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「『お互いは哀れだなあ』と言い出した。『こんな顔をして、こんなに弱っていては、い くら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見 ても、いずれも顔相応のところだが――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見た ことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほか に自慢するものは何もない』(中略)三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いも よらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。『しかしこれからは日本もだんだん 発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言っ た」 上記引用は本編にも出てくる夏目漱石作『三四郎』の一節です。ここに「かの男」とは、 後に主人公・三四郎と大いに関わり合うことになるが、あまりうだつの上がらない高等学 校教授広田先生のことです。浜松駅で歩廊(ホーム)を歩いている西洋婦人を見てその美 しさに刺激された広田先生は、ロシアとの戦争の「辛勝」に過剰な自信を獲得した「一等 国・日本国民」への痛烈な批判をこめて「国はだめだが、富士は最高」と言ったのでした。 広田先生はほかでもない作者漱石その人であり、この発言は彼の「ヨーロッパ(特に英国) から見た」日本認識でありました。 「あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない」と広田先生は断言 しましたが、しかしその根拠はついに説明されませんでした。富士山が「日本一の名物で ある」ということについて広田先生ともども多くの日本人は異議をさしはさまないと思い ます。それでいて、その根拠について尋ねられれば、広田先生のみならず多くの日本人に も論理的に説明できないのではないでしょうか。説明などする必要も感じないほど富士が 「日本一であること」は自明のことだと考えているからです。それというのも、古来、歌 に詠まれ、絵画に描かれ、仰ぎ見る信仰の対象として、日本人の間で繰り返しくりかえし 「富士の高嶺は、語りつぎ言いつぎ」してきたからにほかなりません。 しかるに、その富士山をUNESCO「世界」文化遺産に登録するということになりました。 まして、その名称も単に「富士山」ではなく「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」とせよ というのですから、なぜ富士山は「日本一の名物」であるかを、「世界」に向かって論理的 に説明できなくてはなりません。ただ美しいだけではだめで、なぜ美しく見えるのか、富 士はどういう火山作用によってこんなに美しく出来上がり、どのような変遷を経て今日に   

ご あ い さ つ

山梨県立大学学長

 伊 藤   洋

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詩歌に詠い、文学に表現してきた詩人や文人の創作動機、富士山にまつわる普遍的な文化 的価値を「世界」に向かって説明しなくては「世界文化遺産」を語る資格は無いこととな りました。 山梨県立大学は、これを機に多くの富士の麓の皆さんに富士山の「世界に通用する価値 普遍性」について可能なかぎり「学術・文化的」に学んでいただく目的で、輿水達司特任 教授を中心にこの連続講座を企画致しました。幸いにして多くの皆さんの関心を呼び、大 層盛況裡に終えることができました。 本講座開設に当たり、ご支援を賜った東京大学名誉教授五味文彦先生、また講師陣の皆 さん、毎回出席されて質問や自説を発表するなど実に熱心に参加された聴講生の皆さんに 心から感謝申し上げます。 なお、最後に、本講座は山梨県からの支援によって行われたことを附記して深甚の謝意 を表します。

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山梨県立大学では、地域研究交流センターが主体となり、平成24年度の観光講座「富 士山世界遺産登録へ」を企画・実施し、その際の講演要旨を記録として、このたび報告書 に取りまとめることになりました。関係の皆様の協力により、報告書が無事完成に至るこ とができ、心から御礼申し上げます。この富士山世界遺産講演会を企画した立場から、富 士山の火山・自然科学と私との触れ合いの経緯を、以下に簡単に述べご挨拶とします。 標高3776メートル。活火山である富士山の活動が始まったのが今から約10万年前。 現在の富士山のように、均整のとれた円錐形を整えたのが約1万年前とされます。一般的 には、富士山のような成層火山の場合、その寿命からして、わずか10万年の経過では青 年期の若い山ということになります。最後の噴火は江戸時代の宝永4年(1707年)で、そ の後富士山には噴火の記録はありません。現在の富士山の火口からは噴気も見られず、火 山活動の兆候は認められません。しかし、山体の地下10km~20kmの深さでは低周 波地震と呼ばれる火山特有の地震が、その数は少ないものの今も発生しています。いずれ 噴火する火山であるのは確かです。2000年から2001年にかけて、低周波地震が急 激に増加しました。これを契機に富士山の火山観測が強化され、ハザードマップも作成さ れ、さらに、富士山の自然科学分野における理解も急ピッチで進んできています。 しかし、富士山の魅力は自然科学からの探求に限りません。むしろ、信仰や芸術分野を 含む富士山の人文科学方面からの奥深さは、際限がなさそうです。ただし、その辺につい て語る資格を、私は十分持ち合わせておりません。 ところで、今から20年程前に遡る1994年に、富士山の世界遺産登録の機運が高ま りました。しかし、それからしばらくして、結局国内推薦には至らなかったわけですが、 どうやら、大量のごみによる環境汚染が深刻な問題とされたのが、一因であったようです。 ちょうど、この時期に私は前職の山梨県環境科学研究所の開所と同時に、研究者の立場で 本格的に富士山と接することになりました。その後、特に富士山の火山活動・火山噴出物 の歴史科学的な理解を主体に、さらに山麓の富士五湖湖底堆積物に記録された環境変遷解 析や富士山地下水など、地球科学分野の研究に携わってきました。 その経緯の中で、上述の2000年頃の低周波地震騒動以降には、地元の行政担当者と 一体になり、火山防災の一般住民への周知・普及などの取り組みにも深く関与するように なりました。こうした体験から私は今までにない、新たな人間関係が構築できました。そ して、それから間もなくして、富士山が再び世界遺産登録を目指すという流れがでてきた   

講演会のいきさつ

山梨県立大学特任教授

 輿 水 達 司

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な大きな寄与は少ないものでありました。しかし、富士山の文化遺産登録の準備が進捗す る過程で、富士五湖の保存管理の計画を目的とする、行政関係者のほかに観光業界など多 彩なメンバーによる委員会が設けられ、これに委員長として私も参画することになりまし た。ここでもまた、純粋学問以外の方面にも及ぶ議論を交わしつつ、今までにない世界を 知ると同時に、新たな人間関係の構築ができました。 こんな風に、今から概ね20年程前から現在に亘って、私は富士山との関わりなしに自 分を語ることはできません。そして、平成24年度4月から私は、新天地として今度は山 梨県立大学にお世話になることになりました。富士山の世界文化遺産登録のゴールが間近 かなタイミングでもあり、山梨県立大学では地域研究交流センター委員会の協力の中で、 富士山世界遺産講演会を企画することができました。 実際に企画から講演会の実施に至る過程において、その調整等では多くの方々に助けら れました。特に今回の講演者の一人でもある、山梨県埋蔵文化財センターの新津健元所長 には大変お世話になりました。新津氏はじめ講演を快諾された皆様には、富士山の夫々の 専門分野における深い経験を礎にした豊富な知見を、分かり易く紹介してくださり御礼申 し上げます。さらに、この講演会には県民の多くの参加があって、盛大な盛り上がりにも なりました。企画者として以上の関係の皆様に心からお礼申し上げます。

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な大きな寄与は少ないものでありました。しかし、富士山の文化遺産登録の準備が進捗す る過程で、富士五湖の保存管理の計画を目的とする、行政関係者のほかに観光業界など多 彩なメンバーによる委員会が設けられ、これに委員長として私も参画することになりまし た。ここでもまた、純粋学問以外の方面にも及ぶ議論を交わしつつ、今までにない世界を 知ると同時に、新たな人間関係の構築ができました。 こんな風に、今から概ね20年程前から現在に亘って、私は富士山との関わりなしに自 分を語ることはできません。そして、平成24年度4月から私は、新天地として今度は山 梨県立大学にお世話になることになりました。富士山の世界文化遺産登録のゴールが間近 かなタイミングでもあり、山梨県立大学では地域研究交流センター委員会の協力の中で、 富士山世界遺産講演会を企画することができました。 実際に企画から講演会の実施に至る過程において、その調整等では多くの方々に助けら れました。特に今回の講演者の一人でもある、山梨県埋蔵文化財センターの新津健元所長 には大変お世話になりました。新津氏はじめ講演を快諾された皆様には、富士山の夫々の 専門分野における深い経験を礎にした豊富な知見を、分かり易く紹介してくださり御礼申 し上げます。さらに、この講演会には県民の多くの参加があって、盛大な盛り上がりにも なりました。企画者として以上の関係の皆様に心からお礼申し上げます。

目 次

ごあいさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 講演会のいきさつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 1.富士山の世界遺産への道筋 富士山と世界文化遺産・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 富士山の文化遺産の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13 2.富士山を取り巻く歴史・民俗 信仰の山・富士の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 富士山の民俗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 3.富士山の誕生と富士五湖 富士山の誕生と変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35 富士五湖の誕生と変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41 富士北麓の溶岩洞穴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45 4.富士山の芸術と文学 富士山の絵画表現・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49 富士山と文学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 彫刻に表現された富士山信仰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59 5.富士山麓の地下水と富士五湖 富士山地下水と富士五湖の水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63 西湖に生息するクニマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 富士五湖の漁業の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69 6.富士山周辺の環境・保全 富士北麓の水環境の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 富士山の環境と観光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77

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はじめに 一 世界文化遺産への道程 ① 自然遺産登録への取り組み 富士山の自然遺産としての貴重性は評価できるが、やや不足するものがある。自然遺 産は環境省が管轄し、文化遺産は文化庁が取り組む。その違いも関わていた。 ② 文化人・政治家の動き 富士山を学術とは別の視点から世界文化遺産として登録する動きが文化人や政治家を 中心に提起されてきたという経緯がある。 ③ 文化遺産公募 文化庁が世界文化遺産の各地での運動を踏まえて公募に踏み切る。富士山はこの時に 文化遺産として、山梨県・静岡県から申請があり、予備登録に至る道が開かれる。 ④ 調査と研究の体制 改めて富士山の普遍的価値を定めるための調査と研究が始まる。 『富士山 ―山梨県富士山総合学術調査研究報告書―』二〇一二年三月の刊行 ⑤ 文化財指定の問題 世界遺産に登録するためには、国がきちんと保護・管理していることが前提。その ため保護の厚くない資産を保護する体制が求められる。富士山の国史跡の指定。管 理計画の策定 ⑥ 予備登録を経て推薦書が提出され、この八月にイコモスの調査が入り、来年五 月にイコモスの答申を経て、六月の世界遺産会議において、登録がきまるというス ケジュール 二 富士山のコンセプト ① 推薦書作成の問題 推薦書作成においてはコンセプトを定め、資産を決定する必要がある。広がりと絞 込みの両様の試みが行なわれる。 ② 他の機関との協議 文化庁だけでなく林野庁・国土交通省・環境省・防衛省など縦割り行政を突破して   

富士山と世界文化遺産

放送大学教授

 五 味 文 彦

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③ 芸術・文学の対象 富士山を描く美術と文学を基軸にした文化遺産の方向 ④ 信仰 信仰の山としての評価の必要性、信仰に関わる民俗の調査 三 富士山の歴史を考える ⅰ 畏敬の対象と制度 ① 養老五年(七百二十一)に成った『常陸国風土記』。 神々の親が各地の子の元を廻っていた時のこと。富士山を訪ね一泊させてほしい、と頼 んだところ、富士の神は、「新嘗をしており、お断りします」とのつれない返事。怒った母 神がその足で筑波岳を訪れると、「新嘗ではありますが、どうぞお泊りください」とやさし い返事。これ以後、富士は雪で閉ざして山には登れないような措置がとられ、筑波では人々 が集まって、歌い舞い、飲み食べなどして今に絶えない、という。 ② 富士山の噴火 イ『続日本紀』天応元年(七八一)の富士山噴火。駿河国に被害 ロ 『日本紀略』延暦十九年(八〇〇)の富士噴火。一ヶ月続く。駿河国からの報告。 ハ 『同』延暦二十一年の噴火。駿河と相模からの報告。疫病対策。東海道が足柄道から 箱根道に変更される。 ③ 噴火と浅間大神 イ 『文徳天皇実録』 仁寿三年(八五三)に名神として駿河浅間神社が従三位となる。 ロ 『日本三代実録』貞観六年(八六四)五月の噴火。駿河国からの報告があり、富士郡 正三位浅間大神。 ハ 『同』七月 甲斐国からの報告。甲斐国に浅間大神への奉幣解謝が命じられる。 二 『同』十二月 甲斐八代郡の郡司伴真貞に浅間明神の託宣があって浅間神社が官社と して整えられる。 ⅱ 風景としての富士山 ①『万葉集』山辺赤人 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける ② 同 高橋虫麻呂 なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高峰は (中略)燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を火をもち消ち(中略)日 の本の 鎮とも 座す神とも 宝とも 生まれる山かも ③ 都良香『富士山記』 富士山は駿河国に在り、峯削り成すが如く、直に聳て天に属す、その高さ測るべから ず、史籍記す所を歴覧するに未だこの山より高きはあらざる者なり。(中略)貞観十七

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③ 芸術・文学の対象 富士山を描く美術と文学を基軸にした文化遺産の方向 ④ 信仰 信仰の山としての評価の必要性、信仰に関わる民俗の調査 三 富士山の歴史を考える ⅰ 畏敬の対象と制度 ① 養老五年(七百二十一)に成った『常陸国風土記』。 神々の親が各地の子の元を廻っていた時のこと。富士山を訪ね一泊させてほしい、と頼 んだところ、富士の神は、「新嘗をしており、お断りします」とのつれない返事。怒った母 神がその足で筑波岳を訪れると、「新嘗ではありますが、どうぞお泊りください」とやさし い返事。これ以後、富士は雪で閉ざして山には登れないような措置がとられ、筑波では人々 が集まって、歌い舞い、飲み食べなどして今に絶えない、という。 ② 富士山の噴火 イ『続日本紀』天応元年(七八一)の富士山噴火。駿河国に被害 ロ 『日本紀略』延暦十九年(八〇〇)の富士噴火。一ヶ月続く。駿河国からの報告。 ハ 『同』延暦二十一年の噴火。駿河と相模からの報告。疫病対策。東海道が足柄道から 箱根道に変更される。 ③ 噴火と浅間大神 イ 『文徳天皇実録』 仁寿三年(八五三)に名神として駿河浅間神社が従三位となる。 ロ 『日本三代実録』貞観六年(八六四)五月の噴火。駿河国からの報告があり、富士郡 正三位浅間大神。 ハ 『同』七月 甲斐国からの報告。甲斐国に浅間大神への奉幣解謝が命じられる。 二 『同』十二月 甲斐八代郡の郡司伴真貞に浅間明神の託宣があって浅間神社が官社と して整えられる。 ⅱ 風景としての富士山 ①『万葉集』山辺赤人 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける ② 同 高橋虫麻呂 なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高峰は (中略)燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を火をもち消ち(中略)日 の本の 鎮とも 座す神とも 宝とも 生まれる山かも ③ 都良香『富士山記』 富士山は駿河国に在り、峯削り成すが如く、直に聳て天に属す、その高さ測るべから 年十一月五日、吏民旧により祭りを致す。日午に加へて天甚だ美晴、仰で山の峯を観 るに、白衣の美女二人有り。山の嶺上に双び舞ふ、嶺を去ること一尺余り、土人共に 見き。古老伝て云く、山を富士となづくは郡の名を取る也。山に神あり、浅間大神と 名づく。(中略)相伝ゆるに、昔、役居士、その頂に登らむと得るも(登り得ず)、そ の後攀じ登らば(中略)延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日して後、山となる。蓋し神 造也。 ④ 『日本霊異記』 役行者が伊豆に流罪になった後、富士山を飛行したという。 ⅲ 山岳信仰の対象 修験 ① 十一世紀成立の『新猿楽記』 次郎君は一生不犯の大験者で、何度も大峰や葛城に通い、「辺道」を踏んでいた。その赴いた 修験所は、熊野や金峰、越中立山・伊豆走湯・根本中堂・伯耆大山・富士御山・越前白山・高 野・粉河・箕面・葛川であったという。 ② 『梁塵秘抄』十一世紀から十二世紀にかけて成立 すぐれて高き山 大唐唐には五台山、霊鷲山 日本国には白山 天台山、音にのみ聞く 蓬莱 山こそ高き山(三四五番) 是より北には越の国 夏冬とん無き雪ぞ降る 駿河の国なる富士の高嶺にこそ夜昼とも無く煙立 て(四一五番) ③ 『本朝世紀』久安五年(一一四九)四月十六日条 近日、一院(鳥羽院)において、如法大般若経一部書写の事有り、卿士大夫、男女緇素多く営 むと云々。此の事、是れ則ち駿河国に一上人有り、富士上人と号す。その名、末代と称す。富士 山に攀登ること、已に数百度に及ぶ、山頂に仏閣を構へ、これを大日寺と号す、又越前国白山 に詣で、龍池の水を酌む、凡そ、その所行併しながら凡下に非ず。(中略)昔天喜年中、日泰上 人といふ者有りて、白山に登り、龍池の水を汲む。末代上人、若しは日泰の後身か。 久安五年(一一四九)四月に富士山に数百箇度も登ったという「末代」と称する富士上 人が上洛。これまでに「関東の民庶」に勧進して一切経論を書写してきたが、さらに鳥羽 院中に参って如法大般若経の書写を勧進し、それらを富士山に埋めたい、と訴える。院を 始めとして広く書写がなされ、それらは藤原清隆の東山七条の堂で供養された後に、富士 上人に下賜され、富士の山頂近くの大日堂に埋められるところとなったという。 ③ 同じ頃、三河守藤原顕長の銘がある渥美焼の壺が三箇所の経塚に埋納されている。静 岡県三島市の三ツ矢新田経塚、山梨県南部町の篠井山経塚、神奈川県綾瀬市の宮久保遺跡 である。立地は、篠井山経塚が富士山の西に位置し、富士山が一望できる地、三ツ矢新田 経塚が富士山の南、宮久保遺跡が富士山の東に位置する。富士信仰とのかかわりがある。

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ⅳ 政権との関わり 大日如来への信仰、国の統合のシンボル的意味 ① 平清盛 イ 『古事談』の説話によれば、清盛が安芸守の時、焼失した高野山の根本大塔の造営に 手伝いをして、材木を手にしていたところに僧が現れ、「日本の国の大日如来は伊勢大神 宮と安芸の厳島である」と語った後、伊勢大神宮は「幽玄」なので恐れ多い故、「汝は国 司でもあるから早く厳島に奉仕するように」と述べて姿を消した。その後、清盛が厳島 社に赴いたところ、巫女が託宣して従一位の太政大臣にまで昇るであろう、伴にいる後 藤太能盛も安芸守になるであろう、と予言したという。 ロ 高野山の大塔が焼失したのは久安五年(一一四九)五月十二日、その造営を請け負っ たのは清盛の父忠盛で、久安五年七月九日の大塔の造営の事始には清盛が忠盛に代わっ て登山し代官として臨んでいる。仁平元年(一一五一)二月二日に清盛は安芸守になっ ており、高野大塔の上棟はその直後の三月十九日。したがって清盛は上棟の際に僧(弘 法大師)にあって告げられ、神拝のために安芸国に赴いた時に託宣を受けたか。 ハ 承安四年(一一七四)の後白河法皇の厳島御幸において、建春門院は三所ある神のう ちの大宮に大日経と理趣経を、中御前(中の宮)に天皇の装束と蒔絵の手箱を、また客 人宮に弓矢や剣、金銅製の馬などを寄せている(「厳島野坂文書」)。これらは大宮の本地 が大日如来、中御前の本地が十一面観音、客人宮の本地が毘沙門天であることに基づく ものであった。平氏は厳島神社に大日如来の信仰に基づいて政権の護持を、十一面観音 の信仰に基づいて一門の繁栄を祈り、また毘沙門天の信仰には武力の助けを求めていた。 二 治承三年(一一七九)に清盛は富士山遊覧を試みたが、駿河を知行国とする宗盛にと められる。 ② 源頼朝 『吾妻鏡』治承四年八月十八日条 挙兵にあたって、これまで行なってきた毎日の御勤行を伊豆山の法音尼に託したが、そ のうち『般若心経』を各一巻ずつ「八幡 若宮 熱田 八剣 大箱根 能善 駒形 走湯 権現 礼殿 三島(第三第二) 熊野権現 若王子 住吉 富士大菩薩 祇園 天道 北 斗 観音」に法楽として詠むことがあった。そこに富士大菩薩の神が見える。 ③ 源頼家 『吾妻鏡』建仁三年(一二〇三)六月四日条 命を受けた新田四郎忠常が富士の人穴を探索して鎌倉に帰参して報告。この洞穴は狭く て引き返すこともままならず、心ならずに進ので行った。暗くて心神を悩ますなか、主従 各に松明を取っていったが、その間中、水の流れに足が浸かり、蝙蝠が頭を遮って飛んで いた。数はいく千万に及ぶ。その先は大河になっていて、逆浪があふれ流れていたので、 わたれなくなった。そこに火の光が河向から見えたが、奇特にも郎従四人が忽ち亡くなっ た。しかし忠常は霊の訓えに沿って、恩賜の剣をその河に投入したので、命を長らえて帰 参することができた。古老が云うには、これは浅間大菩薩の御在所であって、昔からその 所を見ようとはしてこなかったとのことです。

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ⅳ 政権との関わり 大日如来への信仰、国の統合のシンボル的意味 ① 平清盛 イ 『古事談』の説話によれば、清盛が安芸守の時、焼失した高野山の根本大塔の造営に 手伝いをして、材木を手にしていたところに僧が現れ、「日本の国の大日如来は伊勢大神 宮と安芸の厳島である」と語った後、伊勢大神宮は「幽玄」なので恐れ多い故、「汝は国 司でもあるから早く厳島に奉仕するように」と述べて姿を消した。その後、清盛が厳島 社に赴いたところ、巫女が託宣して従一位の太政大臣にまで昇るであろう、伴にいる後 藤太能盛も安芸守になるであろう、と予言したという。 ロ 高野山の大塔が焼失したのは久安五年(一一四九)五月十二日、その造営を請け負っ たのは清盛の父忠盛で、久安五年七月九日の大塔の造営の事始には清盛が忠盛に代わっ て登山し代官として臨んでいる。仁平元年(一一五一)二月二日に清盛は安芸守になっ ており、高野大塔の上棟はその直後の三月十九日。したがって清盛は上棟の際に僧(弘 法大師)にあって告げられ、神拝のために安芸国に赴いた時に託宣を受けたか。 ハ 承安四年(一一七四)の後白河法皇の厳島御幸において、建春門院は三所ある神のう ちの大宮に大日経と理趣経を、中御前(中の宮)に天皇の装束と蒔絵の手箱を、また客 人宮に弓矢や剣、金銅製の馬などを寄せている(「厳島野坂文書」)。これらは大宮の本地 が大日如来、中御前の本地が十一面観音、客人宮の本地が毘沙門天であることに基づく ものであった。平氏は厳島神社に大日如来の信仰に基づいて政権の護持を、十一面観音 の信仰に基づいて一門の繁栄を祈り、また毘沙門天の信仰には武力の助けを求めていた。 二 治承三年(一一七九)に清盛は富士山遊覧を試みたが、駿河を知行国とする宗盛にと められる。 ② 源頼朝 『吾妻鏡』治承四年八月十八日条 挙兵にあたって、これまで行なってきた毎日の御勤行を伊豆山の法音尼に託したが、そ のうち『般若心経』を各一巻ずつ「八幡 若宮 熱田 八剣 大箱根 能善 駒形 走湯 権現 礼殿 三島(第三第二) 熊野権現 若王子 住吉 富士大菩薩 祇園 天道 北 斗 観音」に法楽として詠むことがあった。そこに富士大菩薩の神が見える。 ③ 源頼家 『吾妻鏡』建仁三年(一二〇三)六月四日条 命を受けた新田四郎忠常が富士の人穴を探索して鎌倉に帰参して報告。この洞穴は狭く て引き返すこともままならず、心ならずに進ので行った。暗くて心神を悩ますなか、主従 各に松明を取っていったが、その間中、水の流れに足が浸かり、蝙蝠が頭を遮って飛んで いた。数はいく千万に及ぶ。その先は大河になっていて、逆浪があふれ流れていたので、 わたれなくなった。そこに火の光が河向から見えたが、奇特にも郎従四人が忽ち亡くなっ た。しかし忠常は霊の訓えに沿って、恩賜の剣をその河に投入したので、命を長らえて帰 参することができた。古老が云うには、これは浅間大菩薩の御在所であって、昔からその 所を見ようとはしてこなかったとのことです。 ④ 足利義満 厳島神社と富士の遊覧を実施 ⑤ 足利義教 飛鳥井雅世『富士紀行』 イ 尭孝法印『覧富士記』 七の道おさまり、八の島なみ静にして、よもの関守戸ざしをわすれ侍れば、旅のゆき きさはることもなく、万の民くろをゆづるこころざしをなむもととしければ、いづくに やどるとも心とけ、たのしびおほかる御代にぞ侍ける。ここに富士御覧の御有増すゑと をされ侍て、永享四のとし長月十よ日の程におぼしめし立れ侍り ロ 駿河府「今日しも白妙につもれるけしき、富士権現もきみの御光をまちおはしましけ ると見えて、あたしくぞおぼえはべる。山また山をかさねて、たなびきわたれる雲より 上にかがやき見えたる遠望たぐひなくこそ。 わが君の高き恵みにたとへてそ猶あふきみるふしのしは山 これにてあまたあそばれ侍りし御詠のうち 見すはいかで思ひ知るべき言の葉もおよばぬふしと予ねて聞しを ハ 「此山の由来たづねきこしめしけるに、そのかみ壬午年とかやに出現の由、守護注申 侍しに、ことしの干支相応、奇特におぼしめされて かかる身も神はひくかと白雪のふしのたかねを猶や仰がむ 敷島の道はしらねど富士のねの眺めにをよぶことのはぞなき ⑥ 戦国大名今川氏と武田氏 天下統一への動きに富士信仰があったと考えられる ⑦ 織田信長 大村由己「総見院殿追善記」 「天竺支那扶桑三国無双の名山」である富士山を織田信長が天下掌握の証しとして仰ぐ ⅴ 庶民信仰 ①かぐや姫伝説 『真名本曽我物語』 イ 頼朝が富士の麓で巻狩を行うと聞いた曾我兄弟が語りあう場面 我らが処こそ多けれ、日本無双の明山と聞え、大唐の香炉山に比したる富士の山の麓 において、我らが屍を曝して後代に名を留めんこそ、同じ死にながらも今生の思ひ出、 冥土の訴へなれ。 ロ 富士山にまつわる姥捨て伝説とかぐや姫伝説 ② 千手観音 『真名本曽我物語』 ハ 中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り 給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救 い給はざらん。これらを思ふに、昔のかぐや姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現 の初めなり。今の世までも男体女体の社にて御在すは則ちこれなり。 ③ 地蔵信仰

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地蔵菩薩像 ロ 『地蔵菩薩霊験記』 越中立山の修験は地蔵菩薩の信仰、熊野の那智宮の信仰は千手菩薩の信仰 ⑤ 吉田・河口の町の形成 ⅵ 江戸時代以降の歴史 ① 江戸と富士 江戸のランドマーク コノハナサクヤヒメ 天女→かぐや姫→コノハナサクヤヒメへの変遷 国学と富士山 富士講 江戸の発展 富士山麓の開発 ② 日本の象徴と投影 国民国家と富士山 教育の問題 北村透谷『富士山遊びの記憶』(明治十七年) 同『蓬莱曲』(明治二十四年)、『富嶽の詩神を思ふ』(明治二十六年) 志賀重昴『日本風景論』(明治二十七年) 夏目漱石『三四郎』(明治四十一年) 太宰治『富嶽百景』(昭和一四年) ③ 開かれた富士山 観光・登山・環境・世界遺産 おわりに ① 日本の文化の歴史的流れをよく伝える、他にはない遺産 ② これからは思想史としての富士山を究明する必要性

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地蔵菩薩像 ロ 『地蔵菩薩霊験記』 越中立山の修験は地蔵菩薩の信仰、熊野の那智宮の信仰は千手菩薩の信仰 ⑤ 吉田・河口の町の形成 ⅵ 江戸時代以降の歴史 ① 江戸と富士 江戸のランドマーク コノハナサクヤヒメ 天女→かぐや姫→コノハナサクヤヒメへの変遷 国学と富士山 富士講 江戸の発展 富士山麓の開発 ② 日本の象徴と投影 国民国家と富士山 教育の問題 北村透谷『富士山遊びの記憶』(明治十七年) 同『蓬莱曲』(明治二十四年)、『富嶽の詩神を思ふ』(明治二十六年) 志賀重昴『日本風景論』(明治二十七年) 夏目漱石『三四郎』(明治四十一年) 太宰治『富嶽百景』(昭和一四年) ③ 開かれた富士山 観光・登山・環境・世界遺産 おわりに ① 日本の文化の歴史的流れをよく伝える、他にはない遺産 ② これからは思想史としての富士山を究明する必要性   

富士山の文化遺産の特徴

山梨県教育委員会 学術文化財課

 森 原 明 廣

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Ⅰ 『山梨県富士山総合学術調査研究委員会』の活動と成果

【設置の目的】 ・平成18 年度、山梨・静岡両県にて世界文化遺産登録への事業が開始されました。 ・登録にあたっては、登録条件や基準を満たすことが求められているのです。 (例)顕著で普遍的な価値を持つ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品 あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること(登録基準のⅵ) ・そこで、次のことを目的に調査研究が企画されました。 ①富士山の価値っていったい何だろう? ②登録後の活用や研究のためのデータ収集と一元的な管理 以上のことから、平成20 年度に調査研究委員会が設置され、活動が始まったのです。 そして、平成24 年 3 月に報告書『富士山』(山梨県教育委員会)が刊行されました。 【調査の概要】~各分野での富士山の価値を見出すことができる基礎資料の収集・今後 の調査研究の指針 →自然環境・歴史考古民俗・有形文化財(絵画・彫刻)・文学の各分野にて調査が 進み、大きな成果があげられました。 *今回の講座は、この『富士山』~山梨県富士山総合学術調査研究報告書~から、歴 史分野の成果を中心に、紹介していくこととします。

Ⅱ 富士山の歴史と信仰

1 富士山のイメージ

・日本最高の山 ・火山 ・均整のとれた秀麗な山 ・可視域が広い山 ・雪に覆われた神様の山 ⇒日本の名山←年間30万人をこえる登山者が訪れます。 (1)「広い平野に独立して聳える均整のとれた高い山」という自然環境が背景 ○江戸・明治に訪れた多くの外国人の印象=高山と美しさ (例1)ウェストン「五月のフジヤマ」:神の造った一番美しい国の最も美しい山の 頂上から眺めたこの見事な風光の印象を、私は決して忘れない (例2)小泉八雲「富士山」:富士の麗容、これこそは日本の国の最もうるわしい絶 景、否、まさしく世界の絶景の一つだ   

富士山をとりまく歴史・民俗

   〜信仰の山:富士の歴史〜

山梨県埋蔵文化財センター元所長

 新 津   健

(現山梨県富士山総合学術調査研究委員会調査員)  

   

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新道峠/大石峠間の尾根からの富士と河口湖 清里・美し森からの遠望 (2)地質学的な見地(上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」『富士山』) ①不老長寿の山~富士山の地下ではプレートが裂け続け、若いマグマが半永久的に 供給され続ける。 ② 大平原に誕生→均整のとれた山体 ③ 山体が鎧兜(弥生初期の噴出物~溶結火砕岩)で保護される奇跡的な火山

2 山麓と人の住まい

(1)山麓の遺跡数(山中湖村・忍野村・富士吉田市・富士河口湖町・鳴沢村・身延町の 本栖湖畔・西桂町の遺跡台帳による遺跡) ・全部で238カ所(2011 年時点の数値です) ・旧石器時代2、縄文86(36 ㌫)、弥生26(11 ㌫)、古墳20(8 ㌫)、奈良 平安61(26 ㌫)、中近世56(24 ㌫)、不明28 (2)各時代の遺跡と富士山の活動 【縄文時代】 ・河口湖周辺、富士吉田~西桂にかけての御坂山地沿い・桂川流域、道志山地沿いの大 明見・小明見そして忍野に集中する傾向があります(遺跡の上には熔岩や火山灰など が積もっている)。 ・熔岩下の遺跡例 ① 河口湖沿岸の船津浜遺跡~船津熔岩下から前期後半と中期中頃の土器が出土しま した。住居の炉も確認されたと伝えられています。 ② 勝山地区の里宮(御室浅間神社一帯)、入海遺跡でも熔岩下から土器が出土。 ③ 富士吉田市上暮地の新屋敷遺跡(クリの林の痕跡)、小明見の上中丸遺跡(住居跡 や土器等が見つかりました)~檜丸尾第一熔岩(古墳時代初頭に噴出)と複数の 火山灰層の下には縄文のムラが埋まっているのです。

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新道峠/大石峠間の尾根からの富士と河口湖 清里・美し森からの遠望 (2)地質学的な見地(上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」『富士山』) ①不老長寿の山~富士山の地下ではプレートが裂け続け、若いマグマが半永久的に 供給され続ける。 ② 大平原に誕生→均整のとれた山体 ③ 山体が鎧兜(弥生初期の噴出物~溶結火砕岩)で保護される奇跡的な火山

2 山麓と人の住まい

(1)山麓の遺跡数(山中湖村・忍野村・富士吉田市・富士河口湖町・鳴沢村・身延町の 本栖湖畔・西桂町の遺跡台帳による遺跡) ・全部で238カ所(2011 年時点の数値です) ・旧石器時代2、縄文86(36 ㌫)、弥生26(11 ㌫)、古墳20(8 ㌫)、奈良 平安61(26 ㌫)、中近世56(24 ㌫)、不明28 (2)各時代の遺跡と富士山の活動 【縄文時代】 ・河口湖周辺、富士吉田~西桂にかけての御坂山地沿い・桂川流域、道志山地沿いの大 明見・小明見そして忍野に集中する傾向があります(遺跡の上には熔岩や火山灰など が積もっている)。 ・熔岩下の遺跡例 ① 河口湖沿岸の船津浜遺跡~船津熔岩下から前期後半と中期中頃の土器が出土しま した。住居の炉も確認されたと伝えられています。 ② 勝山地区の里宮(御室浅間神社一帯)、入海遺跡でも熔岩下から土器が出土。 ③ 富士吉田市上暮地の新屋敷遺跡(クリの林の痕跡)、小明見の上中丸遺跡(住居跡 や土器等が見つかりました)~檜丸尾第一熔岩(古墳時代初頭に噴出)と複数の 発掘中の上中丸遺跡と幾重にも重なる火山灰層 (崖の上部は檜丸尾第一熔岩) (上中丸遺跡では3000 年間に少なくとも 16 層余の火山灰があり→計算上では 180 年間に1度の噴火割合~実際には活動期にはさらに頻繁に噴火) 富士吉田市池の元遺跡~住居内に大室ラピリと呼ばれる火山灰が堆積(3000~ 2900 年前)していました。 ④ 西桂町宮の前遺跡~中期後半の住居 を火山灰が厚く埋めていた。→ムラ が営まれている最中に大きな噴火が 起こったと思われます。 *以上の事例から富士山の噴火活動の休止 期中心に、また活動時にはその被害を避 けながらも、たくましく生き抜いていた 縄文人の様子がわかる。 【弥生時代・古墳時代】 富士山麓は、西日本や東海地方からの新しい文化の導入路として重要な地域でした。 ① 河口湖内の鵜の島遺跡~弥生文化の山梨への流入拠点 ② 富士ケ嶺地区や本栖湖底(深さ7~14 ㍍の地点)・湖畔から土器出土 ③ 檜丸尾第一熔岩が流れ出た噴火~1700 年程前~北麓路の一時遮断→西麓の活発化 富士吉田市天矢場遺跡~檜丸尾第一熔岩下から土器出土 *甲斐国への新しい文化の導入経路としての、重要な地理的環境の地=北麓・西麓 【奈良・平安時代】 ①平安前半期には、特に噴火活動が活発化しました(古典の記録では、781 年~1083 年 までに9回の記事が確認できます)。 ②平安時代は、標高の高い山麓が開発され、多くのムラができる時代→例えば墾田永代 私財法などの制度により、土地の私有化が進んだと言われています。 (例)八ヶ岳山麓では標高 700 ㍍以上の地が開発される→平安時代の集落が多く発見さ れています。 ・富士山麓においても同様に、多くのムラが形成されていたと思われます。 ③富士山の噴火に伴う溶岩流 檜丸尾第二熔岩(800 年頃)、鷹丸尾溶岩(800 年頃・要検討) 剣丸尾第一熔岩(937 年頃)、剣丸尾第二熔岩(1033 年頃)、 ④熔岩下の遺跡~富士吉田市上暮地前田遺跡(焼土や平安中期の土器が出土) 下吉田御姫坂遺跡や西丸尾遺跡(土器出土)

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『日本三代実録』の記事~熔岩が百姓の居宅を押し流し、海とともに埋まる →青木ヶ原樹海の熔岩下に、平安前期のムラが埋まっている可能性は高いのです。 ⑥古代の官道と噴火 ・東海道━籠坂峠━山中・忍野━富士吉田━河口━御坂峠━藤ノ木━国府 {富士山噴火の影響を受ける} *山中湖の形成(鷹丸尾溶岩流出) *官道の寸断→迂回路 *松鶴鏡(平安末の和鏡)出土の問題(山中湖村北畠遺跡~鷹丸尾溶岩下) *標高の高い土地への開拓→新しい集落が生まれる *古代から続く主要路及び拠点の継続 *噴火活動の活発化にも衰退することなく、集落と主要路の維持管理継続 *噴火鎮静後の富士山信仰隆盛への基礎づくり 【中世の遺跡】 1 この時代の主要な遺跡→戦国時代の城館や砦が多く残されています。 *富士山麓は甲斐国と都や東海道諸国とを結ぶ重要なルートだったことが分かります ①中道往還沿い~本栖湖畔の渡辺氏館跡・本栖城山・樹海内石塁・女坂石造物など ②御坂路(古代の官道・鎌倉往還)~吉田城山・小倉山・信玄築石(石塁)・河口駅・ 御坂城など 2 富士信仰にかかわるさまざまな遺構 ○山麓から富士山頂上に至るまで、修験や富士講にかかわる多くの施設・遺構・遺物 が残されています。これらは古代から近・現代までのものまで含みますが、増加し てくるのは中世の時期であり、噴火が収まった後に活発化した修験を始めとした信 精進湖・青木ヶ原樹海・富士山 七月十七日、 甲斐国から 富 士山大噴火の報告があっ た。 熔 岩 が 八 代 郡 の 本 栖 ・ 剗 の 両 湖 水 に 及 ぶ と と も に 住 民 の 居 宅 を も 埋 め 、 大 き な 被 害 を も た ら す と と も に 、 熔 岩はさらに河口湖方面にも向かっ た という。 〔日本三代実録〕巻九 十七日辛丑、 ( 中略) 甲斐国言、 駿 河国富士大山、 忽有 二 暴 火 一 、 焼 二 砕 岡 巒 一 、 草 木 焦 殺 、 土 鑠 石 流 、 埋 二 八 代 郡 本 栖 并 剗両 水 海 一 。 水 熱如 レ 湯 、 魚 鼈 皆 死 、 百 姓 居 宅 、 与 レ 海 共 埋 、 或 有 レ 宅 無 レ 人 、 其 数 難 レ 記 。 両 海 以 東 、 亦 有 二 水 海 一 、 名 曰 二 河 口 海 一 。 火 焔 赴向 二 河 口 海 一 、( 後 略 )

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『日本三代実録』の記事~熔岩が百姓の居宅を押し流し、海とともに埋まる →青木ヶ原樹海の熔岩下に、平安前期のムラが埋まっている可能性は高いのです。 ⑥古代の官道と噴火 ・東海道━籠坂峠━山中・忍野━富士吉田━河口━御坂峠━藤ノ木━国府 {富士山噴火の影響を受ける} *山中湖の形成(鷹丸尾溶岩流出) *官道の寸断→迂回路 *松鶴鏡(平安末の和鏡)出土の問題(山中湖村北畠遺跡~鷹丸尾溶岩下) *標高の高い土地への開拓→新しい集落が生まれる *古代から続く主要路及び拠点の継続 *噴火活動の活発化にも衰退することなく、集落と主要路の維持管理継続 *噴火鎮静後の富士山信仰隆盛への基礎づくり 【中世の遺跡】 1 この時代の主要な遺跡→戦国時代の城館や砦が多く残されています。 *富士山麓は甲斐国と都や東海道諸国とを結ぶ重要なルートだったことが分かります ①中道往還沿い~本栖湖畔の渡辺氏館跡・本栖城山・樹海内石塁・女坂石造物など ②御坂路(古代の官道・鎌倉往還)~吉田城山・小倉山・信玄築石(石塁)・河口駅・ 御坂城など 2 富士信仰にかかわるさまざまな遺構 ○山麓から富士山頂上に至るまで、修験や富士講にかかわる多くの施設・遺構・遺物 が残されています。これらは古代から近・現代までのものまで含みますが、増加し 精進湖・青木ヶ原樹海・富士山 七月十七日、 甲斐国から 富 士山大噴火の報告があっ た。 熔 岩 が 八 代 郡 の 本 栖 ・ 剗 の 両 湖 水 に 及 ぶ と と も に 住 民 の 居 宅 を も 埋 め 、 大 き な 被 害 を も た ら す と と も に 、 熔 岩はさらに河口湖方面にも向かっ た という。 〔日本三代実録〕巻九 十七日辛丑、 ( 中略) 甲斐国言、 駿 河国富士大山、 忽有 二 暴 火 一 、 焼 二 砕 岡 巒 一 、 草 木 焦 殺 、 土 鑠 石 流 、 埋 二 八 代 郡 本 栖 并 剗両 水 海 一 。 水 熱如 レ 湯 、 魚 鼈 皆 死 、 百 姓 居 宅 、 与 レ 海 共 埋 、 或 有 レ 宅 無 レ 人 、 其 数 難 レ 記 。 両 海 以 東 、 亦 有 二 水 海 一 、 名 曰 二 河 口 海 一 。 火 焔 赴向 二 河 口 海 一 、( 後 略 ) 仰の遺跡なのです。 ①富士山体への鰐口奉納初見→長久2 年(1041)『甲斐国志』 ②吉田口二合目御室浅間神社への奉納神像→文治5 年(1189)、建久 3 年(1192) ③吉田鳥居の建立→文明12 年(1480)、明応 9 年(1500)『勝山記』 これらに加え、御師集落としての河口や上吉田も出来上がっていたと思われる。 *主要路が走る国境地帯の様相を示す遺跡が多い *富士山本体への登拝活発化に伴う諸施設遺構・信仰遺物の出土

3 富士山への信仰、その展開

【古代】

(1)山岳信仰 ①縄文時代の配石と山 ・富士山型の山と配石の関係を問う意見があります。 (例)富士山麓~富士宮市千居遺跡、都留市牛石遺跡の環状列石 ・しかし配石遺構が造られるのは、富士山信仰というよりも縄文中期後半~後期の 時代性かと思います(日本各地にて配石遺構が盛んになる時期です~配石を構成 する施設が、山を含めた周囲の景観と関わっているという見解もあります)。 ②奈良時代以前~日光男体山のような、国家的な祈りが行なわれた場もあります。 葛城山・吉野金峰山(大峰)にて山岳修行が盛んになる→役行者(修験開祖) ③奈良・平安時代~さまざまな書き物に富士山が登場します。 イ)古来の山岳観と神仙思想 遥拝の対象としての富士→「火の山・雪の山」という意識 ・『常陸国風土記』筑波郡条~「(福慈の神)が居すめる山は、生涯い きの極み、冬も夏 も雪ふり霜おきて、冷寒さ むさ重襲し きり、人民ひ と登らず・・」 ・『万葉集』 高橋虫麻呂・富士の山を詠む歌一首併せて短歌 なまよみの 甲斐の国(中略)富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛 ぶ鳥も 飛びも上がらず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつ つ(中略)日本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山 かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも (巻三・三一九) ・都良香『富士山記』 又貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍りて祭を致す。日午ひ るに加へて天甚だ美よ く晴る。仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り。山の峯の上に双び舞ふ。 峰を去ること一尺ひとさか余、土人くにひと共に見きと、古老伝へて云ふ。山を富士と名づくる は、郡の名に取れるなり。山に神有り。浅間大神と名づく。

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二合目の現状(御室浅間神社拝殿) ・『日本三代実録』 貞観六年五月二十五日庚戌。駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。 (富士山はすでに853 年名神従三位、859 年正三位の位階を得ている) ・富士山とは→高く美しい山・時折噴火・1 年中雪(時じ=時を知らない) →人の住むところではない=神仙境 ・富士山そのものが火の山→怒ると噴火する神様=アサマの神 人が登ることのできない『遠くから仰ぎ見る~遥拝する』山 ロ)山岳信仰と仏教の融合→山林仏教(仏教の修行観・浄土観と山岳) ・天台・真言伝来→山林修行重視・山中浄土思想・道教→山中に神仙 ・吉野金峰山~9 世紀中頃修験道の山として発達。 ・富士山→噴火鎮静化とともに修験の場となっていく。 ①長久2 年(1041)銘の鰐口出土(『甲斐国志』)~5 合目、6 合目への奉納か ②久安5 年(1149) 末代上人、富士山頂に大日寺建立(『本朝世紀』) 一切経の写経・埋経の記事が載っています。 ~11 世紀中頃以降、末代上人の富士登山と修行・宗教行為(役行者伝説の付加)

【中世】

(1)修験道が確立した時期です~12 世紀から 13 世紀 ①末代上人の活動(伊豆走湯山系の修験者)→村山浅間神社を核とした村山三坊の 成立→富士山を回峰行の場として活動しました。 ②埋経の継続 承久年間の経筒・経典(末代上人、承久銘)の出土~三島ヶ岳付近 ③吉田口登山道二合目の拠点化も進みました~富士御室浅間神社・行者堂 ・文治5 年(1189)銘の日本武尊像、建久 3 年(1192)銘の女神像の勧進~走湯 山の覚実覚台坊が関わる(『甲斐国志』)。 ・行者堂→役行者像(延慶 2 年(1309)修理名)の存在(この像は甲府市円楽寺 にあります) ④二合目の重要性~次の諸点が考えられ ます~ ・富士山中での位置~標高1730 ㍍ ・草山~木山~焼山の内の木山(聖地) ・地形~浅い谷(窪地)を背景にした平 地。古富士層が露出する安定した地盤 ・展望~里宮・河口湖・鵜の島を一直線 で見通す

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・『日本三代実録』 貞観六年五月二十五日庚戌。駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。 (富士山はすでに853 年名神従三位、859 年正三位の位階を得ている) ・富士山とは→高く美しい山・時折噴火・1 年中雪(時じ=時を知らない) →人の住むところではない=神仙境 ・富士山そのものが火の山→怒ると噴火する神様=アサマの神 人が登ることのできない『遠くから仰ぎ見る~遥拝する』山 ロ)山岳信仰と仏教の融合→山林仏教(仏教の修行観・浄土観と山岳) ・天台・真言伝来→山林修行重視・山中浄土思想・道教→山中に神仙 ・吉野金峰山~9 世紀中頃修験道の山として発達。 ・富士山→噴火鎮静化とともに修験の場となっていく。 ①長久2 年(1041)銘の鰐口出土(『甲斐国志』)~5 合目、6 合目への奉納か ②久安5 年(1149) 末代上人、富士山頂に大日寺建立(『本朝世紀』) 一切経の写経・埋経の記事が載っています。 ~11 世紀中頃以降、末代上人の富士登山と修行・宗教行為(役行者伝説の付加)

【中世】

(1)修験道が確立した時期です~12 世紀から 13 世紀 ①末代上人の活動(伊豆走湯山系の修験者)→村山浅間神社を核とした村山三坊の 成立→富士山を回峰行の場として活動しました。 ②埋経の継続 承久年間の経筒・経典(末代上人、承久銘)の出土~三島ヶ岳付近 ③吉田口登山道二合目の拠点化も進みました~富士御室浅間神社・行者堂 ・文治5 年(1189)銘の日本武尊像、建久 3 年(1192)銘の女神像の勧進~走湯 山の覚実覚台坊が関わる(『甲斐国志』)。 ・行者堂→役行者像(延慶 2 年(1309)修理名)の存在(この像は甲府市円楽寺 にあります) ④二合目の重要性~次の諸点が考えられ ます~ ・富士山中での位置~標高1730 ㍍ ・草山~木山~焼山の内の木山(聖地) ・地形~浅い谷(窪地)を背景にした平 地。古富士層が露出する安定した地盤 ・展望~里宮・河口湖・鵜の島を一直線 ・水場あり ・風当り少ない ⑤吉田口登山道周辺の信仰施設 ・北口本宮富士浅間神社~承応2 年(1223)北条義時再建(『社誌』) ・吉田鳥居~文明12 年(1480)、明応 9 年(1500)立つ(『勝山記』) ・西念寺・月江寺・正福寺・如来寺・蓮華寺 ・円楽寺(甲府市右左口)~真言宗の修験道場~役行者像との関わり *富士山噴火の鎮静化→富士山が修験・修行・埋経の場として定着 伊豆走湯山系の修験者→村山浅間神社・村山三坊の成立→回峰行の場としての富士 (2)富士信仰の拡大~14 世紀から 16 世紀~ *奉納物や登拝者についての記事が多く見られます。 ①山中奉納物 ・乾元3 年(1303) 銅造地蔵菩薩立像(山頂穂打場) 益頭荘「沙弥光実・ 同比丘尼」が「富士禅定」に際して奉納 ・文明14 年(1482) 懸仏八体内 総州菅生庄木佐良津郷 ・文亀3 年(1503) 懸仏 釈迦ヶ岳 など ②登拝者の記載(道者) ・応長元年(1311) 虎関師練(鎌倉五山禅僧)、「導引者」に引率され登拝(海 蔵和尚紀年録) ・明応9 年(1500)6 月 富士山道者限りなし(勝山記) ・永正15 年(1518)6 月 大嵐により道者 13 人死亡、内 2 人は熊に殺される ・天文17 年(1548)6 月 道者数、過去 10 年で最多 ・天文22 年(1553)6 月 道者来訪により貨幣流通盛ん 翌年は少なく、撰銭が頻繁に行われる ③御師について ・御師~富士参詣の道者に対して祈祷を行うとともに、宿舎の提供・登拝の仲 立ち・お札の配布等の役割を果たしました(近世御師の性格)。 ・中世では、宗教者・富士登拝の引導者的な性格とともに、在地領主と強く結 びつく政治的な力も加わっていた様相があります。 【資料】 ・14 世紀前半~虎関師練(鎌倉五山禅僧)、「導引者」に引率され登拝 ~応長元年(1311)~

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①下総国領主結城政勝~領内において吉田御師小猿屋伊予への妨害行為を行わぬよ う命じる ②小猿屋が、郡内領主小山田信有から、翌年の富士道者200 人の通行を許可される ③上九一色衆を率いるとともに天正年中は御師としても活動していた渡辺因獄佑ひとやのすけは、 徳川の旗本となる際に檀家を河口御師三浦外記に譲渡したと伝わる。 ~以上『山梨県史』資料編中世1・通史編2 中世~ 【15・16 世紀の富士登拝大衆化の背景】 1)富士山噴火の鎮静化 2)宗教専門家の修験の山から一般大衆の信仰の場へと展開~引導する者の存在 富士山体への諸仏や法具の奉納・施設の整備 3)登拝者(道者)の来訪→貨幣流通の活発化→地域経済への潤い ↓ 富士山麓・参詣道・道者居住地を管轄する領主の思惑=経済性・流通性 ↑ 御師の活動=富士山信仰の普及 4)武田氏の信仰

【近世】

(1)富士講のはじまり ・長谷川角行の修行と教え~一般大衆への教え→戦国の世での平和を祈りました。 戦国末~江戸初期に信仰を広めた富士行者。山麓の人穴で修業した後、江戸や関 東に信仰を広め、後に富士講の祖と呼ばれました。 (2)富士講の隆盛~享保年間の二人の宗教家の活動があります。 ・村上光清の教えと寄進~北口本宮の改築と奉納 ・食行身禄の普及活動と入定(吉田口七合五勺・烏帽子岩) ~加持祈祷は行わず、身を「禄」にして働くことの勧め→庶民への浸透 ・「江戸八百八講」、及び関八州地域での広がり ①信仰の広がり ②大消費地「江戸」を始めとした、江戸後期の経済力が背景 (3)御師の活動 ①川口御師~甲斐・信濃・上野を主とし、美濃・尾張まで含む檀那場も持つ。 ・江戸初期~河口十二坊、最大128 軒の御師(文化 7 年)が活動しました。 ②吉田御師~江戸・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野等を檀那場 ・元亀3 年(1572)に現在地に移転したと伝えられます(『甲斐国志』など) ・当初三十六坊、文禄年間63 軒、江戸時代貞享年間 82 軒

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①下総国領主結城政勝~領内において吉田御師小猿屋伊予への妨害行為を行わぬよ う命じる ②小猿屋が、郡内領主小山田信有から、翌年の富士道者200 人の通行を許可される ③上九一色衆を率いるとともに天正年中は御師としても活動していた渡辺因獄佑ひとやのすけは、 徳川の旗本となる際に檀家を河口御師三浦外記に譲渡したと伝わる。 ~以上『山梨県史』資料編中世1・通史編2 中世~ 【15・16 世紀の富士登拝大衆化の背景】 1)富士山噴火の鎮静化 2)宗教専門家の修験の山から一般大衆の信仰の場へと展開~引導する者の存在 富士山体への諸仏や法具の奉納・施設の整備 3)登拝者(道者)の来訪→貨幣流通の活発化→地域経済への潤い ↓ 富士山麓・参詣道・道者居住地を管轄する領主の思惑=経済性・流通性 ↑ 御師の活動=富士山信仰の普及 4)武田氏の信仰

【近世】

(1)富士講のはじまり ・長谷川角行の修行と教え~一般大衆への教え→戦国の世での平和を祈りました。 戦国末~江戸初期に信仰を広めた富士行者。山麓の人穴で修業した後、江戸や関 東に信仰を広め、後に富士講の祖と呼ばれました。 (2)富士講の隆盛~享保年間の二人の宗教家の活動があります。 ・村上光清の教えと寄進~北口本宮の改築と奉納 ・食行身禄の普及活動と入定(吉田口七合五勺・烏帽子岩) ~加持祈祷は行わず、身を「禄」にして働くことの勧め→庶民への浸透 ・「江戸八百八講」、及び関八州地域での広がり ①信仰の広がり ②大消費地「江戸」を始めとした、江戸後期の経済力が背景 (3)御師の活動 ①川口御師~甲斐・信濃・上野を主とし、美濃・尾張まで含む檀那場も持つ。 ・江戸初期~河口十二坊、最大128 軒の御師(文化 7 年)が活動しました。 ②吉田御師~江戸・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野等を檀那場 ・元亀3 年(1572)に現在地に移転したと伝えられます(『甲斐国志』など) (4)江戸時代の登山口 ・甲斐側~河口、吉田口 ・駿河側~大宮口、村山口、須山 口、須走口 *江戸からは甲州道中~谷村道経由 での通行が主であったことから、 吉田口が多く利用されました。 *江戸時代は富士講という形の信仰が浸 透し、富士登山が一般化しました。江戸 後期の経済発展と御師の活動がその背景 にあったのです。 登山道の位置(山梨県教育委員会2011 史跡『富士山』 (仮称)調査報告書より)

【近現代】

(1)明治新政府の神仏分離政策→廃仏毀釈の波となって広がりました。 ・北口本宮の仁王像の破壊、「神仏混交之品々」除去、二合目行者堂消滅 ・宍しし野半のなかばによる富士山内諸仏の除去、山頂峰々の仏名→神名に変更 (2)富士講の動向 ・衰えは見せない~幕末・明治には御師住宅の増築もあった→登拝者の増加 鉄道や道路の整備による山麓への利便性の高まり ・御師職~法制上は廃止、しかしその社会的役割は継続しました。 ・第二次世界大戦後の衰退 ①戦中・終戦直後~精神的・経済的ダメージ ②昭和30 年代後半から 40 年代初め~価値観の変化 (3)登山の質の変化 ①女人禁制の撤廃→女性登山の幕開け ・野中夫妻の山頂観測(明治28 年) ・女子教育の普及→女学校の集団登山(明治30 年代後半) ②外国人の冬山登山・スキー ③一般の登山増加~登拝規制や禁忌の消滅・山開きの変更・交通網や宿泊施設の 改善→観光登山へと展開したのです。 (4)富士登山の特殊性

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・根底には古代以来の潜在性~富士山に対する精神的な崇め・自然に対する畏れ *富士山観の変貌~国家の関わり、富士山に関わる人の広がり、交通網や施設の整 備、戦争~登拝から登山へ・信仰と観光→信仰の形のうつろい

4 まとめ

①富士山は時代及び見る人の立場を映す鏡。 ・古代・中世・近世・近現代の富士山観を見ることができた。 ・都人・支配者・山麓の人々→それぞれの立場での富士山観もある。 ②自然・歴史・信仰・芸術という分野に共通する流れをとらえる必要性 ・火と雪の山→神聖化・畏れ~遥拝し崇める (例) 信仰では浅間大神、 和歌の世界では火と雪の世界=神仙境・男女の想い 絵画では聖徳太子絵伝 ③特性 ・特有な自然環境を背景に、根底に古代以来の富士山に対する精神的な崇め ・自然に対する畏れの潜在性が息づく山→それが富士山なのです。 ④課題 ・災害史をも取込んだ今後の富士山とのかかわり→現代人と富士山の結びつき ・世界にとっての富士山とは? 参考資料 山梨県教育委員会 2012『富士山』~山梨県富士山総合学術調査研究報告書~ 上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」 新津 健「北麓の遺跡」 原 正人「古代~遥拝から修験へ」 西川広平「中世~修験の発達と登拝の拡大」 菊池邦彦「近世~北口を中心とした富士講の隆盛と御師」 宮澤富美恵「近現代~廃仏毀釈から観光登山まで」 清雲俊元「富士信仰と仏像」 堀内 亨「富士北面の登山道」 石田千尋「富士山と文学~上代から中世」 新津 健「外国人がみた富士」 それぞれに結びつく 背景がある。

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・根底には古代以来の潜在性~富士山に対する精神的な崇め・自然に対する畏れ *富士山観の変貌~国家の関わり、富士山に関わる人の広がり、交通網や施設の整 備、戦争~登拝から登山へ・信仰と観光→信仰の形のうつろい

4 まとめ

①富士山は時代及び見る人の立場を映す鏡。 ・古代・中世・近世・近現代の富士山観を見ることができた。 ・都人・支配者・山麓の人々→それぞれの立場での富士山観もある。 ②自然・歴史・信仰・芸術という分野に共通する流れをとらえる必要性 ・火と雪の山→神聖化・畏れ~遥拝し崇める (例) 信仰では浅間大神、 和歌の世界では火と雪の世界=神仙境・男女の想い 絵画では聖徳太子絵伝 ③特性 ・特有な自然環境を背景に、根底に古代以来の富士山に対する精神的な崇め ・自然に対する畏れの潜在性が息づく山→それが富士山なのです。 ④課題 ・災害史をも取込んだ今後の富士山とのかかわり→現代人と富士山の結びつき ・世界にとっての富士山とは? 参考資料 山梨県教育委員会 2012『富士山』~山梨県富士山総合学術調査研究報告書~ 上杉 陽「地形地質からみた「富士山」の世界的な特異性について」 新津 健「北麓の遺跡」 原 正人「古代~遥拝から修験へ」 西川広平「中世~修験の発達と登拝の拡大」 菊池邦彦「近世~北口を中心とした富士講の隆盛と御師」 宮澤富美恵「近現代~廃仏毀釈から観光登山まで」 清雲俊元「富士信仰と仏像」 堀内 亨「富士北面の登山道」 石田千尋「富士山と文学~上代から中世」 新津 健「外国人がみた富士」 それぞれに結びつく 背景がある。 ■二つの御師集落「川口町」と「吉田町」 江戸時代後期の『甲斐国志』編纂当時の登山道は、北に吉田口(富士吉田市)、東の須走 口(静岡県小山町)、南口にあたる村山口(同県富士宮市)・大宮口(同上)の各々からの 四道であった。それ以前の古い登山道には、須山口(同県裾野市)と船津口(富士河口湖 町)があった。北面の山梨県側では、御師集落である河口(近世には「川口」と表記する) から船津を通過して山頂へ向かう登山道があったが、山崩れによってすでに近世期には廃 絶していたという。 室町時代には、先達に引率されて一般の人々も盛んに登山するようになる。そのような 登山者を道者(導者)という。夏山期には川口、吉田の御師宿坊には富士登拝する道者で 賑わった。川口御師の宿坊は道者坊とも呼ばれ、おもに西関東から中部高地に得意先(「檀 那所」という)を所持した。吉田御師は古くは東関東をおもな檀那所としていた。富士の 道者で賑わう町場、都市的な場であることから、江戸時代には、それぞれ川口町、吉田町 と通称された。 ■川口の御師 富士山を目指す人々を迎えたのが「御師」(富士御師という)である。御師は下級神職で、 北面の甲斐側では、川口と吉田(上吉田)に集住し、登拝者に対して祈祷や不浄祓などの 宗教行為を行うとともに自らの住宅を宿坊(御師坊、道者坊ともいう)に提供した。 江戸時代の初期、川口には「十二坊」と呼ばれる草分け的な御師坊が存在した。それは 駒屋、玉屋、友屋、大黒屋、関屋坊、瓶子屋、猿屋、俵屋、糠屋、上の坊、梅屋、うつぼ (靫)屋の一二軒である(慶長十年〈1605〉、友屋勘解由文書)。前述した『国志』は、 「川口村」について次のように記す。「この村御師職の家多く、農家少なし」とし、御師を 中心とした村落であり、数多くの御師が存在したことがわかる。 この村は富士山麓から御坂峠を越えて現在の甲府盆地へと通ずる鎌倉往還に沿って南北 に細長く家並みを連ねており、御師が居住する範囲を、古くは「木戸内」(後には本町とい う)、それ以外の人々が居住するところを「木戸外」と呼び習わしていた。この中に川口の 御師が得意先とした、甲州国中の三郡(山梨・八代・巨摩郡の甲府盆地方面)、信州(長野 県)、中山道の沿線(岐阜県、愛知県方面)、北陸地方からの道者が参集した。上野(群馬 県)の利根・碓氷・片岡郡、武蔵(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)の北西部も主要な 檀那所だった。御師三浦家が版行した万延元年(1860)の登山案内図が、山梨市大野  

富士山の民俗

 

 

河口湖および吉田の町と富士講

―二つの御師集落をめぐって― 山梨県立博物館

 堀 内   眞

参照

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