紀国寺慧浄の著作につい て
櫻井 唯
一 はじめ に
紀国寺慧浄
( 五七八~?)は、
隋末 から 唐初 にかけて
生 き た学 僧 で あ る
。 道 宣 の
『続高僧伝』によれば、
彼は多くの仏典註
釈書を著
し た だけ でなく、詞華集
の 編纂や道士等
との 対論も行い、当
時 の文人 と も交流 が あ ったと伝
えられる。伝
記資料 か らは、慧浄が唐代
初期の 仏 教にお い て 影 響力 を持った人
物 であった
こ とが窺 え る。し か し、
その 仏 教 思想 に つ い て の研究は、主に
慧 浄の 撰述とされる文献
を個別に
取り扱うと いう方法で進められ、
総合的な解明は
あ まり進ん
でいな い。その原
因の 一つは、著作の
散 逸と テキス ト の 混 乱 にあ る。すなわ
ち
、『続 高僧伝』等
に 伝えられる
慧 浄の著作の
ほとん どは散逸
し、現存
する もの の 中 に も撰 号 を欠くなど
の 理 由 か ら 真 撰 と断 定 で きない も の や
、 複 数の 異本の存
在が 指 摘 さ れ ている文
献 もあ
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
る。こ の ような事情から
、 先行研究で
は撰者の
特 定や異本の
成 立 過 程の解明が課題とされ
てき た。
以上 の 研 究 状況 を 踏ま え
、 本 稿 では 慧 浄 撰 述 の 可 能 性 が あ る 文 献 を 取 り 上 げ
、 そ の 概 要 を 明 ら か に する ことで 思 想 解 明 の 一助 とし たい。
ま た、著作の問題
を 取り扱うに先立っ
て
、 第二節「慧浄の伝記
」 で は 慧 浄の 略歴 を確認する
。 そ し て
、 第三 節「
慧浄の 著 作」
におい て 個々の著作に
つい て 著 作の概 略 や問題点
を 整理し
、 そ の 思想 の特 徴を 探 る
。
二 慧浄の伝記
慧浄の 生 卒年について
は
、『続高僧伝』およ
び『集古
今仏 道論衡』の
記 述によ っ て お お よ そ推定する
こ とがで き る。すなわち
、『 続高僧伝
』巻三
・ 慧浄伝 に
「及
二 貞観十九年
一 、更
崇
二 翻訳
一 、所司簡約
、又無
レ 聯レ
類。
下
レ 召追赴、
謝病乃止
。今春秋六
十 有八。
( 貞 観 十九年に及ん
で
、更に 翻 訳を崇 く する も、所司
簡約
( 1)
に し て
、 ま た 類 を 聯 ぬ る も の 無 し
。 召 を 下 さ れ 追 赴 す る も
、 謝 病 し て 乃 ち 止 む
。 今 春 秋 六 十 有 八 な り。
)」 と あり、貞観十
九 年(
六四五
) に玄 奘の 翻 訳事業 が始ま っ た 時
、慧 浄 は 六 十 八歳 であ り 病 に 臥 し てい たと いう。
かつて は こ の『続高僧伝』の
記述によ
って 慧浄の卒年
を 六 四 五年とする説
もあったが、道
( 2)
宣 撰
『集古今仏道論衡』巻丙に、慧浄は七十歳
を 超 え て い たとする
記述が残
って いる(
後 述)
。 こ れに よ り、慧浄
は五七 八 年 に 生ま れ、六四七年以降ま
で 生存 していたと推測される
。続い て 慧浄の 具 体 的 な事跡
( )
( ) 3
4
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
を見 てい きた い
。
[慧浄の主な事跡]
五七八年(一歳)
常山真定県に生まれる。
五九一年(十四歳)
出家
。『 大智 度論』
を 学ぶ
。ま た、
志 念 より小 乗 の論 書を学ぶ
。 六〇〇年(二十三歳)
長安に来る。
六
〇 五年(二十八歳)
智蔵寺におい
て、始平県
令 の楊宏、および道
士の于永通と対論。
六〇 五 年以降か
『雑心 論 纘述』
、『倶舎釈論文疏』
、『 金剛般若経註』を
撰述。
六一 八 年
( 四 十 一 歳
)
延興寺 に おいて 清 禅法師 と 対論
。 六三〇年(五十三歳)以降
勝光寺において『大乗
荘厳 経論』の翻訳に参加、筆受
を 務める。
『 大 乗
( 5)
荘厳経論纘
述
』を撰述
。 六三 三 年 頃か
中書舎人の
辛 諝 の 仏教批判に応え
て
『析疑論』を
著す。
( 6)
六三六年(五十九歳)
紀国寺 に おいて 開 講。
六三 六 年 以 降か
『法華経纘述
』 十 巻 を撰述。
『 勝 鬘 経
』、
『 仁 王 般 若 経』
、『 温 室 経』
、『 盂 蘭盆経』
、『 弥勒上生経
』、
『 弥勒 下生経』
の註 釈書 を 執筆。
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
六三 九 年
( 六 十二 歳
)
弘文殿 に お い て『法華
経
』 を講 義。
道士の 蔡 晃 と 抗論。普
光 寺 の 寺 主 に 命ぜ られ、
『 法華 経』と『大智度
論
』 を 講義。
六 四 五年(六十八
歳)
玄奘の翻訳事業に
招集された
も のの、病のため
辞 退する。
六四 七 年
(七 十 歳
) 以 降
疾 苦 に つ い て問 わ れ
、 これに 答 える
。 六四 九 年
(七 十 二 歳
) 以 降
『般若心
経疏』撰述。
慧 浄 は儒 家に生 ま れ、
幼い 頃から 儒 教の典籍や詩歌に親しんで
いた という。十四歳で出家して
から 長安 に行 くまで の 約 九 年の間には、
『大智度
論』を 学 び
、 ま た 志 念
( 五 三五
~六
〇八)よ
り『雑心
論
』 や
『 婆 沙論
』を 習 っ て い る。
慧浄が 志 念に師事して
い た 期間 は定 かで ないが、
志念 は 北 斉 の 首都 で あ っ た 鄴や
、 故 郷 の 冀 州、あ る いは晋陽等
の 都 市 で活動した
と伝 え ら れる。それゆ
え
、 慧浄もまた
、 こ の 時期には北
地
( 7)
において
修学して
い た ので あろ う。
六〇〇年に長安に来
て から の 拠 点は主 に 紀国寺 で あり、多
くの著作は
こ こで記された
と考 えられ る
。以 降、慧浄
はた びたび道士等から
の仏 教批判 に 応じ、ま
た詩 への造詣
も深く多くの文人と交流した
と も伝え られる こ とから、そ
の影響力は仏教界の
みにとどまらなか
った ことを 窺 わせる
。 また、
『大乗 荘 厳 経論』翻訳の際には筆受
を 務め、波羅頗蜜
多 羅
Prabhākaramitra
から は
「 東 方 菩 薩
」 と
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
も称 され た
。 特 に 慧浄と 親 交 の あっ た人物として、法琳
( 五七二~六四〇)や
房 玄齢(五七八~
六四八)
( )
( ) 8
9
がい るが、とも
に
『大 乗荘厳経論』
の翻訳 に 関わっ た という共
通点 が あ る。
六三 六 年 には 紀国寺 に おいて 開 講 し
、六三九年以降は紀国寺
の 上座と普光寺
の寺 主 を 兼ねた。六四
五年 には玄奘
の訳 経 場 に召 されたも
の の、病 のために辞退して
い る
。なお
、『続 高僧伝』
には、慧
浄が冬 の 普 光寺で 病 に臥し た とき に作 し た 詩が 収録されて
い る。
断 定 はでき な いが、これが
玄奘の翻訳事業へ
の参加
( 10)
を断 念 す る 原 因 と なった 病 では な い か と も思 わ れ る
。 また
、 道 宣 撰
『 集 古 今 仏 道 論 衡
』に よ れ ば
、 後 年
、 慧浄 は 自 ら の 病 について
次 のよう に 語っ たと い う
。 年逾
二 縦心
一 、風疾交集。然猶憑
レ 几、
談写 叙 対
二 時賢
一 。余
曽問
二 其疾苦
一 。答云
、「 浄 嘗疾甚、
無
二 計可
一レ
投。承
二 ―
聞病 是著因
、 固当
一レ
捨レ
著、
遂召
二 五衆
一 、一切都捨。夜覚
有 間
、晩又重
発、依前都捨
。疾間
、 亦 然
。今則 七 十有余、生事極矣。安
有
二 為レ
命而 捨
一レ
財乎。念念
死 計
二 無情財事
一 。
」 昔 人 年 至
二 百歳
一 、猶
不レ 体二
命行 無常
一 、浄今悟
レ 之、任
レ 時而
已。 (
11)
年
縦心 を逾 え、
風 疾
交
集う。然
れ ど も 猶 几に憑り
て、
談じ 写し 叙し て時賢に
対 す
。 余 曽て 其 の
こもごも
なお
よ
疾 苦 を問 う。答 え て云く、
「 浄 嘗 て 疾 甚 しく、計
とし て投ず可
き無 し
。 病 は 是 れ 著 の 因 な り
、 固よ
べ
り 当に著 を捨つべ
しと承聞
し、
遂に五 衆 を召 し て
、一 切都 て捨 つ。夜に
覚め て有間に
し て
、晩 に 又 た重ねて
発すも
、 依前として
都 て 捨 つ。
疾 の 間、
亦 然 り。今則ち七十有余
に して、
生 くる 事 極まれ
また
り。安ぞ命の
為 に 財 を 捨つる こ と有 らんや。念念に
死して 無情の 財 事を 計 ら ん。
」 と
。 昔 人 は年 百 歳
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
に 至 るに、
猶 命 行 の無常 を 体せざる
も、浄は今
之 を悟り て
、時に 任すのみなり。
なお
慧 浄 は 七 十歳 を 超 え 風 疾を 患っ て い たが、
そ れで もな お仏 教教理 の研鑽 を 続 けて い た
。道宣が病
の こ と に つ いて 尋ねると、慧
浄は「
執 著 を 捨 て よ」という言
葉を聞き
、そう在る
こ とができ
るよ う繰り返し努め て い たと いう
。「 今 則 ち七 十 有 余 に して
、 生 く る 事極 まれ り
。」という慧
浄 の言葉 に は、
生 の 無常を 自 覚 しつつ、
教理研 究 を 自 己の 本分として全うし
ようとし
た 姿 勢が表れて
い る。
こ の 記 述 から、玄奘が帰朝し 翻訳 事 業 を 開 始し た 後 も
、 慧 浄 は 晩 年 ま で 精 力的 に 著 述 を 行 っ て い たこ とが 読 み 取 れ る
。 以上が伝記
資 料 か ら推 察 し うる慧浄の略歴
で ある。次
節で は、
現 存 す る 資 料 から 慧 浄 の 著 述活 動を 検 討 する。
三 慧浄の著作
慧浄が著した可能性
の ある文献
として は 次の二十四部がある。
『雑心 論 纘述』
、
『倶 舎釈 論文疏
』、
『金剛般
若 経 註』
、
『金剛般若経集註
』、
『大乗 荘 厳 (1)
(2)
(3)
(4)
(5)
経論 纘述』
、
『 妙 法蓮華経纘述』
、
『 妙 法蓮華経賛略』
、
『勝 鬘経疏』
、
『弥 勒上生経疏』
、 (6)
(7)
(8)
(9)
『弥勒下生経疏
』、
『弥 勒 成 仏経 疏』
、
『仁 王 般 若経 讃 述
』、
『温 室経疏』
、
『盂 蘭 盆 経讃 (10)
(11)
(12)
(13)
(14)
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
述』
、
『諸 経 講 序』
、
『続詩英華』
、
『析疑論
』、
『最勝王
経疏
』、
『十 一面経疏』
、
『般 (15)
(16)
(17)
(18)
(19)
(20) 若心経疏』
、
『阿弥 陀 経義述』
、
『阿弥 陀 経疏 西 資 抄』
、
『阿弥 陀 経科文』
、
『無 量 寿 観経 纘
(21)
(22)
(23)
(24)
述』
こ の 中 に は、現在で
は 散 逸 し書名のみ
伝 わる文献や、
著者 問 題 が 提 起 さ れて い る 文 献 も あ る
。 そこ で 本
節では、この二十四部の文献を紹介しながら、慧浄の著作の性格や問題点を整理する。
『雑 心論 纘 述
』 三
〇巻
(佚書)
本書は『 (1)
続高 僧伝』
巻 三
・ 慧 浄 伝に
「纘
二 ―
述雑 心 玄 文
一 、為
二 三十巻
一 。
( 雑 心 の 玄 文 を 纘 述 し
、 三 十 巻 を 為
( 12)
す。
)」 と あ る も の で
、僧 伽跋摩等
訳『雑阿毘曇心
論
』の 註釈書 で あ る
。『 続 高 僧 伝
』 では六
〇五年 の 智 蔵 寺 に お け る 対 論 の 記 事 の 後
、 本 書 と
『 倶 舎 論 文 疏
』、
『 金 剛 般 若 経 註
』 を 著 し た こ と が 伝 え ら れ る
。 道 宣 の慧浄 伝 の 記 述がお お よそ 年次に従っ
て いるとすれば
、本書 の 成立時期は六〇五年以降と考
え られ る。慧 浄は長安に来る前に、志
念 よ り
『雑心 論
』 を 習 っ た と伝 え られ るの で、北 地 で 受 けた教学
を反映した
初 期 の著述で
あっ た可 能性が 高 い。活動拠点
を 長 安 に 移し た後に こ う し た著作を
残し た と 伝えら れ る こ とは、
慧浄 に とって 北地 の教学 が そ の 思想 の基 盤となって
い たこ とを 示唆して
い る
。 そ の具体的
な 思 想内 容 に つ
( 13)
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
い て は不詳 で あるが、慧
浄 は『法 華 経纘述』巻二の六
神通の解
釈におい
て、
『雑心論纘述』に
も同様の
説 を 記 して いるこ と に触れて
いる。
( 14)
『倶 舎釈論文疏』三〇巻
(佚 書)
『続 (2)
高僧伝』に「
末又以
二 倶舎
所
レ 訳、
詞旨宏富
一 、雖
レ 有レ 陳レ
迹、
未
レ 尽二
研求
一 。乃無
レ 師独悟、思
二 ―
択名 理
一 、
為二
之文 疏三十余巻
一 。
( 末 に 又た 倶 舎の 訳 する 所 は
、 詞 旨 宏 く 富 む を 以 て
、 迹 を陳 ぶ る こと 有 り と 雖 も
、
( 15)
未だ研 求を 尽 さず。乃ち師無くし
て 独り悟りて、
名理 を 思 択 し
、之の文疏
三 十余 巻 を 為す。
)」 と 伝 え ら れる真諦訳『阿
毘 達 磨 倶舎 釈論』
(以下、
『 倶舎 釈論』
) の註釈が本書である
。 なお
、こ の「師無
くして独 り悟る
」 とい う文言は『
続 高僧伝』の中にもう一箇所
、普光 寺 の 寺 主 と なった こ と を 伝える 記 事の中に
も 見え る。
おそ ら く
、こ の表 現 は 慧浄 自ら の 言 葉 に 基 づ くも ので
、『 倶舎 釈論
』につ いて は 志念 等 よ り 習 っ たの では な く
、自 らの 独 立 した思 想 に よ っ て註 釈 を施 した という 自 負 が あ った も の と 推測さ れ る
。 な お
、慧浄のいくつかの
著 作は 日本の 目 録に も書名 が 確認 でき る が
、 本 書に 関 し ては
、江 戸時代の
湛慧
( 一 六七 五
~ 一 七 四七
)が伝え
る よ うに、日本には伝来しなかったよう
で あ る。本書は、玄奘による『阿 (
16)
毘達 磨倶 舍 論
』 の 訳 出 によっ て 法相学派
系統 の『
倶舎 論
』 註釈書 が作 ら れ た ことによ
り、次 第 に用 い ら れ なく な り 散 逸 し た と 考 え ら れ る
。
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
『金剛般
若経註』三巻
、あ る い は一巻
【現 (3)
存
】
① 続 蔵一
―二 四
【関 連】
②スタイ
ン二
〇五
〇(
大正八五
『 金剛経疏
』)
( 17)
本 書 は慧 浄が頴 川 庾初 孫という
人物 の求 めに応じて
著 し た鳩摩羅什訳
『 金 剛 般若経』の註
釈書で あ る。
続蔵 本には 褚 亮(
五六〇
~ 六四七)がし
たためた
序が付 さ れ、こ の 序文は『続高僧伝』巻三
・ 慧浄伝 に も
( 18)
その まま引用さ
れ て い る。
『金剛般若
経 註』と いう書名
は
①続 蔵本の底
本 で ある 享保二年(
一 七一七
) の 刊本による
も の で
、道宣撰『大
唐内典 録
』や道世撰『法苑珠林』
で は
『注金剛般若経』
と呼称され
て いる。
( 19)
享 保二 年 刊本の 跋 文は、
「 丹陽 散人 烏有 子」
な る 人物に よ っ て 記さ れ て いる。そ
れによれば
、本書は
当 時 中 国 で 流 行せず、日本
でも 見 る ことの でき ない も の で あったが
、「 烏有子」の友人
で あった 義空とい
う 僧 が入手し刊行
に至っ た という。
( 20)
また、平
井宥 慶氏に よ っ て
、大正 蔵 第八五巻に
収 め ら れ て いた②ス
タイ ン二〇五
〇(以 下
、ス タイ ン 本)が 続蔵本『金剛
般 若経註』の一部と一致する
こと が明 らか にさ れた
。た だし
、両本の
内容には相
違 点
( 21)
も多く
、 その関係性を
ど う 考え るかは問
題 である。すなわち、続
蔵 本の該当箇所と比較す
ると、スタイン 本のほ う が 文 章量 も多く
、 慧浄自身が翻訳に関
わ った
『大乗荘厳経論』や慧浄撰『法
華 経纘述』への
言及
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
がある。ま
た、スタイン本で
は
、註 釈す る経文を
「経曰……者」と引
用 し
、「案」として
自 ら の意 見 を 陳 べるという、
『法華経纘述』等と同じ
形 式 で 註 釈 が施され
て い る。
一方で
、 続蔵本には
こ れら の特徴が無 いので あ る。両 本 の関 係 性 につい て の平 井氏 の説 をま とめると、同一作
者による執筆時期の相違、後人に よる再治
本と未 再 治本
、別人 の 著作
、という三つ
の可 能性が 考 えら れる。
こ れを踏まえ、以
下 で は続蔵本
( 22)
とスタイ
ン本の 関 係に つい て若干の
考察 を 加 えて みた い。
両書 の該当 箇 所を 対照して
みると、叙述
の仕方が若干
異なる部分はあるも
の の
、 続蔵本の
内 容は 全て ス タイン 本 に含 まれ、
続蔵本 のみに見
られる 思 想というも
の は無いと言っ
て良い
。 すなわち、仮に続
蔵本→
スタイン本と
いう順 序 で 成 立し たとす る と、スタイン
本は続蔵
本の思想
を 無 批判に受け入れ
て いる ことに なり、
同 一人 によ る撰述 の 可能性が高まる
で あ ろ う。
こ の 場合は
、 続蔵本が古形
で
、後に慧浄自身が書
き 改めた も の が スタイ ン 本 という ことに な る。
こ の よう に考え る 場合は、既に伊吹敦
氏 が指摘して
い る 通
り、 (
23)
両書はい
ずれも慧浄の真撰
と言え る
。 反 対 に、スタ
イン本
→ 続蔵 本の 順 で 成立し た とする 場 合は、何故その
よ うな改変
を行った
のかを 考 え る
必要がある。なぜなら、慧浄撰とされる『般若心経疏
』に も複数の
異本 があり、それ
らの 異 本には、各々 ある一定
の方 針 に 基づ いて 元 と なる 文献の思想を
刷新しようとし
た 形跡が見
ら れ るため で ある
。しかしな がら
、『 金剛 般 若 経註
』 の 場合
、 続 蔵 本 は ス タ イ ン 本 の他 文 献 から の 引 用を 削 減 し
、 記 述 を 簡 略 に して い るだ けで
、『 般若 心 経 疏
』 の よ う な 改 変 者 の 意 図 が 見 え な い の で あ る。
し た が っ て
、 も し ス タ イ ン 本→続
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
蔵本 の順に成立し
たとす れ ば、それは誰かが何らかの
意図 をもっ て 改変 を行ったという
性 質の も の で は な く、続蔵本
を抄出本と見るべ
きで あ ろ う。
さ ら に
、 前者 の続蔵 本
→ス タイン本の順で
成 立し たという
説 を 補強す る も の として
、 以下の永
超集『
東 域伝 燈目 録
』(以下
、『永超録』
) の 記 録が ある。す
な わち
、『永超録』
に おい て
『 金剛般若経』
の 註 釈書 を 列 挙する 中に
、 以 下 の ご とく慧浄
撰「
集 註一巻」
と 褚亮 撰「
註一巻」
と い う書名 が 並 ん でいる
。 同集註 一 巻
紀国寺恵浄註序
上宮儀撰一紙
同註一巻
大常博士河
南褚亮撰
( 24)
大正 蔵所収 の
『永超録』の甲本(大谷
大 学蔵 写 本)には、
「 集 註」
につ い て
「 私 案、
現流 本有
二 一部三
巻注 序 褚 亮 撰
一 。
( 私 に案ずるに、現流本には一部三巻注序褚亮
撰と有り
。)
」という書き
添えがあ
り、
「序 上 宮 儀 撰
」と いう記 述 に疑問を
抱きつつ
、「 集註」=慧浄
撰『
金 剛 般若経註
』(
① 続蔵本)と
推定し た よ
ママ
( 25)
う である。とこ
ろ が
、「集註」
が 続蔵本『
金 剛般若 経 註』だとする
と、褚亮
撰述とされる「
註
」 と は 何 を 指す のかが問
題とな る
。管 見の 限 り
、褚亮が『金剛
般 若経』
の 註 釈 を行っ た とす る 記 録は、右
の
『 永 超 録
』 以外には見当た
ら ない
。それゆ
え
、『 永 超録』の
言う「
註
」とは続蔵本
『金剛般若
経 註』に 相 当 す る と 考 え ら れ る
。続 蔵本 の冒 頭 に
「大 常 博 士 河 南 褚 亮 撰
」 と 序文 の撰 号が 記 さ れて い る こ と から
、『 永超
( 26)
録』で は 誤って 褚 亮の 撰 述 として し まっ たの で あ ろ う
。 す ると、もう一方
の 慧浄撰
「 集註
」とは何かとい うこ とにな る が
、 筆者 はこれが
スタ イン本 に あたると
推定し て い る
。つまり、②スタイン二
〇 五〇は
(4)
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
『金剛般若経集
註
』(以下
、『 集 註
』) と い う 慧 浄 の著作の
写 本 で あ り、① 続蔵本『金剛般若経註
』 とは別 の文 献で あ る
。 先 行研 究で は
、スタ イン 本 に 見ら れる特 色として
、世親の『金剛般若経論
』 の偈頌や真諦 三 蔵 の 釈 疏を引用
する点 が指摘さ
れ て いる
。 こ れは
、 本 書 が 様々な 註 釈 を 集 成 する こと を 目 的 と し た「
集
( 27)
註」
で あ る こ と に よるの で あろ う。
両書の成立
年 代に関して
、 道宣の『続
高 僧伝』
で は、
慧浄が
『 金 剛 般若 経註』を
撰 述 し た と い う記 述 は
『 大 乗 荘 厳経論』
訳出の 記事より前
にあり、また本書の
中 でも『大乗
荘 厳経論』への
言及は無
い。ゆ え に、
『 金 剛般 若 経 註』は 六二八年以前の比
較 的初期に
撰述された
可能 性が高いと言
え る。一方、
『 集 註
』 は 六 三六年頃成立
の
『法華経纘述
』 に 言 及 す る 箇 所があるため
、そ れ以降の著
作 と推 定さ れる
。以上によ
り
、 慧浄には、在
家信 者 で あ っ た頴川庾初孫のた
めに著し
た『金 剛 般 若 経註
』と、後年それ
に 様々な註
釈家の 説 を 加 え て 書 き改めた
『 集 註』という、二種
類の
『金剛般
若経
』註釈書
があった
と 言 える。
『大乗荘
厳経論纘述』三〇巻
(佚書)
『大乗 (5)
荘厳経論纘述』
(以下、
『荘 厳論纘 述
』) は、無著造
・ 波羅 頗 蜜 多 羅 訳『
大乗 荘厳 経 論
』の 註釈 書 である。
『大乗 荘厳経論』
翻訳 の際に、慧浄は法琳、惠
明
、 慧 賾 ら とと もに筆受
を 務 めた
。本書は散
逸 し ているた
め、慧浄
の
『 大乗 荘厳経 論
』理解 を 詳 らかに する ことは 難 しい。た
だ、
現存 する
『法華 経 纘述
』
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
に は『
荘 厳論纘 述
』に 解説 を譲 る 部 分 が い く つ か 確 認 で き る
。 そ の 該 当 箇 所 は 以 下の 通 り である
。
ⅰ
『 大 智 度 論』
の 五 菩提 につ いて
( 巻 一
・ 二 七 丁 左
)、
ⅱ 地 前・
初 七 地
・ 八 地 に お け る 教化 の 利 益(
巻一
・三 五 丁 右
)、
ⅲ第八地の不動義(巻一・三六丁左)
、
ⅳ種 性と行位
につい て
( 巻 五
・ 五 丁 右
)、
ⅴ 三解 脱門 の 解 釈(
巻六・
二 丁右
)。 あくまで
『法 華経 纘述』
の 残巻から読
み取 れる範 囲で はあ るが
、慧 浄 は 菩薩 の 行 位 に関する
説明 を
『 荘厳 論纘 述』に譲る
こ とが多かったよ
う で あ る。それゆ
え
、慧浄における『
大乗荘厳経 論』
の 影響を 探 る ため には、
そ の行位論を
明 ら か にす る こ と が 必要 と 考 えら れ る
。
『妙法蓮華経纘述』一〇
巻
【 (6)
現 存】①韓
国宝物二〇六号
②韓国 宝 物一 四 六 八号
③BD03215
(北 六 二
〇 二
/ 致 一 五
)
( )
( ) 28
29
【 関 連】④スタ
イ ン四一〇七(大
正 八五
『法華経疏
』)
⑤BD05811
( 北 六一九八/菜一一
)
( )
( ) 30
31
『 妙 法蓮華経纘述
』( 以 下
、『 法華経纘述
』)は
、六三二
~六三九年
頃 に 慧 浄が紀 国 寺にお い て著 し た と
( 32)
考 えら れ る『
法華経
』 の 註 釈書 で あ る。
近年、金炳坤氏によ
っ て 松 廣寺に版本の一部が現
存 し
、韓 国 の 宝 物に指 定 されて い るこ とが 報告され
た。韓 国 に現 存す る版本は、序品を
註 釈 し た 巻一・
巻二(①韓国宝物
( 33)
二
〇 六号)
、 およ び譬喩品
の 初 めから授記品
の 途 中までの
註釈 にあたる巻
五
・巻六(②韓国宝物一四
六 八 号)であ
る。加えて
、
③
BD03215
( 致 一五
)も
『法華経纘述』の
残 欠部分(序品の
註釈の 一 部)
である こ
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
とが判明
している。また、後
世 の 目 録によれば、
慧浄には本書
と別 に
『 妙 法蓮華経賛略
』二巻
(佚書)
( 34)
(7)
という『
法華経』註
釈 書も あっ たと 伝えら れ る。
本書は、
栖復集『
法華玄賛要
集
』( 以下
、『 玄賛要 集
』)に多く
の 逸文が残っ
て いる。
栖 復は、慈恩大師 基(六三
二~六 八二)が『妙法蓮華
経玄賛』におい
て 批判対象としたの
が 慧浄 で あ るとして、たびたび慧 浄の説 を 引用 す る の で あ る
。 さ らに本書は、
ス タ イ ン 二六六二(
大 正 八 五
『 法華 問 答』
)、 ス タイ ン六四 九四
(『 法華経論議』)や、
新羅義寂
の
『 法 華経義 述
』 に 影響を 与 え た と言わ れ る。
( )
( ) 35
36
また、
慧 浄撰『法華経纘述』と
密 接な関係を持つ敦煌文
献 と して
、
④ スタ イン四一
〇七と⑤
BD05811
(菜一 一
)の 存 在が 指 摘され て いる。まず
、④スタイ
ン四一〇
七は、大正蔵第八五巻に『法華経疏』
と し て翻 刻 さ れたもの
で、如来
寿 量 品の 途中 か ら 常不 軽菩 薩 品 の 途 中 ま での 註釈 が残 っ て いる
。平 井宥 慶 氏 は
④と類似す
る 内容を 持つ 写 本として
、⑤
BD05811
(菜 一 一
) の 存 在 を 指 摘 し た
。 そ の 後
、 金 炳 坤 氏 に よ っ
( 37)
て、
④スタ イ ン四一〇七と該当
部 分の
『玄賛要集
』 所引 の慧浄 説 との比較が
行 わ れ
、十五例あ
る 引 用 のう ち、十三例が④の記述と一致あ
るいは類似する
こ と が 明 ら かになった
。 金炳坤氏は④スタイン四一〇七に
( 38)
ついて、直ちに『法華経纘
述
』の抄出本と判ずる
こ とは でき なく とも
、『 法華 経纘述』を受けて
そ れ 以降 に 成 立し た文献と言え
る と している
。上述の
ごとく、④
ス タイ ン四一〇七
は 関連する
他の
『法 華経』註釈
( 39)
書との比較によっ
て 研 究 が 進 め ら れ て き た
。そ こで 本項 で は
、④スタイン四
一〇七と慧浄の他の著作との 関係 を 論 じて い み たい。
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
④スタイン四一〇
七には、慧浄撰『温室経疏』や『金
剛般若 経 註
』 とほぼ同じ表現
が 確認でき
る。ま た
、 本書には「如
二 序品解
一 。
( 序 品 に解 する が如し。
)」 等 と し て
、 欠 落 している
既 述の 註釈に解説
を 譲る 部分 があ り、
そ の う ち 序品 の二箇 所 に つ いて は 韓 国現 存本
『法華経纘述』巻
一・巻二に該当する
記 述がある。
以下 に そ の一覧を
示 す
。
[ ス タイ ン四一〇
七と慧浄の
現 存著 作との比
較]
ス タ イ ン 四 一
〇 七
慧 浄 の 著 作 の 該 当 箇 所
1
此 第 一
、 教 主 譬
。 良 善 也
。 医 意 也
。
『 温 室 経 疏
』(
大 正 八 五
・ 五 三 七 頁 中
)
解二
四 病 之 原
一 、
妙 通
二 八
術 之 要
一 、
下
レ 針
祗 域 者、指二 名字一 也。祗域梵音。此云二
能 活
一 。
定 差
、 投
レ 薬
必 愈
。 故 曰
二 良
医
一 。善解二 四病之原一 、妙通二 八術
之 要
一 、下レ
針 定 差
、
( 大 正 八 五
・ 一 八
〇 頁 上
)
投レ
薬 必 愈 治
。 有
二 此
能
一 故
称
二 能
活
一 也
。
2
生 類 即 四 生
。 謂
、 卵
・ 胎
・ 湿
・ 化
。 生
『 金 剛 般 若 経 註
』 巻 上 者、新諸根起也。依レ 卵而生曰レ 卵。
( 続 蔵 一
― 三 八
・ 二 六 四 丁 右 上
) 含蔵而出曰レ 胎。仮潤而興曰レ 湿。欻此列二 生類一 。生
者
、 新 諸 根 起 也
。
依レ 㲉而
生 曰
レ
然 而 現 曰
レ 化
。
卵
。 含 蔵 而 出 曰
レ 胎
。 仮 潤 而 興 曰
レ 湿
。 欻 然 而 現
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
( 大 正 八 五
・ 一 八 四 頁 上
)
曰レ
化 也
。
3
界 類 者 即
「 有 形 無 形
」 也
。 界 有
レ 三
。
『 金 剛 般 若 経 註
』 巻 上 一
、 欲 界
。 二
、 色 界
。 三
、 無 色 界
。
…
( 続 蔵 一
― 三 八
・ 二 六 四 丁 右 上
)
… 然 此 三 界
、 欲 界 其 必 有
レ 色
、 色 界 其 此列二 界類一 。界者、差別義也。一、欲界。二、 必無レ 欲、無色一界無レ 色無レ 欲。言二 色界。三、無色界。欲界必兼有レ 色。色界其必 有 形
一 、
摂
二 下
二 界 衆 生
一 。
言
二 無
形
一 、
摂
二 無レ
欲
。 無 色 一 界 無
レ 色
無
レ 欲
。
言二
若 有 色
一 、
即 上 一 界 衆 生
一 也
。
摂二
下 二 界 衆 生
一 也
。 言
二 若
無 色
一 、
即 摂
二 上
一 界 衆
( 大 正 八 五
・ 一 八 四 頁 中 下
)
生一
也
。
4
体 類 者
、 即
「 有 想 無 想 非 有 想 非 無 想
」
『 金 剛 般 若 経 註
』 巻 上 也。一切衆生以レ 想為レ 性。一、有
( 続 蔵 一
― 三 八
・ 二 六 四 丁 右 上
) 想。謂有レ 心而麁。二、無想。謂無レ 此列二 性類一 。性者
、 体 義
也
。 一 切 衆 生 以
レ 想
為
レ
心 而 寂
。 三
、 非 有 想 非 無 想
。 謂
、 雖
レ
性
。 一
、 有 想
。 謂 有
レ 心
而 麤
。 二
、 無 想
。 謂 無
レ
有レ 心非麁非寂。非麁故異二 乎有想一 。
心 而 寂
。 三
、 非 有 想 非 無 想
。 謂 雖
レ 有レ
心
、 非 麤 非寂故異二 乎無想一 。故曰二 非有想非無
非 寂
。 非 麤 故 異
二 乎
有 想
一 。
非 寂 故 異
二 乎
無 想
一 。
故
想一
也
。 言
二 有
想
一 、
即 摂
二 七
有 想 定 及 欲 曰二 非有想等一 。言二 若有想一 、即摂二 七有
想 定
及欲
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
界 衆 生
一 也
。 言
二 無
想
一 、
即 摂
二 二
無 想 定 界衆生一 也。言二 若無想一 、即摂二 二無
想 定
及無想
及 無 想 天 衆 生
一 也
。
言二
非 有 想 非 無
天衆生一 也。言二 若非有想非無想一 、即摂二 非想非
想一 、
即 摂
二 非
想 非 非 想 衆 生
一 也
。
非 想 天 衆 生
一 也
。
( 大 正 八 五
・ 一 八 四 頁 下
~ 一 八 五 頁 上
)
5
道 類 則 六 趣
。 如
二 序
品 解
一 。
『 法 華 経 纘 述
』 巻 二
・ 釈 序 品
( 一 四 丁 右 左
)
( 大 正 八 五
・ 一 八 四 頁 上
) 此現二 六趣一 也。一、地獄。二、畜生。三、餓 鬼
。 四
、 脩 羅
。 五
、 人
。 六
、 天
。 此 六 是 衆 生 所
レ 趣
処 故 名
レ 趣
、 亦 名 為
レ 道
。
…
…
6値二
此 善 縁
一 、
得
二 出
世 四 種 受 用
一 也
。 此
『 法 華 経 纘 述
』 巻 一
・ 釈 序 品
( 三 三 丁 左
)
如二
序 品 中 解
一 。
四 事 者
、 謂
、 見
・ 聞
・ 念
・ 触
。
…
… 若 出 世 間 四
( 大 正 八 五
・ 一 八 六 頁 上
) 事、値二 善知識一 是見受用、聴二 ―聞正法一 是聞受 用
、 内 自 思 惟 是 念 受 用
、 如
レ 説
修 行 是 触 受 用
。 右
の 一 致 から 考え ると、
ス タ イ ン 四 一〇七 は
『 法 華経 纘述』
そ のも の、あるい
は 原典 に忠 実な抄 出 本と 言え るので はな い だろ うか
。ただ、わずかに二例とは言
え
、やはり『玄賛要集』の「紀国云
」 の引用と一 致し な い 例 が あ る こ と は 留 意 す べき で あ る
。
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
『勝 鬘経 疏
』(佚書)
『続 (8)
高僧伝』には、慧
浄による『勝鬘経』の
註釈書があった
と 伝 え られる。しか
し、管見の
限 り、
本書 は後 世 の文献に引用さ
れず、
諸 目 録 にも記載がない
た め、
その詳 細は不明で
あ る
。
『弥勒上生経疏』
『弥勒下
生経疏』
『弥勒成仏経疏』
一巻
(いずれも
佚 書)
(9)
(10)
(11)
『続 高僧伝』に
慧 浄の著作とし
て
「 上 下 経」の 註 釈があった
と され、また『法
相 宗 章 疏』に「弥
勒 成仏 経疏一 巻 慧 浄 述」とある
。 こ の こ と から、慧浄はいわ
ゆる 弥勒三部経に対して註
釈 を 施し た こ と が 了解
( 40)
される。
『仁王 般 若経讃述
』二巻
(佚書
)
『仁 (12)
王般 若経 讃述
』( 以 下
、『 仁 王 経 讃述』
)は 鳩 摩羅什 訳『仏 説 仁王 般 若 波 羅 蜜 多 経
』 の 註 釈 で あ り
、 行信抄
『 仁王護国
般若波 羅 蜜多経 疏
』( 以下
、『 行信 疏
』)や円珍撰『
辟支 仏義集』
等にその一部が
引 用さ れ て い る
。そ の逸文 の ほと んどは経典
の 語 句 に対す る 註 釈 で
、 そ こ から全体の思
想的特 徴 を読 み取るのは
( 41)
困難で あ るが、こ
こ で は 円 測
( 六一 三
~ 六九 六
) の『
仁 王 経 疏
』( 以下
、『 円 測疏
』)と の関係 を 指 摘 して
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
お き たい。すなわち、円珍撰『辟支仏義集』に
は、以下
のように
『 仁 王経讃述』の一部が引用されて
いる。
恵浄師 仁 王 讃 述上巻云
字紀国
経 云
「復有八百万」
至
二 「皆成
就
」
一 者
、 此第二縁覚衆
。「 八百万」者、唱
レ 数。
問。
縁覚出
二 無レ
仏世
一 。云何
有
。 答。秘密
即有
、顕現即無。故
智 論云
、「 仏法有
二 二種
一 。一、秘
密。二、
顕現。仏
初転
二 法輪
一 時、声
聞 人見
下 八万諸天
得
二 無生法忍
一 、憍陳如
一人得
中 初道
上 。菩
薩見
下 無量得
二 声聞道
一 、無
数得
二 辟支
仏
一 、乃
至
、 無量 坐
中 道場
上 。此
不可思 議
、是密転
相
。」案、
今 依
二 秘密
一 而列也。
「 大 仙縁 覚」者、標
レ 類也。恒
在
レ 山
( 42)
居故言為
レ 仙。功徳多
勝 故称為
レ 大。
依
レ 縁得
レ 覚故称
二 縁覚
一 。
( 43)
恵浄師 の 仁王讃述上
巻 に云く
字は 紀
国なり
経 に 云 く
「復 有 八 百 万
」よ り
「 皆成 就
」 に 至 る は
、 此 れ第 二 の 縁 覚 衆な り
。「 八百万」とは、
数を 唱 うる なり。
問う。縁覚は仏
無 き世 に出づ。云何が
有 るや。
答 う
。秘密ならば即ち
有り、
顕 現な らば即ち
無 し
。故 に智論に云く
、「 仏法に 二 種有 り。一に
は、
秘 密。
二には、顕
現
。仏 初め て 法 輪 を 転ずる時、声聞の人
は八万の諸天
が 無生法忍
を得 て
、 憍陳如の み一人
初め て道 を得 る を 見る
。菩 薩は無 量 が 声 聞 道 を得 て
、 無 数 が辟支 仏 を得 て
、 乃 至
、 無 量が 道 場 に 坐 す を 見 る。此 れ 不 可 思議 にして
、 是 れ 密 か に転 ず る の相 なり
。」 案ずる に
、今は秘密に
依り て
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
列するなり。
「大仙 縁 覚」とは
、類を標すな
り。恒に
山に 在り て居すが
故に 言 い て「
仙」
と 為 す。
功 徳多勝なるが故に称
し て
「 大」と為す。縁に依
り て覚り を 得るが故に「
縁覚」と称す
。 慧浄は『仁王経
』 にお ける縁覚に
つ い て
、 縁 覚とは 世 に 仏 がいない
時に 独 り で悟った
者 を 指 す の に
、 ど うして
『 仁王経
』 で は 仏 の 教 説 を 聞 く 者 の中 に縁 覚がい る のか
、と いう問いを
立 て る
。こ の 問 い に 対す る 答え とし て
、 慧 浄 は『
大智 度論』を
引用し
、 仏 の 説法 には
「密
」と
「現
」という二つ
の捉え方があ
るこ と を示して
いる。すなわち
、「密
」の 説法とは、数えきれないほ
ど の菩薩が
声 聞・縁覚
の悟りを
見ると い う
、 現 象 世界 を超 えた不 可思議 な様 相 を 指 す
。ゆ えに、
『 仁 王 経』
の 会 座に 縁覚が描
か れるの も
、 こ の
『 大 智 度 論
』の「
秘 密」の立
場によると、慧浄
は解釈するの
で あ る
。 以上の『仁王
経讃述』と類似する
問 答は、以下の『円測疏』にも見
え る
。 問。
仏 衆 会 中
、有
二 縁覚
一 不。
若 言
レ 有者、大厳
経 説、如何会
釈。彼第一云
、「 一生補処菩薩、将
レ 欲二
下生
一 、有
三 天子
下
二 閻浮
提
一 。告
二 辟支
仏
一 言、仁
者 応
レ 捨二
此土
一 。何
以 故
。 十 二 年 後
、 当
下 有二
菩薩
一 、降
レ
神入
上レ
胎。是時五
百 辟支 仏、聞
二 天語
一 已、従
レ 座而起、踊
在
二 虚空
一 、高
七 多 羅 樹
、 化
レ 火焼
レ 身、入
二 於
涅槃
一 。
」 若 言
レ 無
者
、此経所説「
八百万億大仙
縁覚
」、 復如何通。
( 44)
答。
諸説不同。一云、
秘密即有
、顕 現即無。故智度
論 云「
仏法二種。一
者、秘密。二者、顕
現。
初転
二 法輪
一 、有
二 三乗人
一 、各得
二 其果
一 。是秘
密衆
。」 今此経中、依
二 秘密
一 説故言
レ 有也。
大 厳所 説、依
レ 顕二 ―
現衆
一 故不
二 相違
一 。
( 45)
紀 国 寺 慧 浄 の 著 作 に つ い て
( 櫻 井
)
問 う
。 仏 の 衆 会 の 中 に
、 縁 覚 有 り や不や
。 若 し 有 りと 言わ ば、大厳
経の説、
如何が会
釈す るや。
彼
いな
の 第一に
云く、
「 一生 補処の菩薩、
将に 下生 を 欲 せんとするに
、天子の
閻浮 提に 下る 有 り
。 辟 支 仏 に 告げ て 言 く
、 仁者 応 に此の土
を 捨つべし。何を
以 て の 故に。十二年後
、 当に菩薩有り
て
、 神 を 降 し て胎 に 入 る べ し
、 と
。 是 の 時
、 五 百 の 辟 支 仏
、 天 の 語 を 聞 き已 り
、 座 よ り 起 ち
、 踊 り て虚 空 に 在 り
、 高さ七 多 羅樹にして
、 火と化して
身 を 焼 き
、 涅槃 に入る」と
。 若し 無 し と言 わば
、 此 の経 の所説の
「八百万
億大仙縁覚」
とは
、復た如
何が通ずる
や
。 答う。諸説不同なり。一
に 云く、秘密な
ら ば 即ち有り、
顕 現な ら ば 即ち無し。故に智度論に云く
「仏法に二種
あり。一には、
秘密。二に
は、
顕現。初め
て 法輪 を転ずるに
、三 乗 の人、各其
の 果 を 得 る こ と 有り
。 是 れ秘密 衆 なり
。」 今 此 の経 の中 には、秘
密 に 依りて 説 く が 故に 有りと言
うなり
。大 厳の 所説 は
、 衆 を 顕 現 する に 依 る が 故に 相 違 せず
。 右 の
『円 測疏』の引用
で は
、『 仁王経 讃 述』の説
は諸 説あるう
ちの一つと
し て挙げ ら れる(二
重傍 線部 以下)
。『円 測疏』
で も、傍線部のように『
仁王経』の縁覚
を
『大智度論』の
秘 密・顕 現 に よっ て 解 釈 す るのは慧
浄説と 同 様で ある。しかし
、『 円測 疏』で は 地婆訶羅訳
『 方広大荘
厳経』の説
を 引 き
、『 大智度 論』との会通
を 問うと いう形に問答
自体が変化してい
る。
つ ま り
、 円 測 は慧 浄 の 解 釈 方 法 を 引 き 継 ぎ つ つ も、
『仁 王経讃述
』の執筆
時には無
か っ た新 訳 経 典の 知 識 を 加 え、自 らの著作に
反 映 さ せ ている と 言 え よ う。こ の例から
、『 円測疏』
に は他 にも『
仁 王経讃述
』を下敷きにして記された部分があると推測される。
論叢 アジアの文化
と 思 想
第号
28
なお
、『 行信 疏』に お ける この 経 文 の 註 釈 箇 所 で は
、『円 測疏』
を 引 く の み で 慧 浄 説 に つ い て は 言 及 し て いない
。 こ れ は、
『行信疏』
が
『円測 疏』を抄出し、そ
こ に他の解釈や自説
を 加 えるという
構成で記さ
れ てい るため と 考えら れ る。要するに行信は、右
の 慧浄 説は『
円 測疏』の内容
に含まれてい
ると捉え
たため、
ここ で は
『 仁 王経 讃 述
』を 引 用 しな か っ たと 考え られ る。
『温 室経疏』一
巻
【現存】①上図 (13)
〇 六八
②スタイ
ン 二 四九七
( 大正八 五
『温 室経 疏
』)
③スタイ
ン 三
〇四七
④ス タイ
( )
( )
( ) 46
47
48
ン三 八 八
一 (
49)
本書は『仏説温室
洗 浴 衆 僧 経
』(以下
、『温室経
』) の註 釈書であり、現
在 ま で に四点の
写 本 が 見 つかっ ている。
こ れ ら の うち、①上
海 図書館 本
(上図
〇 六八)の
巻首に「
慧浄法師製
」、②スタ
イン二四
九七の 巻尾に「
釈恵浄 撰
」とあるこ
と から、本書が『続高僧伝』に伝えら
れる慧浄の『温室経』註
釈 書にあたる と推定 されて い る
。①② の 二つ の 写 本は、若
干の字句
の相違 は あ る も の の、内 容 はほぼ 同様で ある。一方
、
③④は他の二本と比較すると内容に
大幅 な 省 略が見 ら れる こと か ら
、抄出本と考
えられる。
こ のよう な 複 数の 抄 出 本の存 在 は
、 敦煌にお
ける 俗講 で慧 浄の
『温 室経疏』が
用 い ら れ て いた と い う説 を補強 す る も の
( 50)
とな ろ う
。すなわち、③④は俗講のために必
要 な 部分のみ
を 抜 き出 したテキス
ト であ った可能性がある
。