豊後国風土記にみる土蜘蛛について
著者 大参 理恵子
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 9
ページ 15‑20
発行年 1998‑06‑28
URL http://hdl.handle.net/10076/6528
豊後国風土記にみる土蜘殊について
大 参
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『風土記』には土加味に関する記事が記されている。常陸国・
豊後国・肥前国の『風土記』がそうであり、他にも、摂津国・
陸奥国・越後国・肥後国・日向国の「逸文」に見られる。土蜘
蛛の中には、男も女もあり、抵抗して誅殺された者もいれば、
大和朝廷に帰順した者もいる。土蜘蛛伝承には様々なものがあ
るが、ここでは【塵後国風土記』に登場する土蜘蛛を取り上げ
ることにする。
九州の北東部に位置する豊後国は、ほぼ萌在の大分県にあた
る。豊後国の北部は桂川および犬ケ岳から耶馬渓と立石山を結
ぶ山塊によって豊前国と隔てられ、英彦山から宝珠山に至る山
塊によって筑前・筑後園と区切られ、西部は阿蘇山の外輪山系
で肥後国と境をなし、南部は祖母・傾山系によって日向国と大
きく遜られている。一方、東部は海に面して開けており、豊予
海峡を介して伊予国と、さらに北東は周防灘を挟んで周防国と 向き合っている。このような豊後国の位置が、大和を中心にした東方地域からの文化的影響を受けるという大きな要因になっている。
このような豊後国で大和政権に反抗した土蜘蛛とは、いった
いどのような勢力だったのであろうか。古墳や集落遺跡のあり
さまを参考にし、土蜘蛛の存在を通して、舌代の豊後という地
域をみてみようと患う。
ー15‑
「土蜘妹」
に
ついて
最初に、土蜘蛛とはどのような人々をさすのか、ということ
について考えてみたい。
土蜘蛛の解釈は大きく二つに分けられる。一つは土蜘蛛を異
人種とみる説で、もう一つは大和政権に従わなかった者に与え
られた購称とみる説である。
異人種説には、穴居民とする説、マレイ人説、蝦夷説、天孫
民族に追われた先住民説などがある。しかしそのような異人種
とみる解釈は現在疑問視されている(注一)。では、もう一・つ
の大和政権に反逆したとみる考えはどのように言っているので
あろうか。小田富士雄氏は次のように述べている(注二)。
風土記に記された土蜘蛛族は大和朝廷の統一事業に対し
て土着の長として反抗し、服属させられる運命をになった
人々であり、また僻地に住んでいて、農耕を主たる共通の
生産手段にもって大和国家に早く同化した人々とは異なり、
狩猟、漁拷などのより先史時代的生活にとどまらざるをえ
なかった人々であったことがうかがわれる。生活環境によ
りつよく規制されざるをえなかった古代にあっては、これ
らの人々は大和文化圏の人々とくらべるとき、やや異なっ
た生活形態や習俗を生みだしていたために土蜘妹の呼称を
与えられたのだろう。また水野祐氏は、『豊後国風土記』や『肥前国風土藍にみられる土蜘妹は九州の海岸一帯に生活の基盤を持っていた海人
集団、つまり魚轢民集団だったと説いている。さらに、土蜘蛛
伝承の本体は九州にあり、それがある時期に大和へ伝播して潤
色された結果、異族祝されるような物語へと発展したと考えて
いる。すなわち、土蜘蛛とは九州地方の魚拶民に与えられた名
であるが、その名が大和へ伝わり、非実在的な反逆者として扱
われるようになったと結論づけているのである(注三)。
土蜘殊については、新井白石以来様々な解釈がなされてきた
が、右で見たように現在では、大和政権に従わなかった集団に 対して与えられた蔑称であるとの見方が一般化している。この土蜘妹の実態を明らかにするためには、土蜘蛛がどこに住み、何を生業にしていたのかが重要なポイントとなる。またどれくらいの勢力があり、なぜ大和政権に反逆したのかを考えなければならない。これを解明するために、次に豊後国の土蜘妹の分布地域についてみていこう。
一一
曲豆後国の土蜘妹の 分布地域
豊後国は八郡から構成されている(ヨ景後国風土記』総記粂、
『和名抄』巻五)。その中で土蜘珠伝承のある郡は、日田郡、
直入郡、大野郡、速見郡の四郡である。
日田郡は、今の大分県の西部「日田市及び日田郡大山町、前
津江村、中津江村、上津江村にあたる。『豊後国風土記』日田
郡条によれば、郡名の由来は、景行天皇がこの郡を巡行した時、
久津媛が現れて国の様子を伝えたために、久津媛の郡と呼んだ。
それが耽って日田郡となったと伝えている。日田郡では、石井
郷と五馬山とに丑邑土蜘妹がいたことを伝えるのみである。風
土記編纂の時点でそれが昔語りであったことを考えると、それ
らの土蜘蛛は早くに平定されていたものと考えるのがよい。そ
の上、敬編郷には、欽明天皇の世(六世紀中葉)に、日下部君
の祖先が警作る部民として朝廷に仕えていたことが記されて
いる。日田盆地は周囲を山々に囲まれているが、有明海に西流
する筑後川上流域にあたり、先史及び古代以降、北九州と東九
州を結ぶ文化交流の要衝であったことを、楕昌信氏は草場第二連山嘩吹上遺跡をはじめとして朝日宮ノ原遺跡、平島遭曝、小
迫辻原遺跡やガランドヤー号・二号墳の装飾音墳などから明ら
かにしている(注四)。『豊後国風土記』日田郡条にも景行天
皇が筑後国の生葉(福岡県浮羽郡浮羽町浮羽)から日田郡に入ったと記されており、舌代における舟運や川沿の交通路を考慮
すると有明海に注ぐ筑後川の存在は大きいと考えられる。この
ように日田郡は交通の要衝として重要な地域であった。そのた
め、日Tlから大和政権の支配下に置かれることになったのでは
ないだろうか。恐らく大和政権が九州を掌握するためには、交
通の要衝である日田の地域を抑えておく必要があったのだろう。
直入郡の土蜘蛛は景行天皇に伐たれている。祢疑野には、打
獲・八田・国摩侶という土蜘蛛がおり、薇石野にも土蜘蛛がいたことが¶崖後国風土記」とF日本書紀』(景行天皇十二年冬十月魯とに記されている。ここで少し気になるのは、コ曇後
国風土記』に「天皇、親ら此の賊を伐たむと欲して」や「同じ
き天皇、土蜘蛛の城を伐たむと欲して」というように、わざわ
ざ「賊」という文字を用いていることである。土蜘妹という語が大和政権に反逆した集団に与ろられた名称であるならば「此
を伐たむと欲して」とか「土蜘妹を伐たむと欲して」と記せば
よいのである。土蜘妹は必ずしも大和政権への反逆者ばかりを さした称とは限らないと言えよう。さて直入郡の位置であるが、大野川上流域で、現在の竹田市・荻町辺りである。この辺りは標高四百から六育メートルの高原性の火山灰台地が広がっている。大野川上流域の先史から古代にかけての遺跡の大半がこの台地上に見られる。この地では弥生時代後期になると爆発的に遺跡が増加している。しかも県内最大規模の集落が営まれており、この繁栄は古墳時代前半まで続いている。これらの大集落を支えた生活の基盤は何であろうか。この辺りの土地は水稲栽培には適していない。出土遺物から考えると、陸稲や雑穀の栽培、堅果顆の採集、狩猟などで安定した生活を営んでいたと考えられる(注五)。この地域はかなり豊かな自然に恵まれていたようだ。竹田市の菅生台地には、前方後円墳二基と円墳二基からなる七ツ森古墳群がある。この節万後円墳は、九州で最古級の前方後円墳として知られる宇佐の赤塚古墳と類似していることから四世紀初頭頃に築造されたものと推定される。この古墳から出土した石釧は、前期古墳の代表的な副葬品であると同時に、初期大和政権との強い結びつきを示唆するものとして注目されている(注六)。また直入の郡の宮処野という所には、景行天皇が土蜘煉を征伐した時に行宮をたてたという伝承がある。直入郡は日田や肥後に接しているので、それらの地へ侵攻する際の足がかりの地となったに違いない。さて逗留するためには食糧等を調達しなければならない。逗留する大和の軍をも
てなしたのは七ツ森古墳群を築いた集団だったのではないだろ
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うか。ここで伐たれた土蜘蛛の賊とは、その集団の中の反大和
政権着たちだったと想像される。
大野郡は大野川中流域に位置する。大野の川中流域の火山灰
台地や段丘上では、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて飛
躍的な発展が見られる。この地では大規模なものも含めて多く
の集落遺跡が存在する(注七)。この地域も内陸部なので、畑作や狩猟・採集で生計を立てていたと考ろられる。苫一後国風
土訂巴同郡条には、綱磯野の土蜘妹である小竹髭奥・小竹鹿臣は景行天皇のために狩猟をしたと記されている。しかし鼠の石窟の土蜘殊に関しては速見郡の条にも登寧しており、その所在
地が明確ではない。大野川流域は別府湾から日向や肥後に向か
うルート上にあり、豊かな自然に恵まれて大集落が営まれてい
た。ここに親大和政権的な土蜘蛛が存在していたことになる。
速見郡は別府湾に面している。景行天皇がこの地に来た時、
速津媛が迎えて鼠の磐窟や直入郡の土蜘妹の存在を知らせてい
る。これらの土蜘蛛は強暴で、仲間も多く、昔「皇命に従はじ」
といっている、と進言している(『豊後国風土記』同郡粂)。
大勢刀であったらしい様子がうかがわれる。やはり大野川流域
の大集落を指すのだろうか。恐らく反大和勢力を滅ぼした後に親大和勢刀が支配して七ツ森などの古墳築造にあたったのであ
ろう。速見郡では通津媛が土蜘蛛の存在を知らせただけで、ここに土蜘妹がいたわけではない。
次に土蜘蛛の分布していない地域について見ておこ・葛それ は球珠郡、海部郡大分郡、国埼郡であり、右の速見郡を入れると五つの郡になる。球珠郡以外はすべて海に面している。大和朝廷と豊後国の海岸部とのつながりを示すものに古墳がある。別府湾沿岸は豊後国の中でも最も古墳の多い地域である。別府湾は避戸内海と接しており、早くから萄戸内地域や畿内との交易が行われていた。旧石器時代にすでに遡戸内技法と呼ばれる石器が伝わっている。海岸部の地域は、平野が少ないため、農耕よりも海を介した交易に力を入れたのだろう。そうした人々にとって、大和政権は大事な交易相手であったのだろう。また大和政権にとっても九州の海岸部を支配し、海上交通を掌握することは大切なことであったと孝ろられる。大和政権の九州支配の実現は、朝鮮・中国との交通手段の確保と密接な関係をもって行われたといってよい。大和政権が海外と交易を行うには海上交通によるはかはない。大和の外港となるのは日本海側の敦賀∵萄戸内側は大阪湾の湾港と紀ノ川河口の和歌山であった。海上交通を維持するためには、遡戸内や九州の港を支配する在地勢刀を大和政権下に組み込むしかない。また交易によって生計を建てる海の民にとっても大和政権と手を結ぶ方が得だと考えたのだろ・笑小田亭士堆氏や柳沢一男氏は、海岸部に見られる前方後円墳は、大和政権との同盟の証だったと指摘している(注八)。
豊前国や豊後国の海岸部が九州と大和を結ぷ交通の要所だっ
たことは、文献にも記されている。神武東征伝説では、コロ事
記』
『日本書紀』に、天皇が日向国から宇佐、岡水門(福岡県
の遠賀川の河口)、安芸国の填宮(広島県安芸型呵甲町)、吉
備国の高嶋宮(岡山県児島郡甲浦村)を経て大阪湾に入ったと
伝えている。この道筋は、古代の海上交通を反映したものと患われる。また『古事記』
『日憂では、豊後水道の「速吸
之門」で倭国造の祖先である椎根津彦が水先案内人として天皇
に従ったと記むれており、宇佐では菟狭津彦と菟狭津媛が天皇
をもてなしたと記されている。
右のことから、豊前・豊後の海岸部が大和政権と密接なつな
がりをもっていたと考えられるのである。
以上、豊後国の土蜘蛛の分布地域と、それ以外の地域につい
てみてきた。その結果、土蜘妹の分布する地域は主に内陸の山
間部であること、土蜘蛛の分布していない地域は主に海岸部で
あるとともに大和政権と深い関係があったことが明らかとなっ
た。これらを踏まえてもう一度、豊後国の土蜘蛛について検討
してみよう。
一二
曲豆後国の土塊妹像
ヨ豊後国風土記』に登場する土蜘蛛は内陸の山間部に居住し
ている。山間部とはいっても三世紀から四世紀頃には、大規模
な集落が存在していた。そこでは狩猟・採集生活ばかりではな
く、畑作を中心とした農耕の痕跡も認められている。小田富士 雄氏がいうような先史時代的生活(注九)にとどまっていたとは考ろられない。農耕を行っていたからこそ、大集落を形成し、それを維持することができたと考えられる。それは遠津浪が景行天皇に進言しなければならないほどの大勢力であったのである。交易を主とする海岸部の住民にとっては、海上交通を掌握しっっあった大和政権とどうしても手を結ぷ必要があった。一方、農耕・狩猟採集を主とする山間部の住民にとっては、その必要性はなかった。豊かな自然に恵まれ、さらに九州の内陸部とも交易を行うことが可能であった。大和政権の支配下に入る必裏性はなかったのである。
ところで、水野祐氏は毒の土蜘蛛を、海辺から陸地に入
って内陸漁轢民となった人々だと考えている(注十)。確かに
海辺から内陸部への移住はあったかもしれない。しかし私は豊
後国の土蜘蛛は農耕民だったと考えている。そうでなければ大
和政権に抵抗するだけの力は持てなかっただろろち豊後国の土
蜘蛛は、大和政権の支配下に入っていなかった内陸部の農耕を
主とする在地豪族たちであると考えられる。彼らは大和政権の
傘下には入っていなかったが、中には同盟関係をもつに至った
豪族たちも出てきた。それが、大和政権が強大化するにつれて、
その同盟関係は崩れ、従属的関係へと変化していった。豪族た
ちの中にはそれ竜受け入れるものと抵抗するものとがいた。
ヨ豊後国風土記』大野郡条に見られる小竹鹿奥・小竹鹿臣は大
和政権に服従した豪族であhく他の多くの妻族たちは反逆した
‑19‑
ものたちであった。そのため後に、反逆者たちすべてをまとめ
て土蜘蛛と呼ばれることになったものと思われる。土蜘妹の呼
称については、皇命に従わない地方叛逆勢力の首長への大和朝
廷側からの膿称という津田左右吉氏の説(注十こが最もあて
はまると患う。
お わ
h‖ノ
に
以上、豊後国の土蜘蛛について考察した。豊後国では、海岸
部と山間部とではっ車りと大和政権への対応が分かれている。
これは豊後国の位置と地形、自然環境によるものである。大和
政権が内陸部にも進出したのは、九州内陸部との交易ルートの
確保のためと、自然の豊かさに目を付けたからであろう。『豊
後国風土記』からはその豊かな自然がうかがえる。土蜘妹とは決して野蛮な田金暑ではな7\古墳や集落遺跡から見て独自の文化を築いた誇りある人々だった。ひとまとめに
土蝋妹と呼ばれているが、国や地域によってかなり異なった集
団であったにちがいない。人間の生活・行動・利害というのは、
自然条件によって左右されるからである。
二
小田古土雄氏「豊後・肥前国風土肥」(F日本舌代文化の探求
社会思想社「一九七五年。二三〇〜二〓〓真)
三
注】の文献「土蜘蛛についての私見の検討」(下)冊、】】四〜〓ニ○
貢。
四
横島信氏→日田盆地周辺の遺跡」(F日本の古代辻跡
49
大分】保育
社。一九九五年。二四】〜二五四貢)
五
蓋弘氏「九州内陰部の農耕の民」
(新版[舌代の日本]夢二巻『九
州・沖縄」角川書店。一九九一年。六七〜六八貢)
六 楕昌借氏「菅生台地の遺跡」(F日本の舌代辻跡
49
大分】保晃
一九九五年。こ〓一〜ニー四貢)
七
構昌信氏「弥生時代の集落遺跡」(F日本の古代遺跡り
亜
大分』保育
社。一九九五年。二〇〇〜二〇四貫)
八
小田音士姓氏「畿内型古墳の伝挿」(古代の日本、第三巻『九州し角川書店。一九七〇年。六七〜八九書。柳沢一男氏「九州古墳文化の展開」
(新版【古代の日本]第一ニ巻F九州・沖縄」角川書店。】九九一年。一〇
五〜一一一貫)
九
注二の文献。二三〓見。
十
注三に同じ。
十一津田左右書氏「土蜘蛛について」(『日本古典の研究上】岩波書店。
【注】
一水野祐氏「土蜘蛛に関する解釈の変遷」(F入門・古風土記」雄山閣出
版、一九八七年。(下)冊、一】○〜一一四貢) 一九四八年。第二篤実二幸附録、一八八〜一九五貢)【参照文献】・武光城氏箸『水軍国家ヤマトの挺生山(学習研究社、一九九〇年)
・永尊氏著『風土記の世界と舌代の日本し
(大和替昂、一九九一年)
【おおみりえこ】九九八年三月卒業