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をして蔵書とした。この方法によって、急速に蔵書 の増加を計ることが出来たのはではなかろうか。

研究図書とあわせ必要な考古資料も皆無である。

秋山の前任の大阪市立美術館の一室には、創立当初 の古代学協会の事務所がおかれていたが、事務所が 京都に移されて以降、放置されたままとなっていた。

美術館には当時考古担当学芸員として、上田宏範氏 と藤原光輝氏の二人がおられ、関西各地の考古調査 を行っていた。しかし、私が在籍した1973〜79年に はお二人とも早く退職また早世され、それらの事情 は全く判らないままとなってなっていた。あたかも、

美術館の大改造が行われることとなり、旧事務所と なっていた部屋が機械室となるため、あけわたすこ ととなり、旧関係資料が整理された。そこから廃棄 された各種資料および、早世した藤原氏が整理途中 のまま放棄された資料が石炭箱に乱雑につめこま れ、美術館のあちこちに放置され、まさにゴミとし て放棄されようとしていた。富大へ移るにあたり、

捨てられるよりは実物資料のない大学で学生教育に 役立てたともらい受け、大学で整理することとした。

長年の埃で真っ黒となっていた資料を学生諸君が洗 ってみたら、驚いたことに、すでに刊行されている 報告書に採用されなかった遺物を含め、未報告の遺 物がいろいろと出てきた。研究室開設3周年の機会 に、それらを公開したところ、その噂が関西に届き、

早速、旧古代学協会関係者から詰問状が届けられた。

本来なら、美術館でゴミとして捨てられるところを 救出した資料であるが、旧所有者として名乗り出ら れたのであるから、お返しすることとし、トラック 1台分を堺市博物館に移管した。関西の古墳時代資 料に注目すべきものが含まれていることを付記して おく。それらの資料のうちで、唯一北陸と関係のあ る糞置庄遺物は古代学協会からあらためて借用し、

研究室で整理させてもらうこととなっている資料で ある。堺市博物館でも整理が進んだとは聞いていな い。共に整理を進めて欲しいものである。

そうした準備のかたわら、暇をみつけては県内か らはじめて、北陸の主要遺跡の踏査を行った。我々 に不足している北陸考古学事情を補うことが主目的 であるのは勿論であるが、同時に、研究室として実 施するべき発掘調査の候補地選定作業を兼ねてい た。

このほか、研究室の開設と同時に、地元の研究者 との間で毎月開催した「富大考古学談話会」も、地 元との提携に役立ったものと思う。

(2)考古学研究室の学生教育

研究室が発足したころの考古学卒業生の就職状況 は、決して楽観できるものではなかった。また、人 文学部改組当時は学部のみで大学院はなく、したが って、学部学生時代に考古学を専攻する上での必要 な事を、すべて教育しておく必要があった。それに、

恰好な事業が小矢部市域の埋蔵文化財分布調査であ る。研究室の発足は昭和54(1979)年であるが、

我々が赴任したのは当初計画から1年遅れていた。

そのため、北野博司・贄元洋両君は仮に日本史コー スに所属して我々の赴任を待っていてくれた。2人 は考古学コースの0期生なのである。すでに小矢部 市の伊藤隆三さんのところで仕事手伝っていた両君 を通して、研究室に小矢部市域の埋蔵文化財分布調 査の依頼があり、それに応じて小矢部市と研究室と で共同調査を行うこととなったのである。この小矢 部市を皮切りに、分布調査は以後、立山町、氷見市 と引き続く。

この分布調査は、丁度、秋に研究室へ新たに入っ てくる新入生の格好のトレーニングとなり、考古調 査の第一歩である分布調査の重要性とともに、その 調査方法を教え、採集遺物の整理と同定、そして自 分たちでの報告書の作成作業を、実際に体験するも のとなった。それに加え、毎年夏休みに必ず実施し た発掘調査に参加することで経験を積み、そのおか げで、「富大考古の卒業生は現場ですぐ役に立つ」

という評価を頂くことができたのである。

(3)研究室での研究目標

研究室での最重要課題が発掘調査の実施にあるこ とはいうまでもない。地方大学が地域に役立つ研究 を行うことは最も肝要なことである。しかし一方、

大学のあり方を放棄することもあってはならぬ。大 学で行う発掘調査は、行政が行う発掘調査とは自ず から異なる。すなわち、学術調査でなければならぬ。

発掘地点を選定するにあたり、我々が第一に考えた のはそのことである。従って大学としては、緊急調 査には絶対参加しない。しっかりとした研究目標を

立てる。調査のあとすぐ破壊される可能性のある遺 跡は調査対象としない、との原則をかかげた。

まず真っ先に行わねばならぬのは、研究の方向を どう定めるかである。我々にとっては、これまでの 研究経過から古墳時代がもっとも近いテーマであ る。それも、北陸へ居を移してみると、それまでは 関西に居住した関係で、知らず知らずのうちに中心 から地方を見る見方にとらわれていたことが良くわ かった。それとは逆に、地方から中心を見る見方に 転換してみたい。また、北陸で盛んな弥生時代の研 究成果を取り入れ、連続することができるようにと 考え、「北陸地方における古墳時代成立課程の研究」

をテーマとし、北陸3県の研究者とともに共同研究 を行うこととした。こうして文部省科学研究費補助 金の申請を行う一方、早速発掘候補地点の選定にか かった。研究テーマにふさわしい遺跡は富山では思 い付かない。共同研究諸氏とも相談のうえ、隣県で はあるが、石川県にお願いすることとなり、早速、

石川県埋蔵文化財センターにある石川考古学研究会 に高堀勝喜会長をお訪ねして趣旨をお話した。先生 は快く我々の願いを聞き届け頂き、浜岡賢太郎、橋 本澄夫両先生ともご相談のうえでご推薦頂いたのが 七尾市国分尼塚古墳群なのである。また、地元では 七尾市教育委員会の松浦五郎氏それに地権者松本与 四松・修さん、神社奉賛会の立野誠一郎・古木健二 さんはじめ皆様のご協力を頂いたが、もっとも有り 難かったのは宿舎を提供いただいた高村利男さんの ご厚意である。調査経費は昭和56(1981)年の第一 調査こそ科学研究費補助金の補助を受けたが、あと は研究室経費をやり繰りして実施した。見かねて石 川考古学研究会からご寄付を頂いたことも忘れられ ない。尼塚調査は1号墳に続き2号墳と、和田先生 が立命館大学へ代わられるまで5次にわたった。そ して、宇野隆夫先生が和田先生の後任となられてか らも、関野古墳群(『富山大学考古学研究報告書』

―1)、谷内16号墳(『富山大学考古学研究報告書』

―2)の発掘調査、また、王塚・勅使塚の測量調査

(『富山大学考古学研究報告書』―4)と古墳調査は 引き続いたのである。

宇野先生とのコンビでは新たなテーマも設定され た。「北陸における」がそれである。立山町上末窯

(『富山大学考古学研究報告書』―3)、羽昨市塩田

(『富山大学考古学研究報告書』―5)の発掘調査は そのテーマによる調査成果である。どちらの研究テー マも研究室のおかれている状況と地元の研究者との 連携、そして、学生教育を優先して設定したもので あった。

(4)11年を振り返って

昭和54(1979)年から平成2(1990)年まで、秋 山の47歳から58歳まで、若くはないがなんとか働け たことを有り難く思う。とりわけ恵まれたのは和 田・宇野両氏とコンビを組めたことである。研究室 の基礎をつくる上で、働き者のお二人との共同作業 では、私も働かざるをえなかったところである。

第1期生が卒業したときにストレートで就職でき たのは、岡山大大学院へ進んだ贄君は別として、金 沢市に入った楠君唯一人であった。しかし、志を立 てた諸君は諦めないで、苦労の末、いつか考古の職 についている。私のいた11年で6割であったが、大 学の専攻をそのまま職場に結び付けられるコース、

文科系ではそれほど多くはなかろう。そして、年度 末に送って頂いた分厚い報告書を繙くとき、本当に 頑張ってくれていると頭が下がる。そうしたなかか ら、20周年を前に、北野・高橋君が研究の場に戻っ てきた。幸い私もまだ現役。どこの職場環境も一層 厳しさを増すばかり。皆さんも健康にだけは留意し て前進して下さい。

(5)おわりに

その他、考古学協会富山大会の開催など、書き残し たものもあるがもうとっくに紙数がつきた。おわり に、富山での11年の秋山のモットーを記しておこ う。

研究室の和 地元との協調

大学としての教育・研究

以上の三つである。たった二人しかいない研究室 スタッフの呼吸があわないと、一番の被害者は学生 となる。そうした例を仄聞していたため、富山では そうしたことがおこらぬスタッフの選択に心がけ、

幸い和田・宇野両氏と気持ちよく仕事をすることが できた。

地元との協調は地方大学としては勿論、第一にか