はじめに
清沢満之の没後、全国各地の門弟たちの間で「臘 ろう扇 せん忌」と呼ばれる回忌法要が勤められるようになった。その伝統は、開催地の数を減らしつつも現代に至るまで連綿と続いている。法要名に冠せられた「臘扇」とは、清沢が生涯に名のった諸号(建峯、骸骨、石水、臘扇、浜風)の一つである。門弟たちが師の遺徳を偲 しのぶにあたり、特にこの号が選ばれたのである。それゆえ、清沢の人格と教訓は「臘扇」という名のもとに現代にまで伝えられたと言っても過言で はない。本稿で読解を試みるのは、この名のりに込められた実存的課題が投影された書――『臘扇記』である。 あらかじめ主題の設けられている論文とは異なり、日誌や散文、あるいは英文の書き抜き等から成り立つ本書を読み解くのは決して容易ではない。しかし、二〇〇八年には清沢満之記念館(西方寺)より肉筆を写した『影印本 臘扇記』(方丈堂、以下『影印本』)が公刊されるとともに、初めての詳しい注釈書である『臘扇記 注釈』(法藏館、以下
『注釈』)が出版された。それによって一人一人の読者のところで、従来の研究では必ずしも十分には掘り起こされてこなかった「リアル」な求道の軌跡に迫ることが可能とな ()1
《第一部》清沢満之研究会の軌跡③
『臘扇記』を読む ──清沢満之における転換期──
名 和 達 宣
った。今後、『臘扇記』を研究するにあたっては、すべからく参照すべき必読書であると考える。本稿もこれらのテキストに照らしながら考察を進めていきたい。
一、『臘扇記』とはいかなる書物か
(
1)構成と記述内容
『臘
扇記』は、第一号と第二号とから成る。第一号は、一八九八(明治三一)年八月十五日から十一月十八日までの記録である。一方の第二号は、翌日の十一月十九日から一八九九年一月二十五日までの記録と、その後に続けて「偶坐案定」(一八九九年二月二十五日付)・「四月五日記」と題した二つの断想群が収められている。
一般には「日記」として分類される書物であり、新版の『清沢満之全集』(大谷大学編、岩波書店、二〇〇二~二〇〇
三年)においても、第八巻「信念の歩み――日記」に収録されている。ところが、その記述内容に目を向けてみると、この書が決して単なる「日常の記録」にはとどまらないことがわかる。執筆された当時、清沢は教団革新運動に挫折 し、結核の身を抱えて自坊の大浜西方寺(愛知県)へ帰っていた。『臘扇記』は、その療養生活のなかで内観省察された「自己」のすがたが刻み込まれた手記でもある。それゆえ、まずもってこの書が「死」の現実と向き合うなかで著されたものであることに留意しなければならない。そして各頁には、日々の出来事を記録した日誌だけではなく、思想の萌芽とでも言うべき断想が、他の書物からの書き抜きとあわせて随所に書きとめられている。
(
2)転換の時機
晩年、清沢は『臘扇記』を著した時期を含む後半生について、次のように回想している。
回想す。明治廿七八年の養痾 88に、人生に関する思想を一変し、略ぼ自力の迷情を翻転し得たりと雖ども、人事の興廃は、尚お心頭を動かして止まず。乃ち廿八九年に於ける我が宗門時事は、終に廿九卅年に及べる教界運動を惹起せしめたり。 ()2
而して卅年末より、卅一年始に亘りて、四阿含 888等を読誦し、卅一年四月、教界時言の廃刊と共に此の運動を一結し、自坊に投じて休養の機会を得るに至りては、大に反観自省の幸を得たりと雖ども、修養の不足は尚お人情の煩累に対して平然たる能わざるものあり。
卅一年秋冬の交、エピクテタス氏教訓書 8888888888を披展するに及びて、頗る得る所あるを覚え、卅二年、東上の勧誘に応じて已来は、更に断えざる機会に接して、修養の道途に進就するを得たるを感ず。
而して今や仏陀は、更に大なる難事を示して、益々佳境に進入せしめたまうが如し。豈に感謝せざるを得んや。
明治卅五年五月末日(『岩波』八 四四一―四四二頁)
ここで清沢は往時を回想するにあたり、一八九四年から翌年にかけて(明治廿七八年)の垂水での養 よう痾 あにまで遡 さかのぼ
る。そして、そこを起点に教団革新運動の惹 じゃっ起 き(一八九六
年十月)、四阿含の読誦(一八九七年末~一八九八年始)、『教界時言』の廃刊とそれに伴う運動の終結(一八九八年四月)、 自坊での反観自省(一八九八年五月~)、『エピクテタス語録』の披展(一八九八年秋冬)、東上の勧誘への応諾(一八
九九年六月)と、一九〇二年(明治卅五年)五月末日の「今」に至るまで、一歩一歩踏みしめるかのように辿っていく。この一文が、東京に身を置く「今」からの回想であることに鑑みれば、東上の契機が訪れ、その決断を下すに至る思索が展開された『臘扇記』の時期は、全体の転回軸と言っても過言ではないだろう。そして清沢は、まさに本書を執筆していた「卅一年秋冬」に起こった出来事を、エピクテタスとの邂 かい逅 こうという一事に収 しゅう斂 れんさせるのである。
また、「養痾」「四阿含」「エピクテタス氏教訓書」に付された強調点(○印)に目が引かれるが、それとともに自らの求道の歴程を「修養の道途」と呼称している点には注意が必要であろう。「修養」とは晩年の「精神主義」時代に多用される言葉であるが、後ほど確認するように、清沢が「修養」という語を自覚的に用い出すのは、『臘扇記』の期間中にエピクテタスと出会って以降である。そして同書では、しばしば養痾時代の思索が想起され、あるいは四阿含読誦の際に課題となっていた「生死巌頭ノ観ニ住スル
コト」が追求されている点にも注目すべきであろう。
(
3)「黙忍堂臘扇」の名のり
清沢は『臘扇記』の起筆に際し、自らの号を「臘扇」と改めた。この号は、翌年に東上した後の「精神主義」時代まで一貫して用いられている。そもそも「臘扇」とは「十二月の扇」という意味で、つまるところ「無用者・役立たず」を表す。大浜に帰ってからの清沢は、まさにそのように形容すべき有り様だったようで、のちに自ら当時を振り返り、「どの方面から眺めても、私が居らねばならぬという必要は此の寺に於いて毛頭無いのだから、真実の厄介者である」と述懐している。具体的な逸話としては、婿養子の立場で実父(永則)を迎え入れたことで肩身が狭くなったことや、結核が原因で門徒たちに嫌われていたことなどが伝えられる。そのことが、先の回想文では「人情の煩累」と言い表され、なおかつその原因が周囲ではなく、自らの「修養の不足」にあると内省されていたのである。
さて、第一号の表紙に目を向けてみると、題号の右上に 「黙忍堂」という語が添えられていることに気づかされる(【図
考えられる(【図 文「百戦百勝不如一忍、万言万当不如一黙」にもとづくと 00 江戸期の儒学者・貝原益軒の『続和漢名数大全』からの引
1
】参照)。「黙忍」とは、第一号の裏表紙に記された、いて「黙忍」をわが住処にするという、静かなる意志(あ ひいては住処を意味する。居場所のない不自由な生活にお すみか
2
】参照)。また「堂」とは建物のことで、るいは気概)が表明されていると読み取れよう。それゆえ『臘扇記』とは、自身が「真実の厄介者」であると自覚した清沢が、「修養の不足」を内省しつつ、自らの生きる場所を追求した実験の記録にほかならない。換言すれば、「黙忍堂臘扇」という名のりのもと、その自覚内容が「記」された全身全霊の書であり、西田幾多郎の謂いを借 ()3()4
()
5
【図
1
】表紙【図
2
】裏表紙りれば、まさに「悪戦苦闘のドキュメント」であった。
(
4)連続する三つの日記
『臘
扇記』第一号の表紙のなかで、もう一点見過ごしてはならないのは、題号の左下に付記された「徒然雑誌続 0」という語である。自坊の西方寺へ身を投じた一八九八年、清沢は『臘扇記』に先立ち二つの日記――『病床雑誌』
(一月一日~三月十五日、全三号)・『徒然雑誌』(三月十六日
~八月十四日、全一号)――を著している。「病床」「徒然」「臘扇」という題号は、それぞれ起筆された当時の境遇や心境と深く関わっていると考えられるが、それにも増して重要なのは、三つの日記が「続」という字をもって連続している点である(『徒然雑誌』の表紙にも「病床雑誌第三号
続 ﹅」という語が添えられている)。
自坊へ身を投じる直前、京都に滞在していた清沢は、訪ねてきた知人(河野法雲)に対し、「それでこれからは一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しようと思う」と自らの心境を語ったと伝えられる。つまり清沢は、「信 念の確立」を当面の課題として大浜へ帰郷していたというのであるが、かと言って、すぐさま『臘扇記』が書き始められたわけではない(当時手がけられていた日記の名は『徒然
雑誌』であった)。ところが、それから約三ヵ月の期間を経て、突然『徒然雑誌 第一号 000』を終了させ、新たな名のもとに「続」篇の日記を書き始める。それが『臘扇記 第一号』である。
清沢が「第一号」と題して書き始めた日記を一冊のみで終えるのは他に例を見ない。また、日記にかぎらず「他力門哲学骸骨試稿」や『有限無限録』など、書物の題名には執筆時の実存的な課題が多分に投影されているように見受けられる。したがって、「徒然〔手持ち無沙汰、退屈の意〕」ではなく、「臘扇」と名づけなければならないような逼 ひっ迫 ぱく
した問題があったということであろう。
なお、『徒然雑誌』の最後を締めたのは、「如来トハ何物何在ナルヤ」という問いであった。『臘扇記』では、その問いを引き継ぎ思索が展開されていくが、その深まりとともに、自己自身の立場にも大きな転回が訪れるのである。 ()6
()
7
()
8
二、『臘扇記』読解のための指標 (
1)「自己トハ何ゾヤ」という問い
『臘
扇記』のなかには、清沢の思想を象徴する断想が数多くみられる。そのなかでも最も人口に膾 かい炙 しゃしてきたのは、一八九八年十月二十四日に記された次の言葉であろう。
自己トハ何ゾヤ、是レ人世ノ根本的問題ナリ。
自己トハ他ナシ、絶対無限ノ妙用ニ乗托シテ、任運ニ
法爾ニ、此境遇ニ落在セルモノ、即チ是ナリ。
(『岩波』八 三六三頁)
「自
己トハ何ゾヤ」という問いは、あたかも清沢という一個人を突き破って惹起したかのような響きをもつ。そして、すぐさま「絶対無限ノ妙用ニ乗托シテ、任運ニ法爾ニ、此境遇ニ落在セルモノ」として見いだされた自己の表白が続く。この応答部分は、最も著名な清沢語録である「絶対他力の大道」(『精神界』一九〇二年六月)の第一節に抄出さ れたこともあって、世に広く伝播するとともに、先行研究の間でも清沢における「信念の確立」を表す指標として注目されてきた。 しかし、先にも確かめたように、この問いは唐突に起こったわけではない。そもそも「信念の確立」という課題を抱きながら自坊へ身を投じたと伝えられる清沢であるが、『臘扇記』を起筆するのは帰郷してから三ヶ月以上も後であり、さらにそこからこの問いが発起するまでに二ヶ月余りを要している。加えてこの問答は、決して単独で存在するのではなく、一連の思索の流れのなかに位置する断片である。それゆえ清沢の実存的課題を精確に捉えるためには、この問いや応答部分だけを切り取るのではなく、そこに至るまでの軌跡を追っていかなければならないであろう。
(
2)四つの分岐点
『臘
扇記』の序盤は、一見、単調な日々の記録に終始しているようにも映る。しかし、清沢と歩調を合わせながら読み進めていくと、時として記述の内容に転調の生じる分 ()9
岐点とぶつかる。それはおおよそ以下の四点につづまる。
Ⅰ
「新法主及三連枝一条」及び新法主との面会
Ⅱ
『エピクテタス語録』の英文書写
(第一期)
Ⅲ
『エピクテタス語録』の英文書写
(第二期)
Ⅳ 断想群「偶坐案定」「四月五日記」の執筆
このうち、Ⅰの「新法主及三連枝一条」と呼ばれる事件は、それ以降の展開の根本的な要因と言うべき重要な分岐点である。これは、法主(現在で言う門首)の子息である新法主・大谷光演(一八七五~一九四三)および三人の連 れん枝 し
(法主家系の子息)たちが、一八九八年八月下旬に突然、寺務所や法主の認可を待たずに京都の東本願寺を脱出したという事件であり、新法主と他一名の連枝は東京、残りの二名は海外(中国・台湾)での開教を表明したという。この一件は、ただちに全国へ通達が出され、当時の大谷派機関誌『常葉』の号外(八月三十日発行)では、「新門跡の英断」と称して華々しく報道された。清沢はこの一件を知るやいなや、月見覚了(一八六四~一九二三)・清川円誠(一八 六三~一九四七)など、かつての教団革新運動同志との往復書簡を重ねていく。文面には新法主の決断に対する称賛の言葉(「感服」「感心」「感激」)が並び、なおかつその想いを本人に伝えようと努めていた様子がうかがえる。その背景には、革新運動時に抱いていた、東京の地での青年教育という志願の再燃があったのではないかと考えられる。また、自坊の西方寺では、門徒や地域の僧侶、あるいは名士たちを集め、「大谷派一大事報告演説」と呼ばれる集会を開催したことが、『臘扇記』の日誌(九月五日付)に記録されている。 そのような一連の行動の結果であろうか、やがて新法主の側近・葦原林元から「スグノボレ」という電報が届き
(九月十六日)、その二日後の日誌には「東上ノ途ニ就ク」と記されている。わずか十日間の滞在であったが、この時の東上が、やがて清沢の身に大きな転回をもたらすことになる。すなわち、その期間中に実現した新法主との面会が機縁となって、翌年六月からの東京生活が導かれ、二年後
(一九〇一年)には京都から東京巣鴨に移転された真宗大学の初代学監に着任する。さらには時を同じくして、本郷 ()10
森川町に私塾・浩々洞が結ばれ、多くの煩悶青年が集った。
そして見落としてはならないのは、清沢がエピクテタスとの邂逅を果たしたのも、一八九八年秋の東上を契機とするという事実である。すなわち、東上期間中(九月十九~
二十八日)に身を寄せていた、親友・沢柳政太郎の自宅の本棚で、その歴史的邂逅と呼ぶべき事態は起こった。
三、エピクテタスから得たもの
先述のとおり、清沢は『臘扇記』の期間中に起こった出来事を「エピクテタス氏教訓書を披展するに及びて、頗る得る所あるを覚え」という一事に集約して回想している。それゆえ、この期間中に展開された思索を追跡するには、第一に清沢が『エピクテタス語録』から何を読み取ったのかを確かめる必要があるだろう。
清沢がエピクテタスから得たものをめぐっては、先学の間では伝統的に「分限の自覚」という一語をもって押さえられてきた。そして多くの場合、その境涯は、先ほどの「自己トハ何ゾヤ」から始まる断想に帰着するかたちで確 かめられている。しかし留意しなければならないのは、『臘扇記』において『語録』の書写が集中的に見られる時期は大きく分けて二つあり、決して「分限の自覚」という一語のみでは捉えきれないということである。 その第一期は、読書を始めてから「自己トハ何ゾヤ」という問いが「人世ノ根本的問題」として発起するまでのおよそ一ヶ月間(一八九八年九月二十七日~十月二十三日)、一方の第二期は、『臘扇記』の起稿以来、初めて喀 かっ血 けつした日からの八日間(一八九八年十一月十日~十七日)である。書写された英文は、すべて清沢の実存的課題に即したものと考えられるが、この二つの時期に獲得された知見について、『注釈』の解説(加来雄之「臘扇記といういとなみ」)では、第一期は「自由意志」とその意志による「分限の自覚」、第二期は「エピクテタスによる死の受け止め方」あるいは「死に代表される不如意なることがらへの態度」と端的に押さえられている。以下、この視点を手引きとしつつ、それぞれの時期に清沢が『語録』から何を読み取り、いかなる思索を展開したかについて掘り起こしていきたい。 ()11
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(
1)第一期の思索
①自由の場所――意志
清沢が沢柳宅で出会ったジョージ・ロング訳の『エピクテタス語録』(英題“
Discourses of Epictetus
” 以下『語録』)には、エピクテタスの弟子・アリアノスの聞き書きである「語録(デアトリバイ)」と、そこから抜粋して手短にまとめた「要録(エンケイリディオン)」とが収められている。『臘
扇記』中に初めてその英文が書写されたのは、東上期間中の一八九八年九月二十七日であり、そこで書き写されたのは「語録」序盤の二文であった。その一文目は以下のとおりである。(英文・単語に付す和訳は、岩波文庫『人生
談義〔上・下、鹿野治助〕』を参照して筆者が作成した試訳)
Man,hesays,youhaveafreewillbynaturefromhindranceandcompulsion.But,youobject,"Ifyouplacebeforemethefearofdeath,youdocompelme."No,itisnotwhatisplacedbeforeyouthatcompels, butyouropinionthatitisbettertodoso-and-sothantodie.Inthismatter,then,itisyouropinionthatcompelledyou:thatis,willcompelledwill.(『岩波』八 三五〇―三五一頁)
清沢は、英文を書写する際、特に着目した単語に下線を引いている。最初に写された文のなかで下線が見られるのは、“freewill”“fearofdeath”“opinion”“willcompelledwill”の四ヶ所である。このなかの“freewill”というのは、かねてより清沢がエピクテタスの思想において重要視していた「意志」である。ここではそれに加え、対照的(不自
由)なものとして“opinion”にも目が向けられている。ある事実に対する意見(
opinion
)こそが、自身を強制し(
compel
)、不自由にするということであろう。この文に関連して、約一週間後の十月三日には“ouropinionssqueezeusandputusinstraits〔われわれの意見
が自らを押し潰し、窮地に追いやっている〕”という一文が書写される。当時、清沢の身には「死の恐怖(
fear of death
)」が迫っていた。その恐怖とは、死という逃れられない一つ ()16()
17
の事実に対する個人的な意見(
opinion
)に過ぎない。しかし、そのような意見こそが自身を押し潰し(squeeze
)、窮地に追いやる(put us in straits
)というのである。それゆえ、自由の場所を「意志」に見いだしたエピクテタスの言葉が、その身に響いてきたのであろう。また、同じ日に書写されたもう一つの英文では“Knowthyself〔汝自身を知れ〕”という語に下線が引かれている。これは、デルフォイの神殿に刻まれていたと伝わる一般的 000
に有名な格言(
the maxim
)であるが、ここから約一ヶ月の思索を経て、清沢自身の内奥より「自己トハ何ゾヤ」という実存的 000な問いとして発起することとなる。②絶対無限(他力)の妙用
それでは、いかにして自由(
free
)なる意志(will
)を獲得することができるのか。東京から自坊へ帰ってからも、清沢は沢柳から借り受けた『語録』の読書を続けていく。十月三日には「語録」から七文が書き写される。そのなかでも、とりわけ次の文に注目したい。 Youarenotabletopurgeawaythewickednessofothers.Clearawayyourown.Fromyourselfcastawaysadness,fear,desire,envy,malevolence,avarice,effeminacy,intemperance.ButitisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly,byfixingyouraffectionsonhimonly,bybeingconsecratedtohiscommands.(『岩波』八 三五三頁、傍線は原文、網掛けは筆者)
最初に、他人の悪(
the wickedness of others
)を粛 しゅく清 せいすることはできないと断られ、そのうえで“Clearawayyourown.〔あなた自身の悪を取り除きなさい〕”と言われる。この箇所には下線が引かれているので、「善悪」の問題の焦点が自己自身へと向けられていることがわかる。続いて、自身の悪を取り除き、そこから苦痛や恐怖、欲望、嫉妬等々を捨て去るための手立てが“bylookingtoGodonly”と言われる。一般には「ただ神のみを仰ぐことによって」とでも訳すべき一文であろうが、清沢はそれを「他力に帰す」という文脈で読み取る。次に示すのは、十月二十六日 ()18に「信仰ト修善ノ関係」について思索された一節である。
自力ノ修善ヲ勤ムベシ(之ヲ勤メザルハ人間ニアラザルナリ)然レドモ之ヲ勤メントスルニ能ワザルナリ。如カズ自力ヲ捨テテ他力ニ帰シ、其信仰ノ結果トシテ自ラ避悪就善ノ為シ得ラルルヲ期センニハ(四日対面ノエピクテタス氏談参照スベシ)(ItisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly)(『岩波』八 三六六頁)
自力の修善を勤めること――これこそが人間の根本的な条件であると清沢は言う。しかし、同時にそのことをまっとうできない自身が深く自覚される。そこにおいて「自力ヲ捨テテ他力ニ帰シ」と言われ、その「信仰ノ結果」として「避悪就善」という生き方が自 おのずから獲得されると示される。そして清沢は、その道理を十月三日に引いたエピクテタスの言葉――“ItisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly”――をとおして確かめるのである。
「信仰ト修善ノ関係」をめぐる断想は、
「絶対無限ノ妙用 ニ乗托シテ/此境遇ニ落在セルモノ」として自己が見いだされた二日後に書きとめられたものであるが、その文中にも「信仰ト修善ト交互ニ刺戟策励シテ、以テ吾人ヲ開発セシムルモノ、是レ則チ絶対無限ナル妙用ノ然ラシムル所、豈ニ讃歎ニ堪ユベケンヤ」という言葉が見られる。すなわち、我々に他力を信ずるということ、換言すれば「絶対無限ノ妙用ニ乗托」するという自覚が芽生えれば、そこで〝すべてお任せ〟となって修善を放棄するわけではなく、むしろますます修善を勤めずにはいられない心が湧き起こるという。ところが修善を勤めようとすれば、再びもとの「自力的妄念」が紛起するのを感知せざるをえない。けれどもそれは悲観すべきことではなく、その妄念こそがいよいよ他力を信ずる「刺 し戟 げき」になるというのである。
このように、修善と信仰とが「交互」に「刺戟策励」することによって、我々を――その生涯を貫いて――「開発」し続ける。このことが「絶対無限ナル妙用ノ然ラシムル所、豈ニ讃歎ニ堪ユベケンヤ」と讃嘆され、あるいは「悟後修行ノ風光」と表現される。そして、そのサイクルの全体が「連瑣的循環行事」とも呼ばれるのであるが、先 ()19
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()
21
の回想の文で「修養の道途」と言われたものは、このような生涯を貫く歩みに相違ないであろう。
なお、この「刺戟策励」のサイクルにおいて、修善の歩みを促すもの(他力の信仰)は「信者ノ胸中ニ湧起スル自然ノ意念」とも言い表される。「意念」とは、清沢による“will”の訳語であるが、その視座に関連して、十月十八日には次のような断想が見られる。
吾人ハ一箇ノ霊物ナリ。只夫レ霊ナリ、故ニ自在ナリ(意念ノ自在アリ)。只夫レ物ナリ、故ニ不自在ナリ(外物ヲ自由ニスル能ハザルナリ)。而モ彼ノ自在ト此ノ不自在ト共ニ皆絶対無限(他力)ノ所為ナリ、共ニ是レ天与ナリ。吾人ハ彼ノ他力ニ信順シテ以テ賦与ノ分ニ安ンズベキナリ。(『岩波』八 三五九―三六〇頁)
ここで清沢は、不自在なあり方(物)に対して、自在なあり方(霊)を「意念ノ自在」と言い表す。自由の場所を「意志」に見いだしたエピクテタスの思想が、読書と思索の日々を潜 くぐり、他力の信念として語られていくのである。 興味深いのは、「自在/不自在」がともに「絶対無限(他力)ノ所為」と押さえられている点である。「絶対無限ノ妙用」を見いだしたところで、有限なる自己の現実は変わらない。また、他力の信念によって不自在なる境遇から脱却するわけでもない。すなわち、我々の存在は単なる「霊」でなければ「物」でもない、「一箇ノ霊物 00」であるという。その境涯が「彼ノ他力ニ信順シテ以テ賦与ノ分ニ安ンズベキナリ」と感得されるのであるが、このことが最晩年には「修養の道」に進んで「有限無限の分限に安住する」ことができたならば、日常のさまざまな問題(懸念・
苦悩)は自然に解決される、と再確認されるのである。
③思想の血肉化と人世の目的
――「如意/不如意」と「修養」
ところで、『語録』の読書を始めてから約半月が経過した十月十二日、清沢はそれまで英文で書写していたところから一転して、初めてエピクテタスの言葉十篇(「要録」冒
頭の言葉)を日本語(母語)で書き記す。それは翻訳と呼ぶ ()22
にはあまりに創造的であり、むしろ思想の血肉化とでも言うべき事態であった。その最初の一篇が以下である。
○如意ナルモノト不如意ナルモノ 00000000000000アリ。如意ナルモノハ、意見動作及欣厭ナリ。不如意ナルモノハ、身体財産名誉及官爵ナリ。己ノ所作ニ属スルモノト否ラサルモノトナリ。如意ナルモノニ対シテハ、吾人ハ自由ナリ、制限及妨害ヲ受クルコトナキナリ。不如意ナルモノニ対シテハ、吾人ハ微弱ナリ、奴隷ナリ、他ノ掌中ニアルナリ。此ノ区分ヲ誤想スルトキハ、吾人ハ妨害ニ遭ヒ、悲歎号泣ニ陥リ、神人ヲ怨謗スルニ至ルナリ。如意ノ区分ヲ守ルモノハ、抑圧セラルルコトナク、妨害ヲ受クルコトナク、人ヲ謗ラズ、天ヲ怨ミズ、人ニ傷ケラレズ、人ヲ傷ケズ、天下ニ怨敵ナキナリ。(『岩波』八 三五六頁)
この文は、同じ日に送られた稲葉昌丸宛の手紙にも引用され、またそれ以降も繰り返し参照されているため、清沢にとってきわめて重要な位置を占めると考えられる。「如 意ノ区分」という語も見られるが、ここで感得された自覚内容が、やがては「我等の大迷は如来を知らざるにあり。如来を知れば始めて我等の分限あることを知る。乃ち我等の如意なるものと、如意ならざるものとあるはこの分限内のものと、分限外のものとあるが為也」というように、「分限」の自覚として精錬かつ明確化されていく。 また、続く断想中には「修養」という語も登場する。先述のとおり、晩年の「精神主義」時代に多用される語であるが、当時の時代思潮として広まりつつあった概念でもある。その語を清沢は、エピクテタスの思想を咀 そ嚼 しゃくするいとなみのなかで初めて自覚的に用いるのである。しかも、その初出箇所では、よほど吟味したのか、一度「修練」と書いた後に訂正した形跡が確認できる(【図
3
】参照)。()
23
()
24
()
25
【図 3 】
そして清沢は、この場所を起点として、以後、有限なる自己が無限へと向かう求道の歩みを「修養」と表現し始める。さらに注目すべきは、きわめてラディカルな英文の読み方である。例えば、先の「如意(不如意)」は、一般には「権内」(岩波文庫『人生談義』参照)とも訳される“inourpower(
not in our power
)”に対する独自訳である。そして、この時に記された十文中に「修養」という語は三度登場するが、前の二つは“improve”の訳であり、最後の一つは“purposeinlife”――すなわち「人世ノ目的」が「修養ノ精神」と言い表されているのである。同じ日、清沢はエピクテタスから着想を得た言葉を書きとめた後、「以下私想」と示して独自の有限無限論を展開させていくが、その思索のなかで「人世ノ目的ハ何物ナリヤ」という問いが起こる。先述のとおり、前篇の日記(『徒然雑誌』)の最後に示されたのは、「如来トハ何物何在ナルヤ」という問いであった。そのような如来を対象的に問うあり方が、この時には「人世ノ目的」を問うかたちで現れ、やがては「自己トハ何ゾヤ」という、自己の存在そのものが問われる事態へと転換していく。そして、この日 (十月十二日)の長い断想は、次の一文をもって締めくくられる。
吾人ハ絶対無限ヲ追求セズシテ満足シ得ルモノナルヤ。
(『岩波』八 三五九頁)
清沢がエピクテタスの言葉を血肉化するなかで感得したものは、有限なる自己が「絶対無限ヲ追求」し続けるという「人世ノ目的=修養ノ精神」であった。
④
「死の恐怖」と「平安」
さて、第一期に感得された自覚内容がまとめられた断想をたずねてきたが、どうやら清沢はそれに先立つ十月七日の段階で、ある程度は「頗る得る所」を覚えたようである。その日、月見・清川宛に送られた書簡のなかに、十月三日の最後に書写されていた以下の英文を引用している。
Takeawaythefearofdeath,&supposeasmany ()26
()
27
thunders&lighteningsasyouplease,youwillknowwhatcalmandserenitythereisintherulingfaculty.(『岩波』八 三五四頁)
清沢はこの英文の「大要」について、月見宛の書簡では「死生命あり富貴天にありの句を八方より観想思索して、
ConstancyandTranquilityofmindを得るの道を教うるに過ぎず候」と指摘している。心に安定(
Constancy
)と平穏(Tranquility
)を獲得するのではなくして、その安定と平穏の心を獲得するための「道」を教えるものと受けとめている点には留意しなければならないだろう。清沢の絶筆「我信念」が、「如来の威神力」に乗托することによって「大安楽」と「大平穏」が得られるという境涯や、「死生命あり富貴天にあり」という『論語』(顔淵第十二)の句で結ばれることはよく知られる。『臘扇記』の時代に『エピクテタス語録』から感得した境涯は、清沢の生涯を一貫していたのである。ところで、先に清沢がことさら深く受けとめた言葉が“Itisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanby lookingtoGodonly”であることを確かめた。清沢が『語録』への沈潜をとおして見いだしたものは、死の恐怖
(
fear of death
)をはじめ、さまざまな苦痛や欲望などの心像を取り除くには、「絶対無限(他力)」に信順するよりほかはない――bylookingtoGodonly――という道であり、「修養」という生き方であった。それゆえこの英文から、どれほど死の恐怖や苦痛といった雷電(thunders and lightenings
)に襲われようとも、そのただなかで「絶対無限(他力)ノ所為」により、平安(calm and serenity
)を得る道に立つことができると読み取ったのであろう。(
2)第二期の思索
①死の現実と読書の日々
第二期の英文書写が始まるのは、第一期の一連の思索の半月後、『臘扇記』期間中で初めて喀血をした日(十一月十
日)である。清沢はその日を境に『語録』を再び読み返し、八日間にわたって計四十三もの英文を書き写していく。それとともに日々の血痰の色や回数が記録されていくのだが、 ()28
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ここで改めて死の現実と衝突したのであろう。
現に書写された英文のなかには“die”“death”という単語が頻出し、あるいはエピクテタスの“Doorisopen〔死の 門は開いている〕”や、ソクラテスが死を目前に語ったと伝えられる“Truephilosophersmakeitthewholebusinessoftheirlifetimetolearntodie.〔真の哲学者は生涯ひたすら
死の学びに従事する〕”といった言葉が見られる。すなわちこれらの言葉から、哲学者(
philosopher
)としての「死の受け止め方」を読み取っていったのである。そして十一月十二日には、第一期(十月三日)に、不如意なる境遇において自由の場所(=意念)を感得する契機となった“itisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly”を含む英文が「重出」されている。このようにして、第二期の終盤(十一月十六日)には、「喀血不停」という状況にもかかわらず、「エピクテート氏ノ所謂病ニ在テモ喜ブ者ニ達セザルベシト雖ドモ、幾分之ニ接近スルヲ得タルモノ乎。読書ノ恵亦大ナル哉」というように、「読書ノ恵」が得られた心境が書きとめられているのである。 ②「天与ノ分」と「道心」
第二期の英文書写の最終日(十一月十八日)、清沢は絶対無限なるものについて「天也。命也。数也。業報也…」と転釈をしていく。そして次第に「阿弥陀仏」「本願力」「仏智不思議」「大悲」といった真宗の教義的な語に置換しつつ、最終的にはそれらを「皆是他力也」というように、「他力」の一語をもって受けとめる(【図
4
】参照)。ここで注目すべきは、この転釈が「天・命」という儒家 ()31
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【図 4 】
的な語から始められている点である。清沢が儒家的なエートスを生来そなえていたことは、ことに近年注目されている事実である。『臘扇記』のなかでエピクテタスの言葉を「他力」の境涯として読み取ったうえで、さらにそれを儒家的な言辞で捉え直していくのも、そのことと深く関わっているであろう。それゆえ、この日の断想では「天ハ大慈大悲ナリ」とも感得され、さらには「必然動カスベカラザル分ヲ守ルモノ歟 か」と嘆ぜられるような境涯が「天ノ至誠ヲ表明スルモノ」と押さえられるのである。そして、我々はこれらの不可思議なるものに対して疑惑すべきではなく、「只益彼ノ至誠ニ信憑シ、天与ノ分ニ安住スベキ」であると締めくくられる。
「天
与ノ分」とは、すでに第一期の期間中に、初めてエピクテタスの言葉を母語で表現した際に「如意ノ区分」、あるいは「天与ノ分ヲ守リテ、我能ヲ尽クスベシ」と書きとめられていた境涯を指す。それゆえ、この日(十八日)の断想では「エピクテート氏曰ク」と続けられ、「如意」の分限が再確認されたうえで、「吾人ノ忘ル可カラザルハ衣食ニアラズシテ道心如何ニアリ」というように、我々が 忘れてはならないものとして「道心」が見いだされる。 この「道心」については、「天道」と「人道」の二種があると示されたうえで、次のように展開される。
他力不思議ヲ信ジテ天ヲ怨ミザルハ天道心ナリ。自力ヲ尽シテ人ヲ尤メザルハ人道心ナリ。天道心ハ真諦ナリ、人道心ハ俗諦ナリ。真俗二諦ハ相寄相待ノ道心ナリ。(『岩波』八 三八八頁)
ここで清沢は、他力不思議を信じて天を怨 うらまないのが「天道心」、自力を尽くして人をとがめないのが「人道心」であると述べる。そして「天道心」を真諦、人道心を俗諦と押さえたうえで、「真俗二諦」は「相寄相待ノ道心」であると確かめる。「天道」とは、エピクテタスの英文中の“God”に当てられた訳であり、のちには「他力」とも言い換えられる。そして「自力ヲ尽シテ」という語には「如意(天与)ノ分ヲ守ルヲ云フ」と注記されているため、ここで言われる「相寄相待」とは、「他力」に安んじて「天与ノ分」を守るところに、「自力を尽くす」ことので ()35()36()37
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如意(天与)ノ分ヲ守ルヲ云フ(十月十二日ノ下参照スベシ)
きる道が開かれることを表すであろう。そのような視座が、翌年の東上後には、他力回向の立場として「天命ニ安ンジテ人事ヲ尽クス」と語られていくのである。
③根本的撞着
第二期の書写が終わった直後の十一月十九日、清沢は『臘扇記』の号を改めるにあたり、冒頭に
置き、続けて重厚な思索をつづっていく。
死
という一字をそこにおいて中心問題となったのは、かつて垂水での養痾時代に著された「他力門哲学骸骨試稿」のなかで、死の問題と向き合いつつ、有限/無限の関係をめぐり論究された「根本的撞着」である。それは、有限の現実に立ってみれば、有限と無限は同一体にはなれないという問題であり、有限と無限とが同体であるという原理(二項同体)に衝突することを表す。その問題を『臘扇記』の文脈に即して言えば、自己が「一大不可思議ノ妙用ニ属ス」、あるいは「絶対的ニ他力ノ掌中ニアル」ということを自覚しながらも、日常の生活においてはそのことを忘れてしまい、「正 反対ノ思念」に堕してしまうという現実を指す。すなわち清沢は、「人生に関する思想を一変し、略ぼ自力の迷情を翻転し得たり」とも回想される、養痾時代(石水期)の思索をここで想起しているのである。 そして『臘扇記』の思索では、その「根本的撞着」の問題が理論ではなく実際の問題、すなわち「人界ノ最大事件」たる「生死」の問題として確かめられていく。具体的には、有限と無限の矛盾的関係を指摘するのにとどまらず、この「根本的撞着」を「単信」しなければ、それを「一大不思議」と認定することはできないと断じられる。そうして「最大撞着」「最大怨敵」とも呼ばれるような、死にゆく自己の現実を「観念」するところにおいて、はじめて他力の信念(単信)が獲得されると確認されるのである。
『臘
扇記』では、それ以降もしばしば喀血の記録が見られるが、天明期を代表する文人・蜀山人(大田南畝)の狂歌が引用されたり、自作の歌が読まれたりするなど、その記述内容や筆致からはある種の落ち着きのようなものが滲 にじ
み出るようになる。 ()39
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四 『臘扇記』の結/着――二つの断想群 『臘
扇記』の行実部分の日誌は、一八九九年一月二十五日をもって終結する。ところが『臘扇記』という書物自体はそこで終わることなく、巻末には重厚な思索のつづられた二つの断想群――「偶坐案定」(二月二十五日付)、「四月五日記」――が収められる。それまでに同書中で展開されてきた思索のまとめのようにも映り、また東上後に東京の地で唱道される「精神主義」の萌芽とも取れる内容である。
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1)「偶坐案定」
①「善/悪」とは何か
一つ目の断想群「偶坐案定」には「二月廿五日」という日付が記されてはいるが、二十篇以上の断想がつづられており、おそらく数日間の思索がまとめられたものと推測できる。題名の意味するところは不明であるが、『注釈』の解説(二四二頁)には、「偶坐」は「向かい合ってすわる (また、その相手)」、「案定」は「思案して決定する」という意味であると示されている。また、この思索が始まった背景については、起稿される五日前(二月二十日)に新法主から清沢宛に送られた「東上の勧誘」の手紙が直接の動機となったと考えられる。 この断想群は「善悪ノ標準ハ有限無限ノ一致 55ニアリ」という一文に始まる。「一致」という語に強調点(◎印)が付されているが、「有限無限ノ一致」とは、清沢手拓本の『宗教哲学骸骨』に挟まれていた紙片中に「故南無阿弥陀仏者有限無限之一致也」と記され、あるいはしばしば「宗教は有限無限の調和也」とも言われるように、「根本的撞着」を追究する「実際」の問題に対し、生涯を貫き「理想」として掲げられていた基本原理と考えられる。 「善
/悪」をめぐっては、初期の『宗教哲学骸骨』の頃より一貫して、絶対への志向(進化)が「善」、それに背くあり方(退化)が「悪」とされていた。そのことが『臘扇記』では、絶対無限より「善悪ノ観念」あるいは「避悪就善ノ意志」が賦与されると感得されている。また「絶対無限ノ妙用ニ乗托シテ/此境遇ニ落在セルモノ」として自 ()43
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己が見いだされた直後、清沢は続けて「善/悪」とは何かを問い、我々に「絶対ヲ忘レザラシムルモノ」が「善」、反対に「絶対ニ背カシムルモノ」が「悪」と確かめている。そして「偶坐案定」では、「善悪ノ標準」あるいは「一致」「調和」をめぐり、仏教・儒教・西洋哲学の視座より推究された後、改めて「善/悪とは何か」が問い返される。
善トハ何ゾヤ、悪トハ何ゾヤ。天道ニ安ンズルガ善ナリ、之ニ安ンゼサルガ悪ナリ。天 他力道何レノ処ニカ在ル。自分ノ禀受ニ於テ之ヲ見ル。自分ノ禀受ハ天命ノ表顕ナリ。之ヲ尊ビ之ヲ重ンジ以テ天報恩 恩ヲ感謝セヨ。然ルヲ、自分ノ内ニ足ルヲ求ムルコトヲ為サズシテ、外物貪慾ノヲ源 追ヒ、他瞋恚ノ源 人ニ従ヒ、以テ己ヲ充サントス、顚倒ニアラズヤ。(『岩波』八 四二〇頁)
「天
道(他力)」に安んずるあり方が「善」、安んじないあり方が「悪」と押さえられ、さらにその「天道」は「自分ノ禀受ニ於テ」見ることができると述べられる。ここで清沢は、改めて『エピクテタス語録』の読書を通じて感得 した自覚内容、すなわち「如意(天与)の分」を確認したのであろう。また、「天道」を知るとは、同時に、「外物」を追い、「他人」に従うことによって己を満たそうとし、そのことでかえって貪慾と瞋恚が生じるという「顚倒」なる自己のすがたを明らかに知ることでもある。
②「修養」の方法――自己省察
その後、清沢の思索は目まぐるしく展開していき、「善/悪」の思念に裏づけられた「道徳」、次いでその「道徳」の進歩によって成立する「完全ナル社会」が確かめられ、ついには「修養ハ第一義タルモノナリ」と宣言されるに至る。そして、その宣言を受けて「修養ノ方法」が「自己ヲ省察シテ天道ヲ知見スベシ」と押さえられたうえで、エピクテタスから読み取った自覚内容を踏まえつつ、改めて「自己とは何か」が問い直される。
然ラバ、何物カ是レ自己ナルヤ、嗚呼何物カ是レ自己ナルヤ。曰ク、天道ヲ知ルノ心是レ自己ナリ。天道ヲ ()47
知ルノ心ヲ知ルノ心是レ自己ナリ。天道ト自己ノ関係ヲ知見シテ自家充足ヲ知ルノ心是レ自己ナリ。自家充足ヲ知リテ、天命ニ順ジ、天恩ニ報ズルノ心、是レ自己ナリ。(『岩波』八 四二四頁)
このような問い直しそのものが自己省察(修養)の実践にほかならないが、注目すべきは一旦「天道ヲ知ルノ心」が自己と押さえられた後、ただちに「天道ヲ知ルノ心ヲ知ルノ心是レ自己ナリ」という重層的な謂いに捉え直されている点である。これは「如来トハ何在何者ナルヤ」という問いが「自己トハ何ゾヤ」へと転回したように、「天道」を対象的に求める立場から、自己の存在そのものが問い返され、「天道」との対応関係において自己が知らされる立場へと転換したことを表すであろう。そして、そのような「天道ト自己ノ関係」を知見するところに「自家充足」が得られると言われ、さらには「自己ヲ知ルモノ」はこの人界において「外物他人」に追従することなく「勇猛精進」に「独立自由ノ大義」を発揚するべきであると、「独立者」としての生き方が確かめられていく。これは、後年に 「精神主義は自家の精神内に充足を求むるなり、故に外物を追い、他人に従いて、為に煩悶憂苦することなし」と提唱されるような、「精神主義」の基本的立場とも対応しているであろう。 なお、以上たずねてきた「偶坐案定」の断想は、「絶対他力の大道」(第四~六節)に抄出されている。しかしその際、編集者の手によって、清沢の思索において重要な位置を占める儒家的言辞の「天命」「天道」が、それぞれ「如来の大命」「無限他力」という真宗的な言辞に書き換えられ、あるいは「自己ヲ知ルモノハ勇猛精進」という「修養」の立場を示す重要句が削除されてしまっている。
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2)「四月五日記」
①「独立自由」の境涯
二つ目の断想群「四月五日記」は、約一ヶ月前の「偶坐案定」で何ほどかの決着がついたところから改めて筆が起こされたものである。その二ヶ月後に東京へ移住することに鑑みれば、具体的に東上後の生活を意識して思索された ()48
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内容であると考えられよう。
第一に確かめられるのは、「偶坐安定」の終盤でもたずねられていた「独立者」の境涯であり、やがてその断想が「絶対他力の大道」最終の第七節に抄出されることとなる。そこでは「身体ノ維持」に終始する「物質的関係」が「独立自由ノ障碍(大害物)」であるとして、そのような「外物」は抛 ほう棄 きすべきであると言われる。そして「独立者ハ常ニ生死巌頭ニ立在スベキナリ」と標榜されるが、これは四阿含読誦の頃から追求されていた課題が、『エピクテタス語録』の読書を通じて決着がついたとも取れる宣言である。
さらに続けて、家族(妻子眷属)の「被養」という問題――おそらくそれが「死の恐怖」の根本的な要因であった――が論究されるが、それに対しては「我死セバ彼等如何ニシテ被養ヲ得ント苦慮スルコト勿レ。此ニハ天道ノ大命ヲ確信セバ足レリ」という落着を得る。そして『語録』を通じて読み取ったソクラテスの哲学者としての生き方が想起されつつ、「今我若シ遠キ邦ニ行カンニ、天豈亦彼等ヲ被養セザランヤ」という決意が表明されるのである。 ②「忘念」の根源
「四月五日記」の断想群は、
「独立自由」の境涯とそれを障碍するものとの関係が追究された後、一旦「以上四葉半四月五日記」と締めくくられる。しかし、そこから再び筆が起こされ、文字どおり『臘扇記』の「結」となる思索が展開される。
そこでは、「独立自由」の境涯の障碍となるもの(従
件)が、エピクテタスの言うところの「エクステルナルス
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externals
)」という概念に導かれて改めて吟味され、「忘念」「他人」「外物」の三種が提示される。なかでも注目すべきは「忘念」という語である。この語は、まずその性質が「外物他人ニ追従スル」ところにあると指摘される。そして、そこから「忘念ノ因」が「外物」「他人」にあると判じられ、さらには「外物ヲ追求スル」ことが「忘念ノ根源」であると展開されていく。「忘念」という語は、
「四月五日記」のなかに六度にわたって登場するが、実は旧版(法藏館版まで)の全集では、 ()50
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それ以前の記述内容に照らして「妄念」と翻刻されていた。それが、自筆原稿にもとづく厳密な史料検討が施された新版全集(岩波書店版)では、「忘念」と修正されてはいるものの、「妄念カ」という注が付され、あるいは『注釈』でも「誤記」の可能性が指摘されている。
しかし筆者は、清沢はここに明確な意思をもって「忘念」と記したのではないかと考える。それは筆致からも多分に伝わってくるが(【図
でに思索された内容に照らしてみても明らかである。
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】参照)、『臘扇記』中でそれま清沢の言うところの「忘」をめぐっては、ここまでに「絶対ヲ忘レサラシムルモノ」が「善」と押さえられていたことや、我々の「忘ル可カラザル」ものとして「道心」が見いだされていたことなどを確認してきた。それに加え、 「独尊子」と呼ばれる有名な断想(一八九八年十一月二十八
日記)においても、「外物」「他人」に対して「怖惑」を生じる者は「独尊子」たりえないと言われ、その「怖惑」の原因が「仏陀真人」、すなわち「絶対無限」あるいは「他力」を「忘失スル」ところにあると見定められている。その視座は「天道ト自己ノ関係」においても認められ、「外物」「他人」に追従する「顚倒」なるあり方は、この人世に見いだされた「天道」を忘失することにほかならない。
このような観点にもとづき再考すれば、「忘念ノ根源」たる「外物ヲ追求スル」あり方は、「人世ノ目的」たる「絶対無限ヲ追求」する生き方――つまり「修養」の道――の忘失という事態にほかならない。そのような忘れて 000
いたことを思い出す 000000000一念を示す語として、清沢は敢えて「忘念」と書き記したと捉えることができるであろう。
そうして最後に「忘念」に対しては「伏滅」、「外物」に対しては「無関係」、「他人」に対しては「同等」という、この世に処する態度が見定められたところで、『臘扇記』は結ばれ、清沢は東京へ向かって歩を進めるのである。 ()54
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【図 5 】
おわりに 『臘
扇記』の書かれた期間は、清沢の人生に一大転機が訪れた時期であるとともに、自己の存在そのものが問い返されるような転換の時機でもあった。本稿ではそのごく一端を掘り起こすにとどまったが、この書には清沢の生涯を一貫する思想を確かめるための鍵となるような未知の痕跡が、いまだ無尽に埋まっていると考えられる。それらを掘り起こすことで、初期に「骸骨」として示された思想の骨格や、現代にまで連線と伝えられてきた思想のエッセンスに、清沢自身の言葉をもって「肉づけ」することができるのではないか。とりわけ、晩年の「精神主義」に至る展開としては、直後に東京の地で著された『有限無限録』との照合が重要な手続きとなるであろう。
なお、『エピクテタス語録』から書き抜かれた英文一つ一つの吟味と、巻末の断想群「偶坐案定」「四月五日記」の意義に関しては、機会を改めて詳論したい。 凡例一、本稿中の図は、すべて『影印本 臘扇記』(清沢満之記念館〔方丈堂〕、二〇〇八年)からの転載(不許複製)。一、清沢の言葉は、大谷大学編『清沢満之全集』(岩波書店、二〇〇二~二〇〇三年)、および旧版全集(法藏館版、暁烏敏・西村見暁編、一九五三~一九五七年)から引用。それぞれ『岩波』『法藏館』と略記したうえで、巻数・頁数の順に漢数字で示した。一、引用にあたり、旧漢字・旧仮名遣いは、適宜、句読点・ルビ・送り仮名等を補いつつ、可能なかぎり通例字体・現代仮名遣いに改めた。
註本稿は、筆者が親鸞仏教センターで二〇一三年八月から二〇一六年六月にかけて『臘扇記』をテキストに主宰した「清沢満之研究会」における考究内容の一端を報告するものである。神戸和麿「『影印本 臘扇記』発刊にあたって」参照。『岩波』二 一八七頁参照。『法藏館』八 五五七頁。それ以外にも『臘扇記』の序盤には、同書(貝原益軒『続和漢名数大全』)から養生訓が抜粋されており、療養生活の指針にしていた様子がうかがわれる。 ()
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新版『西田幾多郎全集』第二巻(岩波書店、二〇〇四年)三―十一頁参照。『注釈』解説(加来雄之「臘扇記といういとなみ」二三五頁)では、これら三つの日記が「連続しつつ独立している」と指摘されている。『法藏館』五 六二二頁。代表的な研究として、寺川俊昭『清沢満之論』(文栄堂、一九七三年、一六八―一七三頁)が挙げられる。なお「絶対他力の大道」は、『精神界』掲載時には無記名であったが、清沢没後より、その思想を象徴的に表す語録としてことさらに重要視されるようになった。この点については、拙稿「清沢満之を「一貫する」思想――『臘扇記』を手がかりとして」(『現代と親鸞』第二十八号、二〇一四年)にて詳論した。ただし、清沢がエピクテタスに触れたのはこの時が初めてではなく、それ以前に真宗大学寮で行われた「西洋哲学史講義」(一八八九年十月~一八九四年四月、『全集』第五巻に収録)でも取り上げられている。この点を取りまとめた先行研究として、
W.S.Yokoyama
による英論文“Editing Epictetus
――Kiyozawa Manshiʼs Rosenki and Longʼs Discourses of Epictetus
”(『花園大学文学部研究紀要』第三十号、一九九八年)が挙げられるが、十分な内容とは言いがたく、いくつかの事実誤認も見られ るため、再検討を要すると考える。その先駆けとなったのは、曽我量深が清沢の五十回忌に際して明示した以下の言葉であろう。たまたま沢柳政太郎氏を尋ねた時、『エピクテタ スの教訓』という書を同氏宅で見つけそれを借りて読まれた。そして始めて分限ということを了解された。勿論〔清沢〕先生は自分等が相対有限であるとは夙に考えておられた訳であったが、それは一般論であって、正しく御自身の問題になるとなかなかはっきりしなかったのであろう。それが『エピクテタスの教訓』を読まれて、始めて自己の分限を自覚することが――実際において自覚することが――真実の救済であると了解できたのである。(『曽我量深選集』第十一巻、彌生書房、一九七二年、二五一頁、〔〕内は筆者による補足)『注釈』解説(二四〇―二四一頁)、安冨信哉『清沢満之と個の思想』(一一九頁)参照。『注釈』二四一頁参照。後年清沢は、①ロング訳“Discourses of Epictetus
”と、②ローレストン訳“Teaching of Epictetus
”の二冊を併読することになる。一般に、①は『エピクテタス語録』、②は『エピクテタスの教訓』と呼ばれる。一八九八年に邂逅したのは前者と特定できるが、清沢自身が回想文のなかで「エ ()6
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ピクテタス氏教訓書」と記しているため、従来の研究では「語録/教訓」という呼称が混同されることが多かった。本稿では『語録』という表記に統一する。ただし、清沢に迫った「死の恐怖」とは、個人の生命が消失することに対する恐怖にはとどまらず、そこには家長として家族を養わなければならないという責任問題が深く関わっていたと考えられる。現に『臘扇記』の終盤では、ソクラテスの生き方に照らしつつ、家族の「被養」の問題が追究されている。この一文に着目した研究として、名畑直日児「清沢満之と「信念」――不如意の智慧」(『真宗教学研究』第三十三号、二〇一二年)が挙げられる。寺川俊昭がこの文に注目し、最晩年(一九〇三年五月)の論稿「宗教的道徳(俗諦)と普通道徳との交渉」(『精神界』第三巻第五号)において展開された思想の基礎的考察として見ている(『清沢満之論』一八九頁)。文中に「四日対面ノエピクテタス氏談参照スベシ」とあるが、従来は「三日」の誤りと了解されることが多かった(『注釈』四一頁など)。その英文は三日の日誌部分の直後にあるため、三日に書写されたものに違いないが、『影印本』で確認すれば「四日」の日誌の向かい側、つまり「対面」に位置していることがわかる。よって、清沢の記述は誤りではない。 『岩波』三六七頁。波線は筆者による。『岩波』八 四五四頁。稲葉宛の手紙には、英文のまま引用された(『岩波』九 一七七頁)が、法藏館版には和訳が掲載されている。『臘扇記』では、十一月十八日の第二期英文書写の後と、十一月二十三日の「人世ノ目的」に関する思索の後に「エピクテート氏曰く」と続けてこの「如意/不如意」にもとづく断想が記される。他にも『有限無限録』〔一九〕(『岩波』二 一〇九―一一〇頁)などに引用されている。『岩波』八 四五三頁。時代思潮としての「修養」概念については、宮川透「日本思想史における〈修養〉思想――清沢満之の「精神主義」を中心に」(『近代日本社会思想史Ⅱ』有斐閣、一九七一年)、安冨信哉『清沢満之と個の思想』(一五二―一六一頁)、筒井清忠『日本型「教養」の運命――歴史社会学的考察』(岩波書店、二〇〇三年、三―五三頁)、栗田英彦「明治三〇年代における「修養」概念と将来の宗教の構想」(『宗教研究』第三八四号、二〇一五年)などを参照。『宗教哲学骸骨』(一八九二年)では「修徳(修行)」、『在床懺悔録』(一八九五年)では「修道」と表現されていた。十月十日付の草間(関根)仁応宛、十月十二日付の稲葉昌丸宛の手紙にも同じ英文が引用されている。『岩波』八 一七二頁。 ()
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