• 検索結果がありません。

原始 ・古代 ・中世の成 羽町

ドキュメント内 成羽町の歴史と現在 4集 / (ページ 88-95)

1

原 始 ・古 代 (1)前 史

現在 ,い くつもの大小の島 々を浮かばせ ,美 しい魚協 をつ くっている瀬戸円海。岡山の歴 史は , このおだやかな内海 と,そ こに注 ぎ込む高梁 ・旭 ・吉井川の三 大河Illによ っては ぐくまれてきた と もいえるものである。

鷲羽山の山肌には ,先土器時代 の石牌が無数 に散在 L,てお り,風雨 にその年 をさ らしているO勅l 声門海沿岸の岬や島 などでは ,この時代の人々の生面 の跡がいたる所で見 られ ,又 ,内海 か らはナ

ウマ ソ象の化石が引 トげ られていることか らも ,当時の円海 は ,草原 の広がる陸地 であ った ことが うかが える。石 ・骨 でつ くった道具 を手 に,猟物 を求 め る人 々の姿が ,き っとあちこちで見 られたこ とだろ う。

氷河期 の終わ りと共 に,気候 は温暖化 し,海面の上昇 とい う,大きな自然環境の変化が起 こ り, 人々は ,海進 に追 われる様 に ,内陸‑ と捗 ってい った。現在 ,県南に残 る早島 .児島 ・羽 島の地名 は,これ らが当時 ,内海に浮 かぶ島にな っていたことを物語 っている.

成羽には,まだ人々が足 を踏み こんで いない時代のこ とで ある。

(2) 縄 文時代

縄文式 とよばれ る土串 をつ くり,打製 か ら磨輿石欝 を使用す る様 にな った槻文時代の人 々の生活 揺 ,あいかわ らず 自然 の条件に制限 され る,狩猟 .政所 ・採輿 に頗 るものであ った。食料 を求 めて , 彼 らは絶 えず ,よ り快適 な土地 をめ ざして移動的確活 をせ ざる を得 なか ったO

成 羽の地 は,内海 の政が打 ち寄せ る海 岸か ら程遠い 円陸の地 であ り,拓梁川の支流 ,成羽川の存 在と切 り鮭 しては考 え られない土地 である。当時の成羽 の地 形の様子 は正確 にわか らないが ,東何 に細長い小低地の中央を流れる成羽川の北 になだ らかな憤斜地 がわずか なが らも鉱が っていたので

あろ うことは,現 在の地形 か らも推測 できる。

成羽の地 に ,人 々が移 り住むよ うに な ったの は ,今か ら約四千年前 の柵文 時代後期 のことで ある。 このことは . 成羽川の北に拡がる低地 の中心附近

(古町 フラ ット附近 )か ら出土 した拙 文式土掛 こよ って しることができる。

この遺跡は 「成羽縄文小御堂過跡」 と 呼ばれてお り,弥生時代 まで続 く浪跡 (写 真3‑Ill)である. ここは,盟 科大鋸木島昌氏や,県教委神野力氏 によ って調香 され, 5 0‑ 60片の縄文 式

‑77

写央 3‑1‑ 1 小御壁 周辺

」.

/

7 8 ‑

土器 が確認 され ている.分顕 された結果 ,これ らは ,中津式 (6‑ 7片 ),福田KⅡ式 (5‑ 6片 ) 彦崎 E Ⅱ式 (3‑.4片 ),福田

E

Ⅲ式 (5‑ 6片 )な ど四 ,後期の磨 消経文 土器や ,黒

L BB

Ⅱ式

( 1片 )と思われ る租文 晩期 のもので あ った (現 在 .成羽 町博物 館 に展示 されている ). これ らの 出 tt器 を岡'LLj県内 出土土器編年 に対応 して 見ると (蓑 3‑ 1‑ 1 ),同に出 十 してい る ことが わか る。

3‑1‑ 1 土器舶年 対応 &・

(「或羽 史話 より」 )

鵜文文化時代

岡 山 県 成羽町

早期 前期 中期

後 期 中 津 式

田且

Ⅱ式 彦崎彦崎馬 取

K E

Ⅱ式Ⅰ式式 福 田

K

EI式

〇 〇 〇

耗文時代 後脳 ,中 津式土器 を処作 した 人 々がは じめ て成羽 の地 にや ってきて後 ,この他 に訪 れては又 ,移 赦 してい く袋田 が い くつかあ ったのだろ う。各種 の出 土土器が それ を物語 っているO

純文時 代後期 以降 ,内陸に移刺 して きた人 々の うち , 高AIlI沿 いに北上 し ,その支流 ,成剖 日に沿 って この 他に判遷 した人 々に と って ,この山間 の丘陵地 は絶好 の凝析 と映 った ことだろ うo

縄文丑跡 につ いて は ,他に は確 認 されて いないが , 成羽 よ り中国山地 の さらに奥 にはい った所 ,広砧県 比 婆鯛帝駅峡 で .純 文時 代早朝 か ら晩掛 こ至 るそれぞれ のj且物 を含むiB跡群 が発 見 されてお り,iB物 よ り見る 限 り .成 羽 よ りず っと頼繁 に人 々が この地 に移 り住 む ことが あ った車 になるO帝釈峡 と成 羽 と ,直接結 びつ け て考 えるわけに はいか ないが ,同 じ川筋 に存 在 し.成羽 か ら帝 釈峡 ‑のirl筋 はLLJ陰 ‑の交通路 と

も考 え得 る事 な ど ,両過 跡 の関連性 を全 く酋定す る帝 はで きない.

(3) 弥 生時代

書棚 の穴海 をつ くって入 りこん だ海岸線 も .河lJlの堆胡 作用に よ り,長 い年 月をかけ,遠浅 の海 へ,やがては再 び ,平野 を形成 し陸化 してい った。 岡山平野 の中央に位 殴す る印島娼跡 は弥生時代 の代表的過跡であ り,旭JHのつ くる 自然堤 防上に営 まれ た水Efl・雑務牡 で ある。

今か ら2 30 0年 も昔 ,北九州に伝 えられた相作は .西 日本全 域に拡大 し,吉備 の地方 でも .い ち早 くそれは取 入れ られたo これ は辞由逝跡 な どの平野 に残 る迫跡群 が よ く示 してい る。初期 の稲 作は ,自然 の地形 を刷用 しただけの もので あ ったが ,やがて ,自然 に働 きかけた り,又 ,谷 にも水 田を営 む よ うに もな ってい く。

成 羽 に も,比 較的 早い時期 に稲 作文化 を持 った 人 々が入 って きて いる。当時 の成羽が ,どの樫度 稲作に適 した土地 であ ったかわか らないが ,成羽 III掛 こわず かに拡が る低地 を利用 して ,細 々 と稲 作 りが始 ま り,小高 い丘陵上に定着す る生盾が常 まれた ので あろ う。

成羽 IHの北 に拡 がる低地 には ,弥 生式 土鞍 を含む取落比 が広範 囲に発 施 されてお り,天神 ケ圧迫 跡

(

前掲 地図 の2)とよばれ るo父 ,成羽 砧授敵地 か ら.竪 穴式住居比 ,鉄則が妃つか ったが ,こ れは調査 され ないまま校舎 が鎚 て られ ,わずかな出土iB物 のみ.博物 館 に保存 されている。

県 北各地 に存 在す る弥 生時代のjE跡 を見れば .周 作の普 及 とともに ,よ りよい土地 を求 めて新 し

‑79‑

い土地 ‑人 々が移住 してい く状 況 が推測 で きる。

(4) 吉崎 時代

古墳時代 は,稲 作の普及 によ り身分の発 が次掛 こ拡 大 し.やがては特定の権力 を解中す る首長 が 現われ ,彼 らがその楕 J]の象徴 と して古墳 を造築 した時代で あるO 吉備地 方の当時代 の古墳文化 は , 造山 ・作山古墳 をは じめ と して ,艶円 と肩 を鵡ペ る樫 の勢 いを有 していた。

古墳時代 は ,前軌 後期の2期に分 け られ ,前期 は,主に竪 穴式石 室 を有す る前方後 円墳 ・円墳 な どの巨大古墳が出現 す る時期 で ある。 しか し,この時期の古墳 が 巨大墳 だけで あ ったので はな く, 丘陵の屋根 上に点在す る小古墳 も ,存 在 した。後馴 ま.石垂 に横穴 式石室 を採 入れた 古墳が築造 さ れた時代で あるが ,少 敬の大古墳の他 ,この時朗 を特散づ け るのは ,丘陵上 に密襲 L,て築遺 された 群架頃である。

成 羽 におけ る首長 クラスの方墳 として は,天王山 古墳 (前掲地図 の3)が一曲 あるのみであるO 成羽の町 を見下す ,低地 の北西 の小爵 い所 に ,自然 の地形 を利用 して造 られ た円墳 で あるD現 荏 , 上に は祇園 杜が建 て られている。 この 古村 は救片の埴輪 片 を出土 してお り,たぶん古頃時代前期 の 成 羽 の首長 ともい うべ き者 の 古墳 で あ った と考 え られる。

後朋横穴 式石室 を有 す る古墳 として は ,塚 根山 古墳 (前掲 地図 の4)がある。天 王山 古墳 と同丘 陵の極 めて近 い場所 に何位す る ,径8メー トルの円墳 である.石 室 は ,そでがな く .羨広 と玄 室の 区別 がない。 これ はこの地 方の特徴 とい うよ りも ,古墳 時代の終末 期の伽 各化 された形態 と考 える 万が妥 当で あろ うO この古墳か らは ,土 師譜 ・須IE鱈が出土 してい る。

「成羽史話」に詳 し く記述 され てい る ものは以 上の2つ であ るが ,その他 に も文化財保許委 員会 の分布調査によ って,天神 ケ丘に一基 (前掲地 図の5 ),長地 ・麻損 に一基 ずつ (前掲地 図の6, 7 ),坂本 に三基 (前掲地図の8, 9. 10 ),佐 々木 ・大谷 古靖 群 な どが確認 され た (別表3‑

1‑ 2を参照 )。 しか し,詳 しい調査 は未 1̲}されてお らず .それ らの古墳 については,今後 の調査 を持 たざるを得 ない段 階である。

表3‑1‑ 2 原 綿成羽 の文化財 (全国遺跡地図 よ り (文化財 保亜 委員会 ))

退 助商号 威 頬 文 化財 名称 時代 地職者 文化財所在地 地 目 追 跡 概 況 出 土 品 塊 状

1 散 布地 古町プラットi(小飼堂jn跡 )弥生 公有 .t跡 民 有 成古 町 学校羽 価 地物 の多くは現在不明 純 文‑弥 生式土器 半 壊完 昏〟〟

2 染落祉 天神 ケ丘遺跡 成 羽 弥生式土器

3 古 墳〟/〟/ 天 王山古墳 古墳〟〟〟 民民 JJ有有 山成羽枝 山林本 山林 円墳 ,〟 建 立.頂上 に祇園杜 埴 輪小片

45 壕横 山 /天神 ケ丘 〃I 径円墳(長88′ガの円墳 .石室仰.高さ1.5〝7) 土師 拒片 ,戟片 .須愈器 片

6 長地 〃 長地長地前 上 に岡 あ り 全壊

‑80

(5)古 代の成羽

全国的に古墳 が爆発的に築造 された時代 もやがて終わ り,大和朝廷 による統一が進み ,吉備地方 もその支配の及ぶ ところとなってい った。 吉備地方 では古墳 にかわ って ,寺院が豪族 の権 威の象徴 として建 て られ るO成羽 には ,古代 寺院 は見 られないが,前代の首長 の系箔 をひ く豪族が ,独立的 にでもこの地 の実権 を有 していたのであろ う。

大化改新によ り,国郡里制 が しかれ ,吉備国 は僻執 ,備中 ,美 作の三 国に分かれた.成羽 は備 中 国下盛郡 ,後 には河上郡 に桶 していたO史料 の中に成 羽の地名 は見 られない。

奈良 ・平安時代 を通 じて ,成 羽の歴史は ,ほ とん どt)か っていない。 史料 上で確 かめ得 るものは , 銅 山に的す る記事 ( 「日'本古記」 大同2年 )があるのみである (銅 山の歴史については後述 )0

成 羽が 日本史上に登場 す るには,史料上 ,中性 を鋳たか すればな らな い。

(守時教子 ) 参考文献

西川 宏 r吉備 の

国J

(学生 社 )

臭壁忠彦 ・蔭子 r古代 吉備王国の謎

」(

薪 人物従来 比 ) 竹円明原著 r成羽史話 」成羽町教育重点会 昭細 39年

2

中 世 '

(11 鶴 首城主河村秀清

鶴 首山は,川上郡成羽町下原 にあ り,療商 340メー トル,山容 が範の首 をお さめた よ うな形 を し てい るためこの名 を持 つ.龍 首城 は牡首 山LLJ原 を中心に ,文治5 ( i 18 9 )年河村 四郎秀槽 に よ って築 かれた と伝 え られ る。その後 ,天文年中 ( 15 3 2‑ 1 5 5 5 )国 人三村家親 は毛利氏 の壌 助 で成羽に侵入 L,,鶴首城の大改造 を行 な った。田上 の本丸 (約4 1 8m')をめ ぐって二 の丸 ,≡

の丸があ り,東北 の尾根を削 って大手 を固める四の丸 .そ して南の断崖の うえに穣手 を守 る五 の丸

‑81‑

ドキュメント内 成羽町の歴史と現在 4集 / (ページ 88-95)

関連したドキュメント