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ドキュメント内 真宗研究17号全 (ページ 113-136)

仏教 社会 事業 の本 質と 問題 点

O

従来︑仏教の慈悲思想を拠りどころにした救済活動が︑本来根本的に異質であるキリスト教の愛の思想と同一視さ

れて

﹁慈善事業﹂という一括名称の下に近代社会事業から追放された原因の一つが︑この本質と第二次現象との混

同という基本的錯誤の結果であったと言えないだろうか︒

さらにまた本来菩薩の修道過程の行業である慈悲︑四摂受︑下化衆生の活動をそのまま︑仏教社会事業の本質とす

るこ とに なる と︑ それ は︑

神の思寵を期待して行なうキリスト教の慈善行為とどれだけ相違するのだろう︒なぜな

ら︑仏教にいう菩薩はなお仏果菩提を求める上向過程の地位にあるもので︑

成正 覚と いう 目的 を遂 げる 為の 手段

︑が い

わゆる菩薩の行であるからである︒

縁起の法によって開覚された﹁自他不二﹂の一体意識︵原理︶から﹁於諸衆生視若自己﹂の悲化活動︵本質︶が触

発される︒それが仏教社会事業の現象態である︒従って菩薩道においては下化衆生のそのままが上求菩提の資料とも

なり︑五日々人聞の行なう愛他行為もこの理念に則って行なわれる限り本質的に仏教社会事業のみの特色すなわち﹁仏

教カ ラ

l﹂

とな るの であ る︒ 五

﹂のように仏教原理が現代社会事業の本質に溶け込んだときに︑その事業のあり方に変化が起るのは当然のことで

あろう︒変化がないというのはまだ構造が三階建になっていないことを証明するものである︒しかし遺憾ながら現在

のところでは各宗派宗団ともこの点についての確固たる基本姿勢が定まっていないかのようである︒すなわち︑事業

運営の全領域にわたって︑仏教社会事業の特色を︑どの面に︑どのような形で︑どの程度発揮すべきかということな

どについての︑総合的具体的な研究がなされていないために︑事業経営者は仏教者としての良心的な責務感と憲法二

︒条の規制との板ばさみになって苦慮している現状ではなかろうか︒

⑤⑥ 

題で

ある

﹂れは本質論とも深い関連のある重要な現実問

最後に︑真宗教団︑寺院︑あるいは僧侶の社会事業について触れておこう︒これも仏教社会事業であるから︑前述 のように︑縁起の理法に則った自他不二の愛他理念を原点とする事業であることは当然である︵第一本質﹀が︑

ら にこの事業を宗祖の思召を通して考えるとき︑その現象的表現において︑

一般仏教家のそれとは大いに趣きを異にす

るもののあることが知られるのである︒

歎異 紗︵ 第五 章︶ に宗 祖は

4親驚は父母の孝養のためとて一返にでも念仏まをしたることいまだ候はず︒

その

は故

︑ 一切の有情は皆もて世々 生々の父母兄弟なり︑何れも何れもこの順次生に仏に成りて助け候ふべきなり||︒

と︑釈尊の縁起理法の上にたった愛他行為の原理を認めていられる︒ところが第四章では︑

長山悲に聖道浄土のかはりめあり︒聖道の慈悲といふは︑ものを潤み悲み育むなり︑

しかれども︑思うが如く助け

遂ぐること極めてありがたし︒また浄土の慈悲といふは︑念仏していそぎ仏になりて︑

大慈大悲をもて︑思ふが如

く衆生を利益するをいふべきなり︒今生に︑

いかに愛し不便と思ふとも︑存知のごとく助け難ければ︑この慈悲始

終なし︒しかれば︑念仏まをすのみぞ末徹りたる大慈悲心にて候ベき と仰せられて︑この愛他活動の本質に鋭い批判を加え︑これを二種類に分別し︑従因向果︵衆生より仏へ︶の慈悲行 為を聖道の慈悲として排除し︑救われた後︵従果向因!仏より衆生へ︶の利他活動を﹁末徹りたる大慈悲心﹂として 仏教 社会 事業 の本 質と 問題 点

O七

仏教 社会 事業 の本 質と 問題 点

O

賞揚 され てい る︒

一方また自己への厳しい反省から罪悪の機を憤慨して︑愚禿悲歎述懐讃には

タ小慈小悲もなき身にて有情利益はおもふまじe

とのベて︑自力心による愛他行為を抑止していられるのである︒

さらに性信房あてのご消息には

タ念 仏ま をさ ん人 々は

わが御身の料は思召さずとも︑朝家の御ため国民のために念仏をまをし合せたまひ候は父

めで たう 侯ベ し︒

タわが身の往生一定と思召さん人は︑仏の御恩をおほしめさんに御報恩のために御念仏こl

ろに

入れ

申し

て︑

一寸

の中安穏なれ仏法ひろまれ﹂と思召すべしとぞ覚え侯e

とあるが︑これらのご消息の文言は大無量寿経の

﹁仏 所遊 履国 邑丘 緊鹿 不蒙 化︑

の文を豊かに想い合わさせるものであり︑平和な福祉社会建設のためには︑ 国豊民安兵文無用︑崇徳興仁務修礼譲﹂

先ずわが身の往生を一定することが基礎 天下和順日月清明風雨以時災属不起︑

であることを述べられたのである︒すなわち宗祖にあっては︑現代で言うところの環境改善︑社会改良︑社会福祉な

どを含めて︑大無量寿経に説かれた蓬かな理想的福祉社会建設のための社会的行為は︑いずれも自己の救いを求める

求道過程の救済資源としてこれを提供するものではなくて︑救われた︵獲信︶後の報恩活動としての新しい価値を帯

びて再生されたものとなるのである︵第二本質︶これが真宗社会事業の本質でないだろうか︒

るが︑その本質はひとり国民各々の生活権の回復保全だけに止らず︑ 繰り返すようであるが︑真宗人の営む社会事業は︑現象形態としては他の一般人あるいは仏教家のそれと同じであ

また資本主義社会体制の維持存続を直接の目標

とするものでもなく︑さらに一般仏教に謂う上求菩提の菩薩道実践でもない︒

信から自然に︑法雨のはたらきとして湧き起ってくる常行大悲の利他活動がその本質となるものであり︑﹂れが遠く

それらを貫き越えた現生入正定衰の確

釈尊正覚の縁起法による自他一如の同体大悲活動の本質に相即することになるのである︒

①社会事業の定義として掲げたこの二者の中︑持者は一九O年国際連合の要請によって︑社会事薬研究所の定義草案作成委員会が作成し︑第五回国際社会事業協議会及び国

後者は孝橋正一氏のもの︵全訂社会事業概論三九ページ

その他︶で︑マルクス主義理論によってあらゆる社会現象

を解明しようとする学説の一環で︑社会構造を労資の対立

関係に分け︑わが国現在の社会的諸問題は資本主義社会制

度の欠陥によって生じたものであり︑社会事業はこの制度

③福祉六法とは生活保護法︑児童福祉法︑身体障害者福祉法︑精神薄弱者福祉法︑老人福祉法︑母子福祉法で︑この

六法の運蛍とその管理およびその他の社会福祉関係諸法律

との連絡調整のために昭和二十六年制定されたのが社会福

ところが其の後の異常な社会情勢の変動は︑社会事業の対象となる生活障害そのものの様相に大きな変化を生ぜし

仏教社会事業の本質と問題点 めた︒それは個人から集団︑地域へと問題の所在の規模が拡大するとともに︑その内容も経済︵貧困︶問題から複雑多様化し︑しかもその質が﹁汝済・治療﹂から﹁予防﹂となり︑さらに特定の状態にある人だけを対象するのでなく

③社会事業に直接従事している仏教々団出身ハ所属︶者に

ついては正確な調査資料がない︒昭和四十五年末の厚生省

調査によると︑福祉六法に定める各種社会福祉施設︿収容施設︑利用施設︵保育所・授産所・通園施設︶を含む﹀の

総数二三︑九一七の中で八︑一四八︵三七%︶が民間経営である︒正確な資料が得られないので筆者が在住する県の

実状から推定するとその中の約四|五割が仏教系のものであり︑そこに勤務する有給職員もこれと同率またはそれ以

上であると考えられる︒そしてこの数は毎年五八%ずつ

ラブ︑青少年団体の指導者等の中でボランティヤとして奉仕している仏教人はおびただしい数にのぼっているだろう

仏教社会事業の木質と問題点

が正確な資料も無いまま︑この人たちの活動を仏教社会事

業の枠内に入れることは今の場合差し控えることとする︒①社会事業と仏教との関係についての三型分類は全く筆者

の創作である︒代表として各型一人ずつの名を挙げさせて

第一類型は故海野幸徳元龍大教授である︒︵社会事業概

第二型は故京大教授河上肇博士である︒同氏の獄中賛語

︵ 四

O頁︶には次のような文章がある︒﹁世間の宗教家

達が無暗に吾々の領域に侵入してきて勝手な熱を吐くこと

を︑常に甚だ怪しからぬことに感じている︒︵中略︶今の

宗教家はよく社会問題に口を出す︒しかし社会問題は心の問題ではなく︑文字通り社会の問題である︒︵中略﹀それは宗教家の解決し得る問題でないことは︑病気の治療が宗

教家の問題でなく︑農作の改善が宗教家の問題でなく︑電気の利用等々が宗教家の問題でないのと全く同様である﹂

第三型は龍谷大学の孝橋正一教授の所論である︒氏はマルキストの立場にありながら仏教家が社会事業を行なうこ

⑤いわゆる﹁仏教的カラl﹂とは何色のことだろうか︒孝

橋教授は﹁仏教のもつ形式︑方法や儀式︑行事をそのまま

一 一

O

社会事業のなかに持ち込む﹂ことを否認し︑また原理的にも︑仏教思想が社会事業の上位概念あるいは基盤概念に取

り入れられることを拒否している︒︵仏教大学社会学部論

叢一九六八年号︶が︑それならば仏教社会事業が現実にその独自性を発揮するのはどういう形式においてであろう

か︒単に寺院の境内で事業が行なわれるとか︑施設の設置

主体の責任者が僧侶であるというような事だけでは仏教社会事業とはいい得ない︒教授はまた﹁仏教的カラl

﹁意味的に生か﹂せとも説かれているが︑これは具体的にはどうすることなのか︑この辺りにも本質に関連する現実

⑤日本国憲法第二

O条の二項タ何人も宗教上の行為︑祝典︑儀式又は行事に参加することを強制されないeお盆︑朝夕の仏前勤行など︶を行なう場合に想起する必要

現代の仏教社会事業家の中には︑この憲法条項の陰にかくれて︑施設の設備︵例えば︑仏問︑礼拝設備など︶はも

ちろん︑日課や年中行事等事業運告の全般にわたって宗教的色彩をなくし︑ことさら一般化しようとしているかに見

うけられるものがある︒朝礼や食時の合掌感謝に宗教味が無いばかりか︑花まつりはしないがクリスマスは毎年行な

要するに︑仏教社会事業の本質判定の基準は﹁経営者自

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