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L 4 川

ドキュメント内 真宗研究17号全 (ページ 139-153)

諸師の会通を検討するに先立って︑真諦訳﹃釈論﹄文を抄出すると︑﹁論回復次有一一四意四依

A一 切仏 世尊 教応 ユ随 決 了

釈日

如来

所説

正法

不レ

出ニ

四意

四依

一此

意及

依一

一由

三性

一故

可ニ

決了

一若

離一

三性

一無

一一

別道

理一

能決

一一

了此

法一

論日一平

等意

釈日

目言

如下

有レ

人執

巾平

等法

爾説

ム即

是我

世尊

亦爾

平等

法身

安一

一置

心中

一説

一一

如レ

是一

一一

口一

釈日

非一

一昔

昆婆

戸即

是今

釈迦

牟尼

一此

説中

以一

一平

等一

為レ

意是

名一

一通

平等

一若

一説

一一

別平

等一

謂因

果思

論日

警如

一一

説有

一昔

是時

中我

名ニ 見婆 戸一 己久 成仏

皆同

是名

−一

平等

意一

論日二別時意

釈日

若有

ニ衆

生一

由コ

欄堕

障一

不レ

楽ニ

勤修

行一

如来

以一

一方

便一

説由

ニ此

道理

一於

−一

来如

正法

中一

能勤

修一

一行

方便

説一

者論

日誓

如一

一有

説一

若人

語一

一持

多宝

仏名

一決

定於

ニ無

上菩

提一

不一

一更

退堕

釈日

是慨

堕善

根以

レ語

一一

多宝

仏名

一為

レ進

一一

上品

功徳

一仏

意為

レ顕

ニ上

口問

功徳

一於

一一

浅行

中一

欲レ

令下

於ニ

欄堕

一勤

中修

道上

不下

由−

曜論

一一

仏名

即一

不−

一退

堕一

定得

別時

意趣

会通

につ

いて

一 一

一 一

さて︑最初の会通者として﹃無量寿観経義記﹄の著者と推定される霊裕の説は︑

﹁問

若凡

夫生

−一

浄土

一者

何故

摂大

乗 論判 為ニ 別時 意一 耶

@ 

口方得往生﹂とあるのみで︑往生別時意を行願具足の形式で反証する後学の先駆者としての面影をわずかに窺うこと

答此

拠無

行人

故云

ニ別

時意

一:

::

案無

行之

人空

発一

一於

願一

此但

為ニ

遠生

之因

一故

一五

二別

時意

一要

行願

がで

きよ

う︒

⑨ 撰者に問題のある﹃浄土十疑論﹄には︑第八疑の中に

﹁上 古相 伝判 ニ十 念成 就一 作ニ 別時 意一 者此 定不 可

何以

得レ

摂論

云由 ニ唯 発願 一故 全無 レ有 レ行 雑集 論云 若願 レ生 一一 安楽 国土 一即 得一 一往 生一 若聞 ニ無 垢仏

名一

即得 ニ阿 蒋菩 提一 者並 是別 時之 因全 無レ 有レ 行若 将一 一臨 終無 間十 念猛 利益 口行 一是 別時 意者 幾許 誤哉

⑮ 

﹂と

あり

願諸

行者

深思

一一

此理

一白

牢一

一其

心一

莫下

信ニ

異見

一白

墜陥

﹁論註﹄巻上の三在釈に基き念仏の力用を強調するのであって︑十念を行と見ての願行具足説である︒

しかし︑摂論家より難ずる所以は︑凡夫所修の行業が円修の行に価するか否かを詰問するのであり︑我々が注意すベ

きは寧ろ﹁論註﹄の三在釈における曇鷺の名号観であろう︒機は下下品の悪人︑法は実相法︑真実清浄無量功徳名号

@ によるという対応は︑曇驚に別時意会通の意図があったか否かを問題外としても︑おのずから会釈の態をなしている

と見

てよ

い︒

﹃論

註﹄

には

十地を超出する早作仏の論理を釈迦教でなく弥陀教の立場で証明してあますことなく︑

また五念門を此彼ニ土分釈する意義も︑作願門の生即無生説におのずから往生︵唯願︶別時意の会釈を示し︑とくに

大菩提心たる願生心の本質を明らかにし︑名義相応︑名即法を説く讃嘆門の名号観におのずから成仏︵一行︶別時意

を完全に釈答しているのである︒宗祖の大行論・現生不退説︑等が之嗣註﹄によること極めて大きい理由もここにあ る︒従って別時意会通の基礎は﹃論註﹄に成就してあるといってよいのに︑諸師の会釈は﹃十疑論﹄を除いて殆んど

﹃論 註﹄ にふ れて いな い︒

単に願行具足をいうならば︑すでに東晋の僧肇に﹁至心一念ニ阿弥陀仏一滅一九十億劫生死罪一何況多念即是願行相扶

⑫ 何為レ不レ得﹂と述べ尽されているのであって︑問題の核心は願と行の本質に存するのである︒

さて︑道緯の﹃安楽集﹄巻上第二大門︑第二に九種の呉見邪執を破る最後に︑

﹁古

来通

論之

家多

判ニ

此文

二五

﹂と

て下下口問往生に対する金銭の聡説をあげ︑

﹁如

レ此

解者

将為

レ未

レ然

何者

凡菩

薩作

レ論

釈レ

経皆

欲下

遠扶

一一

仏意

一契

申会

聖情

若有

一一

論文

v

者無

レ有

−一

是処

今解

ニ別

時意

語一

者謂

仏常

途説

法皆

明ニ

先因

後果

一:

::

今此

経中

但説

下一

生造

レ罪

臨ニ

命終

時一

十念

成就

即得

申往

生ム

不レ

論ニ

過去

有因

無因

一者

直是

世尊

引ニ

接当

来造

悪之

徒一

令ニ

其臨

終捨

レ悪

帰レ

善乗

レ念

往生

一是

以隠

何以

得レ

知下

但使

一一

十念

成就

一皆

有中

過去

因吋

﹂と

述べ

て︑

﹃浬

其宿

因一

此是

世尊

隠レ

始顕

レ終

没レ

因談

レ果

名作

一一

別時

意語

L

の過去発心供仏の文を例証し︑

﹁十

念成

就者

皆有

一一

過因

一不

レ虚

若彼

過去

無レ

因者

善知

識尚

不レ

可ニ

逢遇

一何

況十

念而

可ニ

成就

一也

主 乗 閉

富論

;z::;; 

理 下以

亦 ニ無 −

L

F

若!(

尋 解 金

此 千 即 ?

上 非

順ニ

ム 日

手 思

ド ム

合 者

善事 雨 量

語飲 論る

ノ「日下扶 衆

往 生生 多

路 事

事告 雲 色

也晶じ、

」?合:

と 往

釈 生

J J

子 若 る 望

が みロ冊

特色は

ω

﹁摂論﹂の別時意説を認め︑

ω

下下口問の十念に限定して弁証し︑制別時といわれる過去の歴史を宿諮問︵前因︶

とし十念成就︵後果︶の意味を明らかにして︑偶然と必然との交点を示しつつ︑経説尊重の基本姿勢を確立したこと

であ

る︒

おそらくこの発想は︑四意趣の持つ仏如意方便を領解しての上であり︑特に別義意・衆生楽欲意との関係が窺われ

ょう︒道縛だけでなく︑善導の要弘二門︑元祖の廃助傍説︑宗祖の隠顕釈なども四意趣的な主体性に立つ領解といえ

るのである︒難者も答者も別時意を他の三意趣ときり離して論ずるならば︑経意も論意も皮相的見解にとどまり︑形

を暗示するものであり︑ 諸善万行←念仏の必然的廻心を示すもので︑聖道諸教方便説

﹃安楽集﹄巻上には﹃浬繋経﹄意による発心供仏の文も引証されて︑宿善が廻心の基盤とな 式論理に終始するのである︒道紳の宿善による解釈は︑

る所以を重説しであるから︑その指向性において宗祖のコ一願転入説と規を一にするものといえよう︒

別時

意趣

会通

につ

いて

一 一

一 一

別時

意趣

会通

につ

いて

一 一 一 一

善導は面授の師道縛の会通説を伝承しない︒

宿善の理念は随処に見られ︑遇法の歴史的背景を明す点で一致しているが別時意会釈の方法を異にして︑﹃玄義分﹄

第六 和会 門に

﹁会 通別 時意 者即 有一 一其 二二 論云 如下 人念 一一 多宝 仏一 即於 ニ無 上菩 提一 得

γ

一一

退堕

一者

凡言

一一

菩提

一乃

是仏

果之

⑬ 

名亦 是正 報道 理成 仏之 法要

須一

一万 行円 備方 乃魁 成一 宣将

ニ念

仏一 行一 即望 レ成 者無 レ有

一一

是処 こと 先ず 成仏 別時 意を 提示

⑮ ﹃玄観門義﹄四には成仏別時意

し︑往生別時意に及んでいる︒学者達は︑この成仏別時意説を示す理由を推考して︑

を行

門︑

往生別時意を観門に配釈し︑

⑫ 

﹃玄義分伝通記﹄五には︑付往生・成仏の難易を分別し︑

ω

念仏が行であることを示し︑唯願別時意でない所以

成仏別時意において一代行門すべて方便とし念仏一門を真実と立てる意と解

を し

明す とい って おり

︑真

宗の 先学 では

︑神 輿師 が付

為レ

判一 一依 正差 別一 故︑

︒為 レ成 一一 念仏 即行 一故

⑮ 

いる

との二由を指摘して

しかし問題は残っているのであり﹃華蹴経﹄文﹁唯知二行一所謂念仏三昧﹂の引例は︑

地上 の大 土の 行で あり

﹁摂論﹂念多宝仏の行が凡夫の行であるのに対して︑

聖人凡夫の位に関わらず浅深の別はあっても同じく行であるか

ら例証すると解釈するものあり︑

あるいはぬ頓漸二教の中﹁門門不同名漸教﹂として聖道教は随縁起行の法であり︑

華厳・法華の念仏は別時に属するの意︑︵叫深理に約して華厳円頓の教︑

円機に対しても念仏を勧めるのは︑念仏こそ 万行の最勝であるとの意を︑示すものとも理解されている︒①は︑聖道別時意︑聖道方便説への指向を示し︑⑨は︑

念仏が価値的に一行が万行円修かを聞い︑証果的には不退の時︵現生・後生︶処︵此土・彼土︶を問わんとするもの であ ろう

︒す なわ ち﹃ 法華 経﹄ 提婆 品文 に﹁ 仏道 懸噴

経一

一無 量劫 一勤 善積 レ行 具修

一一

諸度 一然 後乃 成:

:: 斗と

あり

︑善 導が

﹁道 理成 仏之 法要 須一 一万 行円 備方 乃封 成こ と述 べ︑ かかる一行未成の未来完了的時制と﹃法華経﹄文﹁一称南無仏皆 己成ニ仏道この現在完了的時制との論理的矛盾が追求され︑善導は﹁論中称仏唯欲三白成ニ仏果﹁経中称仏為レ筒ニ異九

十五種外道こと答え︑結局即時成仏を否定しているのである︒ @ 

﹃法

華文

句﹄

には

︑ 一称 南無 仏を 施権

皆己成仏道

を顕実としているが︑善導の成仏別時意観は大きな課題を提示したといえるであろう︒第二の往生別時意は有名な願

行具足論で会釈してあるが︑

﹃摂 論﹄ の批 判は 下下 品に 該当 しな

いこ

と︑

そして経証として﹃小経﹄の執持名号文と

証誠護念文を引き︑仏説と菩薩説の権威を比量し︑四番の問答を設け付唯願不生の義を決し︑り唯行別時を説かぬ理

を示し︑同願と行の差別を明し︑帥唯願不生の説明をしている︒ついで﹁十戸称仏即有十願十行具足﹂とて六字釈を

あげ

︑更 に両 別時 意の 関係 をか えり みて

﹁称 一一 多宝 仏一 為レ 求一 弘果 一即 是正 報

@ 難レ期一行雄レ精未レ越依報易レ求所以一願之心未レ入﹂と判定しているから︑終始両別時意の比較により論旨を進め︑

下唯

発願

求レ

生ニ

浄土

一即

是依

報:

・・

:正

報 念仏一行と成仏の関係︑願行具足の形態・時制の関係について多くの問題を提供したといえよう︒そしてより重要な

⑫ 

凡夫入報を許す善導の立場とそれを許さぬ摂論学徒の立場との矛盾であり︑後者の論理では凡夫の往生

アポ

リア

は︑

を化土と限定するから行願具足しても報土に対しては依然別時意であり︑唯願の批判をまぬがれない点にある︒迦才

﹁浄土論﹄に付道理︵教理対応・了義経不了義経相対・行願兼修・論主造論願生は摂論教学を曾修した経験により︑

・本

為九

夫兼

為聖

人︶

ω

文証︵十二経七論︶をもって弁証しているが︑﹁若仏経中説三衆生発レ願則得ニ往生一者並是別

時意

説不

レ得

一一

往生

一也

﹂ の例 とし て﹁ 小経

﹄巳 今当 発願 往生 をあ げ︑ ゴ一 福十 六観

︑ 発菩 提心

︑七 日念 仏︑

発願廻向十

念往 生な どを

﹁如 レ此 等経 並是 往生 即非

−一 別時 一也

﹂と 会し てい るが

︑= 一経 の往 生行 を別 時で ない と判 じな がら

﹃小 経﹄

 

の発願を別時意視する点に問題があり︑願の本質が探究されねばならなかった︒元暁撰述が疑問視されている﹃遊心

安楽道﹄七解妨除疑の下にも迦才の会釈と同趣の文が見られる︒神泰も亦︑十念成就を行と解釈し︑順次往生を肯定

⑤ 

して

いる

窺基は

﹃阿

弥陀

経疏

﹁払

坦一

一一

口ニ

別時

意一

者有

一三

意二

以三

彼土

増上

楽処

非ニ

少福

能生

二一

見一

一衆

生多

不レ

修レ

道空

唯発

別時

意趣

会過

につ

いて

二 一 一 五

ドキュメント内 真宗研究17号全 (ページ 139-153)

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