博士(文学)学位請求論文審査報告要旨
論文提出者氏名 佐藤 晃
論 文 題 目 カマラシーラの修行道論 審査要旨
本論文は、8世紀後半に活動した後期中観派の論師カマラシーラが著書Bhāvanākrama(=BhKr)等におい て提示した修行道論の理論的解明、及び、思想史的展開の解明を行うものである。
まず本論文第 1部第 1章では、カマラシーラの思想史的背景を示す。カマラシーラの認識論や存在論に関 する研究は、ダルマキールティの仏教認識論と論理学の最近の研究の進展に伴い、大きな成果を挙げてき た。一方、カマラシーラが残したBhKr等の修行道論を扱う論書に関しては、優れた先行研究があるものの、そ の理論的解明は十分なものとは言えない。本論文は、修行道の根幹を為す止観双運道において修行者が如 何に真実なる一切法無自性性を正しく認識するのかという問題意識のもと、その無自性性の正しい認識の在り 方の理論的解明を目的としている。
第 2 章では、「止観」という場合の観(vipaśyanā)に注目し、それが修行道において具体的に如何なる働きを 為しているのかを明らかにする。まず、観とは、真実なる事柄(=一切法無自性性)を対象とする認識であり、し かもそれは分別に基づいて一切法が無自性であることを論証することである。そして、その観を含む止観双運 道は、無分別知の生起すること(=真実なる事柄の現証)、及び、その無分別知の生起に基づいて断惑を果報 として導くことである、という点を明示する。その上で、断じられるべき煩悩の生起の次第を、主に BhKr の初篇
(=BhKr-I)に依拠して、以下のように確定している。すなわち、まず疑惑(saṃśaya)を原因として誤分別
(mithyāvikalpa)が生起し、さらにその誤分別を原因として顛倒(viparyāsa)が生起する。そして、その顚倒を直 接的な原因として煩悩が生起するという次第である。そして、観(=無自性性論証)こそが、煩悩生起の最初の 起因―あらゆる法が実在すると疑う誤った認識(astitvasaṃśaya)―を断じる要因である、という点を文献的 に明快に示している。これは本論文の成果の一つである。
カマラシーラは主著Madhyamakālokaにおいて無自性性論証を5種の論証(=3種の不生性論証、縁起性 論証、離一多性論証)に整理する。BhKr-I 等に示される修行道論の説示においては、それらの中の不生性論 証と離一多性論証への言及はあるが、縁起性論証は論じられていない。第 3章では、その縁起性論証(「一切 法は縁起であるがゆえに無自性であるという論証」)を取り上げる。この論証の淵源は、中観派の祖とされるナ ーガールジュナのMūlamadhyamakakārikā XXIV.18に求めることができる。それ故に、この論証は中観派にと って重要な意味を有している。そこで本論文では、カマラシーラがこの縁起性論証を修行道において如何なる 意義を有した論証と見做していたのか、という問題意識のもとに考察を進める。まず、その問題の解明にとって 前提となる、縁起性論証それ自体の論理構造の分析を明示する。この論証の分析は、先行研究では示されて おらず、本論文の新たな成果の一つと言える。さらに修行道論の中で言及される不生性論証(「一切法は不生 であるがゆえに無自性であるという論証」)との関連性について考察が加えられる。その結果、カマラシーラに おいて、不生性論証が、縁起性論証の遍充関係を確定する際の根拠―反所証拒斥認識根拠―を提示 する論証として位置付けられ得るという重要な点を指摘している。今後は、この成果に立脚しつつ、縁起性論 証が修行道において如何なる意義を有し得るのか、という問題に着手することを期待したい。
修行道におけるヨーガ行者の対象認識には、分別に基づく認識とその分別を離れた直接知覚に基づく認識 の両者がある。第2章、第3章では、前者の分別に基づく認識についての考察が行われた。続く第4章では、
後者の直接知覚に基づく認識、特にヨーガ行者の直接知覚(yogipratyakṣa)に基づく認識が考察の対象とな る。ここでは、まず、修行道におけるヨーガ行者の直接知覚による認識、すなわち、無分別知の生起は、分別 に基づく認識(思所成慧と観)を前提とする、という生起の順序を確定する。次に、そのように異種顜の認識の 生起がある場合、分別に基づく認識から直接知覚に基づく認識に至る一連の認識が如何に整合性を有する
氏名 佐 藤 晃
形で説明されるのか、という点を問題とする。特に本論文では、先行研究により指摘されてはいたが未解明で あった、「異顜より除外された独自相」(vijātīyavyāvṛttaṃ svalakṣaṇam)という概念を用いてその整合性を示そう とする、カマラシーラの議論を理論的に解明しようと試みる。まず、カマラシーラによるこの概念の理解を次のよ うに明示する。ヨーガ行者が直接知覚によってすべてのものごとを無我である等と捉える場合の対象(=無我 性等)は、通常では一般相と見なされるが、それは直接知覚の対象が独自相のみであるという原則に矛盾して いるのではないのか、という難題がある。この疑念に対して、ヨーガ行者の直接知覚の対象となる無我性等は、
独自相である、すなわち、異顜(=無我ではないもの)より除外されたものとしては独自相である、しかし、同顜
(=無我なもの)には区別無く共通して認められる形相であるという点で論書の上では一般相(sāmānya- lakṣaṇa)とも言われる、とこのように、カマラシーラが、上記の難題を回避するために、独自相と一般相を会通す る形で「異顜より除外された独自相」を理解している、という点を文献的に明示する。さらに、この異顜より除外さ れた独自相という概念が語意論の中で用いられていることに注目する。そして、その理論を応用する形で、修 行道におけるヨーガ行者の一連の認識に関してはカマラシーラが次の見解に立つことを明確に指摘している。
すなわち、ヨーガ行者は分別に基づく認識の段階においては一般相としての無自性性を認識するに留まる。
その後、修習が極限に至ったとき、異顜より除外された独自相としての無自性性を認識するに至る、という見解 である。この点の解明は、本論文の研究成果の一つとして挙げられる。しかしながら、カマラシーラがなぜその ような理論を用いる必要があったのか、というその議論の背景に関する考察は今後の研究課題となろう。
第5章では、カマラシーラの議論が後代の論師に与えた影響の一端を知るために、修行の前提となる菩提心
(bodhicitta)を考察する。菩提心は、誓願心(praṇidhicitta)と発趣心(prasthānacitta)とに分顜されるが、その中 で、本論文は、特にカマラシーラのBhKr-Iに見られる発趣心の定義に注目する。カマラシーラのBhKr-I等の 論書に依拠してジュニャーナキールティ(ca. 9th)が*Pāramitāyānabhāvanākramopadeśa(=PYBhKrU)を著し たことを本章では文献的に指摘し、BhKr-Iでの発趣心とPYBhKrUでの発趣心の比較・検討を行っている。そ の結果、ジュニャーナキールティが、カマラシーラによる発趣心の定義を踏襲した上で、それに改変を加えて 自らの発趣心の定義を構成したことを指摘している。さらに、ジュニャーナキールティが、その改変した定義を、
カマラシーラとは異なる伝統の修行道論を整理する上で活用した、という点も明示している。
第2部では、第5章で扱ったPYBhKrUの一部に関して、校訂テキスト及び試訳を提示している。そのテキス トの梵文原典は散佚し、チベット語訳のみが現存する。本論文では、テキストの校訂及び翻訳に際しては、チョ ーネ版、デルゲ版 2本、金写版2本、ナルタン版2本、北京版2本を校合し、また、パラレルな文献を参照し ている。これは文献学的に確実な成果となっている。
本論文でのカマラシーラによる修行道論の解析は、インド後期大乗仏教及びチベット仏教における修行道 論の解明の一つの基盤となるという意味で、今後の研究に有益な資料を提供することが期待される。以上によ り、本論文は博士学位を授与するにふさわしい論文であると判断した。
公開審査会開催日 2014年 12月 19日
審査委員資格 所属機関名称・資格 博士学位名称 専門分野 氏 名
主任審査委員 早稲田大学文学学術院教授 Dr.phil. (ハンブルク大学) 印度哲学(含仏教学) 岩田 孝 審査委員 早稲田大学文学学術院教授 博士(文学)(早稲田大学) 仏教学 大久保 良峻 審査委員 東海大学清水教養教育センター准教授 印度哲学(含仏教学) 瀧川 郁久 審査委員
審査委員