已上
一
一九九九年(平成十一年)二月一日に、 尾形仇氏らによって、 三省堂から発行された「新絹芭蕉大成」は、 旧版の「芭蕉大成 j (昭和三十七年十一月二十日発行)を大幅に増補改訂したもので、 現在の芭蕉研究の基本となるべき頗る整った貨煎な存在である。 しかしながら子細に見てゆくと、 多少気になる点がないでもない。 本論文はそれの一っとして「更科紀行」の場合を見てゆきたい。 旧版の「芭蕉大成」の「更科紀行』は、 定本として、 宝永六年 (一七0九)に乙州が組集した 井筒 屋庄兵衛版「笈の小文」の末 尾に収められたものによっている。当時としてはそれ以外に信憑 すべき伝本がなかったから仕方のない事であっ た。 しかるに昭和 四十二年十二月に、 上野市の沖森直三郎氏によって、 芭蕉の真蹟 の「更科紀行」が公刊され た。 この資料は末尾に、 右さらしなの記行一翰 芭蕉翁真跡無紛候 尤下杏_一而一入おもしろく候 庚子の春二月木翁尚白誌 とあり、 他人の入れ組のない純梓な芭蕉の作品として一躍脚光を 浴びた。「庚子」は、 享保五年(一七―10)に当 る。 尚白が「尤 下昔にて」という通り、 縦横に芭蕉の手が入り、 杉風に与えた宝 永元年(一七0四)刊「木曽の谷」所収本に較ぺる と、 付戟の発 句が五句から十二句に増加するなど、 内容が確実になり既宮とな しさ った。それで「更科紀行 j と首えばこれを中心とする向が多くな った。 近年芭蕉の全集として最も充実した尾形氏ら絹「新編芭照 大成 j は、 これを 原本とする。 しかし、 これは尚白の言う通り、 あくまでも「下書」であり、 その後にこれを消杏した決定版があ る筈である。 これが宝氷六年に乙州の絹した「笈の小文」に収め られた「更科紀行」であると考えられ る。 これは芭蕉の更科の旅 を後援した名古屋の荷分に与えられたもので、 最初に、 翁名古屋ふ而留乃時有二更科記行一幸而妥に次 とあり、 それがいつの頃か乙州に渡ったのであ る。 それで『更科 紀行」の成立過程を考える場合は、沖森氏蔵の其蹟とこの乙州本赤
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芭蕉の『更科紀行」所収の句「悌や娘ひとりなく月の友」
推敲過程をとおして見た「娘」の意味
の
学
1-鋏捨山 悌や姥ひとりなく月の友 娘捨山 であるのに、 後者では、 との差を考感に入れるべきであ る。「新網芭照大成 j は、 他本と の校訂も詳密であり、 十分研究の足しになるが、 その注記がすべ て機械的に平等であり、 何が重要であるか、 一般の説者には区別 がつかない。それで本論では、 沖森本と乙州本との差のポイント に目を据えて、 乙州本こそが「更科紀行 j の最終的な定本である 事を確認したい。 二 「更科紀行」の全貌の詳細は、 拙箸、 昭和四十九年九月三十日、 教育出版センター発行の「芭蕉の更科紀行の研究」に網羅してあ るので、 今回はそれに洩れた点に佳�点を すえ る。沖森本と乙州本 との主な差は、 登戟の句が十二句から十三句に増加した事である。 それは後者に「送られつ別れつ果は木曽の秋」の句が加わったた めであるが、 この意義については暫く措く。 それ以外で今まで見 過してきた差は、 娯捨山での月見の句が前者では、 悌や妓ひとりなく月の友 . と なっている事である。 この「姥」と「族」の相述はたった一字 の途いであるが、 それがなぜ変ったのか、 それがまたいつであっ たかを文献的に調査してみる事が肝要である。 この「姥」と「妓」は字形が述っているだけでなく意味も読み も述う。 この述った字がなぜ沖森本と乙州本との間で入れ替った のであろうか。 これは鋏捨山伝説の伝来とその後世の受け取り方 に関する煎要な問題である。「更科紀行 j の場合、 始めに俳文が あり、 それが幾術か密かれ、 それに基づき紀行文が掛かれたもの と思われる。 その最初の俳文は、 池原錬昌氏が「祖餞」.に戟った 芭照の「更科鋏捨月之弁」の草稲にあたる一文を発見され、 昭和 四十五年九月の「れもん」誌上に「芭燕「娘捨月之弁」新初稿文・ 他」として発表されたのがそれであ る。 氏は更に同年十一月に「追 考」を補って完結された。それについて井本農一氏は「武蔵野文 学 j 十八、 昭和四十五年十二月に「芭蕉俳文新 登科と 「更科娘捨 月之弁」」を発表し、 その賓料的価値を商く評価された。 その敲 氷写しの全文を掲げる。 あるひはしら、.吹上ときくに、うちさそはれて、 ことし鋏 捨の月見ん慕、 しきりなりければ、 みの、国よりいでやとお ひとり u( もひ立。木曽の麻ぎぬの浅からぬ友独、 したしき人の僕一人、 .』^ ゅ( かれ是旅疫の力として山路のうさもまぎらはし行に、 道遠く 日かず、くなければ、 夜に出てくれて駅につく。 おもふにた がハず其夜更科のさとに到る。 山は 八幡といふ里より一里ば かり南にあたりて、 西束によこをりふせて、 冷じう高くもあ ぁuれ らず、 かど/\敷岩などもみえず、 たゞ哀ふかき山の姿なり けらし。慰ミかねしといひけむも、 理りしられてそゞろに悲
しぶにたへたり。何故に老たる人 を捨つらむと おもふにも、 いとゞなミだ落そひければ ばせを と( 悌は姥ひとり泣月の友 十六日、坂木と云処にて •』 u' いざよひもまだ更科の郡かな 貞享五年疇暉_ 印カタニ 不耐妹 この執箪は「貞享五年」(一六八八)とある。貞享五年は九月ー―― 十日に元禄と改元されているから、この文は芭蕪が更科の旅から 江戸に帰った八月末からひと月の間に書かれたものであ る事が 知 ふみくに られる。この文は、元禄九年(一六九六)に史邦の編した「芭 蕉 庵小文血」に芭蕉の多少の手を加えたものが「更科妓捨月之弁 」 と題されて収戟された。この題は史邦の手になるものであろう。 この「小文血」所収の文は、前の敲氷の写しと殆ど同じである か ら、これは省略する。 なく ところで芭蕉は「悌は姥ひとり泣月の友」の句の云g」を何と 続ませるつもりであったろうか。この「姥」が「うば」と仮名世 きされた資料がある。それは大磁義雄氏所蔵の「巾秘抄 j 所収の 一文である。同世は好問堂編、文化十一年(-八一四)成の梢本 である。 いざよひ いム 一、十六夜さかきと云処にて [eS 十六夜もまだ更科のこほり哉仝 ム b あげ さく 一、或しら�吹上と聞に打誘ハれて、鍍捨の月見んもしきり 成ければ、此秋其地にたどる。山ハ東西に横折て、すさ ま じく高‘?もあらず、かど/\しき岩なども見えず、慰かね .』とわり ただあばれ なり つといひけむ 理知られて、只哀なる山の気色成けらし。 悌はうば独泣く月の友仝 この文と前二者(敲氷写しと「小文郎」所収の文)との執節の前 後は分らぬがほぼ同時の成立とみてよいだろう。これらの文の特 色は「慰かねつといひけむ理知られて」と、鋏捨の句の典拠を示 している事である。その出典は、「古今集 j 巻十七雑歌上の歌、 題しらず 説人しらず 878わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月を見 て である。この歌は「題しらず 」一読人しらず」とあり、成立の事 情は知られぬが、この歌を素材にした説話が「大和物語」に出て いるので、それとの関連を芭蕉が意識していた事を窺わせる意味 で重要である。 この外に「姥」を「うば」と仮名嘗きした例は、糸魚川歴史博 物館所蔵の「おもかげや」の句文がある。 おばすて山ハ菩光寺にむかひあひて、 東西に横をれたり。さ すがに冷じう高くもあ らず、かど/\しき岩などもみえず、 ぁ u れ な ぐさ たゞ哀ふかき山のすがたなり。「慰めかねし」といひけむ昔 のことまづおもひいづ。 ばせを
-3-なく おもかげやうばひとり泣月の友 この文で見逃せないのは、 前 の三切の文で「 悌は 姥(うば)」 で あった句 形が「おもかげやうぱ」となっている事であ る。 この形 は、 芭蕉の自節の難税(沖森本)につ なが る。 つまりこの変更は、
..
芭蕉が「更科紀行」を制作する以前において、 「悌は姥(うぱ)」..
.
を「おもかげやうば」に改めた事を知る爪要な究料である。ちな..
みに乙州本『更科紀行」は「悌や娘ひとりなく月の友」である。――
l . 乙州本「更科紀行」 の娘捨山の句の形が決まったのは何時であ ろうか。 それを知る手掛りは其角の 「 雑談集」にある。 其角の 「 雑 談染」は、 末尾に、 元禄辛未歳内立春日於狂而堂燈下柑 芭蕉翁回固僻庵時宜相応故被校合畢 と の 奥梱がある。 芭煎は「奥の細道」の旅行を終えた元禄二年 (l 六九0)九月から四年九月末ま で、 上方に滞在した。その後江戸 に焔った事は、 元禄四年十一月十三日付鼎水宛世簡に「荘秋廿八 より 日が一 1 一 十二日め -1 武江深川 ,,至り候」と術き送った文而に よって 知られる。 芭蕉の江戸畑箔は十月二十九日であっ た。 その年の立 春は 年内立春で十二月十九日で、 それまでに其角は「雑談集」の 編集を終り、 船江した芭蕉に校合を求めたのである。 その「雑談 楳」に、 芭蕉が更科の三句を示して、 そのよしあし を其角に岡う た記事が次のように見える。 翁、 北固行脚のころ、 さらしなの三句を術とめ、 いづれか と 巾されしに、 一 句、 悌や鋏ひとり泣ク月の友 しかしペヽ― といふ句 を可レ然に定めたりと申ければ、 誠しか也。 人目に はた、ず侍れども、 其夜の月天心にいたる所、 人のし 7 レ る事少なりと、 悦ぴ申されけり。 この芭蕉の更科の三句につ いて の芭煤と其角の間答はいつ の事で あったろうか。 一応、 芭布�の江戸に帰滸した元禄四年十月二十九 日からその年の年内立春十二月十九日迄という事も考えられるが、 この間は芭蕉の生活も安定せず、 無理であったと思われる。 とす ると、 その時は、 元禄二年三月二十六日の、 芭熟の「奥の細逍」 に出発する以前(恐らくその訳前)であったという事にな る。 そ の時芭祖�は、 更科の三句の形を確定していたのである。 それを其 角は記憶していて、「雑談集」に「糾」の字を 用い たのである 。 もう一っそれを証明する府科がある。それ は 元 株三年(一六九0) に其角の絹した「いつを背」に、 •h“ 越人を供して木竹の月見し比 なく 悌や娯ひとり泣月の友 と、「 娯」に改 めた句を載せている 事である。これ は明らかに` 芭蕉が自雑草稿(沖森本)の「姥」を「奥の細道 j に出発する以 前に、「妓」に改めていた証拠になる。 それで芭煎が「姥(うぱ)」 を「娯」に改めた過程を列諮すると次のようになる。凰(更科穂捨月の弁草税、敲氷写し) =-............ 貞享五年九月中 鳳(夏科娯捨月の弁、「小文庫」所収 •.• ……元禄元年— l 一年初め _悌はうば一(「巾秘抄」所収の 一文) ← ・ ・・・・・・・右と同じ頃 一おもかげやうば一(糸魚川歴史拇物館所蔵の 真fll) ―ー ・・・右より少し後 凰(沖森本「更科紀行」其歓芹税) ← ••••••• ,・・・・元禄二年一、二月頃 圃鳳(其角の「雑談集」所収の嘉と其角の問答 = … ,:元禄二年三月頃 璽(其角絹「いつを昔 J) :,元禄三年 冒(乙州本「更科紀行 j ・・・元禄四年 この系列は、一体何を意味するであろうか 。 当時「姥 (うぱ)」と 「娘(をば)」とは 混用されていた。芭蕉 は月見の地を「娯捨山( をばすて山)」としながら、句において は初めに「姥(うば)」と科き、それを「妖」に変えている。「姥 」 をげ と「妓」とを混用した例を西鶴に見る事ができる。「京の姥」(「 武 道伝来記 j 一の三)「姥御」(同八の一)とある「姥」が一方 では 「般野沢」(同五の二)「飲様」(「日本永代蔵 J 二の三)と「拙」 となっている。これは無定見な混用である。これに対し芭蕉は初 めは「姥(うば)」としながら、元禄二年の「奥の細迫」以後は「姻 」 に固定している。ここには何ら かの芭蕉の意図がこめられている のを感ずる。 芭蕉の鉄捨 山の媒月の句における「姥」から「妍」への変更は、 嫁がしゅうと めを鎌って夫に育ての親である妍(亡母の妹)を山 に捨てさせた I 大和物語 j 所戟の伝説に対する当時の反応を歴史 的に探ってみて、 それとの関述において考察しなけれ ばならない。 その楊合特に「妍」の使用例を辿ってみる必要がある。 子供の実母のなきあ とその妹(妓)がその子供を焚った話が既 に「日本牲紀」と「古事記」に見える。「日本滸紀」神代紀下 に
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11" で 入 よると、彦火火出見の怠は、 なくした釣針を探しに海宮に至り、 その海神の娘般玉姫をめとる。やがて妊娠した姫は本土に至り、 海岸に産屋を建て、お産をするに際して、夫に対して決して池 < ぃ9し なと言いmIll<。夫はその架めに耐えきれず、そっと覗くと、姫は たっ 瀧に化身して出産していた。怒った姫は子供を残して海宮に戻り 、 いみど 残した子供を「女弟王依姫」を述わして投脊させる。この「女弟 」 が即ち「般」である。この「飲」について 「古事記」より引用す る。この訓餃は日本古典文学大系一「古事記」(昭和三十三年六 月五日、含野惑治・武田祐吉校注、岩波打店)による。この時生 ん 2 つ>.―>こな`、さた"うが々 ふ``今へず" れた子を「古事記 j は「天池日占回日子波限建鵜狂草丑不合命」と-5-酋い、 それを養育した玉依姫を王尤依昆売」と記す。 その玉依毘 売のその後は次のとおりである。 をU 是の天津日席日子波限建渕荘葬狂不合の命、 其拙玉依昆売の 命を姿して、 生みませる御子の名は、 五瀬命、 次に稲氷命、 み " “の わか人 "ぬの 次に御毛沼命、 次に若御毛沼命、 亦の名は幾御毛沼の命、 亦 か 0 ぐよとい は れ "·)" 四 の名は神倭 伊波礼毘古命 (下略) 柱 このように玉依昆売は姉の生んだ天油日商日子波限建粕狂草北不 合の命と婚姻し、 四人の良子を産み、 この末子の神倭伊波礼昆古 命が神武天贔となる。 かくして「記紀」に登楊する凱は、 日本の 兒室の逝みの親となる。 この無き姉に代り、 残された子供を狡う般の話が平安時代に、 「大和物梧」所収の娘捨伝説となる。 H 大和物語 j の成立は、 作 者も年代も不明であるが、 一説に花山院だとする説も多い。花山 院は冷泉天皇を父、 女御懐子を母として、 安和元年(九六八)に 出生した。 永観二年(九八四)に十七歳にして帝位につく が、 党 和二年(九八六)藤原兼家・道兼父子の謀略にかかり退位を余俵 なくされた。 その間わずか一年十ヶ月であった。 以後天是は出家 して院となり、 賭国を旅し、 西国三十三番札所を定めたとも酋わ れる。芭蕉も花山院に触れて、 三十三番顛礼道の一番の熊野の那 智山宵岸渡寺の那と、 三十三香の美汲の谷汲山蔀版寺の谷とを組 な た み合わせた加買の那谷寺を「奥の細道」の途次に訪れて いる。 そ れはさておき、 今井源衛氏の「花山院の生涯」(昭和五十一年十 月二十日改訂二版桜楓社)による と、 院は八歳の天延一_一年(九七 五)四月三日、一――十ご成の母懐子をなくし、 以後祖母恵子(胎原 これただ 伊手の要)によって育てられたという。 一方「大和物語」の放捨 伝説の概要は、 若くして母を失い、 その妹(娘)に脊てられた男 が、 結婚後その嫉を嫌う要にそそのかされ、 名月の晩にその級を 深山に捨てて伽るが、 さすがに良心にとがめられ、 わが心なぐさめかねつ更科やをば捨て山に照る月を見て の歌を吟じ、 巡れ戻したと_百うのであ る。 花山院の場合は、 育て の親は祖母であり、「大和物語」の場合は母の妹(敗)である点 は迩うが、 共に 母に死なれた子供が老婆に脊てられたという点は 共通 する。「大淡和辞典 j--l 咎(昭和四十一年九月二十日縮刷版 第一刷)による と、「姥」のよみと意味は「
e
ぅば。 介添の女© ばば。 老婦⑮老いた母。 老母」とある。「娯」と「姥」とは別* であるが、 それが老女の場合は混用される事があるとは、 前に述 ぺた通りである。 ここでは「大和物語」の敏捨伝説に花山院の生 涯の反映があると、 特に主張するつもりはないが、 共に子供が実 母に死なれ、 母以外の肉親の老婆に育てられた境涯が類似してい るので一応指摘しておく次第である。 この娘捨山伝説は「今昔物語」巻三十にも、「信濃ノ国ノ夷母 nし 菜ノ語第九」として見えるが、「今昔物語」は中世から近世初頭 まで完全なものが知られず、 その全文が集められたのは、 享保年 間に井沢蝠冊が改組本「今昔物語」を刊行して以来の事と言われる(「日本古典文学大辞典」第二巻「今昔物附 j 解説、 今野逹 ) から、 果して芭照が見て・いたかどうか危ぷまれるので、 ここでは 省略する。内容は「大和物語 l とほぼ同じい。 「大和物語 l 以後において「古今集」の「わが心なぐさめかねつ」 の歌を意識した文面は「源氏物語」に二個所見られる。 その第一 は「若菜下」の巻である。岩波密店の「日本古典文学大系 j によ って次に 掲げる。 なぐさめがたき鋲捨にて、 人目に咎めらるるまじきばかりに、 もてなし冊え給へり。 これは、 光源氏とライパル関係にあった頭中将(後の内大臣)の 息柏木が帝(朱雀帝)の姫二の宮にめあわされるが、 二の宮の索 性の低い事から気に染まず、硲費な女三の宮が源氏に降妓された 事から`一一一の宮に懸想し、 一方二の宮の処遇を扱いかねて、 それ も鋏捨山に捨てられた老女とはなしがたく、 人目に咎められぬ程 度にもてなされたというのである。 ここに要にせめられて脊ての 親(娘)を山に捨てた男の心校は背欺にはない。 次は「紺木」の 楊合である。 光源氏の弟八の宮は不遇で一一人の娘大君と中の君を 伴って宇治に阻栖している。その八の宮をたまたま宇治に恥ねた 源は、 八の宮の死後、 大君に恋するが、 大君はなぴかない。 大君 は中の君と共に孤独に生きようとしている 。 煎はその中の君を叩皿 友の匂宮にめあわせて大君に迫る が、 111の社を失った大君は沿胆 して病没し、 照の照みはたえる。 一方中の君は匂宮に引き取られ る。 しかし匂宮は別に夕霧と蔽典侍との間に生まれた六の君とめ あわされる。そのため に匂宮と中の君との関係はとぎれとぎれに なる。 それを映く中の君をいとおしく思う匂宮の心中に、「古今 染」の「慰めかねつ」の歌が浮ぶ。 その気持が次のように述べら れる 。 らうたげなる有様を見すて、、 出づべき心地もせず、 いとほ しければ、 よろ.つに契りつヽ、 慰めかねて、 もろともに、 月 を眺めておはする程なり。 これは、 六の宮と中の君との間になやむ匂宮の心校であ る。 これ に対し、 父と姉とを失い匂宮との閲係も疎遠になった中の君の心 中は更に深刻である。 先の文の少し後にそれが次のように綴られ る 。 更に「娯捨山の月」のみ登み昇りて、 夜ふくるま、に、 よろ づ思ひ乱れ給ふ。 ここにやはり敗捨山の月が愛の喪失に悩む女性の心を慰めるもの として登楊する。 これらの「源氏物語 j の例は、「大和物甜 j の 主題とは異なっている。需源氏物渾血」では、 もっばら愛の矛屈或 は愛の喪失に悩む男女の心を慰める対象として級拾山の月が想起 されている。 つまり「大和物語」の嫁としゅうとめとの不和を原 因とする級捨伝説の i" 子は切り捨てられている。 この傾向は後に なると更に浚原となる。 . 「源氏物語」の以後に級捨山の鉄を登楊さ せたのは、 背原孝椋
の女の作「更級日記 j である。 この「日記 j の成立は、「8本古 典文学大辞典第三巻」(-九八四年〈昭和五十九年〉四月二十 日 発行岩波世店) によれ ば、「康平二年(IO五九)以降の 成立。 仮に康平三年とすれば、 作者五十三歳の時の成立」とある。 尚こ の作の引用は、新潮日本古典集成、秋山虔校注の「更級日記 j (平 成十四年十一月二十日九刷)による。秋山氏作成の年譜によれば、 治安四年・万寿元年(10二四)十七歳の折に姉の死にあい、 そ の選児二人の面倒を見る立場に置かれる。 その事は「日記」に次 のように記される。 さつさ その五月のついたちに、 姉なる人、子うみて亡くなり ぬ。 よ そのことだに、 幼なくよりいみじくあ はれと思ひわたるに、 まして酋はむかたなく、 あはれ悲しと思ひ嘆かる。母など皆 亡くなりたる方にあるに、形見にとまりたる幼なき人々を左 みぎ ふ あ ちご 右に臥せたるに、 荒れたる板屋のひまより月のもれ来て、 児 そで の顔にあたりたるが、 ゆゆしくおぽゆれ ば、 袖をうちおほひ て、 いま一人をもかき寄せて、 思ふぞいみじきゃ。 ここで作者は 十七歳の若さで、叔母とし て、 姉の逍児を看る立湯 に慨かれる。 その後長暦四年・長久元年(IO四0)、 三十三歳 にして、 橘俊通(当時三十九歳)と結婚する。 長久二年に夫俊通 は下野守に任ぜられるが、 彼女は同行しなかったらしい。更に晩 年の天喜五年(IO五七)彼女五十歳の折に、 俊通は信濃守に任 ぜられ、 一旦は赴任するが、 天喜六年・康平元年の四月一時帰京 し、 夏・秋を経た九月二十五日発病し、 翌月五日、 五十七歳で死 亡する。 この夫の死は作者に限りない 悲しみを与え、「日記」には、 天 喜三年(!O五五)十月十三日、 四十八歳の夜の夢に阿弥陀仏が お立ちになった過去を回想し、 後世を願った事が綴られる。更に その後に甥が訪れて慰める記事が続く 。 甥どもなど、 一ところにて朝夕見るに、 かう あはれに悲しき ことののちは、 ところどころになりなどして 、 誰 も見ゆるこ •リ とかたうあるに、 いと暗き夜、 六郎に あたる甥の来たるに、 めづらしうおぽえて、 月も出でで間にくれたる鋏捨になにとて今宵たづね来つら とぞ言はれける 。 悲哄に暮れる作者を肪れた甥六郎が誰であったか知られぬが、 前 に作者が十七歳の折に、 産後 の肥立ちが悪くお産の後に亡くなっ た姉の子を愛撫した話が見えるので、 折に触れて甥や姪の面倒を 見たのであろう。 六郎はその一人であったと思われる。 夫が信浪守であった事、 またその死後寡姫 となった自分を甥が 尋ねてくれた事を緑にして一生涯を記した自伝を『更級日記」と 名づけたのであろう。 これは、 自分の育ての親である叔母を要の 嫉妬にあい夫が山に捨てた「大和物語」の伝説とは趣きを異にす る 。 しかし、 ここに思いがけない指摘がある。それは石川徹氏が む
「日本古典文学大辞典」第三巻に記した「更級日記」の解説であ る 。 巻末近く、夫の死後、ある晩、甥の一人が作者を訪れる。「法 華経」勧持品に、釈迦が自分を育ててくれた叔母に成仏の保 証を与える話が見えるので、仏の来肪かと作者は喜ぶが、閻 夜では成仏もかなわぬのではと 、「月も出でで間に昏(く) れたる姥捨(おばすて)に何とて今宵辱ねきつらむ」と詠む。 この歌は「古今集」雑上の「我が心慰めかねつ更級や談捨山 に照る月を見て」によるが、音名はこの歌によってつけられ た。また、作者は信浪の国守の未亡人だからという気の利い た宙名で、このような題名は他人には付けにくく、作者自身 の命名であろう。 この石川氏の記述の中の、「「法華経 j 勧持品に、釈迦が自分を育 ててくれた叔母に成仏の保証を与える話が見えるので、仏の来訪 かと作者は喜ぶのだが」の一条は「日記 j の原文には見えず、石 川氏の類推であろうが、この指摘は卓見である。 釈迦は正しくは釈迦牟尼仏と呼ばれる。その釈迦の生庭後の事 について、「望月仏教大辞典3」(昭和二十九年五月三十日増訂版 発行世界聖典刊行協会)の「シャカムニプツ」の条によって記す。 仏母麻耶は太子生庭の後幾くもなく逝去せられしを以て、太 子母妹波閤(梵語略)に依りて狡育せられ、長ずるに及ぴ文 武の諸芸を習ひて皆之に通暁せり。 9 か UC ・は この太子を狡育した「波闇」が『法華経 j 勧持品に「麻討波閑波 だい> < 提比丘尼」として登場する。この引用はF8妙法述華経」(島地 大等著、大正三年八月廿八日初版、同九年一月十九日十六版発行 明治術院)の和訳による。 2 か U じゃ Uだい u ( に が(しが( U ( に み( 爾の時に仏の鍍母、麻詞波閤波提比丘尼、学無学の比丘尼六 甘ざ胆に、座より廷 ち てい「び に 知忠い5郎 を 叩餌し て、 臣 しばら 暫くも捨てず。 この時に釈迦は、自分を狡育した鋏母と共に、学無学 の比丘尼六 しるし 千人に成仏の証を与えたのである。次いでそれらの喜ぴについて、 「法華経」は、 t か Uじeuだい び ( に “よ やし● だ り " く に 爾の時に麻詞波闇波提比丘尼、及ぴ耶翰陀羅比丘尼井びに其 贔印翫紐ぃに即距し 、和釦叩 なる こと を 即 て 、叫が似叩 と t ヽ`
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に於いて、偶を説きて言さく、 せ+ん“,し てんにん あんをん われら . . . 』.』ク 世愈溺師 天人を安穏ならしめたまふ我等記を開きて 心 如v
知 忠 しぬ と述ぺる。また「望月仏教大辞典5」の「マカハジャハダイ」の 項によれば、波閤が釈迦を狡育した事は次のように見える。 釈怠降誕の後、幾くもなく仏母庶詞庶耶は崩殖せられたるを 以て、雅暴弥は即 ち 代りて釈絃を愛撫し妥育せられたり。普 曜経第二欲生時三十二瑞品に「今太子は転た当に長大すぺし 。 誰か能く愛育して長大ならしめんかと。皆和して共に議する に、唯大愛道能く育てん、慈心にして燥を推して混に居り、-9-飲食乳哺して長大ならしめんのみ。 大愛道は太子の娘母にし て、消浄にして失なし。是れ能く常に遠離せざるに堪任せん」 と云へり。方広大荘厳経第三誕生品、 過去現在因呆経第一、 仏本行集経第十一娘母茨育品にも亦同じく太子狡育の事を記 述せり。 この中の「栂函弥」「大愛道」は「波闇」の別名で ある。 かよう に釈迦の殺育に娯母の波OOが当った事は、多くの経典に見えるの で、当時の織者がこれを知らなかった筈はない。 よって、『更級 . 日 記 j の作者の詠む歌の「妍捨 J の「娘」に、釈迦を養育した娘 の故事が意識されていた事は疑うぺくもない。(補足参照) 五 鋏捨山に捨てられた敗を嫁がしゅうとめを嫌って夫に捨てさせ た老婆だという 「大和物語」の話は、 釈迦の誕生後に嵌母が釈迦 を蓑育した仏教説話を翻転したものに述いない。 いかに生活が貧 しかったといえども、 育ての恩のある鉄を山に捨てさせるという ・無慈悲さは容認し難い。 この所業について元禄の芭蕉が「何故に 老たる人を 捨つらむとおもふにも、 いとゞなミだ落そひければ」 と不審の感を催したのも当然と言わねばならな い。 それで糾を捨 ・て させた嫁の非人間的な行為は、 後世には切り捨てられた。 その 例はこの説話を戯曲化した謡曲の「鋏捨」にも見られる。 この曲 は、 三番目物槃物に屈し、『檜垣」「関寺小町 j と共に三老女物の ―つに数えられる非常に重たい曲である。 「娯捨 j の作者は、「能本作者註本」「二百十番謡目録」によれば、 世阿弥元消とある。内容の前段は中秋の名月を披捨山に見ようと 出で立ったワキ(都の者)がシテ(級捨の所の者)に呼び止めら れ、 その昔談捨山に捨てられた老女の話を開かされる。 その所の 者は捨てられた老女の化身で あり、 忽ち姿を消し、 後段において 白衣を珀た老女となり、 昔の妄執やる方なく、 月をめでて序の絆 をまい、 夜明けと共に消えてゆく。 この老女は捨てられたという ぃ4さつ だけで、 捨てられた経綿を記した「大和物語 j の嫁としゅうとめ との争いは 消されている。 それについて、 野上豊一郎氏は、『註 解謡曲全集」(昭和十年七月十五日発行中央公論社)の解説の中 の出典について、 「わが心慰めかねつ」の主題歌は「古今集」巻十七の読人不 知としてある。更科の男が伯母を捨てたといふ説話「大和物 語」「今昔物語」は典拠になってゐない。 と説かれたのは当然と言わねばならない。 しかし、 世阿弥が 「妓 捨」を脚色するについて、 全く「大和物語」を参照しなかったと は考えられず、 その嫁の仕打ちを容認しが たく、 あえてその行為 を削除したのだと考えられる。 反面、 妓捨山の痰の造形について、「法華経 j 勧持品の波閑の 面影が拗いていた可能性がないとは甘えない。というのは「娘捨 j のシテが銑をまうに際して白衣を瘤て現われる姿が、 ム す つ き よ はくえ に‘にんあら た20`) ふ L 5 不思議やな早や更け過ぐる月の夜に、 白衣の女人現はれ給ふ
ゆ" うつつ は、四クか現かおぼつかな。 とうたわれるからである。「白衣」は謡曲では「はくえ」と発音 されるが、仏教では「びやくえ」と読まれ、僻侶の着る衣を黒衣 と言うのに対し、俗人の滸る衣を言う。この白衣の用語は「法華 も
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ろ 経」にも現われ、波闊の登場する勧持品にも、諸の菩薩の声を出 して説く偽に、 和忠釦杢ず釦 に、 >印知 の 即 に 即 を 鉛 きて /距 に 即如せら み(つう らかん ごと ること為ること六通の羅漢の如くなら ん と使われる。因みに「更級日記」の作者も仏道に深く焔依したが、 出家はしなかった。その意味では白衣の女であった。この点で「 法 華経 j と『更級日記」は通ずる。 芭照の「悌や鋏ひとりなく月の友」の句は、 「 大和物語」より も謡曲「妓捨」によったものである。それをつなぐものは「月の 友」である。この「月の友」は、練捨山に 捨てられた娘の亡盆が せ b ふ 折からの名月のもとに白衣を箔て現れる台詞に綬いてうたわれる シテとワキの掛合の文句に現われる。 疇ら" シテ「夢とはなどや夕暮に、現はれ出でし老の姿、恥かしなが さた ら来りたり。 ワキ「何をかつつみ給ふらん。もとより所も娯捨の、 シテ「叫 は 畝如 が 缶 みmt
の 、 ワキ「昔に帰る秋の夜の、 っ8 とも>と シテ「月の友人まどゐして、 し ワキ「草を敷き、 シ テ「花に起き臥す袖の露の、 ””「さも色色の夜遊の 人に、いつ刺れ初めてうつつなや。 この中の「月の友」が芭蕉に引かれたのである。しかし、この謡 曲の「月の友」は鋏が月の友として、夜遊の 人の心を慰める意味 に解すべきである。 しからば「娘 捨」の白衣を滸て月の下で序の舞をまう老女は月 にとってはどういう人物であるか解明すべきである。白衣を滸て 月に舞をまう姿が誰であるかを 現わすのは同じ謡曲三番目物の 「羽衣」である。「羽衣 j のシテ(天人)は、駿河の三保の松原 で羽衣をぬいだ所をワキ(漁夫)に見つけられ、羽衣を取りか く される。天上 に 焔る事のできなくなった天人は、懇願して、天人 の舞楽をま‘品乎缶切束して衣を返される。その時の喜びが、謡曲 のせりふに、 をとめ 、らも ちゃ< ifいしよわうい さよく シ テ「乙女は衣を済しつつ、党裳羽衣の曲をなし、 ぁ9 はごろしかぜ くわ ワキ「天の羽 衣風に和し、 シテ「叩巳如勾組 の 叫‘ っさよく かな ワキ「一曲を奏で、 ぇ CO) シテ「舞ふとかや と見える。そして羽衣を焙して天人の天に昇る状況は次のとおり である。 びや (A.79え てんにん かず さんご わ =‘ ) いりげつ↑ e あ 2t と 地 白 衣馬衣の天人の、数を三五に分かつて、一月夜夜の天 乙 11-"
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じ さ だ 女、奉仕を定め役をなす。 ここの意味を野上登一郎氏の注は左の如くに説く 。 月宮殿は月の中にあって、白衣の天人十五人と黒衣の天人十 五人が葬ふのであるが月の一日は白衣の天人が一人入り、以 下一夜毎に白衣一人を加へ、白衣十五人の時は滴月、十六 日 から白衣一 人退いて黒衣一人加はり以下顛次に交迭する。( 三 界義註)。さういふ凪にして月は廻転するので、天人の側 か ら云へば、毎夜のその舞楽が月宮を廻らすものと云へるわけ である。 つまり、白衣黒衣の天人は十五人ごとに交替し、月の消ち欠け を 左右するのである。この原理に従うと白衣を箔て舞う「姻捨 j の 老女は、満月を導く役を果しているとい、ユ糾になる。 この月の淡ち欠けを 白衣黒衣の交替現象とする謡曲の説定は、 当時の一般の月に対する考えでもあったろう。この月の見方を芭 蕉の句に反映させるとどうなるであろうか。芭蕉の眺めた級捨 山 の月は、 白衣の天人十五人が揃って舞をまっている美しい月であ る。 しかし、その月の中の一人の嫉は人々に見捨てられて孤独で 泣いている鋏の面影である。ここに妓捨山の名月 を観披するため に夜を日についで妓捨に駈けつけた芭蕉にとって大きな矛盾が 館 呈したと言えないであろうか 。今までに見てきたように、亡き姉 に代ってその逍児を投育した妹(「記紀」の玉依姫、釈迦の養母 波曲)は晩年好遇を受け ている。それに反して「大和物語」に 登 楊する夫を養った妓は嫁に虐待され、夫の手で山に捨てさせら れ る。その話を背捩に持つ扱捨山の名 月は、 芭蕪に少なからぬ悲し みをもたらした であろう。 六 ここで視点をかえて、 芭蕉 が姻捨山でよんだ句、「悌は姥ひと り泣月の友」(敲氷写し)「悌や姥ひとりなく月の友」(沖森 本芭 蕉真敗)「悌や鋏ひとりなく月の友」(乙州本更科紀行)の三伝 本 の異同の分析に移ろう。初積の初句「悌は」の「は」は、伝救 済 て に "1 著「辿歌手爾菜口伝」にのった十八の切字の中には見えず、梵灯 マハシ 庵著「長短抄 j の「発句大廻卜云」に初句が「ハ」で始まる例 が 三句収めて あり、その内の一句「五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷の水」 が 芭照の師北村季吟の「俳餅進正集」(尾形仇校古典文耶151昭和 三 十五年三月十五日)に三段切の例にあ がっており、これは初句切. 中句切・下句切の珍しい手法である事が知ら れる。芭蕪の句「悌 は」にあてはめると、中句の「泣 」は終止形としなければならな い。とすると、下五句の「月の友」は「 姥ひとり泣」をおぎなう 形となり、解釈すると、悌として見えるのは月の友として 姥がひ とりで泣いているのだという事になる。即ちこの句は姥が月の友 となって泣いているという意に とれる。かかる解釈が正しいとす れば「月の友」は姥の事となり芭蕉 はそれを 眺めているのである。 しからば次の「悌」を 「や」で切るとどうなるか。「や」はれ っき とした切字であるから、「なく」を終止形とすると、 二重切れとなり` 発句として分裂する。そこで「なく 」 は 連体形として 「月の友」 にかかるとしなければならない。 とすれば解釈はどう なるか。 それ は、今目に浮んでいる悌は、 姥が ひとりで泣いてい る月で、 その月を今 宵の月の友と眺める事だという意にな る。 つ まり、 芭蕉が見ている月に、 ひとり泣く 姥を幻想しているのであ る。芭蕉は 現実の月を眺めながら、 その月に「ひと りなく」姥を 瓜ねている。 この方が伝 説の世界を今の世界に取り込む芭蕉の手 法が現れてより本質的である。 ところで芭葱は初稿か ら「更科紀行」草稲(沖森本)に至るま で「姥」 の表記で一頂し ている。「姥」は老婆の事である。しかし、 『奥の細道」 に出る直前にそれを「妓」に変えている。「妓」は「を ば」と読み、 母の姉妹の事で必ずしも老婆ではない。今迄見 たと ころによれば、「穀」 は甥を実丹の無き跡育てた妹(叔母)の事 である。「鋏」と「姥」 は混用されており、 その習慣に従ったま での事であろうか。 私はそ う簡単ではない と思う 。 甥を育てた娘を山に棄てた先例は平安時代に成立した「大和物 語 j に見える。 しかしその所業は余りにも残酷で、 その後の作品 (「源氏物語」「更級日記」)において は、 娘を拾てさせた嫁の存 在はカットされ、 もっばら老女を捨てた棄老伝説の形に変えてい る。芭蕉も沖森本「更科紀行」まではそうであった。しかし、 芭 蕉の世いた物を見てゆくと、 既に天和三年(一六八三)六月に其 角の刊行した「虚栗」に寄せた祓文に、 カンバセ 恋の情つくし得たり。昔は西施がふり袖の頗、 黄'金ハ鋳マ小 紫→。 上陽人の閲の中にハ、 衣 I 桁に蔦のか、るまで也。下 ョ 99ウ99 の品にハ眉ごもり親ぞひの娘、姿姑のたけき争ひをあっかふ。 ヨメシウ99 と記している。この 「要姑のたけき争ひ」 は、 明らかに「大和 物語 j のしうとめを夫に捨てさせた嫁の行為を意識した文言であ る。 芭照は一般の家庭の不和が嫁しうとめの争いに原因する事を 避けていないのである。しかし、 この「虚栗」 の践にはいささか 反省したらしく、 貞享二年(一六八五)正月二十八日付半残宛書 “uv 簡において、「ミなし栗なども 、 さ たのかぎりなる句共多見え申 候」と杏き送っている。だが芭蕪のこの現実直視の姿勢は後々ま で変 らな い。 貞享元年八月に出発した「野晒紀行」 においては、 宮士川の畔に捨てられ た子供を見ては、「唯これ天にして、 汝が せい 性のつたなき をなけ」と冷くつきはなし、「奥の細道 j の市振の 宿では同行 を求める遊女に対し、「我(ハ所さにてとゞまる方 ”v おほし。只人の行にまかせ て行 べし」とことわっている。 しかし 芭蕪はその i 見冷淡にみえる姿勢の背後に万附 の涙を押さえきれ ないでいる。現実は敢しい。芭蕉自身 も、 若き時に愛した寿貞を 後々まで而倒を見てやれず、 元禄七年上方に行く折に、 留守の草 庵に寿貞を住まわ せたけれども、 十分な手当てができないで、 そ の死を聞いた同年六月八日づけ猪兵衛宛柑簡において、 寿貞無仕合も の、 まさ•おふう 同じく不仕合、 難ーー申尽迄唸 いらごん (中略)何事も/\夢まぼろしの世界、 一雪理くつハ無レ之 13
-(あかはね まなぶ 候。 ともかくも能様ぷ切はからひ可レ被レ成侯゜ と申し送り、 その七月十五日の盆会には、 尼寿貞が身まかりけるをき、て 数ならぬ身となおもひそ玉祭り(有牒海) との追悼句をなしている。 こういった人力ではどうにもならぬ現 実を直視する芭蕉の姿勢からすれば、 賊捨山に捨てられた娘を一 般的な老女である 姥とする事はできなかったので はなかろうか。 .身近かな肉親としての妓に変えたのはその辺に理由があろうかと 思う。 芭煎は菜てられた娯に同情しつつそれを直視したのである。 〔補足〕廷長五年(ーニ五三)に定家没後十三年忌に催された「ニ 十八品井九品詩閥」に「法華経」の勧持品に取材した式部権大輔 公良の偶が次の如く見える。 二尼復有学無学 一切皆成三貌=― を ば ● か は じゃばだい> < に 「二尼」とは、釈迦の育ての姻母摩詞波閤波提比丘尼と釈迦の在 やし●だ ら に 俗時代悉達太子の妃耶輸陀羅尼の事である。拙著「岡山大学国文 学賓料絞書三 j 昭和五十年八月一日福武書店参照。 これによって、 釈迦が育ての娘母と妃を得度した事を古代の日本の識者は知って いた事が分る。 ちなみに定家 が 「 法華経 J を何回も写していた半 が「明月記 j に見える。 岡山大学名脊教授) (平成二十五年一月i十二月) 研究室受閥図書雑誌目録ー 〈単行本〉 新版 本居宜長の不思議(公益財団法人鈴屋辿踏保存会本居宜長 記念館)二
olll-〈雑誌〉 愛知教育大学大学院 国語研究(愛知 教育大学大学院国語教育専 攻)ニ― 愛知県立大学 説林(愛知県立大学国文学会)六一 愛知淑徳大学国語 国文 (愛知淑徳大学国文学会)三六 愛知大學 励文學(愛知大學固文學會)五二 宵山悟文(宵山学院大学日本文学会)四三 股(山脩勝昭)二七、 二八 跡見学園女子大学文学部紀要(跡見学園女子大学)四八 歌子(実践女子短期大学日本語コミュニケーション学科)ニ― 宇大国栢論究(宇都宮大学国語教育学会)二四 湖の本(秦 恒平)―-四、 一ー五、 一―六、 一ー七 愛媛国文研究(愛媛国語国文学会・愛媛県高等学校教育研究会国 語部会)六 II ― 愛媛国文と教育(愛媛大学教育学部国諾国文学会)四五 大阪大谷国文(大阪大谷大学日本賭日本文学会)四 一、 四二