡之奉化林氏子。 続伝 ⋮明州瑞岩石窗法恭禅師、郡之奉化林氏子。 祖燈 ⋮寧波府瑞巌石窗法恭禅師、奉化林氏子。 全書 ⋮明州瑞巌石窓法恭禅師、郡之奉化林氏子。 四明 ⋮法恭、号石窗、奉化林氏。 補続 ⋮法恭、自号 二石牕叟 一。奉化林氏子。其母感 二胡僧入 一レ夢而生。 名賢 ⋮法恭、奉化人、姓林氏。 奉化 ⋮法恭、号石窗、俗姓林。母楊氏感 二胡僧来謁 一、寤而生 レ恭。父早喪。 鎮海 ⋮法恭、号石窗、俗姓林。奉化人。母夢 二胡僧来謁 一、既寤而生 レ恭。   この人は法諱を法恭といい、道号を石窓または石窗あるいは石牕叟と称している。法恭という法諱は仏法に対してつつ し み 深 く 従 順 な こ と を 意 味 し て 命 名 さ れ た も の で あ ろ う か。 ま た 石 窓 と い う 道 号 は つ ぎ に 述 べ る ご と く 法 恭 の 郷 里 明 州 ︵浙江省︶ の四明山中に存する石穴の名に因むものと見られる。すなわち、先の﹃四明山志﹄巻四には﹁九題考﹂として、 所 謂 石 窗 者、 人 沈 明 臣、 以 二 蘭 山 一 雲 一、 奉 化 載 洵、 以 二 錫 一 窗 一、 皆 以 二 相 一 度。 宜 乎 其 失 之 遠 也。 ︵中 略 ︶ 一 曰 二 窗 一、 在 二 兪 邨 一。 自 レ 至 レ 十 里、 削 成 二 室 一、 高 五 尺、 深 倍 レ之、 広 如 二 而 六 之 中 界 石 一。 石 分 二 室 一 為 レ四。 謝 康 楽 二 居 一 云、方石四面開 レ窗、不其総在一面也。其謂之窗者、石穴多在平地故称之。為洞為室、此独懸空上出、有乎窗 一 也。 と記されており、この点は﹃大明一統志﹄巻四六﹁寧波府﹂の﹁古蹟﹂にも、 石窗、在 二四明山 一。唐陸亀蒙云、四明山有 レ峯、最高四穴在峯上 一、毎 二天色澄霽 一、望 レ之如 一。相伝、石窗四明之目也。 と簡略ながら記されている。これらによれ ば 、明州県西南一二〇里の仗錫山の大兪村にある四明山系の峰上に四穴があ り、快晴のときにはあたかも戸や窓のごとくに望まれたことから石窗の称で呼 ば れたとされ、ために石窗は四明の目と相 伝されたという ︵ 6 ︶ 。ちなみに 四明山の九題とは、石窗・過雲嶺・雲南・雲北・鹿亭・樊謝・潺湲洞・青櫺子・鞠侯という山 中に存する九つの名勝景観に ほかならない。法恭はおそらくこの郷里の勝蹟として知られた石窗すなわち石窓を自らの道 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二三

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号として使用したのではなかろうか。とすれ ば 、四明の名の由来となった石窓とは法恭にとって 地 名 ︵出身地にちなむ道号︶ とも称すべきものであったことになろう。   と こ ろ で 諸 史 料 と も 法 恭 の 出 自 に 関 し て は、 一 様 に 明 州 慶 元 府 奉 化 県 の 出 身 で、 俗 姓 が 林 氏 で あ っ た こ と を 伝 え て い る。 奉 化 県 は 明 州 内 の 六 県 の 一 つ で、 明 州 府 治 お よ び 県 の 南 に 位 置 し、 東 は 明 州 の 象 山 県 に 、 西 は 越 州 ︵浙 江 省 ︶ 紹 興 府 の 諸 曁 県 に 、 ま た 南 は 台 州 ︵浙 江 省 ︶ 寧 海 県 に そ れ ぞ れ 隣 接 し て い る。 奉 化 県 か ら 県 に か け て は す で に 述 べ た 四 明 山 の山系が聳え、また奉化江が流れており、奉化県西には後に法恭も住することになる雪竇山資聖禅寺が存し、奉化県東北 三 里 に は 唐 末 五 代 の 布 袋 和 尚 契 此 ︵定 応 大 師、? ― 九 一 六 ︶ ゆ か り の 大 中 岳 林 禅 寺 ︵岳 林 布 袋 道 場 ︶ が 存 す る な ど、 禅 宗 史 上 に名高い著名な禅刹も建てられている。おそらく状況からして法恭の出身地は奉化県でも北部の県に接する地域ではな かったかと推測される。   ちなみに南宋末期にまとめられて京都の慧日山東福寺に所蔵されている﹃仏祖宗派総図﹄には﹁明州天童宏智正覚︿隰 州 李 氏 ﹀﹂ の 法 嗣 と し て﹁明 州 瑞 岩 石 窗 法 恭︿本 州 林 氏 ﹀・ 明 州 広 慧 法 聡︿本 州 林 氏 ﹀﹂ と 記 さ れ て お り、 法 恭 と と も に 同 門 の 広 慧 法 聡 も 明 州 慶 元 府 の 林 氏 の 出 身 で あ っ た と 伝 え て い る。 ﹃仏 祖 宗 派 総 図 ﹄ が 資 料 の 作 成 に 際 し て 混 乱 を 来 た し て 法聡をも明州の林氏とした可能性も存するが、地域的には法恭と法聡がともに明州の林氏の出身であったとしても不思議 ではない。あるいは法恭と法聡は同じ林氏の同族として出家の道を選び、 ともに天童山の正覚に参学したのかも知れない ︵ 7 ︶ 。   と こ ろ で、 ﹁塔 銘 ﹂ に は 父 親 の 林 氏 に つ い て 何 ら の 記 載 も 存 し て お ら ず、 早 く に 没 し た こ と が 伝 え ら れ て い る に す ぎ な い。 こ れ に 対 し て 母 の 楊 氏 の 存 在 は き わ め て 大 き な も の が あ り、 法 恭 の 禅 僧 と し て の 生 涯 に 決 定 的 な 影 響 を 与 え て い る。 母の楊氏は仏門に帰依して仏光道人と号したとされ、かなりの篤信者であったらしく、法華信者として日々に﹃妙法蓮華 経 ﹄ を 誦 す る こ と は な は だ 専 一 で あ っ た と 伝 え ら れ、 法 恭 が か な り の 年 齢 に 達 す る ま で 存 命 で あ っ た こ と が 知 ら れ て い る。 ﹁塔 銘 ﹂ や﹃補 続 高 僧 伝 ﹄ な ど に よ れ ば 、 一 夕、 母 の 楊 氏 は 夢 の 中 で 胡 僧 が 来 謁 す る の を 感 じ、 夢 よ り 覚 め て 法 恭 を 生んだことになっている。胡僧とはインド僧ないし西域出身の僧のこと、いわ ば 西天の祖師を意味しており、法恭が後に 祖師西来の祖道を嗣続することを暗に示した霊夢ということになろう。   この法恭の出生の逸話は﹁宏智禅師行業記﹂にいう師の宏智正覚の出生の因縁とも類似して興味深いものがある。いわ ば 、法恭は母の法華信仰に支えられてこの世に生を受けたことになり、仏門との因縁はすでに出生する以前から結 ば れて 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二四

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いたことになろう。法恭が出生した年月日は﹁塔銘﹂でも記されていないが、示寂年時と世寿による逆算から、北宋末期 の 崇 寧 元 年 ︵一 一 〇 二 ︶ で あ っ た こ と が 判 明 す る。 父 の 林 氏 は 早 く に 亡 く な っ た と さ れ る か ら、 そ の 後、 法 恭 は 幼 児 期 か ら少年期にかけて母楊氏の手で育てられたものらしい。おそらく法恭は幼きより母の法華信仰を目の当たりにして成長し たものと見られ、それがしだいに出家の道を歩ませる機縁となったのであろう。   法恭が幼いときに如何なる活動をなしたのか消息は定かでないが、 ﹁塔銘﹂の中で撰者である楼鑰は﹁師之従姑、帰 二 叔 祖 一、 故 自 二 時 一 遊 ﹂ と 法 恭 と の 関 わ り を 述 べ て い る。 こ れ に よ れ ば 、 法 恭 の 従 姑 ︵叔 母 ︶ が 楼 鑰 の 叔 祖 ︵大 叔 父 ︶ に 嫁 い だ 因 縁 が 存 し、 た め に 幼 い と き か ら 楼 鑰 は 親 戚 関 係 に も あ る 法 恭 の も と に 遊 ん だ こ と を 述 懐 し て い る ︵ 8 ︶ 。 も ち ろ ん、 楼鑰は法恭より二五歳も年少であるから、実際には当時すでに天童山などで修行中であった法恭に憧れ、若いときからし ば し ば 法恭のもとを訪れる機会が存したのであろう。

  

棲真院の則韶のもとでの出家

塔銘 ⋮年十五、乃白 レ母出家、以棲真禅院僧則韶 一、落髪為 レ師。 嘉泰 ⋮於 二棲真院 一、下髪︵受具︶ 。 五燈 ⋮於 二棲真院 一、下髪︵受具︶ 。 続伝 ⋮於 二棲真院 一、下髪︵受具︶ 。 祖燈 ⋮薙 二染棲真 一。 全書 ⋮於 二棲真 一、薙染︵受具︶ 。 四明 ⋮出 二家棲真院 一。 補続 ⋮落髪。 名賢 ⋮従 二棲真院 一、下髪︵受具︶ 。 奉化 ⋮年十五、乃白 レ母出家。 鎮海 ⋮年十五出家。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二五

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  や が て 少 年 期 を 終 え た 法 恭 は 官 吏 の 道 を 選 ば ず、 い つ し か 出 家 修 道 の 道 を 歩 む こ と に な る。 ﹁塔 銘 ﹂ に は 法 恭 が 出 家 得 度するときの状況について、 年十五にして、乃ち母に白して出家し、棲真禅院の僧則韶を以て、落髪して師と為す。 と記している。これによれ ば 、法恭は一五歳のときに自ら母楊氏に出家せんことを申し出たことが知られ、母もこれを快 く許したものらしい。法恭が幼年期や少年期をどのように過ごしたのかは何ら伝えられていないが、父親の林氏が早くに 亡くなったのであれ ば 、母の楊氏ひとりの手で養育されたものかも知れず、母の仏教信仰を身近に見ながら成長していっ た の で あ ろ う。 法 恭 は あ く ま で 本 人 の 自 発 的 な 意 志 に よ っ て 仏 門 に 投 ず る こ と を 決 意 し た 消 息 が 知 ら れ る わ け で あ る が、 その背景に若くして亡くなった父への思いと人生に対する無常観があったこと、最愛の母の仏教信仰が大きな動機となっ ていたであろうことは想像に難くない。   法 恭 の 一 五 歳 は 政 和 六 年 ︵一 一 一 六 ︶ に 当 た り、 燈 史 類 な ど 諸 史 料 も 一 様 に 法 恭 が 棲 真 院 と い う 禅 院 に 投 じ て 髪 を 剃 っ て 出 家 得 度 し た こ と を 伝 え て い る。 こ の 棲 真 院 と は 法 恭 の 郷 里 奉 化 県 に 存 し た 棲 真 禅 院 の こ と で あ り、 ﹃宝 慶 四 明 志 ﹄ 巻 一五﹁奉化県志﹂の﹁寺院﹂によれ ば 、禅院の一つとして、 棲真院、県東七十里。晋天福八年置、名 二棲鳳 一。皇朝治平二年、改 二今額 一。常住田二百七十畝、山三百四十九畝。 と あ り、 棲 真 禅 院 が 奉 化 県 東 七 〇 里 の 地 に 存 し た こ と を 伝 え て お り、 古 く 後 晋 の 天 福 八 年 ︵九 四 三 ︶ に 建 て ら れ て 棲 鳳 院 と 称 せ ら れ、 北 宋 の 治 平 二 年 ︵一 〇 六 五 ︶ に 棲 真 院 と 改 め ら れ た こ と が 知 ら れ る ︵ 9 ︶ 。 一 方、 ﹃奉 化 県 志 ﹄ 巻 一 四﹁寺 観 上︿東 南﹀ ﹂には、 棲 真 禅 寺、 県 東 南 五 十 五 里︿歴 志 作 二 東 七 十 里 一、 曹 府 志 作 二 西 一 誤 ﹀ 尹 家。 晋 天 福 八 年 僧 建、 名 二 鳳 院 一。 宋 治 平 二 年、 改 二 棲 真 院 一。 明 洪 武 初 改 レ寺、 国 朝 順 治 十 八 年 棄 置。 康 熈 九 年、 僧 慈 倫 彝 瞻 重 修。 同 治 十 二 年 又 修。 光 緒 十 七 年、 新 二 法 堂 一。 堂 後 有 二 古井一 一。︿歴志、参采訪﹀ 。 と あ り、 こ こ で は 棲 真 院 は 奉 化 県 東 南 五 五 里 の 尹 家 に 存 す る と し て、 県 東 七 〇 里 と す る 説 や 県 西 と す る 説 を 誤 り と し て お り、 天 福 八 年 に 棲 鳳 院 を 建 立 し た 際 の 開 山 の 名 を 僧 と 記 し て い る。 そ の 後 の 変 遷 と し て 明 の 洪 武 年 間 ︵一 三 六 八 ― 一 三 九 八 ︶ の 初 め に 棲 真 禅 寺 と 名 を 改 め た こ と、 清 代 に お け る 伽 藍 の 変 遷 に つ い て も 触 れ て い る。 い ず れ に せ よ、 所 有 す る常住田二七○畝や山林三四九畝という規模からして、南宋代の棲真院は奉化県の郷村の中でもそれほど大きな寺院では 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二六

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な か っ た も の ら し く、 法 恭 の 郷 里 も こ の 棲 真 院 か ら ほ ど 近 い 奉 化 県 東 ま た は 東 南 の 地 に 存 し た の で は な い か と 推 測 さ れ る。もちろん、棲真院の近隣ではなく、奉化県西北の四明山中の石窗に近い地に法恭の郷里があった可能性も存しよう。   と こ ろ で、 ﹁塔 銘 ﹂ に よ れ ば 、 法 恭 は 棲 真 院 の 則 韶 に 随 っ て 落 髪 得 度 し た と さ れ る が、 他 の 諸 史 料 は い ず れ も 則 韶 に つ いて触れていない。当時すでに棲真院が奉化県の禅院の一つとして機能していたことから、則韶も禅僧であったことは疑 いなかろうが、如何なる素性の禅者で誰の法を嗣いでいるのか、その足跡については何ら定かでない。ただ、当時の禅宗 教 団 の 趨 勢 か ら し て、 則 韶 は 明 州 の 地 に 展 開 し て い た 雲 門 宗 か 臨 済 宗 黄 龍 派 の 系 統 に 属 す る 禅 者 で は な か っ た か と 推 測 さ れ る。 ち な み に﹁雪 竇 足 菴 禅 師 塔 銘 ﹂ に よ れ ば 、 後 の こ と な が ら 法 恭 と も 関 わ り 深 い 真 歇 派 の 足 庵 智 鑑 が 紹 興 二 四 年 ︵一一五四︶ より隆興二年 ︵一一六四︶ まで一〇年あまりの期間を棲真院に住持していることが知られている ︵ 10︶ 。   そのいずれにせよ、法恭としては郷里奉化県の一村院であった棲真院に投帰したものと見られ、住持の則韶も法恭の母 楊氏とはかなりの面識が存したはずであり、あるいは母の楊氏は棲真院の則韶のもとで仏法に帰依し、仏光道人と称した のかも知れない。したがって、法恭という法諱も仏門に投じて得度した際に受業師であった則韶より命名されたものとい うことになろう。ただし、宏智正覚の門下には法智・法為・法聡・法真など﹁法﹂の字を法諱の上字に持つ者が多いこと から、あるいはもともと則韶のもとでは□恭と命名されていたものを、後に正覚の門下に投じた時点で法恭と名を改めて いるのかも知れない。恭とは神仏に敬い使えること、慎み深い意であるから、仏法に対して恭順であることを願っての命 名であったものと見られる。   おそらく法恭は出家後一〇年近い歳月を棲真院を中心として郷里奉化県の地内で過ごし、この間、受業師の則韶に就い て仏教の基本的な思想や仏道修行の所作進退などを習得したものと見られるが、その間の具体的な研鑽修道の消息につい ては何ら伝えられていない。

  

受戒と湖心寺の南山律

塔銘 ⋮宣和七年、受 二具戒 一、習 二南山律于湖心寺 一。 嘉泰 ⋮ ︵於 二棲真院 一、下髪︶受具。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二七

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五燈 ⋮ ︵於 二棲真院 一、下髪︶受具。 続伝 ⋮ ︵於 二棲真院 一、下髪︶受具。 祖燈 ⋮ ︵薙 二染棲真︶受具。 全書 ⋮ ︵於 二棲真 一、薙染︶受具。 補続 ⋮ ︵落髪︶受 二具戒 一、習 二南山律於湖心寺 一。 名賢 ⋮ ︵従 二棲真院 一、下髪︶受具。 奉化 ⋮宣和七年、習 二南山律於湖心寺 一。 鎮海 ⋮習 二南山律於湖心寺 一。   さ ら に﹁塔 銘 ﹂ の み は、 法 恭 が 宣 和 七 年 ︵一 一 二 五 ︶ に 具 足 戒 す な わ ち 比 丘 戒 を 受 け た こ と を 伝 え て い る。 宣 和 七 年 は 法恭の二四歳に当たっているが、後に示すごとく法恭が世寿八〇歳で法臘五九齢で示寂したという表現からすると、受具 が な さ れ た の は あ る い は 宣 和 四 年 ︵一 一 二 二 ︶ か そ の 翌 年 で あ っ た と す べ き か も 知 れ ず、 若 干 の 疑 問 が 存 し て い る。 ま た 史料によっては法恭が棲真院にて受具したかのごとく解されるものもあるが、おそらくつぎに述べるごとく律院である湖 心寺にてなされたものと見られる。   ﹁塔銘﹂ や ﹃補続高僧伝﹄ によれ ば 、その後、法恭は湖心寺に留まって南山律を習得したとされる。ちなみに ﹃奉化県志﹄ では受具については触れられず、宣和七年に湖心寺において南山律を習得したことになっている。ここにいう湖心寺とは 広福水陸律院 ︵湖心広福律寺とも︶ のことで、明州子城西南隅の西湖の湖心に建てられていた十方律院に ほかならない。 ﹃宝 慶四明志﹄巻一一﹁郡志﹂の﹁寺院﹂に十方律院の一つとして、 広 福 水 陸 院、 子 城 西 南 三 里 半。 旧 号 二 陸 冥 道 院 一、 俗 謂 二 湖 心 寺 一。 皇 朝 治 平 中 建、 煕 寧 改 二寿 聖 院 一。 紹 興 三 十 二 年、 以 レ 上 皇 帝 尊 号 一、 改 賜 二 額 一、 係 二 方 伝 律 講 法 処 一、 被 レ 充 二 聖 寿 為 放 生 池 道 場 一。 乾 道 初、 守 趙 伯 圭 建 二 生 堂 一、 待 制 朱 翌 記 レ之。 常 住 田 三百五十二畝、山無。 と記されており、 ﹃延祐四明志﹄巻一六﹁釈道攷上﹂の﹁在城寺院︿律十方院﹀ ﹂においても、 湖 心 広 福 寺、 在 二西 南 隅 西 湖 之 心 一。 旧 号 二 陸 冥 道 院 一、 俗 謂 二 心 寺 一。 宋 治 平 中 建、 煕 寧 元 年、 改 二寿 聖 院 一。 紹 興 三 十 二 年、 改 二 額 一、 係 二十方伝律講法処 一、為 二放生池道場 一。乾道初、太守趙伯圭建 二広生堂 一、朱翌撰 レ記。今入集古攷 一。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二八

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と 伝 え ら れ て い る。 こ れ ら に よ れ ば 、 湖 心 寺 が 明 州 子 城 西 南 三 里 半 な い し 西 南 隅 の 西 湖 ︵月 湖 ︶ の 湖 心 に 存 し て い た も の ら し く、 北 宋 の 治 平 年 間 ︵一 〇 六 四 ― 一 〇 六 七 ︶ に 建 立 さ れ て 水 陸 冥 道 院 と 号 し、 一 般 に は 湖 心 寺 の 俗 称 で 親 し ま れ て い た と さ れ る。 そ の 後 ま も な く 煕 寧 年 間 ︵一 〇 六 八 ― 一 〇 七 七 ︶ に 寿 聖 院 と 改 名 さ れ て い る こ と か ら、 法 恭 が 修 学 し た 当 時 は 正 式 名 を 寿 聖 律 院 と 称 し て い た こ と が 知 ら れ る。 さ ら に 法 恭 が 存 命 中 で あ っ た 紹 興 三 二 年 ︵一 一 六 二 ︶ に は 広 福 水 陸 律 院 の 額 を 賜 っ て 十 方 伝 律 講 法 の 地 に 与 り、 祝 聖 寿 為 放 生 池 道 場 に 充 て ら れ て い る こ と か ら、 か な り の 格 式 を 持 つ 十 方 律 院 と なっていたものらしい ︵ 11︶ 。   と り わ け 後 に 法 恭 と も 親 し く 交 遊 を な し た 宋 室 出 身 の 趙 伯 圭 ︵字 は 禹 錫、 嗣 秀 王・ 崇 王、 一 一 一 九 ― 一 一 九 六 ︶ が 乾 道 年 間 ︵一 一 六 五 ― 一 一 七 三 ︶ の 初 め に 明 州 府 知 と し て 湖 心 寺 内 に 広 生 堂 を 建 て て お り、 待 制 の 朱 翌 ︵字 は 新 仲、 山 居 士、 一 〇 九 七 ― 一一六七︶ が﹁広生堂記﹂を撰しているのも注目されよう。   ﹁塔 銘 ﹂ と﹃補 続 高 僧 伝 ﹄ に よ れ ば 、 法 恭 は こ の 湖 心 寺 に て 南 山 律 を 習 得 し た と さ れ る が、 具 体 的 に 如 何 な る 律 僧 に 律 学を学んだのかは伝えられていない。おそらく法恭は棲真院に掛搭する身として湖心寺に赴いて南山律を修学しているも のと見られ、当時の法恭は教律禅の枠に縛られず、広く仏教の教えや戒律について学んでいたのであろう。

  

延慶教寺の天台学と聞声悟道

塔銘 ⋮継 二受天台教 一。 嘉泰 ⋮往 二延慶講下 一、一夕誦 二蓮経 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉 上、然有 レ省。 五燈 ⋮往 二延慶講下 一、一夕誦 二法華 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉 上、忽然有 レ省。 続伝 ⋮往 二延慶講下 一、一夕誦 二法華 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉 上、忽然有 レ省。 祖燈 ⋮後聴 二講延慶 一。一夕誦 二法華 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉有省。 全書 ⋮後往 二延慶講、 一夕誦 二法華 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉 上、忽然有 レ省。 名賢 ⋮往 二延慶講下 一、一夕誦 二法華 一、至 二父母所生眼悉見三千界 一、時聞 下風剌椶櫚葉 上、忽然有 レ省。   湖 心 寺 に て 南 山 律 宗 を 習 得 し た 法 恭 は、 そ の 後、 さ ら に 天 台 教 学 を 学 得 し た と 伝 え ら れ る。 ﹁塔 銘 ﹂ で は 単 に﹁継 い で 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 二九

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天 台 の 教 え を 受 く ﹂ と あ る の み で、 何 れ の 寺 院 で 天 台 宗 の 教 え を 学 ん だ の か は 記 さ れ て い な い。 こ れ に 対 し て、 ﹃嘉 泰 普 燈録﹄ ﹃五会燈元﹄ ﹃祖燈大統﹄ ﹃五燈全書﹄などによれ ば ﹁延慶の講下に往く﹂あるいは﹁後に延慶に聴講す﹂ ﹁後に延慶 に往きて講を聴く﹂と記されており、法恭が延慶寺という教寺に赴き、その講席に名を連ねて天台学を学んだことが知ら れ る。 お そ ら く 状 況 と し て は 北 宋 最 末 期 の 頃 と 見 ら れ、 法 恭 は 湖 心 寺 に 身 を 置 き な が ら、 し ば し ば 延 慶 寺 に 赴 い て 聴 講 し、天台学の修得に努めていたものであろう。   ここにいう延慶寺とは、いうまでもなく四明 ︵明州︶ の南湖延慶教寺のことであり、 ﹃宝慶四明志﹄ 巻一一 ﹁郡志﹂ の ﹁寺 院︿教院﹀ ﹂によれ ば 、 延 慶 寺、 子 城 南 三 里。 周 広 順 三 年 建、 曰 二 恩 院 一。 皇 朝 至 道 中、 僧 知 礼 行 学 倶 高、 真 宗 皇 帝、 遣 レ使 加 レ礼。 大 中 祥 符 三 年、 改 レ 名 二 慶 一。 天 禧 元 年、 賜 二 紫 衣 一、 尋 又 賜 二 智 大 師 一。︵中 略 ︶ 元 豊 中、 礼 曾 孫 中 立、 世 二 教 一、 比 邱 介 然、 来 依 二 場 一、 修 二 土 之 法 一。 募 レ 結 レ 六 十 余 間、 中 建 二 閣 一、 立 二 六 弥 陀 之 身 一、 夾 以 二 音・ 勢 至 一、 環 為 二 有 六 室 一、 各 間 外 列 二 聖 之 像 一、 内 為 二 観 之 所 一。 初 然 二 二 指 一、 誓 以 二 成 一。 元 符 三 年 落 成、 尋 又 然 二 指 一 増 二 誓 一。 忠 粛 陳 公 記 レ之。 紹 興 十 四 年、 有 レ 賜 二 額 一。︵中 略 ︶ 常 住 田 二千二百一十畝、山無。 とあり、 ﹃延祐四明志﹄巻一六﹁釈道攷上﹂の﹁在城寺院︿教化十方﹀ ﹂においても、 延 慶 寺、 在 二 南 隅 倉 橋 東 一。 周 広 順 三 年 建、 曰 二 恩 院 一。 宋 至 道 中、 僧 知 礼 講 二 台 教 一、 行 学 聞 二 朝 一、 真 宗 遣 レ使 加 レ 異 レ之、 是 為 二 智 大 師 一。 大 中 祥 符 三 年、 改 二 慶 一。 元 豊 年、 法 智 孫 介 然、 建 二 六 室 一、 為 二 観 一。 紹 興 十 四 年、 賜 二 額 一。 寺 之 大 悲 閣、 有 二 支 仏 舌 舎 利 并 普 賢 像 一。 嘉 定 十 三 年、 僧 以 二 小 一之、 剖 二 蔵 一 云、 動 レ 者、 水 火 為 レ灾。 未 レ幾、 寺 燬 像 滅。 丞 相 史 魯 公 重 建、 扁 曰 二 湖 福 地 一。 至 二 朝 至 元 二 十 六 年 一火、 僧 善 良 重 建。 天 竺 慈 雲 式 懺 主 悼 二 明 尊 者 一 二 首。 法 智 大 師 行 業 碑 銘、 趙 抃 作。 浄土院記、陳作。 と 記 さ れ て い て 伽 藍 の 変 遷 に 関 す る 概 略 が 知 ら れ る。 延 慶 寺 は 明 州 府 城 南 三 里 に 存 し た 名 刹 で、 北 宋 初 中 期 に 天 台 宗 ︵趙 宋 天 台 ︶ の 四 明 知 礼 ︵字 は 約 言、 法 智 大 師、 九 六 〇 ― 一 〇 二 八 ︶ が 活 動 し た ゆ か り の 一 大 道 場 に ほ か な ら な い。 知 礼 の 後 も 明 智 中 立 ︵一 〇 四 六 ― 一 一 一 四 ︶ や 澄 照 覚 先 ︵? ― 一 一 四 六 ︶ さ ら に 定 慧 介 然 ら に よ っ て 維 持 さ れ、 多 く の 堂 塔 伽 藍 を 有 し て 四 明 天 台 の 一 大 中 心 寺 院 と し て 栄 え て い た と さ れ る ︵ 12︶ 。 お そ ら く 延 慶 寺 で は 禅 観 ︵天 台 止 観 ︶ が 修 せ ら れ、 趙 宋 天 台 教 学 が 盛 んに研究されていたはずであろうから、法恭もこれら天台宗の学問と実践を実地に習得したものと見られる。ただし、や 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三〇

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はり法恭が延慶寺において具体的に参学した天台僧が誰であったのかについては具体的には伝えられていない ︵ 13︶ 。   も と も と 母 楊 氏 の 法 華 信 仰 に 支 え ら れ て こ の 世 に 生 を 受 け た と も い え る 法 恭 に と っ て、 ﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ な い し 天 台 教 学 は自らの母体ともいうべきものであり、当時の天台学の総府ともいえる延慶寺に留まってこれを実地に学ぶことはきわめ て意義深いものが存したはずであろう。   延 慶 寺 で 修 行 に 邁 進 し て い た 一 夕、 法 恭 は た ま た ま﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ を 誦 し て﹁法 師 功 徳 品 ﹂ の﹁父 母 所 レ 眼、 悉 見 二 千 界 一 と い う 箇 所 に 至 っ た 折 に、 あ た か も 風 が 椶 櫚 ︵ヤ シ 科 の 常 緑 高 木 ︶ の 葉 を 刺 す 音 を 聞 い て、 忽 然 と し て 省 す る と こ ろ が あ っ た と さ れ る。 ﹁父 母 所 レ 眼、 悉 見 二 千 界 一 と い う の は、 父 母 か ら 授 け ら れ た 肉 眼 を も っ て 三 千 大 千 世 界 ︵宇 宙︶ の真実の世界を見抜くというものである ︵ 14︶ 。   と く に 父 を 早 く に 失 っ た 後、 母 楊 氏 の 恩 愛 に よ っ て 発 育 し た 法 恭 に と っ て﹁父 母 所 レ 眼、 悉 見 二 千 界 一 の こ と ば に は 特 別 の 思 い 入 れ が 存 し た の で は な か ろ う か。 ﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ の 文 句 が 現 実 の 諸 法 実 相 の す が た を 見 聞 し た 中 に 如 実 に と ら え ら れ た と い う べ き で あ ろ う。 い わ ば 、 こ の と き の 法 恭 の 体 験 は 唐 末 に 山 下 の 香 厳 智 閑 ︵襲 燈 禅 師、? ― 八 九 八 ︶ が 聞 声悟道した機縁に も類せられよう ︵ 15︶ 。こうして、法恭は若くして仏教理解の要ともいうべき教・律の二法門を着実に 修得し ているわけである。   ち な み に ﹁宏 智 禅 師 行 業 記 ﹂ に よ れ ば 、 師 の 正 覚 も か つ て 若 く し て 汝 州 ︵河 南 省 ︶ 宝 豊 県 の 香 山 天 寧 観 音 禅 院 に お い て 曹 洞 宗 の 枯 木 法 成 に 学 ん で い た 折、 同 じ く こ の﹁父 母 所 レ 眼、 悉 見 二 千 界 一 の 語 句 で 省 す る と こ ろ が 存 し た と さ れ る か ら、 師 資 が 同 一 の 機 縁 を 有 し て い る 点 は 特 筆 す べ き で あ る ︵ 16︶ 。 一 方、 こ の 機 縁 は 日 本 曹 洞 宗 の 太 祖 で あ る 瑩 山 紹 瑾 ︵仏 慈 禅師か、一二六四 ― 一三二五︶ にも窺うことができ、三者が同じ機縁で聞声悟道している背景も興味深いものがあろう ︵ 17︶ 。   と こ ろ で、 日 本 の 南 北 朝 時 代 に 活 躍 し た 臨 済 宗 仏 光 派 ︵夢 窓 下 ︶ の 春 屋 妙 葩 ︵智 覚 普 明 国 師、 一 三 一 一 ― 一 三 八 八 ︶ は﹃智 覚普明国師語録﹄巻五﹁頌古﹂において、    石窓恭禅師、誦 二蓮経父母所生眼悉見三千界 一、聞 下風刺椶櫚葉旨。 風刺 二椶櫚鼻孔穿、娘生肉眼見三千 一、通身一片瞿曇舌、吐 二出火中清浄蓮。 という頌古を載せている。これは法恭の先の機縁を取り上げて古則公案の一つとなしたものであり、七言四句の頌古を詠 じ て い る 点 で 注 目 さ れ る。 妙 葩 は 夢 窓 派 祖 の 夢 窓 疎 石 ︵木 訥 子、 夢 窓 正 覚 心 宗 普 済 国 師、 一 二 七 五 ― 一 三 五 一 ︶ の 高 弟 で あ り、 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三一

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法恭とはほぼ二世紀を隔てて活動した人であるが、妙葩によって﹁石窓父母所生眼﹂の因縁が古則公案として位置づけら れ、日本の中世禅林においても参究の対象となっていたことが知られる ︵ 18︶ 。   いずれにせよ、法恭は北宋末期の動乱期に郷里明州の地にあって戒律や天台学の研鑽に努めていたわけであり、やがて 宋の南遷によって多くの禅僧たちが浙江の地に流入するのに呼応するがごとく禅宗に接近していくことになる。

  

天童山の宏智正覚との機縁

塔 銘 ⋮ 天 童 宏 智 覚 禅 師、 法 席 方 盛、 師 又 更 従 レ之。 兄 二 自 得 暉 一、 昼 夜 危 坐。 一 日、 坐 二殿 廡 間 一、 忽 傍 有 レ 曰、 本 自 不 レ生、 性 無 二 合 一。師一入 二耳根 一、豁然開悟、流汗浹 レ体。即見宏智 一、反覆問答、機応如 レ響。智遂留侍傍。 嘉泰 ⋮棄依 二天童 一、始明 二大事 一。 五燈 ⋮弃依 二天童 一、始明 二大旨 一。 続伝 ⋮棄依 二天童 一、始明 二大旨 一。 祖燈 ⋮弃依 二天童 一、昼夜危坐。一日、聞 二僧語耳、清徹豁然大悟。宏智詰為謬、俾侍司 一。 五燈 ⋮弃依 二天童 一、始明 二大旨 一。 四明 ⋮依 二天童覚 一、得 レ大旨 一。 補 続 ⋮ 聞 二 童 宏 智 名 一、 往 従 問 レ道。 兄 二 暉 自 得 一、 昼 夕 危 坐。 一 日、 坐 二殿 廡 間 一、 偶 聞 二 語 一耳、 清 徹 豁 然 開 悟、 流 汗 浹 レ体。 宏 智詰以 二所得謬、命居侍職 一。 名賢 ⋮去依 二天童 一、始明 二大旨 一。 奉化 ⋮継従 二宏智覚禅師於天童 一。 鎮海 ⋮又従 二宏智覚禅師於天童 一、昼夜危坐。一日忽然開悟。   南山律や天台学を修めた法恭は、その後、戒律や教学の研鑽を捨てて禅門に投ずることになる。ときに延慶寺からほど 近い明州県東六〇里の天童山景徳禅寺には曹洞宗の宏智正覚が盛んに化導を敷き、その名声を慕って多くの学人が参集 し て い た の で あ る ︵ 19︶ 。 か つ て 第 一 五 世 で あ っ た 黄 龍 派 の 天 童 普 交 ︵一 〇 四 八 ― 一 一 二 四 ︶ の と き に 大 衆 二 〇 〇 人 ほ ど の 規 模 で 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三二

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しかなかった天童山は、正覚の入山とともに一二〇〇衆を抱える大叢林へと変貌し、一躍、世人の注目を集めるようにな る。法恭もそんな正覚の名声を聞いて天童山に上山し、正覚の席下に掛搭入門してその禅旨を究めることになる ︵ 20︶ 。   宏智正覚については﹁宏智禅師妙光塔銘﹂ ﹁宏智禅師行業記﹂ ﹁宏智禅師後録序﹂などの伝記史料が存し、また大部の宋 版﹃宏 智 禅 師 語 録 ﹄ 六 巻 ︵一 般 に は 流 布 本﹃宏 智 禅 師 広 録 ﹄ 九 巻 と も ︶ が 伝 え ら れ て い る こ と か ら、 そ の 事 跡 と 禅 風 を か な り 詳 し く 知 る こ と が で き る。 正 覚 は 隰 州 ︵山 西 省 ︶ の 李 氏 の 出 身 で あ っ た こ と か ら、 世 に 隰 州 古 仏 の 尊 称 を も っ て 呼 ば れ て いる。正覚は枯木法成に学んだ後、その同門にあたる丹霞徳淳 ︵子淳︶ に参じて曹洞宗旨を究め、真州 ︵江蘇省︶ 儀徴県 ︵後 の 六 合 県 ︶ 南 の 長 蘆 崇 福 禅 院 な ど 江 南 の 諸 禅 刹 に 歴 住 し て 後、 建 炎 三 年 ︵一 一 二 九 ︶ 一 一 月 に 天 童 山 の 住 持 に 迎 え ら れ て い る。法恭がその席下に入門掛搭した時期は定かでないが、おそらく正覚の名声がしだいに高まり、天童山の修行僧が増加 していった紹興年間 ︵一一三一 ― 一一六二︶ のかなり早い頃のことであろう。   ﹁塔銘﹂ や ﹃補続高僧伝﹄ によれ ば ﹁自得暉に兄事し、昼夜 ︵昼夕︶ 危坐す﹂ と記されているから、法恭が天童山に在っ て 参 禅 修 行 に 努 め た 当 初、 も っ と も 強 い 影 響 を 受 け た の は、 後 に 同 門 の 法 兄 と も な っ た 自 得 慧 暉 の 存 在 で あ っ た ら し い。 ﹃嘉 泰 普 燈 録 ﹄ 巻 一 三﹁臨 安 府 浄 慈 自 得 慧 暉 禅 師 ﹂ の 章 そ の 他 に よ れば 、 慧 暉 は 明 州 に 隣 接 す る 越 州 ︵浙 江 省 ︶ 紹 興 府 上 虞 県 の 出 身 で、 真 州 の 長 蘆 崇 福 禅 院 に て 曹 洞 宗 の 真 歇 清 了 ︵寂 庵、 悟 空 禅 師、 一 〇 八 八 ― 一 一 五 一 ︶ に 学 ん で 後、 清 了 の 法 弟 で ある正覚を天童山に訪ねて参随している。慧暉は天童山の宏智門下でも孤高の人として知られ、きわめて厳格な只管打坐 を行じていたとされる ︵ 21︶ 。法恭は天童山でこの慧暉に 兄事して昼夜ともに 危坐したとされ、これ以降、両者は莫逆の法友と して生涯にわたり道交を結んでいくことになる。危坐とは正しく坐ることであり、威儀を正して坐禅に没頭するさまをい い、正身端坐ないし只管打坐に邁進したことに ほかならない。   ち な み に 紹 定 三 年 ︵一 二 三 〇 ︶ に 四 明 の 曇 秀 が 編 集 し た﹃人 天 宝 鑑 ﹄ に は、 天 童 山 で 修 行 し て い た 時 期 の 法 恭 の 足 跡 と して、 石 牕 恭 禅 師、 道 行 孤 峻、 才 刃 有 レ余。 久 依 二 童 宏 智 禅 師 一、 細 大 職 務、 靡 レ 試 一。 一 日 帰 二 母 一。 母 曰、 汝 行 脚、 本 為 下 生 一 母 上、 而 長 為 二 主 事 一。 苟 不 レ 果 一、 将 累 二 於 地 下 一。 恭 曰、 某 於 二 住 一 髪 不 レ欺、 雖 二 炬 之 燈 一、 亦 分 二 此 之 用 一、 無 レ レ 我。母曰、然過 レ水得脚湿 一。︿怡雲録﹀ と い う 逸 話 が 伝 え ら れ て お り、 こ れ は そ の ま ま﹃禅 苑 蒙 求 拾 遺 ﹄ 巻 上 に も﹁石 窓 省 レ ﹂ の 古 則 と し て 載 せ ら れ て い る ︵ 22︶ 。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三三

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た だ し、 ﹃人 天 宝 鑑 ﹄ が 典 拠 と し て 挙 げ て い る﹃怡 雲 録 ﹄ に つ い て は 具 体 的 に 如 何 な る 文 献 な の か は 明 確 で な い。 あ る い は 同 時 代 の 大 慧 派 の 元 衡 法 平 ︵怡 雲 野 人 ︶ に 語 録 と 詩 集 が 存 し た と さ れ る か ら、 法 平 の﹃怡 雲 和 尚 語 録 ﹄ の 類 い を 指 す も のかも知れない ︵ 23︶ 。   また、このときの逸話は後世の﹃天童寺志﹄巻五﹁雲蹤攷﹂にも継承され、 石 窗 恭 禅 師。 宗 門 会 祖 鑒 内 云、 恭 明 州 人、 道 行 孤 峻、 才 力 有 レ余。 久 依 二 智 一、 細 大 職 務、 靡 レ 試 一。 一 日 帰 二 母 一。 母 曰、 汝 行 脚、 本 為 下 死 一 母 上、 而 長 為 二 主 事 一。 苟 不 レ 果 一、 将 累 二 于 地 下 一。 恭 曰、 児 於 二 住 一 髪 不 レ欺、 雖 二 炬 之 燈 一、 亦 分 二 彼 此 之 用 一、 大 人 無 レ 也。 母 曰、 然 過 レ 得 レ 湿 一。 評 曰、 恭 母 為 レ 説 法、 只 消 二 句 一、 全 二 妙 旨 一、 号 二 羣 邪 一矣。 何 有 三 死父母之不 二超度哉。 と 載 せ ら れ て い る。 た だ し、 ﹃天 童 寺 志 ﹄ が 典 拠 と し て 挙 げ て い る﹃宗 門 会 祖 鑒 内 ﹄ に つ い て は 如 何 な る 典 籍 か 定 か で な い が、 名 称 か ら す る と 禅 宗 ︵宗 門 ︶ 内 の 祖 師 た ち の 鏡 と す べ き 機 縁 や 逸 話 を ま と め た も の ら し い。 し か し な が ら、 ﹃宗 門 会 祖 鑒 内 ﹄ に 引 用 さ れ た 法 恭 の 記 事 は、 内 容 的 に は 明 ら か に ﹃人 天 宝 鑑 ﹄ を 受 け て い る こ と か ら、 ﹃人 天 宝 鑑 ﹄ か ら﹃宗 門会祖鑒内﹄さらに﹃天童寺志﹄と継承して引用されていったものであろう。   便宜上、 ﹃人天宝鑑﹄に記される内容を書き下してみるなら ば 、 石牕恭禅師、道行孤峻にして、才刃、余り有り。久しく天童の宏智禅師に依り、細大の職務、歴試せざるなし。一日、母を帰省す。 母曰く、 ﹁汝が行脚は、本とより死生を了じて父母を度せんが為めなり、而して長じて人の主事と為る。苟くも因果を明めず ば 、将 に我れを地下に累わさん﹂と。恭曰く、 ﹁某、常住に於いて毫髪も欺かず、一炬の燈と雖も、亦た彼此の用を分つ、我れを慮るに足 ること無し﹂と。母曰く、 ﹁然れ ば 水を過ぎて脚の湿わざることを得たり﹂と。 ︿怡雲録﹀ と い う 具 合 に な ろ う。 ﹃人 天 宝 鑑 ﹄ や﹃宗 門 会 祖 鑒 内 ﹄ の 記 載 に よ れ ば 、 法 恭 は そ の 道 行 が き わ め て 卓 越 し、 才 知 に 富 ん だ 人 と あ っ た と さ れ、 久 し く 天 童 山 の 正 覚 に 随 い、 そ の 間、 細 大 も ら さ ず 多 く の 叢 林 の 職 位 を 歴 任 し た こ と が 知 ら れ る。 一 日、 法 恭 が 天 童 山 の 正 覚 の 席 下 よ り 乞 暇 し て 奉 化 県 に 暮 ら す 母 の 楊 氏 ︵仏 光 道 人 ︶ の も と に 帰 省 す る こ と が あ っ た ら し い。このとき母の楊氏は法恭に﹁汝が行脚は、本とより死生を了じて父母を度せんが為めなり、而して長じて人の主事と 為る。苟くも因果を明めず ば 、将に我れを地下に累わさん﹂と告げたとされる。母が法恭の出家を認めて行脚修道の旅に 出したのは、生死の一大事を了畢し、父母を済度する僧となってもらいたいためである。いまや法恭は天童山において修 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三四

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行僧のために叢林の要職を勤めるまでの身となっているのだから、母親としても一応は悦ぶべきことであったはずであろ う。しかしながら、母の楊氏の想いはこれに満足などしてはいなかったのである。いやしくも出家の身となった上は、真 に因果の道理を明らかにし得ないまま大刹の職位を貪るのであれ ば 、それはまさに父母を冥土の苦海に累らわす因になる の だ と、 我 が 子 法 恭 に 迫 っ て い る わ け で あ る。 母 親 の 希 望 と し て は、 法 恭 が 自 ら 生 死 の 一 大 事 を 了 畢 す る こ と と と も に、 そ の 功 徳 に よ っ て 父 母 を 苦 海 か ら 済 度 す る こ と を 願 っ て い た わ け で あ り、 そ の 背 景 に は 曹 洞 宗 祖 の 洞 山 良 价 ︵悟 本 大 師、 八〇七 ― 八六九︶ の﹁洞山辞親書﹂にある﹁一子出家、九族生 レ天﹂という九族生天思想が存している ︵ 24︶ 。   これに対して法恭は﹁某、常住に於いて毫髪も欺かず、一炬の燈と雖も、亦た彼此の用を分つ、我れを慮るに足ること 無し﹂と答えている。法恭としては一炬の燈明といえども天童山の常住物を私利私欲で使用したことは決してないと語っ ており、母に無用の心配はしてくれるなと断言しているわけである。母は成長した息子のこと ばに満足したのか、さらに ﹁然 れ ば 水 を 過 ぎ て 脚 の 湿 ら ざ る を 得 た り ﹂ と 法 恭 を 称 え て い る。 水 の 中 を 通 り 抜 け な が ら 足 が 濡 れ ず に い る と は、 私 情 に染まらない孤高さを称えたものであり、この母にしてこの子ありというべきであろう。 ﹃宗門会祖鑒内﹄ の末尾には ﹁恭 の 母 は 子 の 為 め に 説 法 し、 只 だ 一 句 を 消 い、 妙 旨 を 全 提 し、 群 邪 を 号 令 す。 何 ぞ 生 死・ 父 母 の 超 度 せ ざ る こ と 有 ら ん や ﹂ という評が載せられている点は興味深く、母楊氏の仏法に対する見識の高さが称えられている。これは記事内容からする と、法恭がいまだ悟道する以前の消息と見られ、おそらく法恭は母の忠告を肝に銘じ、更なる 道精進に邁進したことで あろう。   また﹁塔銘﹂によれ ば 、法恭が悟道した消息として、 一日、殿廡の間に坐するに、忽ち傍らに僧有りて曰く、 ﹁本より生ぜず、性は和合すること無し﹂と。師、一たび耳根に入るに、豁 然として開悟し、流汗、体を浹す。即ち宏智に見えて、問答を反覆するに、機応、響くが如し。智、遂に侍傍に留む。 と い う 機 縁 を 伝 え て い る。 天 童 山 で 修 行 し て い た あ る 日、 法 恭 が 殿 廡 ︵殿 宇 の 回 廊 ︶ の 間 に 坐 し て い る と、 た ち ま ち 傍 ら に 一 僧 が あ っ て﹁本 自 不 レ生、 性 無 二 合 一 と 述 べ た と い う。 ﹁本 自 不 レ生、 性 無 二 合 一 を 訓 ず れ ば ﹁本 よ り 生 ぜ ず、 性 は和合すること無し﹂ということであり、性とは仏性とか真如あるいは不変なる本質のこと、もともと生滅に関わらない ものであって、種々の和合によって成立したものでないことを述べている。真理そのものは因縁の和合を超えて不生不滅 な の だ と い う 意 で あ ろ う。 法 恭 は 一 度 こ の こ と ば を 耳 に す る や 豁 然 と し て 大 悟 し、 流 汗 が 体 を 浹 し た と さ れ る。 た だ し、 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三五

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﹃祖 燈 大 統 ﹄ や﹃補 続 高 僧 伝 ﹄ で は 同 じ 機 縁 を 載 せ て い る も の の、 ﹁本 自 不 レ生、 性 無 二 合 一 の こ と ば が 削 ら れ て 単 に 僧 の語と記されるのみになっており、せっかくの文意が曖昧にされてしまっている。ちなみにこのとき僧が唱えていた﹁本 自不 レ生、性無和合﹂の句とは、 ﹃金光明経﹄巻一﹁空品第五﹂に、 如 レ 諸 大、 一 一 不 レ実、 本 自 不 レ生、 性 無 二 合 一。 以 二 因 縁 一、 我 説 諸 大、 従 レ 不 レ実、 和 合 而 有。 無 明 体 相、 本 自 不 レ有、 妄 想 因 縁、和合而有。 として載せられて文句に ほかならない。法恭は一僧が唱える﹃金光明経﹄のこと ば を耳にし、忽然と悟るところが存した ことになろう ︵ 25︶ 。   大 悟 し た 法 恭 は た だ ち に 正 覚 に 相 見 し て 問 答 商 量 を 往 復 し、 そ の 機 に 応 ず る こ と 響 く が ご と く で あ っ た と 伝 え ら れ る。 悟道した直後に師匠の方丈に入室して親しく問答をなし、師匠が門人の境界を詳しく点検して印可を与えることが曹洞宗 でも一般的であったことが知られる。もちろん大悟といっても直ちに嗣法そのものが完成したことを意味するというもの ではなく、師匠が門人に対してそれ以降の親しい入室を認めたものであって、なお修証の徹底のため日々の研鑽はつづけ られね ば ならないわけである。   そ し て、 こ れ よ り 正 覚 は 法 恭 を 席 下 に 留 め て 侍 者 と し て 傍 ら に 侍 せ し め、 よ り 綿 密 な 師 資 の 接 化 を な し て い く の で あ る。ちなみに﹃宏智禅師語録﹄巻六﹁明州天童山覚和尚真賛偈頌﹂には﹁侍者清萃・法恭編﹂とあるから、法恭が同門の 清 萃 ︵清 と も ︶ と と も に 侍 者 と し て 正 覚 の 天 童 山 に お け る 真 賛・ 下 火 ︵下 炬 ︶ ・ 入 塔 な ど を 編 集 し て い る こ と が 知 ら れ る ︵ 26︶ 。 清萃は生没年などは定かでないが、宏智門下では法恭よりも法兄に当たり、後に明州県東南七〇里の大梅山保福禅院や 明州奉化県西の雪竇山資聖禅寺に住持したことが知られている ︵ 27︶ 。

  

天台山万年寺の無著道閑

塔 銘 ⋮ 久 之、 再 歴 二 湖 一、 徧 二 古 仏 一。 万 年 閑 公、 室 中 嘗 一 挙 下 擎 一レ 山 話 上。 経 レ 不 レ契。 他 日 再 往、 閑 曰、 似 二 擎 一レ 山 作 麼 生。 師掩 レ耳而出。 嘉泰 ⋮凡当世弘 レ法者、悉往咨決之 一。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三六

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五燈 ⋮凡当世弘 レ法者、悉往咨決。 続伝 ⋮凡当世弘 レ法者、悉往咨決。 祖燈 ⋮嗣 レ事徧参、凡当世弘法者、悉往咨決。如万年間︵ ・草堂清・黄龍忠︶相見 一、皆当 レ仁不譲。 全書 ⋮凡当世弘 レ法者、悉往咨決。 補続 ⋮既而遍 二参諸識 一。見 二閑万年 一、万年試為 レ問、師掩耳出。 名賢 ⋮凡当世弘 レ法者、悉往咨決。 鎮海 ⋮再歴 二江湖参学。   久しく天童山の正覚に参随していた法恭は、その後、正覚のもとを辞して再び江湖の禅宗叢林に歴遊し、諸方の著名な 禅 匠 の も と を 訪 ね 歩 い て い る。 ﹁塔 銘 ﹂ に よ れ ば ﹁古 仏 に 徧 参 す ﹂ と あ る か ら、 法 恭 は 行 脚 に 臨 ん で 古 仏 の 尊 称 を 有 す る す ぐ れ た 禅 者 に 参 学 す る こ と を 目 的 に 諸 山 歴 遊 を な し た こ と が 知 ら れ る。 ま た﹃嘉 泰 普 燈 録 ﹄﹃五 会 燈 元 ﹄ な ど の 燈 史 で は﹁凡そ当世に法を弘めし者、悉く往いて︵之れを︶咨決す﹂とあるから、法恭がおよそ当世に名ある弘法の禅者の席下 に悉く歴参し、親しく問答商量をなしたことを伝えている。正覚の法門を嗣続して後、法恭としては当代に盛んに仏法を 挙揚して世の注目を集めていた禅者のもとに投じて参禅学道と問答商量をなし、自らの境地を深めるために行脚歴遊して いるわけであるが、多くの燈史には具体的に如何なる禅者に参学したのかは記されていない。   ところで、 ﹁塔銘﹂や﹃祖燈大統﹄ ﹃補続高僧伝﹄によれ ば 、法恭が参聞のはじめに学んだのは﹁万年の閑公﹂であった と 記 さ れ て い る。 万 年 と は い う ま で も な く 台 州 ︵浙 江 省 ︶ 天 台 県 西 北 の 天 台 山 中 の 平 田 に 存 す る 万 年 報 恩 光 孝 禅 寺 の こ と であり、また閑公とは時代的に臨済宗楊岐派の流れに属する仏眼派の無著道閑 ︵? ― 一一四七︶ のことを指している。   ﹃嘉定赤城志﹄ 巻二八 ﹁寺観門﹂ の ﹁天台 ︿禅院﹀ ﹂ の ﹁万年報恩光孝寺﹂ の項によれ ば 、万年報恩光孝寺は天台山中にあっ て天台県西北五〇里に存し、唐の太和七年 ︵八三三︶ に百丈下の平田普岸 ︵七七〇 ― 八四三︶ が創建したとされる禅寺であり、 宋代には万年観音院など何度かの寺名の改変がなされている。ちなみに万年寺には道閑より以降に法恭の法兄に当たる烏 巨 正 光 ︵俗 名 は 呉 敍、 字 は 元 常 ︶ も 住 持 し て お り、 ま た 後 に 日 本 の 明 庵 栄 西 ︵千 光 法 師、 一 一 四 一 ― 一 二 一 五 ︶ が 黄 龍 派 の 虚 庵 懐 敞 に 参 学 し、 万 年 寺 の 伽 藍 を 修 復 し て い る こ と が 知 ら れ、 同 じ く 永 平 道 元 ︵仏 法 房、 一 二 〇 〇 ― 一 二 五 三 ︶ も や は り 万 年 寺を訪れて黄龍派の禅者と見られる住持の元鼒に参学している ︵ 28︶ 。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三七

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  ﹃嘉 泰 普 燈 録 ﹄ 巻 二 〇﹁台 州 万 年 無 著 道 閑 禅 師 ﹂ の 章 な ど に よ れ ば 、 道 閑 は 台 州 ︵浙 江 省 ︶ 黄 巌 県 の 洪 氏 の 出 身 と さ れ、 楊岐派の龍門清遠 ︵仏眼禅師、一〇六七 ― 一一二〇︶ の高弟である高庵善悟 ︵一〇七四 ― 一一三二︶ に参じて法を嗣いだ臨済禅 者 で あ る。 京 都 東 福 寺 に 所 蔵 さ れ る﹃仏 祖 宗 派 総 図 ﹄ に も﹁南 康 雲 居 高 菴 善 悟︿洋 州 李 氏 ﹀﹂ の 法 嗣 と し て﹁台 州 万 年 無 着 道 閑︿本 州 洪 氏 ﹀﹂ と 載 せ ら れ て い る。 そ の 後、 道 閑 は 紹 興 一 二 年 ︵一 一 四 二 ︶ に 天 台 山 の 太 平 興 国 禅 寺 が 万 年 報 恩 光 孝 禅 寺 と 改 め ら れ た 際 に こ れ に 勅 住 し て い る ︵ 29︶ 。 道 閑 が 示 寂 し た の は 紹 興 一 七 年 ︵一 一 四 七 ︶ 九 月 で あ る か ら、 法 恭 が 道 閑 に 参学し得たのも紹興一二年から同一七年までの六年間に限られることになろう。   ところで、 ﹁塔銘﹂によれ ば 、法恭が万年寺において道閑と交わしたとされる問答商量とは、つぎのごときものである。 万年の閑公、室中にて嘗て一たび﹁地の山を擎ぐるに似たり﹂の話を挙す。月を経るも契わず。他日、再び往くに、閑曰く、 ﹁地の 山を擎ぐるが似きは作麼生﹂と。師、耳を掩いて出づ。   これによれ ば 、法恭が万年寺の道閑に参じた際、道閑は室中にて ﹁似 二地擎 一レ山﹂ の古則を挙して法恭に示したとされる。 そもそも ﹁似 二地擎 一レ山﹂ の古則とは、唐代に南嶽下の馬祖道一 ︵大寂禅師、七〇九 ― 七八八︶ の高弟である盤山宝積 ︵凝寂大師︶ が述べたこと ば であり、 ﹃宗門聯燈会要﹄巻四﹁幽州盤山宝積禅師﹂の章に、 示 レ 云、 禅 客、 可 中 学 道、 似 二 擎 一レ 山、 不 レ 之 孤 峻 一 如 二 含 一レ玉、 不 レ 之 無 一レ 瑕。 若 能 如 レ是、 是 真 出 家。 故 導 師 云、 法 本 不 二 礙 一、三 際 亦 複 然、 無 為 無 事 人、 猶 二 金 鎖 難 一。 所 以、 霊 源 独 耀、 道 絶 無 レ生、 大 智 非 レ名、 真 空 無 レ跡。 真 如 凡 聖、 皆 是 夢 言、仏及衆生、並為 二増語 一。直須自看、無 二人替代 一。 とある示衆の語句を指している ︵ 30︶ 。盤山宝積に よれば 、禅の修行僧が仏道を学ぶとは、地が山を支えていながら山の高きを 知らず、石が玉を含んでいながら玉の価値を知らぬようなものでなけれ ば ならないとされる。いわ ば 人間的な分別を超え て無限の価値を有した自己を真に究めることが出家学道の本分だと示しているわけである。   法 恭 は 一 ヶ 月 余 り に わ た り こ の﹁盤 山 似 二 擎 一レ ﹂ の 古 則 を 参 究 し た と さ れ る が、 結 局 の と こ ろ 機 縁 の 契 う こ と が な かったと伝えられる。他日、再び法恭が道閑に参ずると、道閑はまた ﹁盤山似 二地擎 一レ山﹂ の古則の意を問い質しているが、 法恭は耳を掩ったままその場を退席してしまったという。状況からすると、このとき法恭のとった行動とは、道閑との間 で機縁が契わなかったためということになろうが、あるいは道閑の示す不知のありようを真に会得し、耳を掩うという行 動で示した活作略であったと解すべきかも知れない。 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三八

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泐潭宝峰寺の草堂善清

塔 銘 ⋮ 草 堂 清、 不 レ 到 入 室 一。 師 直 造 レ前、 清 挙 レ 曰、 識 二 這 個 一、 参 学 事 畢。 師 曰、 拈 二 這 箇 一、 喚 作 二 麼 一。 清 擬 二 挙 一、 師 奪 二払子地上曰、老漢払子也不識。一衆駭嘆。 祖燈 ⋮如 二︵万年間・ ︶草堂清︵ ・黄龍忠︶相見 一、皆当 レ仁不譲。 補続 ⋮艸堂清公、不 レ到入室 一。師直造 レ前、奪払子地上而出。一衆駭異。   つ い で﹁塔 銘 ﹂ や﹃祖 燈 大 統 ﹄﹃補 続 高 僧 伝 ﹄ に よ れ ば 、 法 恭 は 草 堂 清 ︵艸 堂 清 と も ︶ と い う 禅 者 に 学 ん だ と さ れ る。 草 堂清とは臨済宗黄龍派の草堂善清 ︵一〇五七 ― 一一四二︶ のことであり、伝は ﹃嘉泰普燈録﹄ 巻六 ﹁隆興府泐潭草堂善清禅師﹂ の章や﹃僧宝正続伝﹄巻五﹁宝峰清禅師﹂の章に詳しい。   善 清 は 南 雄 ︵広 東 省 ︶ 保 昌 の 何 氏 の 出 身 で、 黄 龍 派 の 晦 堂 祖 心 ︵宝 覚 禅 師、 一 〇 二 五 ― 一 一 〇 〇 ︶ の 法 を 嗣 い で お り、 同 門 の法兄には死心悟新 ︵新孟八、 一〇四三 ― 一一一四︶ や霊源惟清 ︵仏寿禅師、 ? ― 一一一七︶ などが存している。 ﹃仏祖宗派総図﹄ にも﹁洪州黄龍晦堂祖心︿南雄州何氏﹀ ﹂の法嗣として﹁洪州泐潭草堂善清︿南雄州何氏﹀ ﹂と記されており、師の祖心と 同 郷 か つ 同 族 の 出 身 で あ っ た か の ご と く 伝 え て い る。 し か し な が ら、 実 際 に は 祖 心 は 南 雄 始 興 の 氏 の 出 身 で あ る か ら、 善 清 と し て は 同 郷 の 祖 心 を 慕 っ て そ の 門 に 投 じ、 祖 心 の 印 可 を 受 け て い る わ け で あ る。 た だ、 善 清 の 活 動 は 法 兄 の 悟 新 や 惟 清 に 比 べ て か な り 遅 く、 政 和 五 年 ︵一 一 一 五 ︶ に よ う や く 洪 州 ︵江 西 省 ︶ 隆 興 府 武 寧 県 西 一 八 〇 里 の 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 に 出 世 開 堂 し た の に 始 ま っ て い る。 そ の 後、 善 清 は 撫 州 ︵江 西 省 ︶ 宜 黄 県 北 三 〇 里 の 曹 山 宝 積 禅 院 や 撫 州 金 谿 県 西 北 五 〇 里 の 疎 山 白 雲 禅 寺 に 歴 住 し て お り、 紹 興 五 年 ︵一 一 三 五 ︶ に 一 旦 は 住 持 職 を 退 い て 隠 閑 し た も の の、 紹 興 九 年 ︵一 一 三 九 ︶ に 八三歳の高齢で洪州靖安県西北の石門山泐潭宝峰禅寺に陞住している ︵ 31︶ 。   法恭が善清に学んだ地は﹁塔銘﹂などに具体的に記されていないが、おそらく時期的には善清の晩年に当たる泐潭宝峰 寺 に お い て の こ と と 推 測 さ れ る。 た だ、 先 の 道 閑 が 天 台 山 の 万 年 寺 に 入 院 し た の は 善 清 が 示 寂 し た の と 同 じ 年 で あ る か ら、 ﹁塔銘﹂その他の史料が参学順に記されているとすれ ば 、それは紹興一二年のことであったと解さなけれ ば ならない。 石 門 山 の 泐 潭 宝 峰 寺 と い え ば 、 古 く 唐 代 に 洪 州 宗 の 馬 祖 道 一 ︵大 寂 禅 師、 七 〇 九 ― 七 八 八 ︶ が 晩 年 に 宴 黙 終 焉 の 地 と 定 め て 隠閑したところであり、その入寂した寺として名高い。法恭が善清に参学したのが時期的に泐潭寺であったとすれ ば 、お 明州瑞巌寺の石窓法恭について︵佐藤︶ 三九

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