は京都大学文学部言語学科博士課程を修了し、ハン グル学会およびソウル大学校文理科大学言語学科に 3年間留学、オーバードクター2年を経た後、大阪 大学文学部国語学講座の助手として勤めていた。当 時朝鮮語学の研究者は、藤本より年上に数名おられ たが、いずれも職に就いておられた。そこで助教授 として藤本の採用は、比較的容易に決まった。問題 は教授であった。文学研究者は語学研究者よりも少 なく、2名ほどおられたが、やはり職を得ておられ て就任は無理であった。そこで探し求めた結果、梶 井陟(昭和2年生)が浮上した。梶井は東京第一師 範学校卒業で、理科の教諭として中学校に奉職し、
当時東京都練馬区立貫井中学校の教諭であった。梶 井は東京都立朝鮮人中学校教諭時に朝鮮語の学習を 始め、『朝鮮語入門』(日朝協会、昭和27年)『新し い朝鮮語の学習』(学友書房、昭和29年)の著書や、
現代文学関係の論文があった。梶井の遺品中には、
刻苦精励して朝鮮語を学ぶ痕跡を止めるノートがあ り、見る者の心を打つ。聞くところによると、中学 教諭を大学教授に迎えることに反対する向きもあっ たようだが、期日も迫り、適者もいないので梶井を 迎えることに決定した。赴任直後の「富山新聞」と
「毎日新聞」に、中学校教師から大学教授にと紹介 されている。
梶井と藤本は互いに名前を聞いていたが、昭和53
(1978)年4月1日赴任後に初めて面晤を得た。両 人はこのコースを日本の朝鮮学研究の一中心とし、
学生の教育に力を注ぐことを話し合った。梶井は為 人温厚で、学部内の信望厚く、学生を可愛がり、学 生からも慕われた。
担当は梶井が文学、藤本が語学で、それぞれが講 読・演習・概論を持ち、文法は交互に、会話は藤本 が担当した。梶井は近・現代朝鮮文学と在日朝鮮人 文学を、藤本は中世語を中心に授業を行った。その 他に集中講義があり、後述のごとく学部より種々の 配慮に与った。4月1日に赴任したが、専門移行は 10月のため、半年は準備期間に充てた。当時教養部 新校舎建設中で、経済学部向かいの旧人文棟には教 養部の教官も同居しており、我々は仮の部屋を与え られた。秋の校舎完成と共にまた部屋を移らねばな らないため、荷はほどかずにそのままにしておき、
9月に3階の部屋に落ち着いた。着任の時に与えら
れたのは、スチール製の机・椅子・ロッカー・本箱 各1基で、書籍を多く所有する両人にとっては置き 場もなかった。幸い教養部の方々が新校舎には新し い本棚があるため、旧制高校時代の木製本棚を置い てゆかれた。8段の前後両面に棚のあるしっかりし たのも多く、持ち主と交渉して入手した。
当時学生は2人・2人・1人・0人という状態 で、今日とも大きくは異なってはいないが、授業は 個人授業のようであり、錚々たる講師の方々に来て いただいたが、誠に贅沢なことであった。学生が少 ないだけに相互間の接触も厚く、和気藹々たる雰囲 気が自然と醸成され、それは今日まで伝統として続 いている。当時人文学部教官は40人と今日の半分で あり、中文コースと隣接しているため、教官学生間 に交流も頻繁であった。ロ文コースとは野球大会の 時合同でチームを形成したため、行き来があった。
梶井は還暦間近まで野球大会に出場していたが、ゴ ロを拾い損ねて指を折り、数日入院したこともあっ た。
中文・ロ文とはカリキュラムの面でも歩調を揃 え、改定がある時には鳩首して商議した。
コース運営も順調に軌道に乗った昭和63(1988) 年9月9日に、梶井が長逝するという思いもかけぬ 不幸に見舞われた。昭和60(1985)年ころより時に 下腹部の疼痛を感じていたが、それも一過性であっ たため、大病とは見做されなかった。7月15日に入 院、8月8日に手術、そして重陽の日に逝去した。
葬儀は12日午後1時半より、セレモニーホール富山 でとり行われた。梶井については『季刊ソウル ―東 京』第12号に9人の哀悼文や略歴・業績が収められ ている。コースにとってはもとより、学部にとって も大きな損失であった。しかしコースや学生のため には、次の人事を至急に進めねばならなかった。平 成元(1989)年1月1日付で藤本を教授に昇任せし め、2月の教授会で後任には油谷幸利に決まった。
元来文学担当の後任者であるため、文学研究者を 採るべきであったが、適任者がいず、語学専攻の油 谷となったのである。油谷は当時天理大学朝鮮学科 の講師であった。元年の4月は無理としても、後期 の赴任を希望した。しかし天理大学では授業は通年 のため、学期中の転出は認められないということで、
結局平成2(1990)年4月1日助教授で赴任した。
油谷は京都大学文学部言語学科博士課程を2年で中 退し、天理大学に奉職した。その間韓国ソウル大学 校文理科大学国語国文学科に1年留学している。油 谷は現代語学が専門で、特にコンピュータによる朝 鮮語研究の先駆者と言える。学生にはコンピュータ の指導をも行った。油谷が言語担当となったので、
藤本は文学担当となった。
梶井の多数の蔵書は、令夫人梶井チカ子氏および 御遺族の御好意で、昭和63(1988)年10月中旬朝文 コースに寄贈されることになった。研究室および西 田地方官舎の御蔵書をすべていただき、その上整理 費として5万円いただいた。これはなしくずしに使 うべきではないと考え、コース用の写真機を購入し た。従来藤本が個人の写真機でコースの記録写真を とって来たが、その後はこの写真機によっている。
蔵書は図書館最上階に置き、教官と学生とで図書カー ドを作り、油谷の指導下にコンピュータに入力した。
作業は平成元(1989)年から始めて同4(1992)年 秋には、一応すべての入力は終了した。しかしその 後修士課程に入学した植田晃次が現物と対照する と、甚だ不完全な箇所が多く、同君がすべて訂正し てくれた。その成果は6(1994)年3月に『梶井文 庫目録』として出版された。本目録の出版に際して は、学部より出版費をお出しいただいた。これまた 梶井の人徳の致すところであろう。この目録は国内 外の研究機関や個人に配布し、好評を得た。今も目 録の請求を受けることがあり、その蔵書は学外者の 閲覧希望がある。雑誌類だけはまだ箱詰めの状態に あり、利用に供し得ない。これら書籍は当初より図 書館側に「梶井文庫」として一括別置を希望して来 た。図書館側からは特別扱いはむつかしいと難色を 示されたが、今日ようやくその実現を見ることにな り、誠に喜ばしく、故人および御遺族の好意に副い 得たと思う。
油谷は学生をよく指導し、学生もよく慕ったが、
平成4(1992)年10月乞われて愛知教育大学に移っ た。これまた学部およびコースにとって痛手であっ たが、現代日本語研究者の多い同大学で、互いに研 磨しつつ朝鮮語の研究を深めたいと希望する同氏 を、止める訳にはゆかなかった。油谷は同大学に居 ながらも、『梶井文庫目録』の完成に尽力してくれ、
その貢献は甚だ大きい。
油谷の後任として平成4(1992)年11月15日付で、
岸田文隆が講師として赴任した。岸田採用時には、
訳学関係(満州語)の論文が多くを占めているため、
選考委員中の某教授より、これは満州語学であって 朝文に採用はならぬと強硬なる反対を受けて、一悶 着があった。藤本は教授会において、訳学研究でソ ウル大学校国語国文学科より博士号を取得している 幾例かを挙げ、訳学研究も朝鮮語学の一分野である ことを説明し、ほとんど満場一致で教授会の承認を 得た。岸田は大阪外国語大学朝鮮語学科出身で、同 大学修士課程を終えた後、京都大学文学部言語学科 で修士・博士課程を修了している。岸田は近世朝鮮 語、訳学(満州語)や漂流民の言語等を主に研究し、
授業を行った。やはり人柄がよく朴訥で、学生に好 まれた。学科の運営によく協力し、後述の朝鮮学会 大会時には諸事に尽瘁してくれた。
ところが平成11(1999)年4月1日より岸田は母 校の大阪外国語大学朝鮮語学科に助教授で転任する ことになった。朝文コースにとっては傷手ではある が、母校にとっては誠に希ましいことと賛意を表し た。その後任として和田とも美が11(1999)年4月 1日付で赴任した。和田は東京外国語大学朝鮮語学 科を卒業し、修士課程を修めた後、ソウル大学校人 文大学国語国文学科の博士課程に4年間学び、11年 2月に修了した。専攻は近・現代文学で、これで梶 井以来10年ぶりに文学研究者を得たことになる。藤 本は文学担当から言語担当にもどった。
朝文コースはロ文コースと共に、外国人専任講師 を得たいと申請を続けて来た。ロ文コースより昭和 末年か平成の初めころに、外国人非常勤講師が非常 に求めにくいので、是非専任講師を得たいので、朝 文コースは申請を見合わせてほしい旨の申し出があ った。ロ文コースの窮状に同情すると共に、当時朝 文・ロ文を人文学部の大きな柱として充実させたい という動きがあったので、日本人教官のもう一人の 獲得に方向を転換することにした。というのは、同 一コースに教官が3名いれば、課程認定が得られ、
朝鮮語の教員免許がとれるからである。直ちには教 員として採用が困難であっても、将来どのように社 会が動くか判らず、是非それを実現したいものと望 んでいるが、現在の情況では困難としか言えない。
藤本は朝文コース創設時より今日に至るまで奉職
しているが、その間昭和54(1979)年9月より翌年 2月まで東洋文庫に内地留学、また59(1984)年4 月より翌年3月まで、日本学術振興会流動研究員と して東京大学東洋文化研究所に行く予定であった が、その間の4月から6月までは持病を悪化させて 入 院 し た 。 梶 井 逝 去 後 の 激 務 に よ っ て 、 平 成 元
(1989)年4月から7月にかけて再入院した。平成 3(1991)年9月より翌年2月にかけて、やはり東 洋文化研究所に内地留学した。内地留学時にはその 前後の学期に余分に授業したり、帰富後に集中的に 授業したりしたが、何かと学部より配慮に与ってい る。これらの内地留学は、東京にある朝鮮本の調査 であり、どうしても原本を見なければならないから であった。
岸田は平成9(1997)年後期に、ソウル大学校文 科大学言語学科に6カ月出張した。
さらに一言付すべきは、平成8(1996)年10月5 日(土)・6日(日)の両日にわたって、第47回朝 鮮学会大会が開催されたことである。5日の午後は 黒田講堂で、藤本の「朝鮮書誌学の諸問題」、次に かつての同僚であった秋山進午氏の講演がそれぞれ あった。夜は生協会館で懇親会が催され、学生たち にとっても多くの朝鮮学の学者に接するよい機会で あった。翌6日は朝9時より語文棟で2会場に分け て研究会があり、朝文演習室は休憩場となった。
朝鮮学会大会は通常は天理大学で催され、他所に 出たのは20数年ぶりであった。梶井在世中に富山で 開こうという声が幹事会で上がり、藤本は梶井が停 年になる前に富山で実現し、講演に臨んでもらうつ もりでいたが、諸般の事情でそれが実現できなかっ たのは残念に思っている。富山での大会時には、在 学生の他に先輩も駆けつけ、岸田の尽力も大きかっ た。
(2)非常勤講師について
朝文コースで迎えた非常勤講師は次表の如くであ る。
昭和53年度後期より朝文コースの授業は開始し た。朝文コースの授業内容は、教官4人と外国人専 任講師のいるコースと同様に定められていたため、
梶井・藤本で担当するのは随分な負担であった。そ こで手崎政男学部長をはじめとする学部の御配慮