第5章 〈慣用音〉について
第3節 慣用音と認めるべき理由と範囲 3.1 慣用音とは見なしがたいもの( 36 字)
③ 韻尾に関して、原音との対応が認められないもの(15 字)
a)唇内入声音[-p]を「-ツ」とするもの(7 字)
圧アツ(p.149) 雑ザツ(p.150) 執シツ(p.149) 湿シツ(p.152) 摂セツ(p.151) 接セツ(p.151) 立リツ(p.148)
「立リツ」
立 字母:来(清濁) 韻目:緝(3) 反切:力入切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 リュウ(リフ) リュウ(リフ) リュウ(リフ) 漢音 リュウ(リフ) リュウ(リフ) リュウ(リフ)
慣用音 リツ リツ リツ
「立」の中古音は、来母緝韻 3 等なので、呉音・漢音共に「リュウ(リフ)」になるこ とが期待される。
辞書では、三種すべての辞書が呉音・漢音共に「リュウ(リフ)」を認めている。
漢和辞典に収録されている漢語を見ると、「立談リツダン」「立論リツロン」「立法リッ ポウ」「立派リッパ」「立春リッシュン」…のように、ほとんどの漢語が「リツ」または
「リッ」で読まれる。
このほか、「立命リツメイ・リュウメイ」「立坊リツボウ・リュウボウ」「建立コンリュ ウ」のように、「リュウ」で読まれる漢語も存在する。
「立」は唇内入声音-pの字であり、後に無声子音が続くと促音化しやすかったという 歴史的事実がある。例えば、「立命」は、最初は「リュウメイ」で読まれていたものが、
促音化の影響により「-ツ」の形(「リツ」)「リツメイ」という読み方も加えられた可能 性が高い。
この「リツ」は、日本漢語に発生した音であり、「起立キリツ」などのように「-ツ」
形が現代の漢語に定着しているので、慣用音と認める必要がある。
「執シツ」
執 字母:照(清) 韻目:緝(3甲) 反切:之入切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― シュウ(シフ) シュウ(シフ) 漢音 シュウ(シフ) シュウ(シフ) シュウ(シフ) 慣用音 シツ・シュ シツ シツ
「執」の中古音は、照母緝韻 3 等甲類なので、呉音・漢音共に「シュウ(シフ)」にな ることが期待される。
辞書では、呉音は『新選漢和辞典』と『学研新漢和大字典』「シュウ(シフ)」、漢音は 三種すべての辞書が「シュウ(シフ)」としている。
辞書に収録されている漢語では、「執権シッケン」「執事シツジ」「執筆シッピツ」「執 刀シットウ」「確執カクシツ」「固執コシツ」…のように、ほとんどの漢語が「シツ」ま たは「シッ」で読まれる。
このほか、「執心シュウシン」「執念シュウネン」のように「シュウ(シフ)」で読まれ る漢語も存在する。
「執行シッコウ・シュギョウ」の一語のみ、「シュ」で読まれる漢語が存在するが、こ の「シュ」は一般的な語形ではない。これは「シュウ(シフ)」の短縮形であると考えら れるが、この漢語のみ「シュ」になる理由は不明である。
「執」は、「立」と同様に唇内入声音であるから、「シツ」は無声子音が後接して促音 化を起こした「-ツ」が字音として定着したものと考えられる。
「圧アツ」
圧 字母:影(清) 韻目:狎(2) 反切:烏甲切(鴨)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 エン ― ヨウ(エフ)
漢音 エン・オウ(アフ) オウ(アフ) オウ(アフ)
慣用音 アツ アツ アツ
「圧」の中古音は、影母狎韻2等なので、呉音は「ヨウ(エフ)」、漢音は「オウ(アフ)」
になることが期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』が「ヨウ(エフ)」を認め、漢音は三種すべて の辞書が「オウ(アフ)」を認めている。
このほか、『角川新字源』は琰・豔韻を認めており、呉音・漢音共に「エン」としてい
るが、『広韻』には収録されていない。また、実際に「エン」で読まれた漢語は見出せな い。
辞書に収録されている漢語を見ると、「圧巻アッカン」「圧勝アッショウ」「圧縮アッシ ュク」「電圧デンアツ」…のように、すべて「アツ」または「アッ」で読まれる。
この「アツ」も、唇内入声音に無声子音が後接して促音化したものが字音として定着 したものと考えられる。
「雑ザツ」
雑 字母:従(濁) 韻目:合(1) 反切:徂合切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ゾウ(ザフ) ゾウ(ザフ) ゾウ(ゾフ) 漢音 ソウ(サフ) ソウ(サフ) ソウ(サフ) 慣用音 ザツ ザツ ザツ・ゾウ(ザフ)
「雑」の中古音は、従母合韻1等なので、呉音は「ゾウ(ザフ)」、漢音は「ソウ(サフ)」
になることが期待される。
辞書では、現代仮名遣いは、三種すべての辞書が呉音は「ゾウ」、漢音は「ソウ」とし ているが、歴史的仮名遣いは、『角川新字源』と『新選漢和辞典』は呉音を「ザフ」にし ているのに対し、『学研新漢和大字典』では「ゾフ」としている。
『広韻』を見ると、「雑」は「合」と同じ小韻にあり、合韻の字は「答」「納」などの ように、本来開口だから、「雑」の呉音は「ザフ」であって、『学研新漢和大字典』の「ゾ フ」は誤りである。
辞書に収録されている漢語を見ると、「雑炊ゾウスイ」「雑巾ゾウキン」「雑煮ゾウニ」
…のように「ゾウ」で読まれる漢語と、「雑筆ザッピツ」「雑誌ザッシ」「雑草ザッソウ」
…のように「ザッ」で読まれる漢語、それから、「雑学ザツガク」「雑談ザツダン」「雑乱 ザツラン」…のように「ザツ」で読まれる漢語が存在する。
「雑」も唇内入声字であるが、「雑誌ザッシ」「雑草ザッソウ」のように無声子音が後 接して促音化する漢語と、「雑炊ゾウスイ」「雑煮ゾウニ」のように無声子音が後接して も促音化しない漢語とが存在する。
「ザツ」は、唇内入声音に無声子音が後接して促音化したものが字音として定着した ものと考えられる。
「接セツ」
接 字母:精(清) 韻目:葉(4) 反切:即葉切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ショウ(セフ) ショウ(セフ) ショウ(セフ) 漢音 ショウ(セフ) ショウ(セフ)・ソウ(サウ) ショウ(セフ)
慣用音 セツ セツ セツ
「接」の中古音は、精母葉韻 4 等なので、呉音・漢音共に「ショウ(セフ)」になるこ とが期待される。
辞書では、三種すべての辞書が呉音・漢音共に「ショウ(セフ)」としている。このほ か、『新選漢和辞典』は、洽韻の字として漢音に「ソウ(サウ)」も認めているが、『広韻』
には収録されていない。また、「接」が「ソウ(サウ)」で読まれた例もない。
辞書に収録されている漢語を見ると、「接客セッキャク」「接近セッキン」「接骨セッコ ツ」「応接オウセツ」「直接チョクセツ」…のように、ほとんどの漢語が「セッ」または
「セツ」で読まれる。「接伴セッパン・ショウバン」のように「ショウ」で読まれる漢語 もあるが、一般には「セツ」で読まれる。
この「セツ」は、唇内入声音に無声子音が後接して促音化したものが字音として定着 したものと考えられる。
「摂セツ」
摂 字母:審(清) 泥(清濁)
韻目:葉(3甲) 帖(4)
反切:書渉切 奴協切(苶)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ショウ(セフ) ショウ(セフ) ショウ(セフ) 漢音 ショウ(セフ)・ジョウ(デフ) ショウ(セフ)・デツ ショウ(セフ)
慣用音 セツ セツ セツ
「摂」は2つの韻に属する。
葉韻に関しては、審母 3 等甲類なので、呉音・漢音共に「ショウ(セフ)」になること が期待される。
辞書では、三種すべての辞書が呉音・漢音に「ショウ(セフ)」を認めている。
帖韻に関しては、泥母4等なので、呉音は「ニョウ」、漢音は「ジョウ(デフ)」になる ことが期待される。
辞書では、漢音のみ『角川新字源』が「ジョウ(デフ)」、『新選漢和辞典』が「デツ」
を認めている。但し、「摂」が「デツ」で読まれる漢語は見出せない。
辞書に収録されている漢語では、「摂関セッカン」「摂生セッセイ」「摂斉セッセイ」「摂 政セッセイ・セッショウ」「摂理セツリ」…のように、ほとんどの漢語が「セツ」または
「セッ」で読まれる。「摂受ショウジュ」「摂然ジョウゼン」のように、「ショウ」「ジョ ウ」で読まれる漢語も僅かに存在するが、日常あまり使用されない漢語である。
「セツ」は、唇内入声音に無声子音が後接して促音化したものが字音として定着した ものと考えられる。
「湿シツ」
湿 字母:審(清) 透(次清)
韻目:緝(3甲) 合(1)
反切:失入切 他合切(錔)
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 シュウ(シフ) シュウ(シフ) シュウ(シフ) 漢音 シュウ(シフ)・トウ(タフ) シュウ(シフ) シュウ(シフ)
慣用音 シツ シツ シツ
「湿」は2つの韻に属する。
緝韻に関しては、審母 3 等甲類なので、呉音・漢音共に「シュウ(シフ)」になるのが 原則である。
辞書では、三種すべての辞書が呉音・漢音共に「シュウ(シフ)」としている。
合韻に関しては、透母 1 等なので、呉音・漢音共に「トウ(タフ)」になることが期待 される。
辞書では、『角川新字源』のみ漢音に「トウ(タフ)」を認めている。
辞書に収録されている漢語では、「湿潤シツジュン」「湿度シツド」「湿疹シッシン」「湿 気シッケ」…のように、ほとんどの漢語が「シツ」または「シッ」で読まれる。「湿湿シ ュウシュウ」「湿水トウスイ」のように、「シュウ」「トウ」で読まれる漢語も存在するが、
一般的ではない。
この「シツ」は、唇内入声音に無声子音が後接して促音化したものが字音として定着 したものと考えられる。
b)その他(8 字)
喫キツ(p.168) 茎ケイ(p.162) 冊サツ(p.177) 責セキ(p.155)
南ナ(p.153) 匹ヒキ(p.153) 沸フツ(p.170) 漁リョウ(レフ)(p.180)
「南ナ」
南 字母:泥(清濁) 韻目:覃(1) 反切:那含切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ナン ナン ナン(ナム)
漢音 ダン ダン ダン(ダム)
慣用音 ナ ナ ナ
「南」の中古音は、泥母覃韻1等なので、呉音は「ナン(ナム)」、非鼻音化した漢音も 韻尾が鼻音の場合は頭子音の鼻音的特徴が保存されるので、「ナン(ナム)」になるのが原 則である。
辞書では、三種すべてが呉音を「ナン(ナム)」、漢音を「ダン(ダム)」としているが、
漢音「ダン(ダム)」は演繹的に導かれた音である。
辞書に収録されている漢語では、「南極ナンキョク」「南風ナンプウ」「指南シナン」「東 南トウナン」…のように、ほとんどの漢語は「ナン」であるが、「南無ナム」の一語だけ
「ナ」で読まれる。
「南無ナム」は梵語 namah の音訳とされている。この「ナ」は、「南」nam の末尾 音mと「無」muの頭子音mが重合されて生じた読み方であると考えられる。これは、
音訳によって生じた特定の語の読み方であるが、中古音から導かれる形と一致しないの で、慣用音と認めざるを得ない。
「匹ヒキ」
匹 字母:滂(次清) 韻目:質(3甲) 反切:譬吉切
『角川新字源』 『新選漢和辞典』 『学研新漢和大字典』
呉音 ― ― ヒチ
漢音 ヒツ ヒツ ヒツ
慣用音 ヒキ ヒキ ヒキ
「匹」の中古音は、滂母質韻3等甲類である。舌内入声音なので、呉音は「ヒチ」ま たは「ヒツ」、漢音は「ヒツ」になることが期待される。
辞書では、呉音は『学研新漢和大字典』のみ「ヒチ」を認め、漢音は三種すべてが「ヒ ツ」としている。
調査した辞書の見出し漢語には、「匹偶ヒツグウ」「匹似ヒツジ」「匹馬ヒツバ」…のよ うに「ヒツ」になるもの、それから「匹敵ヒッテキ」「匹夫ヒップ」「匹婦ヒップ」「匹配 ヒッパイ」…のように促音化して「-ッ」になるものが存在する。
「ヒツ」になるのが原則の舌内入声音が「ヒキ」になる理由は、明らかではない。一