調査の成果と経験をまとめて『スワヒリの世界にて』
(NHK出版会、1977年刊)を出版し、アフリカニス トとしてすでにひろく世に知られていた。着任当時 は、東アフリカで広範囲に使用されているスワヒリ 語の日本語辞典の編纂に没頭していた時期であり、
資料整理を手伝っておられた通称「あいさん」こと 宮岡あい氏も富山に来られて、編纂作業が続けられ た。この成果は『スワヒリ語・日本語辞典』(養徳 社、1980年)となって結実した。
赤阪は京都大学文学部の人文地理学専攻の学部生 時代に京都大学大サハラ学術調査隊に参加して西ア フリカのマリ共和国の調査を行い、サハラ砂漠南縁 の西スーダン地方の地域特性・文化・歴史について 業績を積んだ後、当時は京都大学のザイール国(現 コンゴ民主共和国)東部調査の一員として農耕民テ ンボ人の研究に従事していた。
文化人類学の研究の伝統がまったくない環境で出 発した文化人類学コースであったが、開設当初は学 生もまだ在籍していなかった。和崎と赤阪は着任直 後は手持ちぶさたの状態で、やむなくホタルイカや 岩ガキなど富山の珍味の賞味にひたる日々をおくっ ていた。しかし、5月になると翌年の専攻希望学生 が研究室にあらわれ始め、そこでさっそく和崎流の 独特の教育がはじまった。学生を引き連れての山登 り、河原での焚き火、実習室での鍋料理など、和崎 のフィールド・ワーカー(野外調査者)としての自 由闊達な資質が存分に学生教育に発揮される幕開け であった。
Ⅱ 昭和55(1980)年から昭和63(1988)年まで コース創立の翌年の昭和55(1980)年、最初の専 攻学生10名がそろうと、さっそく文化人類学実習の 調査テーマをえらぶことになったが、アフリカで
「イディ・モハメディ」(お祭り男)の異名を持つ和 崎の独断で、県内各地でくりひろげられる祭りの調 査をてがけることになった。まず、最初に八尾町の 風の盆にねらいをつけ、地元の協力を得ることにな った。この町には春に曳き山祭りもあり、さっそく 地元の民家を合宿所にして、つぶさに祭りの進行を 記録した。こうして開始された祭りの文化人類学的 調査はその後、富山県内の八尾、伏木、新湊、岩瀬 などの祭り調査にひきつがれ、「お祭り研究室」と
いう異名を学内や学界で獲得することとなった。調 査の成果は、富山大学文化人類学教室発行の『地域 社会の文化人類学的調査』という形で出版されたが、
この報告書の刊行は現在に至るまで継続されてお り、10号を数えるにいたっている(参考資料1)。
実習調査をつうじて学生たちにフィールド・ワー クの楽しさを体得させようという和崎と赤阪の教育 方針は、理論に拘泥するよりも実際に自分の目と耳 で地域の人々と接することを重視するというコース の学風を産み出すこととなった。実際、現在までに 提出された卒業論文はすべて、学生たちが自分自身 で行った現地調査にもとづいて書かれている。「お 祭り研究室」の伝統も脈々と受け継がれ、富山県内 の祭りだけでなく、長浜の曳き山、姫路のけんか祭 りなどの全国的に有名な祭りを対象とした卒業論文 も数多い。このように、和崎、赤阪の2人がタッグ を組んで教鞭をとっていた時代に、現在まで受け継 がれることになる実習重視の教育と自由でのびやか な気風がしっかりと根をおろしたのである。
コース新設のわずか3年目の昭和56(1981)年に、
文化人類学の全国レベルの学会である日本民族学会 の研究大会の開催をひきうけることになった。大規 模な研究大会の開催をたった2人のスタッフでやり くりするのはたいへんであったが、近隣の金沢大学 の教員の援助もあって、開催は成功をおさめること ができた。ここで特筆すべきは、文化人類学とは何 のかかわりもない朝鮮語や中国語コースなどの人文 学部の同僚教員たちからも、開催にあたって援助を 受けたことである。新設されたばかりの人文学部に は、今から考えれば夢のような同志的な連帯とでも 言うべき雰囲気が存在していたのである。
日 本 民 族 学 会 の 研 究 大 会 に 次 い で 、 昭 和5 8年
(1983)年に日本アフリカ学会の記念すべき第20回 研究大会の開催をひきうけたのも、お祭り好きの和 崎の面目躍如と言えよう(ただし、大会事務の当局 者はたいへんな苦労をしたようである)。この研究 大会に参加した今西錦司をはじめ日本の人類学、ア フリカ学を代表する錚々たるメンバーが大会の後に 酒興に乗って記した句が、富山駅近くの小さな居酒 屋に今も残っている。和崎が好んで使った「Milima haikutani, lakini watu hukutana」(山と山は巡り合わな いが、人と人とは巡り合うものである)というスワ
ヒリ語の俚諺も和崎の達者な絵とともに居酒屋の壁 面をひそやかに飾っている。また、和崎は東アフリ カの民謡「マライカ」を学生たちとともに愛唱した が、この歌はいつしか文化人類学コースの「コース 歌」となり、現在でもコースの宴会や卒業式の際に 歌われる(参考資料2)。「和崎先生は魚を三枚にお ろせない学生には単位を与えなかった」などという 真贋さだかでない話が今なおコースの「伝説」とし て語り継がれているが、教授会の席上で突然「もっ といいお茶を出してくれ」という提言をしたことな ど和崎は在職中に様々な逸話を残すことになった。
和崎は昭和60(1985)年をもって停年退官したが、
退官を記念して有志によって編まれた文集『故霜集』
には、卒業生・在学生やかつての同僚たちによって、
和崎の豪放磊落な人柄をしのばせる数々のエピソー ドが披露されている。和崎は退官後、中部大学に転 じて、平成4(1992)年6月29日、享年71歳で惜し まれながら逝去された。平成8(1996)年には富山 でコース学生と和崎と縁の深かった方々によって
「和崎先生をしのぶ会」が開かれ、地元の新聞に大 きく取り上げられた。
7年にわたって大きな足跡をコースに残した和崎 教授が停年退官した昭和61(1986)年には、東京外 国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所を退職し たばかりの富川盛道を教授としてむかえることとな った。これは、人文学部に修士課程を新設するため の一種の補強人事であったが、同時に軌道に乗り始 めたコースのアフリカ研究の方向をいっそう確立す るための布石であった。富川は大阪高等医学専門学 校を卒業後、北海道大学文学部で心理学を学び、北 大社会学研究室の助手時代にアイヌ民族の自殺研究 で医学博士号も取得するという、異色の研究歴の持 ち主であった。また、戦前に今西錦司が率いた大興 安嶺探検の一員として中国東北部に居住する狩猟民 オロチョン人の調査を実施した体験も持っていた。
和崎と同様に日本のアフリカ現地調査の草分けのひ とりであり、タンザニア国の牧畜民ダトーガ人の研 究に長年従事していたが、当時の日本のアフリカ研 究者の大半を組織したアフリカ学術調査のプロジェ クト・リーダーの任にもあった。在任期間は3年と 短かったが、研究一途の経歴の最後に若い学生たち の教育の機会を持ったことを富川は楽しみ、学生た
ちもまた富川の温厚な人柄とダンディな身だしなみ に魅了された。退官後は東京国際大学大学院で教鞭 をとっていたが、その後、平成9(1997)年9月29日、
享年74歳で逝去された。こうして、富山大学の文化人 類学コースのアフリカ研究と自由闊達な学風を育て あげた和崎洋一、富川盛道の両氏があいついでとも に70台前半にして冥界に旅立たれたが、これは後進 にとってはかえすがえす惜しまれることであった。
Ⅲ 平成元(1989)年から平成8(1996)年まで 平成元(1989)年、富川教授の退任後は赤阪が教 授に昇任したが、在任中に文部省の科学研究費補助 金(科研費)によって、中央アフリカのザイール国
(現コンゴ民主共和国)や西アフリカのマリ国の現 地調査に従事した。また、自身も研究代表者として 科研費(国際学術調査)を取得して、新たに西アフ リカのギニア国の農村社会と市場経済のかかわりに ついての調査を開始した。赤阪のアフリカ研究にか ける情熱は、在任期間中にコースのために購入した アフリカ関連の書籍類が日本でも有数のアフリカ関 連図書のコレクションとなっていることに端的にあ われている。赤阪はアフリカの歴史にも造詣が深く、
奥行きの深いアフリカ研究の成果は共編著の『アフ リカ研究―人・ことば・文化』(世界思想社、1993)、 共著の『新書アフリカ史』(講談社、1997)や『世 界の歴史24 アフリカの民族と社会』(中央公論社、
1999)などの著作に結晶している。アラブ系テロリ ストの事件が頻発していた時期にパリでアラブ系と 間違えられて警官に職務質問されたという独特の風 貌を持つ赤阪は、鷹揚で気取らない性格で学生に慕 われ、長い在職期間をとおして個性豊かな学生を 次々と育てていった。和崎も愛煙家で有名であった が、赤阪もパイプを片時も離さず、演習室にたむろ している学生たちは、パイプの甘い香りが廊下に漂 いだすと赤阪が研究室にやってきたことを知るので あった。
富川の後任には、末原達郎を京都造形大学から助 教授としてむかえた。和崎ももともとは理系の出身 であったが、末原も農業経済学から人類学に転じた 経歴を持ち、当時はザイール(現コンゴ民主共和国)
の焼畑農業を継続的に研究していた。在任中に研究 をまとめて博士号を取得し、博士論文をもとに『赤
道アフリカの食糧生産』(同朋舎出版、1990)を刊 行した。祭りの調査実習が継続される一方で、末原 の指導の下に県内の下村、入善、利賀などの農村調 査もてがけられることとなった。その成果の一端は、
1994年に報告書『地域社会の文化人類学的調査7 下村の変貌』にまとめられている。末原も研究代表 者として文部省の科研費を得て、アフリカの食糧生 産の研究プロジェクトを組織して、自身は東アフリ カのタンザニア国で農業調査を行った。大柄な体躯 に温和な風貌で学生に親しまれた末原は、7年間に わたって研究と教育の両面においてコースに多大の 貢献を残し、平成8(1996)年に龍谷大学に転出し た。その後、京都大学大学院農学研究科に移って精 力的に研究と教育にあたっており、最近では、『ア フリカ経済』(世界思想社、1998)を編んでいる。
Ⅳ 平成9(1997)年から現在まで
末原の後任には京都大学アフリカ研究センターの 研修員であった竹内潔が助教授として着任した。竹 内は政治学、社会学を経て、生態人類学に転じて京 都大学理学研究科で理学博士を取得した経歴を持 ち、中央アフリカのコンゴ共和国の熱帯森林帯に居 住する狩猟採集民の生業文化を研究している。赤阪、
末原はそれぞれ文部省科学研究費(国際学術研究)
を獲得してアフリカ調査チームを組織してきたが、
竹内も平成10(1998)年から科研費(1999年に国際 学術研究から基盤研究Aに移行)を継続して獲得し て、主としてガボン国などの中央アフリカ諸国を調 査地として研究プロジェクトを進めている。
創設以降、18年の長きにわたってコースを支えて きた赤阪は、平成9(1997)年4月に京都府立大学 文学部に新設された国際文化学科に転出した。京都 府立大学に移った後も、日本国際文化学会の設立に 寄与するなど文化人類学から国際文化学へと関心領 域をひろげながら、研究と教育の第一線で活躍して いる。また、アフリカにかける学問的情熱にいささ かの衰えもなく、先述のようにアフリカ史の書物を 刊行している。
赤阪の転出と符節をあわせるかのように、コース は老朽化した校舎から図書館脇に建てられた新校舎 に移転することとなった。旧校舎では最上階に研究 室や演習室があったため、真夏には室温は40度近く