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芭蕉連句考

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Academic year: 2021

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(1)1 13:.. 芭. 蕉. 連.句 田. ・苫 A. Study By. 義. 考 雄. of Bash∂'s Yosbio. Renku.. Yosbida.. 芭蕉の連句杜芭蕉の芸術の精髄であ歩,量的にも連句に於ける芭蕉の附句昧発句の数こ を凌ぐであらうし,最も精力を傾注して研究されて然るべきものである.にも拘らず, 注釈にも鑑賞にも文芸価値論にも,叉本文の検討にも,俳句研究の精綾なのに比較する と,甚だ遅れてゐると言昧ねばならない.然し最矧こ至って漸く主として注釈の方面に 優れた業蹟が見られ(1)芭蕉研究の主力がここに移らうとしてゐる趣を見せて来た。 芭蕉の連句を集めたものに娃,現在最も普及して便利とされてゐるものに,勝峯晋風 氏の「俳書大系」申の「芭蕉一代集」があり,最も虞塾な考究で信頼すべき.*文とされ るもの,に資川他石氏の「名著全集」中の「芭蕉全集」がある.しかし連句研究が新しい 動きを示してゐる今日,更に諸家の連句本文の新見や考究が加へられて,新しい連句集 成の書が欲しいと考へられる。 ここに試みる連句への考察昧,その製作年代と芭蕉の作品としての虞蟹の吟味,その手 操作の問に明瞭となる芭蕉及びその門弟達の動静への検討等が主な仕事であるが,つ患 わそれも,さうした新しい連句集成立の蔑の碑石の一つに他ならない. 芭蕉の連句の集のこれ迄に成った主なものは次の温習である. 「芭蕉俳雷集」蝶夢編(天明5年刊か)。 甘井編(文化3年干!l) 11年刊). 「僕讃幽蘭集」頃合編(寛政11年刊)0. 「芭蕉袖軍紀.寄渦編(文イヒ8年刊)o. 「俳譜一葉乱仏骨,湖中編(文政. 「芭蕉全集」満濃壌音声o(昭和3年革訂既刊)a. 「俳部由珍妙」獣池編(嘉永4年刊). 「芭蕪一代集」勝峯晋風編(昭和3年刊). 「金蘭集」一兎,. 「名著全集」中の「芭蕉全亀」費川飽石偏(昭和4年刊)ヶ. 「芭蕉連句集」(2)広田二郎窮(昭和27年刊)0. これ等先人の尭撞は芭鳶連句研究に今なほ多くの利益を与-てゐるも甲であって,本稿もその性_ 質上随所にその恩憲を蒙ってゐるのであるがその屡々引用されるもの紘, 集」聾川氏のものは「名著全集」,. 「芭蕉一代集」は「一位. 「芭蕉連句集」は「連句集」の如く略記することとした。. 1)芭蕉七部集連句評釈「母の日」及「春の日」昭和24年刊。天野南山氏。 「芭蕉連句集」昭和26年刊.広田二郎氏.. 「芭蕉講座連句篇」上・下昭和27年刊o頴原赴. 薮, LLJ崎喜好,樋口功,杉浦正・一郎諸氏,共著. 2)これ妊芭蕉連句の選集である占.

(2) 114. 富. 義. 田. 雄. ●. 芭蕉の連句の数昧,筆者の数-る所で昧, 官頚. せ書. 五十萌. 歌仙. 卒歌仙. 24句. 20句. 17旬. ・. 16句. 12句. 10句. 1. 2. 2. 3. のもの. 」. 5. 16. の豊の. 1. 148 9句 1. 表8旬. 7句. 2. 1. 表6旬. 5旬. 4句. 欝三. 先句.W句. 231T. 10. 2. 7. 3n&7. 62. であるo然しこれ等3)数昧なほ動掃する.それ杜解釈の相違で所属を変へるからであ るo例-ば「攻萌」の最初の巻拭百頑として扱ったし,素堂との「三日月耶己」中の和. 漢杜「歌仙」に入れた.叉・歌仙の名残の裏四旬だけ欠けてゐるもの二つ%,その作品 の重さから歌仙と同じと見てそれに加へたりした.疑問のある作品も決定的に香定の 材料のないまま数に入れたものもあるし確実な数を出す事昧出来ないが,これだけの量 があるといふ目安に綾ならう.これ等の作品の中で筆者の心に,疑軌不嵐. として特. に園心の強いものについて,次に考察をカnへて見る事にする. (1)時6'.r7噴伊賀の山こえ聾の雪 杉風. 桃青両吟歌仙.. .. この歌仙の虞蹟旺伊賀上野蓑虫庵伝来のものが,杉浦正一郎氏の戒に帰して,同氏に 依って「芭蕉講座連句篇下」に紹介されたのであるが,それ迄をま南無庵関吏の「花供 養」が初牧であD・その序文に「いにしへ天和の比,杉風受が花の旬に野して,蕉爵脇, 第三よrほ仙一巻ともに筆凌染給ふ」と見え(1,「一案集Jで天和年中の作に入れたのも, これに基くかと息妊れる.それ以来「一代集」も「名著全集」もそれを樽襲して来た が・ 「連句集」に於て延宝3年の部に移されたoこれ杜達見であると恩ふo然しそ∧の理. 由に就いて紘示されてゐないので,ここにそれを推すれば,尭づ内容から見てこの歌仙 杜芭蕉が,初めて江戸に出たばかりの時の吟であると息牲れる。 即ち,その第四までを挙抄れば, 時箇嚇伊賀の山こえ聾の雪 身妊麦元に霞武蔵野 店賃の高き軒端に春も来て とうやうかうやら暮るゝ年波. 杉風 桃育 ▲. 杉風. であるが,発句抹芭蕉を江戸に迎Jtて,その故郷を憩ひやってゐるのであり,脇紘,敬 神昧聾吹雪であらうが,御当人昧武蔵野の霞の中に暮してゐるといふのであゎ,第≡杖 その江戸生活杜家賃が高くて困るが;とにかく春を迎-得たといふのであるo第四抹そ れ朋f)&方角から言つ料こ過ぎない。これ杜どうしても江戸の生活を新鮮に感じた頃. 1)芭蕉連句の新資料. 絵本義一氏新報. 文学昭和13年4月号.

(3) 芭. 蕉. 連. 句. 考. 115. の作でなければならないo江戸生活o)物価の高さに目を見張りつつ,年を暮し春を迎へ たとすれば,江戸に出府して一二年の時期が考へられる。 しかも右の事柄を裏づけるの臥 その作風である.この歌仙全体q)触少のよさ紘,汰 してあの倍屈の天和の風調でもなく,又談林の知的撞功で畳み上抄た,頭脳的緊張感を. 覚えさせるものでさへもない.談林新風に浴すると忽ち,. 「江戸両吟集」. 「江戸三吟集」. と,次々力の論った作品を発表する芭蕉が,こんな素直で拭あるが,弱hしい作品を侍 る筈がないのである。. そ.して,この歌仙が談林風以前であるとすれば,延宝3年5月に紘宗因と一座して百 萌を射してゐるのであるから,少くともそれ以前の作といふ事になる.然し一方江戸出 府間のない頃の作とはい-延宝二年冬より遡力得ない事往この歌仙の初折の裏七旬日 に狩野探幽のことを詠んだ「探幽が皆の雲に残る月」の句が見えることから決定的に言 「蟹」は「かたみ」即ち「嘩身」の意を含めてあるので,探幽没後の. へることである.. 作でなければならない∩ その探幽の捜したのが延宝二年冬のことであるからである。 かうして時代設定をすると,ニの作品杜様hな事柄を暗示して来る.その一つ昧,こ. の歌仙が,現存する芭蕉の連句の申,完備してゐるものの最初のものであり,更に昧桃 育という号が初めて見える巷といふ事になる。内容面から言へば,芭蕉が江戸に出て 初めて履を脱いだのが′ト沢卜尺宅だとしても,杉風の芭蕉庇護が極く早い時期からであ るという詮の確たる裏附にもなる。. 宗房から桃育へ.. 「貝おぼひ」が完房名であるからに娃当然江戸-申てからの改号で. あらう.恐らく昧江戸生活に,宗房の旧名で旺盛り切れない新しい意志や情熱を身に感 じての改号であらうが,それ昧延宝何年の事であったらうか.これ迄昧尭に触れた宗田 一塵の官憲馳て桃育名初見であったので,或ひは談林新風に遇逸するを横としての改号で. 昧なからうかと考-たのであったが,今昧もつと早い時勢にその改号の時を求めなけれ ばならないのである。. ここで,注目されるの妊,常陸潮来の本間自準の家に伝昧る「直義年鑑」にあるとい 延宝2年改号の敦である.自準俳名砕江昧芭蕉に早く指導を受けたのであるが,叉. ふ. 逆に,芭蕉が稔江に底を学んだのではないかといふ話(施斎語話)もある上,鹿島紀行 の旗に紘自準の豪に泊少した事妊,その紀行の巻末に, て,. 「帰路自準に宿す」と前書あつ. ;瞭江の発句に,芭蕉,曾良がそれぞれ,脇t第三を附けてゐる事に依って知られる.. この様に親交あった上に子の友五も芭蕉に入門し,かたがた多くの芭蕉の遺品を伝来し. たといふのである。その本間豪の記録であれば,無根拠と捨て去る事昧出来ないであら う。. 「医豪年鑑」に依れば,芭蕉の剃髪を延宝2年秋である仙といふので,改号もその. 頃とすれば,歌仙の方昧春の伶であるから,空3年の作といふ事にも抵触しないo (2)いざかたれ馳走昧なくとふゆごもり,の綱彦,芭蕉,卜枝,困堺の四吟歌仙。 1)芭蕉の全貌. 萩原轟月氏著参嘱.

(4) 忠 亡l. コ16. 田. 義. 雄. 芭蕉の連句を系競自勺に並べて見ると,殆んど絶て,何処かへ秩序づ伊られて,それだ 伊が遊離してゐるといふ作品昧ごく歩いo. それ程芭蕉の伝記研究娃詳密になづて来て. ゐ畠o所がこの四吟歌仙昧その少いものの-づであるo冨妊ば,芭蕉の作品として異質 -&研が有るlのである. 先づここに-盛する連衆昧,他の芭蕉国係の連句に杖萱易しない.国際性,勝峯氏に 依れば貞童門であると言ふし,綱彦の如き昧他の俳書に名を見せない.別号で活躍した かとするの妊臆測に過ぎようoただト枝だけ払「嬢野」に「津島」といふ所書を持つ て・旬数も同集でも目に立つ理数多く入集してゐる。. 「療野」に活躍する俳人ならば,早 はり尾張附近の人,津島披いかにも相応しい.それならば,貞事4年冬の芭蕉のこの. 塊方に枚を引いた時,交渉を持った俳人であらうか。それで,貞享4年作と「一代集」 で昧推定されてゐる。然しそのト枝も蕉風の他の諸集では姿を現昧さない。芭蕉の他の. 尾張美濃等に省かれた俳語で乱連衆娃皆芭蕉に心服し,芭蕉の風を崇めて,心からそ れに耽らうとした人達ばかりである.そしてどの連衆も,殊に,. -産の主催者となった. 億な人達昧,ただ一度のその交ゎだけで,芭蕉から離れて絡妊う等と昧決してしなかつ たのであるoその様な結びつきがこの歌仙の作者達に全くないとすれば,不審な事とし なければならないo. 「名著全集」でこれを収録し如、の紘,その理由が示されないけれ. ども,この不審故に捨てられたものであらう。尤もこの歌仙杜「陽炎集」. (天明4年刊) 儲英撰以外に妊江戸時代の諸俳藷異にも収められなかったものでもある。然し「連句 一集」で昧再び収録して,貞享4年に位置づけてゐるo この歌仙は前書に, はせを江戸にて相しれるよしにて,叔父外記のもとにたづねよられけるを とらへて. とある○これに芭蕉に「霧」の敬称がないのもー応注目される.. 「外記」と言ふ名昧武 士らしい故,江戸勤番中に芭蕉と相識ったと言ふのであらう。芭蕉の周囲に外記といふ 名で知られてゐる人が2人ゐる。. 1人紘,その邸に似春と共に芭蕉を招いて,己旺脇だけを附けたのみだが, に所収の三吟の二百萌を興行(延宝3年秋)した土屋四友であり,. 「芝肴集」. 1人はあの芭蕉のよ. き理解者,剛直の勇士,膳所の菅沼曲翠である。 この中土屋外記昧,. 「誹豪大系図」に依れば,枚平出羽守の家臣であると言ふ,稔平. 出羽守昧雲州松江の城主であるo. 袷江で昧芭蕉にも卜枝等にも余りにも縁がなさ過ぎ. るo. 一方曲翠の江戸下りは元藤5,. 6年頃のもの昧柱つきりするが,点享4年以前の事紘. 一資料に乏しい.然し芭蕉との交渉昧決して湖南を芭蕉が訪れてからの事で昧なく, 虚粟」 (貞享年年)其角撰に一旬だけ入集してゐるし,早くから其角と相識って,それ を通じて芭蕉とも交渉が有ったものと考へられる。(1) 1)芭蕉と跡E>. 山崎著好氏著. 「統.

(5) 芭. 連. 薫. 句. 117. 考. それ故この「叔父外記」払菅沼曲翠であり得る-し・曲翠芭蕉のその後の交渉の親密 -さを恩へば, -党づさう観めてかかる事も許せるであらう.然し・曲翠の許へ看ね寄った. 切を捕へたとすれば,湖南での事セなければなら削,.湖南の何処であら'5かo膳所で ぁらうれ卜枝娃もと澄江日野の人であるといふ0日野牲東海道水口駅から2里ばかり 北に当るが,八幡と共に近江商人の出る代表的土地であるo膳所より昧やや遠いけれ. ども,必ずしも無縁と昧言へないoしかもこの歌仙の収められた「陽炎集」の撰者子英 壮日野の人であり,道彦旺(山崎喜好氏の「鬼貫」に依れば),その曾組父で紀氏であ るといふ.この歌仙妊日野との関係がいかにも濃い.と言昧ねば怒らぬo. それではここ. での1馨であらうかoそれとも綱彦妊水口藩の武士で,水口で巻かれたものであらうか 水口ならば兵事2年春,そこで土芳と20年目の再会した所・芭蕉と無線の地で昧ないd をこで歌仙も興行されたらしい(蕉翁全伝)o ・然しこれ等紘直ぐ反証されるであらう.即ち・前書の書き振りから・芭蕉の幻桂庵や 無名庵に住みついてからの作ではなく,放の人のとしての賓が感じられるo青線3年 の幻任庵入歩以前に芭蕉が湖南私流口・日野のあた少を冬適ったといふ事実紘ないo. 貞享2年0)水口通過も春楼の季節である.貞事4年の冬の放にもわざわざ尾張から水 口辺皇で出て行ったとも恩へない。. それならば傾野」の卜枝の所書により・津島附近とするか.そ0)時昧曲翠がその附 逝に住んでゐたと娃考へられないo何れにしても叔父外記即ち曲琴かといふ考へも疑. 問であると言昧ざるを得ないoそれに・曲翠の兄弟国備について昧今の所知り得る事 が少く,壊通達が紀氏である事-の結びつきも説明出来ないo ここで,叔父外記妊四友でも曲零でも別、別人で・津島附近に任してゐた人と考へざ るを得加、.かうした吟味の後・この歌仙昧やは抄貞事4年冬津島での興行と一応考へ を定めなければならないo然し更に,その伝来が鬼貰門の紫残からであること,その作 風が,表6旬だけを見ても,甚だ拙劣である事などから偽作で杜ないかとの疑昧濃いo. が,一方前書のたどたどしさか却って粉飾され別、事柄を伝へてゐるかも知れず・暫く 不審の奄として注硯してゐることとする。 (3)すずしさを我やどにしてね怠る也芭蕉・清風,曾良毒英・風流の五吟歌仙 (4)おきふしの掛こあら昧す小家かな清風,芭蕉・素英・曾艮の四吟歌仙o 骨艮の「喚の細道随行日記→をま芭煮研究の別目的資料であり,その出現が「奥の紬. 乳研究に一朝を劃したと断言出来るのであるが・この断の際に巻かれた俳語の懇々 に対する研究もー段と精を加へ得たのであるo、そしてその最もよく考察してあるもの 払勝峯晋風氏の「奥の細道創見」で参らうoだが・をの精細な考究にも拘らず・見落 (4)の歌仙であるoこの2周仙妹尾花沢の清 された事柄がある。その一つ披この(3) 風宅で巻かれたものとして,文政2年に初めて幽嘱の「つなぎ橋」に収録されたo除峯 氏昧この2歌仙「共に興r7の日附が知れない」と言昧れるo一体尾花沢滞在昧5月17 t]よb 27日迄, 10日余如こ及んでゐるのであるから・当然1奄や2懇の歌仙紘懇いて.

(6) 118. 普. 田. 雄. 義. 然るべきであったo現に奥の細道の行程の中に軌2,. 3.日の問に続けて俳語数巷を巻 いた例が多く見えるo加賀の小除での「しぼらしき名や′J聴ふく萩空」の選書, 「ぬれ. てゆく人もおかしや雨の萩」の五十萌の如き払僅々, 7月25日, 26日の両引こ巻き 経-られてゐるo叉貞事4年冬の尾張熱田方面の故に於てもかうした例に乏しく加、o. だが・尾花沢滞孝の「随行日記」の本文を尋ねて見ても,この長期の滞在中にも俳語の 会を催したといふ記事旺全く見当らないのであるo. 「俳語書留」にもその片統も記され てゐないo一体曾良の記録を吟味して行けば細道で作った俳語の時日昧殆んど皆分明 するので,この2奄の如き妊重く不思議である. 然しもともとこの2巷は芭蕉の作として昧内容的にも拙い作品である上に,尾花沢で ●. の作が須賀川に伝来して・しかも遠か後代になっての発見昧をかしいと,小官豊陵氏が 「芭蕉の研究」の中・. 「芭蕉の作と言妊れる『頚木魔の記』に就いて」の中に深い疑を述. べられてゐる作であるのであ少・この「随行日記」に記録中てない事臥その疑をはつ きわしたものにしたと言-るであらうo. 「一代集」. 「名著全集」. 「連句集」等級て収録す. るが,これ昧芭蕉の連句からは除くべきであらうo. (5)星今脅師に駒ひいてととめたし右雪・骨良,杜せ%,更地の四吟歌仙. この四吟歌仙礼典の細道の旅行の途丸直江津で巻かれたのであるが,実妹現在そ の全貌が伝はってゐ別、。即ち「雪まろ抄」で臥 星今智師に駒牽て留めたし 港の水桶にいそいそ布つきて. 増触鵬. 色香ほしき勧刈の稲. 昧. 此間十三句なし. 種植て′ト枝に花の名を記し 糞を引雪革もをかしき雪の上 -むら鳥人馴て飛ぷ 金山や陀干す砂を拾ふらん. 以下末尾迄妊完備してゐるo 研が, 「金蘭集」で昧他に3句を記載して,中10句が中断された摘じてゐるo即ち,. 星今脅師に駒牽て留たし 色香ハしき初メ1)の米 さらし水踊に急く布つきて 此間十旬キレテシレス. 秋風造る父の旗立 -'かの懇を錦に包拾ネへし. 也良翁雪右. 雨のあがりの日妊長閑な歩.

(7) 芭. 連. 蕉. 句. 119. 考. 絶て継たる囲の石堂 種植て′ト枝に花の名を記し 以下末尾まで,些か旬形の相藩妊あるが,注目すべき程ではないo この様に中途のと切れてゐるの昧何故であ■らうかo. 「俳語書留」を見ると,. ここに,. 「奥の細道随行日記」の. 「金蘭集」と大体同じ読み方で,第≡迄昧見えて,それ以後の萎. 昧重く記載されてゐない.これは曾良の怠慢で昧あるまい.つま妙昧第三迄杜実際に作 られたがそれで経ったものと考-られる。. 「星今脅」の由合は7月7日佐藤元仙(俳名右雪)亭の作で,翌日妊高田-発ってゐ るので,元仙が惜別の情を披歴Lて発句を吟じたのに対して,芭蕉主従が会釈して一旬 づつ附けたものと恩へる.その様な例昧,羽黒の会覚阿閣梨から「忘るなよ虹に嘩鳴 山の雪」の旬を滑られ芭蕉が協,不玉,. ∴曾良が後をつ打て第四で経ってゐるものを初. め,「併諸事留」にも屡々見え,ごく普通に行捻れる事である.ただ「金蘭築」が割に 曾良筆 金石斗哲所侍」の■ 轍密な本であるので,ニの歌仙の巻末に「懐紙杉原軍紀也 注記が見えるのが注目されるが,第三迄で経少,節,%以後の部分抹,全く違った作品が 潜れこんだのであるといふ右の考へ紘,更に次の考察で疑ふべくもないo. この歌仙昧発述の如く直江津に巻かれたものであるが,その中断部以下の連衆昧直 江津の連衆で昧なく高田の避衆であると恩はれる.直江津の連衆昧この歌仙の前夜,(7 月6日)堰かれた「文月や六日も常の夜に昧似ず」を・発句とする俳諸に-姦したもの を見ると,左見限鴎,此竹,布嚢,右雪,義年等であゎ,これ等の人達妊「屋今菅」の 勧こ昧右雪以外昧姿を現昧さないoなほ後年部に於ける「也」と略記するに当る人物も 「超絶て′ト枝に花 見当らないo然るに「幽蘭集」に昧「十三旬なし」の次の最初の旬, これ昧重要な記名で参る.. の名を記し」の作者名を昧つきDと「更埴」と記してゐるo. 更埴昧三千風の「日本行脚文集」にも高田の俳人として, 招来にけりおよぴの棺ほととぎす の旬が見え「倭漠乱島集」にも高田と見えるo文「俳詔書留」に昧,. 7月8. '日の夜高田. √. の窪師細川春庵(俳名棟雪)亭での俳諸に, 翁■. 黄濁往いつれの花をくさ枕. 横雲. 萩のすたれをあけか好る月 娃貯ふ少の夕を秋のいふせくて 馬乗ぬけし高薮の下. 鈴木輿兵衛吏也 骨良. と記され同塵してゐる。. かうして見ると{断続部以後のもう1人の連衆名「雪」杜「右雪」で無く「棟雪」で なからうかと推測されて来るo. それならば,更也棟雪の両人紘七夕の夜に直江津に迄. 至って-虚して「星今脅」の巷を興行したのであらうか.だが「随行日記」の本文に昧 ○七日. 雨不止政見食中政信寺人被招再三帝強招口友暮其夜佐藤元触-招テ併有テ. 宿夜中風雨甚.

(8) 120. =ヒ l=I. 田. 義. 雄. とあるのみで,高田よりの零に就いて妊何等記載する研がない.それに夜中風雨が甚し. かったのであるから,高田より来って一座したとすれば,怠らく元仙亭その他直江津に 泊ったに相違ない。. ○八E(雨止欲立強テ止テ嘉右衛門饗ス 饗卓立未ノ下刻至高田三組川春庵コリ人道シテ迎ロテ来ル春庵-不寄シテ先池田 六左街門テ革客有寺チカ.)チ体ム叉春庵コリ状来ル頓萎発句有俳勧ル宿六左衛門子 甚左衛門テ遣ス謁ス. 辛,翌日の高田行に際して再三春庵(棟雪)から迎-の使者が来た事を記してゐる.こ の記事から見れば春庵と芭蕉と旺,此の細道の旅行の際でht,ここ高田で初めて会ふと 考へるより他昧ないo. この様に第三迄と断絶以後とは連衆が蓬ふのであるから全く別′なものとすべきであ る.もしここに瞭測を許すならば,断絶部以後杜,翌9日の記に「俳歌仙経」とある 敬, 「薬偶に」の歌仙の後尾なので昧ないか等とも考へられる. (6). 睦んとぬけたる他の蓮の驚. 嘆花にかき出す橡のかたふきて,昧せを r. 2旬の附合枚「去来抄」に見えるが,まだどの連句集にも収録されてゐないo この前句昧支考の「別かけの返事」に,. 「其後越公紘湯衣の旗姿にて京よ妙名古屋へ. 帰るとて,無名庵へ立より,蓮の実のすつ臨んとぬけて何もなし,とせられし払庭蹄 の即興ながら云h」とあるのに依れば,越人の作である.唯これ昧発句の形で伝へられ てゐるが,同じ旬であるに達ひない.発句を附旬に作り変へて利用したのであらうo. 「削りかけの返事」の詮を用ひれば,. `元藤4年9月初の作となるo だがこの故人の発句昧,早く「療野」に 素堂へまかりて 紘すの賓のぬけつくしたる蓮の驚か. と出てゐるので,元疎元年以前の旬である。帝旬にはこの様な不琴があるが,去来抄に 昧「杜せを」が附けたと明らかに記載してあるので,暫く疑間作として注疏しておくo. (7)小突悟行てなぶらん年の暮其免渓石,芭蕉,普払盤子,史邦,去来,文革の表一 八句。. これに抹前書に「壬申歳暮の睦」とある.、即ち元線5年である.この歳暮旺芭蕉杜江 戸にゐたのであるが,其角,渓石,普胎等江戸俳人と,盤子,史瓢去来,丈卓等の 関西俳人と顛を並べてゐるの紘不思議である.後になって旬を寄せ合ったのか.それ なもば随分凝った表八句であるo初牧の「小春笠」で,机墨庵富鈴が「古人落柿舎除元. の一枚摺」を見つけたといふが,不尽議な一枚摺であるo渓石の脇昧「頭巾ばか少に仮 のたきもの」で,芭蕉の第三昧「吹さする袴のひだの赤らみて」で捨て難い昧がある が,認めるとすれ妊第四迄で紘なからうか..

(9) 芭. (8)篠の露昧かまにかけし茂り哉. 蕉. 連. 句. 121. 考. 芭蕉,千川,涼菓・左柳,青山,此笛,遊糸・大. 舟の歌仙。 この歌仙昧「一葉集」昧元疎7年の部とし,. 「一代集」もそitをそのまま踏襲したが・ 「連句集」昧6年であるoこの、. 写すがに「名著全集」妊「元藤6年カ」と疑ってゐるo. 歌仙昧「城主君EI光御代参勤させ給ふに尾錠す岡出氏にまうす」と前書を持ってゐるo 岡田氏郎巨号千川,大垣藩士,江戸勤膚であった0)である○されば石翠園昧既に「芭 蕉旬選年考」に,. 「元線の頃濃州大垣の城主昧戸田釆安正民定也元線六牢四月七日日. 光二十日御名代勤めらる」と考証してゐる.その通り元線6年夏の1懇であるが,ただ ●. 右の日附は正確でないo. 「徳川実記」に依れば,元疎6年,. ●. 「四月九日戸田釆女正民定. 婁廟の代参(中略)命ぜられ暇給ふ」とある.とすれぼこの歌仙妊元繰6,年4月9日故 障1も5日迄の間に巻かれたものであらう。 (9)風流のまことを噂や時鳥. 涼菓,芭蕉.青山,曾良,・濁子,嵐嵐岱水,曲水・鼠. 雪,怒詮一重の歌仙o この奄昧, 「一葉築」 「一代集」昧元線5年とし,. 「名著全集」で昧「5年カ」と疑った. が, 「連句集」妊5年であるo涼葉,濁子等の江戸勤番の大垣の人蓮を交へて,曾良・嵐. 蘭岱水嵐雪等深川附近の連衆が多いので.一案集の前書通り「芭蕉庵会」であつ如こ 達ひないが,その中に曲翠の名が見えるのが注意を引く.. 元線5年2月18日附菅沼曲翠宛の芭蕉書簡に こなたよりも愚墨進驚之処,其元よりも預御音間黍,御対顔之心地に而拝見仕倣 (中略)幻桂庵上茸被仰付侯事由(下略). とあるによれば,この春に昧患だ曲琴柱江戸に下ってゐず,更に元疎5年7月20日附 高橋菩兵衛宛書簡に 曲水栄二日三日下着之由,歩涼風能時節占て道中無心元も無御庄侯 と,秋8月初江戸下向の予定が報ぜられてゐるから,この春と秋との問に曲琴柱江戸に-. ゐなかったと推定される.故に元線5年詮妊否定される. そしてこの江戸下向娃予定通り行拭れたらしく,元線5年9月17H附の曲翠宛書簡に-,<究日昧終日寛寛恭大悦仕院o高榛桂へも此書状一所に御披見可被噴候o珍敷 交.)近h-庄一笑仕度候. と見える.この曲翠の江戸逗留昧何時頃迄であったか昧明かで昧ないが,元藤6年仲春 に昧未だ滞在してゐf=事臥その2月8日附の書簡で,芭蕉が金の借用な煩ってゐるの、 で知り得る.即ち. 委細時貴面可中上候.頃日ハ隣人指つどひ,日h心持院而御見舞不中上俵oいま だ十三日迄ハ得御見舞申まじく候. _と申るoそしてその滞在昧,ほととぎすの季節迄に及ん草ので掛らうtl働帽れ従って この歌仙の成立妊元線6年と決定される..

(10) 122. 普. 田. 義. 雄. ここにもう一つ考究して置かねばならぬの払「袖草紙」の出典として引く「茜暇紙」 には前書に儀別とあることセぁる.周蕉の協汝「放の革紐こうの花の雪」であるから∴ いかにも放立を造る歌仙の趣であるo蓋しこれ紘涼菓が,千川同様藩主民定公に屈従し て日光に赴くのを造る会でなかったかと息娃れるo芭蕉を造る句会ならば,夏め季節妊 元繰7年の最後の層郷の放しか凱、.その頃に拭勿論曲翠妊膳所に帰ってゐる(1,から 曲翠が一塵する筈昧ないo芭蕉が涼菓を芭蕉庵に招いて迭別の催しをしたので,主賓の 提案が発句を吟じたのである。. (10)ひらひらと揚る崩や雲の峯象安世・麦考・冬芽,土龍.路通,案文の歌仙. 此の歌仙軌「芭蕉翁俳話集」 集Jもそオ!t=従ってゐるが・. 「金蘭集」 「袖草紙」等に紘元繰4年作とされ「名著全 「幽蘭集」 「一菓集」 「一代集」更に「連句集」で妊元線7. 年作としてゐる。 所でこの発句だけの制作年代の方は一般に元疎4年とされ蝶夢「比軽着発句集」はそ の点「俳語集」と矛盾杜加、が・ 盾があるo. 「一代集」で昧「元線4年」として連句の取扱ひと矛. 「旬選年考」も・. 「芭蕉講座発句乱も元禄4年であらうとする。尤も「旬 選年考」で昧「元線七年にほ師大津遊牧有りて・それより伊賀を経て難波に旅寝あゎ ければ,もしや元線七年にや」と疑を残してはゐるが.. 筆者はこの歌仙を元疎7年作と断定するっただしこれを芭蕉の園係した1春先備の歌 仙としては考へない.. 元疎4年詮昧それを肯定するにも否定するにも決定的な材料に乏しいo連衆の一人支 考も前年から芭熱こ師事してゐたし・路通もその著「勧進帳」祈肝テした元線4年5月 頃に昧京都にゐた`1'と言ふし,共に大津の丹野の家に集り属たのである.他の連衆に就 いて杜資料に乏しいo. 然しこの発句は「笈耶己」湖南の部に,. 「本間民主馬が亭にまねかれしに太夫が家名. 凌辞して吟章二句」と前書して牧められてゐるが,この旬の前に,. 「去年の夏,叉此ほと. 如こ遊吟して・ ・#刀亭にあそぷとて」と前書のある「さざ波や風の薫の相拍子」の旬か ら次々と並ぷ発句附旬昧何れもその「去年の夏」 (支考が遊歴した前年)即ち元禄7年 夏の作品ばかりであるo. 「笈の耶己」の記載の仕方軌幾らかの支考の考へ達ひからの 誤りがあるけれども年次について昧系統立った扱ひをしてゐる.とすれば,この発句も 元疎7年作と考へてよい様であるo叉路通の「巨摘易行状記」に,元線7年の所に, 「丹野が好めるにまかせて・骸骨の鎗讃に骨相観の心を前に書て,稲妻や責の研かすす. きの穂」とあるoこれ杜秋の事で杜あるが,ごの年の湖南の動静に丹野と交渉の有った 事が伺妊れるのである. 発句が元線7年作であわば・連句紘当然7年であるペきであるが,然し元疎7年詮に. 1)元敢7年2月23日附曲翠宛芭蕉書簡に,. 「何とぞ年内到着,茸亭開青眼頓をほどき申度重森. 候.とある.芭蕉の方が蒋滴に赴いて曲筆に会iSlのを療Lみにしてゐるのであるo.

(11) 芭. 蕉. 連,旬. 考. 123. 杜夫きな障害がある.それ紘路通が連衆である事であるo-.路適紘自ら「芭蕉翁行状記」 の申に「やつがれ紘此三とせ折々のたがひめに,爵心障9侍りて,書信も遠ざか少侍虫 ぬo. (中略)然るを定光坊賓永阿閣称むがか身成・とて,翁の方なだめまいらせ,此度万. 罪ゆるし給へども,外の障りなど侍れば,囲む曹うときさまにて,それより昧やつがれ 加賀の固へ旅立ける」と述べてゐる.即ち賓永阿閣梨のとりなしで芭蕉の勘気総評さ 艶たと妊言ぺ,到底-盛して歌仙な巻く等といふ情勢では無かったのであるo 元線7年詮昧かうして重く否定される様に見える.然し更にこの歌仙を眺める時,不 審なの汝,常に,. 「路通」である.路通がこの歌仙に加昧ってゐるの杜初折の裏8旬日. からである。そしてそこから急に作者名が不明で,所々に丹野,英文(大和の人)の名 が思ひ出した様に見えるのみとなる.しかもこの歌仙の初出昧路適.の「桃歌集」であ. ゎ,この2人の作者も「桃醜集」の主要作者であるo. どうしてもこの歌仙t土柱路通のさ. かしらが加昧ってゐると見斡ばならない.恐らく芭蕉の関係したの娃初折の裏7旬日皇. でで,裏8旬日から昧,後で「桃歌集」出刊に際して路通が附けカnへたもので挙らうo かうして後年が芭蕉の息のかからぬものとすると,芭蕉歌仙の数から抜かねばならな いo. そしてその前年娃,元疎7年夏,本間丹野亭興行とするのである.. (ll)首景や杉の木の問にいろみ草. 芭蕉,浪化,去来,第三患でo. 元繰7年「幽蘭集」 「一葉菓」 「一代集」,年次不明にて不審「名著全集」. この発句自身が既に疑を持たれ,頴原退蔵博士の「芭蕉俳句集」で昧考証の部に入れ られてある.脇,第三を挙抄れば, 等を故に喚ふ山公家. 浪化 去来. 隣から耽ひと雛の餅くれて. であるが,その繁くべき拙劣さ,到底元疎7年の風調で昧ない.しかも不審紘発句が 秋季であるのに,協柱「笑ふ山」で春,贋三も春である。所詮芭蕉関係のもので昧あり 待ない。. (12)いさみ立麿引すゆる嵐かな. 里圃,姑圃,芭蕉,馬寛の歌仙. 「統猿蓑」朗牧,元禄6年作とするこの1巷を筆者拭芭蕉の歌仙と紘認めない。発句 が, 「続猿蓑」よカ後の刊(寛政2年)で昧あるが「続深川」の「いさみたつ麿引居る. あられ哉」の歌仙の芭蕉の発句と一字達ひである事だけで疑ふ甲で杜恵い。叉芭蕉が第 三を附けてゐるのに過ぎなV、といふだけで香定するのでもない,例へ芭蕉の旬数が歩く ても,芭蕉がそれに目を通し;或ひ昧手を入れ. 或ひ壮よしと認め、たものならば,芭. 蕉園備の連句として尊びもするo例-ば「衆依」の「雪の松おれ口みれば簡塞し」の馨. の如きである.'土由1巷の附運びの拙さ軌芭蕉の眼の遮ったものと旺到底受け取れな い。芭蕉の務三自身. 一冬のまさきの雇ながら飛 大横のそだユぬ土にふしくれて.

(12) 124. 普. 田. 義. 雄. と余■El上等で紘ない.巽拭これも芭蕉の旬でないO)かも知わぬo-発句と嘗ひ','歌仙全体 に何処か変な所がある≠。そYL.でr一案集」/と共に1.懇として杜認めない.若し取れば 第三までか,連衆一巡の第四までであらう.. (13)水音や小鮎のいさむ二俣渦. 潮風,象姑蓬,利牛,桃隣,曾良の牛歌仙 「名. この年歌仙昧「芭蕉纂俳藷集」で杜元線6年,それを「一葉集」以来「一代集」 著全集」共に元疎5年としたの杜理由昧示されないが,恐らく, 柳もすさる岸の刈株. 翁・. 見しりたる乙切革の前出て. 姑蓬 等の発句,脇,第三の描く世界から,芭蕉庵再興の歓びを感じ取った為であらうoこわ も捨て難い見方であるがそれにして妊芭蕉庵再興杜5月の牛(芭蕉を移す辞)の事で. あるのに,この歌仙昧晩春の様である.筆者昧寧ろ時代を引き下伊て元禄7年作に傾 ■. いてゐる。. 元線6年の秋(恐らく妊9月)成った其角の「萩の窟」にをま,桃隣,利牛が重要な作者 となってゐる.. 「栄位」の撰者利牛の芭蕉への親灸もこの頃からとしたいのである.更. に発句の作者潮風の名も,共角の元練7年申成歳旦帳に見え初めて,元練7年の「旬兄 弟」に昧数多く入集するに至ってゐ5oこれ等から元繰7年晩春の作とするのであるo 芭蕉の連句をこの様なこと細かい手続で検討しで行く事,特にその制作年代を吟味し て行く事などに,どの様な意義があるのであらうか。然し例-ば,従来往々にして元線 6年作として扱はれて来た次の諸歌仙 五人扶持とbてしだる・・柳かな. 傘におし分け見たる柳かな. 野披,芭蕉の両吟(統寒菊) 芭蕉,満子,涼菓,野坂,利牛,完波,曾良の歌仙. (部懐紙) 墨豆の花さきにけり穿の縁. 孤屋,芭蕉,岱水,利牛. の五吟(米俵). が今ここに吟味した「水雷や小鮎のいさtI二俣瀬」の年歌仙ともどち,元禄7年春に移 される事に依って,(1)元藤6年春の芭蕉の創作所動が驚く程垂漠たるものになる事に克 づくであらう。 試みにその期の連句作品を挙抄れば 歌仙.. 野昧雪に河豚の非をしる若菜哉. 涼葉,千川,芭蕉,宗渡,此筋,濁子,. 左柳。. 第三まで.梅が香や通り過ぎれば弓の普. 毛軌許六,寡.. 同.. 春うれし野は煤鳥に懐しき. 其角,東名,象.. 発句協。. 泰風や穿の中行水の青. 木導,芭蕉。. のみである.そしてそれに続くもの旺,先に考察した「篠の露」. 「ほととぎす」の歌仙. となるのである。 1)これは芭蕉の元締7年2月25日附許六宛書簡に俵y,野妓の芭蕉に親菟したのが,元緑6 年秋EJ後と推定されることによる..

(13) 芭. 句. 連. 蕉. 125. 考. この種な杢自の理由ほ何セ.あらうか.ここに忽ち心に「ああ」と浮ぶの乱その春の 環に起った不幸,満子桃印の死と,轟貞尼の病である.芭蕉の情の濃やかさ昧この心痛 の時期に,到底数多の人と会して,俳譜を奄く心のゆと少カモある筈がなかったのであるo その苦悶の様が,芭蕉の書簡に如実に示されてゐるのを思ひ合せねばならないoそして この悲しみ昧やがて秋の閉園にも影響するのであらうし,をれを解除して,新しい世異 に足を踏み入れて,元線6年秋から7年春の旺盛な創作力の快復になって行くのであ る。多くの作品が6年春から7年春に移す事の意義も,そこにしつかりと見定められよ ぅ。その様な芭蕉芸術の秘奥への肉迫の礎石がこの連句考の役割なのであるo 勿論これで芭蕉遵句の不審のものが毒された訳で紘ない.まだ問題ある懇々で・筆者. の力で昧解決し待ないものも郵,。大方の御教示によって次第にその数が減る事な腐ふ のみである。. (昭和27年9月30日) 裾詮。. 考察(10)の「ひらひらと揚る届や雲の峯」の旬と・ 同時の作である「蓮のかを目にかよ拭すや面の鼻」の 旬との,芭蕉贋蹟を見る械を得た。「笈日記」にもこの 二旬昧並んでゐる.練れた非常に美しい文字であ9. I. 短冊の保存もよく,妄の筆致から推してもや昧りこの 作品昧元線7年作凝ひなしと考へられるo Summary is. This. a. of his. essential. when they have time and. some. correcting they were. were. Bashb,s. he began. the. intercourse. to. use. study. and. other. or. And. not・. tO. aS u. the penname. Kyokust4i. time. the. whether. oplnlOnS. between. Roisu,. to. as. twelve. conBrming. works. new. some. when. namely. and. l have. this. errors.. old. written,. really. presented. disciples,. In. literature.. is the. which. renku. "Jisetsusazo". investigated. renku,. of Bash6's. study. Bash∂ and. the. ToseiH his. and so. l. on・.

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