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『 播 磨 国 風 土 記 』 に 治 水 ・ 利 水 様 式 を 読 む

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(1)

﹃播磨国風土記﹄に治水・利水様式を読む

『播磨国風土記』に治水・利水様式を読む

はじめに

﹁風土記﹂︑が説話に多くの部分をさき︑文学的叙述に満ちていることは︑周知の事実である︒ここでとりあげる

﹃播磨国風土記﹄の場合は︑殊にその色彩が強い︒そういう点に﹁風土記﹂の史料化が充分に展開せず︑歴史学の研

究対象

( 1

として充分に生かされないまま今日に至っている要因があるものと思われる︒)

歴史地理学においても同様で︑﹃上代歴史地理新考﹄の先駆けとなった井上通泰の﹃播磨風土記新考﹄ハろがあるも

のの︑地名比定の域を出ない研究が多くを占めてきた

(3 Y

地理学的分析とはいえないにしろ︑

の基礎作業であることには変わりはなく︑今後の地理学的研究の進展が待たれるところである︒

﹁風土記﹂は﹃続日本紀﹄和銅六年五月甲子条に﹁畿内七道諸国郡郷名著ニ好字↓其郡内所v生銀銅彩色草木禽獣魚

虫等物具録二色目刊及土地沃埼︒山川原野名号所由︒又古老相伝旧聞異事︒載ニ子史籍‑一言上︒﹂と記された詔に対応す

る解文であるが︑﹃播磨国風土記﹄の場合︑土地の沃埼が上中・上下・中上のごとくランクづけされていること︑里

(2)

をはじめ山川原野の地名説話の多くが主として五世紀の開発記事と絡め合わされて語られていることに特徴がある︒

そこで︑これまでの研究成果の上に立ち︑次の三点を目的とした地理学的な分析を試みた︒

当時のどのような徴地形・土壌・利水と対応するか第一は︑﹃播磨国風土記﹄記載の各里の土性のランクづけは︑

ということである︒第二は︑﹃播磨国風土記﹄記載の五世紀を中心とした開発記事は︑当時のどのような徴地形・土

壌・利水と対応するのかーーーすなわち︑畿内では巨大古墳や茨田堤︑狭山池等が造られ開発が進められたこの倭五王

の時代に播磨にも開発の手が伸ばされることは︑各里の地名説話から読み取れるわけであり︑播磨は正に﹁墾間﹂で

あったものと考えられる︒そこで︑どのような徴地形・土壌・利水条件を備えた場所から開発の手がおよんでいった

のかを検討してみようというわけである︒第一一一は︑﹃播磨国風土記﹄にみられる治水関係の記事を︑当時の地形条件

と照らし合わせることにより︑五世紀段階の治水様式の一端を明らかにすることである︒

資料の作製

第二第二の目的に対応する方法は︑当然のことながら︑八世紀の土性および五世紀の開発記事と当時の微地形・

土壌・利水との対比ということになる︒そのためのデータとして︑高橋学による微地形変遷図

( 4

および兵庫県農業)

試験場作製の表層地質柱状図ハ5

使

前者は︑高橋学が兵庫県下の発掘調査に立ち合い︑作製したもので︑播磨各地の五世紀および八世紀段階の徴地形

(数回分の洪水に対応して形成された地形﹀は︑これによって的確に把握することができる︒また八世紀から現在に

至る変遷傾向が後背湿地←後背湿地または旧中州←旧中州︑その前段階の五世紀から八世紀に至る(高橋のいう埋没

(3)

湿湿旧中州←旧中州または自然堤防←後背湿地と︑徴地形に大きな変化がないま

ま︑埋没・平坦化が進行したことが知られる︒さらに過去一

00

0年間の徴地形ごとの堆積スピードを︑完新世段丘

と氾濫原とに区分して求めると︑完新世段丘の場合︑後背湿地←後背湿地が0・六メートル︑旧中州←旧中州が0

湿

0・四メートル︑自然堤防←後背湿地が0・五メートルとなり︑氾濫原の場合︑後

背湿地←後背湿地が0・四メートル︑旧中州←旧中州が0・五メートル︑後背湿地←旧中州が0

後者︑すなわち兵庫県農業試験場による表層地質柱状図のデータ化は︑空中写真による現徴地形判読に以上の堆積

スピードを勘案して行った次第である︒

『播磨国風土記』に治水・利水様式を読む

表一および表二に示した八世紀と五世紀の徴地形は︑右の二つのデータを柱に︑現徽地形判読から類推したもので

ある︒この場合︑里のエリアを便宜的に半径一キロメートルの円内とすれば︑里はいくつかの徴地形の集合体となる

が︑その中で最も卓越した徴地形を記入していることを断っておきたい︒また︑円の中心は︑遺存地名によっている

が︑それが欠ける場合には︑現在最も使用されている秋本吉郎校注の﹃風土記﹄ハ

6)

を主として参考にしていることも

一八世紀土性と微地形・土壌・利水条件

目的の第一に掲げた︑﹁風土記﹂記載の八世紀における各里の土性のラングづけと当時の徴地形・土壌・利水との

対応関係を検討するために作製したのが表一である︒地図番号は図一の地点番号に対応するものである︒地形帯とは

微地形の集合体であり︑

00 0

Jダ!の環境変化に対応して形成されるものであるi斤 ﹀

0 4従円て現地形帯と

(4)

α

)11 

Qk

~~0

1地点番号図(表1に対応)

.A凡例タ イ プ 組

Bタイプ条星

cタイプ条呈

‑‑古代山陽道の道代 一一古代山陽道推定線

¥ 'I'~\

/ 1  

" 〆 J

̲./ ./

/  美褒郡

NS

(5)

水 │ 条 塁 タ イ プ

①  望(賀古理都皇 中 上 扇 状 地 現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

加 古 川

8Cj  "  18Cj 

②  鴨 波 里 中 中 扇 状 地 現 │ 旧 中 州 │ 現 │

喜 瀬 JII

18CI 

③  長 田 皇 中 中 三 角 1+1  現 │ 後 背 湿 地 ! 現 │ 軽 粘 土

別 府 川

8CI I

駅 家 里 中 中 扇 状 地 * 現 │ 旧 中 チ['11現 │ 軽 粘 土

加 古 川

I "  I 

大(印南国郡里 現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粘 土

⑤  中 中 自 然 堤 防 * 加 古 川

I "  I 

⑥  六 継 呈 中 中 自 然 堤 防 現 │ 後 『 背 湿 地 │ 現 │ シ ル ト

加 古 JII

I "  I 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

①  益 気 畏 中 上 扇 状 地

18CI  権 現 川

③  合 芸 里 中 上 自 然 堤 防 * 現 │ 後 背 湿 地 I現 │ 軽 粘 土

加 古 川

I "  I 

j

l

‑‑域一形

地一主時一徴

L H

S

現地形帯

地図番号 │ 

h H ω Mm υ

υ

σ3 

(6)

.

....  ① 

⑬ 

⑫ 

⑬ 

⑬ 

⑬ 

⑬ 

⑫ 

(飾磨郡) 部 皇

菅 生 霊

麻 跡 呈

英 賀 里

伊 和 里

賀 野 里

韓 室 旦

巨 智 皇

安 相 里

中 上 扇 状 地

中 上 扇 状 地 *

中 上 扇 状 地 *

中 上 三 角 1:+1 

中 上 扇 状 地 本

中 上 自 然 堤 防 キ

中 中 扇 状 地 *

上 下 扇 状 地 *

中 中 扇 状 地 *

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │

夢 前 JII

λ γ

  // 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

菅 生 川

' // 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │

夢 前 川

λ

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粕

18CI  夢 前 川

//  λγ 

現 │ 後 背 湿 地 │ 砂 │ 粕

船 場 川

//  λγ 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │

塩 置 JII

//  // 

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘

塩 置 川

//  // 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 l軽 粘 土

塩 置 川

I / /

現 │ 後 背 源 地 │ 現 │ シ ル ト

塩 置 川

8CI  / / 18CI 

(7)

⑬  枚 野 里 不 記 扇 状 地 * 現 │ 旧 中 列JI lシ ノ レ ト

1/ 

⑬  大 野 里 中 中 扇 状 地 * 現 │ 後 背 湿 地 l現 │ シ ノ レ

JII 

8CI I

少 川 里 中 中 扇 状 地 * 11日 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

A,  1/ 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 ! 粘

⑧  英 保 亘 中 上 扇 状 地 *

8CI旧 中 州 11/  )11 

11日 中 州

l現 ! 粘

美 渡 里 下 中 扇 状 地 キ

八 家 川

1/  1/ 

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘

因 達 里 中 中 扇 状 地 *

船 場 )11

λγ  1/ 

安 帥 塁 中 中 三 角 介│ l後 背 湿 地 │ 現 lシ ル ト

JII 

8Cj  "  j8cI 

(揖保郡) 下 上 現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ シ ノ レ

揖 保 川

香 山 里 自 然 堤 防 *

8CI I

栗 栖 里 中 中 |現 j 1&~~Jtg I 現 i 軽粘土

̲ 1/  8CJ  栗 栖 川 1/  8C  1/ 

ね幅制M

μ

m m

HH

(8)

. .

 

⑧ 

⑨ 

⑧ 

⑧ 

⑧ 

越 部 皇

上 向 里

雫 部 里

林 田 毘

邑 智 皇

広 山 室 │

枚 方 塁

大 家 里

大 田 里

中 中 扇 状 : 地 *

中 下 扇 状 地 *

中 中 扇 状 地 *

中 下 扇 状 地 *

中 下 扇 状 地 *

中 上 扇 状 地 *

中 上 扇 状 地 *

中 上 扇 状 地 *

中 上 扇 状 地 *

現 │ 旧 中 川 │ 現 │ 粘 栗 栖 川

11  11  揖 保 JII

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘 揮 保 川

λ7 

11  林 田 )1¥ 現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

中 垣 内 川 11 

11日 中 川 │ 現 │

林 田 川

11  11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

大 津 茂 川

11  11 

11日 中 州 │ 現 │ 粘 1後 背 湿 地 1

林 田 川

11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粘 土 林 田 川

11 

11  大 津 茂)1¥ 現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

大 津 茂 川

11  11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粘 土

11  大 津 茂 川 8CI  11  18CI  11 

(9)

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粕 揖 保 川

⑧  石 海 里 上 中 三 角

大 津 茂 川

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

滞 上 皇 上 中 扇 状 地 *

揖 保 川

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘 揖 保 JII

⑧  萩 原 堅 中 中 扇 状 地 *

林 田 JII

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘

少 宅 塁 下 中 扇 状 地 *

揖 保 川

λY 

揖 保 塁 中 中 自 然 堤 防 現 1~ 'W i~Ugl 現!ジルト| 揮 保 川

8CI  " 18CI 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

出 水 里 中 中 扇 状 地 *

18CI  中 垣 内 川

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

桑 原 塁 中 上 扇 状 地 *

中 垣 内 川

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υ

υR

mμ

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(10)

4

.... 

. .

  &.~0

2地点番号図(表2に対応)

.A凡例タイプ条里

Bタイプ条里

cタ イ フ 耀

= 古 代 山 陽 道 の 道 代

』一一古代山陽道推定線

j"‑ "

/ / / L

4 / / j  

/  美親日

(11)

開発記事地名と微地形・土壌・利水

[ 土 壌 │ 利

1; 後 背 湿 地 ! 現 │ 粘

①  ) /1lI<:..oo;ro;/  ‑%  /  権 現 川 Bタイ

4CI  r I  I軽 粘 土 l 後 背 湿 地 │ 現 │

漢(飾部磨郡) 扇 状 地 /1iJ'<:..oo;'lli/  ‑%  夢 前 川 応 神 朝

~CI I

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 伊和君

③  伊 和 里 扇 状 地 *!:;. r"  !:;. r 船 場 川

5C l  15C 1  u  仁徳朝 現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘

P④  韓 室 里 扇 [ 状 地 * │  塩 置 川 Bタイプ条里

5C l │5C

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粘 土

⑤  巨 智 皇 扇 状 地 * │  │  塩 置 川 応 神 朝 Bタイプ条里

5C l'当 然 堤 防 │5C 後 ー 背 湿 地 │ 現

⑥  安 相 星 扇 状 地*1‑% 1iJ'<:..  oo;'lli ‑%  塩屋JlI.応神朝

5CI自然:堤防 I5  現 │ 旧 中 州 │ 現 │ シ ル ト

⑦  枚 野 里 扇 状 地 *‑% 1J:l  'i'  il1 ‑% 

11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ シ ノ レ

③  大 野 里 扇 状 地 * │  │  │  川 欽 明 朝

6CI I6 11 

現地形帯

地名番号

hH相 個

UM

同 世

μ

υ胃袋川辺﹃但引ぱ﹁阻臨終﹄由同

(12)

<0 

V

⑮ 

⑫ 

⑬ 

⑬ 

⑬ 

少 川 里

英 保 堅

美 濃 里

多 志 野

馬 墓 池

飾 磨 御 宅

(揖保山郡) 香 里

飯 盛 山

越 部 皇

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

扇 状 地 権 欽 明 朝

~_ 11  16C

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 扇 状 地 *

I軽 粘 土 JII 

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘 扇 状 地 *

, 5C ,  八 家 川

11  11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 三 角

Iシ ル ト 夢 前 川 応神朝

11 

現 │ 後 背 湿 地l現 │ 粘

扇 状 地 *

船 場 川

11  11 

l後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 仁 徳 朝 蔚 状 地 *

船 場 川

11  λγ  ミヤケ

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ シ ル ト

自 然 堤 防 * 揖 保 JII 応神朝

~I 11  15C 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 lシノレ

自 然 堤 防 * 揖 保 川 応 神 朝

11 

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 粘 栗 栖 川

里 ・越部ミヤケ Bタイ 扇 状 地 *

11  揖 保 川

(13)

現 ! 旧 中 州 │ 現 ! シ ル ト 栗 栖 川

⑬  狭 野 村 扇状地;!<••

5CI 15C 1  揖 保 川

1'日 中 川 │ 現 ! 粘 揖 保 )11

⑬  i 上 伺 旦l 扇 状 地 *

11;  CI  林田)1[,

l 菅 生 出 ! 扇 状 地 * ' 現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

~_? ~   ‑̲" ' l 応神朝

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

与 さ 部 里I 扇 状 地 * 中垣内]//, 揖保郡家

1

; 林 田 里 l旧 中 州 ,1現 │ 林 関 川 ? 応神朝

扇 状 地 *

~C J ". 

⑧  伊 勢 野 扇 状 地 * 現 │ 背 後 湿 地 │ 現 1

大 津 茂 川

~c,1 ̲ "15C 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ シ ル ト

l i l山 扇 状 地 *

5C l'日中州~

邑 智 里 扇 状 地 * ' 現 │ 後 背 湿 地 l現 │ 粘

応神朝 Bタイプ条恩

1 "!I 5.C  j  大 津 茂 川

5.C 

: 現 │ 旧 中 州 l現 │ 粘 l

⑧  扇 状 地 以 林 田 川 応 神 朝

̲..・ 5C ¥."  ¥ 5Cj軽 粘 土

hw M

υ品﹃旧制﹄川民国機曲以﹄ahH

(14)

F4

⑧ 

⑧ 

⑧ 

⑧ 

⑧ 

⑧ 

⑧ 

枚 方 里 扇 状 地 *

扇 状 地 *

大 見 山 扇 状 地 *

御 立 阜 扇 状 地 本

大 法 山 扇 状 地 *

回戸,初 三 角 'J i¥

大 田 里 扇 状 地 *

石 海 里 三 角 J'!'I 

浦 上 里 扇 状 地 *

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粕 土 林 田 川 仁徳朝

fI  大 津 茂 川 ミヤケ

現 │ 旧 中 州 │ 現 │ 軽 粘 土

林 回 川 仁徳朝

1 "  I 

現~日中升11 現|粘

大 津 茂 川 応神朝

11  d

現 │ 旧 中 列1I現 │ シ ル ト

揖 保 川 応神朝

5CI  11  15CI 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

大 津 茂 川 推古朝

11  fI 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘

大 津 茂 川 仁徳朝

11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 軽 粘 土

大 津 茂 川 ミヤケ

5C 1 11 

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 揖 保 川 孝徳朝

大 津 茂 川 ミヤケ

現 │ 後 背 湿 地 │ 現 │ 粘 里徳朝・ミヤケ Bタイプ条

7C I  揖 保 川

(15)

I: I十[十(十

主ヨ4主

iliJEllHllzlilzl: 

⑧ 

③ 

⑧ 

⑧ 

『播磨国風土記』に治水・利水様式を読む

⑧ 

? 調

AU 

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斗 係or 

当時の地形帯とは同一のものとなるが︑段丘化ハ

8)

した場合には*を付した︒ AU 

AU 

R

る︒土壌については︑問題もあろうが︑今回は粘土から砂疎までの区分に留めた︒条里タイプは︑

することができる︒すなわち︑古代山陽道の道代官﹀を基準とした郡レベルのA

先述した通りであ

AB‑C

それに先行するものと

考えられる縁辺のBタイプ条里︑古代山陽道の道代を遮断する国分寺周辺のCタイプ条里がそれであり︑BA

の順で施行されたものと考えられる自

) O

この表中で土性のランクの最も高いのは︑@石海里と@浦上里の上中であり︑それぞれ三角州帯の後背︑湿地︑扇状

19 

地帯の後背湿地にあたる︒また両者は︑孝徳朝にミヤケとして開発されたことが︑地名説話から知られる︒続いてラ

(16)

e

3開発記事

腕 前 丙 一 名 │

IJ印 夏 郡 主 │ 宅 ( 町 出 る 所 以 は , 大 帯 出 御 宅 を 此 の 間 … き 。 故 宅 の ゆ ふ 。

②  lrp主 │ 閉 山 は 轄 の 時 人 等 到 来 た り て 叫 居 り 日 制 と 号 くo

~ ~_ ~ I伊和部と号くるは,積幡(宍禾)の郡の伊和君等が族,到来たりて此に居りき。故,伊和部と号く。

!③ i伊 和 里 !

│  │ 韓人等始めて来たりし時,鎌を用ゐることを識らず。但手以て稲を苅りき。故,手苅の村といふ。

│韓室里│韓室首宝等が上祖,家大く富み鏡ひて韓室を造りき。故,韓室と号く。

⑥  安 相 里

①  l枚 野 監

③  少 川 里

区智等,始めて此の村に屋居しき。故,因りて名と為す。

草上といふ所以は,韓人山村等(巨智氏)が上祖,枠の巨智の賀郡,此の地を誘ひて田を墾りし 時,一緊の草ありて,其の根尤臭かりき。故,草上と号く。

大立の丘と称ふ所以は,品太の天皇,此の丘に立たして,地形を見たまひき。故,大立丘と号く。

塩代の回の佃,但J馬の国の朝来の人到来たりて,此処に居りき。故,安相の里と号く。

枚野と称ふは,背,小野たりき。故,枚野と号く。

新良訓と号くlる所以は,昔,新羅の国の人,来朝ける時,此の村に宿りき。故,新羅訪11と号く。

大野と称ふは,本,荒野たりき。故,大野と号く。

(志貴の)嶋の宮に御宇しめしし天皇の御世,村上の足嶋等が上祖恵多,此の野を請ひて居りき。

乃りて里の名と為す。

本の名は私の里なり。右,私の里と号くるは, (志貴)嶋の宮に御宇しめしし天皇の御世,私部の 弓束等が祖,回又利君鼻留此の処を請ひてEきりき。故,私の皇と号く:。

(17)

1豊国と号くる所以は,筑紫の豊国の神,此処に在す。故,豊国の村と号く。

塁│右,英保と称ふは,伊予の国の英保の村の人,到来たりて,此処に居りき。故,英保の村と号く。

l

司 多 姑 怠 … 陥 一 一 … 鞭 を 叫 山 以 肋 ち て … 指 し 口 て … … 伽 は,宅を造り,及,田を墾るべし」とのりたまひき。故,佐志野と号く。今,改めて多志野と号くo

│ 生石の大夫,国司たりし時に至り,墓の辺の池を築きき。故,因りて名を馬墓の池と為す。

右,美濃と号くるは,讃伎の国の弥濃の郡の人,到来たりて,居りき。故,美濃と号く。

⑬ 

⑫ 

飾磨の御宅と称ふ所以は,大雀の天皇の御世,人を遺りて,意伎,出雲,伯誉,因幡,但馬j玄た りの国造等を喚したまひき。是の時,五たりのl国造,即ち召の使を以ちて水手と為して京に向ひ き。此を以ちて罪と為し,即て播磨の固に退ひて回を作らしめき。

⑬ 

│ 伊 和 吋 町 し し 時 (移住関墾と解する)

i献 の 国 字 削 の … 妾 名 は 鰯 吋 川 町 度 同 の … 叩 き。故飯盛山と名づく。

但馬君小津,み寵を蒙りて姓を賜ひ,皇子代君と為して,三宅を此の村に造りて仕へ奉らじめたま ひき。故,皇子代の村といふ。ーひといへらく,但馬の国の三宅より越し来たれり。故,越部の村 と号く。

飾 磨 御 宅

⑬ 

(携保郡) 香 山 里

⑬ 

⑬ 

別君玉手等が遠祖,本,月l内の園の泉郡に居りき。地,便よからざるに因りて,遷りて此の土に到 りて,のちいひしく, r此の野は狭くあれど,猶居るべし」といひき。故,狭野と号く。

出雲の国の阿菩の大神……此処に至りりて・・・・・・坐しき。

品太の天皇,巡り行でましし時,井を此の岡に閥きたまふに,水甚く清く寒し。

⑬ 

h wMh

州 経

υ

M Rm

υ

⑪ 

⑬ 

戸卑

V

(18)

司司 雫 部 里 人の姓に因りて名と為す。

(日下部氏…・・但馬から移住開拓)

林 田 里 伊和の大神,国占めましし時,御宏、を此処に植てたまふ。

此の野に人の家ある毎に静安きことを得ず。ここに衣縫の猪手,漢人の万良等が祖,此処に居らむ

⑧  伊 勢 野 iとして社を山本に立てて敬ひ祭りきo...此より以後,家々静安くして,遂に里を成すことを得た

l

稲 種 山 大汝命と少日子根命と二柱の神……此の山を望み見て,のりたまひしく「彼の山は稲種を置くべしJ とのりたまひて,即ち,稲種を造りて,此の山に積みましき。山の形も稲積に似たり。

邑 智 塁 I品太の天皇,巡り行でましし時,此処に到りて勅りたまひしく, i吾は狭き地と謂ひしに,此は乃 ち大内なるかも」とのりたまひき。故,大内と号く。

山 里 石龍比売命,泉の皇の波多為の社に立たして射たまふに,此処に到りて,箭重量に地に入り,唯握ば かり出でたりき。故,都可の村と号く。

枚方塁│河内の国茨田の郡の枚方の塁の漢人来到たりて,始めて此の村に居りき。故,枚方の塁といふ。

・名づくる所以は,難波の高津の宮の天皇の御世,築紫の田部を召して,此の地を墾らしめし

⑧  大 見 I大見と名づくる所以は,品太の天皇,此の山の嶺に登りて,四方を望み覧たまひき。故,大見とい

⑧  御立阜│品太の天皇,此の阜に登りて,国覧したまひき。故,御立岡といふ。

大 法 I今,勝部と号く所以は,小治田の河原の天皇のみ世,大倭の千代の勝部等を遺りて,回を墾らしむ るに,即ち,此の山の辺に居りき。故,勝部岡と号く。

(19)

宇治の天皇のみ世,宇治連等が遠祖,兄太加奈志,弟太加奈志の二人,大田の村の与富(丁)等の 地を請ひて,田を墾り蒔かむと来る時……

上・下宮岡 魚戸津・杭

⑨ 

大田と称ふ所以は,普,呉の勝,韓国より度り来て……其が又,揖保の郡の大田の村に遷り来け り,是は,本の紀伊の国の大田を以ちて名と為すなり。

石海と称ふ所以は,難波の長柄の豊前の天皇のみ世,是の塁の中に百便の野ありて,百枝の稲生ひ き。即ち,阿曇連百足,のりて其の稲を取り献りき。その時,天皇,勅りたまひしく「此の野を墾 りて,国を作るベしJとのたまひき。故,野を名づけて百便といひ,村を石海と号く。

⑧ 

│ 細 附 ふ 所 以 は 百 姓 ffi'?<i?ueし て 開 く に 鰍 多 に 問 … 。 後 終 にJII 成りき。故,細螺川といふ。

│ 間 一 占 … し て 又 … 叩 し … … … 泉 湧 き出でて,遂に南と北とに適ひき。北は寒く,南は温し。

美奈itJIIと号くる所以は,伊和の大神のみ子,石龍此古命と妹石龍比売命と二はしらの神.JIIの水 を相競ひましき。……

(水争いは土地占居の争いであると解する)

右,鴻上と号くる所以は,昔,阿曇連百足等,先に難波の浦上に居りき。後,此の浦上に遷り来け り。故,本居に図りて名と為す。

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lPち,御井を閥りき。故,針関井といふ。其の処は墾らず。又,増{もたひ)の水溢れて井と成り き。故,韓の清水と号く。

本の名は漢部の里なり。……漢部と号くる所以は,漢人,此の村に居りき。故,以ちて名と為す。

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美町奈志川

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⑧ 

⑧ 

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梶 川

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(20)

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ンクの高いのは⑬巨智里の上下であり︑扇状地帯の後背湿地にあたり︑古条里と考えられるBタイプ条里が認められ

る︒以上三旦の利水は︑揖保川の分流や大津茂川︑塩置川などの中河川によったものと考えられる︒

反対に土性のランクの最も低いのは︑@美濃里と@少宅里の下中であり︑両者とも扇状地帯の旧中州にあたる︒利

八家川という小河川︑後者の場合︑揖保川という大河川によらざるを得なかったものと思われる︒

←その他の場合を概観すると︑中上には⑦益気里@漢部里⑪菅生里@麻跡里⑬伊和里@広山里@枚方里@大家里@大

田里@桑原旦など︑扇扇状地帯の後背湿地にあたる里が多くを占め︑その中の⑦⑬@@の各里は︑ミヤケの故地にあた

る︒利水は︑加古川の分流や夢前川︑船場川︑林田川︑大津茂川などの中河川によったものと考えられる︒中中・中

下には︑扇状地帯の後背湿地以外の旦が多くを占め︑利水は︑中上に比べ︑大河川・小河川の比率が高くなってい

土壌については︑粘土から砂まで︑かなりのばらつきがでたが︑旦というエリアを考えた場合︑徴地形以上に変化

に富んでいることを示しているものと考えられる︒

以上を要約すれば︑土性のランクの高い旦は︑扇状地帯の後背湿地が卓越し︑中河川による擢概が可能な里という

かつてのミヤケの故地であったり︑古条旦の認められる里でもある︒

五世紀を中心とした開発記事と微地形・土壌・利水条件

目的の第二に掲げた︑﹁風土記﹂記載の五世紀を中心とした開発記事と当時の徴地形・土壌・利水との対応関係を

検討するために作製したのが表二である︒そして参考までに︑開発記事を表三として付した次第である︒両表から伺

(21)

えるように︑飾磨郡および揖保郡のほとんどの里に︑応神・仁徳朝︑つまり五世紀を中心とした開発記事が︑地名説

話の中に記載されている︒表二の地名番号は︑図二の地点番号と対応するものである︒地形帯については︑先述した

通りである︒徴地形・土壌の中には︑五世紀以外のものも混じっているが︑これは︑たとえば推古あるいは孝徳朝の

記事の場合には︑七世紀と表示したためである︒

この表から読みとれるように︑五世紀を中心に開発の手がおよんだのは︑扇状地帯の後背湿地および旧中州が多数

を占め︑他の地形帝はきわめて少ない︒これは三角州帯や自然堤防帯の後背湿地が︑扇状地帯に比べてスケールが大

きく︑大規模開発が必要であったこと︑また︑旧中州が居住地に適し︑周囲の後背湿地を生産地とすることができた

『播磨国風土記』に治水・利水様式を読む こと等によるものであるう︒土壌は粘土・軽粘土に集中し︑シルト・砂など保水力に劣るものは︑その半分程度とな

っている︒利水は︑塩置川︑船場川︑林田川︑大津茂川等の中河川に集中し︑市川︑揖保川等の大河川や小河川・溜

池によるものはきわめて少ない︒Bタイプ条呈の認められる益気のミヤケをはじめとして︑ミヤケの設置やB

条里の存在が知られる旦は︑全て上記の条件を満たしている︒表中の③伊和里@韓室里⑪越部里@邑智里@枚方里@

大田里@浦上里等がそうである︒

すなわち︑五世紀の開発の傾向は︑徴地形では扇一状地帯の後背湿地・旧中州︑土壌では粘土・軽粘土︑利水では中

河川であるところから子が入れられたということになる︒

五世紀の治水事業

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目的の第三に掲げたのは︑﹁風土記﹂記載の治水関係の記事から︑五世紀段階の治水様式の一端を明らかにしてみ

参照

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復刻版

味で使われたのであって、本書第 1 章第 4

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︵2 ︶  松前健 ﹁二つの出雲神話﹂ ︵﹃出雲神話﹄ 講談社︑ 一九七六年七月︶ ︑ 水野祐 ﹁﹃出雲国風土記﹄の神話の概要﹂

よいのである。土蜘妹は必ずしも大和政権への反逆者ばかりを

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