頬 細 長 綱 輔 細 網 質
点 女子 岬 百親 一 光親 一 満経 一 親香 一 握 親
(
「尊卑分脈」第三 ,及 び 「川上郡誌」 よ り )(3) 戦 国武将三村氏
群雄 の割拠す る戦国期にはいるまでの成羽 について ,明確 にす ることは困難 であるが ,天文2 ( 15 3 3)午 ,三村家親 が当地 に侵入す るまでの約19 0年間ほ どは ,他の地 の戦乱 をよそに平 穏 な天竜寺荘園 であ ったのではか 、か と ,わず かに残 る天竜寺の古文掛 こよ り,考 えることができ
るO次にその古文町 を上げてお こ うO
天 商等雑草申 ,備中国成羽圧 ,本 主三村信惑入道余類居 令住当圧 ,動成其煩云 々,太無謂 ,早可 被 止其妨 ,若不承引者 ,為処罪科 ,可被注申状 ,依仰執蓮如件
明徳四年十 月七 日 (斯波義将 )
左衛門左 判 細 川兵部大輔殿
( 「大 日本史料」第七舶之‑ 後 小松天皇 )
この苛状 は明徳4 ( 13 9 3 )午 ,将軍足利義満 の命令によ って崖せ られた もので ,大意 は 「天 竜寺 の事頻所 から ,自分 の寺領 である備 中国成羽荘 に ,三村倍漉入道 が余類 のものを居住せ しめ ,
これ らのものが何か と珊戯す るので当在 にもめごとが 枚発 して難渋 を極 めてい ると申 し釆 た っている。
そこで早急に三村入道にかかることのないよ う中止 をさせ よ。 もしそれ を承句]しない場合 は処罰 し てもよろしい。」 とい うもので ある。 ここで ,潜伏 の差出 し主左衛門匠 とは ,当時の幕府の三 管領 の筆頭斯波点将で ,細川兵部大輔 とは当時備中守鯉職 を担 当 していた細Ill祐之 であ り管領である細 川頼之の末弟 であ った.そ して ,三村信 濃入道 とい うのが ,三村家親の曽祖 父親家で あり当時星田
(現在美星町 )在住 の豪族であ った。
三村氏 は,清和源氏の流れ を汲 む名流 であ り,四世 の長楢 は信濃守に任ぜ られ ,常陸 の松旭城 に いて小笠原氏 を称す ることとな った。長清の三世長時 は常陸新治貼三村郷 に存在 し,この とき三村 姓 にかえた。 その子親時三村新左衛門 は信州狭 江郷 に移住 した。現時の孫能 実は備中 に移 り元弘3
( 13 3 3)年5月 ,元弘の乱 に後醍醐天皇 を船上 山に守護 したので,その功 によ り小田郡 星田郷 (美 星町 )の地頭職 に補せ られたOその子親家 は将軍足利義満の配下 として地東職 ,星田郷法望 山 に城 を築 き城主 とな ったO 明徳4 ( 13 9 3 )午 ,当時天竜寺荘園であった と思 われ る成羽郷 へ侵 入 し,前出の文 即 こよ って細川備中守掛 こ注意 を受 けたの は ,この親家であ ったO
親家に続いて,時親 ,宗親 ,それ を継 いだ家親 は ,智勇兼 備の武将である毛利氏の支援 をうけて 天文2 ( I5 3 3 )年 に天聴寺荘園の成羽鍬 こ侵入 し,祖 父以釆の宿厭 を果 た した。家親は術中征
∫
個の本陣 を建設す るため ,仮の本陣 を西之坊 (古町 )に置き ,成羽村 の中央部 に豪壮 な居館 を造営
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表3‑ 2‑ 2 三村氏系譜
清和天皇 一 新羅三 郎義光 一 武田刑部三郎義清 一 鬼見冠者精光 一 各 々部遠光 一 小笠原左右大夫長沼 一 小笠原長経 ‑ 三相筑波守長崎 一 三村新左輔門親時 一 三村 三郎兵衛親屯 ‑ 三村倍 浪守詣実 ‑ 三村13虎守観象 ‑ 三村信助守時親 一 三村備中 守宗親
三村修理大夫家
親
三村紀伊守親成
鶴 (投射城主 ) 鶴 (松 山城主 ) 範 (新見仕城主 ) 親 (鬼身城主 )
(革山城主石川久式 室 ) (常山城主上野肥 前守隆徳 茎 ) (月田城主楢崎群 正元兼垂 )
(親成 の養女 とな り,後水野勝成 の壷 ノ
親宣 (成羽城主 )
親良 (三 河刈崩堀 1,50 0石 ) 華女 (於瑚家裁 ノ女)
三村紀伊新左衛門親頼 (布類差羽山城主 )
した. これは, 「お茶屋」 と呼ばれ るもので敷 地8 7町歩 ,土豊 3 2町歩高 さl丈3尺余 ,堀 7 7町歩 とい う巨大 な城郭 だ ったo このお茶屋 は ,家親が当地 に入部 してまもな く構築 され , 父子二代にわた って4 7年間の居館 とな った。
このお茶屋の周辺 は,武家屋敷 や商薬街 など, 城下町の形成 を見 るに至 った。現在 の この地相 には上市 ・下市 ・新張な どの地名が見 られ ,こ の居館の繁栄 の状況が想像 され る。
家親 は成羽,のこのお茶屋に在城す ること2 7 午 .か つて河村氏が拠 った概首城 を整備 し,天 文2 2 ( 1553 )年 には独掛城主荘為 資 ,衣 禄3 ( 15 60 )年 には,松 山城主荘高安 を破 り,成羽 には親成 ・親宜父子 を芯き ,本拠 を松
(T成羽 史話」附録 よ り)
写 弟 3 ‑ 2 ‑ 2 三 村 氏 城 臥 ヒ
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‑図3‑ 2‑ 1 岡山の城 と城吐 ,地図 (岡山文庫 )
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山城に移 した。
家親 は,備中全土 を攻略 し,美作 ・備中へ も進 出 しよ うとして,備前の字音 多面家 と争 うことと な って しまった.永禄6 ( 1 5 6 3 )年.家鍬 ま兵を㈲前 に進め‑挙に岡山船 山城 を攻略 した.同
7 ( 15 6 4 )年には備前に入 り,金光素面 ・須 々木豊前 を降 し,同
8(
1 5 6 5)年5月 ,作州 路 にはい り三星城 を攻 めたが利 はな く,同9 ( 1 5 6 6)年 ,再び作州に攻 め入 り宇皐多 の諸城 を 攻略 し,久米部梅村の興善寺に屯 し,さ らに備前 に進入 す るかに見 えた. 直家 は それ を恐 れ ,同9( 1 5 6 6 )年3月18日,遠藤又次郎 ・昏三郎 を送 り家親 を暗殺 させ ,成功 した。
家親の弟親成 と二男元親 は ,軍の動揺 を恐 れ,家親の死 を秘 したまま陣 を成羽 に引 きあげ ,家親 の菩握 を弔 うため佐原 に東成 山源樹寺 を建立 した。その後 ,三村五郎兵衛 らは親成 の制止 もきかず , わずかな人数で弔合戦 を起 こ したが失敗 した。里 ユ0(1567)年 ,二万 の大兵 を率 いて元親 が宇 宙多勢 と決戦 したが大敗に帰 した。世にい う明脊寺合戦 である。
宇宙多直家は元親の逆襲 をおそれ ,小早 IFI髄出 と結 び三村氏 を圧 しよ うと計 り,毛利氏の東上帝 の利 を考 えた儀虫 はそれ を零れた。 このため ,元親は多年毛利氏 の部将 であ ったが綾 を切 り,三好 氏 ・尼子氏 ・織田信長 と結んで宇宙多店家 を討 とうと考 えたo しか し成羽 の親成 はこの策に反 し元 親の椴等 を避けて師掛 こ逃 げ ,信長に追 われて毛利にいた将 軍足利 義個に密告 し,三原 の小早IrI隆 展に急報 した。陸尉 ま直に全毛利甲 8万 を笠 岡に染め ,抱 司令官 として毛利野元も出陣 した。天正
2 ( 15 7 4 )年12月 ,毛利勢 は親戚 を案円 として先ず国 吉城 を攻撃 ,次いで鶴首城 も包囲 され , 城将三村親 玉は松山城に逃げた.盤 3 ( 15 7 5 )年正月 ,鐘県 は成羽城 を本営 と して近隣 を攻略
して行 き, 3月 lEl全 軍あげ ての段 山城包囲攻略 の計画 をたて, 7日攻喋 をは じめ, I6日範足 山 を占領 し,ここに本陣 を移 した.両軍互 いに攻防の激職 を展開 したが ,隆奴 は持久の解 をと り城円 人心離反 を策 し成 功 したため, 2 1日本丸の小松 山が愉落 した。
落城の後 ,元観 は側近に自刃 を謙 止 され ,秘かに山を下 った。 そ うして俺達寺 ‑行 き
,
「匠化源 元親一瞬源樹居 士」 と描 き納め,
「鍵 歯炉炭帝涼殿 .剣樹刀山遊戯城 」 と唱 えて 自刃 した と言われ る。元親 は,和 歌 をよ くす る人で ,京都 東寺の百合文百中にその作の残 るものも多 い。元親 の辞世 の旬 は「人 といふ名 を借樫や末の雷 きえてそ帰 るもとの雫に」
とい うものである。
元親の子勝法師丸 は伊賀久隆に捕 えられ ,井山宝福寺 (現総社市 )において斬 られた. 当時8歳 であった。
元親滅亡後 ,親成 は再び鞄首城主 とな った。後 に .播州上月役 ・備中芯松役 ・豊臣氏 の四国討伐
・九州討伐 ,特に小倉合城 ・岩石合戦 ・朝鮮役 の蔚 山な どに功があ ったo関 ケ原役 の後 ,毛利氏 の 臣下 かことご とく浪 人 L,た時 ,親成 も流 浪したが .か って扶助 した水野六左衛門 が備後福山城 主 と
な ってお り,その長 臣の列 に加 え られた。 (平松興子 )
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〔参考文献 〕
F成羽史屠 .B 竹内明照 成羽町教育委且会 昭和3 9年11月3日 r岡 山県の歴 史
. 1
岡 山県 昭和4 3年6月 1日ー88‑