• 検索結果がありません。

﹃出雲国風土記﹄の出雲と越

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "﹃出雲国風土記﹄の出雲と越"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに   ﹃出雲国風土記﹄は︑天平五年︵七三三年︶二月に出雲国で編ま

れた地誌である︒風土記は︑和銅六年︵七一三年︶五月に出され

た官命を受け︑各国で編纂されたとみられている︒その和銅の官

命は次の通りである︒

畿内七道諸国郡郷名︑着w好字z其郡内所p生︑銀銅彩色草木 禽獣魚虫等物︑具録w式目a及土地沃䐪︑山川原野名号所由︑

又古老相伝旧聞異事︑載w于史籍q言上 1︒   ﹃出雲国風土記﹄にも︑産物などとともに地名の由来を説く神

話が数多く記される︒

  和銅の官命が出されてから風土記が完成するまでに要した期間

は国によりまちまちだったようだが︑﹃常陸国風土記﹄冒頭に国

司の解文である旨が記されることから︑一般に編纂の責任は国司

に存したと考えられている︵九州諸国は大宰府の関与も説かれる︶

ところが︑﹃出雲国風土記﹄の奥書には︑編纂にあたった最高責 任者が出雲国造出雲臣広嶋だと明記されており︑そこに国司の名はない︒出雲臣は出雲国内の最有力氏族であり︑その長である国造は朝廷へ赴き︑﹁出雲国造神賀詞﹂を奏上する特別な儀式を行っ

ていた︒当風土記が成立した天平五年にあっても︑同氏は出雲国

全九郡の内︑五郡にわたり郡司を出している︒とりわけ国府の置

かれた意宇郡では︑大領・少領・擬主政・主帳を出雲臣が占めて

おり︑異例である︒なお︑意宇郡の大領は国造広嶋が兼帯してい

る︒  こうした状況だからこそ︑出雲臣広嶋の価値観が﹃出雲国風土

記﹄の内容に大きな影響を及ぼしていることは容易に予想される

だろう︒実際に︑この点は既に諸先学の指摘を見るところであ

り 2︑稿者もその驥尾に付し論じたことがある 3︒小稿もまた同様の

理解の下に論を進めていくが︑この度着目したいのは︑当風土記

で越に言及する地名起源神話である︒出雲国内の来歴を語るにあ

たり︑出雲から遠く離れた越という外部の存在が求められたのは

何故なのか││小稿では︑越に触れることで成り立つ﹃出雲国風  

﹃出雲国風土記﹄の出雲と越

││   ﹁天下﹂の創出   ││

(2)

土記﹄の世界観の問題を︑当風土記に頻出する﹁天下﹂︵所pw q大神︶と関わらせて論じていきたい︒

一 嶋根郡美保郷における出雲と越㈠

   ││意支都久辰為命・俾都久辰為命・

     奴奈宜波比売命││

  ﹃出雲国風土記﹄において︑越は①意宇郡の郡名起源︵郡総記︶

②意宇郡母理郷︑③同郡拝志郷︑④嶋根郡美保郷︑⑤神門郡古志

郷︑⑥同郡狭結駅で触れられる︒①④は高志︑②③は越︑⑤⑥は

古志と記されるが︑小稿では風土記本文の引用を除き︑表記を越

で統一する︒

  ﹃出雲国風土記﹄で初めて越の地が言及されるのは意宇郡なの

だが︑行論の都合上︑この郡は後で集中的に論じることにし︑ま

ずは④嶋根郡美保郷を見てみたい︒

④美保郷︒郡家正東廿七里一百六十四歩︒所p造w天下q大神命︑

娶w高志国坐神︑意支都久辰為命子︑俾都久辰為命子︑奴奈 宜波比売命q而︑令p産神︑御穂䘫々美命︑是神坐矣︒故云w美保z   引用記事によれば︑美保の地名の由緒は御穂䘫々美命なる神名 に求められている︒この神は︑所p造w天下q大神命すなわち大穴

持命を父に︑奴奈宜波比売命を母に持つ︒このように︑美保郷条

では地名の由来を決定付ける神の父母が明らかにされるが︑当風

土記にあって︑両親が同時に言及される地名起源譚は珍しい︒以

下︑この点を確認しておこう 4︒   ﹃出雲国風土記﹄では︑親子の間柄について系譜的な形で説明

する際に

︑﹁

︵之︶

御子

﹂の形をとるのが一般的

である︒Aに該当する神は︑䘫佐乎命・伊佐奈枳命・神魂命・

意美豆努命・阿遅䘫枳高日子命・大穴持命に限られる︒これら六

神に関わる任意の例を掲げておく︒

○大草郷︒郡家南西二里一百廿歩︒䘫佐乎命御子︑青幡佐久佐

丁壮命坐︒故云w大草z︵意宇郡︶

○千酌駅家︒郡家東北一十七里一百八十歩︒伊佐奈枳命御子︑

都久豆美命︑此処坐︒然者則可p謂w都久豆美q而︑今人猶千

酌号耳︒︵嶋根郡︶

○漆治郷︒郡家正東五里二百七十歩︒神魂命御子︑天津枳比佐

可美高日子命御名︑又云w薦枕志都治値q之︒此神︑郷中坐︒

故云w志丑治z︹神亀三年︑改w字漆治z︺︵出雲郡︶

○伊努郷︒郡家正北八里七十二歩︒国引坐意美豆努命御子︑赤

衾伊努意保

美比古佐倭気能命之社

︑即坐 w郷中

z

故云 w伊 農z︹神亀三年︑改w字伊努z︺︵出雲郡︶

○塩冶郷︒郡家東北六里︒阿遅䘫枳高日子命御子︑塩冶䈝古能

命︑坐之︒故云w止屋z︹神亀三年︑改w字塩冶z︺︵神門郡︶

○多伎郷︒郡家南西廿里︒所p造w天下q大神之御子︑阿陀加夜 努志多伎吉比売命︑坐之︒故云w多吉z︹神亀三年︑改w字多 伎z︺︵神門郡︶

  右の諸例の内︑伊佐奈枳命を除く神は︑当風土記の中で具体的

な活動の様子も記されており︑出雲国に所縁を持つ︒このように︑

当国に関係する神を親に持つ子は︑地の文で﹁御子﹂と記される︒

(3)

残る伊佐奈枳命は︑系譜が記されるのみである︒そもそもこの神

は︑本来は淡路島とその周辺で信仰されていた神だとされてお

り 5︑出雲国に所縁のあった神だとは思われない︒もっとも︑伊佐

奈枳命は︑﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄では国土を生み︑天照大神

の父神とされるように︑特別な立場の神である︒このように権威

的な存在と認識されている神だからこそ︑伊佐奈枳命の場合も

﹁御子﹂と記されたのだと判断される︒右のように考えることに

よって︑出雲国造の重視する熊野大神が﹁伊弉奈枳乃麻奈子坐熊

野加武呂乃命﹂︵意宇郡出雲神戸︶と記されるのも了解される 6︒   さて︑これらの例と比較をすると︑美保郷条は︑大穴持命ばか

りでなく奴奈宜波比売命にまで言及しており︑極めて珍しい部類

のように見えてくる︒それだけに︑類型から逸脱した箇所に着目

してみるのは有益だと言えるだろう︒

  改めて美保郷条を見ると︑﹁高志国坐神︑意支都久辰為命子︑

俾都久辰為命子︑奴奈宜波比売命﹂とある︒注意したいのは︑傍

線部のように意支都久辰為命・俾都久辰為命・奴奈宜波比売命が

﹁子﹂とだけ記して繋がれる点だ︒この﹁子﹂をめぐり︑天和三

︵一六八三年︶五月に成った﹃出雲風土記抄 7﹄は﹁ミコ﹂と訓 をふり︑現代の注釈書の中にもこの訓を踏襲するものがある 8︒確

かにこの系譜中には﹁高志国坐﹂とあり︑意支都久辰為命以下奴

奈宜波比売命までにも一定の敬意が払われているとみてよい︒し

かし︑﹁ミコ﹂と訓む﹃出雲風土記抄﹄が伝える風土記本文も含め︑

諸写本は﹁子﹂で一致しており︑校異がない︒そのため︑この﹁子﹂

の訓読にあたり︑﹁ミコ﹂と﹁ミ﹂を補読する必要はない︒   美保郷条によれば︑出雲の神と越の神との間には厳然とした区別が存在する︒当風土記で︑出雲は越よりも明らかに高位に置かれているのだ︒

二 嶋根郡美保郷における出雲と越㈡

   ││﹁令産﹂という表現││

  美保郷条では︑もう一点︑﹁令p産﹂にも注目したい︒この語の

主語は大穴持命である︒﹁生﹂の字の主語を男性とする系譜記事

は︑﹃古事記﹄にも存在する︒﹃古事記﹄で大穴牟遅神と同神とさ

れる大国主神を例に︑分注を省略して引用してみる︒

大國主神︑娶y坐w胸形奧津宮q神︑多紀理毘賣命k生子︑阿

遲鉏高日子根神︑次妹高比賣命︑亦名︑下光比賣命︒此之阿

遲鉏高日子根神者︑今︑謂w迦毛大御神q者也︒大國主神︑亦 娶w神屋楯比賣命a生子︑事代主神︒亦娶w八嶋牟遲能神之女︑

鳥耳神a生子︑鳥鳴海神︒

  ﹃古事記﹄の系譜記事は︑上記の通り﹁男娶w女q生子

﹂の形式をとるのが一般的だ︒これは︑﹁生﹂の字義を抽

象化し男性を主体に系譜を紡いでいく︑いわば父系の論理を具現

化したものだと言える 9︒   一方︑美保郷条では︑﹁所p造w天下q大神命︑娶w  ⁝略⁝  奴 奈宜波比売命q而︑令p産神︑御穂䘫々美命﹂となっている︒主語

こそ男神たる大穴持命であるものの︑この記事では傍線部のよう

に﹁令﹂の字が使われており︑﹃古事記﹄とは異なる︒研究史の

中で︑本条の﹁令p産﹂は﹁ウミマシシ﹂と訓読される場合が多

(4)

かった A︒しかし︑この訓に疑義を呈し︑﹁ウマシメシ﹂という訓

を試みたのが荻原千鶴である︒以下︑荻原説を確認しよう︒

  ﹃出雲国風土記﹄には︑女神が出産に臨む場面が散見される︒

○加賀神埼︒即有p窟︒高一十丈許︑周五百二歩許︒東西北通︒

︹所p謂佐太大神之所w産生q処也︒所w産生q臨p時︑弓箭亡坐︒ ⁝略⁝  ︺︵嶋根郡︶

○神名樋山︒⁝略⁝  古老伝云︑﹁阿遅䘫枳高日子命之后︑天 御梶日女命︑来w坐多宮村a産w給多伎都比古命z 尓時︑教詔︑

﹃汝命之御祖之向位欲p生︑此処宜也﹄﹂︒所p謂石神者︑即是︑

多伎都比古命之御託︒当p旱乞p雨時︑必令p零也︒︵楯縫郡︶

○熊谷郷︒⁝略⁝  古老伝云︑﹁久志伊奈大美等与麻奴良比売 命︑任身及w将p産時a求p処p生之︒尓時︑到w来此処q詔︑﹃甚 久々麻々志枳谷在﹄﹂︒故云w熊谷q也︒︵飯石郡︶

  出産にまつわる話を検討した荻原は︑当風土記の﹁産﹂の字は︑

子を出産する行為そのものを指すと分析する︒その上で荻原は︑

美保郷の﹁令p産﹂は︑﹁産﹂の字を父系の論理に当て嵌めようと

したものだと述べ︑﹁ウマシメシ﹂という使役形の訓を提示した

のである B︒   ﹃出雲国風土記﹄での﹁令﹂の字の用例は次の通りである︵美

保郷条を除く︶

○佐香河内︑百八十神等集坐︑御厨立給而︑令p醸p酒給之︒︵楯

縫郡佐香郷︶

○所p謂石神者︑即是︑多伎都比古命之御託︒当p旱乞p雨時︑

必令p零也︒︵楯縫郡神名樋山︶ ○所p造w天下q大神︑大穴持命︑将w娶給q為而︑令p造p屋給︒︵神

門郡八野郷︶

○所p造w天下q大神令p殖p笶給処︒︵大原郡屋裏郷︶

○神䘫佐乃乎命︑御室令p造給︒︵大原郡御室山︶

  ﹃出雲国風土記﹄は︑補助動詞﹁給﹂もしくは﹁坐﹂により尊

敬の意を表すのが通例である︒④美保郷条や楯縫郡神名樋山条に

補助動詞がないのは不審だが︑当風土記の﹁令﹂の字からは︑敬

意を探るよりも︑使役の意を見て取った方が妥当と判断される︒

そのため︑美保郷条の﹁令﹂に関する用字意識は︑荻原説を支持

するべきだろう︒荻原以後の注釈書も︑この字を使役の形に訓読

している C︒   さて︑美保郷条の﹁令﹂を考える上では︑この構文が大穴持命

を主語にしたものである点を見落としてはなるまい︒出雲国造が

奉祭し︑﹃出雲国風土記﹄の神話群の主神として君臨する︑他な

らぬ大穴持命だからこそ︑使役形がとられたのだ︒

  もっとも︑当該条では大穴持命に目を向けるばかりではいけな

いだろう︒本条を除くと︑大穴持命であっても﹁令﹂の字で系譜

が説明されることはない︒ここに至り︑奴奈宜波比売命の出自が

越とされる点も思い合わす必要が生じるのである︒前節で論じた

点も考慮に入れて本節をまとめると︑越に対する出雲の優位性

も︑当該条をして大穴持命を上位に据える使役形をとらせた根拠

になっていると考えられるのだ︒美保郷条の﹁令p産﹂には︑﹃出

雲国風土記﹄における大穴持命と出雲の位置付けの双方が凝縮さ

れている︒

(5)

三 神門郡における出雲と越   次に︑越に関する神門郡の例⑤⑥を検討したい︒

⑤古志郷︒即属w郡家a伊弉弥命之時︑以w日渕川a築w造池q之︒

尓時︑古志国人等︑到来而為p堤︑即宿居之所︒故云w古志q也︒

⑥狭結駅︒郡家同処︒古志国佐与布云人︑来居之︒故云w最邑z︹神亀三年︑改w字狭結q也︒其所w以来居q者︑説如w古志郷q也︒︺   両例は︑先の④嶋根郡美保郷とともに︑風土記時代以前からの

出雲と古志との交流が垣間見られるものとして︑﹃出雲国風土記﹄

の中でもとりわけ注目されてきた︒たとえば門脇禎二は︑両者の

交流が首長層に限ったものではなく︑﹁一般の人民たちの往来も

示唆している﹂と説く D︒紙幅の都合で詳細は省略せざるをえない

が︑考古学・文献史学の立場からは︑古代社会における出雲と越

との交流を思わせる証拠が挙げられている︒両者の交流は︑風土

記時代の人間にとっても実態を伴ったものとして受け容れられて

いたのだろう︒このような背景の下に︑当風土記にも越に関する

①から⑥の記事が掲載されているのだと考えられる︒ただし︑小

稿は出雲と越との交流をめぐる歴史的実態について言及するもの

ではない︒⑤⑥に関しても︑越という外部の存在を通し︑出雲が

風土記内部でどのように描かれているのかを問う立場から論じる

ことにしたい︒

  新たな居住地に故地にちなんだ名称を付けるのは︑十分ありう

る話だろう︒⑤の古志なる地名の実態もそこにあったのかもしれ

ない︒しかし︑当風土記では︑越の人間がこの地名を付けたと記 されているわけではない︒ここでの書きぶりは︑越の人が住み着いたから古志と名付けたというものであり︑どこまでも出雲側の視点による説明だと認識するべきだろう︒さらに注意したいの

が︑この記事では堤を作ること自体が出発点だったとされる点

だ︒越の人々が移住した後に︑自らの生活の便宜を図って堤を

作ったとあるのではない︒あくまでも出雲の地の整備が目的であ

り︑越からの移住もこの時であったと書かれている︒⑤をもって

古志人の出雲に対する労役とみなす説は︑これまでにも見られ

る E︒

  このように⑤を出雲側の視点の下に書かれた記事だと理解し︑

その上で越から出雲への移住の意味を考えるならば︑この記事の

背後に存在する思想の根幹は︑越の人の出雲への奉仕を語る点に

あると判断される︒伊弉弥命がいかなる存在なのか︑またこの命

の時とは具体的にどの時点を指すのかに疑問は残るが F︑出雲と越

との上下関係は動くまい︒⑥の佐与布は︑諸注釈書が説くように︑

この越の集団の統率者だったのだろう︒

  なお︑⑥狭結駅条に関しては︑別の視点からも付言しておきた

い︒当該条では︑佐与布なる人物が﹁佐与布云人﹂と記されてい

る︒この﹁云人﹂という表現をめぐり︑当風土記で人物名が挙げ

られる他例と比較してみよう︒

○志貴嶋宮御宇天皇御世︑倉舎人君等之祖︑日置臣志䈝︑大舎

人供奉之︒︵意宇郡舎人郷︶

○神門臣伊加曽然之時︑神門貢之︒故云w神門z︵神門郡総記︶

  日置臣志䈝・神門臣伊加曽然は︑﹃出雲国風土記﹄の中の孤例

(6)

であるのみならず︑他文献でも名前を確認できない︒この限りで

は︑両名ともに決して有名な人物だとは言えない︒その二人に関

し︑前者の志䈝に対しては﹁倉舎人君等之祖﹂と説明をする︒一

方︑後者の伊加曽然はどうか︒神門臣は神門郡の大領を務め︑さ

らに同郡にほど近い出雲郡健部郷にも神門臣の名が見える︒その

ため︑同氏は神門郡を中心に一定の影響力を持った有力氏族なの

だと推測はされるものの︑伊加曽然に関する説明は一切ない︒に

もかかわらず︑引用記事では︑この人物の詳細が自明であるかの

ような態度がとられ︑時代の指標とされている︒

  もっとも︑神門郡の人物説明の仕方には注意が必要だ︒当風土

記に特有な新造院をめぐり︑神門郡を除く郡では︑﹁大領出雲臣

大田之所p造也﹂︵楯縫郡︶︑﹁前少領額田部臣押嶋之所p造也︒︹今

少領伊去美之従父兄也︒︺﹂︵大原郡︶のように︑風土記時代の人間

を基点に建立者名が記録されている︒それに対し︑神門郡では︑

﹁神門臣等之所p造也﹂︑﹁刑部臣等之所p造也﹂と記されるだけで ある︒  このように︑神門郡の人物説明の態度が他郡と異なるのは事実

である︒しかし︑郡総記で﹁伊加曽然之時﹂と紹介されるのと同

じ神門郡にあって︑⑥狭結駅条では﹁佐与布云人﹂と記され︑決

して断定的だとは言えない書き方をされているのは︑やはり見落

としてはならないだろう︒これは︑出雲国内の人物との差異化が

図られた結果によると思われる︒いわば︑佐与布なる人物と距離

がとられているのだ︒だからこそ︑⑤古志郷条の時代指標が﹁古

志国佐与布之時﹂と提示されることなどはありえなかったのだ︒ ﹁佐与布云人﹂の部分にも︑出雲と越とを厳然と区別する当風土

記の明確な意図が読み取れる︒

四 国引き神話︵意宇郡総記︶における出雲と越

  さて︑ここで検討を後回しにした意宇郡の検討に入りたい︒ま

ずは①意宇郡の総記にあたる郡名起源譚である︒長くなるが︑煩

を厭わず引用する︒

①所e以号w意宇q者︑国引坐八束水臣津野命︑詔︑﹁八雲立出雲 国者︑狭布之稚国在哉︒初国小所p作︒故︑将w作縫q﹂詔而︑

﹁栲衾志羅紀乃三埼矣︑国之余有耶見者︑国之余有﹂詔而︑

童女胸鉏所p取而︑大魚之支太衝別而︑波多䘫々支穂振別而︑

三身之綱打挂而︑霜黒葛闇々耶々尓︑河船之毛々曽々呂々尓︑

国々来々引来縫国者︑自w去豆乃折絶q而︑八穂尓支豆支乃御 埼︒以p此而︑堅立加志者︑石見国与w出雲国q之堺有︑名佐

比売山︑是也︒亦持引綱者︑薗之長浜︑是也︒亦︑﹁北門佐

伎之国矣︑国之余有耶見者︑国之余有﹂詔而︑童女胸鉏所p取

而︑大魚之支太衝別而︑波多䘫々支穂振別而︑三身之綱打挂

而︑霜黒葛闇々耶々尓︑河船之毛々曽々呂々尓︑国々来々引

来縫国者︑自w多久乃折絶q而︑狭田之国︑是也︒亦︑﹁北門

良波乃国矣︑国之余有耶見者︑国之余有﹂詔而︑童女胸鉏所

p取而︑大魚之支太衝別而︑波多䘫々支穂振別而︑三身之綱

打挂而︑霜黒葛闇々耶々尓︑河船之毛々曽々呂々尓︑国々来々

引来縫国者︑自w宇波折絶q而︑闇見国︑是也︒亦︑﹁高志之 都都乃三埼矣︑国之余有耶見者︑国之余有﹂詔而︑童女胸

(7)

鉏所p取而︑大魚之支太衝別而︑波多䘫々支穂振別而︑三身

之綱打挂而︑霜黒葛闇々耶々尓︑河船之毛々曽々呂々尓︑国々

来々引来縫国者︑三穂之埼︒持引綱夜見嶋︒固堅立加志者︑

有w伯耆国q火神岳︑是也︒﹁今者︑国者引訖﹂詔而︑意宇社尓︑

御杖衝立而︑﹁意恵﹂登詔︒故云w意宇z   いわゆる国引き神話である︒この話によれば︑国土が作られた

当初︑出雲国は小さかった︒そこで︑八束水臣津野命が外部から

土地を持ってきて︑新たに国土が西から東へと作られていった︒

これが現在の島根半島にあたる地である︒越は半島が形成されて

いく過程の最後の場面に出てくる︒これが当風土記における越に

ついての初めての言及箇所である︒

  越からの国引きにあたり︑八束水臣津野命は﹁国之余有耶見者︑

国之余有﹂と述べる︒この発話文を指し︑﹁あえて他を侵し奪う

などということなく︑彼の余れるをもって我の足らざるを補おう

とする古人の穏健な心情を窺うことができ﹂るという見方もある G

が︑どうだろうか︒八束水臣津野命の発言は︑一方的になされる

ものである︒他国に余剰地があるとみなし︑それを自国の一部に

する行為は︑極めて独善的で上から見下ろした物言いだと評する

余地も残されるのではないか︒

  もっとも︑この神のことばのみで白黒つけようとしては︑水掛

け論に陥る虞がある︒そこで越に関する他の箇所も参考にしなけ

ればならなくなるのだが︑④嶋根郡美保郷や⑤⑥神門郡の二例で

の越の位置付けを考慮に入れれば︑①も出雲の優位性を示す思想

が反映されたものと理解した方が自然だろう︒当風土記は︑越に 初めて触れる際に︑出雲中心主義とでも言える意識を表明していることになる︒  ところで︑国引き神話では同じ詞章が繰り返されている︒一般に︑同一構造をとる文の反復は口承文芸の特徴とされ︑国引き神話もこのような関心から言及される場合が多い H︒もちろん︑書承

前の段階でのこの神話の伝えられ方を探る遡及的な考察も行われ

て然るべきだろう︒ただし︑そのような視座とは別に︑これまで

論じた出雲中心主義とでも呼ぶべき観点からすると︑この神話の

構成にも従来とは異なる評価が下せるように思われる︒

  国引き神話では︑越ばかりでなく︑志羅紀・北門佐伎之国・北

門良波乃国の一部をも切り取ってきたと語られる︒つまり︑国引

きの詞章が都合四回繰り返されるわけである︒何れの場合も︑ま

ず八束水臣津野命が﹁○○矣︑国之余有耶見者︑国之余有﹂と発

言する︒そして︑同神が国引きをする度に︑志羅紀や越などの出

雲を取り巻く外部世界へと読み手の視野は一度大きく広げられる

ことになる︵傍線㋑︶︒次いで﹁童女胸鉏所p取而︑大魚之支太衝

別而︑波多䘫々支穂振別而︑三身之綱打挂而︑霜黒葛闇々耶々尓︑

河船之毛々曽々呂々尓︑国々来々引来縫国者⁝﹂と先方から割か

れた地が引かれてくる様を描写することで︑広げられた読み手の

視野が徐々に出雲へと絞り込まれていく︵傍線㋺︶

  こうした動的な描写により︑読者の意識は弥が上にも出雲へと

収斂される︒そして︑八束水臣津野命が﹁今者︑国者引訖﹂と宣

言し︑この神話が終結へと向かう︒繰り返される詞章には︑出雲

に求心力を働かせる絶妙な効果があると評価されよう︒国引き神

(8)

話が出雲一国を俯瞰する国造の視点でまとめ上げられているとい う指摘 Iも思い合わされる︒

五 意宇郡の越

  続いて︑意宇郡の②母理郷︑③拝志郷を見てみたい︒

②母理郷︒郡家東南卅九里一百九十歩︒所p造w天下q大神︑大 穴持命︑越八口平賜而︑還坐時︑来w坐長江山q而詔︑﹁我造 坐而命国者︑皇御孫命︑平世所p知依奉︒但︑八雲立出雲国者︑

我静坐国︑青垣山廻賜而︑玉珍置賜而守﹂詔︒故云w文理z︹神 亀三年︑改w字母理z︺

③拝志郷︒郡家正西廿一里二百一十歩︒所p造w天下q大神命︑ 将p平w越八口q為而幸時︑此処樹林茂盛︒尓時詔︑﹁吾御心之 波夜志﹂詔︒故云p林︒︹神亀三年︑改w字拝志z︺   両例ともに︑越は大穴持命による平定の対象と位置付けられて

いる︒これまで述べ来ったことからすれば︑もはや贅言は無用な

ようにも思われるが︑両条にもまた出雲を越の上位に置く確固た

る価値観が認められる︒

  ところで︑﹃出雲国風土記﹄の編纂にあたっては︑①国引き神

話や②母理郷条を含む巻頭部に詳細な注意が払われていることが

指摘されている︒しばらくこの点を考えてみたい︒

  ﹃出雲国風土記﹄は︑㋑全体の総記︑㋺意宇郡総記にあたる国

引き神話︵①︶︑㋩母理郷︵②︶の順に展開され︑これら巻頭部付

近で﹁八雲立出雲﹂なる言い回しが繰り返し用いられる︒この語

を伴う㋑から㋩の記事は︑何れも当国の説明的な役割を果たして いる︒神田典城は︑﹁八雲立出雲﹂の連続は意識的なものであり︑

これを共有する﹁冒頭部は︑三条をまとめて出雲の国が如何なる

国であるかを表す構成になっている﹂と述べる J︒   ㋑から㋩の三条を見てみると︑中央の神話には見られない要素

が含まれる︒㋑は八束水臣津野命による﹁八雲立出雲﹂の命名に

触れたものだが︑﹃日本書紀﹄﹃古事記﹄でのこの語の初出は︑ス

サノヲの歌の中である︒また︑㋺国引き神話も両書には記されて

いない K︒㋩母理郷でも︑出雲一国のみは大穴持命が鎮座する国だ

とされ︑天皇の支配も大穴持命の保証のもとにあるという筋書き

になっている L︒﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄では︑出雲という例外

が設けられることなく主権が皇祖神側へ移る︒しかもそれは皇祖

神側からの働きかけの結果である︒小論の本筋からはやや横道に

それる評言になるものの︑いわゆる﹁国譲り神話﹂なる術語は︑

﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄に用いるよりも︑大穴持命の持つ主権

が自主的に天皇側へと委譲されたかのように記される﹃出雲国風

土記﹄にこそふさわしかろう︒

  このように㋑から㋩の記事には︑中央の神話体系とのずれも認

められる︒それだけに︑そこには﹃出雲国風土記﹄編纂の最終責

任者たる国造出雲臣広嶋の思想が如実に現れていると判断され

る︒当風土記が中央の神話の存在を意識していることは次節で述

べるが︑それに対する異伝という形で自らの世界観を効果的に打

ち出すにあたり︑巻頭という場は極めて適切な所だろう︒冒頭部

での連続に意味を見出す神田の見解は首肯されるべきだ M︒   読者の目を引くべく︑巻首で三度まで﹁八雲立出雲﹂と強調し︑

(9)

集中して出雲国の説明を試みるという視点は︑小稿で扱ってきた

越に対しても応用できそうだ︒﹃出雲国風土記﹄で初めて越が言

及されるのは①国引き神話であり︑しかもそこでは彼の地が出雲

国のために割かれる地だと述べられる︒そして︑①に連続する②

母理郷条でも︑越が大穴持命の支配下に置かれる地として位置付

けられる︒さらに︑意宇郡全十一郷の内の十番目に記される郷で

あるものの︑③拝志郷条では大穴持命の心象が﹁吾御心之波夜志﹂

と語られており︑読み手は越の平定が予祝されるべきものだとい

う認識を植え付けられる︒つまり﹃出雲国風土記﹄は︑国引き神

話で確認された出雲・越両者の関係性を間髪入れずそのまま持ち

込み︑大穴持命の越平定へとなだれ込みながら語っていく形に

なっているのだ︒巻頭近くでたたみかけるようにして越への言及

を繰り返す当風土記の構成は︑出雲・越に対する認識の周知徹底

にあたり︑無視しえない働きをしている︒

六 ﹃出雲国風土記﹄の﹁天下﹂

  ところで︑②母理郷や③拝志郷は︑出雲と越との関係のみに止

まらない問題も抱えているように思われる︒何となれば︑両条が

ともに﹁天下﹂なる語と結び付いているからだ︒特に︑②は﹃出

雲国風土記﹄にあって︑大穴持命︑﹁天下﹂ともに初出例にあたる︒

また︑この記事には﹁我造坐而命国﹂ともある︒﹁命﹂の字義か

らして︑この国は大穴持命の影響下に置かれていると判断され

る︒このように︑大穴持命は﹁天下﹂を造っただけでなく︑統治

にもあたったとされている︒さらに︑この神は﹁天下﹂を巡行す る存在でもある︒

多祢郷︒属w郡家x所p造w天下q大神︑大穴持命与w䘫久奈比 古命a巡w行天下q時︑稲種墮w此処z故云p種︹神亀三年︑改w字多祢z︺︵飯石郡︶

  本来︑﹁天下﹂とは皇帝の統治する領域を指す語である︒日本

上代の﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄にあっても︑この語は天皇の支

配領域に関わる用い方をされており N︑天皇は都を中心地として地

方までを治めている︒そのような状況にもかかわらず︑出雲とい

う令制下の地方の一国の地誌にすぎない﹃出雲国風土記﹄では︑

出雲国造が奉祭する大穴持命に﹁天下﹂を冠している︒この﹁天

下﹂の用法の背後にはどのような認識があったのだろうか︒

  右の点に関しては︑﹃出雲国風土記﹄の編纂にあたり中央の神

話が意識されていたと考えるのが一般的だ︒神代紀第八段一書第

六には﹁國作大己貴命﹂とあり︑次いで﹁大己貴命︑與w少彦名命a勠p力一p心︑經w營天下q﹂と説明される︒また︑少彦名命が去っ た後の大己貴命は︑﹁其可e與p吾共理w天下q者︑蓋有之乎﹂とも

発言している︒ここでは︑大己貴命の作った﹁国﹂が﹁天下﹂と

されている︒さらに︑神代紀第九段のいわゆる国譲り神話では︑

大己貴命が葦原中国を代表する神として描かれている︒目を﹃古

事記﹄に転じれば︑﹁天下﹂の語こそ見えないものの︑大穴牟遅

神は﹁偉大な︑国土の主人 O﹂たる大国主神という名称で呼ばれ︑

高天原から派遣された建御雷神の発言の中には

︑﹁

︵大国主神

││稿者注︶之宇志波祁流葦原中國﹂ともある︒動詞﹁うしはく﹂

の意味は︑﹁わがものとして領有する︒支配する﹂ことである P︒

(10)

  このように中央の神話には︑大穴持命が国作りに関与し︑さら

に皇祖神に先立ち国土を実効支配していたという前史が記されて

いる︒そして︑大穴持命から皇祖神側へと主権が委譲された地こ

そが︑天皇の支配する﹁天下﹂と呼ばれる領域の基になるのだ︒

それ故に︑﹃出雲国風土記﹄にあっても︑大穴持命をして所p造w天下q大神と称するのが許されたのだろう︒研究史の中で指摘さ

れてきたように︑当風土記の﹁天下﹂は︑中央の神話の大穴持命

像を持ち込んだところで成り立っていると理解される Q︒神話の時

代︑大穴持命は﹁天下﹂に君臨していた││②母理郷条の﹁我造

坐而命国﹂という発言や︑③拝志郷条でこの神の行為が﹁幸﹂と

表現されているのも︑これと照応している︒

  もっとも︑如上の見解は︑﹃出雲国風土記﹄の大穴持命と﹁天下﹂

とが結び付けられる背景を指摘した︑いわば外部要因である︒こ

の外部要因と︑当風土記で﹁天下﹂なる語が有効に機能している

かどうかは︑無条件に等号で結ばれる性質の問題ではあるまい︒

従来の研究成果を認めつつ︑次の段階としては︑当風土記の神話

世界が﹁天下﹂をどのように描いているのかが問われて然るべき

だろう︒

七 出雲と越とによる﹁天下﹂観

  その際に想起されるのが︑越の存在である︒②母理郷︑③拝志

郷では︑平定という形で大穴持命が出雲から外部へと足を運ぶ︒

この点に︑﹁天下﹂が持つ空間的な広がりとの響き合いを読み解

くべきだろう R︒出雲のみでは︑﹁天下﹂の語が持つ重みとの間に 釣り合いがとれない︒﹃出雲国風土記﹄が越なる外部をとりこみ

つつ成り立つ世界を﹁天下﹂としている構図は︑容易に読み取る

ことができる︒

  ただし︑大穴持命が越へ赴くことは︑﹁天下﹂の範囲が出雲の

外まで広がっているという地理的空間の次元に止まるものではあ

るまい︒﹃出雲国風土記﹄は︑出雲・越の両者を観念的な上下関

係で描き切っていた︒この点に︑枢軸となる出雲とそれに従属し

奉仕する越という世界像を自ずと見出せるだろう︒当風土記は︑

出雲国内の地の説明にあたり越にまで触れ︑出雲と越との関係を

浮き彫りにすることで︑地理的空間のみならず︑政治的な意図を

伴った世界の広がりを演出する︒ここに︑出雲を畿内とし︑越と

いう地域を抱え従えているという︑神代における﹁天下﹂の概念

が成り立つことになる︒このような図式の明示により︑はじめて

﹁天下﹂の語の使用も当風土記の内部で生きてくる︒

  出雲を中核に据える︑越の存在を通した神代の﹁天下﹂の実態

の提示は︑﹃出雲国風土記﹄に特有なものである︒いわば︑当風土

記は独自の﹁天下﹂を創出していることになる︒ただし︑そのよ

うな出雲中心主義に則った﹁天下﹂観も︑出雲国造が何らの根拠

も伴わず一方的に案出したものなどではなかった︒前節で確認した

ように︑中央の神話体系では︑大穴持命が国土の経営に携わり︑

この神から皇祖神に譲渡された世界が天皇の統治する﹁天下﹂に

なっていくという歴史が描かれていた︒また︑﹃古事記﹄には︑大

穴牟遅命の亦名としての八千矛神の名の下に︑越の沼河比売と結

婚する話が記される︒八千矛神と大穴牟遅命は︑もともとは別神

(11)

だと考えるのが一般的だ︒そのため︑大穴持命の名で奴奈宜波比

売命との婚姻が語られる当風土記の④嶋根郡美保郷条は︑八千矛

神と大穴牟遅命とが結び付けられる中央の神話体系の存在を前提

にしなければ成り立たない可能性が指摘されている S

︒さ

ら に

︑ ﹃古

事記﹄の沼河比売との婚姻物語では︑八千矛神の赴く先が﹁登 〃 冨 〃斯 志能 迩﹂と歌われ︑そこは﹁夜 麻久 尓﹂の域外にあ

る辺境の地と評されている︒このような認識に︑当風土記で越が

下位に置かれることが認められる下地をみてとることもできるだ

ろう︒  以上のように︑﹃出雲国風土記﹄の編者である国造出雲臣広嶋

は︑中央の神話に目配りをしつつ越という外部世界をからめとる

ことで︑出雲を中軸とする世界像を提示したのである︒出雲の優

越性を強調することは︑出雲国造自身の一頭地を抜いた立場の主

張にも通じるものである︒小稿の肝になる事柄だけに︑このよう

な見取図に即して︑今一度当風土記の越に関する①から⑥の記事

を振り返っていきたい︒

  まず︑①国引き神話により︑出雲の特別性が従属する越の存在

とともに記され︑両者の位置付けが明示される︒次いで︑②意宇

郡母理郷条︑③同郡拝志郷条により︑﹁平﹂という形で出雲と越

との関係を再度確認する︒①から③を通し︑出雲を絶対視する神

代における﹁天下﹂の様が強烈に打ち出される︒

  ④から⑥は︑この世界観を具体化したものである︒﹃日本書紀﹄

や﹃古事記﹄には天皇と地方の有力者の女性とが結ばれる話が散

見されるが︑先述の通り中央の神話を意識して作り出されたと思 しき④からは︑支配者・被支配者間の婚姻譚との対応関係も想起される︒あるいは︑王者と地方女性との関係といえば︑采女の存在も思い合わされよう︒﹁後宮職員令﹂には次のようにある︒

凡諸氏

︒ 々別貢 p女︒皆限w年卅年以下十三以上

z雖p非w氏 名z欲w自進仕q者聴︒其貢w采女q者︒郡少領以上姉妹及女︒

形容端正者︒皆申w中務省q奏聞 T︒   奴奈宜波比売命に関連し︑﹃和名抄﹄の越後国頸城郡沼川郷︑

﹃延喜式﹄巻十神名下の越後国頸城郡奴奈川神社が引き合いに出

されるのは広く知られている︒大穴持命と奴奈宜波比売命との婚

姻には︑天皇と采女との関係に準じた意識も働いていたと理解で

きるように思われる︒

  そして︑⑤神門郡古志郷条︑⑥同郡狭結駅条により︑出雲に対

する越の奉仕が語られる︒もっとも︑厳密に言えば⑤⑥は古志人

の行為である︒人の時代であれば︑既に大穴持命の国譲りが実施

された後で︑﹁天下﹂の中心は出雲ではないはずだ︒ただし︑⑤

には﹁伊弉弥命之時﹂とある︒第三節で触れた通り︑伊弉弥命が

いかなる存在なのかには疑問が残るものの︑﹁命﹂とある以上︑

神なのであろう︒この記事では︑神と人とが共時的に存在してい

ることになる︒当該条を解釈する上では︑人の活動を記す際に︑

あえて神を時代指標として持ち出すことこそが求められたと考え

られまいか︒神の時代とあることで︑神話時代における出雲を要

とする思想の表出も許容されるということである︒

(12)

おわりに   以上︑﹃出雲国風土記﹄が出雲と越との差異化を図っているの

を確認してきた︒この差異化があからさまなまでの出雲の優位性

を示しているのは明らかだろう︒さらに小稿では︑当風土記の﹁天

下﹂という概念が︑中央の神話世界を背景にすることで支えられ

ている点││それは︑中央の神話の巧みな享受だと言える││も

確認した︒これらをふまえて発展させたところに︑出雲が越を従

えるという︑当風土記に特有な神代の﹁天下﹂の姿が浮かび上

がってくる︒当風土記の編者である出雲臣広嶋は︑このように出

雲世界の特別性を主張し︑そこに拠って立つ自らの立場の強化・

確認に努めたのだ︒

  なお︑小稿の論旨からすると︑①国引き神話において志羅紀が

出雲のために割かれる地とされている点も︑当風土記の示す﹁天

下﹂観の考察に一役買うと思われる︒新羅は中央政府にとって蕃

国と位置付けられる国である︒ただし︑この点はなお丁寧に論じ

ていく必要があろう︒出雲と越との関係に絞り込んできた小稿の

性格もあり︑新羅の問題は指摘のみにとどめ︑後日の課題にした

い︒︵1︶ ﹃続日本紀﹄の引用は︑青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮続日本紀︵新日本古典文学大系︶﹄一︵岩波書店︑一九八九年三月︶に拠る︒

︵2︶ 松前健﹁二つの出雲神話﹂︵﹃出雲神話﹄講談社︑一九七六年七月︶ 水野祐﹁﹃出雲国風土記﹄の神話の概要﹂︵﹃出雲國風土記論攷﹄東京白川書院︑一九八三年九月︶など︒

︵3︶ 拙稿﹁﹃出雲国風土記﹄の想定読者│﹁所謂﹂という表現形式から││﹂︵﹃日本上代の神話伝承﹄新典社︑二〇一〇年一〇月︶拙稿﹁﹃出雲国風土記﹄楯縫郡冒頭の意味││出雲国造の意図したもの││﹂︵﹃国語と国文学﹄八八│三︑ぎょうせい︑二〇一一年三月︶︵4︶ ﹃出雲国風土記﹄には︑阿遅枳高日子命と天御梶日女命の間に産まれる多伎都比古命の例︵楯縫郡神奈備山︶のように︑両親の名が明らかにされる例もある︒また︑系譜記事的な形をとらずに親子関係が明らかにされる例も︑親枳佐加比売命│子佐太大神︵嶋根郡

加賀神埼︶︑親義祢命│子宇能治比古命︵大原郡海潮郷︶のように︑複数存在する︒ただし︑本節で言及する系譜的記事の形で親子関係が示されるわけではないので︑本文中で掲げる例示から除外した︒︵5︶ 岡田精司﹁国生み神話について﹂︵﹃古代王権の祭祀と神話﹄塙書房︑一九七〇年四月︶︵6︶ 松本直樹﹃出雲国風土記注釈﹄︵新典社︑二〇〇七年一一月︶︵7︶ ﹃出雲風土記抄﹄については︑拙稿﹁日御碕本﹃出雲国風土記﹄の訓読が作った風土記本文﹂︵﹃早稲田大学日本古典籍研究所年報﹄

七︑早稲田大学プロジェクト研究所日本古典籍研究所︑二〇一四年三月︶︑拙稿﹁日御碕本﹃出雲国風土記﹄から﹃出雲風土記抄﹄へ││捨仮名の本文化に見る写本系統の再検討││﹂︵﹃上代文学﹄一一二︑上代文学会︑二〇一四年四月︶参照︒︵8︶ 加藤義成﹃修訂出雲国風土記参究︵改定四版︶﹄︵今井書店︑一九九二年一二月︶︑植垣節也編﹃風土記︵新編日本古典文学全集︶﹄︵小学館︑一九九七年一〇月︒﹃出雲国風土記﹄の担当は植垣︶などただし︑新編全集の本文は︑﹁意支都久辰為命子︑奴奈宜波比売命﹂となっている︒

︵9︶ 家永三郎﹁史料價値﹂︵﹃上宮聖徳法王帝説の研究増訂版﹄三省

(13)

堂︑一九七〇年一二月︶は︑妻の名の明記が︑後世に比して妻の立場の相対的な高さを示しているという︒しかし︑﹁娶﹂の字義や

男性が主語となっている文の構造からして︑父系論理の主張を見出すべきであろう︒なお︑稿者がここで述べたことは︑婚姻をめぐる歴史的実態とは別次元のものである︒

10︶ 加藤義成前掲書注︶・植垣節也編前掲書注︶など︒

11︶ 荻原千鶴﹃出雲国風土記全訳注﹄︵講談社︑一九九九年六月︶ 当は橋本雅之︶ KADOKAWA土記﹄上︵︑二〇一五年六月︑﹃出雲国風土記﹄の担 〇〇五年四月︶︑松本直樹前掲書注︶︑中村啓信監修・訳注﹃風 12︶ 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編﹃出雲国風土記﹄︵山川出版社︑二

六年九月︶ 13︶ 門脇禎二﹁七尾﹂︵﹃日本海域の古代史﹄東京大学出版会︑一九八

とその神系の神話﹂︵前掲書注︶︶など︒ ︵﹃出雲神話の原像﹄三省堂︑一九七二年四月︶︑水野祐﹁大穴持命 14︶ 井上実﹁斐伊川の濁流││国引き神話をはぐくんだもの││﹂

弥命﹂とし︑この神が﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄のイザナミにあた る︒小稿が拠る学術文庫をはじめ︑近年の諸注釈書は本文を﹁伊弉 記抄﹄のもので︑細川家本﹃出雲国風土記﹄には﹁伊幣弥命﹂とあ 15︶ ﹁伊弉弥命﹂の表記は︑日御碕本﹃出雲国風土記﹄や﹃出雲風土

ると説明する場合が多い︵沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編前掲書注

12︶は﹁伊﹂とする︶ みのみこと

   第一節にも引用したように︑当風土記には﹁伊弉奈枳乃麻奈子坐﹂︵意宇郡出雲神戸︶︑﹁伊佐奈枳命御子﹂︵嶋根郡千酌駅︶の例があり︑イザナキの名が二度にわたり出てくる︒イザナキに権威を認める態度をとる当風土記が︑時代を標示する際に︑イザナキ︑あるいはイザナキ・イザナミ両神併記の形にせず︑イザナミ単独としなければならない必然性はあるだろうか︒また︑当風土記のイザナキは︑右の両例とも四文字表記となっている︒当該条のみ﹁伊弉弥﹂の三文

字でイザナミとするのにも︑イザナキとの違いが生じてしまう︒こ の神をイザナミとする加藤義成前掲書注︑﹁伊弉那弥命﹂と﹁那﹂を補うが︑諸写本には﹁那﹂に相当する字がなく︑補入する

のも躊躇われる︒

   本文中で述べるように︑神門郡総記には﹁神門臣伊加曽然之時﹂とあり︑上代文献中の孤例となる伊加曽然であっても時代標示として用いている︒その限りでは︑神統譜不明であっても﹁伊弉弥命﹂とあること自体はおかしな話でない︒逆に︑これをイザナミだとすると︑かえって不自然さが際立つ結果にもなる︒

    小稿では︑右のような問題点のみを指摘し︑この神については細川家本の﹁伊幣弥命﹂が正しい形である可能性をも排除せずに今後の課題としたい︒

られる︒ 神々﹂︵﹃古代出雲の深層と時空﹄同成社︑二〇一四年八月︶にも見 16︶ 加藤義成前掲書注︶︒同趣旨の評は︑関和彦﹁神話の舞台と 口承性の指摘に止まらず︑国引き神話が身ぶりを伴って語られてい 国引き考﹂︵﹃西郷信綱著作集﹄六︑平凡社︑二〇一一年一〇月︶は︑ 研究会︑一九八九年三月︶など︒なお︑西郷信綱﹁出雲国風土記 意味するもの││﹂︵﹃文芸研究﹄六一︑明治大学文学部研究所文芸 三年五月︶︑永藤靖﹁﹃出雲国風土記﹄と空間意識││国引き神話の 17︶ 武田祐吉﹁國引の詞の考﹂︵﹃武田祐吉著作集﹄角川書店︑一九七

たという考えの根拠として詞章の繰り返しを挙げている︒

月︶ 引き﹂の詞章の分析││﹂︵﹃神話と文学﹄岩波書店︑二〇〇〇年一 18︶ 石母田正﹁古代文学成立の一過程││﹃出雲国風土記﹄所収﹁国

話論考出雲神話篇﹄笠間書院︑一九九二年八月︶ 19︶ 神田典城﹁オホナムチの神話││正の要素と負の要素﹂︵﹃日本神 き神話のような背景があったと指摘されることはある︒ の表記で︑﹃古事記﹄は大倭根子日子國玖琉命︶なる名称に︑国引 20︶ ただし︑大日本根子彦國牽天皇︵孝元天皇︒これは﹃日本書紀﹄

21pwq︶ 小村宏史﹁﹃出雲国風土記﹄の世界││﹁所天下大神﹂と中

(14)

央神話││﹂︵﹃古代神話の研究﹄新典社︑二〇一一年九月︶

22︶ 稿者は︑﹃出雲国風土記﹄は上下二巻の体裁で成立し︑下巻は楯

縫郡から始まっていたと考えている︒この楯縫郡冒頭も︑中央の神話の異伝という方法をとりながら独自の主張を試み︑大穴持命を中心とする出雲国の説明に気が配られた構成になっている︒拙稿前掲注︵︶﹁﹃出雲国風土記﹄楯縫郡冒頭の意味﹂参照︒

と表現││﹄新典社︑一九八九年四月︶ 23︶ 戸谷高明﹁﹁天の下﹂の意味﹂︵﹃古代文学の天と日││その思想

24︶ 西宮一民﹃古事記﹄︵新潮社︑一九七九年六月︶ 一九六七年一二月︶ 25︶ 上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語大辞典﹄上代編︵三省堂︑

村宏史前掲論文注 から││﹂︵﹃古事記の世界観﹄吉川弘文館︑一九八六年六月︶︑小 26︶ 文学的関心からは︑神野志隆光﹁﹁天下﹂││世界観という視点

問わず多くの指摘がある︒ 持命﹂︵﹃古代出雲﹄吉川弘文館︑二〇〇六年一一月︶など︑立場を 権と交流七︶﹄名著出版︑一九九五年二月︶︑前田晴人﹁出雲の大穴 国造の成立と展開﹂︵瀧音能之編﹃出雲世界と古代の山陰︵古代王 21︶など︑歴史学的関心からは︑高嶋弘志﹁出雲     なお︑門脇禎二﹁出雲の神話﹂︵﹃出雲の古代史﹄日本放送出版協会︑一九七六年一二月︶は︑﹁﹁天の下造らしし大神﹂という際の﹁天

下﹂は︑出雲人にとっては︑もともと出雲を中心として日本海=北 つ海に大きく拡がっていた世界であった﹂と述べる︒また︑遠山一﹁﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄﹃風土記﹄における世界区分﹂︵﹃天皇神

話の形成と万葉集﹄塙書房︑一九九八年一月︶も︑当風土記の﹁天下﹂は出雲に固有の概念であったと説く︒しかし︑本文中に述べたように︑当風土記の﹁天下﹂観を出雲で自然発生したものとみるわけにはいかない︒

一〇月︶ 27︶ 肥後和男﹁出雲國風土記﹂︵﹃風土記抄﹄弘文堂書房︑一九四二年

〇三年一〇月︶ 28︶ 松本直樹﹁﹁神話﹂作りの手法﹂︵﹃古事記神話論﹄新典社︑二〇 29︶ ﹁後宮職員令﹂の引用は︑井上光貞土田直鎮青木和夫﹃律

令︵日本思想大系︶﹄︵岩波書店︑一九七六年一二月︶に拠る︒

※ 小稿の引用は次に拠った︒ただし︑会話文を﹁﹂で示し︑分注は︹ ︺内に入れた︒また︑傍線は何れも稿者が付した︒・﹃出雲国風土記﹄││荻原千鶴﹃出雲国風土記全訳注﹄︵講談社︑一九九九年六月︶・﹃日本書紀﹄││井上光貞監訳﹃日本書紀﹄上︵中央公論社︑一九八七年三月︒原文校訂は林勉︶・﹃古事記﹄││小野田光雄校注﹃古事記﹄︵神道大系編纂会︑一九七

七年一二月︶

参照

関連したドキュメント

75 構 成 『新編相模国風土記稿』第6巻としているが、これは出版上の便宜にすぎ ず、本来の風土記稿とは別の史料である。

の西側に位置し、北部は『出雲国風土記』の国引き神

文︼と同じ﹃常陸国風土記﹄行方郡の記事には︑倭武天皇が四方を 騁望し︑ ﹁山阿 ・ 海曲︑ 参差委蛇︒ 峯頭浮 p 雲︑ 谿腹擁 p

品作 記事古 紀書本日 記土風陸常 記土風雲出 記土風磨播 記土風前肥

              (撮影 :

 木簡は︑宮期一期の井戸SE九一四九から削屑三点︑一∵三

深さ○エ︵mの素掘の東西溝

この考察から、各時代の文化的背景も見えてきました。すな