イギリス民主政治における.保守と.革新チ
イギリス民主政治における 保守 と 革新
はしがき 一︑ 歴吏的叡知としてのイギリス民主主義
二︑二大政党の公共の哲学の信奉
三︑ 新保守主義への保守党の脱皮
四︑独善に走らぬ労働党の改革主義
五︑ 開かれた支配階層
六︑ 寛容と改革配は楯の両面
七︑難問題を乗り切る国民の政治的叡知むすび 1日本の現状との関連において一
は し が き
大
谷
恵
教
第二次世界大戦後間もなく一世代を迎えようとしている︒その間︑わが国の民主政治はどれほど軌道にのったであ
ろうか︒ふりかえってみるとき︑まことに寒心にたえないものがある︒なにか根本的なものが欠けているのではなか
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ろうか︒ その原因については︑諸家によって種々様々にいわれてきているが︑筆者は筆者なりに考え︑もう一度イギリス民
主政治の根幹をみつめ︑そこからなにものかを学びとって︑わが国の民主政治に多少なりとも資すところがあればと
いう思いで︑表記の題目のもとに本稿を草する次第である︒
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一、@歴史的叡知としてのイギリス民主主義
イギリスの民主主義と民主政治は︑血みどろの力とカとの凄惨な闘争の歴史のなかから生まれた人間の叡智の歴史
的所産であるというところに︑最大の特徴がある︒プライス卿の﹁銃弾の代りに投票用紙で﹂という有名な言葉が示
す通りである︒
そうした苦い経験のなかから生まれた民主政治は決して硬直的なものではなくて︑ダイナミックなものである︒そ
れは根本的原理は維持しながら︑しかも歴史の変化に対応して改革的前進的に発展していくものであり︑その理論
は︑名誉革命の理論的集大成者といわれるジョン・ロックによって︑多数決原理︑同意による政治︑信託理論︑政府
の平和的更迭︑二権分立論︑国王・議会および国民のそれぞれが三者の間に調和のとれた主権をもつという重厚な三
重主権構造論︑政教分離︑寛容︑討論による政治︑知性や理性や節度の必要等々の内容が与えられた︒
以上のような民主政治は︑やがて必然的に議会政治に発展していった︒発展という以上は︑幼稚で欠陥が多々あっ
たものから今日的なものへの成長・発展を当然意味するが︑イギリスの議会政治は他国のそれに比して︑全般的に比
較的健全に運営されてきている︒
その原因・理由については︑多くの学者や研究者たちによって種々いわれてきているが︑故ラスキ教授は﹃危機に
立つ民主主義﹄のなかで︑日イギリスの政党が国家・国民の基本的利益について土ハ通の原理や信念を堅持しているこ
と︑ロイギリスの支配階層は決して独占的閉鎖的でなく︑開放的で︑台頭する新興階層でも資質あるものはこれをよ
ろこんで迎えいれて︑融合する態度をもってきたこと︑日イギリスは比較的長期にわたって繁栄と安定を享受してき
たため︑寛容の徳が国民の社会生活のなかに根強く確立されていることなどにあると指摘したが︑まことに的を
射たものと思われるので︑一応このラスキの言葉を手懸かりとして以下本稿を展開してみたい︒
二︑二大政党の公土ハの哲学の信奉
イギリス民主政治における 保守 と 革新
民主国家や民主社会が成立するためには︑党派や階級やその他の集団や個人などの意見の相違が存在するにもかか
わらず︑それらをこえて全構成員が承認し服従する﹁共通の原理﹂が存在しなければならない︒この﹁共通の原理﹂
は︑W・リップマンの言をかりていえば︑公共の哲学とか公共の原理︵陰窪︒喜ま8唱ξ︶とかいうべきもの
で︑これがなければ各集団や各個人は勝手気儘に私利を目指して行動し︑遂には力と力との対決の世界である﹁狼の
社会﹂となり︑T・ホッブズの﹁万人の万人に対する戦争状態﹂という悲惨な状態に陥らざるをえないからである︒
政党政治についても︑同じことがいえる︒すなわち︑政党間にどのような相違があり︑またどのような争いがあろ
うとも︑ともに服従すべき﹁共通の原理﹂や﹁公共の哲学﹂が存在しない場合には﹁カずくの政治﹂になって︑議会
政治の円滑な運営はもとより議会政治そのものが行われ難くなる︒
イギリスの民主政治では周知のように二大政党制が確立されており︑ひとつは保守党で︑どちらかといえば資本主
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義的︑もうひとつは労働党で社会主義的といわれながら︑この二つの政党の問には広い共通の原理と土俵が存在して
いて︑いわゆる資本主義政党でもなければ︑またマルクス主義的な社会主義政党でもない︒両党とも公共の哲学
を信奉して︑中間層の去就いかんによって政権の行方が決定されてきた︒
有名な保守党領袖バルフォア卿は︑かつて﹁議会政治が成功するためには︑政権を争う政党と政党とが︑基本的な
ものについて一致しているがゆえに︑細目の点でどのように争っても心配はないのだという前提が存在しなければな
らないが︑幸いにもイギリスにはそれがある﹂といい︑ロンドン大学のマッケンジー教授も︑その著書﹃イギリスの
政党﹄のなかで︑この言を引用して︑﹁﹃基本についての一致﹄ということは︑今日でも︑イギリス近代の政治史にみ
られたところと同じである﹂と︑述べている︒
イギリスの政党はいかに争っても︑広くいえば﹁公共の哲学﹂︑狭くいってもナショナル・インタレスト︵国家・
国民の利益︶についてほぼ共通の考えをもってi議会政治の基本について共通の信念をもっていることは
いうまでもない−II︑そのためにはいつでも協力する用意があり︑そして常にそれを実際に示してきた︒これが︑イ
ギリスの伝統である議会政治を成功させてきている根本的な主要原因のひとつなのである︒
また︑そうした﹁基本的なものについての一致﹂のためには︑各政党が政策本位の思考と行動をなし︑よき指
導者をもつことが是非とも必要である︒プライス卿は︑その名著﹃近代民主政治﹄において︑﹁政党が政策本位に考
えかつ行動すれば︑おのずから国家的利益に奉仕するようになる︒そして反対党を激しい敵対感情にまで追いやるこ
とのない指導者をもてば︑政党はともに国家的利益のために協力することになる﹂と論じ︑A・D・リンゼイも﹃わ
れ民主主義を信ず﹄のなかで︑民主政治にとってよき指導者とその立派なリーダーシップの発揮が不可欠であること
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イギリス民主政治における 保守 と 革新
を強調し︑そのために一章をわざわざ設けているほどである︒これは一見平凡のように思われるかも知れないが︑
わめて重大な根幹的真理であり︑イギリスの両党はそのようにして議会政治を成功せしめてきたといえる︒
三︑ 新保守主義への保守党の脱皮 き
政党は公共の哲学を体しつつ︑しかも哲学︑組織︑政策︑その他全般にわたって時代に適応対処し続けていか
なければ︑政権獲得はおろかその生命そのものを失うことになる︒その点で︑イギリスの保守党はよくその要請に応
え続けているといえる︒
十九世紀の末に︑保守党領袖ジスレリーは保守党の在り方を示して︑﹁青年に魅力なき政党は亡ぶ﹂といった︒だ
が︑かれは単に青年だけではなく︑いちはやく勤労者の重要性を看破し︑一八六七年の参政権拡大のときに普通選挙
にともなう趨勢をみてとって︑保守党が﹁勤労階級との自然な同盟﹂をつくるべきことを力説した︒すなわち︑ジス
レリーは保守党員たちに向って︑労働者にも青年にも支持されるような保守党へ脱皮するように訴えたのである︒
事実︑イギリスの保守党はそのように努力した︒イギリス保守主義の政治哲学は︑今日では古典的名著といわれる
ヒュー・セシル卿の﹃保守主義﹄のなかで︑保守主義は革命主義や破壊主義には断乎反対するが︑しかし進歩を否定
する反動主義を排撃し︑むしろ進歩を秩序のなかで推進させようとする進歩主義であると説かれたが︑その意味する
ところは︑保守主義はあくまで民主主義の前提の上に立って︑個人の自由を尊重し︑社会主義に含まれるジャコバン
的過激主義に反対するが︑しかし社会的貧困と罪悪を平和的に克服する社会改良主義は︑これを積極的に支持すると
いう考えである︒
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保守党の懸命な努力をみていると︑セシル卿の言葉が決して夢想のものでないことを痛感するのである︒とくに忘
れることのできないのは︑第二次世界大戦終了直前の一九四五年七月置総選挙で︑保守党が実に百八十議席もの大差
をつけられて労働党に大敗を喫して以来︑全力を注いでなされた新保守主義への脱皮の努力である︒
すなわち︑イギリス保守党は︑かつて私有財産権や自由企業を尊重する立場をとってきたし︑現在でも根本的には
その立場を保持している︒だが︑時代の進展や要請に逆行したり反対したりしてまで︑それを固執しようとは決して
しない︒政策的には︑ほとんど労働党のお株を奪うほどの進歩的な政策を打ち出し︑労働党政権によって実施された
基幹産業の国有化などには多少修正を加えたが︑基本的には手を触れず︑社会保障制度はできるだけこれを拡充しよ
うとつとめ︑平和の確保を外交政策の基本として掲げ︑福祉国家の建設に積極的態度をとった︒
たとえば︑一九五五年五月の総選挙でイーデンが強調したように︑保守党は﹁旧い富の残津を争う﹂ことには消極
的だが︑﹁新しい富を創造して広く国民に分つ﹂ことには積極的であり︑その選挙でバトラー蔵相を通うじて保守党
が打ち出した進歩的政策は︑労働党の前蔵相ゲイツケルのものとほとんど変らず︑労働党をして﹁保守党は政策の盗
人﹂といわしめ︑今後なにをなすべきかについて苦悶せしめたほどである︒政策にはとくにライセンスやパテントが
あるわけではなく︑労働党の言葉は単なる泣き言にすぎないが︑それほどにイギリス保守党は︑現代は十九世紀的な
旧い自由経済方式でどこまでもやっていける時代ではないということを︑深くかつ充分に認識しているのである︒
政策にもまして注目すべき事柄は︑前述の大敗後の保守党の党組織近代化への真剣な取り組みである︒全国的に党
組織を確立し︑二百数十万人もの党員を有し︑それぞれの地方に組織本部があり︑地方組織は自発的協力者の組織
で︑中央組織は職業的な役員の組織であるが︑中央の役員は地方の名誉役員をも兼ねて連絡を緊密にしている︒
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イギリス民主政治における 保守 と 革新
しかし︑地方保守党はおのおの完全に独立していて︑候補者は地方組織がこれを自由に決定することになっている
が︑中央本部の意見も聞くことがあり︑その関係は﹁中央が影響をおよぼすが︑権威はもたない﹂という関係であ
る︒党の代理人は︑中央で厳格な訓練を受け︑三段階の厳しい試験をパスしてはじめて代理人の資格を与えられたも
ののなかから︑地方組織が自由に決定・採用する︒代理人は二十五歳から四十歳までの青壮年で︑各選挙区にひとり
つついて︑選挙になると通常党組織の代理人が候補者の代理機関となる仕組になっている︒
さらに︑M・デュヴェルジェが民主的大衆政党の不可欠の要件のひとつだと指摘している党財政の合理化・公財政
化をもはかり︑一九四七年の党大会で全国組織の議長ウールトン卿が﹁われわれは金持からのみ候補者を選ぶわけに
はいかない﹂と主張して︑翌一九四八年にその問題についてのマックスウェル・ファイブ委員会の勧告を採択して︑
党財政を公財政化したことは︑保守党の健全さと近代化を明白に示している︒
以上のようにして︑イギリス保守党は新保守主義の哲学をもち︑近代的で厳格な組織の上に時代に適応した進歩的
な政.策を掲げて︑青年や労働者にも常に魅力ある政党であるように努力してきていることは︑まことに賞讃に値す
る︒一九五五年の前述の総選挙で保守党が快勝したとき︑アトリー労働党首が﹁イギリスの青年は社会主義運動の輝
かしい歴史を忘れている﹂といって不満を訴えたのに反して︑イーデン保守党首はそれとは正反対に﹁保守党の勝利
はイギリス青年の情熱に負う﹂といって︑青年に讃辞をおくったことは︑このことを如実に物語っている︒
この﹁保守党の立派さ﹂が︑一方において︑イギリスの政治があくまで議会制民主主義の上に立って︑革命ではな
くて︑改革・改良によって改善していくことを強力に助長しているのである︒
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四︑独善に走らぬ労働党の改革主義
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他方︑労働党の方はどうであろうか︒
労働党の起源は労働者の階級意識から出たことは確かに疑うべくもないが︑その発展とともにいわゆる労働者以外
の中産階層をも加え︑とくに政権を担う二大政党のひとつとなってからは広汎な中産階層を包含しているので︑いわ
ゆる階級政党ではなくて︑国民政党である︒また︑国民政党化しなければ︑議会制民主主義において有権者の過
半数の支持をえて政権を獲得することは︑事実上不可能である︒
このことは︑労働党選出の代議士の出身階層にも端的にあらわれている︒草創期から第二次世界大戦までは︑どう
しても労働組合が労働党の主要な推進勢力とならなければならなかったので︑労働者議員が全議員の七ニパーセント
もの高率を占めたが︑第二次世界大戦後は中産階層化現象が顕著になっている︒一九︼八年以降から︼九五一年まで
の労働党議員の職業・階層構成比率の推移をみてみれば︑次の通りである︒
年
次 労働者 資本家 経営者
専 門 家 主婦 一九一八〜 三五年 七二・○%四・○% 二四・○% そ の 他
一九四五年 四一・○%九・五% 四八・○%・○%
一九五〇年 四三・○%九・五% 四六・五%・○%
一九五一年 四五・○%九・○% 四五・五%○・五%
イギリス民主政治における 保守 と 革新
その後も大体同様な議員構成を労働党は持続していて︑労働者出身議員の比率は半分以下になって中産階層化し︑
議員中の最大職業グループは炭坑夫から教員に推移してしまったのである︒
このように階級政党ではなく︑中産階層化し︑国民政党化した労働党のいわゆる社会主義的格性は︑イデオロギー
的︑なかんずくマルクス主義的なものではない︒なるほど初期にサンディカリズムやマルクス主義などが流行したと
き︑それらに傾斜するものがいたことはいたが︑フェビアン社会主義や独立労働党の社会主義者たちははやくから革
命の神話から脱し︑ 自由と民主主義に立脚する議会制民主主義を堅持して︑それらの問題に関して知識階級
の間に不必要なイデオロギー論争の種を蒔くことが比較的少く︑そのためイデオロギー政党に堕することがなかった︒
むしろ労働党の社会主義は︑次のように︑当初から終始宗教的︑倫理的︑人道的動機から出てきている社会主義で
あった︒すなわち︑一九〇六年に労働党が俄かに勢力を増したとき︑雑誌﹃評論の評論﹄が同党員全員に書面を送っ
て︑なにがかれらの社会思想に影響をおよぼしたかについて回答を求めた際︑当時集まった四十余名の回答のなか
で︑かれらを労働運動に投ぜさせたのにもつとも影響があったものとして︑最高点をえたのは聖書であり︑ディッケ
ンズの小説がこれに次ぎ︑第三位はカーライル︑ミル︑ラスキンなどの道徳哲学・社会哲学的なもので︑社会主義書
としてはヘンリー・ジョージを挙げたものにいたっては実に蓼々たるものであった︒また︑フェビアン協会創立者の
ひとりであり︑イギリス労働運動の知的指導者であったシドニー・ウェッブは︑イギリス社会主義の起源に関して︑
その創設者はカール・マルクスではなくてロバート・オーウェンであり︑オーウェンは﹁階級闘争﹂ではなくて﹁四
海同胞﹂の旧いキリスト教の教えを説いた︑と主張した︒さらに︑イギリス労働運動の指導者たちは︑ケア・バーデ
ィをはじめとしてその多くは非国教派の信者たちであって︑キリスト教の﹁四海同胞﹂の教えは当然社会主義に導く
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ものと確信して︑労働運動に身を投じたのであった︒ 10 そのような社会主義の観点から︑資本主義や帝国主義の害悪を弾劾匡正し︑自由と民主主義を堅持しつつ︑同胞
愛と協同を基礎とした平和的な福祉社会を議会制民主主義によって建設するという﹁民主社会主義﹂の理想と
理論を主張し続け︑かつその路線を実際に歩み続けてきていることが︑労働党に優秀な知識階級の頭脳とエネルギー
を結集して︑それらを動員しうることに成功した原因である︒
さらに︑ともすると観念的抽象的な理論にはしって︑運動を分裂せしめがちな社会主義団体を抑制して︑現実的な
線で党を大同団結せしめてきた労働組合の存在とその協力がいかに大きかったかは︑労働組合運動の全面的協力をえ
られなかったフランス社会党や︑マルクス主義から最後まで脱しえなかった戦前のドイツ社会民主党に比較すると
き︑ 一目瞭然であろう︒
そうした事情は︑労働党の政策面にも反映されている︒社会主義者にはとかく善意のひとが多く︑赤裸々な生身の
人間は二律背反的な二元的性情の持主であるということや︑現実に存在する国家を土台にして改革を進めるべきこと
を忘れて︑私企業を廃止して国有化しさえずれば︑経済問題はおのずから解決されるかのように錯覚しがちであり︑
軍備を撤廃しさえずれば世界平和が自動的に招来されるかのように思いがちである︒いわば︑一方においては現実を
ふまえ︑他方においては理想をみつめて︑地についたしかも実現可能で建設的な政策をひとつづつ無限に積み重ね
て︑両者の問に根気よく時間をかけて架橋していくという政策学的アプロ;チを無視ないし軽視して︑混乱と破壊を
生ぜしめる傾向に陥りやすい︒
したがって︑人事性のなかに強く存在する利己心をうまく活用しながら︑生産を拡大して生産性を向上させると同
イギリス民主政治における 保守 と 革新
時に︑不平等を可及的速かに軽減していくという経済政策や︑国際的現実に立脚した理論的分析の上に平和維持をは
かる方位方策の研究が︑どうしても等閑視されがちである︒
イギリス労働党もその例外にもれず︑最初のうちは資本主義から社会主義への必然的移行論の立揚に立って︑その
移行プロセスにおいてどのような立法措置を講じたら︑もっともダメージを受けなくて済むかという旦ハ体的な改革プ
ログラムをもっていなかったし︑また複雑な人間性や︑そのような人間の生活共同体である現実国家がもつ支配欲や
膨張欲に起因する戦争の危険性に対する実際的な対応策に欠けるところが多かった︒その結果︑両大戦問にマクドナ
ルドやランズベリが大失敗をしたり︑一九三〇年代には労働党の党勢そのものが大きく落ちこんだりした︒
だが︑議会制民主主義の立揚に立ち︑世論の支持をえて︑保守党に対抗して政権を獲得するためには︑この欠陥に
当然気づかざるをえず︑労働党は間もなくこの欠陥に気づいた︒社会主義団体の助け一とくにフェビアン協会のメ
ンバーの貢献︵昭和四十六年の夏︑フェビアン協会本部を訪れた際︑スタッフに労働党に対する影響は単に思想的︑
理論的なものにとどまるのかと尋ねたところ︑それ以上のものだということであった︒事実︑協会の定期的なミーテ
ィングには常に労働党議員が出席し︑政策に関する発語や講演や質疑応答を通して︑協会メンバーの発言に深く耳を
傾けている︶1を大いにかりて︑アトリー内閣の﹁ゆり籠から身命まで﹂のキャッチ・フレーズにもとずく社会保
障政策一第二次世界大戦中に発表されたビヴァリッジ委員会の﹃社会保険ならびに関連サーヴィスについての報告
書﹄を具体化したもの一をはじめ︑新しい政策を種々用意した︒
それらの政策のひとつひとつについて論ずることは止めるが︑それらの大きな特徴に関して二︑三の例を挙げてい
えば︑まず経済政策では︑その経済計画はソ連の五力車計画のような強権的計画ではなくて︑あくまで﹁誘導による
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計画﹈ないし﹁計画下の自由競争﹂にとどまって︑﹁社会主義的計画化﹂という語 したがって﹁社会主義﹂とい
う語そのものも はほとんど出てこなくなっている︒産業国有化も﹁すべてか無か﹂式のものではなくて︑かつて
ゲイツケルが主張したように︑それは平等や計画化をもたらすためのひとつの手段とみなされて︑党憲章第四条の︑
先験的国有化論を唯一の目的とするかのような印象を与える条項を︑神聖不可侵のものと考えないようになってきて
おり︑一︑二の特定産業を除いては産業国有化を主張せず︑混合経済方式をとってきている︒
国防・外交問題に関しては︑一九三〇年代の対ナチ政策の失敗の反省と挙国一致内閣への参加を通じての教訓か
ら︑実質的には大体において超党派外交政策をとり︑一九五六年二月の第二十回ソ連共産党大会におけるフルシチョ
フのスターリン批判と︑同年十月のハンガリー動乱を契機として︑党内左派の人びとまでソ連の帝国主義に対する集
団防衛の必要を認識するようになり︑NATOへの協力を惜しまず︑ただ国防費の上限をできるだけ抑えるようにし
ている︒ また︑EC問題に関しては︑加入反対を表面上は唱えているが︑議会での表決の際には自由投票にし︑賛成投票を
したものが約訳名ぐらいいたことにもあらわれているように︑あくまでも絶対反対というものではない︒これについ
て︑一昨年の七月に労働党本部を訪れ︑事務総長のニコラス氏に会っていろいろな角度から突っこんで質ねたとき︑
同氏は最初は型通りイギリスとしては加入することになろうが︑労働党としては反対だといっていたが︑なおも深く
種々尋ねたら︑最後にはニヤリと笑いながら﹁実は西ドイツの社会民主党から︑加入して︑ECのなかで︑その資本
主義的な性格を社会主義的な性格に変えていくことに協力するように要請されている﹂と︑非常に含みのある言葉を
語っていた︒その直後︑西ドイツのボンにエーベルト研究所を訪れたとき︑スタッフにその話をしたら︑﹁わが国の
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社会民主党だったら︑恐らくそういうだろう︒その話は本当に違いない﹂という返事が返ってきた︒
イギリス民主政治における 保守 と 革新
以上のような結果︑保守党と労働党との間には政策に関しても基本的な一致があって︑細目において異なるのみだ
といってよいほどである︒計画化やすでに実施された国有化については︑一︑二のものを除いて保守党はそれらを全
面的に否定しているわけではない︒物価・所得政策は基本的なものに関しては一致しており︑社会保障問題では初診
料徴収問題で相違がある程度であり︑住宅政策では労働党が家賃統制と低利融資による持家制度の促進を主張してい
る点が異なるぐらいであり︑教育制度では労働党が私立のパブリック・スクールの国家教育制度への統合化と離学年
齢の十六歳への引き上げを主張しているのが︑違うぐらいである︒
すなわち︑保守党と労働党との問にある差異は質的差異ではなくて︑量的差異のみなのである︒それゆえ︑イ
ギリスでは︑ジョン・クラーク・アダムスがかつて指摘したことがあるように︑保守党の体質は五五パーセントが保
守的で︑四五パーセントが進歩的であり︑それに対して労働党の方はそのまったく逆で︑五五パーセントが進歩的︑
残りの四五パーセントが保守的であるといえる︒つまり︑両党は九〇パーセントの分野において基本的なものを含め
て一致していて︑残りの一〇パーセントの領域でほとんど細目ともいうべき点で争っているといえよう︒
五︑ 開かれた支配階層
イギリスの支配階層はフランスの貴族のように閉鎖的排他的ではなくて︑アレキシス・ド・トックビルによって
﹃アメリカにおける民主政治﹄のなかで指摘された﹁開かれた貴族制度﹂をもじっていえば︑﹁開かれた支配階層﹂
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であって︑新興階層のものでも資質のあるものはこれをよろこんで受けいれ︑これと融合し︑これに政権を委ねる寛
容さをもっている︒
すなわち︑イギリスでは︑フランスとは違って︑支配階層であった貴族は新興階層であるブルジョアジーと手を握
って︑国王を牽制しつつ政治を行なった︒そのことがブルジョアジーが政治を安心して貴族にまかせて︑みずからは
経済に専念して︑政治を自分の手でやろうとしなかった原因である︒
だが︑イギリスの貴族は資質を重んじ︑ブルジョアジーでも資質があり︑見込みのあるものを積極的にみずからの
支配階層のなかにとりこんで︑支配階層の資質の維持のみならず︑時代に適応した資質の向上︑発展をはかってきて
いる︒つまり︑イギリスでは︑議会で厳格な試練を受け︑優れた人格と才能の持主であるという折紙つきの︑有能な
人物が現われると︑支配階層はみずからの階層にその︼員としてよろこんで積極的に加えたのである︒その典型的な
例がチェンバレン家の人たちであって︑そのような卑賎から身を起こした人たちでも︑その資質によって国の指導者
・支配階層という地位をいったんうると︑旧い名門のセシル家の人たちと同様の地位を確保することができたのであ
る︒そのよい伝統の最近の例が︑現保守党首で首相でもあるヒースである︒
アーネスト・プレティマンは﹁政党の偉大な党首は選挙されてできあがるのではなく︑おのずから生みだされるも
のである︒わたくしは︑党首を選挙するためにわれわれがものものしく集会しなければならないとしたら︑その日は
悪い日だと思う︒党首はそこにいるのである︒そしてかれがいるとき︑われわれはみなそれを知っているのだ﹂とい
ったが︑党首たるべきものは︑衆目のみるところでおのずから定まるというのが保守党の常識で︑対立候補を立てて
決選投票で決めるという形を避け︑通常あらかじめひとりにしぼった候補を満場一致で承認するという形式を長い間
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イギリス民主政治における 保守 と 革新
とってきた︒
しかし︑一九六三年十月に当時の党首で首相のマクミランが病気で辞任する際に︑後継者はバトラーが確定的だと
みな思っていたにもかかわらず︑マクミランは貴族階級のヒュームを指名した︒ところが︑そのやり方が独断的︑秘
密主義的︑非近代的という非難をうみ︑パウエルやマクラウドらはヒューム内閣にはいらず︑党内に大きなシコリを
残し︑翌年の総選挙にはヒュームの保守党は敗北を喫した︒
そこで︑ヒュームは党首公選制をみずから提案し︑それが採択されると七月二十二日に党首を自発的に辞任し︑七
月二十七日に史上初の保守党党首公選が行なわれた︒その結果︑第一回目の投票でモードリング︑パウエルを抜いて
第一位になったヒースが︑第二回目の投票での他の二人の立候補辞退によって当選した︒
このピースは︑当時四十九歳の若さの独身で︑貴族的背景の全然ない中産下層階級の出身であり︑合理主義的でし
かも戦闘的な人物だといわれ︑社会的公正のn﹇実の下に合理的政治を推進して︑イギリス保守党政治の変化の象徴だ
と評されている︒
このような現象が生ずるのは︑支配階層のなかにくみこまれる新興階層それ自体が︑基本的な国家意識を共通にも
ち︑ナショナル・インタレストについての共通の信念をもっているからである︒つまり︑共通の原理と土俵の上に立
っているからである︒
他方︑労働党の方も︑その階層構成が開かれていて中産階層化しており︑議員構成も労働者議員が半数以下になっ
てきていることは前述した通りであるが︑このことはそのほかにも次のような議員の学歴向上現象にもよくあらわれ
ている︒
15
年
次 一九一八〜 三五年 一九四五年︼九五〇年一九五一年
小学校卒
七五・五%五三・○%五一・○%高等中学校卒一五・五%二四・○%二七・○% 五一・○%二六・○%
大 学 卒一八・二%三二・二%
一二 Rハ
E五%三七・七%
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学歴上昇現象はその後も続いていて︑一九五五年の大学卒歴者は三九・四パーセント︑一九六四年には実に過半数
の五二・九パーセントに急上昇している︒また︑大学卒歴者のなかでオックス・ブリッジ出身者の占める比率も年々
ふえ︑一九六四年には連々議員の約二割にも相当する一九・五パーセントに達している︒そのうちでイートン校やハ
ロー校の出身者が少いことはいうまでもないが︑しかし両大学出身者はそれぞれの大学で︑イギリスの政治家として
の資質に必要な伝統的教養と生活様式を身につけていることは論をまたない︒
以上のような労働党エリートの出身社会階層の上昇傾向は︑閣僚経験者の学歴にも歴然としてあらわれている︒す
なわち︑大学卒歴者は︑全閣僚経験者のなかで四四・六パーセント︑オックス・ブリッジ出身者は二九・七パーセン
トの高率に達している︒また︑戦後の党首であるアトリー︑ゲイツヶルおよびウィルソンは︑いずれも中・下層中産
階級出身のオックスフォード大学出身者である︒
これらの事情は︑単に労働党エリートが保守党エリートに接近していっていることのみならず︑また保守党の政治
家と労働党の政治家との間には共通の場が存在していて︑ともに公共の哲学︑公共の原理︑共通の信念︑共通のナシ
ョナル・インタレスト観を懐き︑そのためにはいつでも協力する用意があることを︑如実に物語っている︒
六︑ 寛容と改革は楯の両面
イギリス民主政治における 保守 と 革新 ,
寛容.は︑イギリスにおいては︑なりよりもまず︑民主主義や民主政治とともに血みどろの闘争の歴史のなかか
ら生まれた人間の歴史的叡知の所産であり︑民主主義と民主政治の大きな柱となっている︒
この寛容をもっともよく体系的に理論づけたのが︑すでに指摘した名誉革命の理論的集大成者のロックである︒か
れはその不朽の名著﹃寛容に関する書簡﹄のなかで︑﹁偏狭な精神が悲惨と混乱の原因だ﹂と断じ︑宗教的寛容と
政教分離を説き︑狂信者の火と剣による迫害に反対して︑寛容と理性と知性と討論と注
意と節度を強調し︑不滅の真理を伝えている︒
そしてその当然の帰結として︑それは宗教上の事柄に関して︑自分の雄弁や学識の不足を補うために為政者の権威
をかりないように注意を喚起し︑もしそのようなことをするならば︑口ではひたすら真理への愛をいいながら︑その
実は現世的支配という野望を暴露することになるのだ︑と熱狂的信者の本心を喝破している︒また︑現実に強くなっ
て国家の国民的権利に反するような特権をひとり占めすることができるまで︑欺隔的言辞富弄して為政者や国民に寛
容や自由を求めているものに対しては︑﹁そのようなものは為政者によって︑寛容に取り扱われるべき権利はもちま
せん﹂と幾たびも繰り返えし強調して︑民主主義における寛容や自由は決して無制限なものではなく︑それには厳し
い限度が存在することを明示している︒
血の代償と苦い経験のなかから学びとった寛容や自由は︑イギリス人にとっては︑決して無制限に主張されたり許
されたりする筈のものではなく︑真の民主主義においては︑不寛容な宗教団体や全体主義的独裁主義的諸団体に対し
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て︑寛容や自由は適用されえないことが当然のことと考えられているのである︒それゆえにこそ︑あれほど言論の自
由を積極的に説いた労働党左派の代表的論客であったラスキすら︑﹁われわれはこのような自由権が無制限なものだ
とはいえない︒国家の任務は秩序の維持なのだから︑国家は治安の維持に関心を集中しなければならない︒それゆ
え︑国家は︑急迫した秩序掩乱を直接に煽動する言説は処罰されるべきであり︑また秩序の維持を脅かすような行動
に出る団体も処罰されるべきである﹂︵﹁政治学入門﹄︶と主張したのである︒
このような理性と知性と注意と節度によって充分に裏打ちされた寛容があればこそ︑極端にはしらない︑実り
のある討論がそのなかから生まれ︑揺ぎない民主政治が確立して︑自信に満ちあふれ︑その自信のなかから
こそ議会制民主主義の基礎に関するどんな激しい批判をも許可しながらそれを克服してきたのである︒
さらに︑第二次世界大戦終了の翌年である一九四六年置三月から四月にかけて︑正統的民主主義とプロレタリアー
ト民主主義の相違をめぐり︑﹃マンチェスター・ガーディアン﹄紙上において︑E・H・カーの論文に発して︑労働
党の党員もしくは支持者であったA・D・リンゼイやB・ラッセルやラスキおよびその他の学者たちによってそれぞ
れの見解が開陳され︑大反響を呼んだが︑それらを通してみられるイギリスの民主主義の根底に横たわる基本原理
は︑とくにリンゼイに象徴的にみられるように︑異なる意見の寛容とその欠如が二つの民主主義の真に本質的な識別
点であって︑前者が正統的民主主義で後者がプロレタリアート民主主義だということであり︑そして寛容は国家に対
する個人の保護をも含むということであった︒
そのような寛容の徳が︑冒頭で述べたラスキの指摘のように︑比較的長期にわたる繁栄と安定の享受によって
イギリス人の社会生活のなかに根深く確立されるにいたり︑そして政治全般にもおよんでいるのであって︑その結果
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討論の過程のなかから相互に相手の長所を卒直に受けいれて改革の政治が行なわれているのである︒そして︑そ
の改革の政治がまた寛容の徳をさらに助長するのである︒それゆえ︑寛容と改革は︑イギリス民主政治の楯
の両面だといえよう︒
七︑難問題を乗り切る国民の政治的叡知
イギリス民主政治における 保守 と 革新
イギリス議会制民主主義の政治の成功は︑以上のような諸要因のほかに︑イギリス国民の政治的叡智や穏健
性によるところが多い︒冒頭で指摘したように︑名誉革命以降イギリスの主権構造は国王の称号としての主権︑議
会の真実主権︑最高主権であるところの国民の政治的主権の三者の問によく調和のとれた重厚な三重主権構造であ
り︑通常国民はみずから選出した議員を信頼して政治を議会にまかせ︑その結果をみて選挙の度ごとにその叡智を働
かせ︑適切な政党を選択してそれに政権を信託してきた︒
これに関しては︑筆者の経験的例がある︒一昨年イギリスに滞在していたとき︑イギリスの政治はEC加入問題を
めぐって沸騰していた︒新聞︑テレビ︑ラジオなどの世論調査によると︑いずれも調査対象者の過半数が加入に反対
であることを示していた︒また︑スコットランドから北部イングランドにかけて旅行したとき︑保守党員に会い︑自
分は保守党員であるにもかかわらず加入には反対だが︑貴方はどう思うかと尋ねられたことがあった︒もちろん︑筆
者は加入すべきであると答え︑求められるままにその理由を説明したところ︑相手のひとたちは納得した︒そのよう
な世論の動向にもかかわらず︑保守党政権は国の将来を充分よく考えた上で加入案を提出し︑前述のようにかなりの
数の労働党議員の賛成をえて︑同法案を通過させた︒それに対して国民は特別に騒ぎもせず︑議会は議会にまかせる
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という悠然たる態度をとっている︒イギリス国民は︑結果が悪ければ︑叡智を働かせて次の総選挙で政権を交代させ
るのである︒
議会もまたよく国民の信託に応えて︑時宜に被った改革を行なうと同時に︑大衆民主政時代の現代においては︑た
とえばスウェーデンで百五十年以上も続いているオンブッズマン制度のイギリス版である﹁議会コ︑︑︑ッショナ
ー﹂制︵議会がパーラメンタリー・コミッショナーを任命し︑住民が議員を通じて提出する苦情を︑コ︑︑︑ッショナー
が独自の立場から調査し︑必要に応じて改革案を担当大臣に示している︒たとえ改革の必要がないと決定した場合で
も︑その理由を議会に報告するように義務づけられている︒コミッショナーには︑大臣クラスのひとが当てられてい
る︒︶を一九六七年に施行するなどして︑十全とまではいかないが︑政治・行政に対する民意の反映や不満.苦情の
処理などをはかったりして︑できうる限りつとめようとしている︒
現在︑イギリスは経済体質の改善︑産業の合理化︑所得政策︑EC問題︑その他等々の難問題をかかえていること
は︑周知の通りである︒いずれも労使双方あるいは全国民の積極的努力を必要とする︒
ところが︑最近のイギリス人は勤労意欲に乏しいとか︑労使双方の革新的気風が減退しているとか︑労働者の特権
があまりにも強すぎかつ労働組合会議の総評議会の権威がなさすぎ︑群小労組が乱立して山猫ストの絶え間がないと
か︑全経営者を代表する強力な経営者団体がない等々︑いろいろなひとによっていわれ︑またイギリスの一般国民や
政治家のなかにも一労働党のりーダーたちのなかにも そう指摘している人びとがいる︒
確かに︑イギリスの政治は現在岐路に立っている︒だが︑たとえば︑イギリスの官庁や企業の幹部や若い指導者た
ちに︑イギリス人の勤労意欲減退について尋ねると︑﹁われわれはそうは思わない︒われわれはみなより早く出勤
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イギリス民主政治における 保守 と 革新
し︑先頭に立って大いに働いているし︑部下もよく働く﹂ともいっているように︑イギリスのエリートたちはきわめ
て優秀であり︑また一般国民も全部が全部勤労意欲に乏しいとは限らない︒
それに加え︑なによりもイギリス人は﹁歩きながら考える﹂国民であり︑かつバルフォア卿が指摘したように穏
健であると同時に相互に徹底的に論争しうる国民であって︑絶え間ない政治紛争の騒音に強く悩まされることがな
く︑さらには困難な国家的危機に当っては︑リンゼイが指摘しているように静かなる勇気と忍耐と誠実
と善意とをもって見事に切り抜けてきた輝かしい歴史と伝統をもっている︵最近におけるこの典型的な例として
は︑リンゼイが指摘しているように︑第二次世界大戦中のダンケルクからの撤退における将兵にみられる︶︒今後も
恐らく︑決して派手ではないがその政治的叡知をもって︑静かにかつ着実に改革を重ねて︑難問題を切り抜けていく
のではなかろうか︒
む
す び
−日本の現状との関連において一
以上のようなイギリスをみて︑日本の政治の現状を考えるとき︑随分隔りがあると︑つくづく思う︒
第一に︑第二次世界大戦後僅か二十八年という民主主義の短い歴史しかもたないわが国は︑同様の民主主義の歴史
しかもたない他国に比すれば︑かなり民主主義や民主政治をうまく運営してきているとは思うが︑まだ歴史的叡知と
いうにはあまりにもかけ離れすぎている︒
第二に︑政党間には公共の哲学や共通の原理が存在せず︑対決はしても︑論争の上に協力・解決をおくことを知ら
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ない︒ 第三に︑保守政党には哲学がなく︑あらゆる面での新保守主義への脱皮はみられず︑青年や勤労者に魅力ある政党
とはとてもいい難い︒
第四には︑革新政党といわれるもののなかには︑未だに旧い階級闘争至上主義に盲労して︑国民政党としての公党
の立場を弁えず︑改革に向わないで党利党略や独善にのみ陥り︑その結果混乱のみを生ぜしめているものもある︒
第五に︑各政党とも︑国民のあらゆる層のなかから資質や良識のある人びとのみを指導者や議員に迎えているとは
限らず︑むしろなんらかの意味において閉鎖的社会を形成している傾向が非常に強い︒
第六に︑寛容を放縦と取り違え︑集団も個人も私利私欲のみを追求する揚合が多く︑他のものの公正な意見になか
なか耳をかさず︑そのため民主主義およびその下における自由や秩序を乱し︑国家・国民的見地に立って協力して改
革を行なうことが難しい状況にある︒
第七に︑国会と国民との問に調和のよくとれた主権構造があってはじめて民主政治がうまく運営されることを知ら
ず︑極端な主権論を主張して︑民主政治の運営に支障をきたらせたり世論を惑わせたりするものが︑一部にある︒
その他わが国の政治の現状の欠陥を挙げればきりがないが︑それらの欠陥を是正して︑真の民主主義と民主政治を
わが国に築き上げていくためには︑本稿において指摘したようなイギリスの民主主義や民主政治の長所は根幹的なも
のであり︑それらに大いに学ぶべきであろう︒
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参考文献
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イギリス民主政治における 保守 と 革新
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﹈≦●σ=<①円σq①5勺O=二〇餌一℃P﹃二Φ︒D嘗⇔口︒︒.げ団しdP﹁ぴ堕円麟躰5同感Oげ①ほZO二貫H㊤⑦蒔
河合栄次郎﹃英国社会主義史研究﹄︑昭和二十三年︒
関嘉彦﹃イギリス労働党史﹄︑昭和四十四年︒
拙著﹃国家と民主主義﹄︑昭和四十入年︒
本稿は﹃世界政経﹄昭和四十入年九月号所載の拙稿﹁イギリス民主主義の保守と革新﹂
である︒ の内容を骨子とし︑それに加筆したもの
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