第 12 章 経験主義国語教育の実践的理解(4)―「昭和二十六年度 改訂学習指導要領国語科編(試案)」における経験概念―
1951(昭和 26)年に発行された学習指導要領(「一般編(試案)」(3 月)、「中学校高等 学校編(試案)」(7 月)、「小学校編(試案)」(12 月))は経験主義の教育課程の「一つの到 達」1として位置づけられている。
22 年度学習指導要領国語科編がCIE主導で作成されたのに比し、改訂版である 26 年度版 はCIEの指導下にはあったが日本側の自主性が認められた体制となる。文部省内外の第一線 の研究者・実践者により委員会が組織2され、1948(昭和 23)年 12 月から作成が開始され た。作成にあたっては発行直前の 1951(昭和 26)年に入っても修正が施されたが、同時期 は能力主義・系統主義、文学教育、あるいは生活綴り方といった立場から経験主義教育へ の批判が噴出した時期でもあった。その代表的なものに、経験主義は皮相的な技術主義で あり、社会適応主義的な思考しか育成し得ないという批判3があった。結局、26 年度版学 習指導要領の編集過程には、導入された経験主義教育をわが国の国語教育にどのように摂 取し教育課程の上に具現化するかという課題とともに、噴出する経験主義への批判にどの ように対処し学習指導要領の立場を提示するかという課題があった。
本章は以上の問題意識に立ち、26 年度学習指導要領国語科編の「書くこと」における経 験概念の問題を中心に考察を加えている。特に「書くこと」に示された反省力という表現 を手がかりにし、以下の点について検討を加えた。
① 26 年度一般編、中・高等学校編、小学校編における反省力とはどのような力か。
② 反省力には日本側のどのような理解が反映したか。
③ 反省力に代表される思考力は「国語能力表」にどのように記述され、実践的理解に 到ったか。
なお、②に関しては 26 年度版小学校編の編集に携わった滑川道夫、梅根悟の論稿を取り上 げ、特にデューイの「反省的思考」との検証を行っている。また、③に関しては小学校編
「国語能力表」とともに中・高等学校編の実践的な啓蒙を目的として発刊された『国語科 学習指導要領の実践計画 中学校高等学校編』(国語科学習指導要領研究会編:六三書房 1951(昭和 26)年)を取り上げ、考察の対象とした。
第1節 26 年度学習指導要領「書くこと」における反省力 1 反省力の内実
26 年度学習指導要領一般編「各教科の発展的系統」、国語科の「書くこと」には次のよ うにあり、書くことを通した「めいりょうな思考力」「注意深い観察力」「反省力」の伸長 が目指されている。
文を書くことは,めいりょうな思考力を練り,注意深い観察力や,反省力を伸ばす上に大
いに役だつものである。さらにまた,個性に応じて,好きな文や,詩歌などを創作するこ とは,表現のよろこびを与えて個性を豊かにするものである。4
この反省力とは日本語としてややこなれていない文言ではなかろうか。この内実について は「中学校の国語科の計画」の「中学校における書くことの学習指導の意義」に次のよう に具体化されている。
〔文を書くことは、めいりょうな思考力を練り、注意深い観察や、反省力を伸ばす上に役 だつ。〕/文章を書くには、物を見る態度や、経験を回想する力や、書きながら考えをめ ぐらす力や、書いたものを、たんねんに見直す力などがなければならない。/小学校のこ ろと違って、読む相手、文を書く目的もはっきりしているはずであるから、その目あてに 従って注意深く筆を進めていくうちに、右のような力が自然に伸びていく。書くことが個 性を伸ばしていく上に、重要な働きをするのは、このような経験からであるといってもよ かろう。5
文脈では「経験を回想する力」や「書きながら考えをめぐらす力」、「書いたものをたんね ん見直す力」と言い換えられ、反省力は文章を推敲する力という狭い解釈ではなく、自分 の経験や考えを表現と対照しつつ、吟味し思考する力を意味している。
以上の能力は 26 年度版小学校編でも同様に重視されている。「一般的目標」には「4 自 分の考えをまとめたり、他人に訴えたりするためには、はっきりと、正しく、わかりやす く、独創的に書こうとする習慣と態度を養い、技能と能力をみがく」6とあり、次に示す ように「国語能力表」には反省という文言がみてとれる。
(1 年の5)自分の行動や身辺のできごとなどについて、簡単な文を書くことができる。
(2 年の4)身近な生活の報告や記録を主とした簡単な文を書くことができる。
(4 年の7)多角的に取材して、まとまりのある生活日記を書くことができる。
(6 年の3)自分の生活を反省し、文を書くことによって思索することができる。7
低学年や中学年においては「自分の行動や身辺のできごと」、「自分の生活」を題材としな がら観察したり取材したりして書くことが、最終学年の第 6 学年においては「生活を反省 し、文を書くことによって思索すること」が目指されている。ここでの取材や観察、反省 の対象は生活であり、自分や身近なできごと、生活に対して考え、観察し、反省し思索す る力の育成が尊重されている。
2 「書くこと」における思想性
ここでいう「書くこと」の生活にはどのような題材が提案されているのだろうか。その
特質をより理解するために教育課程における国語科の位置づけを確認しておきたい。小学 校編、中・高等学校編に共通して記載された「まえがき」の「国語科はどんな方向に進ん でいるか」は以下のように述べている。
三 国語の教育課程は、読み方・書き方、というような科目に分れず、学習活動は、中心 的な話題をめぐって総合的に展開されるように組織されることが望ましい。 /(中略)
聞くこと、話すこと、読むこと、書くことが、児童の必要と、興味と、能力とに応じて広 い範囲の、価値ある話題によって組織される。このようにして、児童に、聞く、話す、読 む、書く技能が得られるような経験を与える8。
26 年度小学校編では、全教科を「四つの大きな経験領域」に分け、国語科は算数科とと もに「主として学習の技能を発達させるに必要な教科」に位置づけられた。問題解決学習 としての社会科を中心とした教科再編の試みである。国語学習の話題や問題としては以下 が示され、「書くこと」も広範な対象に対して認識や思考を深めていく学習活動の一環に位 置づけられた。日常生活では「日常生活のさまざまな断面、家庭・学校・社会の行事、四 季自然のうつりかわり等 5 項目」、児童の興味ある活動として「動植物の生活や生態、遠足・
旅行、ラジオのプログラム、映画、日々のニュース等 7 項目」、読むことを主とする学習材 料として「文学作品や神話・伝説、国語の他、伝記、自然科学の原理や生活環境の科学的 な記録、協同奉仕の精神や人類愛・国際平和・国際協調などの精神を啓発するもの等 14 項目」である。
一方、教科目として位置づけられた中・高等学校でも同様に教科の思想性9が問われた。
「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの題材がでてくるが、それは当然、教育全般 の目標に応じて選ばれなければならない。この場合、国語科としては、道徳教育・民主教 育・国際的理解親善に寄与することを心がけるべきである」10と述べ、教材内容の内実の 如何が問題とされたのである。
以上のように 26 年度学習指導要領国語科編では「書くこと」を通して広範な題材に対し ての思考力、観察力、反省力の伸長が目指された。端的に言えば、生活や環境と自分との 関わりを問い直すところに働く思考や認識の機能が重視されたのである。
第2節 26 年度学習指導要領「書くこと」における経験概念の把握(1)
26 年度学習指導要領国語科編「書くこと」を担当した委員に、先に検討した滑川道夫が いる。また石橋勝治の実践をコア・カリキュラムとして評価した梅根悟は全編の編集に加わ っている。以下、両者の立場を確認しつつ反省力の内実についても検討を加えていく。
1 滑川道夫の「生活教育
」(1) 生活綴り方と学習指導要領「書くこと」の止揚
滑川は 26 年度学習指導要領国語科編発行の翌年、論文「生活文はなぜかかせなければ ならないか」(雑誌『作文と教育』1952(昭和 27)年 4 月)11の中で「綴方と作文は、た がいに敵ではなくみかたである。おそるべき敵は外にある。それは、子どもにも、おとな にも、真実の声を文で発表させなくする『言論抑圧』の風潮でなければならない」と述べ、
戦前の生活綴り方と学習指導要領における「書くこと」を同一とする見解を提示する。
滑川は 26 年度版「国語能力表」に生活文への配慮があるとした上で、「『生活に根をお ろし、生活に帰ってくる』(学習指導要領のことば)ということは、つまり、作文でいえば、
生活の中でたがやされて、それが身についた生活の力となって具現する状態をいっている」
「結局は『生活文』をバック・ボーンにして、その展開されたすがたとしての、さまざま なジャンルの指導が行われなければ、表現技術練習がどんなに訓練されても、生活の力と して身についたものにならない」12と述べ、展開した生活面の表現として実用文、科学文 が位置を占めていた戦前の生活綴り方の伝統を「新しい作文が継承しなければならない」
と結論づける。滑川は、学習指導要領による作文においても「生活のしかた(生きかた)、
考えかた、感じかたにむすびついてくる」文字表現の力をこそ育てるべきであり、「われら いかに生くべきかに無関心な表現技術指導」は生活の力として位置を占めない13と主張す る。
(2)滑川道夫の「生活の力」とカリキュラム観
では、滑川の言う生活の力の内実はどのようなものなのだろうか。滑川は生活とは「直 接的経験」であり「間接経験も思考経験もふくんだ全体」であると述べる。さらに、生活 は「人間の生活体と環境」とが「たえずはたらきあっている実態」であるとし、生活力に ついて「環境(日常的生活環境・社会環境)に適応するとともに、環境をつくっていく力」
と定義する。生活力には「体力・言語力・数理力・科学力・芸術的能力・社会的能力とい ったもの」があり、「作文の力は言語力と芸術的能力にふくまれる」14とし、書くことに よって対象や環境に働きかけていく力の育成を志向する。
ここで滑川の教育課程(カリキュラム)に対する立場を確認しておきたい。当時、滑川 は国語学習指導の学習計画を4つのコースとして試案している。論文「国語単元学習が成 立するか」(『教育技術』5 巻 6 号小学館 1950(昭和 25)年 9 月)の注記には次のようにあ る。
わたしは学習計画として、生活経験を中核とする生活学習と、言語力・体力・科学力・数 理力・芸術(鑑賞力創作力)の五つの基礎学習と日常生活学習と個人の自由研究と四本の コースをもっている。国語教育として見ても、結局どのコースにおいても学習されること になるが、もつとも時間的に力の入れられるのは基礎学習であるが、それをもつて中核と いう考えかたはしていない。小学校の場あいである。
以上の立場は、1949(昭和 24)年 4 月に刊行された『新教育事典』(平凡社)の「国語
教育」の項目においても同様に示されている。「学校における国語教育はひろく社会生活の 中に生起する国語教育現象中もつとも意図的具体的なものである。(略)国語学習指導は、
(中略)基礎的学習指導と、それらが統合された姿をもつ生活的学習指導とが関連し結合 した学習活動の指導として展開される」15と記され、話す、聞く、読む、書く、文法、文 学という「六つの面」における基礎的学習は、それらが「統合され」た生活的学習指導と 関連し結合することが重要だと述べている。
2 梅根悟カリキュラム論における「書くこと」
(1)『山びこ学校』への評価
26 年度学習指導要領国語科編作成中の 1950(昭和 25)年、梅根はカリキュラム連盟の 連盟案ともなる「三層四領域」16という主張を確立しつつあった。ここでの「三層」とは 日常生活課程、問題単元課程、関連課程であり、その問題単元課程が中心課程、すなわち コア学習となる。
梅根は無着成恭の『山びこ学校』に代表される生活綴り方をこのコア学習に位置づけ、
学習指導要領においては社会科が担う超教科的な課程として高く評価する。論稿「山びこ 学校について」(『生活綴り方と作文教育』金子書房編集部 1952(昭和 27)年)の中で「無 着綴方は、綴方教育とか作文教育というような枠の中では律し得ないものであり、律して はならないものである」とし、その本質について以下のように述べる。
社会科はそんな諸科学諸教科の寄合世帯ではなく、そのような分析諸科学、諸教科がそこ から発展し、また逆にそこに活用される具体的な社会生活上の諸問題をとりあげ、その解 決の道を探究する問題単元課程である。それは諸科学を教えるのではなく、青少年自身の 問題、彼等自らが彼等の親たちと共に同じ一つの問題的場面の中におかれていながら、そ の問題性は自覚することなしに、あるいはまた問題の深さを知ることなしにすごしている ような問題、そのような問題を問題として自覚させ、その解決の道を探究させること自体 を目的とし、またそのような問題の探究と解決に向って反省的思考をたくましく働かせる ような人間の形成を目的とするものである。17
『山びこ学校』において子どもたちは学習を積み重ねる過程で、村の一番の問題はなにか という問題を追究していく。これは梅根のいう「問題性を自覚することなしに、あるいは また問題の深さを知ることなしにすごしているような問題」を自覚することである。子ど もたちは書くことを通して米の収支計算、田畑の面積計算による四則計算と数量的思考、
村の実態調査などの現実分析を行い、自分たちが直面すべき問題を追究する。その実践は 無着の立場からすれば「現実の生活について討議し、考え、行動までも押し進めるための 綴方指導」18であり、梅根のいう「問題の探究と解決に向って反省的思考をたくましく働 かせる人間の形成」に資する学習であった。
梅根は、教育課程に、生活活動を基盤として行われる問題単元課程、すなわち真の意味 での社会科を存置する必要を繰り返し強調している。そしてそういった学習における問題 の発見や自覚に際して国語学習が重要な契機となるとした上で、問題単元課程における読 み書く活動を重視する。
問題が設定され、研究の方法が明らかにされ、研究が始められるのであるが、この単元展 開のプロセスにおいて各種のそして多量の参考書、参考文献が読まれ、また面接記録、調 査記録、討議記録、報告書、依頼状、招待状、意見と感想文、体験記録など多種多様の作 文活動が行われえることは周知の通りである。そしてそのような読書と作文の活動を必要 ならしめる如きシチュエーションを多く持ち、そのシチュエーションで読書と作文の指導 が入念に行われている単元指導程、単に国語指導の立場からでなく、単元そのものの、第 一のねらいである問題解決そのものが徹底的に行われている指導であることは確かであ る19。
「問題解決そのものが徹底的に行われている」ところとは各種記録、報告書、依頼状等の 実用的作文、さらに意見や感想文、体験記録を含めての書くことが「必要ならしめる如き シチュエーション」とともに「入念に行われている指導」である。
梅根は無着の『山びこ学校』を自身の問題解決学習における「書くこと」が具現化した 社会科実践として評価し、その契機としての読み書く活動に同時に意義を認めている。そ こで梅根が重視したのは必然的なシチュエーション(場)における書くことであり、自覚 すべき問題について思考する機能そのものであった。
(2)デューイ経験論との関連
一方、梅根は当時の経験主義への批判に対してデューイ経験論に立ち返って乗り越えよ うとする。1950(昭和 25)年1月、論文「生活単元と問題単元―生活カリキュラム構造論 の反省と批判」(雑誌『カリキュラム』誠文堂新光社)の中で、戦後の新教育が「はいまわ る経験主義」と揶揄される活動主義、皮相的な技術主義に陥る危険性を指摘した上で「『デ ューイーにかえれ』これが私の自己反省であり、新しい定義である」20と述べる。
ここで注目したいのは前掲の梅根論文にある「反省的思考をたくましく働かせる」とい う文言である。この記述にみえる「反省的思考」とはデューイ経験論のキーワードの一つ であり、また前節で検討した 26 年度学習指導要領「書くこと」にも反省力という文言がみ られた。この一致をどのようにみるべきであろうか。梅根が「反省的思考」をデューイの 論稿から引用したという直接の資料は認められない。また、26 年度学習指導要領の「書く こと」における反省力とデューイ経験論との関連に言及した資料も、管見の限り認められ ない。しかしながら梅根が経験主義教育への批判をデューイ経験論の再評価という立場か ら行おうとしたのはなぜか。また 26 年度版学習指導要領の反省力の内実とは何か。以上を 検討する上でデューイ論における「反省的思考」の検証は必要であろう。
「反省的思考」における反省とは「reflection」の邦訳、「連続的に交互作用を行うこ と」を指す。自分(主体)ともの(客体)との関連を連続的に問い直す過程における思考 作用であり、デューイはその著作『How To Think』の冒頭、「精神の内部に思考の問題を見 いだし、この問題を重視し、この問題を連続的に思考するもの」21と定義している。デュ ーイの「経験」とは「個体と環境との連続的な交互作用の過程」すなわち「反省(reflection)」
を伴う過程であり、人間が知覚や観念をとおして直接に自分(主体)ともの(客体)との 関係を問い直す交渉の過程に意味や思考が含まれる作用である。
そもそもデューイ経験論の本質には相互作用・再構成という概念がある。そこでは主体、
客体ともにそれ自体の真の関係が問題にされ、主体と客体との相互作用によって客体の真 理の探究が目指される。1952(昭和 27)年、森昭はデューイ経験論の根本に主体と客体と の「受動・能動の交互活動」22があり、主体の働きかけは客体の変容をも成立させるもの として意義づけた。ここで重要なのは、相互作用や交互活動という概念が客体の変容をも 視野に入れていることである。これは当時盛んに主張された、生活綴り方が客体(社会)
を対立的・矛盾的なものとしてとらえるのに対し、経験主義は客体(社会)を相対的・連 続的なものとしてとらえる23という把握を理論的に覆す。
梅根がデューイ論に学ぼうとした点はこの点と推察される。問題単元課程における目的 に「問題の探究と解決に向って反省的思考をたくましく働かせるような人間の形成」をお く梅根は、現実社会への適応をのみ志向する表面的な生活主義に陥るのではなく、客体(生 活や環境)と主体(自分)との真の交互作用を志向し、客体に働きかける主体として思考 する人間の形成を目標とした。ここでの客体(生活や環境)は学校教育におけるあらゆる 教科学習、教科外学習のすべてを内包する。梅根の『山びこ学校』の評価も、問題解決課 程における読み書く学習の尊重も以上の論点からとらえることができる。
3 経験概念の問題
梅根が高く評価した「反省的思考」に象徴されるデューイ経験論はこれまで検討した 26 年度学習指導要領の立場、滑川の立場、それぞれとの共通性がある。滑川によれば生活と は経験であり、「人間の生活体と環境」とが「たえずはたらきあっている実態」であり、「環 境に適応するとともに、環境をつくっていく力」こそが求められる。この力は学習指導要 領でいえば思考力、観察力であり「生活を反省し、…思索する」力すなわち反省力である。
両者で重視された主体と客体の関わりを「反省(reflection)」するところに働く感情や思 考、認識の力は経験概念の本質から必然的に尊重されたものとみてよい。
22 年度学習指導要領においては、経験主義教育観の直接の反映であった社会科において、
人、自然、国家、制度といった対象を対象化し、自他の関係性を認識する学習、学習者が 真に主体となる学習が志向された。しかしながらその啓蒙は十分であったとはいえない。
26 年度版学習指導要領においては経験主義の摂取にあたり、戦前の生活綴り方の立場との 共通性に立脚し、デューイ経験論の再評価の立場から経験概念が個々の言語技術の養成と
いう表面的なところで理解されがちな状況を打破しようとしたといってよい。
結局、経験主義教育の理解と摂取は経験概念の把握の問題でもあった。経験を文字通り の直接的な体験としてではなく、主体と客体との連続的な交互作用ととらえること、26 年 度学習指導要領国語科編はその共通理解に到った段階とみてよい。実際、同版学習指導要 領の啓蒙と実践的な理解を目的として発刊された『国語科学習指導要領の実践計画 中学 校高等学校篇』(1951(昭和 26)年 10 月 六三書房)24にも飛田多喜雄によって次のよ うな経験概念が記述されている。
経験は、何かの対象にはたらきかけ、対象からの反応をとりいれ、さらにまたはたらきか けることだといわれている。いわば、経験は生活の問題であるとも言えよう。従来は経験 といえば、過去をふりかえるもの、思考とは反対のばらばらなもの、主観的、心理的なも の、知性に付随した説明的、消極的なものとして考えられやすかった。しかし、知識の充 満した経験、能動としての経験は、もっと進歩的であり、創造的であり、客観的であって、
未来への突出を意味するものでなければならない。経験は思考としゃだんされるものでは なく、深く結びあつているものである。むしろ知性は経験の結晶であり、経験から生ずる ものと考えることもできよう。同じもののうらはらと考えられる経験と知性は、新しい国 語学習指導にあたって十分研究されなければならない問題である。このような経験を充実 し、次ぎ次ぎと生徒の経験を再構成し、再組織して人間的な生長をはかるためには、それ ぞれの発達段階に即応して、どのような経験が、いかなる時に必要であるか慎重に工夫し 計画されなければならない。(「第二章 中学校国語科の学習計画 五 言語経験表」)
経験は「知性」であり「生活」であるという認識は経験を教育における質的状況として把 握している。この段階で経験概念は抽出可能な要素的な言語経験ではなく、対象との思考 や認識を連続的に意味づける学習の状況として記述され把握されたのである。
第3節 26 年度学習指導要領「書くこと」における経験概念の把握(2)
1 小学校編「国語能力表」の提案
以上の共通理解に立ち、次に問題となったのは「どのような経験」が「いかなる時に必 要」であるかという学習計画の問題である。26 年度学習指導要領小学校編では「児童の活 動の目安」として「国語能力表」を提示、中・高等学校編においては指導目標および言語経 験が示された。
26 年度学習指導要領における「書くこと」は先に述べたように、思想性を有する広範な 題材や内容に関して自身との関係を思考し認識する意義が求められた。また CIE の係官が 繰り返し啓蒙したように、経験主義教育観における「技術」としての「書くこと」は思考 や認識の方法・全体であり、全教育活動において基本となる能力であった。その点は「国 語能力表」にどのように反映されているだろうか。以下の(資料1)は「書くこと」にお
ける思考や認識に関わる能力を抜粋し、①題材、②形式、③思考・認識の過程や方法につ いて整理したものである。
(資料1)「国語能力表」の「書くことの能力(作文)」
学年
能 力
継続学年 ① 題材
② 形 式
③思考・
認識の過 程や方法 1 5 自分の行動や身辺のできごとなどについて、簡
単な文を書くことができる。
1−2 行動 身辺
2 1 生活を主とした絵日記を書くことができる。
3 感情のこもった短い文を書くことができる。
4 身近な生活の報告や記録を主とした簡単な文 を書くことができる。
7 順序正しい筋の通った文を書くことができ る。
1−3 1−
2−3 1―3
生活 生活
記録 報告
感情 順序 3 1 飼育栽培などの長期にわたる記録が書ける。
3 日記・手紙・報告などを書くために、その素 材をまとめることができる。
2−4 2−4
飼育 栽培
記録 日記 手紙 報告
素材をま とめる 4 1 読んだ本について、その荒筋や感想が書ける。
7 多角的に取材して、まとまりのある生活日記 を書くことができる。
3−5 3−6
本
荒筋 感想 日記
取材 5 1 調査や研究をまとめて、記録や報告の文が書
ける。
5 書いたり話したりするために、素材を整えて 簡単な筋書きをすることができる。
13 多くの作品を読んで、書く能力を高めること ができる。
4−6 5―6 4−6
作品
記録 報告
調査 研究 素材を整 えて 6 1 映画・演劇・放送などについて、感想や意見
を書くことができる。
2 自分の意見を効果的に発言するために、原稿 を書くことができる。
3 自分の生活を反省し、文を書くことによって 思索することができる。
4 読んだ本について紹介・鑑賞・批評の文を書 くことができる。
5−
5−
5−6 5−6
映画 演劇 放送 生活 本
感想 意見 意見 紹介 鑑賞 批評
反省 思索 鑑賞 批評
まず題材では、発達段階に応じての系統化への配慮がよみとれる。低学年では自分の行 動、観察や記録の対象となる身辺の生活が中心であり、中・高学年では本や作品、さらに 映画や演劇、放送といった言語生活全般が対象となっている。これは同指導要領に示され た単元例25の系統性とも通じる把握であり、滑川が「直接経験的なものを主流にして、二 年生ごろから間接的な経験もかくようになり、高学年に進むにしたがって、思考的な経験 もいくらかかけるようになっていく」26と把握する系統とも共通する。次に形式であるが、
記録、報告、日記から感想や意見、批評へという段階性が認められる。記録や報告に関し ては「身近な生活の報告や記録」(第2学年)から「調査や研究をまとめて、記録や報告」
(第 5 学年)といった題材の難易による系統的な取り扱いへの配慮もなされている。
ただ思考過程に関しては、系統や体系への配慮はあるが十分とはいえない。「国語能力 表」の問題として「言語の能力が十分に抑えられていないことにより具体的な学習活動と 結び付きにくい面」27が指摘されているが、ここでもその点は同様である。例えば「多角 的に取材して…」(第 4 学年)とはどういう言語活動を展開することか。「素材をまとめる」
(第 3 学年)と「素材を整える」(第 5 学年)とは実際どのように異なるのか。また、「反 省し、文を書くことによって思索する」(第 6 学年)という能力は自身の生活や環境への連 続的な思考や認識という意味で、どのような言語活動と結びつけるのか。
以上の曖昧性は思考・認識の過程や方法が「書くこと」に特化するものではないことに 起因する。実際、同能力表の「読むこと」には「文の内容や表記について、子どもらしい 批評ができる」(第 5 学年)「感想や批評をまとめながら読むことができる」(第 6 学年)が ある。また「第三章 国語科学習指導の計画」の「五 書くこと(作文)の学習指導はど うしたらよいか」には以下のような記述があり、批評という思考・認識がどのような題材 をどのような目的をもって読むことで保障されるのか、具体的な手立てや活動に即して提 示されている。
4 読んだ本について紹介や鑑賞や批評の文を書くためには、その内容を要約したり、好 きなところを抜き書きしたり、感想の要点を書いておき、それをまとめて文に表現するこ とから始め、まとめ方に慣れるに従って、初めから文に表現するようになることが望まし い。このようにしてできあがった文は、機会あるごとに発表し合い、意見を交換して、感 じ方・味わい方・批評の態度、文の表現のしかたなどについて反省するように導く。28
第7章で検討したように、「子どもらしい批評」という能力は「みんないいこ」読本の指導 書である『小学校国語学習指導の手びき』に具体化された「読むこと」の能力である。「思 考し、判断すること」という能力が同書でより分析的な「書かれた文章について子どもら しい批評をする」と示され、26 年度学習指導要領「国語能力表」に引き継がれた。批評は 読み・聞き・観るという理解と、書く・話すという表現が一体となるところに働く能力であ り、その点に配慮した具体化がなされるべきであった。
以上のように、「国語能力表」では思考構築の方法や過程に関して題材、形式における系 統化への配慮は認められるが、読む、書く、話す、聞くを総合的に展開する言語能力とい う点での系統や体系は曖昧であったといってよい。
2 中・高等学校編「書くこと」における言語経験と単元学習
以上に検討した、総合的な能力としての思考・認識の過程や方法を具体化しているのが 中・高等学校編における単元例「伝記の読み方」である。
(1)言語経験の一覧
まず石井庄司らによる『国語科学習指導要領の実践計画 中・高等学校編』(国語科学
習指導要領研究会編:六三書房)が提案した「言語経験」を挙げてみよう。これは学習指 導要領の示した言語経験を補足し再分類した言語経験である。中学校は飛田多喜雄による 学年別、言語経験別に示された「言語経験表」から「主としてかくことを中心とする言語 経験」第1学年を抜粋した。高等学校は増淵恒吉により生徒の言語経験としての「書くこ と」が以下のように示されている。
(資料2)中・高等学校における言語経験の一覧
中学校「言語経験表」 高等学校 言語経験「書くこと」
○ 来客の応対をして伝言をかきとめ る。
○ 家庭において生活日記をつける。
○ 弟妹の所持品に記名する。
○ 各教科のノートの整理をする。
○ めいめいの感想録や感想文集をつく る。
○ 学級日記をつける。
○ 班の仕事、自己の仕事の報告文をつ くる。
○ 生活作文を書く。
○ 童話や紙芝居をつくる。
○ 学級行事のポスターやプログラムを つくる。
○ 学級の掲示や記録の文をかく。
○ 謄写刷りの文書の編集と校正をす る。
○ 学級新聞、学級文集の編集をする。
○ 各地の中学生と手紙をかいて交換す る。
○ 電報を打つ。
○ 習字や研究記録物の学級展示会をす る。
○ たえずメモを用意しておいて必要な 事項をかく。
一学校生活
(一)教室において イ 学習計画をつくる ロ 鉄筆 で原紙をきる ハ 研究発表・調査報告の草稿をつくる 二 講義を筆記する ホ 研究発表・調査報告の要点を 書きとる ヘ 意見や思想を書く ト 文章の大意や要 旨を書く チ むずかしい語句・文章の意義を書く リ 論説・論文を書く ヌ 旅行記を書く ル 手紙を書く ヲ 創作をする ワ 学習記録を書く カ 観察記録を 書く ヨ 板書する
(二)ホームルーム・生徒会・クラブ活動において イ 規約をつくる ロ 掲示・ポスターをつくる ハ
決議文・申し合わせ・宣誓文・檄文などを書く ニ 討 議会議の記録をとる ホ 講演のメモをとる ヘ 立 札・看板・案内状・招待状を書く ト 句集・歌集・雑 誌をつくる チ 学級新聞・学校新聞をつくる リ ル ーム日記を書く ヌ 見学・旅行・行事などの予定計画 書を書く
ニ 校外生活
(一) 家庭において イ ノートの整理をする ロ 研究発表などの草稿を書く ハ 調査・研究の結果 を書く ニ 雑誌・書物の読後感や批評を書く ホ 雑 誌・書物のサブノートをつくる ヘ 日記を書く ト 手紙や伝聞を書く チ 届書・願書を書く リ 映画評 劇評などを書く
(ニ)社会生活において
イ 見聞したことをメモにとる ロ 図書館で雑誌や書 物のサブノートをつくる ハ 講演会でメモをとる
ここでの言語経験は、学校生活にとどまらず家庭生活や社会生活を視野に入れ、要素的な 言語活動として提案されている。領域への意識はあるが、系統といった段階的な視点から は記述されていない。文学的な創作に比し、実用的かつ論理的な文章を書いたりつくった りといった言語経験が重視される傾向にあり、思考や認識、反省力につながる内実は具体 化されていない。
(2)単元「伝記の選び方と読み方」
以上の「言語経験表」に示された項目を生活や思考と関連させる経験として再構成し、
再組織するための学習計画が「単元」である。26 年度学習指導要領中・高等学校編の「伝 記の選び方読み方」(中学1年)において、思考や認識に関わる「書くこと」はどのように
扱われているのだろうか。「四 学習活動」の記述を抜粋して示す。
A 思い思いの読書
3 生徒たちが読んだ本の中で、好きな人物を選び、その人物についての絵入りの小冊子 を作る。
B 読んだ伝記についての批判
1 めいめいの読んだ伝記について受けた感じを要約する。
2 書物から与えられた興味を書きとめながら、一つひとつの伝記について学級内でその よしあしを検討する。
3 学級の相当大ぜいの者が、よいと判断した伝記はどんなものであるか、また、わるい と判断したものはどんなものであるか、伝記の一覧表を作る。
C 伝記の読み方についての研究
2 学級をいくつかのグループに分けて、このようにして選んだ同一人物についての数種 の伝記を、各グループで一種ずつ読む。読みながら、要点や、その人物を最もよく描 写している箇所や、その人物の語ったよいことばや、その他書きとめておいたほうが よいと思うことを書きとめる
3 読み終わってから互に報告し合って、異なった事実がしるされている点が何かあるか どうか、または、同じ事実が異なったしかたで取扱われているかどうかを知るために 照合する。作者の態度と作者の使用した材料に注意する。事実の記事と仮定の記事と を区別するように務める。
4 伝記を読む際に心にとめておくべき要点、またはどんなふうに伝記を読んだらよいか という点を要約して、それらのことを問答体で書く。
D よい伝記の選び方についての研究
1 生徒たちが好んで知ろうとするような伝記の中から、ひとり人物を選び、その選択に 従っていくつかのグループをつくる。選んだ人物について、どれだけの異なった伝記が 書かれているかを調べて、できるだけ多くの異なった伝記を集める。これらの伝記を読 む。それについて学級で批判する。29
批評という思考や認識を具体化する手立てとして、個人の読みに対しては、書きとめる 要点を「人物を最もよく描写している箇所」「人物の語ったよいことば」と具体的に指示し ている。さらに読みの観点を、①事実の扱い、②作者の態度と使用した材料との吟味、② 事実と仮定の記事の区別と示し、何をどのように読めば批評という思考や認識に到るのか を具体化した上で、以上を相対化するために「どういうふうに伝記を読んだらよいか」を 要約し、問答体で書く学習が設定されている。
さらに個人の思考や認識を深化・拡充するために、学級という共同体においては、①よ いわるいと判断したものを一覧表にする、②互いに報告し合い、異なった事実がしるされ
ているか、同じ事実が異なったしかたで取扱われているかを照合する、③選んだ人物につ いて異なった伝記を読む、といった情報の比較、照合を行い、自身の見方を相対化できる よう工夫されている。これは前掲の 26 年度学習指導要領小学校編の記述「機会あるごとに 発表し合い、意見を交換して、感じ方・味わい方・批評の態度、文の表現のしかたなどに ついて反省する」学習と同様である。ここには子ども自身が自分の認識や思考の如何を相 互交流や自己評価活動を通じて反省(reflection)し相対化する過程が保障されている。指 導と「反省(reflection)」としての評価が一体化した学習である。
このように、言語経験に示される事項としては「小冊子を作る/自分の感じを要約する
/一覧表を作る/要点や描写、ことばを書きとめる/問答体で書く」といった点であるが、
伝記を読む視点を具体的に指示することで、以上の言語経験が必然的な展開として設定さ れ、批評という高度な思考や認識をおのずと経験し習得できるよう工夫されている。言語 経験を単なる活動にとどめるのではなく、意味ある学習の場や題材と関連させることは、
「書くこと」が必然的に思考や認識に深く関わるものとなるよう留意することでもある。
実際、単元の「目標」には自己形成や社会生活に関わる内容が「社会生活への寄与/人生 観を発達させる/生活の指針」として示されている。単元学習の提案は言語経験、学習の 必然的な展開、自己形成等に関わる内容や題材、以上の三者をどのように関連づけ、学習 計画として具体化するかを試行する提案であった。
第4節 経験主義国語教育の実践的理解
26 年度学習指導要領国語科編は「書くこと」に思考力、批判力、反省力の育成を明示、
経験を自他の連続的な相互交渉という学習の質的状況、思考との一体化の作用として把握 している。戦前の生活綴り方とデューイ経験論を理論的背景とし、端的にいえば「書くこ と」における全一性の問題が提起されたのであるが、その点について学習指導要領作成委 員であった鳥山榛名は次のように述べている。
「聞く」「話す」「読む」「書く」という言語の働きは、それぞれが分析されたまま、他か ら孤立して存するのではなく、一個の人間のうちに統一されて「個」としての人間のはた らきとしてあらわれてくるのである。しかも、その個は「全」との有機的な関連を保つ「個」
である。国語教育はこうした「全」との関連における「個」の言語生活を向上させるもの でなければならない。/戦争後の国語教育が「技術」のみを強調しているという一部の批 評は「学習指導要領」が、この「かた」の記述に分量を用いたためであって「かた」が「か た」として存在するためには「ことがら」と「こころ」と結びついて存在し得るという事 実に気がつかないところから生まれた批評である。30
ここでいう「かた」とは小学校編の「国語能力表」、中・高等学校編の「具体的目標」さら には以上に検討した「言語経験の表」を指すとみてよい。結局、「かた」を「ことがら」と
「こころ」と結びつける方法が単元学習の提案であったのであるが、「かた」としての言語 経験をどのような必然的な展開として教材や題材と関連づけ、学習計画として具体化する のか。単元学習の提案では「かた」を皮相的な技術にとどめないための教科の思想性、教 材内容の吟味の重要性が示された。「書くこと」が思考や認識に深く関わるものとなるよう 発達段階に応じた対象(自分の生活から文化・教養としての小説や古典31)を教材として 選択、形式や活動、方法を設定しつつ必然的に展開する学習指導が目指されたのである。
小学校編の「国語能力表」を取り出して考察した場合、技能としての思考・認識の過程 や方法はその体系や系統が整備されていない。特に問題であったのは読む・書く・観る対 象やその作用との関連を捨象、全教育活動を視野に入れた体系として試案されていなかっ たことである。しかし先にみたように、批評という思考力については、中学校の単元例に おいて実際の教材に即した言語活動として具体化された。これを思考や認識を一定の型と して把握するのではなく、教材や題材に応じて創意工夫すべきという提案とみるならば、
経験主義教育理念の実践的理解として順当である。しかしその際、思考構築の過程や方法 は教師の側に体系として準備されていなければならない。教師が取材、情報の整理や選択、
事実の吟味、作者(筆者)の位置や態度といった方法や体系を把握し、そこから取捨選択 する形で子どもの思考や認識と意味づけていく方策がとられなければ、子どもの思考は保 障されない。また最終的には子ども自身がその体系から場や内容に応じて取捨選択し応用 する能力の育成を目指さなければならない。鳥山の論稿を鑑みるとき、その点の理解と啓 蒙が 26 年度学習指導要領国語科編の課題であったと推察される。
1 田近洵一「国語科教育課程史上の転換点―「読む」の教育を中心に 経験主義・総合主義から能力主 義・系統主義への転換」(『国語教育史研究』第1号 国語教育史学会2002(平成 14)年)P.74)
2 小学校委員会は、石黒修、石森延男、泉節二、梅根悟、大野己之吉、大橋富貴子、大沢雅休、金田吉 尾、久米井束、栗原よしえ、高野柔蔵、小山定良、志波末吉、篠原利逸、続木敏郎、滑川道夫、中村万 三、西原慶一、波多野完治、花田哲幸、平井昌夫、松井早苗、吉田瑞穂ら 23 名、中・高等学校委員会は、
浅見錦吾、芦沢節、阿部吉雄、安藤新太郎、石森延男、石井庄司、石山脩平、市古貞次、遠藤圭二、大 村浜、小川俊一郎、垣内松三、鬼頭礼蔵、清田清、倉沢栄吉、輿水実、小林英夫、佐藤利右衛門、上甲 幹一、関宦市、鳥山榛名、長澤規矩也、中山彌一、野島秀義、飛田隆、飛田多喜雄、増淵恒吉、宮田豊 太郎、山田忠雄、渡辺修ら 30 名に文部省から藤井信男、富山民蔵、渋谷宗光、小山定良、金田吉尾、松 尾拾、原田貞親が加わった。
3 大内善一は「前者(注:生活綴り方)が子供と子供をとりまく現実生活に立つ関係を対立的、矛盾的 なものとしてとらえるのに対して、後者(注:新教育)が、それを相対的、連続的なものとしてとらえ るという根本的に異なる生活観をもたらしたのである。そして、新教育の経験主義が、「経験」を尊重す る余り、目先の生活の必要にのみ応じるような現実的適応主義に陥るに至って、両者の「生活観」の断 層が明らかになっていったのである」という分析をしている。『戦後作文教育史研究』1984(昭和 59)年 教育出版センター P.157 P.237
4 引用は野地潤家編『国語教育史資料 第一巻 理論・思想・実践史』東京法令 1981(昭和 56)年P.245
5 国立教育研究所内戦後教育改革資料研究会『文部省学習指導要領3』日本図書センター1980(昭和 55)
年P.P. 60−61
6 野地潤家編前掲書P.P.248−249
7 野地潤家編前掲書P.P. 253-254
8 国立教育研究所内戦後教育改革資料研究会前掲書 P.5
9 この文言は 26 年度学習指導要領の作成終了直前にオズボーンの示唆によって加筆された。
10 野地潤家編前掲書P.P.336
11 野地潤家編前掲書 P,P.319−323
12 野地潤家編前掲書 P.P.321-322
13 野地潤家編前掲書 P.321
14 野地潤家編前掲書 P.P.320-321
15 『新教育事典』平凡社 1949(昭和 24)年 P.202
16「四領域」は「健康・経済・社会・表現」を指す。
17 梅根悟「社会科解体論に反対する」雑誌『教育』1952(昭和 27)年 1 月号 国土社 P.22
18 無着成恭『山形県山元中学校生徒の生活記録 山びこ学校(新版・定本)』百合出版 1951(昭和 26)
年P.272
19 梅根悟「生活教育の国語指導」雑誌『カリキュラム』誠文堂新光社 1951(昭和 26)年 9 月 P.26
20 進歩的プログラムに対する「豊かな経験を組織はするが、意味の生まれでる連絡をつけることに失敗 している」という批判を「率直に受け取らるべき」とした上で、「それ(注:技術の巧拙の反省およびそ の改善)がもし「直後の練習」というような意味に解されるならば、それは問題単元のもつ拡大性と深 化性には遠いものと言わざるを得ない。」と述べている。
21 1909 年初版・1933 年増補:植田清次訳『思考の方法-いかにわれわれは思考するか-』春秋社 1949(昭 和 24)年)P.3
22 森昭『経験主義の教育原理』金子書房 1952(昭和 27)年 P.53
23 デューイは「子どもとカリキュラムは単一のものであり、その単一の課程に二つの区域を認めている にすぎない」と述べ、教科学習やドリル学習においても、学習が「ひとつの経験(ある目的意思をもっ たひとつの自体の発展コース)」になることを志向している。(J・デューイ著・市村尚久訳『学校と社会・
子どもとカリキュラム』講談社文庫 1998(平成 10)年 P.273)
24 26 年度版中・高等学校編副委員長であった石井庄司の他、大村濱、増淵恒吉、鳥山榛名、飛田多喜雄、
小川俊一郎、清田清、上甲幹一、野島秀義、飛田隆、渡辺修ら。戦後の国語教育を「明治・大正・昭和 と三代にわたる国語教育の必然的な展開」とし、「学習指導要領の本意のあるところをよく読んで、われ われ自身の実践に照らし合わせて理解し、なお誰にもよく納得のできるように書き現そうと試みた。」と 述べている。
25 第1学年「うんどうかい」という直接経験を中心とした単元から、第 2 学年「ことばあつめをしまし ょう」、第 3 学年「童話を読みましょう」と言葉や物語を題材とした学習、さらに第4学年で手紙、第 5 学年で辞書を扱い、第 6 学年で「学校新聞を編集しましょう」と新聞が題材として扱われている。
26 「生活文は、なぜかかせなければならないか」野地潤家編前掲書P.320
27 小山恵美子「昭和二十六年版『小学校学習指導要領国語科編(試案)』における『国語能力表』の検 討」全国大学国語教育学会編『国語科教育』第 42 集 1995(平成 7)年 P.43
28 国立教育研究所内戦後教育改革資料研究会『文部省学習指導要領2』日本図書センター1980(昭和 55)年P.192
29 国立教育研究所内戦後教育改革資料研究会『文部省学習指導要領3』日本図書センター1980(昭和 55)年P.P.78-80
30 鳥山榛名「国語教育前進のために何が問題になつているか」(『実践国語』第 143 号穂波出版社 1952
(昭和 27)年 P.2754)
31 単元学習を高等学校における現実性からとらえているのが増淵恒吉である。増淵は『国語科学習指導 要領の実践計画 中・高等学校編』の「第五章 高等学校の国語科の単元の例」で単元学習を以下のよ うに定義している。「生徒が関心と欲求とを持ち、また生徒の能力に適当した話題の中で、特に社会の要 求にこたえうるようなものをとりあげ、その話題を中心として、話す、聞く、書く、読むという言語の 諸活動を組織し、実際的で価値ある経験を与えて、その学習の効果を合理的に評価する一まとまりの学 習が国語の単元学習であり、その話題が単元である」。
増淵は、特に留意すべきは、小中学校とは異なる意味で生活に即した話題や題目、社会的必要をとら えなければならない点であるとし、話題や題目については「高等学校の生徒の関心領域は、中学生の場 合とよほど相違する。(中略)外面的なものよりも、伝統とは何か、人生の意義はどこにあるのか、芸 術の本質とは何か、古典と現代とのつながりはどうか、善とは何か、といつたような内面的な課題が、
次第に彼らの心をとらえてゆく」とし、国語科の教材の選択から内面的な課題を追究すべきであると述 べている。さらに単元は「社会的必要や欲求にこたえ、かつ教養ある社会人としての自己形成に資する もの」であり「まとまりのある学習として生徒が学習の対象を深くつきつめることができる」ものとし、
例えば古典については「教養ある社会人として自己を形成してゆくには、不可欠」と述べ、高等学校段 階においてそういった国語科の教科に即した単元、読むことや理解を主とした単元が多くなるのは当然 であると主張している。