『「国富論」を読む : ヴィジョンと現実』を読む
著者
大森 郁夫
雑誌名
経済学論究
巻
67
号
2
ページ
1-22
発行年
2013-09-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/11316
『
「国富論」
を読む−ヴィジョンと現実』
を読む
A Liberal Reading of H.Takemoto’s
Across The Wealth of Nations:
Vision and Reality, 2005
大 森 郁 夫
Takemoto’s Across The Wealth of Nations is a breakthrough work in the interpretational history of WN. His reading of WN is revolutionary particularly in the following point. Reading WN as a historical work, he regards Smith’s central concept of “the System of Natural Liberty” as a threatening device in civilized societies which have been facing each other in severe world-wide competition. This idiosyncratic interpretation of “the System of Natural Liberty” depends both on the nature and function of free competition and on the moral or social “propriety” of human being which implies a kind of norm consciousness. Some questions about Takemoto’s understanding of Smithian natural liberty and the agential society are presented.Ikuo Omori
JEL:B31
キーワード:竹本洋、『国富論』、自然的自由のシステム、もっとも洗練された脅迫装置、 代理人社会
Keywords:Hiroshi Takemoto, The Wealth of Nations, the System of Natural Liberty, the most sophisticated threatening device, the agential society
はじめに─著者について
経済学史家としての竹本洋氏(以下、行論の内容上竹本と記す)が過去・現 在をとおしてわが国における経済学史研究の水準を代表する一人であること
は、この分野にかんして少しでも事情に通じた者の斉しく認めるところであろ う。これは、竹本が独自の理論的分析に長けた思想史家であると同時に、広く て深い思想的パースペクティヴを持った学説史家でもあり、両者の絶妙なバラ ンスの上に立った類い稀な経済学史家と呼ぶに相応しい存在という意味であ る。「類い稀な」という形容詞には、過去のテキストにたいする学説の解析に あたっては単一の現代経済理論への過度の偏重に傾かず、思想の見通しにおい ては厳密な論証抜きの流行や饒舌による思想史的説得に与しない姿勢を堅持す る独立不羈の研究者という意味が含まれる。 さらにそこには学説や思想を歴史的文脈の中で繋ぎ位置づける歴史家の貌 が覗いている。この後読んでいく代表作の一つ『「国富論」を読む−ヴィジョ ンと現実』1) は、テキストを主体的に読むことの重要性と困難さ両面への覚醒 と覚悟にもとづいて『国富論』を歴史書として読み解き、そこから見えてくる 歴史家スミスが構想し考案した社会思想や経済思想などの諸領域の抜本的で体 系的な再措定をとおして、この古典の歴史的かつ現代的意義をあらためて考え 直す試みだったといってよい。そうした読み方の採用により、18世紀中葉の ブリテンを取り巻く国際的環境の中で思索を重ねたスコットランド知識人の等 身大の姿を浮び上がらせようとした作品である。 歴史家たらんとすることは、その研究の出発点から竹本にもっとも強く意識 された志向だったと思われる。たとえば、ジョン・ロックを中心とする経済論 とくに貨幣・利子論、あるいは重商主義期の農業や租税・公債をめぐる1970 年代後半から80年代にかけての初期諸論文に見られる豊富な歴史叙述などが 一つの証左である。同時に、それらの著者は同時期のアイルランド経済思想諸 文献にかんする精密な書誌学者としての貌も合わせもつ。経済学の歴史を顧み る者にとってテキスト・クリティークを含む歴史的な検証は当然の前提であ り、経済学史を含む広義の思想史研究もまた歴史研究の一環であるという考え が、これら作品群には共通して貫かれている。換言すれば、歴史主義の立場に 身を置いた歴史=社会分析が経済学史研究でも正当かつ有効な方法となるとい 1) 竹本洋『「国富論」を読む−ヴィジョンと現実』名古屋大学出版会、2005 年 10 月。
う揺るぎない確信が竹本にはあるといってよいだろう。これは思想の歴史的相 対化の問題でもある。 そうした考えを四半世紀後に一つの作品として結実させた『「国富論」を読 む−ヴィジョンと現実』(以下『「国富論」を読む』と略記)にたいし、わたし は拙論でこの労作の書評を試みようとしているのではない。本書を考察の素材 にして竹本洋という経済学史家の古典や歴史をめぐる思考の形相を評論風に描 いてみたいと思っている。
1 古典を読むということ
経済学史にかんする研究書の近年の特徴の一つに、そしてそれはこの分野に かぎらないと思われるのだが、若い研究者の学位論文の出版が挙げられる。経 済学史の場合、研究対象はおもに20世紀経済学の相対的に未開拓な領域で、 わが国で研究されることの比較的少なかった経済学者の全体像を描こうとした 作品が多数である。そうして、最初の単著の刊行によって著者はその領域の第 一人者となるケースが多い。新たな知見の提出によって経済学史の裾野を拡 げ、学問としての経済学の歴史的展開の内容を豊かにするうえで、この新しい 研究動向は歓迎されるべき事態である。だが、それは他方で、わが国で伝統的 かつ競争的に論じられてきた経済学史の領域への若い研究者の参入が相対的に 少なくなっているという現実を裏面に伴った動向でもある。 彼らの眼には、経済学史の全体的な流れにとって欠かすことのできないスミ スやリカードゥやマルクスは手垢のついた、あるいは現代を生きる人間の心に もはや響かない研究対象に映るのだろうか。それとも、過去の厖大な研究蓄積 という参入障壁の高さが躊躇を生みだす一因になっているのだろうか。いずれ も当てはまる可能性があるが、それ以上にむしろ経済学の現状にたいする問題 意識の落差を指摘しうるように思える。それが、選択された「古典」に向ける 期待と読み方の差異を増幅させているといえるかもしれない。2) 2) 以上の現状認識を研究者の世代間の相違だけに帰そうとしているわけではない。昨年学会の名 前が冒頭に冠せられた『古典から読み解く経済思想史』(ミネルヴァ書房、2012 年)という論文 集が刊行された。編者たちの意図は古典の読解を現代に生かすことらしい。それは狙いとして『「国富論」を読む』の「序」は、付随する注とともに、古典テキストを読む ことの意味を徹底的に考えることを主調音にして出発している。それは、対象 の新しさでなく読み方の斬新さ─新奇さではない─を目指すがゆえに想定され る苦闘を著者が引き受ける覚悟を示したものである。3)現代という時代を意識 しながら安易にそれに寄り添おうとせず、むしろ対象に寄り添いつつ、ときに は突き放すことで古典読解の現代的価値を見いだそうとした『「国富論」を読 む』は、結果として時代を超える作品となった。 この姿勢を「〈ポストモダン〉的読解の試み」と特徴づけた書評の言葉は、4) 読むことへの竹本の思考の根源性と徹底性にたいするミスリーディングに近い 表現であろう。『国富論』をスミスの先行する著作・講義聴講ノート・草稿な どに見いだされる道徳哲学体系の中で読むべきだとする「形成史論的アプロー 首肯できなくはないものの、経済思想でなく経済思想史ならば「古典から読み解く」のはわざわ ざ記すまでもない当然の前提であって、タイトルの形容詞句と名詞は同義反復ではないかという 基本的疑念や、タイトルでの「古典」の明示にかかわらず「何が古典か?」を読者に明らかにし ないこと、さらに「古典」と現代との間に生じるであろうある種の緊張関係にたいする意識が相 対的に希薄なことなどが気にかかった。「古典」は各章の著者がそれぞれ自分流に定義し使用す るものらしいので、「古典」の名のもとに素材(過去の資料)が混じる可能性も捨てきれない。 ここで、わたしが問いたいのは、経済思想史・経済学史というディシプリンが固有に解きうる課 題は何かという広い意味での方法の問題であるが、この学問の現状は問題意識・対象・方法さら に記述法のどの面においても、現代という時代に寄り添うべく─あるいは時代に掉さすべく─大 変なスピードで変化を遂げている(→後注 17 も参照)。世代的に多様な執筆者によって構成さ れた上の論文集の各章のテーマがそれを象徴しているかのようある。そうであるならば、タイト ルから「古典」を外して『現代から読み直す経済思想史』とした方が実際の内容に沿っているの ではないだろうか。 3) 著者の古典の読み方を考えるとき、わたしには丸山眞男の次の言葉が浮んでくる。「結局、思想 史というのはすべて、従来の思想を読み替え、読み替えしてゆく歴史なのです。昔の思想を読ん で読んで読みぬいて、それを新しく解釈したり、新しい照明をあてていく。そういうことの歴史 にすぎない。その意味で、本当の独創というのは、何もかも真新しく始めるということではな く、むろん珍奇な思いつきということではないのです。」『「文明論之概略」を読む』上、岩波書 店、1986 年、42 頁。 4) 八幡清文の書評(『図書新聞』2006 年 3 月 25 日)。これは、スミスの思想体系を市民社会論 というわが国の思想史研究が特殊歴史的に設定してきた見方からそう見えるということだろう。 『「国富論」を読む』の書評には、他に知るかぎり、星野彰男(『経済研究』第 57 巻第 3 号、2006 年 7 月)、熊谷次郎(『社会経済史学』第 72 巻第 2 号、2006 年 7 月)、安藤隆穂(『社会思想 史研究』No.30,2006 年 9 月)、水田健(『経済学史研究』第 48 巻第 2 号、2006 年 12 月)に よるものがある。
チ」(12頁)5)─日本のスミス研究の主流をなしてきた市民社会論的アプロー チに重なる─への違和感を表明した「序」の次の文章は、ラディカルな読みに 伴う刊行後の批判を早くも予期したかのような言葉にわたしには思える。「わ たしは『国富論』を経済学史上の一著作として読むと直截にいえばこと事足りたの である。そのかぎりでスミスの思想の全体像やスミスの体系の再構成を目指す 研究よりも志において低いことを自覚している」(17頁)。おそらくこれは著 者の本音であると同時に、ここでの「自覚」が『「国富論」を読む』の読みに たいする覚悟と、さらには抑制の効いた自信を表現したものと思われる。 文明社会における所有と分配の不平等が、「それにもかかわらず/それゆえ」、 「普遍的富裕」universal opulenceを実現するという『国富論』のスミスの基 本的メッセージを検討し、「それゆえ」の論理的正当性を指摘した「序」は、分 業の発達と並んで資本の蓄積を挙げることで、後者の要因を視野に含まない 『国富論』以前の諸文献との論理の断絶の可能性、したがって「形成史論的アプ ローチ」の限界─否定ではない─の例証に成功している。読み方によってはテ キストを「読む前にすでに読まされている」(16頁)という事態を招くことも ありうるというのが著者の主張であり、それは『国富論』というテキストを独 り立ちした、あるいは完結する、古典として読もうという姿勢の現れである。 こうして、古典へのアプローチがそれへの読み方から開始された。 著者のもう一つの代表作『経済学体系の創成─ジェイムズ・ステュアート 研究』(1995年)の構成がスミスにわずかに先行する同時代人ステュアートの 『経済の原理』(1767年)全5編にほぼ沿ったものだったのに比して、『「国富 論」を読む』は穀物・民衆/利益・秩序/投機・組織/帝国・現代という八つ のキーワードを組み合わせた、そうして各章にほぼA5版縦書き100頁に及ぶ たっぷりしたスペースを割いた、四つの章からなり独自性が際立っている。 『国富論』を換骨奪胎するかのようなこの編制は、従来の研究書や解説書に なじんだ読者には、たしかに戸惑いを与えるかもしれない。しかし、新たな編 5) 引用文の後のカッコ内の数字は、『「国富論」を読む』の頁を示す。
制を採用することにより今まで見逃されがちだったスミスの章句が新鮮な重要 性を帯びて浮かび上がるという効果を生みだした。 少し詳しく見ていこう。「跋にかえて」で説明されているように、『「国富論」 を読む』の編制では、キーワードに選ばれた諸概念を座標軸にし、それらの必 然的な組み合わせによる四つの「視点」(387頁)が提示されている。この座標 軸の設定は、『国富論』の論理構成を尊重しながらもそれを超えて縦横に読み こなすための模索の結晶であって、そのことによってのみ、『国富論』の時間 的であると同時に空間的な立体像が立ち上がり、それをとおしてスミスの真意 が見えてくると著者は考えたのであろう。6) 本書の英文タイトル Across The Wealth of Nations: Vision and Reality.にあるacrossという前置詞はこの意
味で使われたのであって、本書第1章第4節「文明化とパターナリズム」など は、著者のこの方法的模索が結実した一例だったように思う。 これらの組み合わせの「必然性」にたいする疑念を表明し「恣意的」と断ず る書評も現れたが、7)著者の意図に添って考えるよりも研究史上の固定観念に とらわれた性急な評価のようにわたしには思える。再言すれば、四つの組合せ は互いに重複する部分を持ち、すべての和集合の中心に18世紀のこの古典の エッセンス─とくにその時間および空間の超越性と制約性の両面─を焙りだす ことにより、現代社会の直面する諸困難にたいする新たなアプローチの可能性 を探るだけでなく、そうして「揉みほぐ」(同上)された『国富論』をさらに未 来に向けて開いていくというのが著者の密かな狙いである。そのために必要な 再編制というのがこの試みの本質であった。拙論でわたしが考えたいと思って いる主要な関心は、上の座標軸を選択し組み合わせた竹本のヴィジョンといっ 6) 四つの座標軸からなる 4 章は、それらを構成する節とそれをさらに細分化した項目を眺めると きに、初めて著者による『国富論』の換骨奪胎の仕方への理解に至るというものである。この意 味でも、本書は、他にも増して、目次との対話を読者に求めている作品といえよう。例えば、そ こには「民衆にたいする家父長的な眼差し」(第 1 章)「〈1 ダースのディレンマ〉と人格として の肉体」「自然的自由のシステム─もっとも洗練された脅迫装置」(以上、第 2 章)「総合報酬の 均等化と投機的精神」「モラル・ハザードと逆選択」「〈代理人社会〉における個人と組織」(以 上、第 3 章)「カニバリズムと推測的歴史」(第 4 章)などといった本書の特徴の一端を窺わせ るようなユニークな項目を見いだすことができる。 7) 星野彰男の書評の冒頭部分。
てよい。 一つの読み方を示してみよう。第1章(穀物と民衆)と第4章(帝国と現 代)、第2章(利益と秩序)と第3章(投機と組織)を関連させて考えると、ス ミスが「商業的社会」commercial societyと呼んだブリテン文明社会を超えて 外へ拡大する眼と文明社会の内部に向かう眼が交差していることが分る。そう して、「商業的社会」の構成と維持の必要要件(第1章)、「商業的社会」にお ける商品生産者=交換者の経済的諸活動の特性(第2章)、「商業的社会」運営 上の不確実性(第3章)─これは著者自身の説明である─、最後に「商業的社 会」からそこへの(安全の代理人たる)常備軍の導入を媒介とする帝国への空 間的・歴史(=文明史)的拡大(第4章)というように、「商業的社会」をめ ぐる諸問題への多角的アプローチとして本書のマクロ的な論理構成を整理でき るかもしれない。 さらにもう一つ別の見方として、四つの章の「と」で結び合わされた各章題 を仮に解体し、「穀物」→「利益」→「投機」→「帝国」や「民衆」→「秩序」 →「組織」→「現代」というようにキーワードを繋げてみても面白い。最後の 「現代」はスミスが生きた時代を意味するから、著者の描く物語narrativeが 別の角度から、謂わば18世紀中葉を生きる人々の生活上の活動圏拡大とそれ に対応する社会的統治(秩序)の変貌のダイナミズムとして見えてくるような 気がする。 こうした解釈で本書の編制の意味や著者のヴィジョンが明らかになったと は思わないけれども、作品全体を蓋いながらあえて抜けているもっとも重要な キーワードがこのダイナミズムの動因である「歴史」、つまり『国富論』の歴 史意識であるということはできるだろう。とはいうものの、読者にとって本書 の難しさはこの編制ゆえに読みながらその先が読めないこと、著者の論旨の展 開の見通しがつけにくいことに起因する。『国富論』をすでに読んだことのあ る読者ほどその感が深い。本書はそれくらいオリジナルな創見に満ちている。 創見を可能にした竹本の思考は、人名索引を一瞥するだけで明らかなよう に、スミスを取り巻く思想史的環境へも行き渡り、多数の同時代文献の消化を
前提にしている。先に述べた完結した古典としての『国富論』へのアプローチ、 あるいは「形成史論的アプローチ」の限界の指摘が、このテキストを孤立させ て読むことを意味するのではなく、むしろその逆であることを理解する必要が ある。 ここでは『「国富論」を読む』から「秩序」をめぐって考察された一つの例を 取りだしてみよう。スミスの死の年に刊行された『道徳感情論』最終第6版で 増補された第1部第3編第3章における「[それまでは一致すると主張されて いた─引用者]徳への道と財産への道との乖離の危険性」(171頁)8)の認識が 自由競争を万能と見なさない新しい見地にスミスを導いた可能性を指摘しなが ら、竹本は、その一年まえに改訂された『国富論』最終第5版では自由競争市 場における道徳的腐敗という問題がとりあげられなかったこと、換言すれば、 競争と徳との関係についての認識の変更が見られなかったことに言及しつつ、 『道徳感情論』第6版からみた場合のスミスの自由競争観の不変性への「疑念」 にもとづいて二つの著書の距離を指摘している。 そこには、近代市民社会の代弁者であるスミスの思索の一貫性を前提にし て、または信じて、著作の中の彼の言説に一貫しているもののみを読み取ろう とする姿勢─あるいは読み取り方─への異議が込められていると思われる。9)
2 歴史家スミスの「リアルな認識」について
『「国富論」を読む』における歴史研究の方法とはどのようなものだろうか。 簡単にいえば、思想を歴史的事象に還元して事足りるとするのではなく、歴史 的事象の中から時代のエッセンスとしての思想や制度(秩序)を焙りだし、そ れをもって時代を語らせ、さらにその深層に至るというやり方である。著者 8) 上の引用文だけでは分りにくいであろう。人々の「境遇改善志向」が、「徳への道と富への道」 の両立を意味する二つの効果─資本のファンドを増加させるという経済的効果(=経済的徳)と 同時に社会秩序の安定化という政治的効果(=公民的徳)─をもつだけでなく、道徳感情を腐敗 させる効果をも併せもつという意味である(169-70 頁)。 9) 『「国富論」を読む』第 1 章の注(86)で civil society の「市民社会」という訳語に含意され た特殊な思想的負荷を指摘して、あえて「世俗の社会」と訳すという著者の見解にわたしは共感 する。は、本書全体にわたって、それらを『国富論』の歴史的・制度的検証をつうじ て明らかにしようと努めている。これは、広い意味で、すでに1で言及した歴 史主義の立場である。したがって、このアプローチでは、ヴィジョン・原則と 現実・制度との乖離への注目が重要なテーマとなる。 それとの関連で、わたしがとくに関心を惹かれた著者の説明は、大きくい うと、「普遍的富裕」をめぐる二つの論点、すなわち「普遍的富裕」への指向 との関連における経済的自由主義の性格と「普遍的富裕」の制度的保障をスミ スがどのように考えていたかであった。おそらくこれは、本書の中心的な問題 設定の一つだったと思われる。前節の最後でふれた、テキストには表れない彼 の自由競争観の一貫性への「疑念」も、この問題設定の一部をなす。それへの 直接的な取り組みは次節で見る「自然的自由のシステム」や「調和的な自然的 秩序」に関連する。そこで強調されるのは、「理論と現実とのギャップ」(212 頁)、もう少し内容的に表現すれば「原則の自由、実質の不自由あるいは不公 平」(218頁)である。著者はこれを「スミスの独自の論法」(同上)と見なし て第3章で詳論している。 さらに、「スミスの独自の論法」は、「スミスのリアルな認識」(310頁)と 結びついている。『「国富論」を読む』第4章「帝国と現代」の中で指摘された 「自然的自由のシステム」とスミスの(ここでは歴史意識というよりも)歴史 認識との強い結合は、上の両者の結びつきを示すものである。「自然的自由の システムの構想は、現実への不介入=無政策を意味するのではなく、むしろ経 済過程をとおして歴史に関与しようとするスミスの強い意志を暗に示すもので ある」(341頁)。ここにも、というよりここにおいてこそ、「スミスのリアル な認識」が貫かれているというのが著者のいいたいことであろう。 それが歴史書としての『国富論』を読者にもっとも強く意識させる第4章の 基調であったし、本書が「〈ポストモダン〉的読解」などと評されるような印 象を読者に与えるとするならば、その理由はこの徹底した「スミスのリアルな 認識」の摘出だったといってよい。そうして、これは、第4章においていわゆ る狩猟 牧畜 農業 商業の四段階論にもとづく地帯構造的世界認識と空間的時
代認識(=「・い・まの発見」326頁、圏点は原文のもの)との結合という興味深 い解釈を生みだすとともに、「現在の地球大の空間における諸事実の配置を歴 史的時間に投影して解釈する方法」(317頁)と定義された推測的歴史の方法 とも関連する人種論をめぐってのスミスの限界や「言説の帝国主義」(315頁) に傾く危険の指摘へと著者を導いたのである。 こうした意味で、歴史家「スミスのリアルな認識」は『国富論』にたいする 竹本自身の「リアルな認識」ないし「読み」に繋がる。換言すれば、「リアルな 認識」は著者の「読み」の方法ともなっている。次節で見る「自然的自由のシ ステム」という制度的保障のもとに展開される「代理人社会」と表現されたス ミスの「商業的社会」観およびそこでの人間関係観には彼の「リアルな認識」 が凝縮されているといえよう。
3 「自然的自由のシステム」と「代理人社会」のリアリズム
2005年に本書が刊行された直後に一読したわたしの印象をひと言で表せば、 著者の〈自由に熟考する強靭な偏見なき精神〉というものであった。それはい まも変わらない。〈精神〉は〈知性〉と言い換えてもよい。 『「国富論」を読む』には読者にも、先入観にとらわれない精神あるいはその 具体的姿としての「読み」へのフォロゥを求める面があり、本書を難解な作品 と見なさせるもう一つの要因となっている。読者には自らの『国富論』像、ひ いてはアダム・スミスにたいするイメージの〈上書き〉が求められる。それが 読者に圧力と受け取られるか、自然な納得のもとに受け入れられるかという間 での二者択一になることが、良くも悪くも本書の迫力となっている。 それを一番端的に表した例が、「もっとも洗練された脅迫装置」(177頁)と しての「自然的自由のシステム」system of natural libertyという竹本の真に オリジナルな解釈である(第2章第4節)。この解釈には、「調和的な自然的秩 序」という観念が対になると同時に、「ホッブズ命題」(→注10)と関連づけ られた「合法的な脅迫装置」(179頁)である国家の存在がもう一つの対をな しているように見える。後者の対の意味は、「自然的自由のシステム」を国家 とは別種の、しかしながらやはり「合法的な脅迫装置の一種」と位置づけるということである。それは〈もっともソフトな脅迫装置〉と言い替え可能だが、 著者がそう表現しなかったのは、このシステムが国民あるいは民衆との関係に おいて、ソフトである以上にシステムの稼働を気づかせないほど巧妙に作用す るからである。そうして、その作用を保障するのが「調和的な自然的秩序」な のである。 それでは、なぜ「脅迫装置」なのか。竹本はその答えをすでに本書の始めの 部分(第1章第1節)で簡潔に披瀝している。既存の「商業的システム」(= 重商主義)に対置される「自然的自由のシステム」は「普遍的富裕」への道を 「平らかに整える制度的条件」(20頁)であって、一方では自由競争システム を、他方では競争により惹起された人々の利己的行為を同じ競争によって社会 的妥当性の範囲内に閉じ込めるようとする規範的システムを、両輪としてい る。そうして、後者のシステムとの関連において規範が「いつもある種の脅迫 をともなう」という意味で、「自然的自由のシステム」は「もっとも洗練され」 てはいるものの紛れもない「脅迫装置」となるというのである。 それゆえ、「自然的自由のシステム」の「自然的自由とは、他者と自由に競 争する権利」であって、「システムとは、· · · 競争によってのみ自己利益の獲 得が可能になることを教え、競争に打ち勝つ条件をみずから整えることを市場 参入者に強制するいわば合法的な脅迫装置の一種なのである」(183頁)。競争 がいつでもそうであるように、条件の平等の機会は考慮されるものの結果の平 等は保障されない。著者によれば、これが『国富論』の「もっとも圧縮された かたちでのヴィジョンでもあり理論的骨格である」(同上)。したがって、この 解釈こそ大部な本書のエッセンスをなしている。 そうして、この認識を支えるもう一つの重要な社会認識が「代理人社会」と 表現されたスミスのリアリズムを象徴する「商業的社会」観である。それは 「自然的自由のシステム」が自由競争下における公正実現の制度であると同時 に、むしろそれゆえ、人々を自己の責任のもとで競争に駆り立てるという意味 での「合法的脅迫装置」であるという認識から必然的に導きだされた、競争の プレイ・グラウンドとしての「商業的社会」の人間関係を表現する独自の概念
である。著者によれば、そこでは「商人」と呼ばれる個々の商品所有者かつ交 換者は、交換行為をつうじて生存のための経済的困難の打破を相互に分担し合 う関係、つまり「[分業]にかかわる人々が相互に他者の代理人をつとめる関 係」(264頁)となる。 これは、代理人への依存─極端にいえば他人任せ─なしには「一般的豊富」 general plentyへの道を歩みだしえない市場経済社会に内在する不確実性(= 「代理人問題」)を認識したスミスの杞憂を指摘することでもある。10) そこで、 市場経済の成長をめぐって推進(=「投機的精神」)と抑制(=政府の調整)の 微妙な舵取りを制度的に保障する「もっとも洗練された脅迫装置」である「自 然的自由のシステム」が構想されたというわけである。市場経済の不確実性 は、さらに、それを包括する文明社会自体の不確実性でもあることが、この社 会の安全をめぐる考察(→安全の代理人としての常備軍の維持)でも繰り返さ れる。 「自然的自由のシステム」と「代理人社会」をめぐって研究史に新たな地平 を拓く著者の説明により、『国富論』は、そのリアリズムに根差して、自由の もたらした人間関係の過酷さを前提にした峻厳な古典と特徴づけられることに なった。そうして、このリアリズムによって、スミスの「代理人社会」はその 不確実性とともにおそらく『国富論』を超えて近現代の自由社会の宿命を表現 するものになるだろうとわたしには思える。問題はそこへどのように展開して いくかである。次節以降で、それを考えてみたい。
4 一貫性からはみ出たものの意味、あるいは「商業的社会」再考
『「国富論」を読む』が出版されてからすでに数年が経つ。書評などをとお して明らかになったこの間の読者の本書にたいする理解に、著者は得心しただ 10) この意味で、スミスの市場はリヴァイアサンの性格を帯びているといえよう。同様の市場認識に もとづき、水田洋は「自然的自由のシステム」にかんして以下のような結論を引き出した。「絶 対的不可侵の自己保存権すなわち生存権をもった自由平等な個人たちが、万人対万人の戦争状態 に陥らず、絶対主権に対して抵抗権を持つことができるか。スミスのこたえは自然的自由の体 系であった。」水田洋『アダム・スミス論集:国際的研究状況のなかで』ミネルヴァ書房、2009 年、49 頁。ろうか。むしろ『「国富論」を読む』は読まれることの少ない、あるいは読ま れても理解されることの比較的困難な、大著として敬遠されるようなことはな かっただろうか。11) わたしを含む多くの読者にとって、著者による『国富論』 の「読み」は、先入観を打ち破られたという意味でもラディカルに映るであろ う。そうであればあるほど、本書と読者との距離はなかなか縮まらない。そこ で最後に、本書によって打ち破られた既成のスミス像の側から、著者の提示し たスミス像をもう一度眺め直してみたい。 『国富論』の歴史的本質の解明のために竹本が設定した諸論点はユニークで あるけれども、ほぼ過不足なく論じられたのというのが著者の自負でなかった だろうか。本文388頁と30頁の注を使って、自らが設定したこの古典の本質 に触れる基本的検討事項と思われるもの─それは「跋にかえて」(387-8頁)で 『国富論』のタイトルに即して三つないし四つに整理され示されている─にた いして、著者はほぼ考察の眼を届かせたとわたしには思える。それが本書を一 個の完結した作品として際立たせている。 とはいえ、「代理人社会」と「自然的自由のシステム」の解釈を中心にした 本書の描く『国富論』の姿が鮮明であればあるほど、あるいはその説明が論理 的に一貫しかつ文献考証的に精密であればあるほど、そこからはみ出るスミス の社会認識や理論の諸局面をどう扱うかという困難な問題に読者が直面する可 能性もないではない。『国富論』研究の厖大な歴史を繙くまでもなく、スミス は多くの場合読者に解釈の幅を残すような歴史的・理論的説明を行ない、それ にもとづく社会的見通しを示しているからである。 11) 本書はわが国における 21 世紀以降のスミス研究の中で文字どおり他を圧する作品であるが、 2005 年の本書刊行後に世に出たスミスにかんする啓蒙書で本書への参照が見られないことに、 専門研究の成果と一般読者との間の無限の─ときには絶望的な─距離を感じざるをえない。こ の場合、読者と専門研究との間を繋ぐはずの啓蒙書として、堂目卓生『アダム・スミス』中央公 論社、2008 年、丸山徹『アダム・スミス「国富論」を読む』岩波書店、2011 年や木暮太一『い まこそアダム・スミスの話をしよう』マトマ出版、2011 年、などを思い浮かべている。 優れた啓蒙書を著すことはだれにでもできることではない。しかし、研究の蓄積を等閑視して、 それぞれの頭に浮かんだスミス像を描いているにすぎないというのが現状である。それはまた、 現代マスメディアの知的水準なのかもしれない。
私見との若干の相違を感じさせられる最初の論点は、本書の冒頭で論じら れ拙論の1でとりあげた所有や分配の不平等と「普遍的富裕」の実現の可能 性をめぐる竹本の独自な考察にかんしてである。そこでは、不平等と富裕を繋 ぐ接続詞の論理が「にもかかわらず」(逆接)でなくて「それゆえに」(順接) だったことが説得的に論証された。その結果、「貧富の格差が経済発展の原動 力」(21頁)であること、要するに「不平等の経済的意味(効果)を認めなが ら、それを露骨に主張しない」という「スミス流の慎重な論法」(10頁)の意 義が強調されることになった。彼の「論法」は「冷徹で合理的な判断」(13頁) にもとづくものである。 不平等と経済発展とのリンクにかんするスミスの論理に著者の指摘するよ うな特徴が見られるのはたしかだし、それを教えられた意義は大きいが、少し 違った見方もできるのではないかと思われる。具体的には、不平等を前提にし つつ、加えて「1ダースのディレンマ」(137頁)を抱えながらも、資本蓄積と 労働生産力の不可分な関係を動因として経済的なパイを際限なく大きくするこ と─それはスミス以降の経済学がほぼ共通に抱えた生産力主義という名の一種 の原罪でもある─により、分配の不公平感を薄める・非・脅・迫的で・ ・非・規・範・的な社会 的認識装置の存在にスミスが重きを置いていたようにわたしには思える。「意 図せざる帰結の論理」とも呼ばれる社会的認識装置は、不平等を経済発展の前 提であっても原因としてことさらあげる必要を感じさせない、やはり彼のリア リズムの所産ではなかったのか。だから、ここでの論理は彼の「露骨に主張し ない」「慎重な論法」というよりも、内実だったのではないだろうか。 その結果、所有や分配の不平等と経済発展との関係は、スミスに「それゆえ に」と断わらせるほどの重大感を与えないで済んでいる。交換的正義を扱った 価値論から自由競争下の価格形成を論じた価格論への移行のヴィジョンにもそ れが反映されているように見える。繰り返すと、「スミスの論法」は「それゆ えに」という接続詞をとくに強調する必要のない「意図せざる帰結の論理」の 発見と信頼の方に重点が置かれていたというのが、わたしの見方である。「自 然の欺瞞」deception of Natureとも呼ばれる「見えない手」の論理は、「調和 的な自然的秩序」をつうじて「自然的自由のシステム」と結びつく。
すでに2でとりあげたことだが、竹本はこのシステムをスミスの歴史認識 と結びつけて、「自然的自由のシステムの構想は、現実への不介入=無政策を 意味するのではなく、むしろ経済過程をとおして歴史に関与しようとするスミ スの強い意志を暗に示すものである」(既出)と説明した。もちろんそういう 面はある。それと同時に、おもに『国富論』第4編で展開された、資本投下順 序論と関連する、ヨーロッパ史とくにイングランド史の性格を規定した歴史 弁証法としての「見えない手」─G.W.F.へーゲルの「理性の詭計」List der Vernunftにも通じる─の役割(=逆転の部分的正常化)を「商業的システム」 との対抗の中でどう位置づけたらよいのだろう。 不平等と不即不離な資本蓄積にしても、そこには資本=賃労働関係の認識は 見られないので、不平等は質的・階級的なものというよりも量的差異に根差し ていることになるだろう。この点は後述する。 別の表現をしよう。『国富論』の著者にたいしてわたしが抱いてきたイメー ジは、問題意識において彼の楽観が手放しのものになりえなかったのは当然と しても、予定調和的な社会変動観と自愛心を調整する「同感」の原理にもとづ いた(歴史や制度に規定されるという意味ではある程度の、しかしそれでも時 代に抜きんでた)合理的人間観とを基底に据えた経済理論の革新者だったとい えるかもしれない。『「国富論」を読む』はこうしたスミス像の全体をラディカ ルに覆すものである。そうして、わたしの控え目な違和感もそこに生まれる。 というのは、『国富論』の人間像にかんして、本書は次のように断定するか らである。「スミスにおける民衆は啓蒙されるべき受動的存在であ[る]」(32 頁)。この言説こそ、わたしが本書に読みとった著者からの最大のメッセージ であった。たしかに、こうした視点からの民衆像と彼らにたいする「上層の者」 の「パターナリスティックな眼差し」(92頁)が描かれていないわけではない。 竹本はそれをこの古典からいくつもの章句を摘出して正当に論証している。し たがって、違和感は控え目にならざるをえない。とりわけ、スミスが抱いてい た「ある種の〈愚民〉観」(同上)にたいする著者の説明は説得的である。ス ミス型の近代的なパターナリズムは「資本主義的な市場社会の同伴者なので」
(93頁)あり、文明社会における分業の発達によってつくりあげられたという のがその主張である。その結果、民衆を啓蒙する(統治者を含む)社会的指導 者層と「啓蒙されるべき受動的存在」の民衆によって構成される文明社会像が 浮上する。 わたしは低い声で、「そう言い切ってしまってよいのかな?」と呟くほかな い。著者の意図を裏切って、啓蒙思想家あるいは社会設計家スミスが強調され すぎることにはならないだろうか。そうして、啓蒙主義は、F.A.ハイエクの 分類では百科全書派や重農主義者の主張がそうであるように、概して設計主義 的な合理主義に属する。竹本の解釈を突き詰めると、自生的秩序論の彼岸の霧 の彼方に設計的合理主義のきわめておぼろげな姿が浮かんでくるような気がし ないでもない。著者の解釈する「自然的自由のシステム」が設計主義の極北に なってしまうことはないだろうか。もちろんこれは極論だし、そうした二分法 的分類自体に疑問があるが、『国富論』の人間像をめぐる理論と実際との落差 の把握は思いのほか難しい。 といって、それは小商品生産者や独立生産者あるいは労働者・資本家・地 主といったスミス以後の古典派経済学の階級的分類の問題でもない。三階級の 経済的機能は、時と所によっては一人の経済人の中に重複して表れる場合があ る。そういう意味で、『国富論』において彼らはリジットな存在とはかならず しも見なしえないのである。12)同時に、「民衆」に替えて(ある種の先験的な メッセージの込められた)「市民」という言葉をここに持ちだすつもりもない。 だが『国富論』第1編第4章冒頭で、「だれもが交換することによって生活 し、換言すればある程度商人となる」と「商業的社会」を説明したときのスミ スの人間観は、竹本が描いたものよりも幾分前望的だったようにわたしには思 われる。そこに登場した商品交換者を意味する「商人」も、その大部分が竹本 12) 労働者・資本家・地主と呼ばれる彼らと各生産要素の所有との関係は『国富論』では固定的でな く流動的であり、ときには重複的となる可能性を含んでいる。資本と労働は生産要素として区別 されながらも、資本=賃労働関係がかならずしも明確に認識されていない。その結果、各経済主 体は一人で一つ以上の生産要素をもつだけでなく、どの生産要素を所有するかの決定も流動的な 面があると思えるので、経済機能的には対等な相互関係がいっそう高まる。
のいう「啓蒙されるべき受動的存在」たる「民衆」なのだろうか。むしろわた しは、利己心がつくりだす相互依存のネットワークに否応なく組み込まれなが ら、相互に「代理人」という意味で依存しつつも(服従という意味での)従属 関係にない─繰り返すと、「同感」原理がそれを媒介する─自由な生産者であ ると同時に消費者でもある(経済学的には・主・体・的・に行なわれる商品交換をつう じて実現するという意味での)独立のindependent生活者であるホモ・エコ ノミクスの姿を『国富論』の経済理論のもっとも基底を支える原像として思い 浮かべる。 そこでは「売りと買いの非対称性」(108頁)が問題にされる以前に、だれも が売り手であると同時に買い手にもなるという相互依存的な互換性にもとづく 交換実現性が基本的な市場ルール─フェア・プレイ─の遂行とともにまず捉え られていて、この理念が「代理人社会」の原風景のように思える。そうして、 『国富論』のミクロ経済学的な基礎理論である第1編の価値論や価格論、さら には要素報酬の分配をめぐる経済行動─そこでは分業の負の影響にたいする 認識は相対的にまだ希薄である─を担うのは、こうした「商人」から発展した (階級別でなく)機能別に分類された経済人と考えられるのである。 それに比して、著者が説明する『国富論』の人間像を主体とした自由競争市 場(→主体的均衡と市場均衡)の・経・済・理・論─とりわけ第1編第7章─を、理念 的にせよ、構想することは難しい。フェア・プレイが「選抜されてトラックの スタートラインに立ちえた競技者」(100頁)だけのものであって、はたして 市場メカニズムはトータルに機能するだろうか。そこから外れる人々との間に も市場での相互依存関係を維持するルールが支配しているとしなければ、この メカニズムは否定されるだろう。『「国富論」を読む』における社会および人間 にかんする竹本の現実認識のリアリズムが徹底していればいるほど、かえって 経済理論が遠のくという印象をぬぐい切れないのである。 これらの違和感を、著者は真っ向から否定をする。わたしが描いたような市
場における自主的行為もすべて「擬制」と見なされる(185頁)。13)なぜなら、 「商業的社会における商人的人間は、人間の他者依存=従属という本源的弱さ も、またそこから発生する人間関係の問題も克服しえないのである。」 そのと おりだろう。そうしてそれは、「人間を・徹・底・し・た・自・由・に・耐・え・ら・れ・な・い・存・在とみ なすことで、その社会形成の必要性と社会的被制約性とを肯定的に受けとめよ うとするのが、スミスの基本的立場である」(以上、112頁、圏点は原文のも の)からだというのが著者の変わらぬ主張である。思想史的に見てこれは卓見 である。この見解はさらに、前節で検討した「自然的自由のシステム」の性格 づけと最終的に結びつく。 わたしの疑問を繰り返すと、たとえスミスがリヴァイアサンと化す危険性 をもつ市場の自律性への全面的な信頼の手前でその「リアルな認識」によって 踏みとどまったにしても、・そ・れ・を・可・能と・・す・る・た・め・に・は、市場の理論的把握の中 で私見のような人間の抽象化とモデル化(→経済人の抽出)をつうじて市場経 済を純粋に記述し分析する新しい学問─それはまだ存在していなかった─の成 立を・ま・ず・も・っ・て目指す必要があったのではないか、「商業的社会」というモデ ルはそのために置かれたのではないか、という考えに集約できる。この点で、 「いったん分業が完全に確立された」後に登場する「商業的社会」は、社会的 分業の必然的結果である「代理人社会」であってよいだけでなく、そうでなけ ればならないだろう。だから、「代理人問題」(→市場の不確実性)は、生産力 主義と並んで、創設時の経済学に刻印されたもう一つの原罪となるのである。 そうして、「商業的社会」での「・相・対・的・に自由で平等な商人的人間」、つまり わたしのいう経済人は理論化のための「仮構」(以上、113頁、圏点は原文のも の)であり、市場メカニズムが「擬制」であっても、結果としてそれらと現実と の落差が明らかになることに意味がある。「理論と現実とのギャップ」(既出) は、著者の指摘どおり、スミスが十分に認識したところであるが、ヴィジョン と理論の間にもギャップが存在する。これらのギャップにより理論は存在感を 13) 例えば、自由競争市場を成立させる賃金弾力的な労働の可動性が理論化の前提条件となるが、現 実の市場では、本書第 3 章第 1 節(2)「労働市場の硬直性と賃金の不平等」で説明されたよう に、さまざまな阻害要因が「理論と現実とのギャップ」(既出)をつくりだしている。
増し、その理論にもとづいて政策の意義が語られるようになるといえよう。 さらに、「他者依存=従属という本源的弱さ」を克服しえない「商業的社会」 =「代理人社会」にかんして、依存dependenceや従属subordinationが自由 と権力の結合を媒介にして表裏一体の関係にあることに間違いはないにせよ、 それゆえに支配=服従関係の一種と見なす(「同感」原理をもたない)J.ステュ アートの考え方に著者はスミスを引きつけすぎているという気がしないでもな い。14) したがって、政府の市場調整機能を一面にもつ制度としての「自然的自由の システム」をスミスが「脅迫装置」と見なしていたかという論点については、 このシステムにおける競争が市場の自然なルールに則って展開されるという 理論的前提があるかぎり、どちらかというとわたしの秤皿は否定の方に傾く。 『国富論』において無制約なレセ・フェール主義が唱えられているわけではな いのだから、「自然的自由のシステム」の自由市場とその運行を調整する政府 とを「商業的社会における自然の秩序」(184頁)の両翼と位置づけることはお そらく可能であろう。だが、前者もまた「洗練された脅迫装置」なのだろうか。 竹本の解説を虚心に聞いたうえでもなお、「そうは言い切れないのではない か」とやはりわたしはいいたい。スミスがこのシステムを「合法的な脅迫装置 の一形態であるという明言を避け」(同上)、国家だけを「脅迫装置」と明示し た理由─おそらく重商主義批判と関連するであろう─が著者の説明でも十分明 らかでないし、「商業的社会」の「商人的人間」に「勤勉、公正、効率を否応な く身につけ」(173頁)させて経済的豊富を現実のものとする自由競争も、その 動機となる彼らの「境遇改善志向」(155頁)も、自愛心にもとづく人間本性 に由来し、「同感」の作用をつうじて社会的是認を得られる行為であるとスミ スに考えられていたと思うからである。それらを「脅迫」とは見なせないし、 14) もちろん、著者が「代理人社会」での「分業=代理関係」の負の面だけ見ているわけではないこ とも断っておかなければならない。このことは、そこでの相互依存のネットワークの広範さが逆 に個々人の代理の割合を最小にすることで「相互に自由をうみだす」(264 頁)という説明など に表れている。
ましてや「強迫」(184頁)ではないだろう。「・自・然・的自由」とは本来そういう ものであると考えられる。 結局、違和感の源は、スミスの民衆観にたいする著者の解釈に求められる。 解釈の一貫性からはみ出る部分にも目を凝らすことで、峻厳さが多少和らぐ場 所─そこはもう少し経済理論寄りの場所でもある─にスミスとその作品を置き たいという気持がわたしにないわけではない。だから、本書のサブ・タイトル 「ヴィジョンと現実」の間には「理論」が置かれてもよいのではないかという のが、本節を締めくくる言葉となるだろう。ヴィジョンはそのまま理論にはな りえないので、結局わたしは両者間のギャップを繰り返し述べたことになる。 それを認識することはこれら理念と現実との落差をいっそう際立たせる。
むすびにかえて
拙論1の末尾で言及したスミスの思索の一貫性への疑義と『国富論』にお ける彼の説明の論理的な完結性にたいする疑問とは、すべてが同じ次元の問題 ではない。前者は竹本自身が指摘したことであり、わたしが前節でとりあげた のは後者、この古典にたいする著者の「読み」を特徴づける「リアルな認識」 にもとづいた解釈の一貫性についての不安であった。 それにもかかわらず、著者が『「国富論」を読む』に刷りこんだスミスの新 たな人間理解は、歴史的社会を対象にしながら、むしろそれをつうじて人類の 明日を見つめているという意味でも革新的である。すでに2において指摘し た『国富論』研究を現代に生かし未来に向けて開いていくという著者の意図は、 先に示した引用文の中にも表れている。竹本が『国富論』の中に見いだした民 衆観の延長上に置かれた次の文章をもう一度繰り返す。「人間を・徹・底・し・た・自・由 ・ に・耐・え・られ・・な・い・存・在とみなすことで、その社会形成の必要性と社会的被制約性 とを肯定的に受けとめようとするのが、スミスの基本的立場である」(既出)。 『道徳感情論』にまで遡って著者がスミスの人間把握を探るとき、『国富論』 の「商業的社会」における人間の自由・独立・平等をめぐる考察は、そのはる か先に展開される21世紀の現代社会の中で「代理人問題」を引きずる人間関 係の脆弱さをも合わせて衝くことになるだろう。今世紀においても自由・独立・平等という理念の価値がまだ失われていないからである。ある意味では、 われわれも依然として「愚民」であり、「1ダースのディレンマ」の問題を未 解決のまま抱えている。スミスを、あるいは『国富論』を、現代に生かすとい うことの少なくともその一端は、こういうことを指している。 著者は自らに課したこの課題を『国富論』を歴史書として読むことで生じる 解釈上の諸困難を一つ一つ確認し解明することをとおして果たそうとしたとい える。『「国富論」を読む』全体の中でもっとも印象深い言説の一つも、この文 脈の中で語られたものであった。「『国富論』の著者の〈意図を裏切り、乗り越 え、またはそこから溢れ出た何か〉を発見することが本書の基本的モチーフで あり読み方でもある」(17-8頁)。上述したわたしの違和感や不安も、この言説 の中で処理されうる論点にとどまるので、「本書の基本的モチーフ」を超えて いない、著者はそう答えることができるのかもしれない。 そうして、こう述べたときの竹本は、小林秀雄の以下の言葉近くに立って いたのではないだろうか。「若し古典という具体的な形に、現在確かにめぐり 合っているという驚きや喜びがなければ、歴史とは、決して在りもしないのに、 目方は増えて行く不可解な品物であろう。」15)歴史家竹本洋がなし遂げようと したことは、古典の「不可解」な部分をできるだけなくして具体化すること、 つまりスミスの思想体系という名のもとに肥満していった目方の贅肉を削ぎ落 とす一方、「溢れ出た何か」を発見してこの古典の時代に立った等身大のスミ スの姿をとり戻す作業だったと思われる。 本書で立ち上げられたスミス像は独自で鮮明であり、彼は18世紀思想史の 中に適切に位置づけられながら屹立している。それに比して『「国富論」を読 む』は『国富論』研究史の中で孤高の秀峰となっている。 ところで、小林秀雄は同じ文脈の中でさらに次のように述べることも忘れ ていない。「そして古典とは、この言葉の歴史からみても、反歴史的概念であ 15) 小林秀雄「蘇我馬子の墓」(1950 年)『モーツァルト・無常という事』新潮文庫、1961 年、148 頁。
る。」16) これが『「国富論」を読む』の最後のパラドクスであるといえよう。17)
16) 同上。
17) 注 2 の私見とも関連するが、古典が非時代的というよりも反時代的概念であることは比較的理
解しやすい。さらに、それが「反歴史的概念」であるというパラドクスも、おそらく竹本の視野 に入っており、編制を含む本書の各所に反映されていると、わたしは密かに思っている。