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真宗研究17号全

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長宗連合事曾研究紀要

一 一 第 十 七 輯 一 一

昭 和 47年 12月

(2)
(3)

自 殺 詩聖 人 実 績 三E 太 ナ 聖 徳 三容 讃 第百司fi式利正{; J I変

(4)

︵ 口 絵 解 説 ︶ 親驚聖人真蹟 皇 太 子 聖 徳 奉 讃 岸 部 武 利 氏 蔵 生涯を通じて聖徳太子を驚く尊崇された親驚聖人には、太子に関する和讃にも一一一種の作 がある。十一百・七十五首・一百十四首の三和讃である。この中、七十五首太子和讃は建 長七年十一月の作で、聖人八十三歳である。太子の建立と伝える六角堂や四天王寺の縁起 その他を讃一詠されたものである。その真蹟は現在断簡として諸所に数葉存しているが、そ の中京都山科光照寺所蔵の一葉は表紙で、中央に﹁皇太子聖徳奉讃﹂左下に﹁釈善信﹂と ある、か、この善は覚を改鼠したもので、もと聖人が門弟覚信に授与されたのであろう。こ こに影印した一首は、その第六十二首で、第六十一首と第七十二首の第三句と第四句︵二 葉︶とともに表装してあり、終の一紙には教如上人の花押を加えている。本文には振仮 名・左訓及び朱点等があり、聖人の筆績の風格をよく示すものがある。縦二十七糎、横十 九 ・ 五 糎 。 ︵宮崎円遵︶

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道教︵道智大経︶

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||特に呉訳四願文との関係

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薩摩藩の真宗禁制と本願寺の動向

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真宗聖教に就いて

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真宗声明の比較研究について:・

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尾 京 雄 ︵ 一 ︶ 野 元貞︵一六︶ 井性寛︵二十︵︶ 部 武 利 ︵ 四 ニ ︶ 桑 斉 ︵ 五 九 ︶ 内 淳 有 ︵ 七 六 ︶

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親驚聖人の神祇観

別時意趣会通について

−親驚教学との関連||

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季 木 義

照 内 紹 四 麿 ︵ 八 八 ︶ 浬 ︵ 一 Q 一 ︶ 彦 ︵ 一 一 一 ︶ 忍 ︵ 三 八 ︶ 晃 ︵ 一 四 一 ニ ︶ 学 会 葉

z王 立且

(9)

について

||特に呉訳四願文との関係||

西

︵ 大 谷 派 ︶ 四念住説に関して 初期仏教を研究するに当って、主として四諦、 一 一 一 因 縁 、 八正道を中心として研究せられてきているようで、四念 住説を注意することが少ないようである。このことは、 仏教の根本基調としてそうであるべきであろう。龍樹は四念 一実一相であるが、衆生のためなのである。 ① 倒 故 、 著 ニ 此 身 受 心 法 一 作 一 一 邪 行 づ 為 一 一 是 人 一 故 説 一 一 四 念 住 こ と い っ て い る 。 四諦で説かないのは、仏教は本来、 ﹁ 有 衆 生 多 念 乱 心 願 住 説 に つ い て 、 な お 、 古来より浄土教の経典の成立は浬繋 経と華厳経とによっているといわれている。現に、釈尊が入滅前における教説が主として四念住説であった。大無量 寿経の対告衆である阿難は特にこの説について傾倒していたようである。釈尊の教説は七科三七道品といわれる。即 ち、四念住・四正勤・四如意足・五根・五力・七菩提分・八聖道である。これ等の中、 ② 摂めることは、龍樹も﹁四念処はよく具足して道をうる。﹂といっている。 四 念 住 説 、 が 釈 尊 の 一 代 の 教 を 後 述 す る よ う に 、 余 が 一 応 か り そ め に 、 部派仏教における一部派の道教であろうと想定した雑阿含経、道口問、第三二経には﹁一切法者四念処﹂とあることに 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て

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道 教 ︵ 道 智 大 経 ﹀ に つ い て よって、その教説の重要性を知ることができる。親訳大無量寿経には﹁仏法において該羅して外無し﹂ @ 二七四上︶とあり、同じ思想系統に属するものであることを知る。 ︵ 大 正 ・ 一 ニ ・ 道教︵道智大経︶ について想定 魂訳大無量寿経における道教と初期大無量寿経の道智大経とは同一経典を指すものであり、それについて異論はな し、

金 子 大 栄 先 生 は 、 存 覚 の ﹁ 六 要 紗 ﹂ に ﹁ 一 言 − 一 道 教 一 者 光 指 二 代 一 益 互 乙 立 乗 乙 と 釈 せ ら れ た る が た め に 、 古 来 、 代 仏教のこととして解するものが砂くはなかった。併しいま、大無量寿経の大意を説く言葉として、道教をあらゆる仏 @ 教と解することは不適当でないであろうか﹂と疑問を提起せられておられる。 しかし、大無量寿経の前成立の経典と しての論議に触れておられない。このことは西派においても同じく伝統講義せられておられるようであ旬。この疑問 は、その浄土教の思想史的研究するものとしては、誰しも一応心に関わるものである。 ⑤ 亦、これに関心を示しておられる。 又 、 最 近 で は 、 藤田博士も そこで、浄土教も仏教であるか、ぎり、忽然として発展したものと思われない。釈尊は対機説法者として、 つ ね に 、 医王に警えられるのであるから、初期仏教の如何なる教説に基礎を持つものであるかを考究したい。 魂 訳 に は 、 ハ 豆 日 現 道 教 ︵ 大 正 ・ 一 二 ・ 二 六 六 上

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光 闇 道 教 ︵ 二 六 六 下 ︶ 、 日 広 宣 道 教 ︵ 二 七 三 下 ︶ 、 帥 宣 布 道 教 ︵ 二 七 五 中﹀等と出ていて、広宣とか宣布とか、その語感からして、特別な広い経の集録があったのではないであろうかと憶 測 せ ら れ る の で あ る 。 い ま 、 あ げ た 、 説 訳 、 日 開 の 条 下 に は

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仏説阿難、無量寿仏、為コ諸声聞菩薩大衆一頒宣法時、 都 集 ニ 七 宝 講 堂 ﹁ 広 出 宜 道 教 一 演 暢 妙 法 、 莫 レ 不 ニ 歓 喜 ﹁ 心 解 得 道 。 ︵ 呉 訳 、 仏 告 ニ 阿 難 一 阿 弥 陀 仏 、 為 一 一 諸 菩 薩 阿 羅 漢 一 説 レ 経 、 都 悉 大 会 講 堂 上 、 諸 菩 薩 羅 漢 及 諸 天 人 無 央 数 、 都 不 可 計 、 皆 飛 一 一 到 阿 弥 陀 仏 所 一 為 レ 仏 作 礼 、 却 坐 総 経 、 其 仏 広 説 、 道 智 大 経 、 皆 悉 関 知 、 莫 レ 不 一 一 歓 喜 ﹁ 踊 躍 心 開 解 者 、 大 正 ・ 一 一 了 三

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七 上 、 漢 訳 二 八 七 中 、 皆 悉 関 知 の 次 に 経 道 の 語 を 加 え る ︶ と 。 又、魂訳伺の条下には 今 我 於 一 一 此 世 一 作 仏 、 演 説 経 法 、 宣 布 道 教 、 断 ニ 諸 疑 網 一 抜 一 一 愛 欲 之 本 一 杜 一 一 衆 悪 之 源 一 遊 4 三 界 一 無 レ 所 一 一 拘 閣 一 典 捜 智 慧 、 衆 道 要 、 執 コ 持 綱 維 一 昭 然 分 明 、 開 三 一 小 五 趣 一 度 一 一 未 度 者 ﹁ 決 正 生 死 泥 垣 之 道 ︵ 大 正 ・ 二 一 ・ 二 七 五 下 ︶ と 。 そ の 他 の 個 所 に 、 同総領道智、典主教授、世間八方上下、所レ過斗度諸天人民、 踊 飛 嬬 道 之 類 ﹁ 皆 令 レ 得 一 一 仏 泥 垣 之 道 一 ︵ 呉 訳 、 大 正

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九 上 、 漢 訳 二 九 一 上 全 同 ︶ 付典主智慧、総領教授︵呉訳、三

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九 上 、 典 主 智 慧 都 総 教 授 、 漢 訳 、 二 九 一 上 ︶ 等 と 説 か れ て 、 典 揮 ︵ 経 典 を ま と め と る ︶ と か 、 総領教授︵すべてをとりしまって教授する︶という説示が、特別な収録 の経典の意義を総括して教示しているように思わしめる。 ﹂ と に 、 道智大経の経名にしても、 普 通 で は 、 大道智経 ︵ 呂 田 ゲ 山 吉 田

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と 山 間 口 同 a 凹

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白︶といわるべきであろう。それで、ここでは、大経とは呂田ゲ智正宮口

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で は な く し て 、 むしろ、衆多の経の集りを想像せしめられるのである。 これ等のことより、阿含、尼何耶の編輯に注意したことである。 雑阿含経、巻二四、第五請は、 ﹁道品﹂として、第一、第六

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五経より第六三九経︵大正・二・一七

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下 | 一 七 七 中 ︶ の三四経を数える。しかし、各経をよく数えると四

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経 が 収 め ら れ 、 ﹁ 赤 沼 目 録 ﹂ で は 、 正しく四

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経とせられてい 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て

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20. 6. Dhanuggaho. 参。 10. (一一 171 下〉一切四念処経,皆以二此総句− 11. (No. 613. 171 下〉三不菩根(貧,書,療〉善緊(四念、処) 12. (一一 172 上〉三悪行(身,口,意よ S. 47. 47. Ducaritarμ ;三想(欲,毒,害);三覚(欲,毒,害);三界 (欲界,主主界,害界), S. 47. 49. V edana. (説訳,大正,一二,二六九下,三覚,三想を出す,参〉

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13. 〔 No. 614. 172 上〕如来大丈夫義, S. 47. 11. Mahapurisa. 14. (No.615. 172 上〉阿難「比丘尼修二四念処一白知二前後昇降一 J, S. 47. 10. BhikkhunI-vasako. 15. (No. 616. 172 上〉厨士, S. 47. 8. Sudo 〔当「取ニ白心相一英上令ニ外散一 四念住説について〉 16. (No. 617. 172 下一 173 上)烏, S. 47. 6. Saku 早 agghI, Jataka. 168 参。 17. 〔 No. 618. 173 上中〕四念処得二四果,四種福利一 18. (No. 619. 173 中)私伽陀莱落(自護護他,護他白護〕, S. 47. 19. Sedaka 〔 Ekantaka ?) 19. (No. 620. 173 中下〉猿張, S. 47. 7. Makkata. 20. 〔 No. 621. 173 下)年少比丘, S. 47. 4. Sallarμ. 21. (No. 622. 174 上〉竜羅女, S. 47.1. AmbapalI. 22. (No. 623. 174 中〕世間, S. 47. 20. Janapada (Ekantaka ?) 23. (No. 624. 174 下− 175 上〉欝低迦, S. 47. 16. U ttiya. 24. (No.625. 175 上〉婆騒迦, S. 47. 15. Bahiya; S. 35. 89. Bahiyo 参。 25. (No. 626. 175 上〉比丘超越生死。 26. (No. 627. 175 上中〉阿那律陀, S. 47. 26. padesarμ 参。 27. (No. 628. 175 中)優陀夷,阿難問訊, S. 47. 21. silarμ. 28. (No. 629. 175 中〉阿難破陀羅問訊不退転, S. 47. 23. parihanarμ 参; S. 45. 18 20. Kukkutarama (1-3) 参。 29. (No. 630. 175 下〉令三不浄衆生而得二清浄ー耳目,向上。 潮時延 0 唄

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j 県総 Ct 寝耳 !Il-K 組) !2 0 ムド 30. (No. 631. 175 下)能令 F 未 ν 度二彼岸一得

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度二彼岸「向上。 31. (No. 632. 175 下〉得ニ阿羅漢ー。 32. (No. 633. 175 下〉一切法者四念処,(魂訳,於仏教法該羅無外大正,一三,二七四上〉 33. (No. 634. 176 上)賢聖出離, S. 47. 17. Ariya (Ariya niyanil 王 a)

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般若経では般若を仏母とするが既に四念 住説において聖人即ち仏陀出離を説いている。〕 34.

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一一− 176 上)甘露法作証, S. 47. 32-34. viraga, viroddho, Bhavana. 35. (No. 635. 176 上〉巳浄衆生,令レ士骨三光沢一 36.

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一一 176 上)如ニ浄衆生

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口是,未度彼岸令度,得二阿羅漢ー得ニ貯支仏一得二阿蒋多羅三貌三菩提− 37. (No. 636. 176 上)比丘, S. 47. 3. Bhikkhu. 38. (No. 637. 176 中〉波羅提木叉, S. 47. 46. patimokkha. 39. 〔 No. 638. 176 中下)純陀沙弥供二養舎利弗ー, S. 47. 13. Cm;iqa. 生経, 2. 舎利弗(大正,三,七九),般泥垣 経,参。 40. (No. 639. 177 上中)布薩時……四念住,是名下白洲以白依,法洲以法依,不二異洲一不中異依 1:, S. 47. 14. Celarμ. 2

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(15)

その外に、第百別訳雑阿含経の中にも比定せられる四念処経があり、 ③ 院 に は 、 ﹁ 出 − 一 道 教 一 為 レ 哀 故 ﹂ ︵ 大 正 ・ 二 ・ 四 九 四 上 中 ︶ と あ り 、 え P り に 、 また、第百一経、雑阿合、第四党天 それ等を広く対照すべきものと考える。 こ こ に 、 正 し く ﹁道教﹂とある。そこで、それは四念住説に依るのであるから、道念大経というべきであろうが、道智大経と名 身・受・心・法の四法について観想を循らして、正念・正智︵中阿、第四四念経、大正・ 四 念 住 説 は づ け ら れ る 。 一 ・ 四 八 五 下 ︶ 或 は 正 智 ・ 正 念 ︵ 雑 阿 、 第 六 二 二 経 、 大 正 ・ 二 ・ 一 七 四 下 ︶ す る こ と を 説 き 、 殆んど両語を同じ位置におい て用いられている。仏道の智慧は、 まづ、三宝を憶念することをもって初まるのである。龍樹は念の体は智恵である と示している。道智大経とは正しく道教と同意である。 呉 訳 の 第 一 六 願 と 第 一 八 願 の 両 願 と 道 智 大 経 さ て 、 呉 訳 二 四 願 の う ち 、 第二ハ願、説教如仏、 第 一 八 願 、 ③ 説教殊勝として従来、願名を称呼している。二願の 中、第一六願は漢訳第二四願であるが、呉訳の第一八願は漢訳の二四願の中にないのである。このことは、初期無量 寿経は同じく二四願経といいながら、そこに阿弥陀仏に対する取り扱いに多少の相違があるのでないであろうか。 まづ、第一六願を示そう。 第一六願、使某作仏時、令我国中、諸菩薩阿羅漢、語者如三百鐘声、 説 経 行 道 皆 如 レ 仏 得 是 願 乃 作 仏 、 不得是願終 不 作 仏 ︵ 大 正 ・ 一 一 了 三

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二 上 ︶ ︵ 漠 訳 、 第 二 四 願 、 我 作 仏 時 、 我 国 諸 菩 薩 、 説 経 行 道 、 不 如 仏 者 我 不 作 仏 ︶ と あ る 。 従来、この呉訳、第一六願をもって、現訳の第二五願、 ﹁ 説 我 得 仏 、 国 中 菩 薩 、 不 レ 能 レ 演 − 一 説 一 切 智 一 不 得 正 覚 ﹂ を あ て 、 ﹁説一切智﹂の願としている。会通すれば、 そ う い う こ と に も な る で あ ろ う 、 が 、 ﹂の説経行道とは﹁経の行道 を説くこと﹂と読むべきであろう。これまで、 行道の語義について審にしなかったことによるのであるまいか。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 七

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道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 入 この﹁行道﹂の語こそは、第一

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一雑阿合、第四の﹁行道一一挙経﹂の行道にあててよいのであるまいか。 呉訳の経題は、仏説阿弥陀三耶三仏、薩楼仏植過度人道経といわれる。 ⑪ るのであるが、よく考えると大無量寿経の初期成立の経名として極めて素純で、 ﹂ れ は 一般に奇異の経題の如く感ぜられ あ る べ き 名 と 思 う 。 それは、阿弥陀正等覚者︵﹀

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︶と一切諸仏︵回日 4 白 ゲ ロ 円

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︶とが相いともに護念して、 人道を過度する義であろう。そのことは、 さ ら に 後 述 す る が 、 い ま 、 呉訳第二ハ願、浄土の菩薩が、 ﹁ 仏 の 如 し ﹂ と す る こ と は 、 呉 訳 ︵ 大 正 ・ 一 一 了 三

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九 上 、 漢 訳 、 二 九 一 上 ︶ に 、 仏 一 一 一 回 、 阿 弥 陀 仏 、 至 其 然 後 般 泥 垣 者 、 其 蓋 楼 豆 ︵ 観 世 音 ︶ 菩 薩 、 便 当 作 仏 、 総 領 道 智 、 典 主 教 授 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 当 復 如 − 一 大 師 阿 弥 陀 仏 ﹁ : : : 其 次 摩 詞 那 鉢 ︵ 大 勢 至 ︶ 菩 薩 当 復 作 レ 仏 : : : 復 如 一 一 大 師 阿 弥 陀 仏 一 : : : とあって、正しく、その本願文と一致するのである。 そ こ で 、 行 道 と は 、

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色 白 円 C L E 宮 EB 聖 無 量 光 荘 厳 経 、 河 口 慧 海 、 蔵 本 和 訳 参 照 ︶ と 還 究 せ ら れ て よ い と 思 わ れる。そのぬ由昨日は、説訳では三誓偏において﹁修究行﹂と訳している。 ⑪ 一句である。呉訳においては、南無阿弥陀三耶三仏檀と三たび、 それは、南無阿弥陀仏と称うることの一翠 ︵ 契 ︶ 即 ち ︵ 大 正 ・ 二 一 ・ 一 一 一 一 六 中 下 ﹀ ︵ 漢 訳 、 南 加 熱 無 量 消 浄 平 等 覚 、 二 九 八 下 に 三 回 ︶ 称 え ら れ て い る 。 それで、第一六願の願名は﹁説経如仏﹂と名づくよりも﹁行道如仏﹂とすることが、 その願事を直示せられるとと もに、道教との関係を知ることができる。 それについて、なお二=口したいのは、阿難は釈尊の常随比丘であって、多聞第一であることはいうまでもないが、 ⑬ お こ な い 正 念 第 て 正 行 第 一 、 総 持 第 一 と い わ れ る 。 そ の 行 ︵ 住 、 坐 、 そ の 正 行 と は ぬ 同 H F は 、 南 無 阿 弥 陀 仏 で あ ろ う し 、 臥︶はつねに念仏し、その名号を総持︵

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田宮丘三件むしていたことを示すものでないであろうか。

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次に、呉訳第一八願は﹁説教殊勝﹂と名づけられてきた。即ち、 第一八願、使某作仏時、令我智慧説経行道十一一倍於諸仏﹁得是願乃作仏、 不 得 是 願 、 終 不 作 仏 、 とあり、ここに﹁経の行道を説くこと諸仏の十倍ならしめん。﹂と。 ﹂の十倍は満数をいうものであろうから、 そ の 志願の究克なることを知る。その願名も﹁説経殊勝﹂というよりも﹁行道殊勝﹂とその願名を明確にすべきものと考 え る 。 阿弥陀仏の光明が﹁最尊第一無比諸仏光明皆所不及也﹂︵呉訳、大正・一一了コ

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こ 中 、 決 訳 、 二 八 二 中 ︶ と 説 か れ 、 さ らに、その経の行道について﹁其有人民、善男子善女人、間一一阿弥陀仏聾一称誉光明、朝暮常称誉其光好、至心不断絶、 在 心 所 願 、 往 生 阿 弥 陀 仏 国 ﹂ ︵ 呉 訳 、 大 正 ・ 一 二 ・ 一 二

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三上、漢訳、二八二下﹀とあって、呉訳第一八願文と相応している。 ただ、漢訳において、願文として特記しないことに注意したい。 四 呉訳の経名と第四願︵漢訳、第一七願︶と道品第一八経について 呉訳、大阿弥陀経の経題は、仏説阿弥陀三耶三仏、薩楼仏檀過度人道経であるが、 その経題は一経の意義を象徴す る も の で あ る 。 先 に 、 阿 弥 陀 仏 と 諸 仏 と が 、 衆 生 を 護 念 し あ っ て 、 救済することを表わすものであろうことを述べ た。このことは、その本願文によって証明せられるようである。 呉 訳 、 第 四 願 文 、 使某作仏時、令我名字、皆聞八方上下無央数仏国、皆令諸仏及於比丘僧大坐中、 説 我 功 徳 国 土 之 善 、 諸 天 人 民 及 蝿 飛 踊 動 之 類 、 間 一 一 我 名 字 ﹁ 莫 レ 不 一 込 山 山 心 一 欲 喜 踊 躍 者 、 皆 令 来 生 我 国 、 得 是 願 乃 作 仏 、 不 得 是 願 終 不 作 仏 ︵ 大 正 ・ 一 一 了 三

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一 中 、 漢 訳 第 一 七 願 文 、 我 作 仏 時 、 令 我 名 聞 八 方 上 下 無 数 仏 国 、 諸 仏 各 於 弟 子 中 、 歎 我 功 徳 国 土 之 善 。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 九

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道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て

諾 天 人 民 嬬 動 之 類 、 関 我 名 字 、 皆 悉 踊 躍 来 生 我 国 土 、 不 繭 者 我 不 作 仏 、 二 八 一 中 下 ︶ これ等の初期無量寿経の願文は、前半が親訳の第一七諸仏称揚の願、後半が第一八の聞名歓喜往生の願に相応され ており、これに対して疑義をさしはさむものはないであろう。 しかし、呉訳では第四願、漢訳では第一七願のうちに相い摂められていることに注意したいのである。説訳では、 阿弥陀仏の四八願の中において、それ等は一一の願として独立すべき最も重要なものであるとして、別願として分立 したものであろう。しかも、それ等は前後に並立していることである。 ⑬ さて、これについて、関係深いと思われる道品、第一八﹁自護護他、護他白護﹂経の一経を左に挙げよう。 如 是 我 聞 、 一 時 仏 、 在 一 一 拘 薩 羅 人 間 一 遊 行 、 於 私 伽 陀 緊 落 北 身 恕 林 中 、 爾 時 世 尊 、 告 一 一 諸 比 丘 一 過 去 世 時 、 有 一 一 縁 瞳 伎 師 一 肩 上 竪 レ 瞳 、 語 ニ 弟 子 二 = 口 、 汝 等 於 一 一 瞳 上 一 下 向 、 護 レ 我 、 我 亦 護 レ 汝 、 迭相護持、遊行嬉戯、多ニ得財利吋 時 、 伎 弟 子 語 コ 伎 師 一 一 言 、 不 レ 如 一 一 所 言 ﹁ 但 当 ニ 各 々 自 愛 護 一 遊 行 嬉 戯 、 多 得 一 一 財 利 戸 身 得 − 一 無 為 安 穏 一 市 下 、 伎 師 答 吾 一 口 、 如 一 訟 所 − 一 一 口 ﹁ 各 自 愛 護 、 然 其 此 義 亦 如 一 一 我 説 ﹁ 己 自 護 時 、 即 是 護 他 、 他 自 護 時 亦 是 護 レ 己 、 心 自 親 近 、 修 習 、 随 護 作 証 、 是 名 目 一 自 護 護 レ 他 ﹁ 云 何 護 レ 他 自 護 、 不 レ 恐 一 一 怖 他 ﹁ 不 レ 違 レ 他 、 不 レ 害 レ 他 慈 心 京 レ 彼 、 是 名 一 一 護 他 自 護 ﹁ 是 故 比 丘 、 当 ニ 如 是 学 一 自 護 者 修 一 面 念 処 一 護 レ 他 者 亦 修 一 面 念 処 ﹁ 仏 説 ニ 此 経 一 己 、 諸 比 丘 、 聞 一 一 仏 所 説 一 歓 喜 奉 行 。 さ て 、 上 述 の 経 典 は 根 本 説 一 切 有 部 見 奈 耶 薬 事 、 七 ︵ 大 正 ・ 二 四 ・ 一 一 一 一 一 中 ︶ に も 出 て い る 。 二人のアクロバットが 人 の 肩 の 上 に 竿 を 立 て 、 その竿頭に一人が上って曲芸して利益を現前せしめんとする師と弟子との問答である。釈

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尊、その義利をよみしたまう誓説である。余はこれを﹁自護護他、 他護自護﹂経と名づけることとする。 い ま 、 え ﹂ 戸 り に 、 南 伝 を 和 訳 し よ う 。 付 自 ら を 護 ら ば 他 を 護 る か ︵ 巳 仲 間

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︶ 、 策 励 ︵

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白 岡 国 自 由 ︶ す る こ と で あ る 。

他を護らば自己を護る︵宮

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− 岳 自 己 ︶ と は 、 忍辱︵

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、 無害︵

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日 同 沼 田 削 ﹀ 慈 悲 ︵ 自 白 門 仲 間 ︶ 、 哀 感 ︵ 白 ロ ロ 円

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回 同 釦 ︶ す る こ と で あ る 。 こ こ で 、 さらに、その内容が明細になってきたと考えられる。 以上、長々と列挙したことは、これ等をもって﹁行道一契﹂経と関聯して考察したいからである。 四 念 処 経 に つ い て は 、 つねに、繋念と在前ということがいわれる。繋念とは、身・受・心・法の四法についていか に 思 念 す る か に あ る 。 一 般 に 、 小 乗 浬 操 経 に お い て は 、 無常、苦、無我、非浄と念じ、大乗浬梁経においては常 楽・我・浄と別相によって観ずる。 し か し 、 衆生の対機と動機とによって種々万態である。 そ の 総 相 と し て は 、 道 口 問 、 第 九 九 雑 阿 含 、 第 一 一 八 九 究 天 経 ︵ 大 正 ・ 二 ・ 三 二 二 上 ︶ で は 、 真 如 法 を も っ て し 、 第 一

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一 雑 阿 合 、 第 四 経 ︵ 大 正 − 二 ・ 四 九 四 上 中 ︶ で は 、 一 行 ︵ 南 無 阿 弥 陀 仏 ︶ と し て 称 念 す る が 如 く で あ る 。 在前とは、﹁若行︵ぬ丘町︶、若立、若坐、若臥、若睡、若覚、若去︵宮門

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﹀若前後視 h v ハ ス ル a E 宅 ⑬ 瞬、若屈伸怖仰、若著衣、若持鉢、若食飲、便利、若語、若黙常一ニ其心ことあって時処諸縁をえらばず対象を ﹁ 行 道 一 撃 ﹂ 即 ち 、 ﹁ 正 知 し て 住 す る ﹂ ︵ 凹

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む こ と で あ る 。 さ ら に 、 われわれの念仏へと指向する心ばえを示すものとして、道品、第三九経︵大正・二・一七六中

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一 七 七 上 ︶ 並 に 第 四

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経との両経に浬繋経の文が並挙されているのに注意したい。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て

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道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 我 今 不 久 当 一 一 過 去 寸 是 故 汝 等 当 知 、 白 洲 以 白 依 、 法 洲 以 法 依 、 不 異 洲 不 異 依 、 謂内身身観念住、精進、方便、正智、 正念、調伏世間貧憂、如是外身、内外身、受・心・法、法観念住 とあって、共に釈尊の入誠に先立っての遺誠せられている。 ここの文における﹁自らを洲︵灯明︶とし、自らを所依とし、 他 を 所 依 と せ ず 、 法 を 洲 と し 、 法 を 所 依 と し 、 他 を所依とせずして住すベし。﹂︵三宮含℃白

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凶 田 口 氏 J D m 訪日・白信仰︶ に つ い て 、 ﹁仏陀には法の活動が明に意識されていたが、 仏弟子の中でも法の活動を賜として自己 の信仰を意識していた者もあるであろうが、 眼前に見る智慧と慈悲の権化である仏陀に目を覆われて、仏陀を信の対 象と考えていた者が多かったであろう。仏陀を帰依の対象としている者に対する厳誠である。仏陀の智慧と慈悲を通 し て 、 さらに、法に帰依するところに仏陀の真意があるのである。﹂と。 ﹂の説明は一応、正しいであろう。正直の の と で‘こ き ろ る 、 白 骨 で つ あ て る 余 」。⑮も そ と m t主•>

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7こ し か し 、 さ ら に 、 ﹁ 縁 起 の 法 を 自 覚 さ れ た 白 で あ り 、 法を自覚すること 縁起の法を観念の上では、 想念はできるが法を自覚し体験することので きる白であると誰が確信し得るであろうか。それは、仏陀の外に他の人の教に依ることなく、自己を洲とし、所依と せよとは、専ら、縁起無量法を有量としてしか把握のできない白であることを誠しめておられるのであろう。道品、 第二二、傾国の美技

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︶に、それは経意より一行者︵開

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ととも名づけられるようであるが、 そこには、油の満つる鉢︵

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由 主 守 山 ︶ の 比 聡 語

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日 4 田 口 問 ロ 白 ︶ と 説 か れ て い る。しかれば心念も亦同じであり、その油とは責愛をいうものである。念仏は五乗斉入のものであるが、浄土の経典 は人道を過度することが主題なのである。それ故に、自ら仏陀に帰依し奉る︵∞ロ門

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で あ る。龍樹善薩の本願文とせられる﹁若人念我称名自帰﹂の自帰、 世親菩薩の﹁世尊我一心﹂の我である。唐訳におけ

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党本の無他縁智︵田宮

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円 三 百 三 百

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⑮ 古 田 ・ 官 官 官 ロ ・ 当 ー ナ 門

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− − 由 主 。 ぬ ・ − u乙であることを顕示することを主とするものであると考える。 る ﹁ 得 二 乗 道 一 無 レ 有 ニ 疑 惑 ﹁ 於 ニ 仏 教 法 一 一 小 一 一 白 レ 他 悟 こ ︵ 大 正 ・ 二 ・ 九 九 上 ︶ 、 以上、略説したことであるが、呉訳の第四願文︵漢訳第一七願文︶が前半と後半とが二分せられることは、道品第一 八﹁自護々他、護他自護﹂経に依ることの名残りである証左ではないか。 釈尊は耕田婆羅豆婆遮︵

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︿ 山 首 ︶ 婆 羅 門 を 教 化 し た ま う の で あ る 向 、 そ こ に は 、 ﹁正念は自ら守護し、是 れ則ち善御者﹂とあるように仏教は正念こそ第一である。 さ て 、 い ま 、 行 道 一 契 経 を 念 頭 に お い て 、 ﹁ 自 護 々 他 ﹂ を 理 解 す れ ば 、 まづ三宝に親勤し、念仏の教法によって策 励し、ことに数々修習することによって自己そのものが見開かれて合掌、 帰命となる。そこに、諸仏と衆生とが南無 阿弥陀仏の称名となり、功徳と国土との善の讃歎となる呉訳第四願文の前半として発展したものであろうか。 次 に 、 ﹁ 護 レ 他 護 レ 白 ﹂ と は 、 忍 辱 と 無 害 と 慈 悲 と 哀 感 と に よ る と あ る 。 法蔵菩薩は、二四願を立てて、分檀布施、 一 心 、 智 慧 ︵ 呉 訳 、 大 正 ・ 二 一 ・ 三

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二中︶六波羅蜜の志願常に勇猛とある。魂訳において﹁如 来 以 一 丞 一 蓋 大 悲 一 持 一 一 哀 三 界 ︸ 所 副 以 出 司 興 世 ﹁ 光 一 一 闇 道 教 ﹁ 普 令 三 群 萌 獲 ニ 真 法 利 己 ︵ 欲 下 怒 一 一 群 萌 一 恵 以 工 具 実 之 利 品 流 布 本 ︶ と 不 犯 道 禁 、 忍 辱 、 精 進 、 あるが、群萌の衆生救済こそは、忍辱を第一とするであろうが、 その根源こそは、慈悲と京患でなくてはならない。 大悲とは、道品の

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即 ち 、 大 慈 悲 心 で 、 持 哀 は 白 ロ ロ 内

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が あ て ら れ る 。 そ こ で 、 漢 訳 第 一 七 願 文 の 後 半 は ﹁ 諸 天 人 民 嬬 動 之 類 、 聞 一 一 我 名 字 一 皆 悉 踊 躍 、 来 一 一 生 我 国 一 不 レ 爾 者 、 我不作仏﹂と そ の ま ま 読 み と ら れ る 。 と こ ろ が 、 呉 訳 後 半 は ﹁ 諸 天 人 民 蛸 動 之 類 、 間 一 一 我 名 字 一 莫 レ 不 一 一 慈 心 歓 喜 踊 躍 者 皆 令 一 二 米 コ 生我国ことあり、ここで一見読みとり難い﹁莫レ不−ゑ ω 心こは﹁護他白護﹂において慈悲︵

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のみが総じて取 り出されて、道教の名残りを止めているものであろうか。 道 教 ︵ 道 智 大 経 ﹀ に つ い て

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道 教 ︵ 道 智 大 経 ︶ に つ い て 以上により、呉訳の経題と第四願︵漢訳、第一七願︶、 四 期大無量寿経との関係を究明するものにとって、極めて重要なものであると考えるのである。 それ等と道品第一八﹁自護々他、護他自護﹂経は、 道教と初 五 結 査 一 山 道教︵道智大経︶と初期無量寿経との関係について、 その一部を明にすることができたようである。仏説阿弥陀三 耶三仏薩楼仏壇過度人道経とは、道教の諸経群をこの経題を中心として編輯・創作されたもののように思われる。大 その典拠をできるだけ明にし、 一 語 を 無 量 寿 経 は 、 われわれ浄土教徒の生命である。たとい一つの経句であっても、 も忽にしてはならない。浄土経典の原初形態群は初期仏教にあるであろう。 註 ① 相 官 度 論 、 一 九 巻 ︵ 大 正 ・ 二 五 ・ 一 九 八 上 ︶ 、 正 ・ 二 五 、 四

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三 下 | 五 下 ︶ ③ 判 官 度 論 、 一 九 巻 ︵ 大 正 ・ 二 五 、 一 九 八 上 ︶ ③異部宗輸論、仏教研究、第八巻第一号、

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説 一 切 有 部 の 根 本 教 義 、 一 二 五 頁 、 同 ﹁ 四 念 住 に は 一 切 法 あ り と 説 く べ き な り 。 ﹂

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化 地 部 の 根 本 教 義 、 ご ニ 五 頁 、 同 ﹁ 諸 の 道 支 は 諸 念 住 に よ っ て 説 か れ た り 。 ﹂ ④教行信証講義、昭和三

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年 一 一 月 刊 行 、 金 子 大 栄 選 集 、 第 六 巻 五 三 頁 。 ⑦大無量寿経の教理史的研究、昭和三三年六月刊行、池本 重 匡 著 一 五 四 頁 、 ﹁ 貌 訳 の 道 教 は 大 経 に 説 く 真 実 教 で は な く て 、 第 二 義 的 な も の と し て 理 解 せ ら れ て い る が 、 初 期 大 四八巻︵大 経 の 道 智 大 経 は 第 二 義 的 な も の と 見 る こ と は 無 理 で あ る と 思 わ れ る 。 貌 訳 で も こ の と こ ろ の 道 教 を 真 実 教 で な い と す る と 、 阿 弥 陀 仏 が 浄 土 で 方 便 教 を 説 か れ る こ と と な っ て 不 可 解 の こ と と な る で あ ろ う よ と 。 ⑦原始浄土思想の研究、昭和四五年八月発行、藤田宏達著 二 三 三 頁 | 二 三 四 頁 。 ⑦赤沼目録、雑阿合経︵附録、第二、略称、単雑︶ ︵ 同 ︶

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ロ 仏 仏 ﹁ 同 r o 帆 w o そ れ ぞ れ の 経 の 表 現 の 相 具 に 注 意 す べ き で あ る 。

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③この表現は、貌訳大経の﹁如来以無蓋大悲私立以三界、所 以 出 輿 於 世 光 闇 道 教 : : : ﹂ と 同 趣 意 、 つ づ い て 、 ﹁ 今 度 し 、 後度するも亦是よりす、これ本より清浄無為なりにとあ る。この句より、さらに、世親造、無量寿経優婆提舎願生 旧 閣 の ﹁ 一 法 句 は 謂 清 浄 句 、 清 浄 句 者 謂 智 慧 無 為 法 身 故 ﹂ ︵ 大 正 ・ 二 六 、 二 三 二 中 ︶ を 想 い 出 さ し め る 。 ①藤田宏達著、原始浄土思想の研究、本願比較対照表︵三 八

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頁 ︶ 。 池本重臣著、大無量寿経の教理史的研究、本願論︵一一 三 頁 ︶ 参 照 。 ⑮原始浄土教の研究、三三頁、藤田宏達著、この経の還交 は 、 境 野 黄 洋 、 昭 和 十 年 、 支 那 仏 教 精 史 ︵ 一 四 六 ・ 一 八 六 ・ 二 四 七 頁 ︶ に 指 示 さ れ て い る が 、 一 応 、 そ れ に 随 い た い 。 ⑪大乗集菩薩学論、護身品脚註一七︵大正・一三一・一

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二 下 ︶ ロ 出 E C 目 白 r r g g H g g p E r ロ

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宮 B B O B ロ 仲 田 宮 仏 与 2 u r 仰 に 真 弓 一 口 B 恒 三 日 ︵ 吉 田 口 同 店 ﹀ 匂 包 − 白 と あ り 、 真 言 Bgg と句守注目︶とは同義に用いられる。道教における党行 ︵ 出 血 昨 日 ︶ は 南 無 阿 弥 陀 仏 の 一 ︹ 法 ︺ 句 で あ る 。 お ζ な い なお、仏教において、行道の行といっても種々であ る。般若経において、﹁行﹂は間同席を原語とするようで あ る が 、 そ れ は 般 若 波 羅 蜜 で あ る 。 ⑫阿難の根本性格について、帯広大谷短期大学紀要、第八 号 参 照 。 ⑬この経は、

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] 内 田 口 片 品 目 ︵ 吋 ︶ と し て 、 道教︵道智大経︶について 経名がある

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とは私伽陀緊落経であって、説法の 場 所 に よ っ て で あ る 。 し か し 、 何 ピ ロ 仲 間 ﹁ 印 公 E ・ 何 百 三 国 宮 ︶ と は 、 経 意 に よ っ ての名の如くである。語義よりは、一辺倒者、一究極者で ある。南伝よりは一趣道者、雑阿合第九九経では、一乗道 ︵ 真 如 ︶ 者 、 雑 阿 合 第 一

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一 経 の 行 道 一 契 経 よ り は 一 行 ︵ 南 無 阿 弥 陀 仏 ︶ 者 と い っ て よ い の で な い か 。 ⑬五分律、第二 O 巻 ︵ 大 正 ・ 二 二 ・ 一 三 五 中 ︶ 、 道 口 問 、 第 二 一 、 奄 羅 女 、

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参 照 。 この際念が南無阿弥陀仏の一行である時、時処諸縁をえ らばずとか、行住坐臥にとか、寝ても覚めてもとか、念仏 せ よ と い う 一 言 葉 は 、 こ の 仏 語 の う ち に あ る も の で あ る 。 ⑬池木重臣著、大無量寿経の教理史的研究、五

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頁 。 ⑬教行信証講読、金子大栄選集、第六巻、我愛を離るるこ とができぬという悲痛が、既に自己崩壊である。自我の自 己 否 定 は 即 ち 、 合 掌 帰 命 で あ る 。 称 名 念 仏 で あ る 。 ⑪雑阿第九九、第九八経︵大正・二・二七上︶︵同

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ロ ・ 同 ・ 品 ・ 別 雑 、 第 一

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、第二六四経、雑阿第九九、第七六 九経、大正・二・二

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薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 一 六

薩摩藩の真宗禁制と本願寺の動向

︵龍谷大学︶ ① 周知の如く、薩摩藩においては、室町時代末期より明治九年に至るまで三百年以上の問、 一貫した真宗禁制政策が とられた。この薩摩藩の真宗禁制政策と、それに対応した本願寺あるいは門徒の動向を究明することは、政治権力が 宗教に優先し、抑圧した場合、その宗教と信徒が如何なる行動をとるか等々、政治と宗教との葛藤を示唆するところ が 大 で あ る 。 ところで、こうした薩摩藩の真宗禁制をめぐる諸問題は、藤等影﹁薩藩と真宗﹄をはじめとし、鹿児島大学桃園恵 真教授の諸論稿、近年では、 龍 谷 大 学 宗 教 調 査 団 編 ︵ 代 表 、 宮 崎 園 遵 ︶ ﹃ カ ヤ カ ベ 1 かくれ念仏﹄において究明され、 またその史料は﹃日本庶民生活史料集成﹄︵十八巻︶に集積されている。 小論では、右の諸研究成果を参照しながら、本願寺︵主に本派︶が薩摩藩の真宗禁制政策と、その統治下にあった門 ② 徒に如何に対処したかを考察し、幕藩体制下において、本願寺が遭遇した禁教と伝道の葛藤の跡をたどってみたい。

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それにさきだって、薩摩における真宗の展開と、薩摩藩の真宗禁制政策を概観しておこう。 薩摩藩に真宗が如何なる経緯を経て、何時頃伝播したか、 初期の展開は殆ど明らかでない。 ただひとつの手掛りと なるのは、現在、和歌山県黒江御坊浄国寺に伝えられている左記の方便法身尊形の裏書である。 大谷本願寺釈実如 方便法身尊形 永正三年丙寅二月十九日 薩摩国千野湊 願主釈明心 これによって、本願寺実如が薩摩国千野湊︵現在地、宮崎県串間市︶の明心に本尊を下付した事が知られ、 ③ は本願寺と連絡をもっ門徒が存在していたことが明らかである。ただ、この時点において、本尊の願主が明心個人名 ③ であるところから、未だ﹁講﹂組織などはなく、真宗信者の数も少なかったと推測される点もある。 永正年間に その後、薩摩の真宗流布に活躍したのは宮原真屯であった。薩摩藩土伊地知季安によって、天保年間に起草された ⑤ と推測される﹃一向宗御禁制由来﹄によれば、 ︵ 出 凶 カ ︶ 慶安二丑六月、是も依レ頼御免為レ有レ之由。然処其前後之事に候哉。御領内新宗之張本、真純と中者、内密々近付、 上 方 江 差 登 せ 、 六 条 殿 に 取 入 、 御 国 中 彼 宗 致 一 一 発 興 一 候 様 被 一 一 相 巧 ﹁ 於 ニ 江 戸 一 大 久 保 加 賀 様 に も 取 入 、 ︵ 屯 カ ︶ 悪 様 に 為 レ 被 ニ 申 込 一 杯 、 其 比 風 説 有 レ 之 、 真 純 事 於 − 一 脇 本 一 謀 殺 為 レ 被 一 一 仰 付 一 白 ︵ 下 略 ︶ @ と い う 一 節 が あ る 。 ま た 、 ﹃ 薩 藩 例 規 雑 集 ﹄ ︵ 一

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︶ に よ れ ば 、 寛陽公御事迄 ご向宗御禁止ノ事、 一 、 日 新 公 御 代 被 ニ 渡 置 一 候 処 、 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 木 願 寺 の 動 向 七

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薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 八 寛 永 酉 年 猶 又 問 敷 御 禁 止 被 一 一 仰 渡 一 候 ︵ 統 カ ︶ 然処明暦ノ初頃一向宗流領真屯トイフ者、別テ宗旨手広ク法義弘メ候段相顕揚 捕処、党類多人数ニ相及候事﹂と記るされ、江戸時代前半期において、宮原真屯が真宗信者の中心人物であったこと を伝えている。ちなみに、この宮原真屯は、本願寺と絶縁し、霧島神宮と結びついた特異な講社である﹁カヤカベ教 ⑦ 団 ﹂ 、 が 口 伝 す る ﹁ 宗 教 坊 ﹂ に お い て 次 の よ う に 語 ら れ て い る 。 そ れ に よ れ ば 、 カヤカベ教の祖は ﹁ シ ュ ウ キ ョ ウ ボ ウ﹂であったという。字に書くときはシュウをオシェルと書くという。すなわち﹁宗教坊﹂であろう。この宗教坊は もとミヤハラシンタクといい、伊集院の生れ、山伏であった。彼は神道と仏道とい、ずれが功徳が深いかと考え、京都 の本山で問いただそうとおもい上京した。その後、真宗に帰依し、本山に二十二年間つとめ、鹿児島に帰って弘教す ることとなったが、本願寺を離れるにあたって、上人から﹁宗教坊﹂の名を拝承したという。 ﹂ う し て 、 宗 教 坊 は 鹿 児島で真宗をひろめ、募財にあたっていたが、本願寺の ク 御 普 譜 。 にあたって上京せよとの命が下り上山した。その 留守中に、宗教坊によって真宗に帰依した橋口忠兵衛と三島宗右衛門の二人が本山普請の寄附金を集めていたが、宗 ていますと訴え出た。その為に、宗教坊は帰国の舟中においてとらえられ、 悪心をおこし、宗教坊は殿様禁制の宗旨をおこなっ ③ 二人の娘と共に殉教したと伝えている。 教坊が帰国すれば、その金を宗教坊に渡さなければならないと、 これらの記録や口伝によって、宗教坊すなわち宮原真屯は、薩摩藩の為政者や、真宗信者の聞においても、特に重要 な人物としてひろく知られていたことが察せられ、薩摩の初期真宗の展開に重要な働きをした人物であったといえよ う その後、薩摩の真宗門徒は講を中心として本願寺との連絡を保つが、管見の史料において、議名の初見は本願寺所 蔵文書﹃御講仏御示談薄﹄に、元禄七年二月、本願寺が﹁彊州内場煙草講﹂宛に親驚御影を下付したことが記載され ⑨ ているもので、この頃には﹁講﹂が結成されていたことを窺うことが出来る。 しかし、薩摩における初期の真宗の展

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聞は史料不足のため未だ充分に明らかにしえないのが現状である。 ところで、江戸時代後期、すなわち、安、氷十年︵一七八一︶以降になると、本願寺と薩摩門徒の聞に交換された書翰 ⑮ を記録した﹃薩摩国諸記﹄が現存し、その動静はかなり明らかに出来る。天保十四年、薩摩門徒の言上書には﹁当春 宗門座ニ而記帳之噂承レ之候処、其門徒過人拾四万人ニ相及候由、誠ニ以法滅之時世ニ御座候哉−一悲 ⑪ ⑫ 歎仕候﹂とあり、同じく嘉永二年二月には﹁七十余講悉く露顕仕申候﹂と伝え、具体的な講の数と門徒の人数まで記 凡 本 尊 弐 千 幅 、 載されている。この数字の信湿性はともかくとして、薩摩藩全土にわたって多数の真宗門徒が存在していたことを窺 う こ と が 出 来 よ う 。 こ う し て 、 薩 ↑ 摩 の 真 宗 の 教 線 は 禁 制 下 に も か か わ ら ず 、 ひ そ か に 伸 長 し た の で あ っ た 。 一方、瞳摩藩の真宗取締りの制度も漸次整備されていった。すなわち、寛永十二年三六一二五︶幕府が切支丹改めを 行なったのに呼応して、藩においてもはじめて人別に手札を附し、 切支丹と共に真宗門徒の検断を行ない同十五年に は与を通じて取締り、与頭が与土の宗門を監察する方法がとられた。また明暦元年︵一六五五︶には藩政の一部門とし て宗体座が設けられ、元禄十二年三六九九︶四月に宗体改方、宝永六年︵一七一

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︶九月に宗門改方、安永七年︵一七 七八︶五月に宗門改係とそれぞれ改称され、真宗取締の制度は強化されたのである。 さらに宗門の取締はきめこまか に行なわれ、安永五年︵一七七六︶八月に﹁宗門方加役は年々両三度づっ行廻り、末々まで申聞き其首尾届出るベし﹂ と達し、同九年には﹁庄屋も毎年五月、十二月の両度所中を行廻り、 と、庄屋に年二回の宗門探索を命じていら 右月限り内に其の首尾を宗門改所へ届出る事﹂ ところで、この真宗信者取締の実態は如何なるものであったであろうか。天保十四年︵一八四二一︶の薩摩門徒の本願 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 九

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薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 二

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寺への報告に左記の如きものがある。 天正年来、本府域内ニ宗門座︵奉行六頭、横目弐人、出役廿四人、 同 心 足 軽 品 川 六 人 、 下 目 付 諸 郷 不 レ 知 レ 数 ︶ 多 人 数 扶持方、諸雑費労科等皆宗門過人之課銀より宛行候式ニ御座候由ニ一冊、是非毎年五六郷宛操合を以、法難破壊ニ相 ⑬ 成 候 様 、 致 方 を 以 相 行 申 旧 式 − 一 一 問 、 准 ニ 弐 三 拾 年 廻 ニ 者 難 逃 義 ニ 御 座 候 すなわち、宗門座の扶持方・労科・諸雑費は宗門科人の課銀によってまかなわれ、 藩が行なう宗門検索は毎年五、六 郷づっ行なわれていた。領内百二十四郷あったので一郷にすれば二・三十年に一回の割合で宗門検索が行なわれると いうのである。たしかに、真宗門徒の弾圧には地域差・時間差がみられ、罪の軽重も様々であったようである。それ 故に後述するが如き、門徒と本願寺の連絡はこの取締の間隙をぬってとられたのであろう。 し か し 、 天 保 六 年 ︵ 一 八 三五︶には薩摩藩全土にわたって真宗門徒の大弾圧が行なわれた。 先細布講惣代の伝右エ門ら四人はその苛酷な弾圧 の 様 子 を 次 の 様 に 報 告 し て い る 。 南国諸講々、去未年御法難蜂起仕、国中不レ漏根葉を枯、 厳重之札明、誠ニ以前代未聞之振ニ御座候。 先男子者宗 門座︵本府並諸郷々ニ宗門吟味之役席を構へ奉行壱人横目弐人書役四人足軽拾弐人︶之庭ニ木馬を筋り、 割木之上 ニ座せしめ、膝上ニ五六捨斤之石を乗、左右短棒ニ市打博致し、皮肉破れ血流、脚骨砕。女子者赤裸ニ成し木馬−一 乗、或ハ隠門ニ大縄ヲ挟ませ双方前後より挽倒し、捧揖いたし、珂責に逢ひ候得共、元来堅固之族ハ不惜身命ニ覚 悟仕、勿論御文章之中盗人ト云ハるとも之御教化を奉重白状不仕候者、悉く五駄被打砕、病者と相成、或ハ入牢、 或者親類預様ニ而、裁許中長髪ニ而生恥を与ふるといふ振ニ一間御座候得者、 日 比 未 熟 之 同 行 共 、 無 一 一 是 非 一 罪 ニ 伏 し 候 故 、 本 尊 諸 道 具 等 持 出 役 筋 へ 相 渡 候 、 依 レ 之 本 尊 者 本 府 蔵 入 致 し 、 諸 道 具 ハ 其 処 々 ニ 市 焼 拾 − 一 い た し 、 不 レ 被 レ 当 レ ⑬ 目 事 と 御 座 候 由 之 事 。

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それでは、天保六年に何故にこのように執助な真宗門徒の弾圧が行なわれたのであろうか。薩摩門徒はその直接の 原因を次のように言上している。 ︵ 男 カ ︶ 元来東目畑草講弁蒲生之白和に去春の法難之瑚、 御 改 革 上 納 帳 被 一 一 奪 取 一 猶 又 於 一 一 諸 所 一 御 印 書 類 彼 方 よ り 吟 味 仕 出 し ⑮ 候 よ り 事 起 り 、 莫 大 − 一 国 財 他 国 へ 漏 候 ニ 付 、 自 然 と 国 中 及 一 一 困 窮 一 与 申 吟 味 根 跡 ニ 相 成 候 由 、 誠 − 一 以 苦 々 敷 存 申 候 事 。 すなわち、天保六年の真宗門徒の弾圧は、その前年の春、 東白畑草講と蒲生の法難の際、本願寺財政改革上納帳を奪 い取られ、莫大な国財が他国へ流失していることが知れた。 そこで国が困窮するということで吟味が行なわれ例年と ⑫ その立役者、調所広郷が五百万両の は具り弾圧が厳しかったという。時に薩摩藩においては財政改革の途上であり、 藩の負債を二百五十年期限無利子償還という暴令を実施した年であった。 ち な み に 、 ﹁薩摩諸講御執持﹂斉藤紹甫は ﹁ 天 保 未 年 ︵ 六 年 ︶ 以 来 、 国 制 如 レ 蜂 発 り 、 諸 講 如 レ 麻 乱 れ 、 御 本 尊 諸 道 具 滅 元 仕 候 。 国 民 の 難 渋 、 実 に 以 不 レ 忍 レ 問 、 奏始皇の暴逆も加様の次第に御座候はんと、悲歎仕計に御座候。其根本国法を申募候得共、畢寛、則国財を樫貧仕候 より、御冥加献上銀、御荘厳等無益と心得違、国用の財物、珍敷器物等上納、嫉妬偏執の存意、役人共の姦暴に御座 候 、 国 主 先 代 よ り 錠 聞 候 に 、 一向宗の儀は、国に於て桐敷御禁制被ニ仰達一置候の処、密互に修行致し、売国則引入他 ⑬ 国僧、珍敷器物等及ニ頑発﹁国賊同様の次第其罪不レ軽﹂と、本願寺に報告しているのである。 ﹂ う し て 、 天 保 六 年 の 薩摩藩全土にわたる大弾圧の直接の原因は、薩摩藩の財政改革と相候って、門徒が本願寺に上納することによって流 失するところの国財を阻止しようとする経済的な理由が考えられる。 四 それでは前述の如き真宗禁制下にあった薩摩門徒に、−本願寺は如何に対応したであろうか。本願寺と薩摩門徒の基 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 木 願 寺 の 動 向

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薩 摩 潜 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 本的な関係は講を中心として展開した。 講は本願寺へ懇志を上納し、 本願寺は講へ信仰のきづなとなるところの本 尊・親驚・蓮如両御影・前門主御影等の免物を下付し、 また御書をもって法義の引立にあたった。本尊・御影等は隠 蔽しやすいように小幅のものを下付し、あるいは、薩摩講中だけには保管に便利な二尊御影を下付するなど特別な配 慮を行なってい旬。しかし、なんといっても、本願寺の麗摩門徒への最大の働きかけは人命にかかわるところの使僧 の 派 遣 で あ っ た 。 いま、この使僧の動静を窺うことによって、 近世本願寺教団の性格を考えてみよう。 使僧の派遣について、文化三年︵一八

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六 ︶ 、 本願寺第十九代本如はその消息をもって﹁抑其国ハ元亀之頃ヨリ爾来 法 義 相 続 − 一 難 儀 ナ ル 提 − 一 シ テ 、 末 寺 モ ナ カ ラ ネ パ 使 僧 等 モ 差 向 難 キ ニ 、 各 々 後 生 之 一 大 事 − 一 心 ヲ 懸 一 フ レ 講 ヲ 結 ピ 遠 境 ヲ厭ハズ本山へ参詣セラルルコト有難キコトニ候エ﹂とのべており、 当時はあまり使僧の派遣は行なわれていなかっ たようである。本願寺が積極的に使僧の派遣を行なうようになったのは本願寺の財政窮乏の打開策がとられた頃から であり、管見の史料では、文政十年︵一八二七︶に本願寺の財政改革に参画した博多浄泉寺曇冥を差し向けたことを初 見とすヤ曇冥は築前国早良郡樋井川村大字片江︵現在地、福岡市片江町︶浄泉寺の第六世住持であり、 はじめ義諦と 称したが、後、曇冥と改名した。彼は文政九年十月、本願寺より 今 般 西 国 筋 、 御 法 義 為 ニ 御 引 立 一 被 一 一 差 向 一 候 問 、 其 先 々 領 主 地 頭 不 ニ 差 支 一 様 巡 在 可 レ 有 レ 之 候 、 何 而 此 段 申 達 候 也 下 問 民 部 法 橋 ︵ 在 判 ︶ ⑫ との達誌を受け、翌年正月に入国した。彼はこの間の動向を﹁亥正月二日鬼界出役中御用諸記巻上御使僧浄泉寺﹂と 主 に 北 薩 地 方 の 諸 講 を 巡 回 し 、 ③ 天 保 三 年 ︵ 一 八 一 三 一 ︶ 四 月 に は 静 遊 寺 を 差 し 向 け 、 の 援 助 を う け な が ら 、 醒摩藩と隣接するところの肥後芦北︵水俣︶の西方寺・西念寺・源光寺・光明寺 同年六月まで法義引立と募財の任にあたったのである。また、 題し記録している。それによれば、 さらに翌四年には﹁比度薩州諸講々より法義御引立井御印鑑取締

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芳、当年より五ヶ年の問、御声掛り五ケ寺つつ御差向の儀願出御聞済と相成、則蓮教寺・直純寺・明光寺・浄宗寺・ @ 蓮舟寺・常念寺御差下相成候間云々﹂として、法義引立と本願寺使僧と自称するいかがわしい僧侶もあったのでその 取 締 の た め 、 五 ヶ 年 の 問 、 五ケ寺を差しむけることとした。さらに、嘉永元年︵一八四七︶本願寺は薩摩門徒の﹁私国 三業大路︵魯︶とや申人身越かくし居候土地にて彼徒義も大分ニ御座候。十却邪義或ハ機なけき等の等の具安心の固 執 の 者 も 多 く 候 ヘ ハ 、 幸一存上一色との請に応じ、明勝寺探玄を差し向けた。すなわち、本願寺は、三業派智洞の門下大魯の潜伏によって 是等も当節御書弁御使僧様として、 明勝寺様御差向被下候ハ t A 、御威光を以やわらき可レ申と 三業安心の影響を受けつつあった薩摩門徒の安心改易のために、筑前大行院曇龍社中の明勝寺探玄︵当時三十才位︶を 薩摩に入国させるのであった。尚、この時、探玄と一緒に入国した兄法運は召し捕えられている。 @ 達書を下し、蔭摩に派遣した使僧に、左記の人予を掲げることが出来る。 ﹂ の 外 、 本 願 寺 が 天保五年

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妙光寺・浄光寺・安楽寺︵出役三ケ寺﹀ 天保六年

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浄泉寺曇冥再入国 天保七年善照寺・西福寺 安政元年|安芸高田郡真徳寺無涯︵安政三年、薩摩の役人におわれ、 日 向 宗 久 寺 で 自 害 ︶ 安 政 四 年 神 龍 五 こうして本願寺は真宗禁制下にあった薩摩門徒への伝道を怠ったわけではなかった。下付する免物にも特別の配慮 を払い、人命の危険をおかしてまでも使僧を派遣し、安心の改易を行い、 門 徒 個 人 に 対 し て は ﹁ 右 者 至 而 強 信 之 者 − − 薩 摩 藩 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向

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薩 摩 藷 の 真 宗 禁 制 と 本 願 寺 の 動 向 四 一 昨 年 夏 以 来 法 難 之 閥 、 ③ 被レ下レ之﹂として法名を下すなど、遠隔地・真宗禁制という条件をこえてあらゆる手段をこおじて弘教につとめたと {戻 処 国 法 よ り 厳 敷 拷 問 有 レ 之 候 共 白 状 不 レ 致 、 終 ニ 其 節 致 命 終 候 段 、 奇 時 至 被 ニ 思 召 一 を 以 いってよい。しかし、それは薩摩の真宗門徒を救済する根本的な解決にはならなかった。 本願寺は薩摩門徒を弾圧す るところの政治権力、すなわち薩摩の国法に対して抗議することなく、 また門徒に対しては﹁此信心決定ノ上ニハ、 @ カギリアル年貢等ヲ具ニ沙汰シ、存命ノ間ハ法義無一一油断−相続セラレ云々﹂と 王法国法ヲ守り、地頭領主ヲ重ンジ、 王法国法に従順することを達しているのである。薩摩の門徒が国法を遵守することは真宗信仰を放棄することであっ た。こうして本願寺は矛盾する達書を下し、 また自らは薩摩藩の国法を破り、使僧を派遣してまで伝道につとめ、白 らの発言と矛盾する行為をしているのである。 一方、陸摩門徒も藩の真宗禁制政策に対して変革や抵抗の態度を示し たことはなかった。そればかりでなく、本願寺の﹁王法、 国法を守り云々﹂という矛盾している達書をすなおに受け 王法と仏法の両立を掲げる真宗の伝統の教えを信じこんでいたものにほか 入れているのである。この門徒の意識は、 ならない。また本願寺も真宗の伝統の教えをそのまま伝えたものである。 それはあくまでも仏法を中心として、それ を貫ぬいた実践といえよう。 しかし、上述の如く、実践的には、 門徒は薩摩の国法を破り、本願寺もまた国法を無視 した行動をとらざるをえなかったのである。 すでに大谷大学柏原祐泉教

品 。

授が言究された如く、近世本願寺教団には﹁封建的な面﹂と﹁信仰教団﹂的な二面があることが指摘出来よう。しか こうして、薩摩藩の真宗禁制政策に対処した本願寺教団の事実の現象を分析するとき、 も、その封建的制度的な面と、信仰的な面とは矛盾的に教団の二面をなし、 近世本願寺教団を形成していたといえ る。薩摩の真宗禁制をめぐる幕末の本願寺教団の動向において、 ﹂の教団の潜在的矛盾が最も顕著にあらわれたもの と い え る で あ ろ う 。

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註 ①真宗禁教令の初見は、慶長二年二月、第十七代藩主義弘 のム災害ユ向宗之事、先祖以来御禁制之儀に侠之条、彼宗 鉢に成候者は曲事たるべき事﹂の一カ条である。 ③薩摩の真宗の伝道史をとりあつかった論稿には二葉憲呑 ﹁幕末における薩藩の真宗真宗伝道史の一側面

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﹂ ︵ ﹃ 伝 道 院 紀 要 ﹄ 第 四 号 ︶ が あ る 。 ③ 宮 崎 国 道 ﹁ カ ヤ カ ベ の 系 議 ﹂ ︵ ﹁ カ ヤ カ ベ ﹄ 所 収 ︶ 。 ④ 福 間 光 超 ﹁ 禁 教 下 の 薩 摩 門 徒 ﹂ ︵ ﹃ カ ヤ カ ベ ﹄ 所 収 ︶ 。 ③﹃近世庶民生活史料集成﹄第十八巻所収。 ③宮崎国道前掲論文参照。 ⑦カヤカベ教団においては、お伝えと称し口伝する談義を 十三種類有するが﹁宗教坊しはその中のひとつである。 尚、右のお伝えの大要は収録され﹃カヤカベ﹄かくれ念 仏

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︵法蔵館刊︶と﹁近世庶民生活史料集成﹂第十八巻 ︵ 一 一 二 書 房 ︶ に 所 載 さ れ て い る 。 ③宮崎国道前掲論文参照。 ①福間光超前掲論文。 ⑬龍谷大学図書館蔵。﹃近世庶民生活史料集成﹄第十八巻。 ⑪⑬﹃蔭摩国諸記﹄。 薩 摩 藩 の 真 宗 控 訴 制 と 本 願 寺 の 動 向 ⑬﹃鹿児島県史﹄第二巻。 ⑬必⑬﹃薩摩国諸記﹄。 ⑪調所広郷の真宗取締について薩摩門徒は本願寺へ次の様 な報告を行なっている。仕置当職家老津処庄左エ門︵調所 笑左エ門カ﹀国財之けんせん事越嫌、中村新助と申伎役人 越 同 行 と な し 、 長 々 当 地 に 置 御 献 上 之 金 子 一 回 向 井 ニ 人 名 一 々 に し ら ベ 夫 よ り 吟 味 − 一 相 成 侠 故 先 年 之 大 変 に 及 候 。 ﹁ 議 摩 国 諸 記 ﹄ 0 ⑬﹁薩摩国諸記﹂ o ⑮⑫福間光超前掲論文参照。 @@浄泉寺所蔵文書。 ⑫⑬⑫﹃薩摩国諸記﹄。 ③﹁薩摩国諸記﹄、尚、薩躍の入国僧については挑園東真 ﹁ 禁 教 下 の 入 国 僧 ﹂ ︵ ﹃ 鹿 児 島 大 学 文 学 科 論 集 第 四 号 ﹄ ︶ に 詳 し く ふ れ ら れ て い る 。 ③﹃薩摩国諸記﹄ 0 ⑬本如上人消息。 ⑬柏原祐泉﹁江戸時代における布教の姿勢﹂︵﹃近世庶民仏 教 の 研 究 ﹄ ︶ 。 二 五

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願 生 浄 土 ー ム ノ、

ー ー ー 論 註 を 中 心 と し て | |

︵仏光寺派︶ ルネッサンス以後の近代の人聞は彼岸的世界への志向を放棄し、宗教的な権威や彼岸的精神を前近代的なものとし て退け、自己の理性によって現実の世界の内に自己を位置づけようとする道をたゆみなく歩んできたのであった。し かし今日、その近代の人間の理想が人間性を窒息させ、 人聞をして自己疎外的状況に随せしめる原因となっているの である。かくて近代の人間の願望は全く夢破れた形となり、 人聞はもはや何事に対しても願いをもつことができず、 否応なしに虚無的な気分に落ち入らざるを得なくなったのである。 ﹄の虚無観こそまさしく今日的状況を象徴するも のであり、これは現実の世界を即目的に肯定せる近代の此岸的自我中心主義の当然の帰結なのである。 しかるに宗教は現実否定より出発するものであり、現実を否定せず即自的に現実を肯定せんとする宗教は真実の宗 教とは云い得ない。真に主体的に現実の世界を直視するものは現実の社会の虚無性に気付かざるを得、ず、またその社 会の虚無性を生みだしている自己の罪悪性に気付かざるを得ない。 ここに浄土教の法印とも云うべき願生浄土の実践

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道が必然的に展開されてくるのである。願生浄土とは現実世界の虚無なることを厭い、限りなく真実の世界を求めん と す る 道 で あ る 。 しかしそれは単に現実を無関係なものとして逃避的に拒否するのではなく、現実は虚妄であり、無 意 味 で あ る と 否 定 し つ つ 、 しかもその現実に真の意味を見いだし、 全ての人聞は如来によって真実なる願いをかけら れた存在であると自覚し、その願いをもって現実に対処して、現実の虚妄性を自己の責任であると自らに荷負して行 く真に主体的な宗教的自覚の道である。かくてこの願生浄土の道こそ彼我対立によって涯しなき闘争が繰り返されて いる現実を真に救う道となるのではないかと考える。 ﹂のような意図に基づいて天親の﹃浄土論﹄に示された願生浄 土の道が如何なる論理構造によって成立し、現代において如何なる意味を有するものであるかを曇驚の﹃論註﹄を中 心に明らかにして見たいと思う。 天親の﹃浄土論﹄は正式には﹃無量寿経優婆提舎願生偽﹄と称されていることから知られるように﹃浄土論﹄全体 を貫ぬく根本精神は﹃無量寿経﹄の教法に従って浄土願生の心を表わさんとするところにある。 故に天親は﹁願生 倍﹂の最初の帰敬序に ﹁世尊、我れ一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつりで、安楽園に生ぜんと願ず。﹂ と 述 べ て 、 ﹁ 一 心 願 生 ﹂ の 天 親 自 督 の 安 心 を 表 白 し 、 また長行の最初には偽頭の大意を示して、 ﹁この願備は、何の義をか明す。彼の安楽世界を観じて、 阿弥陀仏を見たてまつり、彼の国に生ぜんと願ずること を 示 現 す る が 故 な り 。 ﹂ と 述 べ て い る の で あ る 。 願 生 浄 土 二 七

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頗 生 浄 土 二 八 では何故に天親は安楽浄土を願生しなければならなかったのであろうか。 周知の如く天親は兄の無著と共に瑞伽唯 識の大成者であり、論伽唯識とは人間の本質を知ろうとする欲求に根ざして、 限りなく自己自身を内観して行く道で ある。従って﹃倶舎論﹄では人間の心を七十五法に分類し、 ﹃唯識論﹄に於ては、前六識の他に第七識として未那、 第八識として阿頼耶の二識が見いだされている。 そこでは我々の現実の意識を生みだしている世界、所謂宿業の世界 がさぐられているのであり、その宿業の世界の発見こそが天親菩薩をして浄土願生せしめたのである。それ故に願生 心は内観によって見出されてくる自己の相そのものを問題とする時、 自ずから生じてくる真実の宗教的要求である。 曇驚はこの﹃浄土論﹄の願生浄土の精神を継承し、それを龍樹の空観によって解釈し、 より鮮明に願生浄土の論理 構 造 を 明 ら か に し て い る 。 先ず立翌日﹄の冒頭に曇驚は龍樹の﹃易行品﹄の難易二道判を引用して、 ﹁ 菩 薩 、 阿 枇 践 致 を 求 む る に 二 種 の 道 あ り 、 一には難行道、二には易行道なり。難行道は、謂はく五渇の世、無仏 の時に阿此践致を求むるを難と為す。この難にいまし多途あり。 ほ ぼ 五 三 と 言 い て 、 も っ て 義 の 意 を 示 す 。 ︵ 中 略︶易行道は、調はくただ信仏の因縁をもって浄土に生 J ぜ ん と 願 ず 、 仏 願 力 に 乗 じ て 、 すなわち彼の清浄の土に 往生を得。仏力住持して、即ち大乗正定の緊に入る。﹂ と 述 べ て 、 ﹁五渇の世、無仏の時﹂に於ける仏教の実践はただ信仏の因縁をもって浄土に願生せんとする他力易行の 道︵本願成就の道︶のみであることを明らかにしている。 これは曇驚の時代社会に対する反省の深さを示すものであり、現実凝視こそが願生浄土の基盤をなすものであるこ

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