一 惣而耕作之儀 申付 るに不 及 ,面々家業之儀に侯得者 ,弥以無僻怠随分借 に入不 ,作無之様 に 仕 ,こや し中打等油断之著 え者 ,組簡相互 に気 を付候様 に ,EE島年 寄常々可申付事 。 二 田舶立毛刈込年 BITllrこ有之時分 ,面々自分之 儀に ついや し,碁 に至御年 琵米致不 足候而者 ,英
人も迷惑仕 ,庄屋年 寄迄及難儀侯間 ,御年ff不相済 円は自分 入用迫不 申 ,早 く御納所 仕候様 に ,EE良年 寄者不及云 ,組頭共 に相互に吟味可仕事O
‑ 御年貢米 を初 め ,小物成銀等前方 よ り心軌 無滞皆済可仕‑8.
‑ 田方六分米 ,早 く御蔵詰仕 ,棚方 え納込侯様 に可仕侯。 くだ け米之 外津出 し仕時分 ,飯米 に 仕間鋪串。
‑ 免割無 油断仕 ,EE崖 よ り下げ札はや く可 頼波布O (略)
‑‑ 御年貢成鰍下興 し新開専有之 ,村 々無達改礎 出 し可申軌
二 田畑開 き地之儀 ・役人共度 々致吟味 ,少 し場所 に両 も開せ可 申候。 旦又鍬 下被下候年数過 ・ 若不致収納者 は ,某省め可被仰付恥
‑‑・ 田畑井野山売買仕侯 は ゝ,証文手形念入以来 出入 に不成様 に可仕事。
‑ヽ百姓共之内に ,うさん成老有之供 は ゝ,乳頭乏内 よ り無 油断見届 ,急度 EE屋 え相 断可 申事。
(略)
‑ 御家中之面 々え村方 よ り大麻竹木 ・茅 代等 .圧組 頭 よ り百姓共 え申付入 させ恢 代銀相 帯 , 村之弊 儀に成候矧 ま無遠慮可 申出候。御勘定所 に而 取立可被下候。 申出侯 儀を改選乱 百姓 之舟 俵仕品有之侯は ゝ,庄屋年寄可為越度市 O
‑ヽ奉公人跡 田勅共に不作無之様 に念入可 申付串。
「 庄屋共年頭御礼差上物 代村割に仕辰丸 正屋手前 よ 。出 し来候共 ・其村 々に而 仕来之 通可仕
事。
一ヽ正屋 代軌 こ差上倶御着者 ,不及申村紬 こ不仕 .庄屋 よ り差出 し可申事.
‑. 庄屋之儀御取立斗 と不存 ・其村御預 け之上着 ・村中 え心 を付 ・百姓共 勝手 に可成儀無油断可 申付事。
一ヽ御家中之面 々吉凶之 磯に付 ,庄屋年 寄態 と殿出候儀無用に候。外用 に而 傑出候序而有之 ,相 勤侯俵老勝手 次第之事 O
(以下略)
これ以後 もさま ざまな規 制が続 くのであるが ,当時 のBt民 は ,澱府や商 か ら細 々 と した規 制 を受
‑123‑
けていた とい える。
川t添玲子)
〔参考文献〕
『備中国成羽溝史料 』 岡山県地 方史研究連絡協議会編 1 9 6 6
4
吉 岡 銅 山 (1)吉岡銅 山の歴史成羽 では.吹屋 にある吉岡銅 山の開発 お よび ,その操業 に よって長 く繁栄が もた らされた。 吉岡 銅 山は ,川上郡吹屋村 (現成羽町 吹屋)にある。 当銅山は 日本 の鉱山史上 でも古 く,産銅額 も多 く 名銅山 と称 された。
吉岡銅 山の開発 は ,大同2年 (8 07) と伝 えられている. これは .平安朝 の 「延音式」 に吹屋 銅山 について
「凡釣銭年料銅鉛者備 中八百斤毎年繰返」 と記 されてい ることに よる。 大塚 文田 天明八年 (1 7 8 8) 4月の大塚定次郎覚掛 こも,慶長 ,元和頃以前の ことを記 して, 4 00余年前 か ら稼業 さ れた と 伝 え られ
.
「銅山草創 ク始暦数碇 と相知不申」 と省 かれている。 しか し,貞観12年 (8 7 0) 2月 ,備中 ,備後に命 じ,錦鋲科 の銅を採進せ しめたことが.
「延審式」 に記鋳 されて いる し,大塚文啓寛政3年 (1 7 9 1) 1 0月 「吉岡鉱 山名義及三 つ道A‑建 由来昏
」 ,文化元年 (18 0 4) 1 1月 「吉岡銅 山相続次第召上」には ,大同2年 開坑 と明記 されていることも大 同2年説 の 典拠 となってい る。「鎌倉時代建 武3年 (1 3 3 6)丙子改 元延 元元年平川掃部助源高新 よ り十 代之 を侵 す
」
とあ り, 後細川勝 久の領 国 とな っている 。戦国時 代には ,毛利 ,尼子 と地方豪族 が治 め ,永禄年 中 (1558 l l 5 6 9)には ,尼子旗下の吉田六郎兼 久が差配 し,大塚孫一 ,松浦五右衛 門に稼業 せ しめたO秀 吉の天下統一に ともない ,吉岡銅山 も盤臣民 の支配 とな った。 大塚文事に
「重 臣家之御時 代敢屋 (柏屋)助右衛門梯御弐 代 とも諸国銅山御引続乏由 吉岡銅 山も御支配雀 荘 御手 山 と相成申侯」 と記 されてい る。
江戸徳川時 代には ,鉱 山等 の ある地 は天領 と して#府 が直接支配下 においた。座長5年 (1600) 小梱新介正次が ,松 山城に入 り,代官所 と して備中の盤代官 とな り,子政一が これ を継 ぎ ,この時 大塚伊兵衛に命 じて鉱山経営 に当 らせ ている.大塚 文軌 こは ,
「元和 2年 (16 1 6)当御 代姶 小潮遠江様御支配 二相成大塚伊兵衛頭取村稼 こ被 m]右遠 江守様 御 支配之節銅山役所八十 五問 ,私先祖持地 ノ内 ニテ御除 地三社 仰付 ・・・・・・云 々」 とあるO ここに記 さ れた遠江守は小堀政一 の こ とで ,銅 山役所 開設 の年 代 を記韓 したもの であ るo除地 とは鉱 山用地 と して使 う免租地の こ とである。大塚 氏は ,以後市来 に至 るまで ,吉岡銅 山に関係 し掛 ナる ことに な る。
元和3年 (16 1 7)山崎家治 の困挿若桜か ら成 羽‑の移 封に ともない ,吹屋は山崎領 とな った。
大塚文省 にも
「其後元和四年 山崎 甲斐守横 因州 よ り当園成羽 ‑御国草薮仰付 吉岡銅山も山崎御節地 に相加 ワ
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候得共銅山役所 ‑勿論山法 迄 も先規之通御渡振」 とあ り,寛 永15年 (1638)まで20年間 , 山崎家の支配下におかれていた。寛永1 5年 ,家治が肥前 天草‑移 対 されたため,一時 ,松 山薄の 預 り地を経て ,寛永19年 (1642)には再び天領 (幕府面相地 )とな った。 この時 は ,代官米 倉平太夫の支配にな り,吉岡鉱山は ,あ らか じめ運上軒 を決め ,全国の山師に競争入札に よ り請 負 わす請山法 によ り稼業 された。
寛永以後の銅 山臣常は ,大阪 ,堺 ,江戸 ,岡山な どの鉱山師によ り,年区切 りが行 われ継続的に 経営 されている。泉屋 (住友)の吉岡鉱山の経営は ,天和 元年 (168 1)か ら元禄11年 (16
98)まで17年間 が第1次 ,元禄15年 (1702)か ら事保元年 (1716)にわたる15年 間が第2次である。徳川時 代の初期か ら中期にかけて,住友の稼業 の時期 には ,吉岡銅 山は備中第
1の銅山とされ ,元禄年r即こは 日本六大銅山の1つであった と伝 えられ る。
天明八年 (1788)には代官早川八郎左衛門が ,吉岡銅山を支配 し,#府 の諸国銅山見分役社 用などの調査 を請 い ,大塚定次郎 に棟梁を移行 させて,当銅 山の複軌 こ尽力 している。 この大塚氏 の第1次 ,第2次の嫁菜 を経 て ,明治に移 ってい くD
明治時 代に入 っても,三菱 の大類本による経営 に入 り.漁業の横械化 ,捉常の革新 な どに よって 日本屈指の銅 山であ ったが ,その後変詔 を最 て .鉱 山の休止に至 った。
ここで ,銅山の名称 について触れてお くことにす る。 前述の ように ,吉岡銅山は永禄年中 ,吉田 兼久の支配下 におかれたが ,彼の死後 ,吹屋の町北側の丘の上 を墳墓地 とし,ここに石塔をたてた ので,始め.この銅山は石塔銅山 と呼ばれた らしく.東屋 (住友)の 「銅山見分控」 にも石塔銅山 の名がみえる。文化元年 の大塚文母に も
「吉岡鉱山乏儀薯 ,・・・(中略 )・・・右尭山之価 より,慶長年 中迄‑石塔銅山 卜号候勉 ,天和2年 ( 16 1 6)小堀遠江樺御支配之飾 .石塔字面不宜d]ニテ其㈲ 佐渡金山之 内吉岡山殊之外大鹿仕辰 二 付石岡様繋栄仕朕様 御祝被下 ,吉岡銅山 卜御改被下侯」 とあ り,以来吉岡銅山 とよばれた。
ところで ,吹屋には ,吉岡の他 ,北方 ,小泉な どの銅山があったが ,これ らを稔括 し,銅 を吹 く 処 とい う悪味か ら,吹昌銅 山 と唱 えられたO
(2) 吉岡銅山稼方 の変遷
ここでは ,寛永以後の銅山経営 についてみてい くことにする。
( 心
象屋第1次稼業泉良書左衛門 唯 友)が天和元年 (I615)か ら運上額5300枚 とい う満額 で捷常に当たっ てい るo 当時 の鉱山の仕方 は
,
石山法と軌 山法 という2つの方法が行われていた.直 山法 とは ,#府又は領主が面接稼業す るもので .奉行や代官が直接 山を支配 し,役人に鉱山の収按 にあた らせ る 方法 で ,鉱山一切 の経営が役人の持回に よる。 これに対 し.譜 山法 は .前述 のように ,業者 が一定 の期間 ,殊 に短期鉱山の経営 を請 負い,約束の遡上 を納 める方法 であるO泉屋は ,産鋸 南 を基準 と して南山法の荷舟山 (堀分)の方法 を採 り入れた合理的 な新 しい譜 山法に より鮭常 を行 った。第1 次棲集において魚屋は,自力経営 を行 い水抜 きな どによ り,銅の増産に努力 した.泉屋は元禄1 1 午 (1698)まで稼ぎ,別子銅山に盃点 を移 し.一応 吉岡銅山の稼羊 を返上 している。
その後 .吹島村庄屋五右衛門が元禄 15年 (1702)まで,穣行することになる0
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('L
「当村御百 姓 少分之特 高五斗 ,八斗或 いは壱 石高持仕険御首姓 二而御座候 ,田地啓 二而按世煉送 先年 よ り御 山稜 を以御年頃相調釆申候 ,御山無御座候得 ‑御首姓ノ、御 田地 も相続不仕慎 二付只 ノ 年 よ り跡山私牽殿上 只今迄御山稜申候
」
と近郷百 姓の生活維持 と鉱夫の足留 め解 として許 邑稼業せ ざるを得ない事情 を齢 に書 いてい る。
(b) 泉尾第2次稜菜
元禄 15年6月よ り,幕府 の要蔚 によ り,吉岡銅山 を再度 泉尾 が稼業 す るこ とになる。最盛 の第 2次稼業 には ,別子銅山の新道開発 と吉岡銅 山の水抜 きを対象 として ,拝佑金1万両 と毎年買請米 6千 石, 1石につき代金50匁10カ月延べ上納の顧告が聞き届 け られ ,希術 の助成金 を得 て .経 営に あた ってい る。
しか し,慶長剛まのぴず ,泉尾 は苦心経営 に努めたが ,水技 工串 も ,古間符の敏 明 もうま くいかず 一旦稼業 を打切 り,拝借 金 と銅 山稼業 を返上することに決 め ,正徳3年 (17 13) 12月 ,代官 に顧3 が出されてい るo
「去辰年 よ り今年迄水根間取 十弐間余切通 し候待井 ,娘 而拳存寄侯 と相違仕 ,水抜順 道堅 ク弥間 敬尺取申間数 と革存候 ,其上中湿 り稼山 も掬尽 し,唯今 にては稼可申場所 も無御座辰 ,此後御願
を以相琢隈共 私力難及革存候 ,一日・.. (後略)
」
この節怨 を うけ ,宇保元年 に ,代官 よ り泉国 ‑ ,銅山返上 の許可が出 されている。
(C)大塚第1次稼業
泉尾の銅LLI返上後 の状 況は ,大塚文執 こ
「酢 よ り成八月迄中絶仕侯 ,苧保三年九月 ヨ 1)丑年 迄 ,京都片木屋甚兵衛御山請負仕 ・.・‑・.・.・」 と記 されてい ることか ら親 える。
次 いで ,事保7年 (I722) 6月か ら,福岡昼すなわち ,大塚利右爾門宗 俊が活 魚落葉 してい る。大塚文TgJ.I,天明8年 (1 7 8 8)に告 かれた 「座長年中 よ り天明八 申迄備中国川上 郡吹屋村 吉 岡銅山前 邑人質」 による と
「同h'(事保七年) よ り福岡屋利右裾門御清 色仕 ,御避上銀 ‑出来網百官 二付鈎十一fr五百匁 宛 此代金六百 日之研 ,.・・・・・」
とあ り,学保7年6月か ら,箆保2年 (1742) 10月 までの21年間 の稼業 を,大塚の第1次 稼業 とす るo
ここで ,鉱 山稼人について少 し触 れてお くことにする。仕群を覚 え,一人前 と認め られた鉱夫は 適当な親分 に子 分 と して取立 て られ
,
「取
lt.免状」 が与 えられる。 これは一種 の身分証 明であ り, これ を所持 していれば ,全国 どこの鉱 山で もその土地 の親分衆 を尋ね る と仕串 にあ りつ ける とい う ものである。 この ように鉱 山稜人 には親分子分制度 とい うものが存在 した。特に ,大塚家 の代々相 続稼葉 では ,土地者 また は他国者で もこの土地に尉 寸いた ものを 「地 鉱夫」 といい ,鮭過 された。これ らの鉱夫は,3人以上 の組に分け られ .稼業人 に よって 「問歩」 (鉱山の鉱道 ) を下稼 ぎ させ られたO通常下稼 人は一組 で一 つわ鋪 (鉱 道)を受 け持 っているので ,舗梓 と呼ぶO後には鉱夫 の 立場か らこの下 稜 の方法 は 「受取 qJ と呼ばれるよ うになった。下種人は各 自銅 を生産 し,調 色人 がこれ を男姫 めるとい う しくみであ った と思 われる0
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