• 検索結果がありません。

「満州国」成立後の戦略体制と鉄道建設

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「満州国」成立後の戦略体制と鉄道建設"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「満州国」成立後の戦略体制と鉄道建設

著者 原田 勝正

雑誌名 東西南北

1999

ページ 83‑99

発行年 1999‑03‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003662/

(2)

﹁満州国﹂成立後の戦略体制と鉄道建設

原田勝正本稿は﹁日本の中国東北支配における鉄道の軍事的利

用とその機能﹂︵全三章︶の第二章にあたる︒この論文

は︑一九三一年九月の柳条湖事件以降︑一九四五年八月

の敗戦まで︑槐腸国家﹁満州国﹂における鉄道の軍事的

利用の推移を通じて︑それが鉄道本来の輸送機能をいか

にゆがめたかという鉄道史研究の課題を解明することを

主な目的としている︒しかし︑それと並んで︑中国東北

を支配した関東軍の軍事支配の実態︑これに抵抗する

﹁反満抗日﹂闘争︑また関東軍と南満州鉄道株式会社と

の対立など︑中国東北支配が生み出した植民地支配史の

問題にも触れることを意図している︒

ちなみにこの論文の章建てを挙げると︑次のようにな

づ︵︾︒

第一章中国東北駐屯日本軍隊と作戦輸送 経済学部教授

111中国東北への兵力集中輸送体制

第一章で︑一九三一年九月一八日軍事行動開始直後に

おける軍事輸送の概要を取り上げた︒この軍事輸送は︑

中国東北全土における支配権確立のための戦闘行動を前 第二章﹁満州国﹂成立後の戦略体制と鉄道建設第三章軍事輸送力の整備と崩壊このうち第一章は﹃鉄道史学﹂第一三号︵一九九四年一二月二○日︶に発表した︒第三章は一九九九年三月までにまとめて完成させる予定である︒

なお本稿は︑文部省科学研究費補助金︵基盤C︑一般︶

による﹁日本における鉄道の軍事的利用に関する研究﹂

の一部である︒

一︑関東軍による﹁満州国﹂の鉄道支配

a 3 ‑

(3)

提とするもので︑一九三三年春の熱河地方占領まで︑こ

の方式による軍事輸送が繰り返された︒その全体の規模

は︑当時︑軍事輸送の中心として位置づけられていた奉

*I天駅における取扱量の集計から推測することができる︒

日本国内におけるこの軍事行動にともなう鉄道の軍事

輸送について見ると︑一九三五年まで︑兵力の派遣・帰

還について参謀本部の発した命令︵臨参命Ⅱ臨時参謀本

部命令︶は二四件に達し︑準戦時体制というべき状況と

なっていた︒

移動の規模は大きく︑師団の派遣・帰還それぞれ七件︑

混成旅団︑独立混成旅団の派遣五件帰還三件︑騎兵旅団

派遣三件︵帰還なし︶となっている︒

このうち︑一九三二年四月五日臨参命第二○号による

第八師団︑第一○師団派遣の場合︑兵員合計六六○○名︑

馬六○○頭︑また一九三二年第六師団派遣のさいは︑兵

員五五○五名︑馬六三五頭となっていて︑それぞれの場

合に一定の数量が認められているとはいえないが︑師団

の派遣・帰還で約七万名︑馬約八○○○頭︑器材一団約

一万トンとして︑約一四万トンという数量が考えられる︒

また旅団の場合︑一九三四年四月一六日臨命︵臨参命に

もとづく具体的指示︶第二一○号独立混成第一旅団派遣

の場合には兵員二五八七名︑馬はないが車両九七両とな

っている︒

これらの臨参命による鉄道輸送は︑中国東北に限って 見ても一九三一年から一九三六年二月までに二五件に達していて︑日本国内︑朝鮮︑中国東北それぞれの鉄道輸送︑日本国内と朝鮮︑中国東北との船舶による連絡輸送に大きな負担がかかっていった︒

この輸送の実態を明らかにすることのできる史料はま

だ発見できないが︑輸送ルートの概略を見ることはでき

る︒すなわち︑日本国内における出港地︵帰還の場合︑

入港地︶は︑大阪︑宇品が中心で︑局部的に︑青森︑船

川︑舞鶴︑門司︑長崎がこれに加わる︒朝鮮の場合は釜

山が中心で︑まれに馬山が加わる︒さらに︑これが新ル

ート設定の契機となるのだが︑清津︑羅津︑雄基が︑日

本海ルートの要港湾拠点として登場してくる︒また中国

東北との直接の航路輸送の場合は︑大連が入港地︵帰還

の場合は出港地︶となっている︒

このようにして︑日本国内と中国東北とを結ぶルート

は︑朝鮮海峡を渡る釜山ルートが第一に挙げられ︑これ

が主要ルートとなっていた︒第二のルートは︑大連との

航路輸送ルートである︒そして︑これに日本海沿岸との

ルートとして︑清津などと結ぶ第三のルートが登場する︒

この第三のルートは︑羅津の築港により︑新潟・羅津間

の定期航路をふくめた新ルートを構成することになる︒

すなわち︑柳条湖事件以降の軍事輸送は︑この三つの

ルートを並列して使うという態勢を成立させた︒この場

合︑各ルートの鉄道輸送距離を見ると次のようになる︒ *1満鉄奉天駅編﹁奉天駅﹄369頁以下︑一九三一年九月〜一九三三年八月の間︑発送列車四五三六︑到着列車四六○六︒

− 8 4

(4)

水戸・品川一三七・二

品川・大阪︵浪速︶五五五・六品川・宇品八九三・九

品川・下関一○九一・三富山・大阪三五七・三富山・宇品四四四・四朝鮮

釜山・新義州︵安東︶九四七

中国東北安東・奉天二七五・八安東・新京五八○・六

安東・吟爾浜八二二・六航路下関・釜山二四○・○

﹇2のルート﹈

日本国内T参照︶

中国東北大連・奉天三九六・六大連・新京七○一・四 ﹇1のルート﹈日本国内高崎・品川二二・七宇都宮・品川二七・二松本・品川二五一・九水戸・品川一三七・二︵日暮里・新宿経由︶

九四七・二︵九四九・八︶

以上のような日本国内と中国東北との輸送ルートの確

保だけでなく︑その距離の短縮のためにも中国東北内部

では︑一九三二年以降頑極的な新線の建設が実施された︒

その建設は︑関東軍の対ソ侵攻作戦︑ないしはソ連によ

る侵攻にたいする防御作戦における軍事輸送に備えるこ

とを第一の目的としていた︒

この建設については次節で述べることとするが︑この 大連・晧爾浜

関連航路

神戸・大連

門司・大連

﹇3のルート﹈

日本国内

盛岡・青森

盛岡・船川

富山・舞鶴

松江・舞鶴

朝鮮・中国東北

雄基・新京

清津・新京

関連航路

敦賀・雄基

新潟・羅津 一五八一・六一一三五・九 九四三・四二○四・七四二八・一︵青森経由︶二三八・○二九八・二︵福知山経由︶九八一・︲

九七五・︲ 六八五・五六六○・五

8 5 ‑

(5)

ようにして︑中国東北における鉄道の軍事的利用は︑柳

条湖事件以降二つの機能を要求されることとなった︒す

なわち︑第一に日本国内と中国東北との連絡輸送態勢の

確立︑そして︑第二に中国東北内部における兵力輸送の

ための線路網の整備とその利用態勢︑この二つである︒

本章では︑以上の二つの機能のうち︑新線建設の計画

とその実施の推移とを概観し︑その戦略的意味を考察す

る︒そして︑これら各線における輸送力強化の方策がど

のようなかたちをとって実施されたかを見ることにする︒

21関東軍の戦略と鉄道支配の意図

中国東北における日本陸軍の戦略態勢は︑日露戦争後︑

一貫してロシア︵革命後はソビエト連邦︶にたいする進

攻または防御というように︑ロシアを前提として成立し

ていた︒それは︑一九○九年の帝国国防方針において︑

アメリカ合衆国と並んでロシアが仮想敵国とされていた

ことから︑基本的な戦略として確立していたと考えられ

る︒

中国から租借権を得た関東州における陸軍の組織が一

九一九年に関東軍として独立したのち︑中国革命の進行

に対抗するための戦略を具体化する課題が大きな意味を

もつようになったが︑その場合︑関東軍内部で︑ロシア

︵ソ連︶に対抗するための兵力輸送は緊急の課題として

取り上げられていた︒その課題解決のために︑長春以北 の中東鉄路だけでなく︑中東鉄路を使うことができない場合の兵力輸送路の確保のために︑関東軍は一九二四年満蒙五鉄道改築要綱を立て︑いくつかの路線を建設する

*ゾ︾計画を立てた︒

もちろん︑兵力輸送を表面の名目に掲げてはいなかっ

たが︑その建設区間その他から︑関東軍の戦略体制や作

戦計画を十分に読み取れることのできるものであった︒

さらに︑一九二七年一○月田中義一首相は山本条太郎満

鉄総裁を仲介として︑張作課に五つの路線の建設権を認

めさせた︒この︑いわゆる﹁満蒙五鉄道﹂は次の通りで

*︽J

一価︾ヂ︵︾◎

l︑敦化・図椚江江岸

2︑延吉・海林

3︑吉林・五常

4︑長春・大賓

5︑挑南・索倫

さきの満蒙五鉄道政策要綱とこの五鉄道建設案とは相

互に重複している区間があって︑その間に関連があると

思われる︒すなわち北西部大興安嶺への兵力輸送︵挑

南・索倫間︑長春・大寳・安達間︶︑日本海ルート・朝

鮮北部・中国東北北部への兵力輸送︵図椚・敦化︑延

吉・海林︶など一九二○年代後半における参謀本部の戦

略が︑これらの計画に反映している︒

柳条湖事件ののち︑関東軍は中国東北全土支配のため *4﹁満州国有鉄道諸契約竝主要契約﹂︑﹁八田覇明文悪﹂○○三三二︵以下﹁八田文密﹂と省略︶ *3前掲﹁関東軍﹂一︑67 *2防衛庁戦史室﹁関東軍﹂一︑66頁

− 8 6

(6)

の軍事行動を展開し︑日本政府は﹁不拡大﹂方針を掲げ

ながら︑この行動を容認していった︒そして︑一九三二

年三月一日︑清朝最後の皇帝愛新覚羅泌儀を執政とする

偲偶国家﹁満州国﹂が建国宣言を発した︒この﹁国家﹂

は﹁独立﹂による意思表示手続によって︑日本側に一定

の措置の委託を提議する﹁自発性﹂を規定されていた︒

この方式は植民地支配のあらたな典型をつくりだしてい

くものであったが︑それによって政治・経済・軍事など

すべての分野について日本側が﹁委託﹂による権限行使

を保証されることが可能となった︵同年九月一五日︑日

満議定書として定式化︶︒

交通についても同様であった︒三月一○日執政溥儀は︑

関東軍指令官本庄繁に書翰を寄せ︑﹁満州国﹂の国防︑

交通については︑日本側が﹁満州国﹂政府の委託を受け

てその運用に当たることを求めた︒これを﹁承諾﹂する

*4旨の関東軍指令官の回答は五月二二日に発せられている︒

しかし︑この間閣議は四月一五日︑この﹁委託﹂につ

いて承認を与え︑四月一九日関東軍指令官と満鉄総裁と

の間に﹁鉄道港湾河川ノ委託経営竝新設等二関スル協定﹂

が結ばれ︑さらに満鉄にたいする最高権限をもつ拓務大

中5臣が五月九日には許可指令を発している︒政府はいちは

やく︑執政による﹁委託﹂にたいする事実上の承諾を与

えたのである︒これにもとづいて関東軍指令官は八月二

卓︽b○日︑満鉄にたいして指令を発した︒この指令は︑建設 する線を全面的に軍事輸送線として規定していた︒

しかし︑これにたいし︑さきの四月一九日の協定を無

効とすべしとする主張が満鉄内にはあった︒それらは関

『、

鳳側

TL

‐ 郷

1

I JI

嚢州里 鵬・戦I〆

杏斉吟■ 木爾

馳嘩/︶﹄

岡祇〔瓜1エ)

向城壬 銅︐癖

大費 西綴

牡丹江

r

/ J " (

蒜睦鈩恥峨商桃 拉怯

‑1938年までの開業線

‑‑‑‑‑…‑‐1939年以降の開業線

「陵京 四鼎 (民寺)

■家屯

梼伺

*5﹁八田文縛﹂○一四五な

*6﹁八田文瞥﹂○一六九

車天 (河蟻

激仰

灘街働

安東

巽 達 腺頃

中国東北鉄道線路図(1932〜1938年)

8 ←

(7)

東軍の姿勢にたいする不信感や不満の欝禰をうかがわせ

*?りるものがある︒この不信感や不満には︑この問題をめぐ

る関東軍側の姿勢がかなり大きな原因をなしていたと思

われる︒すなわち四月一九日の協定には︑関東軍が鉄道

港湾河川の経営について指揮監督権を持ち︵第三条︶︑

したがってこの建設計画とその実行に当たっても︑軍事

上必要な指示を発し︵第一二条︶︑また将校を配置する

こと︵第一三条︶︑強い監督権を持つこととなったこと︑

さらに満鉄は別に協定する金額を日本政府に納入するこ

ととされ︵第一○条︶︑これは別の協定により︑経営に

かかる利益金から一九三三年度以降年間七○○万円が支

出されるものとされたが︑この納入金の使途は︑四月一

五日の閣議決定﹁満州国鉄道港湾河川二関スル処理方針﹂

により︑﹁守備ノ為満州国二駐割スル国軍費用ノ財源二

充当スルコト﹂とされていた︒政府自体が交通手段によ

って得られる利益金から関東軍の費用を賄う体制を認め

ていたのである︒

それだけではなく︑四月一九日協定締結の当日に︑関

東軍指令官と満鉄総裁との間に上記のものと別の協定が

結ばれ︑本協定第一○条にもとづき一○年後あらたに協

定を結んで︑一︑兵営その他設備のため一億円を支払う

こと︑二︑経常費四九○○万円を支払うこと︵支払い時

*R︾期について記載なし︶が決められた︒この金額は合計一

億四九○○万円となり︑さきの一九三三年度年間七○○ 万円を仮に一○年間支払う場合の二倍以上に当たる︒

満鉄社内には︑四月一九日の協定︵社内ではこれを

﹁軍満取極﹂と呼んでいた︶は︑関東軍指令官にその権

限はないから無効であり︑あらためて日本政府と満鉄と

の取極め︑満鉄と﹁満州国﹂政府との間の協定を成立さ

*9せるべきであるという意見を述べる者がいた︒さらに九

月七日鉄道部では︑前記拠出金は﹁満州国﹂政府が負担

すべきものであり︑一九三三年度七○○万円の支出は不

可能であるという返電を関東軍指令官︑拓務大臣に発送

本IOすべしとしていた︒

これらは︑同年八月七日関東軍指令官と﹁満州国﹂国

務総理︵鄭孝肯︶との間に﹁満州国政府ノ鉄道︑港湾︑

水路︑航空路等ノ管理竝線路ノ建設管理二関スル協約﹂

が締結されたことを受けたかたちのものであるが︑この

八月七日の協約にしても︑外交権を持たない関東軍指令

官が協約主体となることは不可能であり︑関東軍の越権

行為は柳条湖事件以降つづいていて︑しかも日本政府は

これにたいして何らの規制を加えていないとするもので

あった︒このような事情から満鉄の当局者が不満を抱い

たと考えられるのである︒

このような対立にもかかわらず︑建設線は決定され︑

計画は実行に移されていった︒まず︑四月一九日の﹁軍

満取極﹂においては︑第八条︑第二条の規定により︑ *8吉林省社会科学院編﹁満鉄史資料﹂第二巻路権篇第四分冊︑二五三頁 *7﹁八田文宙﹂○一七○*9﹁八田文宙﹂○一七○*加﹁八田文宙﹂○一七一

− − 8 8

(8)

第一次三線︵1︶︑第二次三線︵Ⅱ︶︑その後の建設︵Ⅲ︶

を決定した︒その各線は次の通りである︒

I︑l︑敦化・図椚江線

2︑拉法姑・姶爾浜線

3︑克山・海倫線

Ⅱ︑l︑通遼又は錦県・赤峰・熱河線

2︑長春・大資線

3︑延吉・海林・依蘭・佳木斯線

Ⅲ︑l︑大賢・挑安

2︑斉克線の一駅・黒河︑

3︑沸安・素倫・満州里︵又は海拉爾︶

4︑開原・西安︑

5︑︵満鉄︶撫順.︵藩海︶撫順︑新邸・義州お

よび巨流河︑公主嶺・伊通︑鉄嶺・法庫門︑瓦房

店・錦州

この時期にはいると︑関東軍は︑前述のような資金拠

出問題だけでなく︑新線建設問題についても独自の戦略

にもとづく建設区間を提示してきた︒この動向は一九三

二年後半に入って顕著となり︑とくに第二次建設線の他

に計画されていた路線について︑これを早急に具体化す

る方向に進んだ︒満鉄側は︑一九三三年一月から参謀本

部第三部長と佐藤応次郎技師との間で協議を重ね︑三月

には一定の方針が決定し︑七月から八月にかけてその具 *11体策がまとめられつつあった︒しかるに八月一四日付︑関参一発第六八五号で関東軍参謀長から満鉄副総裁宛ての通牒が八月一八日満鉄に送達され︑ここで第二次︑第

*12三次線を同時に契約するむね通知された︒

その内容は不明であるが︑第三次線に輯安線︑虎林線︑

魯北線︑林西線︑拉浜線が付加され︑これを一九三八年

度まで六年間に完成させることが求められていた︒満鉄

側では建設の経済的建設速度を一五年としていたから︑

これはその速度を超える︒しかも︑これらの線区は収益

を挙げることが困難であり︑これらの路線の建設は︑満

鉄にとって大きな損失となることは明らかであった︒さ

らに収益を予測される︵満鉄︶撫順.︵藩海︶撫順間や︑

公主嶺・伊通間︑鉄嶺・法庫門間︑瓦房店・錦州間は削

除され︑開原・西安間は四平街・西安間に変更されて満

鉄の収益可能な線区は失われ︑しかもこの通牒では一切

卓△13の付帯事業が禁止された︒

この通牒について参謀本部が同意していたか否かは不

明である︒しかし︑七月三一日参謀本部第三部長は副総

裁宛ての電報で﹁︵満鉄︶田辺次長ノ計画二基キ協議ヲ

終しり︒葱二之二関スル豫テノ御配慮ヲ深謝ス﹂と述べ

ていた︒このことを考え合わせると︑八月一四日付の通

牒は関東軍参謀長が参謀本部の了解を待たずに発したも

のとも考えられるのである︒

このような変更は︑一九三一年二月中旬参謀本部が *吃﹁八田文書﹂○○○三一三四 *u﹁八田文榔﹂○○○三一二○*蝿﹁八田文瞥﹂○○○三一○一

8 9 − −

(9)

立てた﹁時局二伴ウ対ソ支両国作戦計画﹂︵約二個師団

で南部ウスリーに上陸︑約一個師団を間島︑琿春に展開

して攻勢をかけ︑約六個師団で大興安嶺方面に侵入して

くるソ連軍を阻止して攻勢に転ずる︶が︑一九三三年の

中央計画では︑開戦と同時に沿海州方面のソ連軍︵戦時

四〜五個師団︶を撃滅し︑大興安嶺東方地区において主

作戦をとるというものに変更され︑このような作戦計画

の変更によって︑たとえば東部の各線︵虎林線︑輯安線︶︑

北西部の各線︵魯北線︶などが付加されたのではないか

と考えられる︒

これにたいする満鉄重役会議の決定内容は不明である

が︑ともかくもこの通牒に従うほかないという結論が出

されたものと考えられるのである︒

関東軍の中国東北における鉄道支配の意図は︑こうし

て見ると︑一九三三年八月までに完全に具体化したと見

られるのである︒以後満鉄は関東軍の指示にもとづいて︑

鉄道建設に従事するほかない状態に追い込まれていった︒

このような鉄道建設の推移を見ると︑中国東北におけ

る鉄道建設計画は︑日露戦争後の戦略体制が︑一九二○

年代後半にいたって中国革命の進展とソ連の成立によっ

て一方的に危機意識を強めることによって具体化し︑こ

の間に鉄道建設計画も路線・区間ともに兵力の集中輸送

のための計画としてその用途が単一化していった︒そし

て柳条湖事件以後の段階では︑ソ連との戦争を前提とす 111線路の建設と中東鉄路の接収

上記のように︑柳条湖事件をきっかけとする全面的軍

事行動により︑中国東北全土の支配が実現すると︑関東

軍はソ連にたいする戦略体制を実現するために︑中国東

北全土の鉄道の包括支配を推進した︒しかもその計画は︑

既成路線の利用だけでなく︑膨大な距離の新線建設と︑

帝政ロシアが建設した東清鉄道の後身︑中東︵北満︶鉄

路の接収と︑この両者を一挙に実現することを目的とし

ていた︒

前節で触れた﹁満州国﹂政府との交通網委託協約︑新

線の建設および運営の満鉄への委託は︑この線に沿うも

のであった︒そこで︑ここではまず︑一九三二年以降に

おける関東軍の戦略体制と︑それにともなう兵力集中の

ための鉄道利用の構想を検討し︑そのうえで︑個々の路

線の建設の推移を概観する︒そして︑その過程で実行さ る以外の用途はまったく考えられることなくその計画が推進された︒そこには地域開発や流通の促進を前提とする鉄道の機能は無視されたというほかはない︒満鉄の立場も鉄道本来の経済的な輸送機能をそこに実現する目途はまったく立たない状況であった︒軍事的機能しか認められないこのような建設計画の性質は︑世界の鉄道史においても極めて異常なものということになるであろう︒二︑新線建設の実施

−−−−90

(10)

れた中東鉄路の接収と︑接収がもたらす軍事的効果につ

いて考えたいと思う︒

陸軍の対露・対ソ戦略は︑前節で触れたように︑日露

戦争直後までさかのぼる︒すなわち一九○五年の日露戦

争終結直後に参謀本部第一部員田中義一中佐がまとめた

﹁随感雑録﹂で将来の対露作戦を攻勢主導と定め︑この

立場が﹁明治三十九年日本帝国陸軍作戦計画要項﹂とし

て採用されてから︑一貫して攻勢主導の立場をとってき

*Iた︒そして︑その場合︑田中が同文書で﹁我陸軍兵力ノ

決定ハ徒ラニ其増加ヲ希望スルョリモ先シ交通機関ノ整

備ヲ急務トセサルヘカラス︑交通機関ノ整備ハ兵力増加

本・IF③卜効果等シヶレハナリ﹂︑と述べていることは︑とくに

注意をひくところである︒ここに提示された交通機関Ⅱ

鉄道・船舶の機能の重視の立場は︑兵力の絶対量を増加

させることが困難な日本軍部︑とくに陸軍の戦略におい

て不可欠のものとなり︑それは︑一九三○年代初頭まで

つづいていた︒

このような交通機関重視の立場は︑一九三二年に立て

られた一九三三年度の対ソ作戦計画において︑とくに緊

急の課題とされるにいたった︒この作戦計画は︑﹁満州

国﹂との間に﹁日満議定書﹂を締結した政治的条件と︑

中国東北全土を軍事支配のもとにおくという軍事的条件

によって従来の計画を立て直したもので︑主作戦は大興

安嶺を中心とする西部に置く点で従来とは変わっていな かつたが︑その主作戦の前に︑開戦初頭に沿海州各地のソ連軍を職減するという第一会戦を入れた点が大きな変化であった︒

この作戦計画によって︑東部正面を中心とする作戦兵

力輸送のための鉄道建設は緊急の課題になって来た︒す

なわち︑一九三二年四月一八日関東軍指令官と満鉄総裁

との間に結ばれた﹁鉄道港湾河川ノ委託経営竝新設等二

関スル協定﹂の第一次建設線のうち︑敦化・図椚間︑拉

法・姶爾浜間︑第二次建設線のうち延吉・佳木斯間が︑

この作戦計画に直接かかわる路線として意味を持つこと

*01︽Uとなったのである︒これらの路線は︑長春︑姶爾浜付近

に展開する部隊を︑中東鉄路によることなく︑東部正面

に輸送すること︑また︑朝鮮北部からこの方面に部隊を

敏速に輸送すること︑この二つの使命を持つものとされ

た︒

一九三三年二月九日﹁満州国﹂政府と満鉄は︑第一次

本1△7建設線についての建設借款および委託経営を結んだ︒こ

のうち︑敦化・図椚間については︑すでに一九三二年五

月二日拓務大臣が満鉄総裁にたいして吉敦延長線︵敦

化・南陽間および朝陽川・上三峰間︶建設の通牒︵殖二

*18第三○五号︶を発していた︒これは︑政府が日本海航路

を介して東京と長春との短絡線建設の構想を持っていて︑

この構想によって立てた計画と解される︒この拓務大臣

の通牒が軍部の構想に同調したものか否かはわからない *M防衛庁戦史室﹁大本営陸軍部﹂一︑121頁*Ⅳ﹁八田文惑﹂○○○三四六 *喝前掲﹁大本営陸軍部﹂171頁*肥﹁八田文櫓﹂○○○三三四 *賂﹁八田文書﹂○○○三一一

9I

(11)

が︑たまたま同一のルートを政府が構想していて︑これ

が第一次建設線と結合したと見てよいのではないかと思

や﹃ノ︒

このようにして︑敦化・図椚間は日本政府の植民地経

営構想と関東軍の戦略構想とが重複するかたちで計画さ

れ︑その建設が進められた︒敦化・図門間の営業キロー

九一・七キロ︑測量開始一九三一年一二月三日︑軌道工

事竣工一九三三年四月一八日︑仮営業一九三三年五月一

五日︑本営業開始一九三三年九月一日で︑その開業は第

一次建設線のうちでもっとも早い︒この路線の開通によ

って︑日本海航路経由の東京・新京︵長春︶間短絡ルー

*19卜が成立し︑﹁新経済動脈線﹂と評価された︒この線は︑

一九一○年の韓国植民地化とともに開始された中国東北

をふくむ植民地経営計画からはじまっていたから︑その

点では長年の懸案を実現したという意味をもっていた︒

しかし︑その建設にあたっては︑これまで見てきたよう

に軍事的要請がもっとも大きな力で実現を促進したので

一価︾参︵︾︒

この線にくらべると︑同じ第一次建設線の拉浜線はそ

の事情を異にしていた︒敦図線が前記のように一九一○

年代からすでに計画されていて︑一九二四年の鉄道建設

政策や一九二七年のいわゆる﹁満蒙五鉄道﹂の張作霧に

たいする要求の中にも盛り込まれていたのにたいして︑

拉浜線は︑これらの計画や要求には含まれていなかった︒ この線は柳条湖事件以後にはじめて計画されたものであった︒すなわちこの線は︑中東鉄路の吟爾浜以東を経由することなしに︑図椚と吟爾浜とを直結し︑吟爾浜周辺はもちろん︑将来建設を予定される路線を利用して︑黒河を中心とする北正面に兵力を展開することを構想した戦略鉄道としての性格を帯びていた︒このような戦略的意味の強い路線が第一次建設線に編入されたことは︑当時︑作戦計画が東正面だけでなく︑北正面の兵力展開をふくめていたことによるものであろう︒しかし満鉄鉄道建設局編﹃拉浜線建設紀要﹄は︑さきの張作森にたいする要求の中にあった吉林・五常間の起点・終点を変更し

*20たものとしている︒たしかにこのような見方も可能であ

るが︑中国東北全域を支配下に収めてからは︑かつての

外交交渉はもはや不要となっていて︑関東軍の必要に応

じてこのような路線の建設が進められたのである︒

第一次建設線の第三番目︑克山・海倫間についても同

様に戦略鉄道としての性格が指摘される︒ここでは︑晧

爾浜以西の中東鉄路を利用することなしに︑斉斉姶爾方

面への兵力の展開を進めるための斉克︑四沸︑沸昂各線

がすでに建設されていたが︑克山・海倫間の路線は︑こ

れらの各駅と接続して︑斉斉吟爾を拠点とする兵力を︑

北正面にも展開させるという作戦計画に対応するものと

して計画されたのである︒

これらの路線は︑拉浜線が一九三四年九月一日︑克 *釦満鉄鉄道建設局編﹁拉浜線建設紀要﹂一九三六年︑1頁 *田本田康喜﹁敦図線建設史﹂一九三九年︑1頁

− 9 2

(12)

山・海倫間が一九三三年一二月一日に開業して︑第一次

建設線がすべて実現した︵表1︶︒

以上の第一次線にくらべると︑第二次︑第三次建設線

は︑より以上に鉄道の持つ経済的効果を無視するかたち

で計画が進められた︒両者ともに一九三二年四月以降︑

参謀本部︑拓務省などいわゆる中央と関東軍︑満鉄との

本21間の交渉によって計画が進められたが︑前節で述べたよ

うに︑一九三三年八月一四日関東軍参謀長小磯国昭の通

牒によって収益困難を予想される路線を追加し︑地域活

性化をはかるための路線を削除し︑かつ開業線に関する

申22付帯事業券完全に否認することが指示された︒これによ

表11939年までの建設・開業線 1−第1次建設線

キ ロ 程 開 業 年 月 日 線 名 区 間

一一一椚上江山山河図・液克克納・川・・・・化陽法東倫吟敦朝拉泰海拉

図開演克克靹敦朝拉泰海位

1933.9.1 1934.4.1 1934.9.1 1933.12.1 1933.12.1 1933.12.1 191.7

59.5 290.9 30.8 162.3 38.8 774.0

2−第2次・第3次建設線く作戦正面別〉

〈東正面〉

線 名 区 間 キ ロ 程 開 業 年 月

図 寧 図 椚 ・ 牡 丹 江 2 4 8 . 7 1 9 3 5 . 7 . 1 牡丹江・林口

林口・密山 林口・佳木斯 密 山 ・ 虎 林 西綏・東寧 林寧

林密 林佳 密 虎 綏寧

936.7.1 1936.7.1 1937.7.3 1937.12.1 1939.11.30 10.0

130.9 221.5 160.9 91.1 963.1

〈北正面〉

線 名 区 間 キ ロ 程 開 業 年 月 日

って︑これらの路線は当初の計画が大幅に変更されたの

である︒

第二次︑第三次建設線計二五線は︑ソ連にたいする作

戦正面に加えて︑いわゆる﹁内モンゴル﹂から中国河北

省に侵入するさいに利用されるべき路線をも含んでいた︒

正面別に分類すると次のようになる︒

第二次〜第三次建設線の合計は二一八三・七キロメー

トルとなるが︑このうち東正面各線の合計は九六三・一

キロで︑西正面各線の合計五九八・六キロがこれに次ぐ︒

このキロ程は︑作戦正面の重点をそのまま表しているよ

うに見える︒とくに東正面について︑牡丹江および佳木

可 賑 北 安 ・ 辰 滴 136.81934.12.1 辰清・黒河

納河・墨爾根 辰黒

納墨

1935.11.1 1937.6.3 l .I

93.5 396.4

〈西正面〉

線 名 区 間 キロ程 開業年月日

213.6 1935.11.1

大賢・白城子 寧家・索倫 索倫・南興安 南興安・温泉 桃大

嬢索 索興 興温

119.0 119.8 130.8 15.4

'935.11.1 1935.11.1 1936.7.1 1937.9.30 598.6

〈南西正面〉

線 名 区 間 キ ロ 程 開 業 年 月 日

金嶺寺・凌源

反凌 156.8 1934.12.1

峰屯泉徳赤新立平承・阜新.・寿・・源泉柏県新凌平葉義阜

泉承峰邸立凌泉葉義郎

'935.10.1 1936.6.16 1935.12.

'937.10.1 1937.10.1 87.2

97.4 146.9 78.1 53.4 619.8

〈その他〉

線 名 区 間 キ ロ 程 開 業 年 月 日 三八︑一○二 *理﹁八田文番﹂○○○三 一○三〜一二四 *瓢﹁八田文番﹂○○○三

四平・西

四西 82.5 1936.8.3

梅可口・通化 通化・満浦 竜温山・大豊満 梅通

通轍 竜豊

1937.10.31 1939.9.1 1938,9.30 130.2

125.3 22.4 3 、4

, 3 −

(13)

斯といった軍事拠点が︑そのまま鉄道線路網の集中点と

して付置づけられ︑さらに牡丹江から北東の虎林に向か

って線路が延長されたことが注目される︒すなわち︑虎

林がウスリ江をはさんで︑ソ連の軍事拠点イマンにもっ

とも近接していたところから︑一九三五年以降ここに巨

大な要塞の建設が開始され︑一九三九年までにウスリ江

車23岸の虎林の市街地を西方約六○キロの黒咀に移し︑従来

の虎林は虎頭と改め︑要塞地帯の中心としたのである︒

沿海州にたいする攻撃の正面は︑中東鉄路の国境綏芽

河の南にある東寧のさらに南からウォロシロフを衝くと

*24されたが︑虎林付近の要塞はこれを北方から支援する助

攻拠点とされた︒この鉄道の建設は︑要塞建設のための

労働者︑資材の輸送をさしあたりの目的として急がれた

というべきであろう︒

東寧南方の主攻局面については︑当時はまったく鉄道

網がない状態であった︒牡丹江・綏芽河間の中東鉄路が

ロシア軌間で︑標準軌間との直通ができない条件のもと

では︑この主攻局面への鉄道建設が緊急の課題ではなか

ったかと考えられるが︑別表に見られる綏寧線の建設は︑

中東鉄路の接収二九三五年三月二三且︑軌間の標準

軌間への改軌︵一九三七年六月一八日︶後である︒

開戦当初の第一次会戦を東正面に変えるこの時期にお

いて︑建設区間のキロ程は︑他の正面に優越していたと

はいえ︑建設の中心は前記のように︑牡丹江︑佳木斯と いった後方にあり︑主作戦正面への兵力の集中のための線路の建設ははるかに遅れていたのである︒

北正面については︑アムール川︵黒竜江︶岸のブラゴ

ゥェシチンスクから対岸の黒河を経て南面に進み斉斉晧

爾に達し︑また黒河から南下して吟爾浜に進むソ連軍の

予想進路にたいし︑これを阻止する兵力展開のための鉄

道建設が構想されていた︒一九二四年の満蒙鉄道政策要

綱には︑斉斉晧爾・墨爾根︵撤江︶間︑姶爾浜・海倫間

の鉄道建設が構想されていた︒このうち︑前者について

は克山にいたる斉克鉄路が一九三○年三月泰東まで開通︑

後者については一九二八年六月までに姶爾浜の東部︑三

車25裸樹から海倫まで呼海鉄路が開通していた︒第一次建設

線に含まれた海克︑泰克両線は︑この両者を結んで北安

で連絡させるもので︑泰東・克山間約三一キロ︑克山・

海倫間約一六二キロ︑両者は一九三三年一二月一日開通

した︒この線路を北に延長したのが︑第二次建設線の北

辰︵北安・辰清間︶︑辰黒︵辰清・黒河間︶両線で︑こ

の線路は北辰線が一三六・八キロ︑辰黒線が一六六・○

キロ︑この両線は北黒線三○二・九キロとして建設され︑

本26一九三五年二月一日全通した︒この線の開通によって

北正面にたいする斉斉吟爾︑吟爾浜からの兵力集中が可

能となった︒これにたいし︑墨爾根︵撤江︶方面につい

ての線路は︑第一次線の中に拉晧・衲河間の拉誠線が含

まれていて︑一九三三年二月一日開通︵寧年・拉晧間 *妬満鉄鉄道建設局絹﹁北黒線建設概要﹂一九三五年︑38 *溺前掲﹁関東軍﹂一︑67頁︑満鉄﹁満州鉄道建設誌﹂一九三九年︑前編︑141頁︑150頁 *別一九三七年度の作戦構想︑前掲﹁関東軍﹂一︑264頁 *鱈満鉄鉄道総局建設局絹﹁密虎線建設概要﹂一九三七年︑4頁には行政機関の移転計画のあることを述べている

− 9 4

(14)

は斉克鉄路として一九二九年一二月開業︶︑これに第二

次線衲墨線として訓河以北の建設が進められ︑一九三七

年三月二八日訓河・墨爾根間一八○・三キロの仮営業を

*27開始した︒なおこの線は黒河までの延長が計画されたが︑

一九四一年に緑神まで仮営業を開始︑のち途中の震竜

門・山神府間の線路を撤去したので︑寧年・霞竜門間︑

卓28山神府・緑神間が仮営業を行なっていた︒

西正面については︑日露戦争後中東鉄路吟爾浜以西の

使用が不能のため︑大興安嶺地域への兵力展開を可能と

するための線路の建設が必要とされ︑長春・安達間︑四

平・満州里間など︑満鉄線から北西に向かう何本かの線

路が計画された︒そのうち︑四桃鉄路︵四平・挑南間︶

は一九二七年︑沸昂鉄路︵洲南・斉斉吟爾間︶は一九三

一年に開通したが︑長春から北西に向かう線路は安達に

向かう方向を改め︑大費までの京大線二一三・六キロと

して建設︑一九三五年二月開業︑そこから白城子を経

てハロン・アルシャン方面に向かう線路として建設され

た︒この変更は︑中東鉄路の接収や︑西部国境の緊迫と

いった状況の変化によるものと考えられる︒阿爾山まで

の開業は一九三七年九月であったが︑その後西部国境地

帯のハルハ川をめぐるいわゆる﹁ノモンハン事件︵一九

三九年三などが起こるに至って︑線路を延長し杜魯爾

まで一九四一年五月に仮営業を開始した︒この線路は︑

長春・白城子間三三二・六キロ︑白城子・阿爾山間三五 七・○キロ︑阿爾山・杜魯爾間三九・五キロであった︒

以上のほかに︑南西正面熱河を中心とする﹁内モンゴ

ル﹂地域の各線が建設されたが︑ソ連にたいする戦略鉄

道とは異なる性格のものであり︑ここでは別表に線名を

列挙するに止める︒しかしこれらの線路は︑河北省への

侵入のための線路として︑奉天︵藩陽︶・山海関間の線

路︵﹁満州国﹂国有鉄道の路線名としては奉山線︶とと

もに︑戦略的性格を付与されていたことは無視できない

であろう︒

これらの線路の建設と並行して︑ロシアが東清鉄道と

して建設し︑ソ連がこれを引き継いだ中東鉄路の接収が

一九三五年三月二三日に実施された︒この接収実施によ

り︑この鉄道のロシア軌間︵一五二○ミリ︶は国際標準

軌間︵一四三五ミリ︶に改築された︹新京︵長春︶・晧

爾浜間は一九三五年八月三一日︑姶爾浜・満州里間は一

九三六年八月二日︑吟爾浜・綏芽河間は前記のように一

九三七年六月一八日︺・線路網の充実にさいして︑中東

鉄路を使用しないで兵力を展開するための線路を構想す

る必要はなくなった︒また図椚・牡丹江間の建設にさい

して中東鉄路の牡丹江駅を使用しなくてもよいように︑

牡丹江駅の北にまったく別の寧北駅を置いたが︑この寧

北駅が牡丹江駅とされ︑軍事輸送のターミナル機能も旧

寧北駅に移され︑旧牡丹江駅は晧爾浜との直通不能とさ

れるほどの変更工事が行なわれた︒この中東鉄路の接収 *錫市原善積他編﹃南潤州鉄遺﹂一九七二年付戦﹁満鉄所管線駅名表﹂による︒同瞥︑556〜557頁 *満鉄鉄道総局建設局編﹁諭墨線建設概要﹂一九三七年︑1頁

9 5 ‑

(15)

211建設のための組織・建設費・規格

建設のための組織は︑一九三三年三月一日︑まず満鉄

に鉄路総局が設置されて︑国有鉄道の業務を統括するこ

中和亨lととし︑同時に満鉄の鉄道建設局が大連に設置されて建

設業務を担当することとした︒これは︑建設のための資

金の計画とその運用という点で満鉄の会計と別建てにす

る必要から採られた措置と考えられる︒じっさいに︑表

*322のように建設費の線路別予算額は計上されているが︑ に軍部の力がどのようなかたちではたらいたかについては︑関東軍が終始主璽権を握って進めようとしていたこ

*z9とが﹁八田文書﹂から推測される︒そこには満鉄にたい

する関東軍の不信が底流としてあったことをうかがわせ

る要素があり︑それは一九三三年以降のいわゆる満鉄改

組問題にもあらわれているが︑この中東鉄路接収は︑軍

事輸送の面でも大きな転換をもたらした︒東部国境の綏

芽河駅から三一キロの綏陽駅にかけてはロシア軌間の線

路が併設され︑綏陽付近にはロシア軌間用の車両が留置

されていたことが︑一九四一年七月関東軍作成の﹁東部

方面駅施設一覧図﹂から推測される︵しかし︑満州里付

近にロシア軌間用のいくらかの測線があるが︑進攻用の

傘30車両留置線としては規模が小さい︒この両者のちがいが

何によるものかはわからないが︑軍事輸送の重点が東正

面に置かれていたことは容易に推察できる︶︒ その決算額は記録として見ることができない︒その算定については別の機会にゆずることとするが︑このように別建ての会計方式をとるためにも︑鉄路総局のような別組織をつくる必要があったと思われる︒

この鉄路総局は︑一九三六年一○月一日鉄道総局とな

る︒それは︑満鉄が︑同社固有の線路︵社線︶︑国有鉄

道線︵国線︶︑図椚・羅津間など朝鮮北部の線路︵北鮮

線︶の統合的経営を実施するために設置されたもので︑

これにより満鉄は﹁満州国﹂内における鉄道運営の唯一

の機関としての地位を確立した︒中東鉄路接収当時︑国

線を満鉄から切り離そうと考えていたと思われる関東軍

の意向は︑これによって挫折した︒ここには軍事輸送の

ために不採算をかえりみずに鉄道を建設させた関東軍と︑

企業としての採算を放棄できない満鉄との対立がある︒

日本国内で一九一○年代終わりからはじまる不採算承知

で業務拡大のために建設を進めようとした政友会の建主

改従政策と︑これにたいする一部国鉄官僚の抵抗︵改主

建設政策︶に傾いた要素が見られるのである︒

関東軍は︑このような問題に止まらず︑1で述べたよ

うに︑新線から上がる利益金の関東軍経営費への繰り入

れを協定していた︒しかし︑一九三三年八月一四日の関

本33東軍参謀長の通牒に見られるように︑採算よりも戦略を

重視する方針を定め︑さらに新線区間における什準帝事業

を禁止した︒これは満鉄側にとって大きな打撃となるが︑ *犯﹁八田文魯﹂○○六三四一︑﹁第二次線及第三次線建設二関スル通牒﹂付表一九三三年二月九日︑﹁滴州国鉄道借款及委舵経営契約﹂成立時のもの*調﹁八田文画﹂○○○三三八︑一○二 *瓢﹁鉄路総局概要﹂一九三三年一二月︑﹁八田文暫﹂○一八○ *釦関東軍作成﹁北西部方面駅施設一覧図﹂一九四一年七月 *調﹁北潤鉄道接収要綱﹂﹁八田文掛﹂○四○一以下

− 9 6

(16)

衷2第二次線及第三次線瞳股二関スル通牒

暇 位 千 m 鍔邇碓餓費年度別表

粁 程 、 慣 金 額 年 度 別 資 金 肥事

7 , 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 線名 区 間

泰 東 克 東 4 0 2 . 7 2 . 7 5 0 海 倫 克 束 1 5 1 1 8 . 1 3 0 1 8 . 1 3 0 位 法 演 江 2 6 8 3 5 , 8 1 0 3 5 , 8 1 0 敦 化 闇 旧 1 9 1 3 2 . 3 4 0 3 2 , 3 4 0 朝 陽 川 上 烹 峠 7 m 2 m 7 , 2 拉 吟 納 河 4 0 4 , 4 3 0 4 4 3 0 (1)繋克

(2)海克 (3) (4)放岡 (5)天日 (6)位納

IIi鯆側ヲ 含ム

線計 7 5 0 I 伽 . 6 l 、 6 6 0

。 】 詔 一 夕

間燗牡丹江27012533.75017,5 16,250 北安大鵬河28011030,8 13,5309皿7,370

謝 河 瓢 爾 機 9 1 1 9 . 1 9 . 1

口北善子熱抑32012038.4 16.8 7.68013.920 葉 柏 癖 赤 峰 l 1 2 0 1 9 . 9 2 0 9 , 9 6 0 9 , 9 ⑩

1.12713197047.83043.7 31.2509,1㈹

而延海 (2)火胤河 (3)馴爾根 (4)熱河 (5)赤妹 禿 茨 煎 肝

'1〔楠焚ヲ 含マス

牡 丹 江 依 朋 2 4 8 1 0 5 2 6 , 山 o 江 東 催 木 斯 8 5 8 . 4 1 5 長 春 桃 安 3 4 0 7 0 2 3 , 8 王 爺 廟 索 倫 9 8 7 5 7 , 3 5 0 新民新郎推州1949017,460 四 平 街 西 安 8 7 7 5 6 . 5 2 5 索 倫 温 泉 1 5 0 9 0 1 3 . 5 梅 花 満 浦 頗 2 7 0 1 2 7 . 噸 海依線一密''11831m18,3 密 山 一 密 虎 間 】 伽 8 5 8 . 5 密 虎 間 一 虎 林 1 0 錘 p 太 平 川 魯 北 1 7 4 1 0 . O 魯 北 國 境 1 8 0 1 0 L & 皿 赤 峰 林 西 2 2 4 1 0 Z 塾 0 拉 吟 又 衲 河 誌 散 2 1 , 1 0 2 , 1

8.92517.115

両源依 (2)雌木斯 (3)長挑 (4)挑獺 (5) (6)四西 (7)潤州里 (8)輯安 (9)虎林 (10)魯北 (11)西 (12>拉諾 誌言茨繭詞

8 , 4 1 5 1 ( 楠 費 ヲ 1 0 , 7 8 0 1 3 , 0 2 0 含 マ ス

7,350

1 1 , 1 6 0 6 . 3 m 6.525

5.4m8.1

1 5 . 皿 6 . 皿 6 . 皿 18.3m

8.5伽 唖,

10.440 L凸凹 2.2釦 21

27,055 . 546,54016,44012,3 1.943167.330

伽︑︑伽813IL424111

郵唖岬唖111

迦加卸皿756455

皿唖︾唖6995555440880守り700277

44も?884411

幽岬岬輌134

塑鯉廼哩234

上部述設ナキ分ノ計 小誹

鎚巡合計 捻 合 3

社外線用資金 8年6月

資金穏算額比較表

蕊=茨穎悪霞雷‑1",6",皿延長750km 本表ニヨル国線鯛査書二

資 金 額 ヨ ル 1 3 年 度 末 資金額

件名

18年度末 資金額

第二次線建設費 第三次線建設(鐡道)

(道路)

雄羅線建設費 羅津港建設費 既成線整理費改良費 車輔費

1,127"

1,943"

679〃

〃″″皿咽咽皿皿皿皿?ザ?gや99扣犯卯叩卯鮖溺36265 93〃Aj931764690

11

膳一次線100,660,0"107,010,m0107,010,000 雄羅既車 ﹃嘩識羅津成輔 線港線費額

皿皿皿皿皿皿刃嫡卯叫叩〃ββjsm似鮖刀如31117皿皿皿皿皿皿の肥鯛︑叩0β99β5646940087423

36

皿皿皿皿皿

班廼蜘皿

砺砂釦調犯

35

線路理噸垂麺癖罐噸費轤計趣辮建二鐡建設改輔払小津雄第既車未羅 皿皿1188A4715855

26,皿,

備考

本表中横線ヲ下記シアル分ハ 資金ノ關係上一時上部建設ヲ 爲ササルモノトス

557,481,M0655,370,000757,614,0m 差額97,889,0叩

諏面孫亭2,皿.皿ハ計上七

9 7 一 一

参照

関連したドキュメント

︵人 事︶ ﹁第二十一巻 第十號  三四九 第百二十九號 一九.. ︵會 皆︶ ︵震 告︶

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

四二九 アレクサンダー・フォン・フンボルト(一)(山内)

目について︑一九九四年︱二月二 0