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行政刑罰法規の認識と故意

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(1)

行政刑罰法規の認識と故意

前 田 雅 英

一 はじめに

      ユ  このところ︑行政刑罰法規に関する故意の存否に関する重要な判例が目立つ︒刑法犯以外の重要犯罪が増え︑そ

れらの構成要件解釈が争われることが増えたことによる︒刑法理論︑とりわけ故意論は︑刑法典以外の領域の重要

性が一層高まっているといえよう︒

 そして︑昨年︑松原久利教授によりこの問題に関する非常に優れた研究書が刊行された︒既に刊行されていた

﹃違法性の意識の可能性﹄︵一九九二年︶を土台に︑さらに最新の判例学説を踏まえて故意.錯誤論を展開された

﹃違法性の錯誤と違法性の意識の可能性﹄︵二〇〇六年︶である︒

 行政刑罰法規の認識の問題︑さらにその前提となる故意論が詳論されている︒そこで︑本稿では︑学説における

故意の実質的理解について検討した上で︑その妥当性︑合理性を︑判例を素材に検証してみたいと考える︒

   行政刑罰法規の認識と故意       ︵都法四十八ー二︶   九

(2)

一〇

 行政法に直接関わる研究とはいえないかも知れないが︑本学法科大学院創立期に多大な貢献を頂いた村松先生の

学恩に些かでも応えられればと︑追悼号に執筆させていただいた次第である︒

︵1︶最三小決平成一八年二月二七日︵刑集六〇−二−二五三︶︑千葉地判平成一七年七月一九日︵判タ一二〇六−二八〇︶︑最

  二小決平成一七年四月二一日︵刑集五九−三⊥二七六︶︑札幌地判平成一六年一〇月二九日︵判タ=九九−二九六︶︑東京

 高判平成一六年六月二四日︵判タ一一七三⊥一二一︶︑最﹈小決平成一六年三月二二日︵刑集五八−三⊥八七︶︑最一小決 平成一五年一二月三日︵刑集五七−=⊥〇七五︶︑最二小判平成一五年一一月二一日︵刑集五七⊥○−一〇四三︶︑東 京地判平成一四年一二月一六日︵判時一八四一⊥五八︶︑東京地判平成一四年一〇月三〇日︵判時一八=ハ⊥六四︶︑ 横浜地判平成一四年九月六日︵判時一八〇四−一六〇︶等︒

二 ﹁違法性の意識と故意﹂の関する研究

 松原教授は︑﹁行政取締法規の場合︑単に外形的な事実の認識だけでは違法性の意識を喚起する可能性がなく︑

行為の社会的意味の認識が︑法規による禁止あるいは禁止事項への具体的な﹃あてはめ﹄と不可分に結合しでいる

ため︑事実の錯誤か違法性の錯誤か明確な区別がつけがたいといわれている︒では︑故意に必要な犯罪事実の認識

とは︑どこまでおよぶべきものであろうか︒﹂という問いに対して﹁構成要件該当事実の認識のうち︑その認識か

ら類型的に違法性の意識を喚起することが直接的に可能となるような意味の認識の有無を基進−として区別すべきで

       ユ ある﹂とされる︒そして︑そのような基準で︑従来の判例の判断を肯定的に評価されるのである︒

 このような故意論の前提となっているのは︑事実の錯誤と法律の錯誤の実質的区別に関する以下のような考え方

(3)

である︒ ﹁故意責任の実質という点に着目して︑区別の基準を実質化するという方向が示されるようになった︒西原博士

は︑﹁どのような事実の誤認について故意の阻却を認めるのが相当か﹂ということを出発点とされ︑﹃そもそも法律

が故意責任を過失責任に比べて非常に重いものとしているのは︑故意の場合には犯罪事実の認識があるのだから︑

法律としては行為者に対し︑その認識を基礎として行為の違法性を意識し︑その違法性の意識にもとついて違法行

為をやめるよう期待することができるからである﹄との前提から︑﹃法律が直接違法性の意識およびそれにもとつ

く違法行為の避止を期待できるような場合は違法性の錯誤であって故意の阻却を認めるべきではなく︑違法性の意      グ識への直接的な期待が可能になるような犯罪事実の認識を完成させるべきだとの期待しかできない場合にはじめ

て︑事実の錯誤として故意の阻却が認められる﹄という基準を示された︒藤木博士が︑﹃事実の錯誤は︑その認識

内容では︑およそ一般人が︑本来違法性の意識をもつはずがない︑といえる場合であって︑いわば︑災難による被

害惹起にすぎぬと認められる場合であるのに対し︑法律の錯誤は︑本来なら違法性の意識が喚起されることが期待

されるだけの事実認識をそなえていながら︑錯誤により違法ではないと思った︑というだけのことで︑そのような

錯誤による被害惹起は︑偶発事故とは考えられない︑というのが両者を区別する実体﹄と︑改めて基準を示された

のも︑同様の方向を示すものであろう﹂︵同書二八頁︶︒

 そして︑故意の実質について﹃犯罪事実の認識が故意責任において必要とされる意味は︑その認識があれば通常

そこから直接違法性の意識が喚起され︑反対動機の形成が可能になるという点にある︒犯罪事実の認識にいう﹃事

実﹄とは︑通常その認識から直接違法性の意識が喚起され︑反対動機を形成し︑行為を思いとどまることが期待で

きるような﹃事実﹄を意味するのである︒したがって︑そのような﹃事実﹄を認識しながら錯誤により違法性の意

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  二

(4)

       一二

識を欠く場合が違法性の錯誤であり︑その認識からは直接違法性の意識の喚起を期待できない場合が事実の錯誤で

あると理解することができる︒このような考え方は︑故意の成立に犯罪事実の認識が必要となる根拠・理由として

は妥当であると思う﹂と結論づけられるのである︒

︵1︶ 松原久利﹃違法性の錯誤と違法性の意識の可能性﹄三一︑三二頁︒

三 故意の提訴機能

 このような考え方と︑拙稿の考え方︵﹃現代社会と実質的犯罪論﹂二二一頁以下︶とは︑基本的に近いものとい

えよう︒﹁責任主義から﹁非難可能なだけの事実の認識﹂が要求される︒国民の規範意識からみて︑故意犯として

科される重い刑罰効果に見合うだけの非難を向け得る主観的事情が必要なのである︒そして︑現在の我国の﹁故

意﹂という言葉の持つ国語的意味に加え︑我国の刑事司法実務の現状を基礎に判断すると︑一般人ならばその罪の

違法性の意識を持ち得る犯罪事実の認識が︑故意非難を基礎付る主観的事情だと考えられる︒実際に﹁犯罪を犯し

ている﹂という認識があれば︑故意非難は可能である︒しかしそれのみでは︑刑事責任は狭きに失する︒一般人な

らば当然犯罪だと考える事実︑例えば爆弾で人を殺すことを認識していながら︑国家のためには殺すことは﹁犯罪

ではない﹂と信じて行為した者には︑故意非難を向けるべきである︒たしかに︑行為者本人にとってみれば︑正し

いと信じている以上︑何故非難されるのか了解不能であろう︒しかし︑非難可能性とは︑国民一般が納得し得る内

容のものであれば足りるのであって︑国民の全員が完全に了解する必要はない︒﹂という拙稿︵﹃刑法総論講義四

(5)

版﹄二一〇頁以下︶の故意の理解は︑﹁通常その認識から直接違法性の意識が喚起され︑行為を思いとどまること

が期待できるような﹁事実﹂の認識を要求する﹂という考え方と乖離はほとんどない︒

 ただ︑松原教授は﹁近年︑故意概念を実質化することにより︑故意の成立には一般人ならばその罪の違法性の意

識を持ちうる犯罪事実の認識があれば足りるとする実質的故意論が有力に主張されている︒この見解によれば︑す

でに故意の成否のところで違法性の意識の可能性は取り込まれており︑これと別個に違法性の意識の可能性は必要

ではないことになる︒しかし︑犯罪事実の認識に行為全体に対する規範的評価を含ませることには問題がある︒ま

た︑違法性の意識の可能性の問題を実質的故意の成否の問題に解消することはできないと思われる︒事実は認識し

ており︑一般人なら違法性を意識することが可能な場合であっても︑行為者には違法性の意識の可能性がない場合

には︑やはり責任は阻却されるというべきである︒実質的故意論は︑この場合には期待可能性の問題領域で処理さ

れるとするが︑期待可能性は違法性の意識の可能性とは別個の責任要件と解すべきであり︑両者は区別して考える

べきであろう︒やはり︑罪刑法定主義︑構成要件の故意規制機能︑故意の犯罪個別化機能の観点から︑故意は構成

要件に該当する客観的事実の認識の範囲で成立すると解すべきであり︑その範囲で提訴機能を認めるべきなのであ

る︒︵大谷實﹃新版刑法講義総論追補版﹄三六〇頁︶﹂とされる︒

 ﹁期待可能性﹂をどのようなものとして構成するか︑また責任非難を一般人基準と考えるか否かにもよるが︑﹁通

常その認識から直接違法性の意識が喚起され︑反対動機を形成し︑行為を思いとどまることが期待できるような事

実﹂を認識していたことが認定できれば︑原則として違法性の意識の可能性の存在を認めて故意非難は可能ではな

かろうか︒そして︑故意非難の可否は︑一般人を基準に判断せざるを得ないように思われる︒

 この点︑松原教授が︑罪刑法定主義を強調され︑﹁ここで注意すべきは︑罪刑法定主義の主観面における保障︑

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  二二

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一四

構成要件の故意規制機能の観点から︑実質的に違法・有責な行為であっても構成要件に該当しない行為は犯罪とは

なりえないのであるから︑故意は構成要件に該当する客観的事実の範囲でのみ成立するということである︒そこか

ら︑まず︑違法性・責任という刑法的評価を基礎づける類型的な要素である構成要件に該当する客観的事実が故意

の認識対象ということになる︒﹂ということを強調される︒

 そして︑拙稿に対してはコ般人ならばその罪の違法性の意識を持ちうる犯罪事実の認識として︑故意の内容に

違法性の意識の可能性を取り込む見解がある︒これに対しては︑違法性の意識︵の可能性︶がある以上︑構成要件

要素の認識がなくても故意があることになり︑抽象的符合説に至るという︑実質的故意論に対して加えられた批判

が妥当する︒違法性の意識が可能であっても︑構成要件該当事実を認識していない場合には故意の成立を認めるこ

とはできないのである﹂と批判される︵松原・前掲書三〇頁︶︒

 ただ︑松原教授も︑﹁故意責任の本質から︑構成要件に該当する客観的事実について︑その認識から類型的に規

範の問題が与えられる︑あるいは︑直接違法性の意識の喚起を期待できる程度の認識が必要である︒こうして︑そ

のような認識がありながら︑錯誤により違法でないと考えた場合が違法性の錯誤である︒これに対して︑その認識

からは類型的に規範の問題が与えられない︑あるいは︑直接違法性の意識の喚起を期待できない場合が事実の錯誤

であると理解することができる︒このことからも︑違法性の意識の可能性を欠く場合を責任阻却事由として位置づ

けることは説明できる﹂とされるのである︒

 しかし︑拙稿も︑一般人がその罪の違法性を意識しうる認識という説明の前に﹁まず︑いかに皆が﹁悪い行為﹂

と考えても︑法が犯罪と定めた行為の認識が欠ければ処罰し得ない︒刑法の根本原則である罪刑法定主義から︑

﹁法的犯罪類型の認識﹂が要請されるとするのである︒当該犯罪類型の主要部分についての認識が必要である︒﹂と

(7)

している︒およそ﹁何らかの違法性の意識の可能性﹂があれば故意があるとはしていないし︑そもそも﹁その罪の

違法性の意識﹂としているのは︑抽象的符合説を排除することを意識したものである︒

 その意味で︑松原説と拙稿は︑あまり差がないといえよう︵期待可能性の考え方の差は存在するが︶︒少なくと

も︑故意の有無の判断から︑﹁違法性の意識の喚起﹂という実質的視点を排除する立場︑すなわち︑﹁形式的構成要      ︵1︶件事実の認識﹂に限定しようとする立場とは対極に存在するのである︒

 松原教授と拙稿の決定的な差は︑実際上︑阻却事由としての違法性の意識の可能性を論じる余地がどの程度存在

すると考えるかにあるといってよい︒同書一五四頁において︑教授は︑﹁故意責任が過失責任より重いのは︑犯罪

事実を認識すれば︑当然そこから違法性の意識が直接喚起され︑違法行為を思いとどまることが期待されるにもか

かわらず違法行為に出たからである︒違法性の意識の可能性は︑行為者の意思形成に作用して︑反対動機として機

能しうる状況にあるのにもかかわらず違法行為に出たことについて︑非難を成り立たせる要素である︒しかし︑犯

罪事実の認識があれば通常違法性の意識の可能性を伴うものであるから︑この犯罪事実の認識が故意責任の原則的・

条件をなすものである︒ここから︑違法性の意識の可能性は積極的な責任要素と理解すべきではなく︑むしろ消極

的責任要素として︑すなわち違法性の意識の可能性の不存在をもって責任阻却事由と考えるべきである︒次に︑故

意責任を問うために必要な違法性の意識の可能性の問題は︑犯罪事実の認識はあったが違法性の意識を欠いていた

ことを前提とする︒故意に必要な犯罪事実の認識とは︑構成要件に該当する事実のうちで︑それを認識すれば類型

的に直接違法性の意識の喚起が可能となるような内容および意味をそなえた事実の認識をいう︒また︑違法性の意

識とは︑具体的な自己の行為が法的に許されないことの意識をいう︒この意識によって意思を法規範に従った行為

へと動⁝機づける可能性が基礎づけられ︑最も重い責任非難が根拠づけられる︒﹂とされるのであるが︑﹁それを認識

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  一五

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一六

すれば類型的に直接違法性の意識の喚起が可能となるような内容および意味をそなえた事実の認識﹂がありながら

違法性の意識が欠けて責任非難が認められる場合は︑非常に少ないように思われるのである︒

︵1︶ 松原教授は︑範的構成要件要素の錯誤に関し︑=般的には︑ある事実を一定の法的概念にあてはめる前段階として︑  その社会的・一般的意味を誤解している場合は︑その認識から直接違法性の意識を喚起することは期待できないから︑

  そもそも犯罪事実の認識を欠き︑事実の錯誤ということになる︒しばしば問題となるのは︑文書の﹁わいせつ性﹂︑物の

  ﹁他人性﹂︑公務員の職務行為の﹁適法性﹂などである︒これらの社会的意味の認識を欠く場合が事実の錯誤であること  は︑学説においては承認されている︒これに対して︑判例は︑犯罪事実の認識としていわば裸の事実の認識で足りると

  すると思われるものと︑意味の認識を考慮したと思われるものとに分かれる︒判例に対する学説の評価は一致していな

  いが︑違法性の意識の直接的喚起可能性という点で意味の認識をとらえ︑必要なのはどの程度の認識かという観点から︑  犯罪事実の認識の有無を判断すべきである︒この場合︑禁止自体の認識が要求されるのではなく︑その基礎となる事実

  の属性の認識があれば足りると思われる﹂とされるが︑この点も︑拙稿の﹁一般人が一七五条の違法性を意識しうるだ

  けの認識が認定できるのか﹂を問うのと同一であるといってよい︒

四 行政刑罰法規の認識の判断構造

 ただ︑問題は︑わが国の判例が︑松原説のように︑故意の認定の前提として﹁それを認識すれば類型的に直接違

法性の意識の喚起が可能となるような内容および意味をそなえた事実の認識﹂︑すなわち﹁その罪の違法性を意識

しうる事実の認識﹂を要求しているのかという点なのである︒もちろん︑理論的には︑さまざまな故意論が可能で

あるが︑ここでは︑判例の結論を合理的に説明が出来るか否かという尺度から検討してみることにする︒

ここで重要なのが︑最決昭五四年三月二七日︵刑集三三−二⊥四〇︶の存在である︒最高裁は︑覚せい剤のつも

(9)

りで麻薬を輸入した場合にも故意犯である麻薬輸入罪の成立を認めた︒麻薬輸入罪と覚せい剤輸入罪は別の法律に

規定された︑その意味で完全に別個の構成要件であるにもかかわらず︑麻薬を輸入する罪の故意に麻薬の認識は不

要だとした︒そして︑この最高裁の結論は︑学説の支持を受け︑﹁麻薬ではない覚せい剤だと思っていても︑故意

に麻薬を輸入した罪が成立する﹂という結論が通説となった︒その結果︑﹁故意とは構成要件要素の認識である﹂      ︵1︶という形式的説明は︑それだけでは通用力を失っていったのである︒故意を﹁客観的構成要件事実の認識﹂として

形式的に定義することでは︑問題は解決しない︒実際の争いは︑﹁構成要件のどの部分を︑どの程度に認識する必      ︵2︶ ︵3︶要があるのか﹂﹁そもそも︑構成要件のすべてを認識する必要があるのか﹂なのである︒

 この点を象徴するのが︑最判平元年七月一八日︵刑集四三−七−七五二︶の評価に関する対立であった︒最高裁

は︑許可を要する公衆浴場営業を︑正式の許可は下りていないものの許可があったと認識して営業を続けていたと

きは︑無許可営業罪の事実に関する錯誤であるとして故意は認められないとしたのである︒しかし︑従来の学説か

らは︑正式の許可が下りていないことを認識している以上無許可の認識はあり︑禁止された無許可営業を﹁許され

ている﹂と誤信した法律の錯誤の問題とすべきようにも思われる︒ところが最高裁は︑これを事実の錯誤だとし︑       ︵4︶故意の存否は自然的な事実の認識の有無の審査により形式的には決定し得ないことを示したのである︒

 事実の錯誤と法律の錯誤の区別︵故意の有無の判断︶は︑﹁事実の認識の誤りかその評価の誤りか﹂という形で

形式的に行うことができないことは︑後述の判例に示されている︒錯誤により犯罪事実の一部につきその認識が欠

けても︑常に故意非難が不可能なわけではないことは明らかである︒﹁故意を否定する事実の錯誤﹂とは︑犯罪事  才

実の内でも重要な部分に関する錯誤に限られるのである︒

 そこで︑故意を形式的に﹁犯罪事実の認識﹂とするのではなく︑﹁故意非難を可能とするだけの犯罪事実の認識﹂

   行政刑罰法規の認識と故意       ︵都法四十八ー二︶  一七

(10)

一八

と解さねばならない︒松原教授の提示した︑﹁それを認識すれば類型的に直接違法性の意識の喚起が可能となるよ

うな内容および意味をそなえた事実の認識﹂の存否が吟味されることになろう︒問題は︑そのような認識が認定さ

れながら︑故意非難が不可能となる場合が︑どれだけ存在するのかである︒

︵1︶ 最決昭和五四年三月二七日︵刑集三三−二⊥四〇︶は︑営利の目的で麻薬であるジアセチルモルヒネの塩類粉末を覚  せい剤と誤認して輸入した場合︑麻薬取締法六四条二項︑一項︑一二条一項の麻薬輸入罪が成立するとした︒その前提  として実務では︑覚せい剤と誤信して麻薬を所持した場合の罪責︑両者は共にその中毒性習慣性のため個人並びに社会  の保健衛生に危害を及ぼすことの多い薬剤について濫用を取締ろうとするものでその目的を同じうし︑且つ︑その取締  方式においても極めて相似たものがあるのであつて︑両者別異の法律を以てこれを規定したのは単に沿革的理由による

  にすぎないのであり︑また︑その刑に軽重あるのはその毒性の程度の差によるものというべく︑両者がその罪質を異に

  するものと解することができないとしてきた︵大阪高判昭和三一年四月二六日高刑九⊥二⊥二一七︶︒そして︑最決昭和六

  一年六月九日︵刑集四〇−四−二六九︶も︑﹁覚せい剤を麻薬であるコカインと誤認して所持し︑麻薬所持罪︵七年以下︶  を犯す意思で覚せい剤所持罪︵一〇年以下︶に該たる事実を実現したが︑⁝⁝麻薬と覚せい剤との類似性にかんがみる

  と︑この場合︑両罪の構成要件は︑軽い前篠の罪の限度において︑実質的に重なりあっているものと解するのが相当で  ある︒被告人には︑所持にかかる薬物が覚せい剤であるという重い罪となるべき事実の認識がないから︑覚せい剤所持

  罪の故意を欠くものとして同罪の成立は認められないが︑両罪の構成要件が実質的に重なる限度で軽い麻薬所持罪の故

  意が成立し同罪が成立するものと解すべきである﹂としている︒町野朔﹁法定的符合について下﹂警察研究五四・五・八︑

  林幹人﹁抽象的事実の誤﹂上智法学三〇−ニー−三−二四八等参照︶︒

︵2︶ 例えば︑必ずしも規範的構成要件要素とはされない﹁監禁﹂の認識も︑形式的には確定し得ない︒東京高判昭和三五  年一二月二七日︵下刑二⊥一11一二−=二七一︶は︑物置小屋にかんぬきを施し内部から出られないようにして精神病  者を収容した事案につき︑俳徊し転落する等の危険を防止するのが目的であつて右は同女の身体の安全と平穏とを保護

  する目的のためやむを得ず執つた措置であつてその自由を拘束して不法に同女を監禁する意思ないし認識はなかつたと  認定している︒さらに詐欺の認識について︑札幌地判平成一六年一〇月二九日︵判タ一一九九−二九六︶参照︒

︵3︶ そもそも︑構成要件のどの部分について認識すべきかについても︑形式的には確定しない︒最決平成九年四月七日

(11)

  ︵刑集五一−四−三六三︶は︑﹁公職選挙法一九九条の二第一項︑二四九条の二第一項の罪が成立するためには︑寄附を受 ける者において当該寄附が公職の候補者等により行われたことや当該選挙に関して行われたことの認識は必要としない と解すべきである﹂としている︒さらに︑当該要件を認識すべきであるとしても︑どのような事実認識があれば︑故意

  が認定できるかは︑さらに実質的解釈を要する︒例えば最決平成九年七月一〇日︵刑集五一⊥バー五三三︶は︑国立公園  の第一種特別地域に指定された海岸で石さんごを採取する行為は自然公園法一七条三項三号にいう﹁土石を採取するこ

  と﹂に当たるとした︒﹁サンゴを採取した﹂ことを認識していれば︑﹁土石を採取した﹂と常に︑いえるわけではなく国立

  公園内の特殊な状況が考慮されている︒

︵4︶ 共犯が関連する場合には︑より一層﹁構成要件の認識の実質化﹂が問題となる︒有助者は︑正犯の実行行為の内容を 表象し自己の行為がそれを容易にするものであることを認識している必要があるが︑葡助者としては︑正犯の日時.場

 所・目的・手段・態様等の細部まで具体的に表象している必要はなく︑特定の犯罪についてその内容をある程度概括的に表

 象していれば足りるといえよう︵東京高判昭和五一年九月二八日東高刑報二七−九⊥二八︶︒

五 判例と行政刑罰法規の認識

 犯罪の認識という場合には︑様々な段階が考えられる︒例えば︑殺人罪の場合︑①ピストルを胸に撃ち込むこと

の認識︵裸の事実の認識︶︑②それが﹁殺すこと﹂を意味することの認識︵社会的・規範的意味の認識︶︑さらに︑

③殺すことが悪いことであることの認識︵違法性の認識︶︑最後に④刑法一九九条に該当することの認識︵具体的

条文の認識︶である︒記述的構成要件要素の場合には︑形式的・裸の事実の認識表象︵①︶があれば︑一般人は違

法性の意識を持ち得る︒故意の成立に①が必要で︑④までは不要であることは争いがない︒そして︑判例は③は必

要ではないと解して疑・たしかに③まで存在すれば・非難は+分に可能である・しかし︑行為者が﹁違法でな

い﹂と確信しさえすれば故意が欠けるとするのは不合理なのである︒

行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  一九

(12)

二〇

 この点︑行政刑罰法規は︑法規の制定によってはじめて何が禁じられるかが決まる側面が強く︑構成要件該当の

﹁生︵裸︶の事実の認識﹂のみでは一般人は行為の違法性を知り得ないことが多い︒追越し禁止区域の追越しを例

に考えると︑認識すべき対象は︑①車を追い越すことの認識︑②追越し禁止区間で追い越すことの認識︑③違法性

の認識︑④具体的条文の認識の四段階が考えられる︒そして︑車を追い越しただけの認識では︑一般人は︑同罪の

違法性を意識し得ない︒﹁行政犯は違法性の意識のある場合にのみ処罰すべき﹂だという有力説も存在した︵牧野

英一﹃重訂日本刑法上巻総論﹄︵一九四一年︶二一四頁︶︒自然的な認識では故意非難ができないという点を強調す

ると︑たしかに違法性の意識まで要求することも合理的であるかに思われる︒これに対し︑多数説は︑﹁行政目的

に基づく広い処罰の要請﹂を考慮し︑事実上自然的な事実の認識のみで故意の成立を認めた上で︑違法性の意識の

可能性で処罰範囲を限定しようとしているように思われるのである︒

 しかし行政刑罰法規の場合も︑判例は﹁違法性の意識の可能性の有無﹂で︑故意の存否を判定していないように

思われる︒そして︑自然的事実の認識の有無により形式的に故意の存否を判断するわけでもない︒故意責任を基礎

づける為には︑違法性の意識は不要であるものの︑②の=般人ならばその罪の違法性を意識し得るだけの重要な

犯罪事実の認識﹂は必要だとしているように思われるのである︒その内容が︑具体的な犯罪類型ごとに実質的に検

討されて来たように思われる︒判例もまさに︑その点に腐心してきたのである︒

︵1︶ 最判昭和二四年四月九日︵刑集三−四−五〇一︶は︑具体的にいかなる法令によつてその行為が禁止せられているかを

 知らなかつたとしても︑故意の成立を阻却するものではないとし︑最判二五年二一月二六日︵刑集四−一二−二六二七︶ は︑﹁犯意があるとするためには犯罪構成要素である事実を認識すれば足りその行為の違法を認識することを要せ﹂しな

(13)

いとしている︒

︵1︶犯罪事実の認識の必要性

 判例の故意概念を理解する上で︑まず確認しておかねばならないのは︑判例も︑②違法性を意識させるだけの認

識まで要求している︒東京高判昭三〇年四月↓八日︵高刑集八−三−三二五︶は︑﹁同令二一条一項に違反する公安

委員会の定める場所︑すなわち︑いわゆる追越禁止地域における他の自動車を追い越す罪の犯意とは︑追越禁止区

域内で他の自動車を追い越すという認識を意味するものと解するのが相当である﹂として追越し禁止の認識が必要         ︵1∀であると明示している︒

 そして︑規制標識等の認識が欠ければ︑原則として故意責任は否定されている︒大阪高判昭和二八年四月二八日

︵高刑判特報二八−二一︶は︑自転車には殆んど乗らない引揚帰還した行為時六三歳の老人が﹁子供に頼まれ子供用

の自転車で天神橋北詰東側にある果物屋へ果物を買いに行つた帰途の出来事であつたこと被告人はこれまでに天神

橋南詰は通るが北詰は通らないこと右果物屋からの帰途被告人は自転車に乗つて直ちに道路に出ると危険と考え自

転車を押して少し横断道路に出てから左右を見て具体的に危険の発生の虞ないことを確めた上自転車に乗つて横断

行為に出たこと当時被告人は眼鏡を携帯していなかつたこと等が認められ又原審並び当審検査の結果に徴すれば横

断禁止標識は東西に通ずる幅員十二米の道路の南側警ら連絡所の横の電柱に打ちつけてあるから被告人はその反対

側なる道路北側果物屋を出て自転車を押して進むことにより直ぐ右標識を認め得る位置を通過し去つてしまう状況

   行政刑罰法規の認識と故意       ︵都法四十八−二︶  二一

(14)

       二二

にあることを窺知することができる︒以上当時の被告人の身状︑動作︑時刻の点︑附近の模様等諸般の事情から推

考するときは被告人が右連絡所横に横断禁止の標識のあるのを知りながらも強いてこれを無視してまで横断行為を

敢行せんとする意図を有したものでなく寧ろ右標識の存在を認識しなかつた即ち横断禁止の事実を知らなかつたが

ためにその挙に出たものと認めるのを相当とするから被告人のこの点の弁解は措信すべく同人には本件犯罪構成要

件たる禁止事実の認識を欠き故意なきものと断ぜざるを得ない﹂としている︒

 同様に大阪高判昭和四三年一月三〇日︵下刑一〇⊥−五〇︶も﹁道路交通法四三条にいう公安委員会が行う一時

停止の指定は同法九︑同法施行令七条の規定に照らし︑その処分の内容を標示する道路標識の設置によつてなされ

なければ法的効力を生じないと解されることから︑当該交差点の指定場所が道路標識の設置によつて一時停止を命

ぜられた場所であることは同法四三︑一一九条一項二号違反の罪の構成要件の内容をなす事実であるとみるべきで

あり︑同条二項には右罪の過失犯も規定されているのであるから︑右罪の故意犯を認めるには右のような道路標識

を現認することまでは必ずしも必要でないとしても︑少くともその存在を認識して一時停止すべく指定された場所      ︵2︶であることを知つていなければならないと解せられる﹂としている︒

 また東京高判昭三五年五月二四日︵高刑集=二−四−三三五︶は︑銃猟禁止区域であることの認識が必要であると

している︒さらに︑銃猟禁止期間であることの認識がなければ︑禁止期間内の銃猟行為として処罰することはでき

ないであろう︒そして︑最判平成元年七月一入日は︑正式の許可は下りていないものの︑許可があったと認識して       ︵3︶営業を続けていたときは︑無許可営業罪の故意は認められないとしたのである︵前述一六頁参照︶︒

 この他︑GHQの覚書により︑寺院規則が無効になったと信じた場合に︑公正証書等原本不実記載罪の故意を否

定した最判昭和二六年七月一〇日︵刑集五−八⊥四一一︶︑公職選挙法一四六条違反の葉書の郵送頒布行為の故意

(15)

がないとした名古屋高判昭和二九年七月二九日︵高刑裁特報一−二−九三︶︑封印破棄罪の成立があるというために

は︑その封印︑差押の標示をした公務員の行為が適法であることを要するとした札幌高函館支判昭和三↓年八月二

一日︵高刑裁特報三−一六−八〇六︶︑裁判上の和解により差押がなくなつたものと誤解して家屋に対する仮処分の

公示書を剥離した行為について犯意を阻却するとした神戸地判昭和三三年七月二二日︵判時一六入−三三︶︑昭和三

五年法律一四〇号による改正前の火薬類取締法六〇条一号︑二七条一項︑同法施行規則六七条の罪が成立するため

には︑火薬類の投棄海面が海岸より八㎞未満であることまたは水深が二〇〇m未満であることを認識していること

を要し︑これを認識していないときは犯意の成立を阻却すると解した大阪高判昭和三八年七月一九日︵高刑一⊥→

六−四五五︶などが存在するのである︒

︵1︶吉井簡判昭和三四年八月六日︵下刑集一−八⊥七六八︶参照︒

︵2︶ 広島簡判昭和三四年二月一九日︵下刑一−二−四二六︶も︑﹁道路標識による通行禁止の事実は犯罪構成要件事実に属す  るものと解すべく︑右事実の認識の欠如は犯意を阻却するものといわなければならない︒しかして本件において被告人  が本件道路が道路標識によつて通行を禁止されている道路であることを認識していたことを推認するに足りる的確な証  拠は何もないから︑被告人には本件犯罪の成立に必要な犯意の存在を肯認することができない﹂とし︑田川簡裁昭和三

  四年七月三〇日︵下刑集一−七−一七二五︶も﹁過失による道路標識の不認識の結果︑速度制限に違反した所為は処罰の

  対象となし得ず︑そして本件全証拠を検討するも被告人が前示道路標識を認識していたと認め得る証拠がないので︑刑

  事訴訟法第三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をする︒

︵2︶ 八日市簡判昭和四七年一月二四日︵刑月四⊥二七七︶は︑花火の打ち上げを日の出の合図と誤信して日の出前に銃  猟行為をした者につき︑鳥獣保護及狩猟二関スル法律一六条一=条一項一号にいう﹁日の出前二銃猟シタ﹂罪の故意を

  阻却するとして無罪の言渡しをしている︒

行政刑罰法規の認識と故意       ︵都法四十八ー二︶  一二二

(16)

二四

︵2︶ 判例と必罰主義

 学説の多くは︑﹁故意がありさえすれば︑違法性の意識を問題にせず処罰するという態度は余りに必罰主義的で

ある﹂と批判する︵中山﹃刑法総論﹄三七〇頁︑大谷﹃新版刑法講義総論﹄三六〇頁︶︒

 たしかに︑戦後直後の薬物規制や物価統制に関する法令に関する事案に関し︑一見すると︑かなり厳しい故意認

定が見られるようにも思われる︒例えば︑最判昭和二六年一月三〇日︵刑集五⊥﹈−三七四︶は︑﹁違法の認識は犯

意成立の要件ではないのであるから︑刑罰法令が公布と同時に施行されてその法令に規定された行為の違法を認識

する暇がなかつたとしても犯罪の成立を妨げるものではない︒されば被告人が昭和二一年六月一九日麻薬取締規則

が公布され同日以降施行されていたことについて︑これを知らなかつたとしても︑かかる法令の不知は未だ犯意の

成立を妨げるものではないから︑同日以降の被告人の判示所為に対して右規則を適用して処断した原判決は正当で

ある﹂と判示している︒そして︑札幌高函館支判昭和二五年九月八日︵判タニ一丁五三︶も︑昭和二四年九月二九

日付官報号外物価庁告示で鯨卸売価格が指定されたが︑官報は被告人の行為地である北海道焼尻島には発行後一五

日位しなければ到達せず︑本件行為日は四月二日であつて右官報到達前であつたから被告人は事実上右統制額を知

り得なかつた︑という事案に関し﹁法令は所定の手続に従つて公布されると同時に全国にわたつて公布の効力を生

じ︑その法令を掲載した官報その他が行為者の所在地若しくはその行為地に到達したか否か︑或いは行為者が右官

報等によつてその法令を知つたか︑若しくは知ることができたか等を問わない︒﹂として本件も被告人に犯意なし

となし得ずとした︒

(17)

 ただ︑法令の具体的内容の認識がなくとも︑一般人であれば当該行為が規制されていることを認識しうるだけの

事情は存在しうるのである︒たしかに︑追い越し禁止区間であることを知らなければ追い越し禁止の罪の犯意を欠

くが︑麻薬や物価統制が行われている物に関しては︑具体的法令の内容を認識していなくても︑当時の国民が共有

していたと推定される知見からすると︑故意非難は可能となりうる︒

六 実質的な故意の認定

︵1︶有毒飲料の認識

      ハ  判例の故意の有無の判断を︑行政刑罰法規の中でも︑特に問題になることの多い類型について整理してみると︑

その保護法益・法規範の特色などから︑それぞれの個性が見られるものの︑一般人であれば当該犯罪類型の違法性

を意識しうる認識を有したか否かで︑故意の存否を判断していることが確認できる︒

 戦後︑メチルアルコールを中心とした有毒飲料販売行為の故意が実務上激しく争われた︒まず判例は︑メタノー

ルを含有する飲食物の販売の禁止を定めた法規に違反した事案に関して︑﹁メタノールであるとのはっきりした認

識はなかったが之を飲用に供すると身体に有害であるかもしれない﹂という程度の認識では故意がないと判示し

た︒﹁身体に有害であるものは同令第一条に規定したメタノール又は四エチル鉛だけでなく他にも有毒な物は沢山

ある﹂とする︵最判昭和二四年二月二二日刑集三−二−二〇六︶︶︒たしかに︑抽象的.一般的違法性の意識を有した

にすぎない場合はもちろん︑﹁有毒飲料の認識﹂が存在しただけでは︑メタノール販売の罪の重要部分の認識とし

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  二五

(18)

二六

ては不十分である︒﹁飲料﹂には種々のものが含まれ︑たとえ毒性のあるものに限ったとしても︑かなり様々なも

のが考えられる︒故意犯が成立するには︑その販売が特に禁じられた﹁メタノール﹂の認識は必要なのである︒

 しかし︑最大判昭和二一二年七月一四日︵刑集二−八−八八九︶は︑﹁有毒なメチルアルコール﹂であるという認識

で︑メタノールを飲料用に所持し譲渡した被告人が﹁メチルアルコールがメタノールと同一のものであることを知

らなかった﹂と主張したのに対し︑たとえ知らなかったとしても事実の認識に欠けるところはないとした︒﹁メチ

ルアルコール﹂であることを認識していれば︑構成要件上の﹁メチルアルコール﹂の認識は認められるのである︒

 さらに︑一立方センチメートル中三〇〇ミリグラムのメタノールを含有するアルコールを飲料として販売した者

が︑他人から︑専門家が鑑定して販売して差支えない物だと告げられたとしても︑自ら試飲して味が悪いし︑又ド

ラム缶に入つているので変だと思い︑一般にいわれているメチールが入つているのではなかろうかと疑を起こしな

がら︑確実な検査をしないでそのままこれを販売したのであれば︑有毒飲食物等取締令一条違反の故意ある︵最判

昭和二三年一二月七日刑集二⊥三⊥七〇二︶︒

 しかし︑﹁判示品物がメタノールであるとのはつきりとした認識はなかつたが︑これを飲用に供すると身体に有

毒であるかも知れないと思つたにもかかわらず︑飲用に供する目的でこれを所持し又は販売した﹂というだけで

は︑同条項違反の罪の故意に必要な事実の認識の判示を欠くとするのである︵最判昭和二四年四月二一二日刑集二丁

五−六一〇︶

︵1︶ いわゆる薬物犯罪につては︑かつて分析を加えたことがあるので︵﹁故意の認識対象と違法性の意識﹂刑法雑誌三四−

 三−四二︶︑本稿では略すことにしたい︒

(19)

︵2︶物価統制令違反

 最高裁は︑正当の事由なくして︑連合国占領軍の物資を入手し︑所持する行為について︑それが禁じられている

ことは︑わが国民の常識であつたとし︑被告人も本件犯行の当時新聞紙の記事等からして︑右の程度の認識のあつ

たことは一件記録上うかがわれる以上︑政令の公布後短日月なること等より当時︑当該行為が法令上禁止せられて

いるとの意識がなかつたという主張は︑法の不知の主張に過ぎず犯意は認められるとした︵最判昭和二四年四月九

日刑集三−四−五〇一︶︒最高裁は﹁具体的に︑いかなる法令によつてその行為が禁止せられているかを知らなかつ

たとしても︑既に前段説明のごとくその所為の反社会性についての認識のあつたことが認められる以上︑その所為

の所為について︑右政令違反の罪責を免れないことは︑当然といわなければならない﹂としている︒

 最判昭和二四年四月二六日︵刑集三−五−六四七︶は︑旧食糧管理令一〇条に関し︑同条違反の罪の犯意ありとす

るには︑米麦等の所有者が︑法定の場合を除いて︑その所有する米麦につき政府又は地方食糧営団その他農林大臣

の指定する者以外の者に対して売渡等をすることの認識があれば足りるとし︑最判二五年一二月二六日︵刑集四−

=二−二八八五︶は︑物価統制令にいう価格等の統制額を超過して取引することの許容されるいわゆる法定の除外

事由に関し︑宮城県防犯課長及び同水産課長から統制額超過の黙認があつたため被告人が黙認価格ある場合は法定

の除外事由ある場合にあたるものと誤信していたとしても︑故意は認められるとした︒物価統制令違反の犯罪行為

についてはその犯意の成立について違法の認識を必要としないものと明言している︵前述平成元年判決と比較して

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  二七

(20)

二八

興味深い︶︒

 また︑最判昭和二五年一二月二六日︵刑集四−一二−二六二七︶は︑京都における一流の衣料品問屋常務取締役の

言を信じ本件ガラ紡織物は統制外の品であると思料して本件取引に及んだもので︑違法の認識がないから罪となら

ないとの主張を退け︑犯意があるとするためには犯罪構成要素である事実を認識すれば足りその行為の違法を認識

することを要しないとした︒そして︑最判昭和二六年一一月一五日︵刑集五⊥二⊥二二五四︶も︑犯意があるとす

るためには︑犯罪構成要件に該当する具体的事実を認識すれば足り︑その行為の違法を認識することを要しない       ︵2︶し︑また︑その違法の認識を欠いたことにつき過失の有無を問うを要しないとしている︒

 このように︑物資統制に関する事案に関しては︑法令の認識を不要とする傾向が強いが︑そこには︑統制に関す

る当時の国民の知識情況に加え被告人等の﹁統制品の認識の欠如の主張﹂を安易に認め得ない刑事政策的事情も加

味されているように思われる︒

︵2︶ 福岡高判昭和二六年一月一六日︵高刑四−一⊥ハ︶︑は事実上黒砂糖の価格統制が撤廃される以前に︑それが撤廃された

 旨の新聞記事が掲載され︑被告人が右記事を信じたとしても︑この一事を以て被告人に価格統制違反の犯意がなかつた ものと断ずることはできないとし︑札幌高判昭和二五年五月一三日︵判タニニー五三︶も︑統制品であることを知らなか

  つたことは法の不知で︑犯罪の成立を妨げないとしている︒なお︑大阪高判昭和二五年三月七日︵判タ入−五六︶参照︒

︵4︶道路交通関連法規の認識

(21)

 前述のように︑追い越し禁止区域の認識が欠ければ︑追い越し禁止の罪の故意は認められない︒ただ︑例えば︑

法定速度より低い最高速度の指定がなされている道路において︑法定速度を超える速度で走行した認識があれば︑

指定による制限速度を知らなかつたとしても︑指定速度違反罪の故意犯は成立する︵広島高判昭和五五年七月八

日︑高刑三三⊥二−二六一︶︒法定速度の認識は絶対的なものではないのである︒

 岡山地判昭和四三年二月一日︵判時五〇九−七六︶は︑﹁被告人は︑同所が岡山県公安委員会により道路標識をも

つて︑最高速度を四〇㎞毎時と定められていたことを知らなかつたと供述し︑これを覆すに足る証拠がないので︑

被告人には指定制限速度が四〇㎞毎時であるとの認識がなかつたものと認めざるをえないが︑被告人の当公判廷で

の供述によると︑被告人には法定制限速度六〇㎞毎時をこえて自動車を運転していたとの認識があつたと認められ

るので︑それが指定であれ又法定であれともかくも制限速度に違反しているとの点の認識において欠けるところは

ないから︑講学上いわゆる具体的事実の錯誤の一場合として︑指定された制限速度についての認識がなくても︑そ

の違反の過失犯が成立するのではなく︑故意による指定制限速度違反罪が成立するものと解すべきである︒﹂とす

るが︑当然であろう︒

 運転に関する或る事項を︑それが法によつて禁止されていることを知らずに行つた場合︑その者に故意ありと言

うべきか否かは︑その当該禁止事項の内容・性質によつておのずから異つてくる︒﹁当該禁止事項の内容・性質から

みてそれが運転者として当然守らねばならないことであり︑運転者一般に対しその禁止規定を侯つまでもなく︑そ

の行為に出ないことが期待されるような場合にあつては︑運転者がかかる行為を為すことの認識を有する以上︑故

意の成立要件に欠けることろはなく︑更に進んでこれが法によつて禁じられているということの認識までは不要と

いうべきである︒これに反しその禁止事項の内容・性質からみてそれが禁止されていることが︑運転者として意外

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  二九

(22)

三〇

のことであり︑運転者一般に対し︑それが法によつて禁止されているということを承知していない限り︑特に当該

禁止行為に出ないことが期待できないような場合にあつては︑かかる行為を為すことの認識があるだけでは︑行為

者に故意があるものとは言えず︑その者に故意ありとするためには︑更にそれが法によつて禁止されているという

ことの認識を有していることが必要というべきである︒﹂︵土浦簡判昭和三八年二月二五日下刑五⊥H二⊥〇五︶︒

 東京高判昭和三八年一二月=日︵高刑一六−九−七八七︶は︑サンダルをはいて自動車を運転した事実の認識が

ある以上︑サンダル等をはいて自動車等の運転をすることを禁止している道路交通法七一条七号等の規定を知らな

かつたとしても︑同法違反の罪の犯意の成立を妨げるものではない︒県の公安委員会規則で﹁運転の妨げとなるよ

うな服装をし︑又は下駄︑スリッパ︑サンダルその他これに類するものをはいて自動車又は原動機付自転車を運転

してはならない﹂と定められていたにもかかわらず︑それを知らずにサンダルで自動車を運転した事案につき︑

﹁サンダルをはいて普通自動車を運転した事実を認識しており︑ただ︑同規則の規定を知らなかったに過ぎないか

ら﹂被告人の所為は刑法三入条三項の法の不知に属するとして︑故意の成立を認めた︒この判例も︑生の事実の認

識さえ存在すれば足りるとしているように見える︒しかし︑サンダルで自動車を運転することが︑運転免許を有す

る通常人からは違法な運転行為とされるであろうとの認識を︑本件行為者にも認定し得たのだとすれば妥当な結論

である︒ 最も最近の判例として︑最決平成一八年二月二七日刑集六〇−二−二五三は︑座席の一部が取り外されて現実に存

する席が一〇人分以下となった大型自動車を︑普通自動車免許で運転することが許されると思い込んで運転した場

合にも︑大型に関する無免許運転の故意が認められるとした︒事案は︑長さ五〇二㎝︑幅一六九㎝︑高さ二一九㎝

で︑もともとは運転席及び座席が合計一五人分設けられていたが︑かなり以前から︑後方の六人分の座席を取り外

(23)

して使用していた車両を普通自動車免許しか有しない者が運転した行為が無免許運転罪に該当するとして起訴され

た︒なお︑本件車両の自動車検査証には︑本件運転当時においても︑乗車定員が一五人と記載されていた︒被告人

は︑普通自動車と大型自動車とが区別され︑自己が有する普通自動車免許で大型自動車を運転することが許されな

いことは知っていたものの︑その区別を大型自動車は大きいという程度にしか考えていなかったし︑上司から︑人

を乗せなければ普通自動車免許で本件車両を運転しても大丈夫である旨を聞いたことや︑本件車両に備え付けられ

た自動車検査証の自動車の種別欄に﹁普通﹂と記載されているのを見たこと等から︑本件車両を普通自動車免許で

運転することが許されると思い込んでいた︒最高裁は︑このような﹁事実関係の下においては︑本件車両の席の状

況を認識しながらこれを普通自動車免許で運転したXには︑無免許運転の故意を認めることができるというべきで

ある︒そうすると︑Xに無免許運転罪の成立を認めた原判断は︑結論において正当である﹂としたのである︒

 本件では︑普通免許では運転し得ない﹁大型車﹂の認識の有無が問題となる︒実質的には︑高度の技量がなけれ

ば運転が許されない形態の車両であることの認識の有無が吟味されなければならない︒ここで︑本件と同様の大き

さであるが︑何ら改造の加えられていないマイクロバスを︑普通自動車免許で運転できると思い込んだ場合には︑

いかに違法性を意識していなかったとしても︑故意の存在は否定できないことは争いないであろう︒故意非難を可

能とする事実は十分に認識されている︒問題は︑本件においては︑座席が九人分しかなく︑Xは上司から︑人を乗

せなければ普通自動車免許で運転しても大丈夫である旨聞いていたという点である︒また︑自動車検査証の自動車

の種別欄に﹁普通﹂と記載されているのを見たことも加わり︑本件車両を普通自動車免許で運転することが許され

るものと認識したことはやむを得ないようにも見える︵ただ︑自動車検査証の自動車の種別欄の﹁普通﹂の記載は

道路運送車両法の規定による区別であって︑道路交通法上の普通自動車の概念とは異なるものである︶︒

   行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  一一二

(24)

三二

 たしかに︑自動車検査証の乗車定員欄の記載が一〇人未満に変更されており︑それを認識していたような場合に

は︑たとえそれが虚偽で法的には大型自動車である場合でも︑故意を否定できる余地はある︒しかし本件では︑乗

車定員は確認しておらず︑単に座席の一部が取り外され︑席が大型自動車相当分はなかったという認識があるに過

ぎない︒たとえ座席の一部が取り外されていてもマイクロバスと︑普通免許で運転しうる普通自動車として一般人

が想定するものとには実質的にかなり差があるといわざるを得ない︒座席の取り外しは比較的容易であり︑改造が

しばしば行われていることは認識されているといえよう︒少なくとも︑単にマイクロバスの座席の一部が取り外さ

れていることを認識したというだけでは︑定員が変わって大型自動車でなくなるとは考えないといえよう︒また︑

上司が普通免許で運転可能だと説明したことも︑陸運局などに確かめたというのとは異なり︑故意を否定する事情      ︵3︶にはなり得ないし︑自動車検査証の自動車種別欄の﹁普通﹂の記載も︑同様である︒

 * 酩酊運転は︑故意犯であるが︑正常な運転ができない虞がある程度に酒に酔つていることの認識があること

 を要するというべきであるが︑正常な運転ができない虞があるとのことは酩酊の度合をいうものであるから︑そ

 の認識は犯人が正常な運転ができない虞があると判断すると否とに拘らず︑一般に正常な運転ができない虞があ

 ると認められる程度に酒に酔つているその酩酊の度合の認識があればたりる︵東京地判昭和三四年一二月二五日

 判時二一四−三二︶︒

 そして︑酒気帯び運転の罪の故意が成立するためには︑行為者において︑アルコールを自己の身体に保有しなが

 ら車両等の運転をすることの認識があれば足り︑アルコール保有量の数値まで認識している必要がないのは当然  v       ︹ である︵最決昭和五二年九月一九日刑集三一−五⊥○〇三︶︒ただ︑例えば︑自動車の運転を前日の飲酒の影響 ︑︑

 により呼気一リットルにつき○・二五ミリグラム以上のアルコールを身体に保有する状態で行つた場合に︑酒気

(25)

帯び運転の故意が認められない場合はあり得る︵宮崎地裁高千穂支判︑昭和六三年一二月入日︑判時一三〇〇−

一五七︶︒

* この他の行政刑罰法規に関する判例を見ても︑故意の成否に当たっては︑一般人であれば当該法規の違法性

を認識しうるだけの認識を有していたか否かが吟味されている︒

最判︑昭和三四年二月二七日︵刑集=二−二−二五〇︶は︑政府に申告しないで︑物品税課税物品であるブランコ

などを製造した行為につき︑物品税法一八条一項一号の無申告製造罪等を認めた︒﹁その課税物品であり製造申

告を要することを知らなかったことの一事は︑物品税法に関する法令の不知に過ぎない﹂とした︒たしかに︑行

為者が具体的に課税品目に該当する旨明確に認識していた場合のみ故意をみとめるわけにはいかない︒しかし︑

物品税法に掲げさえすれば︑どんな意外なものについても同罪の故意が認められるとは考えられない︒やはり︑

業者にとってブランコを作る認識があれば︑他の課税物品との比較から違法性の意識が可能だったのであり︑そ

れ故課税品目の詳細の認識を欠いたとしても﹁要申請品であることの素人的認識﹂は認められ得る事案であ

︵4∀

った︒

︵3︶ この他︑運転免許に関するものとして仙台高判昭和五四年四月二六日︵刑月一一−四ー三〇七︶︑道路の使用許可に関す

 るものとして東京高判昭和三六年五月三〇日︵東高刑報一二−五−七六︶参照︒

︵4︶ この他︑公職選挙法に関するものとして︑東京高判︑昭和二八年九月九日︑高刑判特報三九−九六︑東京高判昭和三四

 年五月二六日︵判タ九二−五八︶︑出入国管理に関するものとして高松高判昭和五三年一一月二二日︵高刑三一−三−二九 四︶参照︒

行政刑罰法規の認識と故意      ︵都法四十八ー二︶  三三

(26)

三四

︵4︶刑法犯との関連  他人性と公務性

 そして︑このような実質的判断は︑刑法犯についても︑同様であるといってよい︒

 まず︑物の他人性に関しては︑被告人の認識の欠如に基ずく故意不存在をかなり広く認めているように見える︒

軽率にであっても︑他人性の認識が欠ければ︑財産犯の成立は否定される︒

 最判昭和二六年八月一七日︵刑集五−九−一七八九︶は︑自己の鶏を守るために野犬をつかまえて殺すつもりでい

たところ︑警察等の無主犬狩を許す旨定めた﹁大分県令﹂を誤信し︑﹁他人の犬でも︑鑑札の無い場合は無主犬と

看倣すという法がある﹂と思い︑他人の飼犬︵ポインター︶を殺した事案について︑以下のように判示し︑原審に

差し戻した︒﹁無主犬と看倣されるものと誤信したというのであるから︑本件は被告人において右錯誤の結果判示

の犬が他人所有に属する事実について認識を欠いていたものと認むべき場合であったかも知れない﹂︒被告人が飼

犬証票なく且つ飼主文明ならざる犬は無主犬とみなす旨の警察規則を誤解した結果︑鑑札をつけていない犬は他人

の飼犬であつても直ちに無主の犬とみなされるものと信じ︑他人所有の犬を撲殺し︑その皮を剥いだ場合は︑器物

設棄ならびに窃盗罪の犯意を欠くとしたことになる︒

 東京高判︑昭和三四年一〇月一日︵東高刑報一〇⊥○−三九二︶は︑自己所有の土地の上にある不法占拠者の草      も木につき︑自己の所有物であると誤信して損壊しても︑他人のものを損壊する故意はないとした︒﹁他人の物﹂で

あることの認識は必要だが︑民法の﹁所有権﹂に関する細かい議論を知らなくてもかまわないとしたといえよう︒

東京高判昭和三四年一〇月一日︵東高刑報一〇−一〇−三九二︶は︑﹁居住家屋の不法占拠者であつてその敷地の正

参照

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︵6︶ 中川善之助泉 久雄﹃相続法﹇三二﹈﹄︵一九八八︶・六︑ 同書﹇三〜初版﹈・五︒

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

 九九 一一ご.山ハ山ハ 五︒四六 =一・七五

一五四 二五・〇二二・九 二六二五〇・〇三〇・二. 二九・四

新潟・羅津 一五八一・六一一三五・九 九四三・四 二○四・七四二八・一︵青森経由︶二三八・○

    三五〇     三五七     三七一     三七二     三七三     三七四     三七五     三九〇     三九六     四〇〇     四三七    

12 ︶  評釈として ︑中原利明 ・金法一八二三号四頁 ︑同 ・銀法五二巻三号一四頁 ︑山本和彦 ・銀法五二巻三号四頁 ︑我妻学 ・金判一三〇一号一.