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1872年6月 1875年8月

1876年8月

奈良県で、祭礼参加を要求する。

滋賀県で、氏子加入を要求する。

群馬県で、氏子加入のための訴訟をおこす。

長野県で、部落民児の就学を要求する。

       (筆者が作成した。)

       第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計 資料⑫ 明治新政府の近代化政策に関する年表

月・日 出来事

1869 12月 武士を士族とし、農工商を平民とする。(天皇・皇族・華

(明治2) 族・士族・平民という新しい身分が構成される。)

1870

9月19日

平民に苗字使用を許す旨の布告が出される。

(明治3)

1871 1月 平民に職業、住居、婚姻の自由は認める。

(明治4) 寺社の土地を没収する。

3月 弊牛馬勝手処置令」(「差別された人々」以外の者も死 馬・食肉を自由に処理できるようになった。)

7月 「廃藩置県」が実施される。

8月9日

散髪・脱刀・服装の自由が認められる。

8,月23日 華族から平民に至る相互の結婚が許される。

8,月28日 「解放令」が出される。

12,月 家族・士族に、農業・工業・商業の営業が許される。

1872 1月 全国的な戸籍調査が行われる。(壬申戸籍)

(明治5) 2,月 田畑の売買を自由とする。

7,月 大蔵省に二二改正局が置かれる。

8月 職業の自由が認められる。

「学制」が施行される。

12月 「太陽暦」が施行される。

1873 1,月 「徴兵令」が施行される。

(明治6) 7月 「地租改正条例」が布告される。

1875 3月 内務省・大蔵省、地租改正事務局を置く。(この年、福

(明治8) 岡・島根・岐阜・大分など地租改正反対一揆が起きる。)

1876 5,月 和歌山県で地租改正反対一揆が起きる。

(明治9) 12月 茨城・三重・愛知・岐阜・堺などで地租改正反対一揆が起

第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計

きる。

1877 1月 地租が100分の2.5に軽減される。

(明治10)

1878 7月 愛知県・神奈川県で地租改正反対一揆が起きる。

(明治11)

(筆者が作成した。)

第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計

資料⑬Wさんグループの発表

 ぼくは、明治新政府が「解放令」を出すまでの動きを調べました。

 1869年(明治2年)3.月、戊辰戦争が戦われる中で、政府は諸藩の意見を聞くた めに公議所を設けました。

 4月、この公議所で、諸役・税を免除している特例をなくす為に、被差別身分の 廃止が論議されました。

「寺社や『えた』(差別された人々)の屋敷地が免税になって、課税の里数に加えて いないのを改めるべきだ。」      (福知山藩 中野斎)

「その通りだ。諸役を免除すべきでない。『えた』(差別された人々)の身分を廃止 して一般と同様にしてはどうだろうか。j      (武蔵六浦藩 宇田菊之助)

「『えた』(差別された人々)を平民に加える法律を論議しよう」

       (出雲松浦藩 雨森謙三郎)

「『えた』(差別された人々)の名を革屋組・革屋職と変えて、百姓、町人との結婚 もできる、同様の扱いをしてはどうか」         (松本藩 内山総助)

「『えた』(差別された人々)も同じ人間である。これからは一般の者といっしょに して助郷なども勤めさせるべきだ。」      (日向飯肥藩 稲津清)

「『えた』(差別された人々)を平民として、蝦夷地(北海道)に移して、開拓を防 衛につかせると良い」       (豊後日之出藩 帆足亮吉)

と様々な意見が出されたのですが、廃藩置県により藩がなくなると、公議書は廃止 されてしまいました。

 部落の人々から訴えもありました。

       もと え も ん

 1870年1H山城国蓮台野村の年寄の元右衛門は、京都府に対して次のように願っ

たそうです。

「神国の国民なのに、『えた』(差別された人々)の名をつけられているのは残念で す。私たちは、御所の掃除の役目も勤めてきました。皮革の仕事も、お国の役に立 っています。農村では、農業をしている者がほとんどです。私たちは、新政府の為 につくそうと思っています。古い間違ったことを直されている時ですので、『えた』

(差別された人々)の身分を廃止してください。」

 また東京府でも、関東の部落総頭の弾左衛門が願いで、被差別身分の廃止の意見 が政府にあげられました。そして、京都・東京の府知事から意見が出された後、神奈 川県令大江卓は》参事の大隈重信や民部省の大木民平に働きかけながら、1871年(明 治4年)1月、民部省に被差別身分廃止を提案したそうです。

 以上で発表を終わります。

(久保井規夫編『近代の差別と日本民衆の歴史』明石書店、1998年、pp16・17を参考にして、筆 者が発表形式にまとめた。)

第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計 資料⑭ Yさんグループの農民、被差別民らのシナリオ

「解放令」後、村石起き二二ざ。ざ後の場面

 何事が起こったか、まだ知らない者たちに、酒屋での一部始終が説明された。

「平民になったいうて、昔の自分たちの身分をもう忘れやがって」

「このまま放っておいたら、あいつらもっと増長するぞ」

「家も焼いてしまえ」

「待て待て。その前に戸長のところにいこう。このことは、わしらだけの問題じゃ ない。この郷全体の決定にせにやならん。」

「奴ら(差別された人々)が増長を始めた。新政府が何か恐ろしいことを始めると いうのは本当じゃ。」

    む ら

(上杉聡『部落を襲った一揆』解放出版社、1993年、pp 184−188を参考に筆者が作成した。)

「解放令」後、福岡・博多の町の路地竃の場面  「風呂屋に奴ら(差別された人々)が入った。」

銭湯の中にいた町人たちは、恐ろしいものでも見たかのようにして、急いで風呂屋 を去った。なぜかというと、人びとは穿れがうつるのも怖かったのだ。

「どうして奴ら(差別された人々:以下同じ)が風呂に入るのを許したんだ。」

「商売だからといって、奴らと一緒に風呂に入れというのか」

「ならば、わしら町の若者全部が行かぬことにしよう」

町の主だった者数人が、湯屋の主人にかけ合った。

「もし奴らを一人でも入浴させたら、町内全員が二度とその湯に入らない」

と告げた。主人は困った末、「この町の者だけの湯」という理由で断ることにした。

    む ら(上杉聡『部落を襲った一揆』解放出版社、1993年、pp246−250を参考に筆者カミ作成した。)

差別され鳶A々の寺院への期待の場面

 差別された人々は、世間に対して、自分たちを平民として認めさせる行動を、ゆ っくりと開始しました。農家へ行き雇い主に、

「これまでのおこなわれていた待遇を改めて欲しい」

と言いました。

「一般の農民ならば、座敷などでも食事が出来るのに、我々に対しては、土間や屋 外で、むしろをしいて食事をさせていたのを改め、椀や茶碗、箸なども、農民と区 別しないようにして下さい。」

と申し入れに行きました。

「平民になったのだから、このような差別はやめて欲しい」

第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計 と差別された人々は訴えました。

「それが受け入れられなければ、もう働きには来ない」

とも言いました。

 差別された人々の願いは、寺院にも向けられました。

     ほうおんこう

「今年は、報恩講に、檀家の皆様と同席してもよろしゅうございますか」

 例年は、本堂の板の間に薄いござをしいて、一般門徒と別の席を設けていた。

住職は、

「その希望はごもっともなこと」

とうなずきながらも

「じゃが、寺というのは、住職の思い通りにはゆかぬもの。本堂の修理、畳替え、

みな門徒衆がきめ、門徒衆に世話になること。わしは、いわば寺を預けられておる ようなものじゃ。しょせん、何事も門徒衆の心まかせ。まず、そちらに相談せねば ならぬ。それに、どこの寺も同席するというのなら、この寺も文句はないそ。まず、

その方から、他の寺にもきいてもらえぬか。」

 差別された人々が、他の寺に行って同様なことを尋ねると、

 「他の全部の寺が許せば」

 と同じように答えるだけで、差別された人々の願いは、見事に裏切られたのです。

     む ら

 (上杉聡『部落を襲った一揆』解放出版社、1993年、pp250・252を参考に、筆者が発表形式

に作成した。)

第3章  「人権」に視点をおく社会科歴史学習の授業設計 資料⑮ Uさんによる「解放令」反対一揆研究に関する発表内容

 私が、この「解放令」反対一揆について調べようと思ったのは、つい最近まで、

歴史の出来事として知られていなかったことです。どうして知られなかったかとい うとこの出来事の中心である農民、その子孫の人々が話したがらなかったことも一 因にあるらしいのです。「先祖がそんなことをしたなんて信じられない」という気持 ちが強くあったということです。わたしがもしそういう立場だったら、同じような 気持ちになったことでしょう。ようやく最近、地域の人びとの調査や研究によって、

事実が明らかになってきました。確かにこの一揆の内容は悲劇的な部分も多く、気 持ちが暗くなりますが、こういう事が二度と起こらないようにしっかり調査研究す

ることが必要であると思いました。

 さて「解放令」反対一揆は、今わかっているもので21件あるそうですが、資料

⑯からもわかるように、一揆はすべて西日本に集中しています。一番東で京都府、

西では福岡県で起きています。四国では、香川県と高知県での出来事が明らかにな りっつあるようです。とりわけ、中国地方の山間部で多く発生しているようです。

 「解放令」反対一揆は、一揆のスローガンとして「解放令」反対や身分平等反対 を掲げたり、部落を直接攻撃し、殺傷や焼き打ちなどの暴挙に及んだものをいうそ

うです。出来事のすべてが一揆の名前に値しないものもあるようですが、一応出来 事すべて一揆の名前で調査研究を進めているそうです。

 この「解放令」反対一揆の研究家によれば、一揆を起こした丁々は、山中の小さ な村が多く、田畑は狭く、「差別された人々」の住む部落同様、貧困にあえぐ村々が 多かったようです。たぶんそうした人びとも江戸時代からそして、明治時代に入っ ても政府の新政策に、あるいは、社会の身分差別の中で様々な迫害を受けてきた人々 なのでしょう。

 「解放令」反対一揆は、「解放令」反対のみを掲げていたわけではありません。徴 兵令、学制反対、雑税反対などを並べて、「解放令」反対が叫ばれています。つまり、

この時期の一揆は、明治政府の近代化政策に反対して闘われており、「解放令」反対 一揆も例外ではないことがわかりました。「差別された人々」だけでなく、鉱山が焼 かれたり、県庁が攻撃されたりしているのは、攻撃されたところが、権力の象徴で あったからではないかと思いました。

 「解放令」反対一揆を調べていくうちに、「かしの木のひとりごと」の一揆にも出 あいました。この一揆は俗に「筑前竹槍一揆」と呼ばれる一揆を描いたもので、福 岡に伝わる史料をもとに現代風に書き改めたものだそうです。

((稲垣・寺木・中尾著『部落史をどう教えるか』解放出版社、1989年、pp60−61を参考にし て、筆者が発表形式に作成した。)

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