――目次―― 1,仏教史上における二人の忠懿王,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.1-22. 2,神聖観念の分化,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.23-44. 3,支那仏教の黎明,布施浩岳,Hirotake FUSE,pp.45-66. 4,世親唯識説と其の問題,形而上学の一体系としての,稲津紀三,Norizō INADSU,pp.67-84. 5,切支丹史中,オゴスチノ会の伝道,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.85-102. 6,燉煌出土大乗中宗見解及びその研究,宮本正尊,Shōsōn MIYAMOTO,pp.103-128. 7,宗教改革時代相二三,大塚道光,Dōkō ŌTSUKA,pp.129-140. 8,印度研究思潮の一方面,高畠寛我,Kanga TAKAHATA,pp.141-148. 9,「南条目録」の再版について,故南條文雄博士著『大明三蔵聖教目録』,幸村法輪,Hōrin YUKIMURA,pp.149-151. 10,新刊紹介,巻尾pp.1-14. Posted in 1929(昭和4)年
399 −呉越園忠軽王 昭和四企二月、沸教史蹟を歴訪して、頑州に至り、この地の沸教が、今現に倍侶の間.に活きく
して居るのに、整骨を戚じた。黄河の淀城や、揚子江の流域を、可なりに鷹く抜渉したが、其間に
於て活きた沸教に接した戚じは−上海・杭州・寧披・普陀山・長沙・南嶽等に過ぎぬ接に思はれる。 省別にすれば,新江・湖南の二省であるが、巾に於ても、寺院のみならす、一般の居士婦人にまで.之一ぜ見るのは、先つ新江のみと言ってよい。晰江といへば、杭州を中心とする舌の五代及び宋初の
呉越でぁる。即ち呉越観王の保護によつて、四首除州中、濁り此地にのみ、偶数々畢の隆昌を見た
のが、狗今日に追って居るのでぁる。訂時速宋天台寧は、賓に杭州と寧披との間に勃興し、両地の
畢者の梓難往復によつて、徴一で穿ち細哲極むろに至った。爾後今日に亨Qまで、射その除勢を保持するのであるから、此鮎に於て、呉越国王の偶数史上に於ける位置は、賓に重要なものでぁると見
ねばならぬ。呉越国王は、左の三世四王であつで、天資、賓正の年境を用ひた暗もあつた。
彿教史上に於ける二人の忠誌王偶数史上に於ける二人の忠漆王
常 盤 大 定
400
いづれも沸教の信奉者であつたが、特に最後の息弦王は、天台山の徳討を図師とし、西湖の婁陛
寺に造酒を迎へ、永明寺に延責を迎へ、入萬四千の貿塔を造す、西湖の雷峰塔を立て.沸教の典籍 を高度・日本に求むるなど、其努力の程度甚大ぢるものがあつた。呉越国王の沸教に封する施設lぺ.今日西湖だけに於てすら、幾多の造物に接する串が出水る。石塔や石悼に於て、﹁天下大元帥呉越囲
餞傲﹂の名が劃せられてあるものに接する時に、吾人の心が皆年にまで引きつけられる。北方の北
塊や、北賓や、隋代のものに比すれば、時代は邁に下るけれども、沿千年以上の造剥で、其彼のも
のに比すれば、薪然として出色のものたるを失はぬ。これによつて、五代朱初の呉越観息法王の名
が、吾人の頭に堅く刻まれて凍るのでぁる。
二 間越園急転王
然るに今度両州に至り、俳経流通虞や、功徳林や、偶数研究骨や.彿散文化赴や、第l衛生素食赴や、などの種々の沸教的活動を見、故山湧泉寺や、雪峰碧空寺や、西藤寺等の活気ぁえ大伽藍に
接し、西藤寺や故山で、他には未だ曾て例のな一い、三部までの明清の大東経に接して、如何にして
斯くまでの事が有り得たかを探って、これ賓に速く関越固息張王の保護あつて以凍のものなるを知
俳致史上lこ於け圭一人の忍法王 ・ 武︵一一
︵九三三1九四〇︶・ 一 息献王鍾弘佐︵九四一−九四七︶ ・−−−I⊥鱒弘保︵九朗七︶ −−息乾王銭弘取︵九四八1九七八︶401 る・で得た。頗州と両州Jを踏登する時ほ、贋州の沸教は.五代の南澤観王劉氏の保護に依り、両州
の沸教は・同じく五代の関越国王王氏担促護に依ろ事に気付く。自分は、踏査以前に於ては、南淡
国王や関越国王について、全く知識が無った。況んや是等の王家と偶数との関係については、之一で
考慮する串だもせなんだので今Qが、踏査によつて、嘗年を彷彿せしむる貨物に接して、こ∼に遽く懐を関越の普に驚せる事にしたのでぁる。
第一著に最も奇妙に戚じたのは、忠愁王に二人ある事である。それも大に時庭を異にして居るので
もめれば各別であるが、境域を接して居る同じ越の圃に、而も時代一で同じくし、且っ同様に彿放と
の関係一ど有する二人でぁるから、特に奇妙に成せらるゝのである。然し新嘗の﹁五代史﹂を見ても、
﹁十闊春秋﹂を見ても∴末書﹂む見ても.少しの疑一で滞む伶地がない上に、二人の遺刻や造物が限前にあるまで号・その足跡が今現にその地に明瞭に印せられて居るのである。呉越開の息張王が、威
似である事は、今日始めて知る所でないから、今之を殊更に言ふを要せぬが、関越陶の忠乾王とは、
関越を燭立せしめた王審知である事は、先づ之を明白にして置かねばならぬ。この関越の忠訟王に
ついては・呉越の息珠玉の徒手両州刺史彰城鹿星︵餞似の兄忠献王佐の長子︶の撰文で、開賓九年 ︵西暦九七六︶に立てられた碑がある。それは〇〇
壁修故威武軍節度福建管内貌蘇虞置竺一司常連等位開府儀M三河掠校大帥守中等仔細州大都督府長史上柱団閑玉食邑嘉五千00000
戸食‡封一千戸詫息誌王廟碑
俳敢史上に於ける二人の息範王 _逮402 であつて、頑州府城東慶成寺側の忠舐王廟巾にゐh・とて、其文が﹁金石草編﹂黎一首二十五に載 せられて居る。常時の閻、今の頑州の燭立は、五十三年乃至六十一年の間で、其後は呉越王の手に 締する様にへ与つた。それは呉越の忠献王佐の時であつた。次いで、忠誌王似の時に至って、初は叔 元婚を以てこ∼に知たらしめたが、草して後、開貿七年より征子星を以て知たらしめ、王審知の沓 第を以て息張王廟と属し、こ∼にこの碑を立てたのである。王審知の邁と餞椒の邁との間には、五 十三年の差があるからt 此時にはまだ餞似に忠珠玉といふ詮兢の無った事は無論でぁる。今岡の滞 頑時日は左程に多からす∵而も事多くして、意ありながら蓬に此廟此砕を扱ぐるに至らなんだのは、 造櫨である。 王審知に関して、沿一ケの蒐要な碑がある。それは城北闘王禰の中にあ♭、天赫三年︵西暦九〇六︶ に立てられた、銀青光祓大夫行尚書砥部侍郎上柱国子兢の奉勅撰文のもので、 大唐威武軍簡度煎建管内叔察皮革二司昏迷等使特進碩療大保同中沓門下中華事位薄節都督扁州議事事無扁州刺兄上柱閉榔郷郡 000000 玉食色ロロ月食班相愛伯戸王事知徳政碑銘井仔 といふのである。此碑は、王審知の四十五歳の時、福建の盲姓・修道が、闘に至って諦ひ、以て之 を立てたのであつた。碑文の巾に、王審知が、殿堂を雄て.経裁を寄し、繋塔一ざ造った串に関して、 次の文句がぁる。 0000 000000 JOOO00 又串ち大雄之教再出㌘上普之困り象法冤輿、造帥如レ在。虹染錐棋、諷朝l一明利之宮︰細軸牙載、更沫占咄佗之戒両而又展典−︻襲撃多捨●−浄財↓日 駕ヰ飛貸可電増王統檻り頑艶剋向、通過持俵、用伸■触媒、皆同工妙典可 、 沸教史上に於ける二人の息慾王 四
403 王審知の盛時に、王審知の目前に立てた碑中の文句でぁるから、﹁府志﹂や﹁通志﹂に、記さ透る、 王審知の件数に関する種々の施設が、これによつて保許せらる∼のでぁる。王審知が立てた自塔が. 今現に城内萬歳寺の側に在って、中客に輩え、この塔あるによつて人心を引く萬歳寺に、功徳林と いふ沸教研究の倶欒部がある。何として此記事一で否定し得やう。 三 間越国王衷 関越王家特に王審知と、沸教との関係を見んとするに曹り、順序上先づこの王家の系譜を見るを 便利とする。異説が多いが、新嘗の﹁五代史﹂や、﹁朱史﹂や、﹁粁氏碍舌略﹂や、﹁彿剋通載﹂や、﹁金 . 石輩鹿﹂や、﹁十固春秋﹂やなどを封照して、梢之む明白ならしめ得る。﹁彿組通我Lの記事には誤謬 が多いし、﹁五代史﹂や﹁宋史﹂には彿敦の記和が殆んど無いから、﹁十囲春秋﹂や、﹁稽古略﹂の記事 によつて.費明せしめらるる所が多い。﹁十固春秋﹂は廿四谷、清朝乾隆五十入年 仁和の呉任臣志 伊氏撰で、宮内省尚書寮にあり、幸に之を請貸するの粂を得た。今是等講書を封照して、先づ左の 系譜を作って見る。 ー司空王潮︵八九三−八九六︶ −武粛王事部 −大乱王事知事信通 −一︵八九七−九二五︶ 彿致史上に於けろ二人の忠乾王 . ﹂ 五
404 七生凡五十三年でぁるが、然し、五十五年、五十六年六十年、六十一年の諸説があるといふ。 華﹁五代史﹂には、之を僧債列侍に威せしめて居る串に由っても明瞭なる如く、天下の認知せるも ので無いか㌧b.いつを雄図の基鮎とすべきかによつても異り.またその滅亡の年時につきても異説 があるので、諸説が分れるのであろが、﹁十陶春秋﹂に従って、以上の如くにして置くのでぁる。此 王家では.延鈎の時に龍啓、剰の時に通文、峻の時に永嘩 延政の時に天徳の年耽を用ひた。 四 王事知と萱隆義存 王審知と彿教との関係に、名借に射する方面と、造塔寺、焉寂痙に関する方面と、大健二つあつ で.前者の方は﹁景徳博燈銀﹂に載せられ、後者の方は割合に委しく﹁十固春秋﹂に載せられて居 るから、両方面の記事を拝せ考ふる時は、王審知の件数に射する理解と施設とを知る事が出来る。 、 両州の彿敦は、雪峰義存から陰になつたものと謂ってよい。義存は徳山冤鑑の法嗣で、其門下よ り雷門文僅・玄沙師備・故山紳委・長慶慧稜・安国弘招の如き龍象を出せる大岸師でぁつた。﹁雪峰 ー景京王延幾改名峨︵九三九1九四二︶ −天徳帝王延政︵紙昌︶︵九讐ニー九四六︶ −慕宗王娃鈎︵改名鱗︶ ー王娃翰︵九二六︶ ︵九二七−九三三︶ 彿敢史上に於けろ二人の思汽王 康宗王根胞︵改名白︶ ︵九三四−九三八︶
iori 志﹂に掠れば、泉州南安の人、蒲田玉澗寺に出家し.両州芙蓉弘照に徒ひ、弘照の寂噂 話方の帯
食を歴で、﹁三登投子、九到洞山﹂の苦修を累ね、年四十にして、徳山の一棒に裕然として桶底の放
せるが如く、四十七の時、芙蓉を追念して藤州に逼り、成通十一年︵八六九\︼同率行質と共に彗峰に入りて、開山に徒事し、年六十の時に、従衆千五盲人に盈つるに至った。義存と王審知との関係は、
乾草二年︵八九五︶よりである。此年、審知の長兄王椚弟じ、審知ほ仲兄王審郵に撥位を護りしが、然し衆望は審知に輸して居たので、﹁雪峰志﹂にも閑王王審知執権萌位として居る。時に鶉存の年は
既に七十四であつたが、王審知の年は僅に三十四歳であつた。七十七歳の時に、王審知の諸によつ
て、玄沙と共に内に入って傭心印を論じ、王は二人の開示を聞きて、大信心を起し、便ち鯨心受持
の大誓願を立て、共棲終に邁志が無ったのである。雪峰の尊宇の完成したのは、一この後で、王審知
の外護によつたのである。雪峰に枯木奄といふがあろ。初は、山南の信士藍文卿が、所居の東他の
側の舌樫樹を購って、葛を創め、鶉存を延いて駐傷せしめたものであるが、其壊、王審知が、約萬
有除工を投じ丁.之を重雄し、及び大地㌢開いたのであ篭現に枯木葛の内に、同胞約三女の大枯 木があつて、こJれを穿ちて寵と作し、其内に義存の肉身像を安置してあト、像の背後に、﹁推庸天赫 乙丑歳、造毒手及作水油.約五千徐功、時廉壬王大王﹂の到を有する。王大王といふは、勿論王審、ノ 知の串である。斯の如く、王審知の発布に対する布施は、頗る重大であつたので、﹁景穂領﹂の中に
は、﹁閑帥施銀交淋。借問、▼和荷受大王如此供養、購何報答。師以手托地日、少打我﹂といふ問答を
飾秋史上に於けろ二人の忠盛王 七406 玄沙帥備は、芙蓉の弘照嘉訓l二役って剃落したから、法門に於ては義存と兄弟であるが、親近な ること師資の如きものがあト′、苦行によつて雪峰の開山を助け、以て甚大を成さしめたのであつた。 ﹁景穂銀﹂や、﹁清音略﹂に、閲帥王公、帥の鹿一ぞ以って事へたとある。其寂年が開平二年︵九〇八︶で ある串より推して、この閻帥の王審知ぢる一で知らしむる。関叩鰯に塔を樹てた。﹁景徳戯﹂の中に、 南天よら孝明三裁が凍わ“時、閑帥はこの三裁と玄沙と相見せしめた。玄沙.火徹を以て銅饉を敲き て、是什應撃と問うたら、≡裁は銅餓の発と封へたので、玄沙は、大王よ外国人の鞄を安くる莫れ と日ひ、三戴は討へなんだといふ逸話を出して居る。﹁十固着款﹂の中に、天赫三年、南天固孝明三 戴の充実せる事一で記して居るから、この間答はその時の事であるに相違ない。然らば、玄沙の七十 二義の時の串であつた。 故山の紳安につきて、﹁景徳儀﹂は/閲帥が府城の左二十里に於丁、故山を開き、輝宮を創し、沖 嬰を請して宗教を揚げしめた事を記して居る。是は義存入寂の年であつで、其後天編入年︵九四三︶ に至るまで、三十僚年間、こ∼に任して、開帥の蕗重を受けた。これによつて、王審知によつで初 怖致史上に於ける∴人の忠誌王 八 掲げて居るっ栽存の彗峰に化する四十伶年、畢者は冬克ともに千五盲人を減せざる状況であつた。 毒八十七にして、閏年二年︵九〇八︶に寂し、其塔は王審知の建てたもので、今現に堂の右方高地に 現存する。新王審知と交渉あらし、他の大碓帥一でも、こ∼に塞げて見る。
407 めで故山に任したが、其後、王延鈎・王剥・王城の敬意をも受けた串が知られる。輿重囲師の銑ぁ り、其塔が寺後に現存する。この故山にほ、捕朝時代に永覚玄賀・焉森遁辞といふ曹洞系の二人の 単著があつた。鮮籍・伽藍の具備する事、両州の内外に於て第一であり、遠近の詣者踵を絶た萬が、 速くその昔に遡れば、王審知の保護が淵源定点して居るのである。 長慶の慧稜は、蜜蜂に凍征する串二十九我にしT、天赫三年︵九〇六︶泉州の招慶寺に請せられた が、壊に王審知の招きによつて、両州城の西院長慶寺に任する串となつた。﹁景徳餞﹂には、関越の 雨虞に開法すること、二十七載にして、長奥三年︵九三二︶に寂し、王氏之が塔を建てたとある。建 塔したのは王延均の時代であるが、両州に於ける大部分は、王審知との交渉であつた。この長慶寺 は、今の伯山西輝寺で、王覇仙人上昇の所といはれ、﹁十固春秋﹂に壊れば、王覇は王審知の達観で あるから、王家に取っては賓に重要な地であ一つたのである。 この外に、王膚知の敬意を彿ったものに、安国弘招、安国慧球の二人がぁる。弘招ほ蜜蜂の法駒. 悪球は玄沙の法嗣であつた。弘招の寂年は・不明であるが、﹁侍燈﹂に於て、閑帥が師の道徳を幣へ、 命じて安国寺に居らしめ、大に玄風一で閏キ従八百に.鎗ったといふ。この間帥は、年代上王審知で あつたに相違ない。招慶の慧稜との間に交渉のあつた轟からも、左横であつたと思ふ。 臥龍山安開院の慧球は、玄沙の法嗣であるが、閑帥王氏が、玄沙の示寂するに臨みて、中に廃し てその道旨を承け、淡山の国師が十有二人を奉げたるを取らすしT、衆中より球上座を奉げたとい 彿数史上lニ於ける二人の息敦王 九
40R 一〇 彿敦史上に於ける二人の恩恵王 ネ聞帥も、また慧球の寂年が乾化三年︵九三︶でぁる研から∵言ふまでもなく王審知であつた事を 知らしむる。 以上は、雪峰門下の中で、王審知に関係ある、極めて重要な大鰐師のみを奉げたのである。頑州の ︻ 沸教は、これより隆昌の域に入った。そのこれあらしは、雪峰義存の功績であるが、然し之を外護 する王審知が無ったならば、斯くまでに.費展する事が出水なんだに相違ない。雪峰義存と、閑王王 審知との因縁合食の結果が、俄然として頑州の沸教を内外に費揚せしむるに至ったのである。 五 王事知の造悌・建塔・鴬経 ﹁十固春秋﹂の中に、その重要な事項を記してぁつて、王審知の偶数に封する施設を知るに極めて便 利である。これを彿と法とに分けて見れば、次の様な結果となる。 一、天赫元年︵九〇巴、報恩定光多安堵を建てy、考の司客、批の秦図太夫人、及び伯兄司垂に薦 めた。これが現存する白塔である。 二.天赫三年、金銅彿像一高空ハ尺守っもの、要薩俊二高丈三尺なる 山塔院に迎へた。この時lこ作った黄潜の丈六金身碑が、﹁十固着秋﹂の中に引かれて居る。その中 に、﹁今我卑邦め焉には、則君親に忠孝に、人を改しては.則生民に父母たら。塔を造るもの四、 英一は寺山といふ。皇帝の焉にせるもの打てり。英二は報恩定光といふ、先世を追煮せるなり。其 三、其四は大中、調光といふ。軍旗の焉にせる打†り。人民の焉にせる打了り﹂と記して居る所から
4U9 見れば、王審知の造塔は、前掲定光塔の外に猶三伯あつて,其中、寺山塔は開元寺にあ♭、皇帝 の焉にしたものなる事を知らしめる。天赫三年立の徳政碑の中に、﹁又盛典賓塔﹂とあるに徹すれ ば、四塔共に天赫三年︵九〇五︶.王審知の四十五歳以前に成したものである。開元寺は、現在第一 監獄署として.全く寺門の粗を失って居るが、其中に大彿〓狼を保存して居る。これ或は王審知 造の丈六金銅彿像なるかも知れぬが、加塑して居るので判別する事が困難である。 三、同光三年︵九二三︶、城の西南に於T、櫨冶十三研一で張り︰銅鏡三萬斤を備へて、滞迦、滞勒の諸 俊一曾鋳、唐ま、額を金身報恩之寺と賜うた。 以上の記蒋の外に、月明五年︵九克︶の下に、注して﹁王氏、雅傭法を重んじ、開の借寺を嫁す、 ●・ ヽ 凡二百六十七。後に呉越に属して.菅尾二十七年に、復寺二百二十一を建てた﹂とある。以てその 如何に彿法外護に努めたかゞ分る。 東経についての■記事は、左の如くである。 一、天赫二年︵九〇五︶、王、彿経を吉山に寂す。凡五首四十一曲、絶五千四十人巷であつた。この寺 山といふは、前掲の閲元寄書山塔院の串でゃらう。後に、九仙山高歳寺即ち自塔のある寺に於て、 染まを就左して.額を蕃山と来したとぁるが、傭緯を寂した蕃山とは開元寺であらうと思ふ。・黄 泊の丈六金身碑の中に、続焉末戒、英二は上に進め、其三は寺山・克光に附すとぁる。文中の寺 山は開元尊書山塔院、定光は報恩定光塔であらう。 彿教史上に於ける二人の息慾王
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一二
俳敦史上lニ於ける二人の忠麓王 二、同光元年︵九二三︶、に、王、又、金銀萬除丙を況して、金銀字の四東経を作る。各五千四十人 巷。栴檀を軸と焉し、云云とぁる。 其後、盲五十年程を下って、宋の元豊年問以後、この頑州に於て、大歳終離印の大業が完成せら れた。開元寺と末席寺とニケ所に於て、同時に之一ぞ完成したのであつた。有名な房州本といふのは. これである。今岡、開元寺も、末席苛も、共に之を探って、何か厳戒に関する手がゝbを得たいと 念じたが、開元寺は既に第一党獄署となり、束締寺は音名を保存するのみ、共に一個の石碑すらも 無いので、何等離裁に牌する材料を得す、唯開元寺のある研が、経院巷といふ街名であるのに、僅 に昔を懐ふのみであつた。両州の地に於て、今日では離先の口碑すらも無いのである。然るに﹁十 閏春秋﹂によつて、王審知が、績焉九蕨を超せるを知る。こ∼に宋代の脛裁の基礎が出水たと見て よい。況んや次の悪宗王延鈎は、繕経する二百簸であつたといふに於てをやである。王審知が無か ったならば、如何に木材が豊富であつても、頑州本の出水る繰由が無かったに相違ない。 大 間越の儒教文化を表示する石塔 雇州城内には、王審知建の報恩定光多賓塔、通解白塔の外に.檜一ケの八角七盾の石塔がある。 これは王審知の少子、景宗王騰が、永隆三年︵九竺︶を以て建てたものであるが、両州に於ける現 存最優の造制として、且っ王審知自身のでは無いけれど、其志を嗣げろ少子の建として、是非之に 開設する必要・ぎ威する。永隆とは、関越の年戟である。石塔第四暦に得せられた農大狸石版に、崇41l 妙保聖堅牢之塔と別して居るから、この塔は建立曹初より、斯く呼ばれた事が分る。各層の四面に、 各々同一彿像を宇内刻石一ざ敬して居る。是等彿像の、建塔昔時のものである串が、その様式や気象 の上から、一目に看取せらるゝ。各層の彿像の上部左右に、各々俳名を刻し、且っ随喜施財者の名 を剥Lて居るから、是等を悉く集め琴匂畔は、建塔に㈲する国繰を判明せしめ得るのである。彿像 名は、初唐金輪王彿、第二厨弼勒彿、第二盾無量等彿.第四屏多軍備、第車暦菓師彿、第六骨髄自 在王彿.第七唐澤迦卑屈彿で、その顔容端厳なること.贋頑二州に於て、他に之に比し待ペきもの を見ぬ。 第五官の砕版に、塔記が劃せられてある。其中に 今之塔也.非賓非沙、朝里鞘大。聖職光之巨石、状涌出之浮園。是故人但有心、物亦無能。心以赤貧名妓、茸即同沙、憶以不 額氏名、石選膵賓。 とあるのは.此塔の石造なるを讃したのである。 上親朔之暇、椒詞南面城中、西禿山左、林紫藷肇重油用以繋香、草嘩空軍占度年之蒼翠、可安之季堵癒些︰阿園。 とあるのは、此塔が王峻の薪雄ならしを語るものである。 0000 盾一重九、楼燭無埜。堕年 月、良工告成。凡一十六門、七十二角。井随暦陰出、諸彿形像、共 六十二娠。 とあるのは、九居である事を語るが、現在の七履から見て、疑問が起る。第一盾の八偶には、明代 の補修が加へられてあるから、塔全髄について、重修が行はれて居る.に相違ないが.然し九屏が七 儒教史上に於けろ二人の忠怒王
41:王 一四 仲秋史上lこ於ける二人の忠鼓王 屏となれる程の、根本的の改修があつたとは思はれぬ。王審知の催下に於て、造塔寺・寒蔵経につ いて.あれ程委しく記した﹁十開春秋﹂が、王峻の下に於て.皮付一千人を叙せるのみで.これ程 の大業を記さぬのは、蓋.此塔の僧侶を知らぬ鰯であらう。然るに﹁群偲稽古略Lが長欒集を引用 して、永降三年の催下に、左の記事を加へて居るのは、頗る多とす 0000 閉塞於城南西阜、珪石轄七厨、功夫牛、光費如筆軍二夕、既成、光蝿際天叉三夕。王慰亭、迷析之日汗光。而於共下、叉窪寺宇芳。 この記事によつて、搭が曹初より七居であつた事は明瞭とだるが、然し塔名の揮発といふに、ま − た薪なる問超が加はる事となつた。浮光の塔名は、墓石帯下の草弄中に、蟻庖元十五年︵七九九︶立、 無垢浮光塔銘碑のぁるが焉でぁる。銘文によitば、辞光塔は.徳宗皇帝の誕辰に普り、邦家の昌運 を賀し、天恩に報せんが焉に.観察使柳公、監軍使魚公が、軸謀って聾したものであつた。彼の潜 t 光塔と、此の祭妙塔との同異に謝して議論が今0。王剥が.﹁金石草諭﹂黎百〇四の中に.引用せる に見れば、染克家の三旭志は、現存の石塔を以て直に浮光塔と見たり又琴盲二十二の中に引用せる に見れば、福建通志は、柳冤の石塔に無垢渾光塔の名が賜はり.、王瞬の重修に、崇妙保聖堅牢塔の 名が超せられたとして居る。これは除りに都合のよい詭で、それには二重の疑がある。一は浮光塔 の石造打てりしを否すべき文字が、碑文中に見普らぬ串。二は穀妙塔の重修行†りしを記すべき文字が、 副文中に見嘗らぬ事でぁろ。されば王弛も、﹁文義を玩ぶに、新建に由るペし。修薔に似す。且っ井 に一語の萄塔に及ぶものなし﹂と言って、疑を存して居る。これは疑問とするまでも亜⋮い。渾光塔
413 と崇妙塔とは、断然別なものと見ろがよいと思ふ。渾光堵は、孟,木造であつただらう。木造なる が烏に、百三十八年後の王臓の時には、早や全︿其影一ざ留めぬに至ったものに相違ない。この例は 頗る多い。唐代以前の塔は、多く木造であつて、之を乾としにのが、概ね宋代からである。石造の は多くの例を見ぬが、南京粒霞寺の有名な石塔は、同じく五代のものである。 此の石塔は、王審知直接のものでは無いが、関越の沸教文化を、造形の上から知らしめる屈強の 資料であるから、之について叙述したのである。七厨に安せられて居る宇内剥偶像七腹の中、帝迦. 多茸の二俳.薬師・無量書・蒲勒の三彿は、普行のものであるが、金輪王・龍自在王の.二彿は、特 .. 一 殊尤ものであ 申に於て.解いて之を指して.﹁金輪王箪二子降人間、寄生穀柄L圭一口つた尊を侍へて居る。或は. この琴言らしい語が、上は王家より下は萬民の問に浸漸して、王審知を金輸王の第三子の化生と信 するに至らしめた、その反映では無からうかと思ふ。果して然らば、王審知と沸教との関係が、一 骨重要の程度を加へて凍る事となる。若し金輸王彿が、付注柴の言へる金輸王に圃係ふアりとせば、 龍自在王俳といふ名稗についても.説明が困難でない事と小甘る。王潮・王審却・王審知の三兄弟が、 細井んで扁州に臨める時に、時人は之里二龍と稀へて、大にその鼎凍を嘱望した。預想に蓮はす、 王審知は天下の龍となつたのであるから.関越の民は必ず離日在を血て目した事と思ふ。といへば とて、王審知を以て 直に彿といふのでは無い。王審知の一身に附随せる寧接が、或は斯る特殊の 俳敢史上に於ける二人の息怒王
414 沸教史上−こ於ける二人の息鼓王
一六
彿あらしめた所以で撫からうかと言ふのである。然しこれは畢なる想像でぁるからー特にま張する
のでは無い。兎も角、七彿の小、普通に行はれて居る五彿の外に、他に見なれぬ二俳名の交って居
るのが、奇妙に成せらる、っ少くも関越地方に於て、普時行はれて居る信仰の内容を点す・特殊の
俳名であると思ふ。
七 重門文僅と青票国王
彗峰義存の、沸教史上に重要なる位置を取るは、其門下に雷門宗の剋文促を出せる畢更に暴漢
桂環を過して、法眼宗の剋文金を出せる弔である。房州に於ける雪峰の位置は、既に之を説いたが、
こゝにその法嗣詔州の宕門文僅を附詮し、これと南渓図との関係を見る蒋とする。この南洋は、昔
時の十固ヰの随一で、廣州を中心として.関越と同棲に彿撃完護したものでぁつた。雷門文促は− 此王室の蹄依と外護とを受くる事甚大でぁつた。雷門に入るに前だちて、こ∼に南瑛王家の系譜を出して見る。下に記せるは、共時に用ひられた年耽でぁる。
−南海王劉怯︵九〇四−九一一︶ −大湊高組劉捗︵墜︶︵九一二−九四二︶ −珍︵九四二︶ −中宗戌︵九四三−九 銀︵九五入−九七こ415 雷門は、睦州の道樅︵又は陳普宿とす︶に重し、門閥に於て捨経せられて、その一脚を損Lたが、
此時借入する所あり、雪峰義存王見えて、心印を附せられ、詔州電樹院如敏を訪うて、人天の眼目
と解せられ、乾亭七年︵九二三︶、年六十を以て、雷門山を開き、光泰藤院の額を賜はつた。大有十一 年︵九三八︶、七十五歳の時、高租英に召されて入関し、匡眞大師の故を賜はり、乾和七年︵九四九︶八 十六歳にして入寂した。その輝風は.超宗越格.縦横無碍で、その入寂九年後に撰せられた匡眞大師耳性碑の中に、﹁師の席河港森、聞けば必す人を驚かす﹂と言って居る。
億円山は、河南・廣東南省の境界に近い乳顔顆に在ト∴常に不穏の状を結くるが焉に、弦を訪ふ
人が無い。之によつて、寺門の内に.租師文催に関する二碑があるが、博捜網羅を韮したと思はる る﹁金石草庵﹂にも.共に之を逸して居る。一は大賀元年︵九五八︶、即ちその寂後九年に建てられた、 大湊瑠州雷門山光泰廊院匡眞大師賓性碑井序といふのであ♭、二は大貿七年︵九六四︶、即ちその寂後十六年に建てられた、大渓詔州雷門山大費締寺大悪書匡聖弘明大師碑銘といふのである。前碑は、
その一生を叙したものである。塵畢弟子の名頗る多い中に於て、唯嗣法の弟子とせられた白雲山賓
性大師志摩一人のみが、後に名を遺すも、其他のものは、何等の痕透を沸教史上に遺して居らぬ。
畢宮閲より出でたものが多かった焉であらう。後碑は、院紹荘なるものが、大安六年に夢に雷門
を見−その告によつて、特進李托に依って.之を奏し、その塔を開きて、撞くるが如き異身に接し 儒教史上に於ける二人の息撚王416 l八 僕敷皮上lこ於け圭一人の息艇王
たので、やがて之を奉じて廣州の閑に赴き、月を邁えて寺に締った。これによつて、漢庭り勅によ
って、光義藤院が大農寺と改められ、論我が大志掌匡聖弘明伏師と改められ佗事を記して居る。
斯くて雲門文催が、入山以後の二十七年間に於て、最も交渉の多かったのは二胞観劇糞であつて、
匡眞大師といふのも、高剋の賜へるものであつた。﹁稽古﹂は之を戊申︵九四八︶として居るから.中 京の時となるが、雲円山にある賓性碑に従って、之を戊戊完三八︶とするのが、史茸に合する。﹁彿 親臨載﹂には、文催の眞身を宮中に迎へた年月を、乾徳三年︵九歪︶とし、﹁清音﹂には、乾徳四年に院紹荘が夢見たとして居るのは、共に誤謬で、この弘明大師碑によつて訂正せらるべきものであ
る。而してまたその寂後に於て交渉の多かったのは、最後の王勧銀の時である。都銀は、質性碑の
中には、曹今大聖文武玄偉大明至道大鹿孝皇帝と呼ばれ.弘明大師碑の中には香里文武陸棲高明宏鑑大光尊皇帝と呼ばれて居るが、この嘉耕は、﹁十固着秋﹂にすら侍へられてない所の㌢のである。
南渓の偶数文化は、婁門文信一人によつて代表せられるが、之を造形の上から直接せしむるもの
が、幸にも贋東光孝寺に保存せられて居る。そは東西の雨域塔である。西塔は大安六年を以て襲澄
梶の鋳造せるもの、東塔は大津皇帝劉銀が、大貿十年を以て鋳造せるものである。﹁十同番秋﹂巻六
十、南渓本紀の中に、﹁大安十年千傭貿塔を輿王府に勅造す﹂と載せてある程であるから.この域塔 は、軍曹時の文化的努力の結晶であると見てよい。萄﹁五代史﹂の中には、此年に、法性寺︵今417 の光孝寺︶の菩提樹、高一盲四十尺、大十園なるが、大風の焉に抜かれた事を侍へて居る。この事 件と倦塔事件とは、直接の関係が無いだらう。東塔を鋳造せる異澄梶は、前掲婁門大師眞身に開係 あアワし李托と共に、﹁十固着秋﹂に博せられて居る程の権勢家であつた。 南塔の中.惜い事には、東塔の頗る破損せる事でぁる。幸にも同形式の西塔があるので、之によ って剥鋳造の東塔を推想する事が出水る。扶は四重.最下の第一扶は雨獅戯珠を作り、第二次は隻 鶉乎珠を作わ、其地を妬めて、廉外の四偶に功手ぜ作♭、以て第三朕を戴かしめ.第三決は花紋を 刺せる年額、第四朕は九実の連弾で、その中群に文を別して居る。蓮群以上は七盾、次第に狭くし て−四方共に彿像哲錨.毎盾大彿宜一にして、小傭之一ぞ環り.七屏の沸教は.七盾のを合して、四 方共に二百五十俳となるから、絶計千彿となる。これ、千彿貿塔の稀ある所以である。第一屠には、 東滞迦彿、南珊陀彿、西浦勒彿.北柴師彿の名を刻し、第二屠には、東慮邁邦彿.南度合郵便、酉 皐月俳.北枕合浮彿の名を別してある。四面邁非の中葉の文は同じいが、毎行の字数に多寡がある ので・﹂範にからぎる串針知らしめる。劉銀造の塔には、勅有司用鳥金勝進といひ、保龍口有慶、 新風暦無喝儲方成口於清申、八表永承於安泰、然後事資三石.雇破四息といひ、以四月乾徳簡、 投資慶讃とあるから、偽造の目的と、その時日とが分るし、.また其外に、暁眞大師・貿強大師・紫 ノ 一 ′、、 法大師等の名があるので∵之を松枝せし人の名も分る。 八 忠群王の穏風 儒教史上に於ける二人の息蛙王
4柑 二〇 俳秋史上に於ける二人の忠怒王 虞頑二州の沸教は、中庸以後からのものと謂ってよい。若し舌に遡らば、到来の求都政摩も、求 郵政陀羅も、贋州に上陸したし、確執の菩提達磨も、贋州に上陸したといはる∼し、陳の眞諦三蕨 は、贋州の制止寺︵今の光孝寺︶で悼辞一ぞしたのであるから、南北朝時代に於て,沸教は細管に流 侍して居たに相違ない。或は新思潮が、絶えす踵を接して贋州に入り込んだかと思はれる。然し沸 教が賓際に行はる∼様になつたのは、中居の六租慧能からの鞘で、六租以後、贋某省には、相皆の 藤師がそちこちに宗凰を揚げたのであつた。又、頑州には、雪峰以前に於て、南嶽系の亀山智眞・ 亀山正原・鳩山大安・蛋雲志勒・九峰慈慧・寺山師解・烏石婁粗といふ様な繹師も凍り、青原系 の砕石、普光、牛粥徴といふ様な碍師も居たが、異に人天の眼目たるペき鰐風を費揚したのは、何 としても雪峰義存からの串である。鶉存の後は、贋州に雷門文侶、両州に玄妙師備・長慶慧稜・故 山醐嬰といふ大帝師が任したから、この時以後の偶数の胱騒が.満目する程に一夏した。二省を踏 査して見ると、昔年のものに接し待らるゝのは、五代以後のものである。或はその以前のものは、 時代の塵遮の焉に散逸したとも想像せらるゝが、然し五代以後のものが歴々として造るならば、そ れ以前のものも、蔑分か造らねばならぬのである。然るに五代以後のもの.には、碍州雷門山の雨碑、 贋州光孝寺の雨域塔、両州の白塔・石塔、雪峰の枯木電.忠弦王碑、雪峰鶉存の去塔、長慶慧稜の 主塔といふ夙に、数々造存して居るに閉らす、その以前のものになると.衆目の一致して嘉納し待 ペきものが質に砂い。僅に両州の■貞元浮光無垢塔碑、烏石山般若毒銘、虞州光孝寺の陀雁月暢が、
419 唐代のものたるに止まる。而も五代のものに比して、或は却って慣偲が少いかに見らるゝのでぁる。 これについては、散供したといふよりも、千歳に樽ふべき程のものは、唐代に未だ無かった、無か ったのは、これあらしむるまでの敦カが民間に無かったと言ふ方がよいだらうと思ム。然らば造形 美術として衷はる∼までの、活力ある偶数あらしめたのは、雪峰鶉存であると言ってよい。 精細界の偉人としての雪峰義存が.宛も完成せられた時代に、軍政方面の偉人として、撥乱反正 の功を収めたものは、関王王審知即ち忠蛮王であつた。忠舐王は文化に封する理解があ♭、篤敬三. 貿の上に徳政を布いたので、其徳風は内外に及んだ。前に鴻げた徳政碑の中に見える沸教隣係の文 、 句は、史賓の上からも、貨物の上からも、之一里澄明する串が出水る。彼の呉越図息慾王の徒子餞星 の撰せる閑王詮息班王廟碑の中にもー次のほに言って居る。 00 然而尭欽搾典、大廓法門、衆菜館魂、呵徳不戦。喋湖上智、芯努布於諸方、有作真因、伽藍邁浦於楽園。錬即山之聖固、斡丈 000 00qO〇 六化月、路⋮餓水之光輝、袈五千鱒蔵。事非角己、願乃庇鹿、此得以群美求腐臭。 これ敢て溢其の言では無い。前掲の﹁景徳儲﹂や、﹁十開春秋﹂によつて、悉く之をたしかめる事 が出水るのである。斯くて忠蕊王の徳化は、濁ら問越のみでは如い、速く彿寮の固にまでも及んだ。 徳政碑の中に、之についていふ、 怖舛国雄同臨照、炭袈冠裳、舟車甲通、柁青珂厳粛、亦稔沿海、束鴇軸地り此乃公示以中学、致共内附、錐云鼻紙、亦基準嵐。 苑土龍妓、寧猫桝於社史、荏支雀卵、諒可搬於前開。 悌致史上に於ける二人の息鼓王
420 影響であらう。現今両州や、泉州やを中心として、南洋に活躍する準僑が、普年に於て既にぁつた と見らる∼のは、面白い事である。彿斉固は、この時に初めて通貫して後.宋の建隆・開賓・太平 興国・薙鷹・端扶・浄化・成年に亘る、四十三年間に、正史に見えるだけにても、十三同も凍賞し、 その時の王名も使者名も記されて居る。成年六年︵一〇〇三︶には、其王の思離味曜無届彿廃詞華が、 使の李加排、副使の無陀李南悲を造はして凍貫せしめ、且っ﹁本国に俳寺を建て∼、以て聖書を祝 せん。願はくば名と及び鐘とを賜へ﹂と願ひ出でたので、真宗皇帝は之一ピ嘉して、詔して東天高書 を以て寺額とし、井に鐘を領て之を賜I.フた。此事賓は、いよく、華僑が彼観に相皆の地位を占め て居た事を語るのである。数々凍賞した使者の中には、支部人らしい名義が見られるが、そは多く の想像を差し軽へる事とする。 二二 俳敦史上に於ける二人の忠熱王 俳賓観といふは、三彿賓今日の斗可=到で、﹁先史﹂笹四盲人十九の列侍には、天前元年︵九〇e に初めて貫物したとぁり、﹁十囲春秋﹂には、同二年に凍貧したとある。凍貧したはの、賓に顧州の 地であつた。﹁宋史Lは、﹁かの国中の文字は梵書を用ふるが、亦中国の文字あり、章衷を上る時に用 ふ﹂と言って居る。スマトラの如き南螢囲が、 中国の文字を用ひたのは、恐くは今日の所謂華僑の
421
神聖観念の分化
原 田 敏 明
一、紳聖ご凡俗 − 二、紳聖の分化 − 三、聖津の分化 − 四、不浄の分化−1五、詰語﹁
吾々は今弦に、特に、紳豊艶念の本質を諭するのでもなければ、又その宗教的意義を解明しよ・・フ ︵一︶ と云ふのでもない。たゞ文化の費展に件ひ、神聖観念が如何に分化したかと云ふことに就いて一 の考察をなすことゝする。 神聖軌念の原本的形式が、或る賓際的の侶偵があら、不可思講なもの、威厳ぁるものとして、凡俗 なるものよーり隔離され禁止されたるものと云ふ観念にして、それは単に普通に謂ふ紳重なるものヽ みならす、更に不評なるもの、呪はれたかものなどをも・併せ含んだ意味であると云Åことは−既 に言語畢的にも.その確かな事繋が奉げられてをるパ こ、に凡俗又は卑俗と云ふのは、昔々の日常生活に於いて、何等特殊なものでないc絹−室の状 態を云云ので、神聖に封立する或る望ましからざる状態を意味するのではハ仏いのである㌻又神聖と 云ふも/での cOmm。nに対する∈岩音臼〇nの状態を云ふに過ぎないのである。かくして紳聖の観 紳里親念の分化422 ′ 二田 紳撃取念の分化 念は凡俗の軌念と封宜し、原始人の心理に於いては.現賓のものも又彼等の持つ観念上のものも、 ︵二︶ すべてのものが此の紳聖と凡俗との二つの相反する e︼芦怒に分たれるのである。即ちすべてのもの は cOmヨ0−−でJのるか、u−1gmmOロであるか、その何れかであるのでぁる。 この凡俗に卸する紳聖の観念が、その心理的起原に於いて、ゼーダーブロムの云った如く﹁恐る ︵三︶ べき、驚くべき−見馴れない、畏怖に伍するものに封する心的反動であつた﹂とすれば、その原始 的状饅に於いては所謂紳空なるものも又不渾なるものも、その間にtpす盲としての内容に於いて何 等の差別もないと云ふべきであらう。もとよりt註宝とされる事物の内には清澤なるものも尊敬す べきものもあると同時に、不浄なるもの呪はれたるものなどもあつて、それらはものそのものとし て何等の区別も無かったと云ふのではない。併しそれらのものは夫々その特殊性は種々なる意味に ′ 於いてあるにしても、これを詔p罵声訂されpr︵︶Fibitされたるものとしての訂b名なる訪に於いて は同一範囲に威するものて 凡俗に非ざるものとして区別されるものである。 而してかゝる神聖は凡俗に卦して凡俗ならざるもの、凡俗は御重に封して紳聖ならざるもので、 従って雨着はその中間に所要にも非す凡俗に非すと云ふ無記の欺感を許すものではない。蓋し凡俗 と云ふのは c音︼旨nの胱簸で.謂はゞ此の就騒こそ無記の何でもない状態で、それに封して⋮・守 −一−−宣−1なるものが紳重なのである。 かくして紳聖観念の原本的意味は、例へばラテン語の S琵rやフランス語のS⋮かの如く、或
4三:3 厄日本譜の﹁いみ﹂の如く、清澤なるものを特別扱ひにし隔離する方面としての﹁帝﹂と木澤なる ものを特別扱ひにし隔離する方面とLての﹁忌﹂とが、共に包含された意味での﹁いみ﹂の観念で ある。もとよ鼻日本語に於いて∵もと′1斎と忌との漢字が最格に邁ひ分けられたと云ふのではな い。殊に古いところでは両者は共通に邁はれたのでぁるが、それが後代になると、大健よい方面と 悪い方面とに追ひ分けられて凍た。これ本務の﹁いみ﹂といふ観念が分化して凍た結果である一 は云ふまでもぢい。 これに就いて本居宣長も既に次の如く云ってをる。﹁凡て伊波布と伊卑と本同じ言にて.藩の字を も書きて、︵彼の世には忌の字をば伊牟とのみ訓みて、伊波布には藩の字.就の字などをのみ書けど も、番を毛能伊美とも訓むを以て同じ言なること知るべし︶諸の凶悪事汚穣事へ与どを忌み避けて、 萬を慎むを云ふなら。故多く紳に仕へ奉る事に云へり、︵後世には伊波布とは、書ぐことを云ひ、伊 牟とはたゞ嫌ひ窓みて去ることの■みを云ひて、反封なる如くになれども、寿ぐ宣言ふも、其人其物 を竃からしめむと願ふにつきて、凶悪事を嫌ひ去りて、慎む意よぅ樽ト、又たゞ礁ひ去るを伊牟と ︵M︶ 云ふも、凶悪串を嫌ひ去るより縛れるにて、本は一つ意打†り︶。﹂ これに依ると宣長も亦た既に﹁いみ﹂を以て隔離され禁止されたるものとしての醐聖の観念と見. 、 且つ画架の観念には祀ひ寿ぐ方面と嫌ひ去る方面とが包含されてゐることを指摘し、更にこれが後 になつて分化したと云ふことを認めてをると云ふことが出水る。これ確かに大いなる卓見主苫ふこ 紳聖載念の分化
4ヱ4 とが出水よう。 然らば、その神聖と云ふ観念の分化、即ち所謂s琵かから、筈erかpurと害r飢im−︶urの両方面へ の分化が如何にして危はれたか。云ふまでも無く、文化の費展とそれに件ふ人間精神の螢達に基く のであるが、その過程に就いてはゼーダーブロムが殊に詳細に亘る説明をなしてをるから、今それ に就いて考察することにする。 〓 ゼーダーブロムに依ると、原始の宗敦に於いては、クブーが﹁紳空﹂︵ll。−y︶克らや不浄︵21C︼e呂︶
nでりや判然せす、たゞへ占−Ou巴一已tnOt。即ち禁止及び危険窒息映するに過ぎない。それが彼になつ
て﹁紳斐﹂又は不浮となるので、原始人は此の臨別を明かにしない。 かくして原始的なる紳豊艶念には或る種の判然しない鮎がぁるので、或る物が、畏怖を惹き起すも の打了りや否や、超自然的打アりや普通打アりや、又は宗教に屈するや否や、これらのことに就いては何 等の疑問も生じないが、併しその硝薬観念に於ける善い方面と悪い方面との区別は彼等には意識さ れない。然るに倫理的に高岡な宗教になると、善い方面と悪い方南との区別を強調する傾向があり、 それに依って宗教の本質的特徴即ち﹁神聖﹂︵−−。︼y︶と凡俗︵−︶r已㌢あ︶との区別を殆んど抹殺しょう とすることがある。 何れの場合にも如何にしてタブーが﹁所要﹂又は不渾となつたかは不明であるが、.死や性的生活 ′ 紳聖観念の分化d35
に関するタブーは不浄とな♭、神性に関係したものは﹁紳聖﹂なるタブーとなる。此の分化が充分
に行はれたところでは、﹁前垂﹂と不浄とは自由に用ひることの出水る凡俗︵即ち﹁普通﹂へぎm−︼さーl︶ 及び﹁清澤﹂︵註眉︶に反封のタブーの性質を持って一ざQ。本来凡俗︵−−○ヂge害i・1−9ヨm⋮︶は何等患い意味は持たない。そこで最初は一方に﹁紳空﹂と不渾とがぁり、他方に凡俗と清浄とがあつ
言語や道徳その他賓際上の目的の進化と、文化の要求と、耐性の概念∵この三の要素が此の配列を 瑳吏又は特例させる。かくして一方には凡俗︵cOヨmO−1︶と不浄と一ぜ一緒にし他方には清浄と﹁紳坐﹂ その凡俗の方は軽視されて志せなる。多く用ひられると使ひ舌されると云ふやうに、此の方面に とを一滞にする。抜に問題は清浄と﹁軸垂rとその何れがまとなるかでぁる。賓際的功利的な目的の 勝った場合には清澤が﹁紳空﹂に打勝ち、神性の観念の強いところでは.﹁神聖﹂の方がまとなる。 言語も影普する。かくして凡俗は不浄となる傾向を持っ。而してこれは凡俗といふ語の進化を調べ ても知ることが出水る。同時に不浄は以前に清浄が相対立してゐた﹁両室﹂に対立するものとなる。 かくなるには道徳が一の役目哲する。道徳的には純潔︵ワ⋮・e︶は﹁紳空﹂と区別が出奔ない。これ は何れの言語に於いてもさうで、蓋し倫理の方南では﹁紳空﹂は禁止を意味せす、却ってせしめら れるのである。伺ほこれは倫理に於いてのみぢらす、人間生活及び文明り貫際的な考から.﹁醐型﹂ ヽ ● と清澤とが一骨接近して、毒に封書るやうに誉。︵て対立する∴
紳聖観念の分化 prOr呂e、C−e巴− l一〇ly−unO訂岩」26 紳聖観念の分化 二八 併し此の過程は遂には宗敬一ぎ儀式化して,その神秘性及び内在的のカを失ったものとなし、従っ て宗教一で俗化するに至る。此の場合﹁紳空﹂は殆んどその・クブーの性貿を失ひ、畏怖を喚起する神 秘性一ざ失ふに至り、かくして﹁紳翌﹂の代りに純潔や清繹と云ふ語がまと捏7り.宗教中の危険な方 南はすべて不浄に合⊥まれ、侶伍ある方面はすペて清澤に合まれる。同時に純潔と措辞の観念が強調 され、贋い意味一で持って凍る。かくして﹁紳聖﹂不浄ほ或る程度まで宗教から滑え失せ.すべての ものは清澤と不渾とに分れ︰その清澤の方にはタブーの高尚になり軸的になつたものをも含むに至 るのである。 それが殊にセム人の宗教では、紳が偉大なるカを持ってゐたので、毛−ゼ以凍の孝吉宕だちには 道徳が高調されてゐ定がら、﹁神聖﹂が措辞に代ったり、又は一緒にされるやうなことが無かった。 その道徳的感情は﹁紳空﹂と不渾との距離を大にし、吏に一層紳の超自然的活動的カが此の方面を 助長した。技に於いて神性は強い意味での﹁神聖﹂となり、﹁紳空﹂と不浄との間には、凡俗と清浄 との勲記的な中間区域が出水た。併してその凡俗は又不浄に落ち、措辞は﹁紳空﹂に上昇する傾向 以上はゼー〆−ブロムの所説の概要でぁるが、仰はそこに一二の問題がぁるやうにも思ふ。 先づ彼に依ると、凡べて画室と云ふ場合に︼−せと云ふ琴で用ひてぁるが、併しその場合の︼1。︼y と云ふのは不浄︵u宍オ已−︶を合まない意味での紳空であつて、従って不浄一曾も包含するやうな舌代 がある。 C︼⊆n−e02mつコ ざ○︼﹃
427 形式の醐聖を意味することは出凍ない。而して彼も云ふ如く、その舌代形式に於いては ぎキと不 渾とが結び付いて而も ︼−U︼yなりや不渾ならや判然しない服態であるとすれば、舌代観念としては ホーリー 彼の所謂紳空といふ観念はなく、そこには唯 00grかあるのみである。s篤rかの観念は常に凡俗一ざ預 想して成立するが、その凡俗は措辞なると育とに依らす常に 切罵rか に封立する。かくして清浄が S完−・仇に封立するとか、若くは凡俗に包合されつ∼ 害1・かに封立すると云ふことは出水ない。さなき だに清澤にも亦た凡俗でない場合が多い。 もと′1鷲rかは、、ゴー〇u Sl已t≡t。としてのu買Omm21で、そのul−きm20−・たる催件は種々に奉 げられる。これに就いてはオ〃/トーも種々に奉げてゐるが、兎に角清浄も不浄もその古代軌念に於 いては.それらの要件一ぎ具有するものと云ふペきである。かくて 喜︵・〇mmO−1 即ち買rかにはゼー ダープロムも云ふ如く、未だ凄い方南も悪い方面も意識されすに包含されて・ピる。従って彼も亦云 ふ如く∵8mmOn︵凡俗︶には何等患い方面を包含してゐないが、又それと同時に何等善い方面も包 含してゐない。併しこれと同棲な云ひ方をすれば、舌代に於いては清澤の方面も不浄の方面も意識 されすに⋮−gmmO−1に包含されて一ヤーり、従ってgmm。・−には何等不浄の方面も包含してゐないが. 同時に清浄の方面も包合してゐないと云ふことが出凍る。而して不浄はもと′∼清浄に封立するも のでぁるが、雨着はその3nlm菖に非ざむ薪に於いては常に同棲で、従ってそれらは共にcOm臼On ならぬ芦Crかに威すペきもので、南衰はむしろ雷Crかの内容の分化⊥たものとしての琶Crかー⋮rと 紳聖観念の分化
428 俗、これらは夫々その立場を異にしたもので、凡俗は如何なろ意味に於いても、芳p巴声訂され特別扱 ひにされないもので、それは不浮に封立する善い方面としての清浄に結び付くべきものではない。 次にゼーダープロムの云ふ如ぺ 凡俗は樫成されて志となる主石ふことは、一面に於いて大燈に 承認出水ることではあるが、併しこれは燭り言語に於いてのみならすその他の方面でも.凡俗なる と結び付くとのみは云へないこと∼思ふ。殊にゼーダーブロムの云ふ如く、純常 ︵︼︶ure︶と﹁神聖﹂ ︵ て凍る方面もあることを忘れてはならない。かくして凡俗が常に不浄と結び付き、清澤が﹁神聖﹂ ねばならない。それと同時に又逆に、場合によつ ために自由に使ひ、使ひ舌されるために、翠に凡俗であつたものが不評となることは.これを承め との囁別の出水ないのは、濁り道徳的にのみでは七い。これ蓋し純潔は又紳聖性の一面でぁるから である。 又彼によると﹁神聖﹂は、道徳的方南では、禁止を意味せす、却ってせしめられる方面を合むや ぅに云ってあるが、併し紳聖の持つクブー性即ち禁止には又その一面に於いて、﹁せねばならないL と云ふ方面もあることを忘れてはならない。昔々は買red と同一語原の軍−︵已011の内にも、その 滑極的方面の外に積極的方面の併せ合まれてをるのを見ることが出水る。従って仮令倫理に於いて は紳聖が禁止を意簸せす、却ってせしめるにしても、それは唯その一方面の高調されたのに外なら 紳聖観念の分化 夢Crかim−︶urに外ならないのである。 笹Crか一三−.−雷つrかimpur prO許le ︶蓋し、もと′1清浄と不浄−紳聖盲凡
三〇
429 ないのである。 かくして宗教に於いても、ゼーダーブロムの云ふ如く、純潔と清澤の観念が高調されて凍るとー 紳聖が或る程度まで滑え失せて、その代りに清浄がクブーの高何になつたもの一でも包含すると云ふ ことも、寧ろもと′1神聖観念の内容をなしてゐた純潔又は清浄と云ふ方面が高調されて凍たので あつて、それが神聖に置う換えられたのではない。蓋し純潔又は清澤そのもの.は神聖の観念の一面 であるのである。 最彼にゼーダーブームによると. セムの宗教の如く紳が非常に勢力を持ってをろところでは、﹁神 聖﹂と不澤との距離が大になり、その間に無記的な中間囁域が出凍たと云ってあるが、少しとも﹁神 聖﹂に非す不浄に非ざる無記的状態のあることは認めることが出来ても、併しそれは果してゼー〆 −ブワ.ムの云ふ如く、﹁紳聖﹂と不持との中間に位するもの打了りやは問題である。もと′1凡俗は ● Fdi穿rentにして罵rmit邑の状態で、か∼るeOm日昌に射してul−SmヨOnの妖悠が即ち害rかの胱憩 であるから、凡俗と買rかとの間には、その何れでもないといふやうな中間的院域は甘い。然るに ︼10−ヽとug−昏nとには、仮令善い方面の莞rかでもなく悪い方面の琶rかでもないやうな莞rかは 無いにしても、僻ほ︼−乙﹃でもなく不浄で玖∴豆いl︶rOPne即ちcOmmOロ の状態があるのである。 畢克﹁清浄と不詳.神聖と凡俗、これらは寧ろ夫々その立場を異にしにものと見るペきでぁらう。 かくしてラテン語の買rかから英語の害rCdが生じて凍ると、既に害r2dはもとのやうに清浄の 紳聖観念の分他
430 醐聖観念の分化 三二 方面と不浄の方面とを併せ有したものでは無くして、たゞ清澤め方面のみを衷はすものと,、uつてを る。英語の︼l。−in箋は此の方面を意味するものであろ。従ってl一皿2mmOnの妖憩には単に邑yや 莞r乱や0−2昌でなく、 その反封の状態、即ち一般に所謂不浄といふやうな汚稼の欺騒がぁることに なる。此の場合の不浄と云ふのは、単に清澤に封する非不浄の意味での不浄ではなく、既に紳聖に 封する凡俗を理想するのである。故に清浄と云ひ不浄と云ふのは、今その神聖︵買rか︶に就いて云 ふのであつて,紳聖以外に清浄に非す不浄に非ざるもの∼あることを許さないやうな意味での不浄 ではないのである。これは恰かも善と悪との中間に僻ほ非善非窓の無記の胱憩、帥ら道徳的行男と ならない場合が許される如く、清浄にも非す不浄にも非ざる無記の状膿としての凡俗の状鮭、即ち 紳聖とされない状騒がふγり得るのである。辟は且っ神聖観念の二方面は常に確然と分化してをるも のではなく、未だ清浄にも至らす不渾にも至らぬ、併し凡俗ではないと云ふものもあり得る。それ は後にも観れるやうに言語的にも説明出水るものである。故に此の状憩は、清澤なる神聖の外にそ の反射の方面の軸聖があるので、今その前者を聖渾と云ふならば、後者はむしろ不浄と云ふよりも 汚稼と云ふ方が提督かも知れない。 三 神聖の観念がその歴史的鼻邁により、聖澤と不浄との二方面に分化した主芸ふ串賓は、本務それ 一 に此の二方面が内存してゐたと云ふことを示すので、此の二方面を了解することに依つで、紳聖軌
43l 念本務の内容一曾明かにすることが出家る。これは又逆に、神聖観念の内容一で明かにすることによつ て.それが購水に分化して行くべき方向を大倍ハルがら知ることが出水るとも云へる。 ■ もと′∼神聖と云ふ観念の内には.崇高.清澤.偉大.有力なと.から,危険、呪岨、汚様などに 至るまで.兎にかく萱1−ヨ○−1に封する凡べての 1一nC毒⋮つー1の意識が企まれるのであるが.さうい ふ紳空の観念が、一方望ましきものと他方望ましからざるものとに分化Lて、聖渾と不浄との両方 面となつたので、従って弦に云ふ豊津と云ふ観念の内には、単に締約とか清浄とか云ふだけでなく、 少くとも人間の生活にとつて賓際的惜伍があら望ましきものと云上意識を持たしめるものが、すべ て包合されてをることに仁る。 而してそれらの内容はこれを唯だ善い方面、望ましきもの主苧ふ鮎から見るときには、すべての ものが∵様に聖渾と云ふ観念を以て来示され、又更に大きく単に 21つ〇m≡つllにして 考p弓賢さる ペきものとしてのみこれを見る時には、所謂考rかと云ふ観念一ざ以て包括すべきものであるが、反 射にこれを一骨精細に色々の立場に立って見る場合には、例へば等しく空浮といふ観念を以て表さ れるものにしても.種々の特殊相ヤ待ったものがその内に包含されてをると云ふペきである。 今言った種々の立場が高調され、それより生する上れらの特殊和が特に強く意識されて凍ると、 さきに単に発揮の観念とされたものにも.その内容が種々に分化して氷る。而して此の分化を醸成 するものは固より禰々の意味での文化の発展と心的機能の隆運とに基因するのである。 醐斐概念の分砲
483 三四 繍聖観念の分化 然らばかゝる事情のもとに、所謂蜜渾の観念が如何なるものに分化して現れるか。此の獣に関し てはむしろ革質に就いてその異相を明かにした方が却って適切な方法であらうと思ふので.吾々は 技に暫くそれらの事賓に就いての観察をすることにする。 吾々は例へば十二光偶の名前の夫々、或はコーラン巾に見える†ホメットの九十九の名前の夫々 の内容が、何等かの意味に於いて吾々の云ふ紳蜜観念の表現であると見ることが出来るのであるが、 今はもつと手近に、吾々の古代人の信仰に於いて、その斐澤なるもめに閲し乍これを如何に表現し、 宗教的に清澤な心持を如何に云ひ表したかと云ふ卦を吟味して見よう。 古代人が考へて聖渾なるものとし、殊に紳々や諸室に関する特別のものに封し、如何なる心持を 待ったか。今出水るだけの事賓・竺挙げて見ると大健次のやうなものになる。もとより一一に就いて その典墟のすべてを列拳することはその癖に耐えないから、一二にして止めることにする。 先つ聖渾なるものを表示するに﹁かみ﹂︵紳︶といふ語を冠して修飾することは最も普通のことで ぁるが、例へば紳服とか紳賀と云ふ如きこれである。僻ほこれに類するものに、例へば﹁あめL︵天︶ ﹁たまL︵玉︶﹁いく﹂︵生、括.︶﹁たる﹂︵足︶﹁とよ﹂︵豊︶﹁みづ﹂︵瑞︶が常に同じ役目をする。そ の外これに類するものを列皐してそれが如何なる意味一軍不したかを見れば大健次の如くなる。 ﹁あやし﹂ 紳︵系訂一ノ四五、四二、等︶、奇︵系訂フ四八等︶、宣︵系訂一ノ二八七等︶、 瑞︵亮訂∵ノ四八三等︶。
483 これらの種々の言ひ表し方、及びその種々の書き表し方から見ても、その糞渾へ与るもの∼内容が 如何に多方屈であるかゞ伺はれるのであ一。。而してこれらは、一面には盤浮としての共通的な内容 を持ってをる るペき内容を待ったものに分化して亨言見ること 宗教的関係が無rなった場合には殊に甚しいと云ってよい。 次には更に上の革質壱禰ふために、古代人が一定の宗教的行事に携った場合、その空将なるもの ﹁いつ﹂ ﹁うづ﹂ ﹁いかし﹂ ﹁いはひ﹂ ﹁いみL ﹁かしこし﹂ 紳聖観念¢分化 巌︵系訂∴ノ九九等︶、稜威︵系訂一ノ五二等︶。 菅∵東七ノ三︶.珍︵系訂フ一〇︶。 茂︵系一三ノ二五五等︶、巌︵系訂∵/四七七等︶、重︵系訂一ノ凶八七、二ノ聖ハ等︶。 番︵系訂フ六⋮等︶、忌︵系訂∴ノ一三一等︶、斎忌︵串軍学軍ニ︶。 番︵系訂∵ノ三〇.嘉一三ノ二大六等︶。 貴︵系訂一ノ三六七︶、可畏︵系訂フ四一等︶、長へ系訂二ノ四二︶、成︵票訂二ノ四五︶、 恐︵票訂二ノ三〇三︶。 奇︵系訂一ノ四五、英二三ノ二六六等︶、婁典︵系訂フ九㌔ 苫︵扁訂フ三四、系三ノ二七八等︶、蕃︵系七ノ二血二等︶。 鬼︵茶葉娘巷二等︶、醜︵系訂一ノ四四︶。
4:;4 に対して自ら如何な乙心帯を轟つかを示すことにするっ此の清浄なぇ心持に依っても亦た、垂浮の 紳聖観念の分化 三六 観念の内容如何を知ることが出水るのである。 以上は極めて粗雑な採集であるが、或る宗教行事に於ける清浄なる心持を示したものであり、同 時にこれらのものは同じく架渾の観念の一面として見ることも出水るのである。これらは後にこそ 除程距離のある観念であり、それらの問に峻別されてをる場合もあるが、その昔代形式に於いては たゞ翌渾なるもの、清渾なぇものとして極めて包括的に表象されたものであつたのでぁる。本居宣 ヨキ 長も﹁舌には武の膏書ことを、凡て明しとも清しとも直しとも云へり。即ち此巷︵古事記上巻︶に 丁カキ 汝心之捕明云々、中巻に浮公民、書紀に清心.明心、赤心、萬真二十に安加盲許己呂.また大夫乃伎 欲苫彼名乎云々、帝紀宣命に、明支浮支直支誠之心以而などあるを以て知るべし。︵彼の世にたゞ向 ﹁きよし﹂ ﹁なほし﹂ ﹁たゞし﹂ ﹁まこと﹂ ﹁よし﹂ ﹁あかし﹂ 明︵系訂二ノ二、一四三等︶、赤︵系訂一ノ二四、二六、四九九等︶、丹︵系訂二ノ三九︶、 清明︵系七ノ二三︶。 浮︵系訂二ノ二、四五七等︶、清︵系訂一ノ二四、二ノー聖二等︶、明渾︵系訂lノ二六︶。 直︵系訂二ノ二、一四三等︶。 正︵系訂二ノ一四三等︶、貞︵系訂二ノ四五七等︶。 誠︵系訂二ノ二︶。 茸︵系訂⋮ノ∴六、二ノ二九〇等︶。
43ユ 加伎は明の字−赤の字などの意、伎輿伎は清の字、浮の字などの意、郵本伎は直の字の意とのみ心 ︵六︶ 得るは、舌の意にあらす︶Lと云って一曾る。かくて思想内容の後難でなかった時代に於いては.例へ ば善の表示も正の表示も奥の琴不も、等しく清澤と云ふやうぢ特別なものとしての観念で表された もので.それから種々に分化して生じた諸税念土見ることが出凍よう。 かく舌代観念が後に種々に分化するといふことに就いては次の如き事例によつても明かである。 例へば美と云ふ観念の如きを見ても、美貌を云ひ来すに嘗って、近代的な意味の﹁うつくし﹂と云 ふ言表し方は却ってなく、或は﹁うるほし﹂︵美︶︵系訂三ノ∴七九等︶、或は光、明.又は正しいと云 ふ意味の語一で以てしてゐる︵系訂一ノ九、標試古風土託∴八等︶。これらは多く漠語一官用ひてぁるが、支那に 於いてもその古代形式に於いては、大櫻岡楼の観念であつたので、それを借用したのに過ぎない。 これは語原的にも知らる∼こ.とで、例へば﹁よしL﹁えし﹂打てとは同一語原であるが、同一の事柄 を記すに昏っても種々に違った表現となつてをる。﹁え﹂の例では、 ○ 愛東登音 ︵紀、系七ノ二︶ 00 可美少男 ︵紀本文、完訂一ノ讐 C︵.︶− 可愛少男 ︵紀一恵.、系訂∵ノ六︶ 可愛此云衷 ︵同一二ノ七︶ 〇 菜少邦 ︵紀一帯、累計一ノ八︶ 又﹁よ﹂の例では、 紳生動念り分化
436 など∼Jのる如く、もとく同一観念若くは同一表現を以てした種々の内容が、現今に於いては或る 場合は極めて懸け離れた別の観念又は表現となつてをるのである。 上の例に於いて前者は現代人の持っ美と云ふ観念が、古代人には如何に言ひ表されてゐたかとい ふことを示すものであり、後者は古代人の持つ﹁よし﹂又は﹁えし﹂といふ観念が彼の人に於いて 如何に言ひ表されてゐるか空不してをるので、その何れの方面より眺めても、そこに分化由跡が充 分に伺はれむのでぁる。 四 畢渾と云ひ不浄と云ふも、もと′\画聖観念の分化したものではぁるが、併しそれらの観念は互 に常に何れの場合にも碓然と区別され得るほどに 、充分に分化してをるとも限らないので.種々に 分化した空将与る諸概念夫々が、その区別の極めて漠然セるものゝある以上に、糞渾と不浄の観念 の問にもその極めて慌然とした場合が少くないのである。 これを例へばさきに奉げたる﹁巌﹂の如きも.一方空渾なる方面があると同時に、他方又、・巌呪 岨︵系訂フ九七︶と云ふが如き場合には、その内容は除程襲ってをつて、むしろ恐るペきものと云ふ 意味を示すのであつて、未だ婁辞と不浄との区別さへ明らかでない観念である。これに類するもの 紳聖観念の分化 ○ 紳賀盲詞 ︵式、系二ニノ二七八︶ 〇 善 事 ︵記、系七ノ一五二︶